結局、何も変わらなかった。
合同シミュレーションの後、宇宙連邦連盟は調査隊の全員に対して個別の聞き取りを行った。
リュウジは、自分の判断基準を他の隊員へ十分に示せていなかったことを認めた。
カイルは、操縦責任者への異議を取り下げなかった。
ユアンは、指揮命令が競合した場合、通信士として護衛艦へ何を伝えるべきか判断できなくなると訴えた。
マーヤは、操縦責任者の優先順位が予測できないままでは、システム側から先回りした準備ができないと報告した。
オスカーも、リュウジがどこまで機関を温存し、どこから損耗を許容するのか分からないと述べた。
アデルとベンは、観測優先順位について互いに譲らなかった。
ノアは、リュウジとカイルの双方に合理性があると話した。
ソフィアは、その曖昧な状態のまま二人を隣り合わせに置くこと自体が危険だと指摘した。
セレナは、すでに隊員達の心理的負荷が通常値を超え、判断速度と報告頻度へ影響を与えていると記録した。
誰か一人だけに問題があるわけではない。
それが、連盟側の結論だった。
だからこそ、誰か一人を外して終わらせることもできなかった。
リュウジを操縦責任者から外せば、適性試験で確認された未探索領域への対応能力を捨てることになる。
カイルを第一副操縦士から外せば、十一年間にわたる危険航路の経験と、今回の調査船に対する事前知識を失う。
二人を入れ替えても、問題の形が変わるだけだった。
カイルが操縦責任者となれば、リュウジが異議を出さない保証はない。
リュウジが第一副操縦士として黙って従うことはできても、事前に決めた撤退条件を現地判断で緩めることには反対する。
その時、今度は立場が逆転するだけだった。
連盟は追加の協議を行った。
訓練計画の延長。
出発日の延期。
操縦編成の再選抜。
様々な案が検討された。
だが、北部未探索領域を観測できる時期には限りがあった。
重力乱流が比較的安定し、周辺天体からの電磁干渉が弱まる期間。
その窓を逃せば、次にまとまった調査が可能になるのは一年以上先になる。
調査計画はすでに何年も遅れていた。
これ以上の延期は認められない。
最終的に連盟が選んだのは、最も単純で、最も危うい方法だった。
編成を変えない。
調査隊は予定どおり出発する。
ただし、操縦責任者の命令権を改めて明文化する。
第一副操縦士は異議を一度だけ明確に提示できる。
操縦責任者が却下した場合、緊急停止に値する新情報が発生しない限り、命令へ従う。
全ての異議、却下理由、入力遅延は記録される。
命令系統に重大な混乱が生じた場合、護衛巡洋艦ヴァルキュリアのエドガー・ロウ大佐が、艦隊全体の航行中止を命じる。
規則は増えた。
記録項目も増えた。
だが、人間関係は何一つ変わらなかった。
カイルは最後まで、リュウジを操縦責任者として認めなかった。
リュウジもまた、カイルへ歩み寄るために、自分の判断基準を変えることはしなかった。
調査隊の他の者達も、二人のどちらかを信頼するところまでは至らなかった。
互いの役割だけは理解した。
守るべき規則も確認した。
だが、それだけだった。
信頼ではない。
合意でもない。
船を動かすために必要な最低限の手順が整ったにすぎなかった。
その状態のまま、出発の日が来た。
◇
宇宙連邦連盟本部外縁部。
長距離船用の発着区画には、三隻の艦が並んでいた。
中央に調査船。
その左後方に護衛巡洋艦ヴァルキュリア。
右前方に高速戦術艦アストライア。
三隻とも、通常の旅客航路で使用される船とは明らかに異なる外観をしていた。
華やかな塗装はない。
大きな窓もない。
機能を優先した無骨な船体。
装甲板の継ぎ目。
多数のセンサー。
緊急牽引装置。
外部作業用の把持機構。
未探索領域から帰還するために必要なものだけが、船体の表面に並んでいる。
発着区画の上方では、巨大な作業用アームが最後の補給コンテナを調査船へ固定していた。
食料。
飲料水。
医療用品。
交換部品。
探査機。
中継器。
予備酸素。
二か月分の生活を支える物資。
その量は、リュウジがこれまで乗ってきた旅客船とは比較にならなかった。
旅客船は、次の港へ着くことを前提にしている。
この調査船は、次の港が存在しないことを前提に作られていた。
発着区画の一角に、調査隊の十人が集まっている。
だが、会話はほとんどなかった。
マーヤは端末で、積載された予備装置の識別番号を確認している。
オスカーは作業員と共に船体後部を歩き、推進器の目視確認を行っていた。
セレナは隊員全員の出発前データを一人ずつ確認している。
ユアンは護衛艦との通信接続表を見直していた。
アデルとベンは、同じ観測端末を使いながらも、互いに必要以上の言葉を交わさない。
ノアは積載一覧を確認している。
ソフィアは副操縦士用の航行資料を読み直していた。
カイルは、少し離れた場所で調査船を見上げている。
リュウジは全員の様子を見ていた。
誰も準備を怠ってはいない。
仕事は進んでいる。
役割も果たしている。
それでも、一つの隊には見えなかった。
同じ船へ乗る十人が、たまたま同じ場所で別々の仕事をしているだけだった。
セレナがリュウジの前へ来る。
「体調確認を行います」
「お願いします」
「睡眠時間は六時間二十八分」
「はい」
「途中覚醒が二回あります」
「出発前なので」
「理由を聞いているのではありません」
「分かっています」
「朝食は?」
「食べました」
「内容は?」
リュウジは一つずつ答えた。
パン。
卵。
温野菜。
スープ。
果物。
水分量。
セレナは記録と照合する。
「申告内容と一致しています」
「ありがとうございます」
「ただし、心理負荷は高いままです」
リュウジは少し黙った。
「出発できない数値ですか」
「数値だけなら、出発可能です」
「では問題ありません」
セレナの表情がわずかに厳しくなる。
「その言い方をやめてください」
「何がですか」
「出発可能であることと、問題がないことは同じではありません」
リュウジはセレナを見る。
「皆も同じですか」
「程度に差はあります」
「カイルさんは?」
「個人の記録内容は答えられません」
「そうですね」
「ただし、操縦区画全体として、心理的な負荷が高いことは報告できます」
セレナは周囲を見る。
「この状態が長く続けば、報告の遅れ、確認の重複、食欲低下、睡眠不足が発生する可能性があります」
「分かりました」
「分かっただけでは足りません」
「では、どうすればいいですか」
セレナはすぐには答えなかった。
その問いを、前にも聞いた。
カイルとの関係をどうすればいいのか。
隊員の不信感をどうすればいいのか。
リュウジは、自分で考えなければならないことを、時折、正解を求めるように他人へ聞く。
だが、今回はセレナも答えを持っていなかった。
「今は、異常を隠さないでください」
「はい」
「あなた自身の異常だけではありません」
「隊内の変化も?」
「はい」
「それは俺の判断で報告していいんですか」
「判断せずに報告してください」
リュウジの眉が少し動く。
「判断せずに?」
「誰かの返事が遅い。食事を残した。報告が減った。会話を避けている。それを、問題だと決めつけずに伝えてください」
「分かりました」
「解決しようとしなくていいんです」
リュウジは少しだけ視線を落とした。
エリンにも、似たことを言われた。
全部を一人で処理しない。
全て分かってもらおうとしない。
何を怖がっているのかだけは、言葉にする。
アドバイスは受けた。
頭では理解している。
だが、それで何かが変わったわけではない。
カイルの反発は消えなかった。
隊員達の不信感も残った。
リュウジ自身も、どう話せばいいのか分からないままだった。
「リュウジさん」
セレナが呼ぶ。
「はい」
「今、何を考えていますか」
リュウジは一瞬、いつものように答えを整えようとした。
出発準備。
航路。
調査計画。
体調。
そうした説明ならできる。
だが、セレナが聞いているのは、それではない。
「何も変わらなかったと思っています」
リュウジは答えた。
セレナは黙って聞く。
「エリンさんにも、皆に判断基準を見せればいいと言われました」
「はい」
「見せるつもりです」
「はい」
「ですが、カイルさんは俺が何を考えていても認めないと思います」
「そうかもしれません」
「他の皆も、まだ俺を信頼していません」
「はい」
否定しない。
大丈夫とも言わない。
リュウジは少しだけ息を吐いた。
「このまま出発することが怖いです」
「それを、出発後も言ってください」
「誰にですか」
「必要な時に、必要な人へ」
「それで変わりますか」
「分かりません」
セレナは静かに答えた。
「変わらないかもしれません」
リュウジはセレナを見る。
「それでも?」
「言わなければ、もっと分かりません」
セレナは端末へ記録を残す。
「出発可能です」
今度は、問題ないとは言わなかった。
◇
カイルは、調査船の船体を見上げていた。
自分が何年も関わってきた船。
初期設計の段階から、操縦席の配置へ意見を出した。
推進器の応答速度。
副操縦士席からアクセスできる機能。
護衛艦との編隊間隔。
緊急時の手動切替。
何度も試験を行った。
何度も不具合を報告した。
一つずつ改善させた。
いずれ、この船の中央席に座るつもりだった。
それが当然だと思っていた。
だが、今、自分が乗るのは右側の席。
第一副操縦士席。
中央には、後から来たS級パイロットが座る。
カイルは、それをまだ受け入れていなかった。
受け入れる必要があるとも思っていない。
連盟からは、指揮系統を守るよう命じられた。
異議は一度。
却下された後は従う。
その命令自体には従う。
軍や連盟では、指揮命令系統を無視すれば組織が崩れることを、誰より知っている。
だが、従うことと、認めることは違う。
リュウジの命令には従う。
しかし、操縦責任者として認めるつもりはない。
少なくとも今は。
カイルの隣へノアが来た。
「いよいよですね」
「そうだな」
「体調はどうですか」
「セレナにも同じことを聞かれた」
「問題ありませんか」
「お前も監視役か」
ノアの表情が少し固くなる。
「心配しただけです」
「余計だ」
ノアは黙った。
訓練後から、二人の会話も減っていた。
カイルはノアがリュウジ側へついたとは思っていない。
だが、自分の側でもないと感じている。
どちらが正しいか答えなかった。
規定上はリュウジの撤退が正しい。
現場では再評価の余地があった。
その曖昧な答えを、カイルは今も納得していなかった。
「ノア」
「はい」
「本番で判断が割れた時、お前はどうする」
ノアは少し考えた。
「命令系統に従います」
「誰の?」
「操縦責任者です」
カイルの目が細くなる。
「リュウジか」
「今の操縦責任者はリュウジさんです」
「俺が間違っていると言っても?」
「異議の内容を確認します」
「それでもリュウジが却下したら?」
「従います」
「船が危険になると思っても?」
「新しい情報があれば、再度報告します」
規則どおりの答えだった。
カイルは鼻で息を吐く。
「連盟に言われたままだな」
「今は、それ以外に動く方法がありません」
「考えることをやめるのか」
「違います」
ノアの声がわずかに強くなる。
「判断が割れた状態で、それぞれが正しいと思う行動を取れば、船は動きません」
「間違った命令でもか」
「間違っていると決めるのは、カイルさん一人ではありません」
カイルがノアを見る。
以前なら、ノアはここまで強く言わなかった。
訓練でのやり取りが、ノアにも影響を与えている。
カイルへの不信。
それが、言葉の端に表れていた。
「俺を信用できないか」
カイルが聞いた。
ノアはすぐには答えなかった。
「操縦技術は信用しています」
「それ以外は?」
「今は、分かりません」
カイルは短く笑った。
「正直になったな」
「曖昧に答えたことで、以前、逃げるなと言われましたから」
「根に持っているのか」
「持っていません」
「顔に出ている」
「カイルさんほどではありません」
ノアは言った後、自分でも驚いたように口を閉じた。
カイルの表情が硬くなる。
だが、怒鳴らなかった。
「先に行く」
「はい」
カイルは一人で乗船口へ向かった。
ノアは、その背中を追わなかった。
◇
出発前、調査隊は一度だけ地上側との個人通信を許可された。
機密任務のため、調査内容や航路詳細は話せない。
通信可能時間は五分。
その後、個人端末は船内通信網へ接続され、外部とのやり取りは全て連盟の中継回線を通す。
リュウジの端末には、エリンからの着信が表示された。
応答する。
画面にエリンが映る。
十四班の事務所ではない。
スペースホープの静かな通路。
周囲に人はいなかった。
「もう乗った?」
「はい。今、居住区画にいます」
「出発前の確認は終わった?」
「あと三十分ほどです」
「朝ご飯は?」
「食べました」
「全部?」
「全部です」
「本当に?」
「セレナさんにも確認されました」
エリンが少し笑う。
「じゃあ、そこは安心していいね」
「はい」
短い沈黙が落ちる。
五分しかない。
話すことは多いはずだった。
だが、どこから話せばいいのか分からない。
エリンが先に聞く。
「皆とは話せた?」
リュウジは少しだけ視線を落とした。
「必要な確認はしました」
「それは、話せてない時の言い方だね」
「そうですか」
「うん」
リュウジは黙る。
エリンは急かさない。
「カイルさんとは?」
「指揮命令系統については確認しました」
「気持ちは?」
「変わっていないと思います」
「認めないまま?」
「はい」
「リュウジは?」
「俺も、カイルさんの判断を全面的には信頼できません」
エリンの表情が少しだけ変わった。
「そっか」
「すみません」
「何で謝るの」
「アドバイスをもらったのに、何も変えられませんでした」
「私、変えてって言った?」
リュウジが顔を上げる。
「判断基準を見せればいいと」
「見せたら、必ず信じてもらえるとは言ってないよ」
「ですが」
「リュウジ」
エリンの声は穏やかだった。
「人間関係って、一回ちゃんと話したら全部解決するものじゃないよ」
「分かっています」
「分かってる顔じゃない」
「……」
「アドバイスを使って、結果が出なかったから失敗って思ってるでしょう」
否定できなかった。
エリンは少し息を吐く。
「何も変わってなくても、前より分かったことはあるんじゃない?」
「カイルさんが、俺の操縦技術ではなく、責任者として認めていないことは分かりました」
「うん」
「他の皆も、それぞれ違う理由で不信感を持っています」
「うん」
「俺の判断が見えないことを、不安に思っています」
「それも分かったんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、本当に何も変わってないのかな」
リュウジは答えなかった。
関係は改善していない。
空気も悪い。
信頼もない。
だが、何に不信を抱かれているのかは、以前より見えている。
それを変化と呼んでいいのかは分からない。
「無理に仲良くならなくてもいいよ」
エリンが言った。
「ですが、同じ船で二か月です」
「だからって、出発前に全員で笑えるようになる必要はないでしょう」
「険悪なままでいいとは思えません」
「良くはないよ」
エリンは否定しなかった。
「でも、悪い状態を悪いって分かってるなら、まだいい」
「そうでしょうか」
「分からないふりをして出発するよりはね」
通信画面の端に、残り時間が表示された。
二分三十秒。
エリンも気づいた。
「リュウジ」
「はい」
「何を怖がってる?」
以前と同じ問い。
リュウジは、今度は考えすぎなかった。
「皆が互いを信用しないまま、未探索領域へ入ることです」
「うん」
「俺とカイルさんの対立で、他の人の報告が遅れることです」
「うん」
「俺がカイルさんへの反発で、必要な意見まで切ることです」
「うん」
「カイルさんが、俺の命令に従うふりをして、自分で判断することです」
エリンは少しだけ眉を寄せた。
「それは怖いね」
「はい」
「じゃあ、怖いって忘れないで」
「忘れない?」
「怖くないふりをすると、気づけなくなるから」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「ちゃんと帰ってきて」
リュウジは胸元へ手を当てた。
制服の内側。
帰還守がある。
「はい。エリンさん」
「絶対、とは言わなくていいよ」
リュウジが少し驚く。
エリンは柔らかく笑った。
「絶対って言わせたら、無理するでしょう」
「……そうかもしれません」
「だから、帰る判断をして」
「はい」
「食べて」
「はい」
「寝て」
「はい」
「一人で全部やろうとしないで」
「はい」
「返事だけになってる」
「すみません」
「それもいつもどおりだね」
エリンが少し笑う。
リュウジも、ほんのわずかに表情を緩めた。
通信時間、残り三十秒。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「はい」
「待ってるから」
通信が終了した。
画面が暗くなる。
リュウジはしばらく、その画面を見ていた。
アドバイスを受けた。
自分が何を怖がっているかも言葉にした。
それでも、船内の状況は変わらない。
扉の向こうには、自分を認めていないカイルがいる。
自分をまだ信頼していない隊員達がいる。
リュウジは端末を閉じた。
そして、操縦区画へ向かった。
◇
出発十五分前。
全員が持ち場へ着いていた。
中央の主操縦席にリュウジ。
右側の第一副操縦士席にカイル。
左側にノア。
後方の第三副操縦士席にソフィア。
システム席にマーヤ。
通信席にユアン。
機関席にオスカー。
中央後方にセレナ。
観測区画にはアデルとベン。
護衛艦二機との通信も接続された。
「こちらヴァルキュリア。全系統正常」
エドガー大佐の低い声が入る。
「こちらアストライア。出発準備完了」
ミレイユ少佐が続く。
ユアンが復唱する。
「護衛艦二機、出発準備完了」
リュウジは全体表示を見る。
機関。
通信。
生命維持。
観測機器。
積載物。
全て緑。
数字の上では、問題はない。
「各担当、最終確認をお願いします」
リュウジが言う。
マーヤが答える。
「システム統合正常。主系統、予備系統ともに異常ありません」
オスカーが続く。
「主推進器、補助推進器、冷却、重力制御、全て正常」
ユアンが答える。
「連盟本部、ヴァルキュリア、アストライアとの通信正常。緊急回線待機」
セレナが言う。
「操縦区画乗員、全員出発可能。観測区画も問題ありません」
アデルが答える。
「重力観測装置、起動完了」
ベンが続く。
「外部探査機、全機待機状態です」
ノアが言う。
「航法支援正常。予定航路入力済み」
ソフィアが答える。
「予備航路三案、緊急帰還航路二案、入力済みです」
最後にカイル。
「第一副操縦士席、異常なし」
必要な報告だけ。
声に感情はない。
リュウジは正面を見る。
「宇宙連邦連盟管制。こちら北部未探索領域調査船。出発準備完了しました」
管制から応答が入る。
「北部未探索領域調査船。発進を許可する」
「了解しました」
リュウジは推進出力を上げる。
船体全体へ、低い振動が広がった。
固定装置が順に解除される。
外部カメラには、発着区画の誘導灯が並んでいる。
「推進出力五パーセント」
オスカーが報告する。
「船体固定、全解除」
マーヤが続く。
「ヴァルキュリア、追従開始」
ユアンが言う。
「アストライア、右前方へ移動」
巨大な調査船が、ゆっくりと発着区画を離れた。
誰も歓声を上げなかった。
誰も互いの顔を見なかった。
出発の瞬間にあるはずの高揚は、この船にはなかった。
あるのは緊張だけ。
二か月に及ぶ未探索領域調査。
その最初の航行が始まった。
◇
予定航路では、宇宙連邦連盟本部を出発してから二日間、既存の管制網が整備された通常航路を北上する。
その先にあるのが、セーシング領域だった。
正式には北部セーシング領域。
既知領域と未探索領域の間に位置する、広大な調査済み空域。
完全な未探索領域ではない。
航路標識もある。
通信中継器も稼働している。
救助要請も届く。
ただし、南部や中央部の主要航路に比べれば、利用船は少ない。
通信間隔も長い。
観測データの更新頻度も低い。
そして、その北端を越えれば、連盟の管理網は急速に薄くなる。
北部セーシング領域は、未探索領域へ入る前の最後の安全圏だった。
出発から二時間。
調査船は予定航路を安定して進んでいた。
目立った異常はない。
重力偏差。
通信遅延。
機関負荷。
全て正常範囲。
それでも、コックピットの空気は重かった。
必要な報告は行われている。
だが、それ以外の会話がない。
リュウジが進路を〇・一度修正する。
カイルは何も言わない。
ノアが航路差分を確認する。
ソフィアが予備航路を更新する。
マーヤはシステム負荷を記録。
オスカーは推進器の振動値を見ている。
ユアンは護衛艦二機との通信を維持する。
セレナは、報告の間隔と全員の生体情報を同時に確認していた。
全員が仕事をしている。
それなのに、どこか噛み合っていない。
リュウジは正面画面を見たまま言う。
「三十分後に、右前方の中継器を通過します」
「確認しています」
カイルが答える。
「通過後、航路を北北西へ三度変更します」
「予定表どおりだ」
「はい」
会話はそこで終わる。
リュウジは、判断基準を見せなければならないと思っていた。
なぜ三度なのか。
なぜその時刻なのか。
説明すべきかもしれない。
だが、これは事前に共有された予定航路。
カイルも知っている。
改めて説明すれば、自分を納得させるために話しているようにも見える。
何も言わなければ、また判断基準が見えないと思われるかもしれない。
リュウジは迷った。
その間に、カイルが言う。
「何かあるのか」
「いえ」
「なら操縦に集中しろ」
「しています」
「今、進路変更を迷っただろ」
「迷っていません」
「では何を考えていた」
リュウジは少し黙る。
カイルが冷たく笑う。
「それが見えないと言われたんじゃないのか」
その言葉には、明確な皮肉があった。
リュウジの声も少し硬くなる。
「進路変更の理由を説明するべきか考えていました」
「予定どおりの航路だ」
「はい」
「説明は必要ない」
「そう判断しました」
「なら、なぜ黙った」
「カイルさんに、また何か隠していると思われる可能性を考えました」
カイルが顔を向ける。
「俺のせいで操縦に集中できないと言いたいのか」
「そうは言っていません」
「同じだ」
「違います」
「なら説明しろ」
「カイルさんが俺の判断を疑っている状態なので、必要以上に説明を意識しています」
「必要以上だと分かっているならやめろ」
「ですが、説明しなければ信頼できないと言われました」
「俺は説明すれば信頼するとは言っていない」
リュウジの指が一瞬止まる。
「分かっています」
「なら、俺を基準にするな」
「カイルさんだけではありません」
カイルの表情がさらに険しくなる。
「他の連中にも疑われていると言いたいのか」
コックピット内の空気が固まった。
マーヤが画面から目を離さない。
ユアンは通信波形を見たまま、二人の会話を聞いている。
ノアは何か言おうとして、止めた。
ソフィアは二人を見ていた。
リュウジは、言葉を選び直す。
「訓練で、皆から判断基準が見えないと言われました」
「知っている」
「だから、共有方法を考えています」
「今、考えることか」
「航行中だからこそです」
「通常航路で何を共有する」
「未探索領域へ入る前に、慣れる必要があります」
「今さら訓練の続きをするつもりか」
「本番です」
「なら余計なことをするな」
「余計ではありません」
カイルの声が低くなる。
「予定航路を予定どおり飛ぶ。それだけの場面で説明が必要なら、未探索領域では何も判断できない」
「説明しながら判断します」
「できると思っているのか」
「必要です」
「全てを話している間に、状況は変わる」
「全ては話しません」
「では、何を話す」
リュウジは答えようとして、言葉に詰まった。
何を、どこまで共有するのか。
まだ決め切れていない。
カイルはその沈黙を見逃さなかった。
「基準もないのに、共有すると言っていたのか」
「作りながら調整します」
「本番で?」
「訓練では足りませんでした」
「足りない状態で出発したのは誰だ」
「連盟の判断です」
「また連盟か」
カイルは吐き捨てるように言う。
「責任者なら、自分の判断で延期を求めることもできた」
リュウジがカイルを見る。
「カイルさんも出発に同意しました」
「俺は準備できている」
「俺達は準備できていなかったのではないですか」
「お前と一緒にするな」
「同じ船です」
二人の声が少しずつ強くなる。
セレナが口を開く。
「会話負荷が上昇しています」
カイルが言う。
「まだ始まったばかりだ」
「だから報告しています」
リュウジは一度、息を吐く。
「この話は後にします」
カイルが鼻で笑う。
「また後か」
「今は通常航路の操縦を優先します」
「最初からそうしろ」
会話が終わる。
だが、何も解決していない。
むしろ、出発から二時間で、訓練時と同じ対立が再現された。
ソフィアが自分の端末へ短い記録を残す。
【操縦責任者と第一副操縦士、通常航行中にも対立】
それを見たノアは、何も言わなかった。
◇
出発から六時間。
最初の交代時間が近づいた。
調査船は二十四時間運航を続ける。
主操縦席は、リュウジとカイル、ノア、ソフィアが交代で担当する。
ただし、操縦責任者そのものが変わるわけではない。
リュウジが休息中も、重大判断が必要になれば呼び戻される。
カイルは第一副操縦士として、リュウジの次に主操縦を担当する。
それも、隊内の緊張を高めていた。
「交代時刻です」
ソフィアが言う。
リュウジは頷く。
「カイルさんへ主操縦を引き継ぎます」
「了解」
カイルは短く答えた。
二人は引継ぎ手順を開始する。
現在位置。
航路差分。
推進出力。
重力偏差。
通信状態。
護衛艦の位置。
観測機器の稼働状況。
船内異常なし。
全て、規定どおり。
リュウジは最後に言う。
「一時間四十分後、中継器通過。その後、北北西へ三度変更します」
「分かっている」
「変更前に、アストライアとの距離を二百縮めてください」
カイルが眉を寄せる。
「理由は?」
リュウジは一瞬止まる。
今度は説明する。
「中継器通過時、右側から民間航路が合流します。アストライアが右前方に広がったままだと、合流船の回避航路と重なる可能性があります」
「合流船は管制指示に従う」
「通信遅延が発生する可能性があります」
「この宙域で遅延はほとんどない」
「ほとんど、です」
「予定にない変更だ」
「安全余裕を増やします」
カイルは航路図を見る。
「必要ない」
「俺は必要だと判断しました」
「今、操縦するのは俺だ」
リュウジの表情がわずかに硬くなる。
「操縦担当はカイルさんです。操縦責任者は俺です」
「分かっている」
「では、距離を二百縮めてください」
「異議を出す」
「どうぞ」
カイルの目が鋭くなる。
「接近させれば、アストライアの先行警戒範囲が狭くなる。合流船の通信は管制側で管理されている。通常航路で軍用艦の機能を落とす必要はない」
「異議を確認しました」
「判断は?」
「却下します」
「早いな」
「考えていました」
「俺が言う前から?」
「はい」
「異議を聞く意味がない」
「新しい情報はありませんでした」
「俺の経験も情報だ」
「既に考慮しています」
「何も聞いていないのに?」
「カイルさんがそう言う可能性は想定していました」
カイルの表情が変わる。
「最初から、俺の意見を使うつもりがなかったのか」
「違います」
「同じだ」
「想定した内容と同じだったので、判断が変わらなかっただけです」
「俺の意見を、言う前から処理したのか」
「処理という言い方はしていません」
「お前は、いつもそうだ」
カイルの声に怒りが混じる。
「相手が何を言うか先に予測して、必要か不要かを決める」
「判断を早くするためです」
「人間と話しているんだぞ」
リュウジも言葉を強める。
「今は操縦の引継ぎ中です」
「だから何だ」
「必要な判断をしています」
「俺の意見は必要ではないと?」
「今回の異議では、判断を変える理由になりませんでした」
カイルはリュウジを睨む。
「了解。操縦責任者の命令に従う」
以前と同じ、平坦な声。
従う。
だが、認めてはいない。
リュウジは主操縦席を立った。
カイルが座る。
座席の認証が切り替わる。
「主操縦、カイルへ移管」
マーヤが確認する。
「第一副操縦、ノア」
ノアが答える。
「了解」
リュウジは後方へ下がる。
カイルはすぐに操縦系統を確認し始めた。
入力に迷いはない。
手順も速い。
機体の反応を知り尽くしている。
リュウジはその操縦を見て、カイルの技術が高いことを改めて理解した。
余計な入力がない。
推進器の使い方も丁寧。
船体の慣性を利用し、燃料消費を抑えている。
自分とは違うが、優れた操縦だった。
だが、それを口にすれば、カイルはどう受け取るだろう。
上から評価されたと思うかもしれない。
リュウジは何も言わなかった。
その沈黙を、カイルは別の意味で受け取った。
「何か問題があるか」
「ありません」
「なら見るな」
「引継ぎ後の確認です」
「終わっただろ」
「はい」
「休め」
命令に近い言葉だった。
リュウジの表情がわずかに固くなる。
「言われなくても休みます」
カイルは正面を向いたまま答える。
「なら行け」
リュウジは何も言わず、コックピットを出た。
扉が閉まった後。
ノアが小さく息を吐いた。
「必要な言い方でしたか」
カイルは正面を向いたまま答える。
「何がだ」
「休めと言った後です」
「操縦交代は終わった」
「それは分かります」
「なら問題ない」
「カイルさん」
「操縦中だ」
ノアは黙った。
先ほど、カイル自身がリュウジへ、通常航行で余計な説明をするなと言っていた。
今、同じ言葉で会話を切られた。
ノアは正面画面へ視線を戻す。
カイルの操縦技術は信用できる。
だが、人間として一緒に働けるかは分からない。
その思いが、さらに強くなっていた。
◇
居住区画。
リュウジは個室へ戻らず、共用食堂へ向かった。
休息前に食事を取るよう、セレナから指示されている。
食堂には、マーヤとベンがいた。
二人は同じ机に座っているが、会話はない。
マーヤは端末でシステムログを確認。
ベンは観測予定表を読んでいる。
リュウジが入ると、二人とも一度だけ顔を上げた。
「お疲れ様です」
リュウジが言う。
「お疲れ様です」
マーヤが答える。
ベンも遅れて言う。
「お疲れ様です」
それだけだった。
リュウジは食事を受け取り、少し離れた席へ座ろうとした。
マーヤが声をかける。
「リュウジさん」
「はい」
「こちらへ座りますか」
誘いというより、確認に近い言い方だった。
リュウジは少し迷い、二人の机へ向かった。
「失礼します」
三人で食事を取る。
音が少ない。
食器の触れる音。
端末の小さな通知音。
船体の低い振動。
会話は続かない。
リュウジは、何か話すべきだと思った。
判断基準を見せる。
自分が何を考えているか伝える。
だが、食事中に何を話せばいいのか分からない。
「システムに問題はありませんか」
リュウジが聞く。
マーヤが答える。
「現時点ではありません」
「通常航路なので、負荷も低いですか」
「はい」
会話が終わる。
リュウジはベンを見る。
「観測機器は?」
「正常です」
「この航路でも観測を行うんですか」
「基準値の取得だけです」
「そうですか」
また、会話が終わる。
マーヤが端末を閉じた。
「無理に話さなくてもいいと思います」
リュウジの手が止まる。
「無理に見えましたか」
「見えました」
「すみません」
「謝ることではありません」
「皆と話す必要があると思っています」
ベンが顔を上げる。
「信頼を得るためですか」
「はい」
ベンは少しだけ眉を寄せた。
「それを目的に会話されると、こちらも構えます」
リュウジは何も言えなかった。
ベンは続ける。
「私は、あなたを嫌っているわけではありません」
「分かっています」
「分かっていないと思います」
「では、どう思っているんですか」
「判断できないだけです」
ベンは端末を置いた。
「訓練で観測を八二パーセントで切られたことには、今も納得していません」
「はい」
「ですが、撤退条件を守った理由は理解しています」
「はい」
「理解と納得は別です」
「分かります」
「本当に?」
リュウジは少し黙る。
「カイルさんも、同じことを考えていると思います」
ベンの表情がわずかに変わる。
「私をカイルさんと同じにしないでください」
「すみません」
「また謝る」
「では、何と答えればいいですか」
ベンは少し苛立ったように息を吐いた。
「そうやって正解を求めるところです」
リュウジの表情が固くなる。
マーヤが二人の間へ入る。
「ベンさん。言い方が強いです」
「ですが事実です」
「事実でも、伝え方はあります」
「訓練では、伝え方を考えている間に撤退させられました」
空気がさらに悪くなる。
マーヤは黙った。
リュウジはベンを見る。
「撤退判断は変えません」
「知っています」
「ですが、観測の価値を軽く考えているわけではありません」
「それも聞きました」
「では」
「だから、今は判断できないと言っています」
ベンの声は冷たくなかった。
だが、距離があった。
「あなたが本当に研究者の意見を必要としているのか。結局、安全判断を補強するためだけに使うのか。それを見ています」
「安全判断だけではありません」
「なら、未探索領域で示してください」
ベンは食事を終え、立ち上がった。
「先に戻ります」
そのまま食堂を出ていく。
扉が閉まる。
リュウジは食事へ視線を落とした。
マーヤが静かに言う。
「今のは、リュウジさんだけが悪いわけではありません」
「ですが、また話せませんでした」
「話しました」
「悪化しました」
「それでも、話したことには変わりません」
リュウジは少しだけ笑おうとした。
だが、上手くいかなかった。
「エリンさんにも、似たことを言われました」
「チーフパーサーの方ですか」
「はい」
「信頼しているんですね」
「はい」
「その方とは、最初から話せたんですか」
リュウジは考える。
最初からではない。
エリンにも、何度も心配をかけた。
必要なことを言わず、無理をした。
自分で判断できると思っていた。
言葉にしなくても分かってもらえると、どこかで甘えていた。
「いいえ」
「では、時間が必要なのでは?」
「未探索領域へは二日後に着きます」
「二日で信頼を作る必要はありません」
「ですが、二日後には必要です」
マーヤは少し黙った。
「それは、私達も同じです」
「マーヤさんも?」
「はい」
マーヤは端末を見た。
「私も、リュウジさんをまだ信用できません」
はっきりした言葉だった。
リュウジの表情が少し硬くなる。
「ただし」
マーヤは続ける。
「カイルさんも信用できません」
リュウジが顔を上げる。
「訓練では、二人のどちらに合わせるべきか迷いました」
「はい」
「今も同じです」
「命令系統は俺です」
「規則上は」
その言い方は、カイルと同じだった。
リュウジは何も言わない。
「ですが、私は規則だけで二か月働くつもりはありません」
マーヤは静かに言う。
「二人のどちらが正しいかではなく、どちらが自分の判断を修正できるかを見ます」
「修正?」
「間違えた時にです」
「俺が間違えることを前提に?」
「全員、間違えます」
マーヤは当然のように答えた。
「システムエンジニアも。操縦士も。研究者も。通信士も」
「はい」
「私が見たいのは、間違えない人ではありません」
「では?」
「間違いが分かった後に、何をする人かです」
マーヤは端末を持って立ち上がった。
「今のところ、二人とも自分が間違っているとは思っていません」
「そうですね」
「だから、信用できません」
マーヤも食堂を出ていった。
リュウジは一人、残された食事を見た。
まだ半分近く残っている。
食欲はなかった。
だが、食べなければ、セレナに指摘される。
エリンにも、全部食べるよう言われている。
リュウジは箸を取り直した。
食事を続ける。
味は、ほとんど分からなかった。
◇
出発から十三時間。
調査船は夜間運航体制へ移った。
宇宙に昼夜はない。
だが、乗員の生活リズムを守るため、船内照明は時間帯に合わせて調整される。
共用区画の明かりは落とされ、通路も夜間照明へ変わった。
主操縦はノア。
第一副操縦はソフィア。
カイルは休息時間。
リュウジも個室へ戻っていた。
だが、眠れなかった。
ベッドへ横になっても、昼間の会話が頭に残る。
ベン。
マーヤ。
カイル。
何を言っても、信頼には繋がらない。
話そうとすれば、目的を疑われる。
黙れば、判断が見えないと言われる。
説明すれば、上から評価しているように受け取られる。
説明しなければ、独断に見える。
リュウジは目を閉じた。
エリンの言葉を思い出す。
何も変わっていなくても、前より分かったことはある。
悪い状態を悪いと分かっているなら、まだいい。
本当にそうなのだろうか。
問題を知っているだけで、未探索領域を飛べるのか。
個室の呼び出し音が鳴った。
「リュウジさん」
セレナの声。
リュウジは応答する。
「はい」
「まだ眠っていませんね」
「今から寝ます」
「三十分前にも同じことを言いました」
「すみません」
「個室へ入ってもいいですか」
「はい」
扉が開く。
セレナが端末を持って入ってきた。
「照明を落としてください」
リュウジが照明を少し暗くする。
セレナは椅子へ座った。
「考え事ですか」
「はい」
「何を?」
「皆との関係です」
「今、解決できますか」
「できません」
「では、考えるのを止めてください」
「止められません」
「なら、端末へ書いてください」
「何をですか」
「今考えていることを全部です」
「記録するんですか」
「私には見せなくて構いません」
「意味がありますか」
「頭の中だけで繰り返すよりはあります」
リュウジは少し迷い、端末を開いた。
文章を入力する。
カイルを信頼できない。
カイルも自分を認めない。
ベンは観測を軽視していると思っている。
マーヤは、自分もカイルも信用していない。
ノアは板挟み。
ソフィアは二人を危険だと考えている。
ユアンは命令の競合を恐れている。
オスカーの考えはまだ十分に聞けていない。
アデルとベンの対立も残っている。
自分は全員をまとめられていない。
文字にしても、問題は消えない。
だが、頭の中で渦巻いていたものが、少しだけ外へ出た。
「書きました」
「今、それを解決する必要はありますか」
「ありません」
「明日の朝でも残っていますか」
「はい」
「では、明日考えてください」
「簡単ですね」
「簡単ではありません」
セレナは静かに答えた。
「今休むことも、任務です」
「はい」
「返事だけではなく、実行してください」
「努力します」
「努力ではなく、寝てください」
エリンと同じ言い方だった。
リュウジは少しだけ表情を緩める。
「分かりました」
「何か面白いことがありましたか」
「似たことを言われました」
「エリンさんに?」
「はい」
セレナは少しだけ笑った。
「では、二人分の指示です」
「はい」
セレナが個室を出ていく。
リュウジは照明を消した。
それでもすぐには眠れなかった。
だが、先ほどよりは呼吸が落ち着いていた。
◇
出発から二十時間。
最初の航行日は、異常なく終わろうとしていた。
機体に問題はない。
護衛艦二機も正常。
通信も安定。
予定航路からのずれもほぼない。
客観的には、順調な航行だった。
しかし、隊内の空気は悪化していた。
食事時間は自然に分かれ始めた。
カイルはノアやソフィアと時間が重なっても、一人で食べる。
アデルとベンは、観測内容に必要な会話だけを行う。
ユアンはコックピット外ではほとんど口を開かない。
オスカーは機関区画にいる時間を増やした。
マーヤも食事を自席へ持ち込もうとして、セレナに止められた。
誰も争ってはいない。
怒鳴り声もない。
命令違反もない。
だが、互いを避け始めていた。
険悪というより、冷えていた。
一度冷えた空気が、船内の隅々へ広がっている。
二日目の朝。
リュウジは主操縦席へ戻った。
カイルは第一副操縦士席。
また二人が隣に座る。
前日の航行記録を確認する。
「夜間航行、異常なし」
ノアが引き継ぐ。
「護衛艦二機も正常です。予定航路との差は〇・〇二以内」
「了解しました」
リュウジは答える。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
ノアは席を立つ。
カイルが入れ替わるように座る。
「第一副操縦、引継ぎ完了」
「確認しました」
それだけ。
二人は正面を見る。
前方には、まだ何もない。
ただ、航路図上では北部セーシング領域が近づいている。
到達予定まで、残り十二時間。
ユアンが報告する。
「北部セーシング領域の管制中継器から、接続確認が来ています」
「応答してください」
「了解」
「応答する」
ユアンの声がわずかに強くなる。
「リュウジ、今、俺が対応すると言った」
カイルが口を挟む。
「操縦責任者へ報告した」
「通信士の担当だ」
「分かっている」
「なら、いちいち命令する必要はない」
リュウジがカイルを見る。
「通信への応答確認です」
「ユアンは分かっている」
ユアンが二人の間へ入る。
「俺が報告の言い方を変える」
リュウジが聞く。
「どう変えるんですか」
「応答許可を求める時は、許可を要請すると言う。報告だけなら、接続確認受信、応答すると言う」
カイルが言う。
「最初からそうすればいい」
ユアンの表情が硬くなる。
「今決めた」
「通信士なら判断できるだろ」
「カイル」
ユアンは初めて呼び捨てに近い強さで言った。
「俺の仕事の仕方まで、後から来たみたいに言うな」
カイルの目が細くなる。
「後から来たのはリュウジだ」
「今は俺の話だ」
「何が言いたい」
「お前は、自分以外が未熟だと思っている」
コックピットが静まり返る。
カイルはユアンを見る。
「通信の報告方法に問題があったから指摘した」
「問題があるなら、普通に言え」
「普通に言った」
「今のが?」
「感情的になるな」
ユアンの表情が変わる。
「誰のせいだと思っている」
セレナがすぐに言う。
「会話を止めてください」
カイルは正面へ戻る。
「俺は事実を言っただけだ」
ユアンも通信席へ向き直る。
「北部セーシング領域管制へ応答します」
リュウジが答える。
「お願いします」
ユアンは通信を開始する。
だが、声はいつもより硬かった。
小さな言葉のやり取り。
通常なら、数秒で終わる。
それが、今の調査隊では一つずつ傷になる。
不信感が、全員の言葉を尖らせていた。
◇
出発から四十時間。
北部セーシング領域まで残り四時間。
周辺を通る民間船はほとんどなくなっていた。
通信中継器の間隔も広がっている。
星図上では既知領域。
だが、宇宙連邦連盟本部周辺とは空気が違う。
画面の中の航路標識が減る。
救助拠点の表示が遠くなる。
通信遅延が〇・三秒から〇・八秒へ伸びる。
まだ問題になる数値ではない。
それでも、未探索領域が近づいていることを実感させた。
アデルが観測区画から報告する。
「前方の重力偏差、過去記録より〇・一高いです」
リュウジが聞く。
「航路への影響は?」
「現時点ではありません」
ベンが続ける。
「小規模な漂流物反応を複数確認。既知の航路廃棄物と思われます」
「接近観測は必要ですか」
「現時点では不要です」
リュウジは一瞬、ベンの返答を意外に思った。
訓練では、漂流物へ接近することを強く求めた。
だが、今回は不要と判断した。
「了解しました」
ベンが少し間を置いて言う。
「判断理由を説明します」
リュウジの目が少し動く。
「お願いします」
「反応が既知規格と九二パーセント一致しています。サイズも小さく、予定航路から距離があります。未探索領域へ入る前に探査機を使う価値は低いです」
「分かりました」
「今の説明で足りますか」
「はい」
「何か異論は?」
「ありません」
ベンは返事をしなかった。
だが、リュウジには、その問いの意味が分かった。
ベンもまた、自分の判断基準を見せようとしている。
信頼したわけではない。
関係が改善したわけでもない。
ただ、自分だけが説明を求めるのではなく、自分も説明する必要があると考えたのかもしれない。
ほんの小さな変化。
だが、カイルが口を開く。
「九二パーセントなら、八パーセントは不明だ」
ベンの声が硬くなる。
「全ての反応を一〇〇パーセントまで確認することはできません」
「未登録物である可能性は残る」
「低いです」
「訓練では、八〇パーセントでは不完全だと言っていた」
ベンが黙る。
カイルは続ける。
「今回は九二パーセントで切るのか」
「状況が違います」
「自分に都合のいい時だけ、安全を理由にするんだな」
ベンの声が強くなる。
「何が言いたいんですか」
「訓練では自分の観測が終わるまで残れと言った。今は探査機を使いたくないから通過する」
「探査機は未探索領域で必要です」
「訓練では失ってもいいと言っていた」
「条件が違います」
「便利な言葉だ」
リュウジが口を挟む。
「カイルさん」
「何だ」
「今のベンさんの判断に問題はありません」
「お前に聞いていない」
「操縦判断に関係します」
「また守るのか」
「守っているわけではありません」
「では、なぜ入る」
「必要のない対立だからです」
カイルの目が鋭くなる。
「必要かどうかを、お前が決めるのか」
「今は俺が操縦責任者です」
また、その言葉。
カイルは冷たく笑う。
「それしか言えないのか」
ベンが通信を切った。
観測区画からの音声表示が消える。
「ベンさん?」
リュウジが呼ぶ。
応答がない。
アデルが代わりに答える。
「ベンは観測席を離れました」
「理由は?」
「本人に聞いてください」
アデルの声も硬い。
セレナがすぐに言う。
「観測区画へ向かいます」
「お願いします」
セレナが席を立つ。
カイルは正面を見たまま言う。
「本番で担当を離れる研究者を守る必要があったか」
リュウジの手に力が入る。
「カイルさんが追い詰めました」
「俺のせいか」
「今の言い方は必要ありませんでした」
「矛盾を指摘しただけだ」
「訓練と実任務では状況が違います」
「お前まで同じことを言うのか」
「事実です」
「何でも状況が違うで済ませるなら、基準など意味がない」
「カイルさん」
「何だ」
リュウジは一度、言葉を止めた。
怒りがある。
それを自覚する。
カイルへの反発で、必要な意見まで切ること。
それを怖いと、エリンへ伝えた。
だから、今の自分が感情で話そうとしていないか確認する。
「今の発言は、観測判断の確認ではありません」
「何?」
「ベンさんを責めるための発言でした」
カイルの表情が変わる。
「俺の意図を勝手に決めるな」
「では、何のためですか」
「判断の一貫性を確認した」
「確認だけなら、最後の言葉は必要ありません」
「最後の言葉?」
「自分に都合のいい時だけ、安全を理由にする、と言いました」
「事実だ」
「カイルさんの評価です」
「俺はそう判断した」
「それを、今伝える必要はありません」
「お前が止めるのか」
「はい」
リュウジははっきり答えた。
「観測担当を個人的に追及することを止めてください」
カイルの顔から表情が消える。
「命令か」
「はい」
「俺の発言を制限する?」
「任務に必要のない追及は止めます」
「お前に人間を見ていないと言った意味が分かった」
「分かりません」
「自分に都合の悪い感情を、任務に不要として切る」
「違います」
「同じだ」
「今、ベンさんは担当を離れました」
「本人の問題だ」
「隊の問題です」
「俺のせいにするな」
「カイルさんだけのせいとは言っていません」
「また全員で分けるのか」
「ですが、今の発言はカイルさんの責任です」
その言葉に、コックピットの全員が息を止めた。
リュウジは初めて、カイル個人の責任を明確に指摘した。
カイルはしばらく何も言わなかった。
「了解」
やがて、平坦な声で答える。
「操縦責任者の命令により、発言を止める」
「その言い方もやめてください」
「命令内容を確認しただけだ」
「カイルさん」
「操縦中だ」
今度はカイルが会話を切った。
二人の溝は、さらに深くなった。
そして、それを聞いていた他の隊員達の不信感も増していた。
リュウジがカイルを止めたことを、必要な指揮と見る者。
遅すぎたと見る者。
感情的な衝突と見る者。
カイルの言い方に問題があったと考える者。
ベンが持ち場を離れたことこそ問題だと考える者。
誰も、同じ見方をしていなかった。
◇
出発から四十六時間。
北部セーシング領域まで、残り二時間。
ベンは観測席へ戻った。
セレナと何を話したのかは、誰にも説明しなかった。
リュウジも聞かなかった。
必要な報告だけが再開される。
「漂流物反応、予定航路から離脱しました」
ベンが言う。
「了解しました」
「接近観測は行いません」
「了解しました」
声は冷たい。
アデルも必要な数値だけを伝える。
マーヤは入力操作だけを続ける。
ユアンは通信の言葉を必要以上に厳密にした。
報告。
許可要請。
応答。
確認。
一つずつ、誤解がないように言い分ける。
そのため、以前より会話が長くなった。
オスカーは途中から、機関報告を自動表示へ切り替えた。
「口で言うと、誰かが言い方に文句をつけるからな」
そう言った。
冗談ではなかった。
ノアは二人の操縦席を交互に見ている。
ソフィアは、全員の発言回数を記録していた。
セレナは、会話が減ったことで心理負荷が下がったとは判断しなかった。
むしろ逆だった。
言わないことで保たれている静けさ。
それは安定ではない。
いつ崩れてもおかしくない均衡だった。
前方画面に、北部セーシング領域の最初の中継施設が表示された。
巨大なリング状の通信設備。
周囲に、小規模な補給拠点と救助艇の待機施設がある。
ここまでは既知領域。
ここから先も、しばらくはセーシング領域内。
だが、主要航路はここで終わる。
「北部セーシング領域管制から通信」
ユアンが報告する。
「内容は?」
「調査船及び護衛艦二機の進入を許可。航路情報を更新。北端中継器までの通信状態、正常」
「了解しました」
ユアンが一瞬、リュウジを見る。
「応答許可を要請します」
決めた言い方。
リュウジは答える。
「許可します」
「了解。応答します」
ユアンが管制へ返す。
無駄に見えるほど厳密なやり取り。
だが、それをしなければ、今の隊では小さな言葉からまた対立が起きる。
カイルが低く言う。
「時間がかかる」
ユアンの手が止まる。
リュウジが先に答える。
「今は、この手順で行います」
「未探索領域でも?」
「必要なら簡略化します」
「必要かどうかは?」
「ユアンさんと相談して決めます」
カイルが鼻で息を吐く。
「また担当者任せか」
ユアンが振り返る。
「通信の手順だから、俺と決めるのは普通だ」
「操縦への報告でもある」
「だから、リュウジとも決める」
「俺は?」
「必要なら入る」
カイルの目が鋭くなる。
「第一副操縦士は必要ではないのか」
ユアンも引かない。
「今、お前が入ると話が長くなる」
「何だと」
「事実だ」
カイルが立ち上がりかける。
セレナがすぐに言う。
「着席してください」
「俺は座っている」
「身体が座席から離れています」
「細かい」
「細かいことを確認する役割です」
カイルは座り直す。
その動作は強かった。
シートが小さく軋む。
リュウジは正面を向いたまま言う。
「通信手順は、北部セーシング領域通過後に再確認します」
ユアンが答える。
「了解」
カイルは返事をしなかった。
「カイルさん」
リュウジが呼ぶ。
「聞いている」
「返事をしてください」
「了解」
短い。
冷たい。
命令されたから返しただけ。
リュウジも、それ以上は言わなかった。
◇
出発から四十八時間。
予定どおり、調査船と護衛艦二機は北部セーシング領域へ到達した。
航行の数字だけを見れば、完璧だった。
到着予定時刻との差、四十七秒。
燃料消費、計画値以内。
機関異常なし。
通信途絶なし。
護衛艦との編隊誤差、最小。
乗員の身体状態も、全員が継続可能。
だが、誰も成功したとは思っていなかった。
二日間で、チームはまとまるどころか、さらに分かれていた。
リュウジとカイルの溝は深まった。
ベンはリュウジが研究者の意見を本当に重視しているのか疑っている。
アデルはベンが学術的成果を優先しすぎると考えている。
ユアンはカイルの発言が通信系統を乱すことを警戒している。
マーヤは、リュウジとカイルのどちらも自分の誤りを認めていないと見ている。
オスカーは、会話そのものを避け始めた。
ノアは両者の間に立つことへ疲れ始めている。
ソフィアは、出発を許可した連盟の判断にまで疑問を持っている。
セレナは、全員の心理負荷が下がらないことを記録し続けていた。
北部セーシング領域管制から、航路表示が届く。
ここから先、未探索領域の外縁まで三日。
その後、本格的な調査が始まる。
画面には、既知の航路が細い青線で表示されている。
北へ進むほど、その線は薄くなる。
中継器の表示が減る。
救助拠点が消える。
観測記録の更新年月日が古くなる。
そして、地図の上部には、広大な空白が広がっていた。
北の未探索領域。
リュウジは、その空白を見つめた。
二日間の通常航路ですら、これほど多くの問題が起きた。
機体にも、航路にも異常はなかった。
それでも、隊は崩れかけている。
この先では、通信が遅れる。
重力乱流が起きる。
古い観測記録が役に立たない可能性もある。
判断はさらに難しくなる。
その時、この十人は同じ船を動かせるのか。
「進路、北部セーシング領域内航路へ接続」
ユアンが報告する。
「管制より、航行継続許可」
リュウジは正面を見た。
「了解しました」
カイルが隣にいる。
互いに視線は合わせない。
「主推進出力を二十パーセントへ上げます」
オスカーが答える。
「主推進、二十パーセント」
船体が加速する。
北へ。
未探索領域へ。
何も解決しないまま。
誰も互いを信じ切れないまま。
調査隊は、引き返す最後の理由を見つけられないまま、さらに深い宇宙へ進んでいった。