宇宙連邦連盟訓練センターの食堂は、昼休憩を迎えた職員や訓練参加者で混み合っていた。
軍服。
研究員用の白衣。
技術部門の作業服。
民間企業の制服。
それぞれ違う立場の人間が同じ空間に集まり、短い休憩を取っている。
リュウジはセレナに促され、調査隊用に確保された席へ向かった。
トレーには、主食、肉料理、温野菜、スープ、果物が載っている。
自分で選んだ量より、明らかに多かった。
リュウジは席へ着く前に、もう一度トレーを見た。
「セレナさん」
「何でしょうか」
「少し多いと思います」
「昨日の不足分を含めています」
「昨日の分を、今日の昼食で戻すんですか」
「一度で全てを戻すわけではありません」
セレナは穏やかな表情を崩さない。
「適性試験、極秘会議、今日の顔合わせ。通常より集中状態が長く続いています。午後は実機区画の確認もあります」
「実機確認だけなら、そこまで負担はありません」
「負担を決めるのは、リュウジさんではありません」
「俺の身体ですが」
「だからこそ、本人以外が見る必要があります」
リュウジは一瞬黙った。
エリンにも、似たことを言われた。
自分を道具のように考えないこと。
自分一人で限界を決めないこと。
残る側にも考えさせること。
「分かりました」
リュウジは諦めるように席へ着いた。
セレナも正面へ座る。
その隣には通信士のユアン。
さらにマーヤ、オスカー、ノア、ソフィア、ベンが続いた。
アデルは少し離れた席でも、観測資料を開いたままだった。
食事中も頭を止める気はないらしい。
リュウジは端末を確認した。
エリンからの最後のメッセージ。
『資料を見る前に食堂へ行って。今すぐ。』
それに対して、自分は分かったと返した。
食堂へ来たことを伝えなければ、また確認が来るだろう。
リュウジはトレーの写真を撮ろうとして、ここが連盟の機密区画であることを思い出した。
背景に施設の情報が映る可能性がある。
文章だけを送る。
『食堂へ来ました。今から食べます。』
送信すると、すぐに返信が届いた。
『ちゃんと全部食べて。』
リュウジはトレーを見る。
量が多い。
『努力します。』
送信した数秒後。
『努力じゃなくて、食べて。』
リュウジは少しだけ目を伏せた。
セレナがその様子に気づく。
「先ほど話されていたチーフパーサーの方ですか」
「はい」
「食事の確認ですか」
「そうです」
「何と?」
「全部食べるように言われました」
「正しいです」
「セレナさんまで」
通信士のユアンが小さく笑う。
「統括官より厳しいな」
「統括官?」
「連盟の責任者のことだ。食事まで見ない」
「当然です」
セレナは即答した。
「責任者が全員の食事量まで確認していたら、別の仕事が止まります」
「リュウジのところは、チーフパーサーが見るのか」
ユアンが尋ねる。
「十四班では、客室側の状態をエリンさんが見ています」
「操縦士も?」
「俺が忘れるので」
リュウジは隠さずに答えた。
オスカーが肉料理を切りながら言う。
「自覚はあるんだな」
「最近は」
「前は?」
「問題ないと思っていました」
「問題があった?」
「周りからは、あったと言われています」
マーヤが画面から顔を上げる。
「自分で不足を認識できないなら、コンディション担当の判断を優先した方がいいですね」
「そうするつもりです」
セレナが頷く。
「今の発言は記録しておきます」
リュウジが少し困った顔をする。
「そこまで記録するんですか」
「後で、言った覚えがないと言わせないためです」
ユアンが笑った。
「完全に逃げ道を塞がれたな」
「仕方ありません」
リュウジはスープへ手を伸ばした。
その時、調査隊用の区画へカイルが入ってきた。
一人だった。
トレーには、必要最低限の食事しか載っていない。
主食。
肉。
飲み物。
野菜も果物もない。
セレナの視線がすぐにカイルのトレーへ向いた。
「カイルさん」
カイルは足を止める。
「何だ」
「内容が偏っています」
「俺にはこれで十分だ」
「午後の実機確認と、明日の合同シミュレーションがあります」
「それがどうした」
「野菜と果物を追加してください」
カイルの表情が険しくなる。
「俺は十一年、自分で管理してきた」
「今日からは私の管理対象です」
「必要ない」
「必要かどうかは、記録を確認してから判断します」
カイルはセレナを睨む。
だが、セレナは少しも引かなかった。
「食事を追加してください」
「命令か」
「コックピット・コンディション担当としての指示です」
「俺は操縦に支障を出したことはない」
「過去に支障を出していないことは、今日も問題がない証明にはなりません」
カイルはしばらく黙った。
それから、リュウジのトレーを見る。
十分な量の食事。
セレナの指示を受け、素直に食べ始めているS級パイロット。
カイルの表情に、わずかな苛立ちが浮かぶ。
「S級は随分と素直なんだな」
リュウジは顔を上げた。
「必要な指示だと思うので」
「自分の状態も自分で分からない人間が、操縦責任者か」
食堂の空気が少しだけ変わる。
ノアがカイルを見る。
「カイルさん」
「事実だろ」
カイルはトレーを持ったまま、リュウジの前へ立った。
「食事も睡眠も他人に管理される。操縦条件も自分だけでは変えない。通信が切れれば、すぐ帰る」
リュウジは黙って聞いている。
「それで責任者を名乗るのか」
「はい」
「恥ずかしくないのか」
「何がですか」
「他人に補われなければ、まともに動けないことがだ」
リュウジは箸を置いた。
「俺は一人で調査するわけではありません」
「その言い方で、自分の欠点を正当化するな」
「正当化はしていません」
「では、欠点だと認めるのか」
「はい」
カイルの目がわずかに動く。
リュウジは続ける。
「食事を後回しにすることがあります。自分の疲労を軽く考えることもあります。だから、見てくれる人の判断を使います」
「弱い人間の考え方だ」
「そうかもしれません」
「否定しないのか」
「弱い部分があることと、船を帰せないことは同じではありません」
カイルは鼻で笑った。
「S級というのは、もっと完成された人間だと思っていた」
「俺は完成していません」
「それで、俺より上に座るのか」
カイルの声には、隠しきれない悔しさがあった。
リュウジはカイルを見る。
「俺が完璧だから、操縦責任者に選ばれたとは思っていません」
「なら、なぜ選ばれた」
「分かりません」
「ふざけるな」
「本当に、まだ全ては分かっていません」
極秘会議で聞かされた信号。
その存在は話せない。
連盟が自分を選んだ理由には、通常の調査計画以外の事情も含まれている。
だが、それをカイルへ明かすことはできない。
カイルには、リュウジが責任者の座だけ受け取り、理由を曖昧にしているように見える。
「分からないまま引き受けたのか」
「確認している途中です」
「それでも席には座る」
「はい」
「結局、手放す気はないんだろ」
「必要なら手放します」
「またそれか」
カイルの声が強くなる。
「俺が適任だと分かれば交代する。俺の判断が正しければ従う。全部、上から言っているだけだ」
リュウジの表情が少し変わった。
カイルは続ける。
「お前は、自分が選ぶ側だと思っている」
「……」
「俺を評価し、正しければ使う。違えば切る。そう言っている」
リュウジはすぐには答えなかった。
カイルの言葉には、感情だけではないものがあった。
確かに自分は、必要なら従うと言った。
適任なら交代を提案すると言った。
それは対等なつもりだった。
だが、カイルには、自分が最終的な評価者として立っているように聞こえたのかもしれない。
「そう聞こえたなら、言い方が悪かったです」
カイルは眉を寄せる。
「謝れば済むと思うな」
「思っていません」
「なら何だ」
「俺も、カイルさんに選ばれる側です」
「何?」
「操縦責任者として信頼できるかどうか、見てもらう必要があります」
「俺に?」
「はい」
「俺が認めなければ?」
「認められないままでは、同じ船で動くのは難しいと思います」
「なら責任者を降りるのか」
「すぐには降りません」
「結局そこだ」
カイルは冷たく笑った。
「口では対等と言いながら、席だけは守る」
リュウジは何も返せなかった。
カイルの反発は、簡単には消えない。
少し話した程度で理解し合える関係ではない。
カイルは十一年かけて、あの席へ近づいた。
リュウジは、その過程を飛び越えるように呼ばれた。
いくら自分が望んだわけではないと言っても、座っている側の言葉にしかならない。
「明日の訓練で確認してください」
リュウジは言った。
「また試験か」
「言葉だけでは、納得できないと思うので」
「お前の操縦が上手いことは、昨日見た」
カイルは即答した。
「俺が認めていないのは、そこじゃない」
リュウジの目が少し細くなる。
「操縦ではない?」
「お前が責任者であることだ」
「同じではないんですか」
「違う」
カイルの声には迷いがなかった。
「機体を動かす技術だけなら、お前が俺より上かもしれない」
周囲が静かになる。
カイルがリュウジの操縦技術を認めるような言葉を口にしたのは初めてだった。
しかし、その表情はさらに険しかった。
「だが、責任者は一番上手い操縦士が座る席じゃない」
「はい」
「全員の命を背負い、任務を進め、必要なら誰かに嫌われても判断する席だ」
「分かっています」
「分かっている人間が、食事を忘れたと笑って認めるのか」
リュウジは黙った。
「自分の欠点を他人に補わせることを、チームだと言い換えるのか」
「違います」
「何が違う」
「補われるだけではありません」
リュウジは周囲を見る。
マーヤ。
オスカー。
セレナ。
ユアン。
ノア。
ソフィア。
ベン。
それぞれが、自分とは違うものを見ている。
「俺も、皆の足りない部分を補います」
「できるのか」
「そのために操縦席に座ります」
「証明していない」
「はい」
「なら、俺は認めない」
カイルははっきりと言った。
「昨日の操縦がどれだけ優れていても関係ない。明日の訓練で上手く回しても、それだけでは認めない」
「分かりました」
「簡単に受け入れるな」
「受け入れるしかありません」
「腹が立たないのか」
「認めるかどうかは、カイルさんの判断です」
「そういうところだ」
カイルは低く言い捨てた。
「全部、冷静に処理する。俺の反発まで、必要な意見みたいに扱う」
リュウジは答えなかった。
否定できなかった。
カイルはトレーを持ったまま踵を返す。
セレナが呼び止める。
「カイルさん。食事を追加してください」
カイルは足を止めた。
「今の話の後でも、それを言うのか」
「今の話と栄養状態は別です」
カイルはしばらくセレナを見た。
その後、無言で配膳口へ戻った。
野菜と果物を追加する。
リュウジを認めたからではない。
セレナの役割を無視すれば、明日の訓練参加を止められる可能性があると判断しただけだった。
戻ってきたカイルは、リュウジ達とは別の席へ座った。
最後まで、視線を合わせなかった。
◇
午後。
調査隊は実際に使用予定の調査船が置かれた格納区画へ案内された。
巨大な隔壁が開くと、無骨な船体が姿を現した。
適性試験で使用された仮想機体と同型。
長期観測用の調査船。
前方は広い操縦区画。
中央には観測区画と生活区画。
後方には推進系統と整備区画。
機体左右に大型の探査機格納庫がある。
旅客船のような滑らかさはない。
外部装甲の一部は、交換しやすいように分割されている。
同じ規格の部品を複数箇所で使えるよう、形状も統一されていた。
オスカーが船体を見上げる。
「見た目より重い」
「観測装備の分ですか」
リュウジが聞く。
「それだけじゃない。予備推進器。生命維持。外部装甲。救命区画。二か月分の物資」
オスカーは船体後方を指す。
「普通の船なら、壊れたら港へ戻る。こいつは戻るまでが長い。だから、壊れても走れるように作ってある」
「壊れないようにではなく?」
「壊れない船はない」
オスカーは即答した。
「壊れた後に、どこまで残せるかだ」
リュウジは静かに頷いた。
その考え方は、ソーラ・デッラ・ルーナを作る時に聞いた整備士達の言葉と似ていた。
格好よさでは回らない。
異常を言いやすい空気。
交換部品の搬入路。
静かな点検区画。
壊れることを前提に、戻れる形を作る。
「中へ入るぞ」
オスカーに促され、全員が乗船する。
◇
コックピットは、通常の旅客船より広かった。
中央前方に操縦責任者席。
右側に第一副操縦士。
左側に第二副操縦士。
少し後ろに第三副操縦士と航法支援席。
さらに後方へ、通信、システム、機関、コックピット・コンディションの各席が並ぶ。
全員が同じ空間にいる。
しかし、座席の向きや画面配置はそれぞれ違う。
リュウジは操縦席へ座らず、後方から全体を見た。
マーヤがシステム席へ座る。
ユアンは通信席。
オスカーは機関席。
セレナは、全員の表情と姿勢を見渡せる中央後方。
ノアとソフィアは副操縦席を確認している。
カイルは、何も言わず第一副操縦士席へ座った。
その席は、操縦責任者のすぐ右。
最も近い場所。
しかし、中央ではない。
カイルは主操縦席へ視線を向けた後、すぐに自分の端末を起動した。
リュウジは通信席の位置へ目を向ける。
「ユアン」
「何だ」
「通信報告が機関警告と重なった場合、分けて聞けますか」
ユアンが設備を確認する。
「音量差はつけられる。ただ、同時に出れば聞き取りづらい」
マーヤが言う。
「警告音を止めることはできません」
オスカーも続く。
「機関の重大警告は、消されたら困る」
セレナが言う。
「生命維持と乗員異常も同じです」
複数の声。
複数の警告。
緊急時には同時に出る。
リュウジはコックピット全体を見た。
「音の方向を分けられますか」
マーヤが振り返る。
「方向?」
「通信は右。機関は左。コンディションと生命維持は中央後方。誰の報告か、音の方向で分かるようにする」
ユアンが考える。
「立体音響系統を使えば可能だ」
オスカーは左側のスピーカーを見る。
「俺の報告が左から来る?」
「嫌ですか」
「いや。分かりやすい」
セレナが付け加える。
「操縦交代や意識障害のような全体警告は、中央固定がいいです」
「お願いします」
マーヤがすぐに設定画面を開いた。
「仮設定を作ります。明日の訓練で負荷を確認できます」
その時、カイルが口を開いた。
「不要だ」
マーヤの手が止まる。
リュウジがカイルを見る。
「理由を聞いてもいいですか」
「操縦士が音の方向へ意識を引かれる」
「報告者を認識しやすくなります」
「逆だ。方向が固定されると、情報の内容より、誰が言ったかを先に判断する」
ユアンが少し眉を寄せる。
「通信の声なら右、と分かる方が早い」
「通信士が機関異常を報告する場合もある」
「その時は内容で判断する」
「なら最初から内容で判断すればいい」
カイルの声は強かった。
「緊急時に新しい仕組みへ頼る必要はない。従来の警告配置で十分だ」
リュウジは少し考えた。
「試すだけでも駄目ですか」
「初回訓練から不要な変更を入れるべきではない」
「負荷を確認するための訓練です」
「基礎動作を確認する訓練だ」
カイルはリュウジを見る。
「お前は、昨日上手くいったから、すぐ仕組みを変えられると思っている」
「そういうつもりではありません」
「顔合わせで聞いた意見を、その場で全部取り入れる。調整しているように見えるが、基準がないだけだ」
マーヤが口を開こうとする。
しかし、リュウジが先に答えた。
「カイルさんの意見も記録します」
「またそれか」
「明日は従来配置と立体音響の両方を試して、負担を比較します」
「比較する必要がないと言っている」
「俺は必要だと思います」
カイルの目が細くなる。
「なら、最初からそう言え」
リュウジは少し黙った。
「はい」
「俺の意見を聞くふりをして、最後に自分の案を通すな」
「聞くふりではありません」
「結果は同じだ」
「カイルさんの懸念が正しければ、外します」
「お前が判断するんだろ」
「最終的には」
カイルは冷たく笑った。
「それで対等なつもりか」
リュウジは返せなかった。
カイルの指摘は、完全に間違いではない。
操縦責任者である以上、最終判断は自分がする。
どれだけ意見を聞いても、その構造は変わらない。
カイルは立ち上がった。
「俺は従来配置で訓練する」
「明日の前半は、俺が操縦責任者です」
「知っている」
「設定は統一しないと比較できません」
「なら、お前の設定で失敗すればいい」
「カイルさん」
ノアが止めようとする。
カイルはノアを見た。
「何だ」
「初回から対立を持ち込むのは——」
「対立を作ったのは俺じゃない」
カイルはリュウジへ視線を戻す。
「連盟が、何年も準備した人間を横へ置き、外から来たS級を真ん中へ座らせた」
部屋が静まり返る。
「俺は、こいつを認めない」
はっきりとした言葉だった。
「昨日の操縦も見た。今日の話も聞いた。それでも認めない」
リュウジはカイルを見た。
「分かりました」
「分かっていない」
「では、どうすればいいですか」
「俺に聞くな」
カイルは即答した。
「責任者なら、自分で考えろ」
それだけ言い、コックピットを出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ユアンが低く息を吐く。
「簡単にはいかないな」
「当然だと思います」
リュウジが答える。
オスカーが操縦席へ背を預ける。
「お前、本当に腹が立たないのか」
「立っていないわけではありません」
全員がリュウジを見る。
マーヤが少し驚いたように言う。
「怒っているんですか」
「少し」
「そうは見えません」
「カイルさんの言い方が正しいとは思っていません」
リュウジは閉じた扉を見る。
「ただ、理由は分かります」
セレナが静かに尋ねる。
「理解できることと、受け入れることは別です」
「はい」
「それでも、追わないのですか」
リュウジは少し考える。
「今追っても、認めてほしいと言うことしかできません」
「では?」
「明日の訓練で、必要な判断をします」
ユアンが聞く。
「それで認めなかったら?」
「その時も、同じ船に乗る方法を考えます」
「認められなくても?」
「認められることが任務ではないので」
オスカーは腕を組んだ。
「だが、隣の副操縦士が責任者を認めない状態は危険だ」
「はい」
「どうする」
リュウジは操縦責任者席を見る。
空いている席。
明日、自分が座る。
隣には、カイルが座る。
信頼はない。
反発も消えない。
むしろ、今日の会話で強まった。
「認められなくても、命令の理由を説明します」
「時間がなければ?」
「事前に条件を決めます」
「また条件か」
オスカーは少し笑った。
「でも、今はそれしかないか」
リュウジは頷いた。
「感情は決められません。でも、緊急時の動きは決められます」
セレナが端末へ記録する。
「操縦責任者と第一副操縦士の信頼関係、未形成」
ユアンが横から見る。
「かなり正直に書くな」
「隠しても改善できません」
マーヤも言う。
「カイルさんの従来配置案は残します。明日の負荷確認は、両方実施しますか」
リュウジは少し迷った。
カイルは不要だと言った。
だが、試す価値はある。
「前半の最初は従来配置で行きます」
ユアンが聞き返す。
「立体音響は使わない?」
「途中で切り替えます」
マーヤが頷く。
「比較できます」
「カイルさんの懸念を確認してから、新しい設定を試します」
オスカーが笑った。
「少しは腹を立てても、意見は使うんだな」
「必要なので」
「それがカイルには腹立たしいんだろう」
リュウジは何も言わなかった。
分かっている。
カイルは、自分の意見を採用してほしいだけではない。
自分が責任者として選ばれるべきだったと考えている。
リュウジがどれだけ意見を聞いても、中央の席にいる限り、その反発は消えない。
◇
同じ頃。
スペースホープ、十四班事務所。
午後の訓練準備が進む中、エリンの端末へ短い連絡が届いた。
『昼食は食べました。』
それだけだった。
エリンは画面を見て、少しだけ息を吐いた。
ククルが気づく。
「リュウジさんですか」
「うん。食べたって」
エマがすぐに聞く。
「全部ですか」
「そこまでは書いてない」
「確認した方がいいです」
カイエが苦笑する。
「もう食べたならいいんじゃない?」
「残している可能性がある」
「エマ、細かい」
「重要だから」
エリンは少し笑った。
「向こうに担当の人がいるから、大丈夫だよ」
「信用できますか」
「会ったことないけど、リュウジが指示に従うって言ってた」
ガーネットが顔を上げる。
「リュウジさんが、ご自分からそう言われたのですか」
「うん」
「それは大きな変化ですね」
エリンも静かに頷いた。
「前なら、自分で判断できるって言ったと思う」
タツヤ班長が奥の席から言う。
「少しずつ、任せられるようになってきたな」
「はい」
エリンは答えた。
それでも、端末の文章が短すぎることが気になった。
食事はした。
だが、顔合わせがどうだったかは書いていない。
皆と話せたのか。
反発されたのか。
困っていることはないのか。
エリンは少し考え、短く送る。
『顔合わせはどうだった?』
しばらく返信はなかった。
訓練施設の確認中なのだろう。
ククルとエマは食事管理案を見直している。
カイエは午後の資料を整理。
ガーネットは連絡体制の確認。
ミラとランは、二人で引き継ぎ表を修正していた。
ランがミラへ小声で言う。
「リュウジさん、初日から大変そうだね」
ミラは通常口調で返す。
「うん。知らない人ばかりだし、立場も違うから」
「ちゃんと話せてるかな」
「必要なことは話すと思う。でも、相手が怒ってても内容だけ聞きそう」
ランは少し笑った。
「リュウジさんらしいね」
「うん。でも、それで余計に怒らせる時もあるよね」
「ありそう」
二人の会話を聞いていたエリンは、少しだけ表情を曇らせた。
まさに心配しているのはそこだった。
リュウジは、相手の言葉から必要な部分を拾う。
怒り。
悔しさ。
嫉妬。
そうした感情が混ざっていても、内容だけを受け取ろうとする。
それは現場では強みになる。
だが、人間関係では、相手をさらに苛立たせることがある。
感情まで受け取ってほしい人に、論点だけ返してしまう。
エリンは端末を見る。
まだ返事はない。
「喧嘩してないかな」
思わず呟く。
カイエが顔を上げた。
「リュウジさんがですか?」
「本人は喧嘩だと思ってなくても、相手が思ってるかもしれない」
ガーネットが静かに言う。
「十分あり得ますね」
ククルが心配そうに聞く。
「S級だから、反発されることもあるんでしょうか」
「あると思う」
エリンは答えた。
「向こうには、ずっと連盟で訓練してきた人もいるでしょうし」
エマが言う。
「リュウジさんが悪いわけではありません」
「うん。でも、悪くなくても関係は難しくなるよ」
タツヤ班長が椅子にもたれる。
「そこは本人に任せるしかないな」
エリンがタツヤ班長を見る。
「そうですね」
「エリンが代わりに説明しに行くわけにもいかない」
「分かっています」
「心配?」
「します」
エリンは迷わず答えた。
タツヤ班長は少し笑う。
「なら、心配してるって送ればいい」
「それでは重くないですか」
「今さらだろ」
エリンは一瞬黙り、少しだけ笑った。
確かに今さらだった。
帰ってきて。
ちゃんと怖がって。
食べて。
一人で抱えないで。
すでに何度も言っている。
エリンは端末へ新しい文章を入力した。
『相手に何か言われても、全部一人で処理しないでね。』
送信。
数分後。
返信が来た。
『A級パイロットのカイルさんから、操縦責任者として認めないと言われました。』
エリンの指が止まる。
ククルが表情の変化に気づく。
「どうしました?」
エリンは少し迷ったが、隠さなかった。
「A級パイロットの人に、責任者として認めないって言われたみたい」
室内の空気が変わる。
カイエが眉を寄せた。
「初日からですか」
「うん」
エマが静かに言う。
「理由は?」
エリンは続きの文章を読む。
『その人は、もともと責任者候補だったそうです。』
ガーネットが小さく息を吐く。
「それなら、反発する理由はありますね」
ククルがガーネットを見る。
「でも、リュウジさんに言っても仕方ないでしょう」
「感情は、仕方がないでは消えません」
ガーネットは落ち着いていた。
「長く準備してきた役割を、突然来た人へ渡すことになれば、簡単には納得できないと思います」
カイエが少しだけ視線を伏せた。
過去、自分もガーネットへ強く反発した。
理由があった。
自分の中では正しかった。
だが、相手には相手の事情があった。
「リュウジさんは、何て答えたんですか」
カイエが聞く。
エリンは返信を待つ。
少しして届いた。
『必要な意見は聞くと伝えました。ですが、それも気に入らないと言われました。』
カイエが苦笑する。
「それは、相手の方が余計に怒りそうですね」
ククルが聞く。
「どうして?」
「リュウジさん、相手の怒りまで仕事の意見として受け取ったんだと思う」
ガーネットが頷く。
「相手からすれば、感情ごと受け止めてほしかったのでしょう」
ミラも丁寧に言う。
「リュウジさんは、悪気なく論点だけを整理してしまう時があります」
ランがミラへ通常口調で言う。
「でも、どう返せばいいんだろうね」
「難しいね」
エマは少し考える。
「食事を一緒に取る」
ククルがエマを見る。
「そこでも食事?」
「話す時間ができます」
「今回は少し意味があるかも」
エリンは端末を見た。
リュウジは困っている。
文章から、わずかにそれが伝わる。
普段なら、問題ありませんと書く。
今回は、認めないと言われたことを伝えてきた。
それは、抱え込まずに報告したということだった。
エリンは返信する。
『認めてもらおうとしすぎなくていいよ。』
一度、指を止める。
『でも、相手が何を悔しがってるのかは、忘れないで。』
送信。
少しして返事が来る。
『分かりました。』
さらに、もう一文。
『ただ、カイルさんは俺の操縦技術ではなく、責任者として認めないと言っています。』
エリンはその文章を見つめた。
カイルは、簡単には認めない。
リュウジが明日のシミュレーションで優れた操縦を見せても、おそらく変わらない。
責任者としての信頼は、一度の技術では作れない。
それは正しい。
厳しいが、間違ってはいない。
エリンは少し考え、送った。
『じゃあ、明日一日で認めてもらおうとしないこと。』
『ちゃんと帰す判断を、何回も積み重ねて。』
『それでも認めてもらえないなら、そのまま一緒に動く方法を考えればいいよ。』
リュウジからの返事は、少し遅れて届いた。
『はい、エリンさん。』
エリンは端末を伏せた。
ククルが聞く。
「大丈夫そうですか」
「簡単にはいかないと思う」
「リュウジさんでも?」
「リュウジだから、余計に難しいこともあるよ」
エリンは静かに答えた。
「操縦が上手いから、認められるとは限らないから」
タツヤ班長が頷く。
「いい経験になる」
「危険な形にならなければ、ですけど」
「そこは連盟が見てるだろ」
「そうですね」
エマが端末の食事管理案へ視線を戻す。
「明日のシミュレーション前に、朝食も確認した方がいいです」
カイエが笑う。
「この空気でも、そこへ戻るんだ」
「食べなければ判断が落ちるから」
ククルも少し笑った。
「それは確かに」
班室に、わずかに柔らかい空気が戻る。
エリンは端末を見た。
リュウジは、一人ではない。
調査隊には、まだ仲間とは呼べない人達がいる。
自分を認めない副操縦士もいる。
それでも、声を出す専門家がいる。
体調を見てくれる人がいる。
機体を見てくれる人がいる。
通信を守る人がいる。
そして、ここには十四班がいる。
認められないままでも、船は動かさなければならない。
信頼が完成するまで、待つことはできない。
明日の合同シミュレーションでは、その不完全な関係のまま、最初の航行が始まる。
リュウジとカイル。
二人は、互いを理解していない。
カイルは、リュウジを認めていない。
そして、明日の訓練でリュウジがどれほど優れた操縦を見せたとしても、その考えを簡単に変えるつもりはなかった。
操縦技術と、責任者としての信頼。
その二つは、カイルにとってまったく別のものだった。
――――――
# 第3話 割れた操縦席
翌朝。
宇宙連邦連盟訓練センターの合同シミュレーション区画には、まだ開始時刻まで一時間以上あるにもかかわらず、すでに多くの関係者が集まっていた。
調査船。
護衛巡洋艦ヴァルキュリア。
高速戦術艦アストライア。
三隻の艦をそれぞれ別のシミュレーターへ接続し、一つの仮想宙域で動かす。
壁面の大型表示には、三隻の位置。
通信状態。
推進出力。
乗員の生体情報。
観測機器の稼働状況。
それらが、まだ静かな数字として並んでいた。
だが、その静けさは、訓練が始まるまでのものにすぎない。
調査船のコックピットでは、マーヤがシステム席の起動確認を進めていた。
ユアンは通信回線を三重に接続し、軍用艦との音声同期を確認している。
オスカーは機関席で、推進系統と冷却系統の仮想負荷を一つずつ確かめていた。
セレナは全員の生体情報を見ながら、個別に睡眠時間と朝食摂取量を確認していた。
アデルとベンは観測区画から接続し、前方宙域の解析条件をめぐって、すでに小さな議論を始めている。
副操縦士席には、ノアとソフィアが座っていた。
第一副操縦士席だけが空いている。
カイルは、まだ来ていなかった。
リュウジは主操縦席の前に立ち、座席へ手を置いたまま、全体を見ていた。
昨日までとは違う。
今日は、顔合わせではない。
話し合うための場でもない。
全員の判断が、実際に一つの船へ影響する。
誰かの報告が遅れれば、操縦が遅れる。
操縦判断が曖昧なら、機関側が準備できない。
通信士が優先順位を見失えば、護衛艦との編隊が崩れる。
そして、操縦責任者と第一副操縦士が互いを信用していなければ、その影響は全員へ広がる。
リュウジはそれを理解していた。
だからこそ、昨日のうちにカイルとの最低限の手順を決めたかった。
だが、話し合いは成立しなかった。
カイルは、操縦技術は認めても、責任者としては認めないと言った。
その言葉は、感情的な捨て台詞ではなかった。
カイルは本気だった。
そして、おそらく今日の訓練でリュウジがどれほど結果を出しても、簡単には変わらない。
「リュウジさん」
セレナの声で、リュウジは振り返った。
「はい」
「昨夜の睡眠は六時間十一分です」
「昨日よりは長いです」
「十分とは言っていません」
「はい」
「朝食は?」
「食べました」
「内容は?」
「パン、卵、スープ、果物です」
「量は?」
「通常量です」
「通常量という表現は曖昧です」
リュウジは少し考えた。
「連盟食堂の規定量です」
セレナは記録を確認する。
「分かりました。水分量も問題ありません」
「ありがとうございます」
「ただし、反応速度が昨日よりわずかに遅いです」
「誤差ではありませんか」
「誤差の範囲です。ですが、誤差として記録します」
「分かりました」
やり取りを聞いていたノアが、小さく笑った。
「本当に細かく見られるんですね」
セレナはノアへ視線を向けた。
「ノアさんも同じです」
「分かっています」
「昨日、就寝予定時刻より四十分遅れています」
ノアの笑顔が止まる。
「資料を確認していました」
「理由は記録しました」
ソフィアが横から言った。
「その言い方、昨日も聞きました」
セレナは落ち着いて答えた。
「理由があっても、睡眠不足は睡眠不足です」
ノアは諦めたように息を吐いた。
「了解しました」
その時、コックピットの扉が開いた。
カイルが入ってくる。
開始予定時刻の五十分前。
遅刻ではない。
準備時間としても十分だった。
だが、他の全員より遅い。
カイルは誰にも挨拶せず、第一副操縦士席へ向かった。
セレナが立ち上がる。
「カイルさん。体調確認を行います」
「端末へ送った」
「対面確認も必要です」
「問題ない」
「問題がないか判断するための確認です」
カイルは足を止めた。
明らかに苛立っていた。
「睡眠七時間。朝食摂取済み。水分も規定量。これ以上、何を聞く」
「現在の体調です」
「良好だ」
「精神状態は?」
コックピットの空気がわずかに変わった。
カイルはセレナを見る。
「何が言いたい」
「リュウジさんとの対立が、判断へ影響する可能性を確認しています」
「影響しない」
「即答では判断できません」
「なら何を答えれば満足する」
「満足の問題ではありません」
セレナは少しも引かなかった。
「リュウジさんへの反発を、訓練中に判断へ持ち込まないと約束できますか」
カイルの視線が、主操縦席の前に立つリュウジへ向く。
「俺は感情で操縦しない」
「では、約束できますか」
「できる」
「記録します」
セレナは端末へ入力した。
カイルはそのまま副操縦士席へ座る。
リュウジも主操縦席へ向かった。
隣り合う二つの席。
距離は一メートルもない。
だが、二人の間には、それ以上の隔たりがあった。
◇
合同ブリーフィングが始まった。
正面画面に、ヴァレン准将と調査計画主任が表示される。
別画面には、ヴァルキュリアの艦長エドガー・ロウ大佐。
アストライアの艦長ミレイユ・カーター少佐。
軍側の二人は、どちらも表情を崩さなかった。
「本日の第一段階では、通常通信下における三隻編隊の進入、観測、離脱を実施する」
ヴァレン准将が説明する。
「前半はリュウジが調査船の操縦責任者を務める。後半はカイルへ交代する」
「了解しました」
リュウジが答えた。
「了解」
カイルも続く。
「撤退条件は事前設定どおりだ。調査船の主推進出力六十パーセント未満。護衛艦一機の編隊維持不能。通信完全途絶九十秒。乗員二名以上の継続困難判定。未登録重力偏差、規定値一・八以上」
ヴァレン准将は一つずつ読み上げる。
「条件到達後、操縦責任者に調査継続権限はない」
その言葉に、カイルの目がわずかに動いた。
リュウジは正面を見たまま答える。
「了解しました」
「条件到達前であっても、担当者は個別に撤退提案を行える」
「了解しました」
「操縦責任者は提案を却下できる。ただし、理由を記録する」
「了解しました」
カイルが手を挙げた。
「確認があります」
「言え」
「護衛艦が一時的に編隊から外れた場合も、編隊維持不能に含まれますか」
「各艦長の申告を基準とする」
「申告前に、調査船側が継続可能と判断した場合は?」
「申告がなければ、継続権限は操縦責任者にある」
カイルは続ける。
「申告後に、即時復旧した場合は?」
「撤退条件到達後の解除は認めない」
「状況が改善しても?」
「認めない」
カイルの表情が硬くなる。
「現場判断を狭めすぎです」
調査計画主任が答える。
「本訓練では規定どおり行う」
「実任務でも同じですか」
「現時点では同じだ」
カイルは少しだけ顎を引いた。
「了解しました」
返事はした。
だが、納得していないことは全員に伝わった。
ユアンが通信席で、無意識に指を止める。
オスカーも画面から一度カイルへ視線を向けた。
リュウジは何も言わなかった。
その沈黙が、カイルには同意に見えた。
実際、リュウジは規定に同意している。
だからこそ、カイルの苛立ちはさらに強くなった。
◇
訓練開始。
調査船が仮想ドックを離れる。
リュウジは主推進器を急激には上げず、左右補助推進器との同期を確認しながら船体を進めた。
「推進出力二十パーセント」
オスカーが報告する。
「冷却正常。振動値、基準内」
「了解しました」
リュウジは答える。
「ヴァルキュリア、左後方二千」
ユアンが報告する。
「アストライア、右前方千五百。編隊通信正常」
「了解しました」
「前方重力偏差、〇・三」
アデルが観測区画から伝える。
「想定範囲内です」
「ベンです。右前方に小規模漂流物群を確認しました」
「航路へ影響しますか」
「現時点ではありません」
「了解しました。観測継続をお願いします」
報告は途切れない。
だが、混乱はなかった。
リュウジは必要な情報だけを短く返し、操縦を続ける。
船体は予定航路へ正確に入った。
カイルは隣で、補助航法と姿勢制御を担当していた。
「進入角、〇・二度浅い」
カイルが言う。
「修正します」
リュウジはすぐに入力する。
船体がわずかに姿勢を変える。
「修正量が大きい」
「許容範囲内です」
「この先で重力偏差が上がれば、右へ流される」
リュウジは航路予測を見る。
「現状では〇・二度で問題ありません」
「〇・一で十分だ」
「観測機器の照準を考えると、〇・二必要です」
アデルが観測区画から口を挟む。
「リュウジさんの修正値で問題ありません。観測角度はこちらの方が安定します」
カイルの表情が硬くなる。
「操縦の安定性を優先すべきだ」
アデルが答える。
「観測船です。観測を成立させる必要があります」
「機体が乱れれば観測もできない」
「現状、乱れていません」
「今はな」
リュウジが二人の会話を止める。
「進入角は現状を維持します」
カイルがリュウジを見る。
「俺の意見は却下か」
「観測条件と航路誤差を比較した結果です」
「結果ではなく、お前の判断だろ」
「はい」
カイルはそれ以上言わなかった。
だが、入力端末へ触れる指が少し強くなった。
最初の小さな亀裂だった。
◇
進入から十八分。
前方の重力偏差が上昇した。
「偏差〇・八」
アデルが報告する。
「上昇速度、予測より一二パーセント速いです」
「航路への影響は?」
リュウジが聞く。
「五分後から右方向へ流されます」
カイルがすぐに言う。
「先に左へ寄せる」
リュウジは予測値を見る。
「まだ早いです」
「遅れてからでは推進器を余計に使う」
「観測データが不足しています」
「偏差上昇は見えている」
「中心位置が確定していません」
カイルの声が強くなる。
「現場では確定を待てない時もある」
「今は待てます」
「何を根拠に?」
「推進余力と現在の偏差です」
オスカーが機関席から報告する。
「左へ先行修正した場合、補助推進器消費が三パーセント増える」
カイルが言う。
「三パーセントで済むなら先に動くべきだ」
オスカーは少し間を置いた。
「機関側としては、まだ使いたくない」
「使える時に使わず、後で大きく使う方が無駄だ」
アデルが口を挟む。
「中心位置が左側だった場合、逆方向へ入ります」
カイルが返す。
「可能性は低い」
「低いだけです」
「現場判断では十分だ」
アデルの声が硬くなる。
「学術判断を軽く扱わないでください」
「操縦判断を数字待ちで遅らせるな」
「数字を待つのが観測です」
複数の声が重なる。
リュウジは正面を見たまま言った。
「現状維持します」
カイルが振り向く。
「またか」
「偏差一・〇まで推移を見ます」
「一・〇になってからでは遅い」
「オスカーさん」
「何だ」
「偏差一・〇到達時に左補助推進器を即時使用できるよう準備してください」
「了解」
「アデルさん」
「はい」
「中心位置の確定を優先してください」
「了解しました」
「カイルさん」
「何だ」
「修正航路を二案用意してください」
カイルの顔が険しくなる。
「俺の判断は使わず、作業だけさせるのか」
リュウジは一瞬黙った。
「そういう意味ではありません」
「なら、どういう意味だ」
「状況が変わった時、すぐ動けるようにするためです」
「俺は今動けと言っている」
「今は動きません」
カイルは、はっきりと舌打ちした。
コックピット全体が静まり返る。
ノアとソフィアが互いに視線を交わす。
マーヤは端末を操作しながらも、二人の声へ意識を向けていた。
ユアンは軍用艦との通信を維持しつつ、報告のタイミングを迷い始めている。
次に何か言えば、二人の対立へ割り込むことになる。
言わなければ、報告が遅れる。
操縦席の不和が、すでに他の担当者の判断を鈍らせ始めていた。
「偏差〇・九」
アデルが報告する。
「中心位置、右前方で確定します」
カイルがすぐに言う。
「左へ修正」
「左補助推進器、出力五パーセント」
リュウジが指示する。
オスカーが応じる。
「左補助、五パーセント」
船体が静かに左へ寄る。
カイルは航路予測を見た。
結果として、リュウジの待機判断は成立していた。
先に動いていれば、中心位置の誤差によって過剰修正になっていた可能性がある。
だが、カイルは認めなかった。
むしろ、別の点を指摘した。
「修正が遅い」
「許容範囲内です」
「乗員負荷が上がった」
セレナが確認する。
「負荷上昇は基準内です」
「基準内なら何でもいいのか」
リュウジがカイルを見る。
「そうは言っていません」
「結果だけ見て正しかったと言うつもりか」
「結果だけではありません」
「なら、俺の案より優れていた根拠を説明しろ」
リュウジは一瞬、言葉に詰まった。
今は訓練中。
説明に時間を使う場面ではない。
だが、答えなければ、カイルはまた無視されたと受け取る。
「後で説明します」
その返答が、最も悪かった。
カイルの目が鋭くなる。
「また後か」
「現在は操縦中です」
「俺は隣で操縦している」
「分かっています」
「分かっていない」
カイルの声がさらに低くなる。
「お前は俺を副操縦士として使っていない」
「使うという言い方はしません」
「言葉の問題ではない」
カイルは航路表示を指した。
「俺の判断を採用しない。理由は後で説明する。だが、作業はさせる」
「必要な役割をお願いしています」
「それを使っていると言うんだ」
リュウジも、わずかに声が硬くなった。
「では、どうしてほしいんですか」
その一言で、空気が変わった。
冷静に見えていたリュウジの中にも、苛立ちがある。
カイルだけではない。
リュウジもまた、何を言っても否定される状況へ疲れ始めていた。
「俺に聞くなと言ったはずだ」
カイルが答える。
「責任者なら、自分で考えろ」
「考えています」
「なら、俺の判断を使え」
「使えないと判断しました」
「結局それだ」
「カイルさん」
「何だ」
「今は訓練中です」
「知っている」
「私情を持ち込まないと、セレナさんへ約束しましたよね」
カイルの顔から表情が消えた。
「私情だと?」
「今のやり取りは、操縦判断から外れています」
「俺は操縦判断を話している」
「認められていないという話へ変わっています」
カイルの手が止まる。
セレナが静かに言う。
「両者とも、会話負荷が上昇しています」
リュウジが答える。
「分かりました」
カイルは返事をしなかった。
セレナが続ける。
「心拍数。リュウジさん、基準より一八パーセント上昇。カイルさん、二一パーセント上昇」
「操縦継続に問題はありません」
カイルが言う。
「問題の有無ではなく、負荷の報告です」
「集中しているだけだ」
「怒りでも上がります」
「怒っていない」
セレナの視線が厳しくなる。
「その申告は信用できません」
カイルが振り返る。
「何?」
「客観値と一致していません」
「俺を操縦から外すつもりか」
「現時点では外しません。ただし、負荷がさらに上がれば交代を提案します」
カイルは、セレナを睨む。
リュウジが正面を向いたまま言う。
「セレナさんの判断に従ってください」
カイルがゆっくりとリュウジを見る。
「お前が言うな」
「操縦責任者として言っています」
「だから、お前が言うなと言っている」
その声には、もはや隠しきれない敵意があった。
◇
その直後。
アストライアから通信が入った。
「こちらアストライア。右前方に未登録漂流物群を確認。推定規模、中型船三隻相当」
ミレイユ少佐の声だった。
ユアンが報告を復唱する。
「未登録漂流物群。右前方。距離八千」
ベンの声が観測区画から入る。
「構造解析を開始します」
アデルも続く。
「漂流物群の後方で、重力偏差が上昇しています」
リュウジが聞く。
「迂回可能ですか」
アデルが答える。
「左回りなら可能です。ただし、観測予定区域から外れます」
ベンが言う。
「漂流物の材質反応が既知規格と一致しません。接近観測を提案します」
カイルが即座に言う。
「アストライアを先行させる」
リュウジは画面を見る。
「距離は?」
ユアンが答える。
「アストライアから漂流物群まで三千二百」
「ミレイユ少佐。接近可能ですか」
「可能。ただし、後方の重力偏差が不安定です」
アデルが声を強める。
「接近は推奨できません。中心位置がまだ読めません」
ベンが反論する。
「遠距離観測では材質を特定できません」
「重力偏差の解析が先です」
「その間に漂流物が移動します」
「移動速度は低いです」
「現在は、です」
カイルが言う。
「アストライアを二千まで近づける。調査船は距離を維持。ヴァルキュリアは後方待機」
リュウジはすぐには答えなかった。
航路。
重力偏差。
通信遅延。
三隻の距離。
アストライアが単独で前へ出れば、編隊が広がる。
だが、観測価値は高い。
「アストライア、二千五百まで接近してください」
リュウジが指示する。
カイルが即座に反応する。
「二千でいい」
「後方偏差が未確定です」
「五百で得られるデータ量が変わる」
ベンが言う。
「カイルさんの言うとおりです。二千まで入れば、構造解析精度が上がります」
アデルが反対する。
「二千では重力乱流へ巻き込まれる可能性があります」
ベンが返す。
「可能性だけで全て止めるのですか」
「観測船を失うよりいいです」
「観測しないなら、何のために来たんです」
アデルの声が強くなる。
「帰れない観測は意味がありません」
ベンも譲らない。
「帰るだけなら、最初から来なければいい」
コックピットの空気がさらに悪化する。
二人の宇宙学士の対立。
操縦席の対立。
どの意見を採用しても、誰かが不満を持つ。
リュウジは言った。
「二千五百で止めます」
カイルが顔を向ける。
「中途半端だ」
「安全余裕と観測精度の両方を取ります」
「両方取ろうとして、どちらも足りなくなる」
「現時点ではこれが最善です」
「お前にとってはな」
「カイルさん」
「俺なら二千まで入れる」
「今は俺が操縦責任者です」
言った瞬間。
リュウジ自身が、その言葉の強さに気づいた。
カイルも動きを止めた。
これまで、リュウジは立場を前面には出さなかった。
必要な意見は聞く。
正しければ従う。
そう言ってきた。
だが今、初めて明確に、自分が責任者だと言った。
カイルの表情が冷たくなる。
「ようやく本音が出たな」
「そういう意味ではありません」
「今は俺が責任者。だから従え」
「指揮系統の確認です」
「最初からそう言えばよかった」
「カイルさん」
「俺を対等に扱うふりをするな」
「ふりではありません」
「なら、俺の意見を採用しろ」
「採用できません」
「それが答えだ」
カイルは前方画面へ向き直った。
「了解。操縦責任者の命令に従う」
声は平坦だった。
だが、その言い方には明確な拒絶があった。
ノアは視線を伏せる。
ソフィアは口を結んだまま、補助航法を見つめる。
二人とも、どちらへつけばいいか分からなくなっていた。
リュウジの判断は規定に沿っている。
カイルの意見にも合理性がある。
問題は、どちらが正しいかではない。
二人が相手の判断を、最初から信用していないことだった。
◇
アストライアが二千五百まで接近する。
観測開始。
ベンが材質解析を進める。
「外装材、不明合金。既知の連盟規格とは一致しません」
アデルが同時に報告する。
「後方重力偏差、一・四。上昇継続」
リュウジが聞く。
「アストライアの離脱余裕は?」
ユアンが通信する。
「アストライア、現在の位置から離脱可能ですか」
ミレイユ少佐が答える。
「可能。ただし、右舷側に予測外の流れが出ている」
アデルの声が鋭くなる。
「偏差一・六」
カイルが言う。
「アストライアを戻せ」
リュウジも同時に指示する。
「アストライア、観測中止。編隊へ戻ってください」
ミレイユ少佐が答える。
「了解。離脱する」
その直後。
警告音。
「重力偏差一・八!」
アデルが叫ぶ。
撤退条件到達。
リュウジは即座に言う。
「全艦、撤退。調査船、左反転。ヴァルキュリアはアストライアの後方へ」
カイルが前方画面を見る。
「待て。アストライアは離脱できる」
「撤退条件到達です」
「今、偏差が下がった」
アデルが報告する。
「一・七へ低下しています」
カイルが言う。
「条件は一時的な上昇だった。編隊回収後、再進入できる」
リュウジは操縦桿を切る。
「撤退します」
「状況は改善している」
「条件到達後の解除は認められていません」
「訓練規定の話をしているんじゃない」
「今は訓練です」
「本番ならどうする」
「同じです」
カイルが息を呑む。
「本気か」
「はい」
「偏差は一・五まで下がった」
アデルが報告する。
「中心が移動しています。前方は再び安定する可能性があります」
ベンが言う。
「漂流物の観測は八〇パーセントまで完了しています。あと二分あれば構造解析が終わります」
カイルが言う。
「聞いたか。二分だ」
「撤退します」
「二分で終わる」
「撤退条件を越えています」
「目の前で安全になっている」
「再上昇しない保証はありません」
「下がっているのも事実だ」
「条件は変えません」
カイルの声が強くなる。
「融通が利かない」
「決めた条件です」
「現場を見ろ」
「見ています」
「見ていない」
カイルは主操縦席側へ身を乗り出した。
「お前は数字しか見ていない」
「カイルさん、座ってください」
セレナが言う。
「今は黙っていろ」
「着席してください」
「俺は操縦している」
「身体を固定してください」
カイルは無視した。
「リュウジ。進路を戻せ」
「戻しません」
「副操縦士として提案する」
「却下します」
「理由は?」
「撤退条件到達」
「それだけか」
「それで十分です」
「思考を止めるな」
「止めていません」
「規則へ逃げている」
リュウジの表情が硬くなる。
「撤退条件は、逃げるための規則ではありません」
「今は調査を続けられる」
「続けられることと、戻れることは違います」
その言葉は、かつてエリンに言われたものだった。
カイルは知らない。
だが、リュウジの中では、すでに何度も考えた答えだった。
「俺達は調査へ来たんだ」
カイルが言う。
「帰るだけでは任務にならない」
「帰らなければ結果を持ち帰れません」
「持ち帰る結果がなければ意味がない」
「八〇パーセントの結果は残っています」
ベンが反応する。
「不完全です」
リュウジは答える。
「不完全でも、持ち帰ります」
ベンの声が硬くなる。
「学術調査を簡単に扱わないでください」
「簡単には扱っていません」
「あと二分です」
「撤退します」
「またですか」
ベンの声には、明確な不満が混ざった。
「操縦士の都合で、観測を止めるのですか」
アデルがすぐに言う。
「撤退条件です。操縦士の都合ではありません」
ベンが返す。
「あなたは自分の観測が危険だから賛成しているだけでしょう」
「何ですって?」
「重力観測はもう取れた。だから漂流物解析は切ってもいいと思っている」
「私は船の安全を見ています」
「自分のデータが取れた後で言っても説得力がありません」
観測区画でも対立が始まる。
リュウジとカイルの衝突が、周囲の不満を表へ引き出していた。
誰もが、自分の担当を守ろうとする。
それ自体は正しい。
だが、全体判断を信じられなくなった瞬間、各担当は自分の役割だけを優先し始める。
マーヤが声を上げる。
「議論を止めてください。システム負荷が上がっています」
オスカーも続く。
「左補助推進器、出力維持。反転中に入力を増やすな」
ユアンが報告する。
「ヴァルキュリア、アストライアともに撤退進路へ移行」
カイルが言う。
「アストライアは戻れる。調査船だけ残せる」
ユアンが振り返る。
「今、全艦撤退命令を送った」
「訂正しろ」
ユアンの表情が変わる。
「誰の命令で?」
カイルが答える。
「副操縦士としての判断だ」
「操縦責任者は撤退と言っている」
「状況が変わった」
「俺はどちらに従えばいい」
その問いで、全員が黙った。
通信士として、最も聞いてはいけない問いだった。
誰の命令を送ればいいか。
指揮系統が割れている。
ユアンはリュウジを見る。
「操縦責任者。命令を確認する」
リュウジは答える。
「全艦撤退を維持してください」
「了解」
ユアンは軍用艦へ再送する。
カイルはゆっくりと座席へ戻った。
その横顔から、感情が消えていた。
「了解。撤退命令を維持」
声には何もなかった。
怒りも、反発も。
それが逆に、リュウジには不安だった。
◇
三隻は仮想宙域から離脱した。
訓練終了。
コックピットの照明が通常状態へ戻る。
誰もすぐには立ち上がらなかった。
結果だけを見れば、全艦帰還。
機体損傷なし。
乗員負傷なし。
観測データ取得率八二パーセント。
安全面では成功。
だが、室内に成功した空気はなかった。
むしろ、全員が何かを失ったような沈黙に包まれていた。
最初に口を開いたのは、ベンだった。
「観測は未完了です」
リュウジは振り返る。
「分かっています」
「あと二分でした」
「はい」
「偏差は下がっていました」
「一度、条件へ到達しています」
「規則の説明を聞いているのではありません」
ベンの声が硬くなる。
「あなた自身は、本当に撤退が最善だったと思っているのですか」
リュウジは少し黙った。
「はい」
「迷わなかった?」
「迷いました」
「なら、なぜ検討しなかったのですか」
「条件到達後に、継続を検討する権限がないからです」
ベンは失望したように息を吐いた。
「あなた自身の判断ではないんですね」
リュウジの目が少し動く。
「事前に条件を決めた時点で、俺の判断も含まれています」
「現場で考え直すことを放棄しただけでは?」
「違います」
「私には同じに見えます」
アデルがベンを見る。
「撤退は正しかったです」
ベンが返す。
「あなたはそうでしょう」
「どういう意味ですか」
「重力観測は終わっていた」
「まだ言うんですか」
「事実です」
「私は全体の危険を報告しました」
「自分に都合のいい危険だけでしょう」
アデルが椅子から立ち上がる。
「撤回してください」
ベンも立つ。
「撤回しません」
「観測データを見れば、危険だったことは分かります」
「危険があることと、撤退しかないことは別です」
「船を失ってからでは遅いです」
「何も調べず帰るなら、研究者は必要ありません」
「八二パーセント取れています」
「八二パーセントでは結論が出ない」
二人の声が強くなる。
マーヤが端末を閉じた。
「止めてください」
誰も反応しない。
マーヤはもう一度言う。
「止めてください」
今度は、全員が見る。
普段は画面から目を離さないマーヤが、はっきりと不快感を表していた。
「今日の問題は、観測率ではありません」
ベンが聞く。
「では何ですか」
「誰の指示を優先するか、途中で分からなくなったことです」
マーヤはリュウジとカイルを見る。
「システム席から、操縦責任者と第一副操縦士へ同時に情報を送っています。しかし、二人の判断が割れた場合、どちらの指示へ準備を合わせればいいのか分かりません」
リュウジが答える。
「最終判断は俺です」
「規定上はそうです」
「なら——」
「でも、カイルさんは指示へ従っていません」
カイルの目が動く。
マーヤは続ける。
「入力そのものは行っていました。でも、何度も別の判断を要求しました。私は、そのたびにシステム設定をどちらへ寄せるか迷いました」
カイルが言う。
「異議を出すのは副操縦士の役割だ」
「異議と、命令の競合は別です」
「俺は命令していない」
ユアンが口を挟む。
「訂正しろと言った」
カイルがユアンを見る。
「あれは提案だ」
「俺には命令に聞こえた」
「お前が勝手にそう受け取っただけだ」
ユアンの表情が険しくなる。
「通信士は、言葉を勝手に選べない」
「なら確認しろ」
「確認した」
ユアンの声が低くなる。
「誰に従えばいいか、操縦責任者へ確認した」
「それで済んだだろ」
「本番で通信遅延があったら?」
カイルは黙る。
ユアンは続ける。
「二人から違う指示が出る。俺が確認する。その間に護衛艦は動く。三秒、五秒、十秒。未探索領域では、それで編隊が崩れる」
「だから、副操縦士は黙っていろと言うのか」
「違う」
ユアンは首を横に振る。
「異議を出すなとは言っていない。命令みたいに言うなと言っている」
カイルの目が鋭くなる。
「言葉遣いの問題か」
「指揮系統の問題だ」
「俺は十一年、この言い方でやってきた」
「俺はお前と十一年組んでいない」
その言葉に、カイルの表情が変わった。
ユアンは引かなかった。
「ここにいる全員がそうだ。お前が今までどうやってきたかは知らない。リュウジも同じだ」
「なら、連盟側の俺を基準にすべきだ」
「それを決めるのはお前じゃない」
カイルが立ち上がった。
「何だと?」
ノアが間に入る。
「カイルさん、落ち着いてください」
「お前はどちらの側だ」
ノアが一瞬言葉を失う。
「側の問題ではありません」
「なら答えろ」
「何をですか」
「今日の撤退判断は正しかったと思うか」
ノアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、室内の空気をさらに重くした。
「私は……」
ノアは言葉を選ぶ。
「規定上は正しいと思います」
「規定上は?」
「ただ、現場で再評価する余地はあったと思います」
リュウジがノアを見る。
ノアは視線を逸らさなかった。
「撤退条件を守る必要は理解しています。しかし、条件到達の原因が一時的なものだと分かった場合まで、完全に判断を止めるのは危険ではないでしょうか」
カイルがわずかに口元を上げる。
「聞いたか」
リュウジは答える。
「聞きました」
「副操縦士も同じ意見だ」
ノアがすぐに言う。
「全て同じではありません」
カイルが顔を向ける。
「何が違う」
「私は、撤退命令後に進路を戻すべきだったとは言っていません」
「だが、判断の余地はあったと言った」
「訓練後の検討としてです」
カイルの表情が冷たくなる。
「逃げるな」
ノアも、初めて声を強めた。
「逃げていません」
「なら、どちらが正しい」
「どちらかだけを正しいとは言えません」
「だから駄目なんだ」
カイルは吐き捨てるように言う。
「判断が必要な時に、両方分かるでは船は動かない」
ノアは黙った。
その顔には、はっきりと傷ついた様子があった。
カイルはそれを見ても、言葉を戻さなかった。
ソフィアが静かに口を開く。
「カイルさん」
「何だ」
「今の言い方は必要ありません」
「お前まで俺を責めるのか」
「責めているのではありません」
「なら何だ」
「ノアは意見を求められて答えました」
「答えになっていない」
「あなたが望む答えではなかっただけです」
カイルはソフィアを見る。
「お前はどうなんだ」
「何がですか」
「今日の判断だ」
ソフィアは少し考えた。
「撤退そのものは正しいと思います」
カイルの顔が硬くなる。
「理由は?」
「第一副操縦士が操縦責任者の判断へ従わない状態で、調査継続はできません」
空気が凍った。
カイルの目が細くなる。
「俺が原因だと言うのか」
「一因です」
「リュウジには問題がない?」
「あります」
今度はリュウジがソフィアを見る。
「リュウジさんは、カイルさんの反発を理由のある意見として扱いすぎています」
リュウジの眉がわずかに動く。
「どういう意味ですか」
「意見として聞くべき部分と、明確に止めるべき部分を分けていません」
「止めるべき部分?」
「命令へ従わないことです」
ソフィアは落ち着いたまま続ける。
「カイルさんが責任者を認めないことと、訓練中に指示へ従わないことは別です」
カイルが言う。
「従っていた」
「形だけです」
「何?」
「入力はしていました。でも、判断が出るたびに反対し、再検討を要求した」
「副操縦士の役割だ」
「一度ならそうです」
ソフィアの声は変わらない。
「却下された後も続けた時点で、異議ではなく妨害に近くなっています」
カイルが一歩、ソフィアへ近づく。
「言葉を選べ」
「選んでいます」
「俺が任務を妨害したと?」
「今日の訓練では、そう見えました」
カイルの表情から、わずかな余裕が消えた。
ノアが立ち上がる。
「ソフィア、もういい」
「良くない」
ソフィアはカイルから目を逸らさない。
「このまま本番へ行けば、誰かが命令を聞かなくなります」
「俺が?」
「全員です」
その言葉で、室内が静かになる。
ソフィアは周囲を見る。
「今日、ユアンは報告を迷いました。マーヤは設定を迷いました。私は補助航法の修正を一度止めました。ノアも入力確認を二回やり直しています」
ノアが驚いたようにソフィアを見る。
「見ていたのか」
「見える位置にいたから」
ソフィアは続ける。
「皆、二人のどちらが次に何を言うかを気にしていました」
リュウジは言葉を失った。
操縦に集中していた。
報告は届いていた。
入力も行われていた。
だから、全員が動けていると思っていた。
だが、実際には違った。
誰もが、対立の余波を受けていた。
「すみません」
リュウジが言った。
ソフィアが首を横に振る。
「謝罪だけでは変わりません」
「分かっています」
「本当に分かっていますか」
ソフィアの声には、初めて明確な不信があった。
「昨日から、リュウジさんは全ての意見を聞くと言っています。でも、最後は自分で判断すると言う」
「責任者なので」
「それは分かります」
「では何が問題ですか」
「判断の基準が、私達には見えません」
リュウジが黙る。
ソフィアは続けた。
「撤退条件を守る。帰還を優先する。それは分かります。でも、途中の判断で、なぜカイルさんの案を使わず、アデルさんの案を使ったのか。なぜ二千ではなく二千五百だったのか。私達には説明されていません」
「訓練中に全て説明する時間はありません」
「全てではなくていいんです」
「では?」
「判断基準を共有してください」
ソフィアは主操縦席を見る。
「帰還優先だけでは、途中の判断は分かりません」
マーヤも静かに頷いた。
「私も同じです」
リュウジがマーヤを見る。
「システム側では、操縦責任者が次に何を優先するか予測できる方が準備しやすいです」
「俺の指示が遅いですか」
「遅くはありません」
「では?」
「予測できません」
その言葉は、リュウジに重く届いた。
操縦技術は高い。
判断も速い。
指示も短い。
だが、周囲がその判断を予測できない。
それは、チームの操縦責任者としては大きな問題だった。
オスカーも口を開く。
「俺も言っていいか」
「お願いします」
「お前は機体を守る判断をする。それは分かった」
「はい」
「だが、どこまでなら壊していいのかが見えない」
「どういう意味ですか」
「帰るためなら、壊すこともあるだろ」
「はい」
「昨日は、壊れた系統を切れと言った。今日は補助推進器を温存した」
「状況が違います」
「その違いを、俺は後からしか知れない」
オスカーは腕を組む。
「お前が次に何を選ぶか分からなければ、整備側は先回りできない」
リュウジは何も言えなかった。
一人ずつ。
不信感が言葉になる。
カイルだけではなかった。
カイルとの対立が目立ちすぎて、他の全員が抱えていた疑問が隠れていた。
彼らはリュウジを信頼していたわけではない。
ただ、S級として選ばれたこと。
連盟が責任者に置いたこと。
昨日の試験結果。
それらを理由に、一度は従っていただけだった。
今日の訓練で初めて、責任者としてのリュウジを見た。
そして、まだ信頼できないと感じた。
◇
セレナが全員を見回した。
「一度、休憩を入れるべきです」
カイルが言う。
「逃げるのか」
セレナの表情が変わる。
「カイルさん」
「何だ」
「今の発言も記録します」
「好きにしろ」
「対話継続が困難な状態です」
「俺は話せる」
「相手を追い詰めることを、対話とは言いません」
カイルが反論しようとする。
だが、セレナは先に続けた。
「リュウジさんも同じです」
リュウジが顔を上げる。
「俺もですか」
「はい」
「怒鳴ってはいません」
「怒鳴ることだけが負荷ではありません」
セレナは端末を見た。
「訓練後から、あなたの心拍は下がっていません。呼吸も浅い。質問へ答える前の停止時間も長くなっています」
「考えているだけです」
「感情を整理しながら答えている状態です」
リュウジは黙った。
「今、全員の意見を受け止めようとしていますね」
「必要なので」
「一度に全て受け止める必要はありません」
「責任者です」
「責任者でも、人間です」
その言葉に、リュウジの表情がわずかに動く。
セレナは続ける。
「リュウジさんは、自分が傷ついていないように振る舞っています」
「傷ついてはいません」
「それも信用できません」
カイルが鼻で笑う。
「また本人の言葉を否定するのか」
セレナはカイルを見る。
「客観値と一致しないからです」
「便利な役職だな」
「必要な役職です」
「感情まで管理するのか」
「感情をなくすのではありません。判断へ影響していることを認識させます」
カイルが腕を組む。
「俺は影響していない」
ソフィアが言う。
「影響しています」
カイルが睨む。
「お前に聞いていない」
「それが影響です」
「何?」
「自分に都合の悪い意見を、聞く相手ではないと切る」
カイルの顔がさらに険しくなる。
ノアが間へ入る。
「本当に休憩にしましょう」
誰も反対しなかった。
ヴァレン准将達がいる観察室からも、休憩指示が出た。
「全員、三十分休憩。個別行動は禁止。各担当区画で待機せよ」
それは、訓練参加者への休憩というより、分断を避けるための指示だった。
◇
休憩室。
十人は同じ場所にいた。
だが、同じ集団には見えなかった。
カイルは窓際。
ノアは少し離れた席。
ソフィアはセレナと話している。
マーヤは端末を見ているが、操作はしていない。
ユアンは飲み物を持ったまま、誰とも話さない。
アデルとベンは互いに視線を合わせない。
オスカーは腕を組み、目を閉じていた。
リュウジは一人、壁際に立っていた。
誰も隣へ来なかった。
初日の昼食とは違う。
昨日は、まだ話せた。
質問された。
意見も聞けた。
今日は、誰もリュウジへ何かを聞こうとはしない。
すでに全員が、自分の中で判断し始めていた。
この操縦責任者を信用できるのか。
この第一副操縦士を信用できるのか。
この隊で二か月を過ごせるのか。
リュウジは端末を開いた。
エリンから、朝に届いた連絡が残っている。
『朝ご飯、食べた?』
『今日、一日で何とかしようとしなくていいからね。』
返信はしていた。
『食べました。』
『分かりました。』
それだけだった。
今、何か送れば、エリンは気づくだろう。
訓練が上手くいっていないこと。
カイルとの溝が深まったこと。
調査隊全体から、不信を向けられていること。
だが、何と書けばいいか分からない。
問題ありません。
そう書けば、嘘になる。
大変です。
それだけでは、何が起きたか伝わらない。
リュウジは文章を入力し、消した。
『訓練で問題がありました。』
消す。
『カイルさんと意見が割れました。』
それだけではない。
『皆から、判断基準が見えないと言われました。』
指が止まる。
その文章を見つめる。
カイルとの対立より、その言葉の方が重かった。
操縦技術ではない。
撤退判断でもない。
自分が何を考えているか、周囲には見えない。
スペースホープでは、エリンが補っていた。
リュウジが黙っている時、何を考えているのか。
どの情報を見ているのか。
何を危険と感じているのか。
完全ではなくても、エリンは理解しようとした。
タツヤ班長も、ペルシアも、十四班の皆も、長い時間の中で少しずつ知った。
だが、ここにはその時間がない。
自分から伝えなければ、誰にも分からない。
分かっていたはずだった。
それでも、操縦中になれば、いつものように判断だけを出していた。
リュウジは文章を送った。
『合同訓練で、皆から俺の判断基準が見えないと言われました。』
送信後、端末を伏せる。
すぐには返信は来なかった。
それが、少しだけ不安だった。
◇
「満足か」
カイルの声が聞こえた。
リュウジが顔を上げる。
カイルが窓際からこちらを見ていた。
「何がですか」
「皆から意見を聞けた」
「満足していません」
「必要な意見なんだろ」
その言い方には、昨日からの皮肉が残っている。
リュウジは端末をしまった。
「はい。必要な意見です」
カイルが冷たく笑う。
「そうか」
「ですが、カイルさんの言い方が正しかったとは思っていません」
カイルの表情が止まる。
休憩室にいる全員が、二人へ意識を向けた。
リュウジは続ける。
「異議を出すことは必要です」
「なら問題ない」
「却下後も命令の変更を求め続けたことは問題です」
「状況が変わった」
「それでも、最終判断は変わっていません」
「お前の判断だ」
「操縦責任者の判断です」
カイルが立ち上がる。
「また立場を使うのか」
「使います」
全員が驚いた。
昨日までのリュウジなら、もっと柔らかく言った。
対等。
必要なら従う。
正しければ採用する。
そう説明したはずだった。
だが、今回は違った。
「操縦責任者として指名されています」
リュウジはカイルをまっすぐ見た。
「訓練中、最終命令は俺が出します」
「ようやく本性を出したな」
「本性ではありません」
「同じだ」
「カイルさんが俺を認めるかどうかと、命令へ従うかどうかは別です」
カイルの目が鋭くなる。
「認めていない人間の命令に、黙って従えと?」
「黙る必要はありません。異議は一度、明確に出してください」
「一度?」
「却下後は従ってください」
「間違っていると思っていても?」
「はい」
「船が危険になると思っていても?」
「緊急停止に値する新しい情報があるなら、再度報告してください」
「判断が気に入らないだけなら黙れと」
「そうです」
カイルが一歩近づく。
「俺をただの入力装置にするつもりか」
「違います」
「同じだ」
「違いませんか」
リュウジの声も少しずつ硬くなる。
「何?」
「カイルさんは、俺が自分の意見を採用しない限り、対等ではないと言っています」
カイルが黙る。
「それでは、俺が何を選んでも納得しません」
「正しい方を選べば納得する」
「カイルさんが正しいと思う方ですか」
「経験上、正しい方だ」
「俺は違うと判断することがあります」
「なら理由を示せ」
「訓練後に説明します」
「その場で言え」
「全ては無理です」
「なら従えない」
「それでは副操縦士として成立しません」
その言葉が、休憩室へ落ちた。
カイルの顔から、完全に表情が消えた。
「俺を外すのか」
「今のままなら、第一副操縦士として一緒に乗ることは難しいです」
ノアが立ち上がる。
「リュウジさん」
ソフィアもリュウジを見る。
カイルは一歩も動かなかった。
「連盟で十一年飛んだ俺を、お前が外す?」
「俺一人では決めません」
「また逃げるのか」
「連盟へ報告します」
「好きにしろ」
「はい」
「俺も報告する」
「してください」
「お前が責任者として不適格だと」
「分かりました」
カイルの手が強く握られる。
「その返事が気に入らない」
「何と答えればいいんですか」
「少しは悔しがれ」
「悔しいです」
初めて、リュウジは即答した。
カイルの目がわずかに動く。
「皆から信頼されていないことも、判断が見えないと言われたことも、悔しいです」
リュウジは続ける。
「カイルさんと協力できないことも、腹が立っています」
室内が静かになる。
リュウジが、感情を明確に言葉にした。
それ自体が珍しかった。
「でも、カイルさんに認めてもらうために、撤退条件を変えることはできません」
「俺はそんなことを求めていない」
「継続判断を採用しろと言いました」
「正しいと思ったからだ」
「俺も撤退が正しいと思いました」
「だから話にならない」
「そうですね」
リュウジの声は静かだった。
「今は、話が成立していません」
カイルの目に怒りが浮かぶ。
「俺のせいか」
「俺にも原因があります」
「綺麗に半分ずつ分けるな」
「半分とは言っていません」
「なら、どちらが悪い」
「その質問には答えません」
「なぜだ」
「悪い方を決めても、次の訓練で動けないからです」
「また処理するのか」
「必要なので」
「だから認められない」
カイルは吐き捨てるように言った。
「お前は人間を見ていない」
その言葉に、リュウジの表情が固まる。
「判断。条件。役割。必要。全部、正しい言葉だ」
カイルは続ける。
「だが、お前はその言葉で、人間を部品にする」
リュウジは何も言わなかった。
「オスカーは機関。ユアンは通信。セレナは体調。俺は副操縦士。必要な意見だけ拾い、役割だけ果たさせる」
「そんなつもりはありません」
「つもりの話じゃない」
カイルは周囲を指した。
「だから誰もお前を信用できない」
その瞬間。
ソフィアが口を開いた。
「カイルさん。それは違います」
カイルが振り返る。
「何が違う」
「私達全員の意見を、あなたが代弁しないでください」
「さっき不信感があると言っただろ」
「不信感はあります」
リュウジの表情がわずかに動く。
ソフィアは続けた。
「でも、それはカイルさんと同じ理由ではありません」
マーヤも静かに頷く。
「私もです」
ユアンも言う。
「俺も、カイルと同じではない」
オスカーが低く続ける。
「俺もだ」
カイルは全員を見る。
「何が違う」
ソフィアが答える。
「私達は、リュウジさんの判断が見えないことを不安に思っています」
「同じだろ」
「違います」
「どこが」
「見えるようになれば、信頼できる可能性がある」
ソフィアの言葉は明確だった。
「カイルさんは、最初から認めるつもりがありません」
カイルの顔が硬くなる。
「当然だ」
「だから違います」
「こいつが適任ではないからだ」
「まだ判断できません」
「今日で分かっただろ」
「問題があることは分かりました」
「なら」
「カイルさんにも問題があります」
カイルは何も言わなかった。
休憩室の空気が、さらに分かれていく。
リュウジを信頼できない者。
カイルを信頼できない者。
両方を信頼できない者。
誰か一人を中心にまとまる状態ではなかった。
◇
休憩終了直前。
ヴァレン准将から、次の訓練を中止するとの連絡が入った。
「本日の合同シミュレーションは終了する」
画面越しの声は冷たかった。
「午後は個別聞き取りを行う」
カイルが尋ねる。
「後半の操縦交代は?」
「実施しない」
「俺の操縦は評価しないのですか」
「現状の編成では、評価以前の問題がある」
カイルの表情が険しくなる。
「リュウジの訓練だけで終えるのは不公平です」
「公平性の問題ではない」
「俺には操縦責任者としての機会が与えられていたはずです」
「今の状態で操縦責任者へ交代させれば、訓練にならない」
「俺なら統率できます」
ソフィアがわずかに目を伏せた。
ユアンも表情を変える。
カイルはそれに気づかない。
あるいは、気づいても認めない。
ヴァレン准将は静かに言う。
「その確信も含めて、聞き取りを行う」
通信が切れた。
カイルは端末を閉じる。
「最初から決まっていたんだ」
誰に向けるでもなく言う。
「何がですか」
ノアが聞く。
「連盟はリュウジを責任者にする」
「まだ決まったとは——」
「決まっている」
「カイルさん」
「俺の訓練をやらない。それが答えだ」
「今の状態では難しいという話です」
「俺のせいにするのか」
ノアは黙った。
カイルはリュウジを見る。
「お前はいいな」
「何がですか」
「失敗しても、周りが原因を探してくれる」
「成功したとは思っていません」
「それでも席は残る」
「まだ分かりません」
「残る」
カイルは断言した。
「S級だからだ」
リュウジの目がわずかに細くなる。
「資格の話は関係ありません」
「お前にはな」
「カイルさん」
「俺は十一年かけた」
その声には、今日初めて、怒り以外のものが混ざった。
「一つずつ任務を終えた。事故を起こさず、部下を帰し、上官の判断にも従った。責任者候補になるまで十一年だ」
誰も遮らなかった。
「お前は一度の試験で来た」
「はい」
「俺が何年も準備した船へ乗り、中央に座り、俺に従えと言う」
リュウジは何も答えられなかった。
事実だった。
選んだのは連盟。
リュウジが奪ったわけではない。
それでも、カイルから見れば同じだった。
「それで、認められないことが不満か」
カイルが聞く。
「不満です」
リュウジは答えた。
「ですが、認めてほしいとは言いません」
「なぜだ」
「今、言っても意味がないからです」
カイルは冷たく笑った。
「そのとおりだ」
二人の視線がぶつかる。
昨日よりも遠い。
訓練前よりも深い。
互いの考えを知った。
理解した部分もある。
だが、それによって溝は埋まらなかった。
むしろ、なぜ相手が譲らないのかが分かり、さらに深くなった。
カイルは、現場で判断を変えられない責任者を認めない。
リュウジは、撤退条件を感覚で緩める副操縦士へ最終判断を預けられない。
両方とも、自分が船を守ろうとしている。
だからこそ、譲れなかった。
◇
その日の夕方。
個別聞き取りを終えたリュウジは、訓練センターの廊下を一人で歩いていた。
連盟側からは、翌日の予定は追って通知するとだけ告げられた。
操縦責任者の変更。
第一副操縦士の変更。
編成そのものの見直し。
どれも可能性として否定されなかった。
端末に、エリンからの返信が届いていた。
『判断基準が見えないって言われたなら、見せればいいよ。』
続けて、もう一つ。
『でも、全部分かってもらおうとしなくていい。』
さらに。
『リュウジが何を怖がってるのかだけは、ちゃんと言葉にして。』
リュウジは歩みを止めた。
自分が何を怖がっているのか。
船を失うこと。
帰れなくなること。
誰かを残すこと。
判断を誤ること。
だが、それだけではない。
皆が、自分を信じないまま同じ船へ乗ること。
カイルが隣で、命令へ従わないこと。
自分が感情でカイルを外すこと。
あるいは、対立を避けるために、必要な指摘まで言えなくなること。
リュウジは端末へ入力した。
『皆が俺を信じていない状態で出発することが怖いです。』
送信する。
少しして、返信が来た。
『うん。』
それだけだった。
リュウジは画面を見る。
否定しない。
大丈夫とも言わない。
すぐに解決方法を出さない。
ただ、受け取る。
少しして、次の文章が届いた。
『信じてもらう前に、信じられないって言える人達で良かったと思う。』
リュウジは長く画面を見つめた。
不信感は、悪いことだけではない。
黙ったまま船へ乗るより、今、言葉になった方がいい。
だが、言葉になったことで、調査隊がまとまったわけではない。
むしろ、亀裂は明確になった。
カイルはリュウジを認めない。
ベンは撤退判断へ不満を持っている。
アデルとベンの間にも溝ができた。
ユアンは指揮系統を信用できない。
マーヤとオスカーは、リュウジの判断が予測できないことを不安視している。
ノアは、どちらの側にも立てずにいる。
ソフィアは、二人ともこのままでは危険だと考えている。
セレナは、全員の心理負荷がすでに任務へ影響していると記録した。
まだ出発していない。
本番ですらない。
それでも、調査隊はすでに割れ始めていた。
リュウジは再び歩き出した。
明日、操縦責任者の席が残っているかは分からない。
カイルが副操縦士として残るかも分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
今日までのやり方では、この調査隊は未探索領域へ入れない。
操縦技術だけでは、船は飛ばせても、隊は動かせない。
その事実を、リュウジは初めて真正面から突きつけられていた。