「調査継続命令に異議を出します」
リュウジの声が、静まり返ったコックピットへ響いた。
声は落ち着いていた。
粉塵帯を突破した直後とは思えないほど、呼吸も整っている。
だが、その表情には操縦中とは異なる硬さがあった。
操縦している時のリュウジは、危険が増すほど余計な感情を削っていく。
見るべき数値を絞り、聞くべき報告を選び、必要な操作だけを行う。
今も静かだった。
しかし、それは危機へ集中している静けさではない。
自分の判断を、組織に対して通さなければならない者の静けさだった。
通信画面の向こうにいるヴァレン准将は、すぐには返答しなかった。
通信遅延がある。
調査船から送られた言葉が本部へ届き、向こうの返答がこちらへ戻るまでに、数秒を要する。
そのわずかな空白が、コックピットにいる全員の緊張を引き延ばしていた。
やがて、雑音を挟んでヴァレン准将の声が入る。
「異議の内容を具体的に述べよ」
リュウジは主画面に表示された船体状況を確認した。
主推進器は正常。
補助推進器二基は停止。
装甲損傷は修理可能範囲。
外部センサーは予備へ切り替えることができる。
数字だけを見れば、本部の判断にも根拠はある。
だからこそ、リュウジは機体の損傷だけを理由にはしなかった。
「船体の修理可否だけで、調査継続を判断することに反対します」
「続けろ」
「今回の異常では、操縦責任者への報告基準を超えた後も、報告が行われませんでした」
カイルの顔がわずかに動いた。
リュウジは振り返らない。
「複数の隊員から撤退提案が出ました」
「ああ」
「護衛艦二隻からも突破不能との判断が出ました」
「ああ」
「それでも操縦担当者は進行を続けました」
「ああ」
短い言葉を重ねる。
責めるための説明ではない。
記録された事実を並べている。
そのはずだった。
だが、後方席に座るカイルには、一つずつ自分の失敗を読み上げられているように聞こえていた。
「操縦交代の要求も、すぐには受け入れられませんでした」
リュウジは続けた。
「この船の指揮命令系統は、一度、完全に機能を失っています」
ヴァレン准将からの返答が届く。
「その問題については、すでに対応を指示した」
「カイルさんの主操縦を禁止することですか」
「そうだ」
「それだけでは、指揮命令系統は戻りません」
カイルがリュウジを見る。
他の隊員達も、それぞれの席から主操縦席へ視線を向けた。
ヴァレン准将の声が低くなる。
「操縦権限はお前に戻った」
「権限の問題だけではありません」
「では何だ」
「信頼の問題です」
コックピットの空気が、わずかに変わった。
リュウジは、その言葉を避けなかった。
「この隊では、俺とカイルさんの判断が衝突するたびに、他の隊員の報告が遅れています。今回、実際に報告が止まりました。誰の指示へ従うべきか迷った者もいます」
ユアンの指が、通信端末の上で僅かに動いた。
「操縦担当者の判断を止められなかった者もいます」
ソフィアが視線を伏せる。
「異常が拡大していると分かっていても、操縦責任者を起こせませんでした」
マーヤは画面を見つめたまま動かなかった。
「この状態で調査を続ければ、次の異常でも同じことが起きます」
ヴァレン准将は答えた。
「同じことを起こさないために、カイルの主操縦を禁止した」
「カイルさん一人を操縦席から外せば解決する問題ではありません」
カイルの眉が動く。
リュウジは続けた。
「俺自身も、隊員達から十分に信頼されていません」
その言葉を聞き、ノアが顔を上げた。
「訓練の時点から、俺の判断基準が見えないと言われています。調査開始後も、それは解消できていません。今回、俺が粉塵帯を突破できたことで、操縦技術への評価は変わるかもしれません。ですが、それは指揮への信頼とは別です」
ヴァレン准将の返答は変わらなかった。
「操縦技術があり、命令権限があり、任務を継続できる船がある」
「調査継続に必要な条件は満たしている」
リュウジの目が僅かに細くなる。
「隊員の状態は、条件に含まれないんですか」
「生命維持に問題はない」
「身体状態の話ではありません」
「心理状態についても、セレナの報告では任務中止基準に達していない」
セレナの表情が固まった。
ヴァレン准将は続ける。
「高い心理負荷があることは把握している。だが、長期調査において心理負荷が発生すること自体は想定内だ」
リュウジはセレナを見ることなく尋ねた。
「任務中止基準に達していなければ、安全だと判断するんですか」
「安全であるとは言っていない」
「では、危険を認識した上で継続させるんですか」
「任務には常に危険がある」
「今回の危険は、任務そのものから発生したものではありません」
リュウジの声に、初めて僅かな強さが混ざった。
「隊内の不信と、命令不履行から発生しました」
「それを是正するのが操縦責任者の役割だ」
その言葉が返ってくるまでの数秒間。
リュウジは何も言わなかった。
返答が届いた後も、すぐには言葉を発しなかった。
「俺の役割ですか」
「そうだ」
「命令を守らなかった者を残し、信頼を失った隊員達をまとめ、そのまま調査を続けることがですか」
「お前は調査隊の操縦責任者だ」
「操縦責任者であって、全員の感情を命令で変えることはできません」
「感情を変える必要はない」
ヴァレン准将は言い切った。
「必要なのは命令への服従だ」
その言葉に、コックピットの空気が冷えた。
リュウジの指が、操縦桿の横でゆっくりと握られる。
「互いを信頼していなくても、決められた命令に従えば船は動く。任務に必要なのは、隊員同士の親密さではない。役割を果たすことだ」
リュウジは低い声で答えた。
「今回、役割が果たされなかったから異議を出しています」
「だから対応した」
「対応は終わっていません」
「終わっている」
ヴァレン准将の声が、僅かに強くなった。
「カイルは主操縦を禁止する。操縦責任者への報告義務を改めて命じる。今後、同様の命令不履行があれば、任務終了後に処分する」
リュウジの表情が変わった。
「任務終了後ですか」
「そうだ」
「次に同じことが起きても、処分は帰還後ですか」
「仮定の話をするな」
「今起きたことと同じです」
「次に起こさせないことがお前の役割だ」
再び、同じ言葉。
責任者だから。
権限があるから。
まとめるべきだから。
リュウジの中で、本部の説明が一つの形へ収束していく。
船が動く限り進め。
隊員が倒れていない限り進め。
命令違反者も、今すぐ使えるなら残せ。
問題が起きれば、責任者が止めろ。
それでも起きたなら、帰還後に処理する。
現場に負わせる。
後から記録する。
「ヴァレン准将」
「何だ」
「本部は、今回の件をどのように評価していますか」
「評価?」
「調査計画に伴う想定内の事故ですか」
「違う」
「操縦担当者の判断ミスですか」
「調査中の重大な判断不履行だ」
「では、重大な判断不履行を起こした者を、第一副操縦士として残す理由は何ですか」
カイルの表情が僅かに歪んだ。
ヴァレン准将は答えた。
「カイルがこの船と北部航路について、最も多くの経験を持つからだ」
「経験があれば、命令不履行を起こしても必要だということですか」
「必要な能力と、処分すべき行為を分けて考えている」
「俺がカイルさんを信用できなくてもですか」
「信用の有無は、任務から外す直接の理由にならない」
リュウジの声がさらに低くなる。
「では、誰を隣へ置くかについて、操縦責任者に判断する権限はないんですか」
「現編成の変更権限は本部にある」
「俺は、現場で判断する余地を与えられていると説明を受けています」
それは、リュウジがドルトムントへ入社した日に確認したことだった。
命令が来た時、自分に現場で判断する余地があるのか。
タツヤ班長は、あるようにすると答えた。
現場で判断する人間を、契約や組織の都合で黙らせれば、事故になる。
その考えを信じてきた。
だが、今ここにタツヤはいない。
エリンもいない。
この任務における指揮権は、宇宙連邦連盟にある。
ヴァレン准将の返答が届く。
「航路と危険回避については、お前に判断権限がある。人事と任務継続については、本部が決める」
「なら、俺は何に責任を負うんですか」
「現場の安全と調査船の帰還だ」
「帰還が困難になると判断しているから、撤退を求めています」
「機体は帰還可能だ」
「隊が帰還可能かを聞いています」
「隊員全員、任務継続可能と報告されている」
また、数値。
基準。
報告書。
誰も倒れていない。
誰も任務不能と診断されていない。
だから続けられる。
リュウジは一度、目を閉じた。
「俺は、この状態で調査を続けることを安全だとは判断できません」
「安全を保証しろとは命じていない」
ヴァレン准将は答えた。
「危険を管理しながら任務を遂行せよと命じている」
「管理できない危険があります」
「具体的に述べよ」
「誰が、次の異常で報告を止めるか分かりません。誰が、異議を言えずに黙るか分かりません。誰が、相手への不信を理由に必要な情報を遅らせるか分かりません。それは機器の数値には出ません。だから、今撤退して再編すべきです」
リュウジは、はっきりと言った。
「調査可能期間を失っても、一度戻るべきです」
「編成を見直し、命令系統を再構築してから再出発すべきです」
通信画面の向こうで、ヴァレン准将が僅かに姿勢を変えた。
「調査可能期間を失えば、次の機会は一年以上先になる」
「分かっています」
「今回の調査には、複数の航路開発計画と通信中継計画が関係している」
「分かっています」
「お前達が持ち帰る情報によって、今後の北部航路の安全性が決まる」
「はい」
「調査の延期によって影響を受けるのは、お前達だけではない」
「分かっています」
「では、なぜ任務全体より現在の隊内不和を優先する」
リュウジは僅かに息を止めた。
隊内不和。
その一言でまとめられた。
命令不履行も。
報告の停止も。
粉塵帯への無謀な進入も。
操縦交代の拒否も。
護衛艦二隻からの撤退要請を退けたことも。
全てが、隊内不和という言葉の中へ押し込まれる。
「不和ではありません」
リュウジは答えた。
「安全管理上の問題です」
「呼び方の問題ではない」
「違います」
「同じだ」
カイルが何度も使った言葉と同じだった。
リュウジの表情から、僅かに残っていた熱が消えていく。
「現場の人間関係が悪いことを理由に、重要任務を中止することはできない」
ヴァレン准将は続けた。
「それを認めれば、意見の対立が発生するたびに任務が停止する」
「対立を管理するのも、責任者の職務だ」
「お前には、その能力があると判断している」
「俺ができると言えば、皆が従うんですか」
「従わせろ」
リュウジは黙った。
その沈黙を、ヴァレン准将は異議の終わりと判断した。
「リュウジの異議は記録した」
「ただし、調査継続判断を変更する根拠としては不十分だ」
リュウジの視線が、ゆっくりと通信画面へ戻る。
「異議を却下する」
明確な言葉だった。
「調査船は現在位置で修理を行い、護衛艦二隻との合流後、当初計画に従って北部未探索領域へ進入せよ」
コックピットの誰も、声を出さなかった。
ヴァレン准将はそこで通信を終わらせなかった。
画面越しに、調査隊全体を見るように僅かに視線を動かした。
「調査隊各員へ確認する」
全員の身体が、僅かに強張った。
「リュウジ以外に、調査継続命令へ異議がある者はいるか」
コックピットに、沈黙が落ちた。
◇
ソフィアは、反射的に口を開きかけた。
粉塵帯を抜けた直後。
自分は撤退すべきだとはっきり言った。
機体だけの問題ではない。
指揮系統が崩れている。
カイルを残したままでは、同じことが起きる。
そう主張した。
今も考えは変わっていない。
だが、通信画面の向こうにいるのはヴァレン准将だった。
調査隊の編成を決定し、任務継続を命じる立場。
ここで異議を口にすれば、それはコックピット内の協議ではない。
正式な命令への反対として記録される。
自分は第三副操縦士。
操縦責任者ではない。
全体の船体状況を最終評価する立場でもない。
本当に、任務を止めるだけの根拠を自分の言葉で説明できるのか。
その一瞬の迷いが、ソフィアの口を閉じさせた。
隣に立つノアも、動かなかった。
ノアも撤退に賛成した。
カイルの判断は間違っていたと、本人へ言った。
現在のカイルを操縦責任者にはできないとも言った。
だが、本部はカイルの主操縦を禁止した。
自分が最も危険だと思った部分は、形式上は排除された。
それでも撤退すべきだと言うなら、別の理由を示さなければならない。
隊内の信頼。
心理負荷。
指揮系統への不安。
どれも事実だ。
だが、ヴァレン准将が先ほど一つずつ退けたばかりだった。
リュウジがあれだけ説明しても却下された。
自分が同じことを繰り返して、何か変わるのか。
ノアは、主操縦席に座るリュウジの背中を見た。
何か言うべきだと思った。
それでも、声は出なかった。
ユアンの手は、通信端末の送信操作の上にあった。
通信士であるユアンが話せば、その音声は最も明瞭に本部へ届く。
粉塵帯の中で、カイルの命令を護衛艦へ送ることが怖かった。
誰の指示へ従うべきか分からなかった。
撤退に賛成すると明言した。
その記録も残っている。
だが、今は公式回線上だった。
通信士は、自分の意見を伝える者ではない。
情報と命令を正確に届ける者。
そう教えられてきた。
今ここで口を開くことは、役割を越えることではないのか。
操縦責任者がすでに異議を出した。
自分まで重ねる必要があるのか。
一瞬の逡巡。
それだけで、沈黙は長くなった。
マーヤは、損傷したシステム表示を見つめていた。
自分も撤退を提案した。
指揮系統が機能しなかったと、はっきり言った。
だが、船体は修理できる。
システムも予備へ切り替えられる。
技術者として、任務続行不能だと断言できる状態ではなかった。
心理的な不安を理由に、自分が船を止めていいのか。
それはセレナの領域ではないのか。
操縦判断なら、リュウジの領域ではないのか。
マーヤは指先を握った。
自分の判断を修正できる者を信用すると、リュウジへ言った。
今、本部が判断を変えないことへ反発を感じている。
それでも、自分自身もまた、一度下された命令に対して声を上げることができなかった。
オスカーは腕を組んだまま、唇を強く結んでいた。
修理はできる。
それを言ったのは自分だった。
機械は直せる。
だが、今の隊で飛ばしたくない。
確かにそう言った。
本部へ同じことを言えばいい。
難しい言葉は必要ない。
船は直せるが、この隊では飛ばせない。
それだけでいい。
だが、整備士である自分が、飛ばせる船を飛ばせないと言っていいのか。
主推進器は正常。
生命維持も正常。
装甲も修理可能。
整備上は継続できる。
自分が止めたいのは、機械ではなく人間の問題だ。
その人間の問題を、整備士である自分が本部へ断言することに、オスカーは躊躇した。
アデルも、口を開かなかった。
粉塵帯から取得したデータは極めて重要だった。
前方には、過去記録と一致しない現象がある。
本来の調査区域へ到達すらしていない。
ここで戻れば、今回の観測窓は失われる。
撤退すべきだと思ったのは本当だ。
だが、それは粉塵帯を抜けた直後の判断だった。
現在は安全圏。
修理も可能。
カイルの主操縦も禁止された。
条件が変わった。
自分は本当に、今も撤退だけが正しいと思っているのか。
確信を持てなかった。
ベンは、最初から継続の可能性を捨てていなかった。
本来の調査へ入っていない。
ここで戻れば、何も得られない。
粉塵帯のデータは重要でも、それだけでは計画全体の目的を果たせない。
操縦編成の変更が必要だとは思う。
カイルをそのまま残すことには不安がある。
だが、本部は主操縦を禁止した。
自分が条件として挙げた操縦編成の変更に、完全ではないが近い措置が取られた。
そのため、ベンは異議を持っていなかった。
ただ、継続に賛成だと言うこともしなかった。
今口を開けば、リュウジの異議を否定することになる。
自分が黙っていれば、本部が決める。
ベンはそう考えた。
セレナは、全員の生体数値を見ていた。
心拍上昇。
呼吸の乱れ。
筋緊張。
視線の固定。
全員が強い負荷状態にある。
リュウジは特に高い。
粉塵帯突破による身体的疲労。
本部との対話による心理負荷。
そして、今、他の隊員の反応を待っている。
セレナには分かっていた。
リュウジが、誰かの言葉を待っていることが。
自分だけの意見ではない。
粉塵帯を抜けた直後、複数の者が撤退を提案した。
それを本部へ示すためには、誰かがもう一度声を上げる必要がある。
セレナ自身も撤退を提案した。
操縦区画の心理状態を理由に。
今も負荷は下がっていない。
むしろ上がっている。
なら、言うべきだった。
だが、任務中止基準には達していない。
ヴァレン准将が指摘したとおりだった。
医療担当者として、継続不能と診断できる者はいない。
心理負荷が高い。
関係が悪化している。
判断に影響する可能性がある。
それは報告できる。
しかし、任務を中止すべきだと断定すれば、医療判断を越えるのではないか。
リュウジの異議を支持するために、診断を歪めることにならないか。
セレナは迷った。
その迷いを整理する間に、沈黙はさらに長くなった。
カイルも何も言わなかった。
継続命令には反対していない。
自分は調査を続けるべきだと主張してきた。
ここで異議を出す理由はない。
だが、賛成だと言うこともできなかった。
粉塵帯へ入ったのは自分だ。
全員を危険にさらした。
リュウジが操縦を代わり、突破した。
その直後に、自分が調査継続を支持すれば、誰も聞かないだろう。
それどころか、任務を続けるために失敗を軽く扱っていると思われる。
カイルは黙っていた。
誰も、口を開かなかった。
◇
リュウジは、一人ずつ見た。
ソフィア。
先ほど、真っ先に撤退すべきだと言った。
今は、唇を僅かに噛んでいる。
ノア。
カイルの判断が間違っていたと、はっきり言った。
今は、視線を落としている。
ユアン。
命令を送ることが怖かったと告白した。
今は、通信画面を見つめたまま動かない。
マーヤ。
指揮系統が機能しなかったと指摘した。
今は、損傷表示へ視線を固定している。
オスカー。
今の隊では飛ばしたくないと言った。
今は、腕を組んだまま目を伏せている。
アデル。
撤退に賛成した。
今は、何かを考えるように観測画面を見ている。
セレナ。
心理状態を理由に撤退を提案した。
今は、端末上の数値を見ている。
誰も、リュウジを見なかった。
ベンだけは、元々条件付きで継続を検討していた。
カイルは最初から継続を主張している。
二人が黙っていることは理解できる。
だが、他の者達も何も言わなかった。
リュウジは、すぐに失望したわけではなかった。
初めは待った。
通信遅延がある。
発言の順番を考えているのかもしれない。
ヴァレン准将に対して、どう言えばいいか迷っているのかもしれない。
だから、待った。
誰かが息を吸う音が聞こえた。
だが、言葉にはならなかった。
ソフィアの指が動いた。
それでも、声は出なかった。
ユアンが一度だけリュウジを見た。
すぐに視線を戻した。
セレナの唇が僅かに開いた。
だが、そのまま閉じた。
リュウジは、それ以上待つのをやめた。
胸の奥で、何かがゆっくりと冷えていった。
怒りではなかった。
怒鳴りたいとも思わなかった。
なぜ言わないのかと責める気持ちも、最初はなかった。
皆にも立場がある。
本部へ異議を出すことが怖い者もいる。
自分の判断へ確信を持てない者もいる。
船体が修理可能なら継続できると考え直した者もいる。
理解はできる。
理由も想像できる。
だが、その理解は、リュウジの中に生まれた孤独を消さなかった。
粉塵帯を抜けた直後。
皆は撤退すべきだと言った。
カイルを信用できないと言った。
今の隊で飛びたくないと言った。
リュウジは、その意見を受け取った。
自分の判断だけではないと考えた。
だから本部へ異議を出した。
皆の意見を背負って、操縦責任者として説明した。
だが、本部から直接問われた瞬間。
その意見は、誰の口からも出なかった。
結果として、本部に対して異議を示したのはリュウジ一人になった。
自分だけが調査継続に反対しているように見える。
自分だけが隊をまとめられず、任務を止めようとしているように見える。
自分だけが、感情的な不和を安全問題へ置き換えているように見える。
ヴァレン准将が再び尋ねた。
「異議のある者はいないのか」
今度は、最初よりも短い問いだった。
返答はなかった。
ヴァレン准将は数秒待った。
「了解した」
その一言が、重く落ちた。
「リュウジ以外から異議はないものと記録する」
リュウジの目が僅かに動いた。
「異議がないとは限りません」
思わず出た言葉だった。
ヴァレン准将が返す。
「発言されない意見を、命令判断へ反映することはできない」
「先ほどまで、撤退を提案していた者がいます」
その言葉に、何人かの身体が僅かに強張った。
ヴァレン准将の声は変わらない。
「今、本人達へ確認した。返答はなかった」
「沈黙を賛成として扱うんですか」
「少なくとも、正式な異議とは扱わない」
「……そうですか」
短い返事だった。
その声を聞き、セレナが顔を上げる。
先ほどまでのリュウジの声とは違った。
異議を通そうとする力が消えていた。
諦めた声とも違う。
何かを切り離した声だった。
ヴァレン准将は続ける。
「調査隊の意見を確認した。調査継続命令に変更はない。リュウジ」
「はい」
「操縦責任者として、命令を受領するか」
リュウジは通信画面を見た。
その背後にいる隊員達を、もう一度見ることはしなかった。
「受領します」
平坦な声だった。
「現在位置で修理を実施します。護衛艦二隻との合流後、当初計画に従い北部未探索領域へ進入します」
ヴァレン准将が頷く。
「了解した」
「修理完了予定と、隊員の勤務再編案を三時間以内に報告せよ」
「了解しました」
「カイルの主操縦は禁止する。第一副操縦士として、航路分析及び機体情報の補助に限定せよ」
「了解しました」
「リュウジ」
「はい」
「隊をまとめろ」
その言葉にも、リュウジの表情は動かなかった。
「了解しました」
通信が終了する。
画面からヴァレン准将の姿が消えた。
本部との回線が待機状態へ戻る。
コックピットには、船内機器の作動音だけが残った。
◇
誰もすぐには話さなかった。
本部へ異議を言えなかった者達は、今さら何を口にすればいいのか分からなかった。
リュウジへ謝るべきなのか。
迷った理由を説明すべきなのか。
撤退の考えが変わったと伝えるべきなのか。
何を言っても、言い訳に聞こえる。
沈黙が続く中、ソフィアが最初に声を出した。
「リュウジさん」
リュウジは主画面から目を離さなかった。
「修理計画を立てます。‥‥先ほどのことですが」
「マーヤさん」
リュウジはソフィアの言葉を遮った。
声は強くない。
だが、話を続ける余地を与えなかった。
「予備センサーへの切替に必要な時間を算出してください」
マーヤは一瞬反応が遅れた。
「はい」
「オスカーさん」
「何だ」
「補助推進器二番、三番の修理手順を確認してください」
「ヴァルキュリアの設備が必要だ」
「合流予定時刻までに、船内でできる作業を進めてください」
「了解した」
「ユアンさん」
「はい」
「ヴァルキュリアとアストライアへ、本部から調査継続命令が出たことを伝えてください」
ユアンの顔が僅かに曇る。
「そのまま送るのか」
「はい」
「隊内で異議があったことは?」
「本部へ記録されています」
リュウジは淡々と答えた。
「護衛艦へ追加説明は不要です」
「……了解」
「アデルさん、ベンさん」
二人の音声回線が開く。
「粉塵帯の観測データを整理してください。調査継続後の観測機器使用に影響があるか、二時間以内に報告をお願いします」
アデルが答える。
「分かりました」
ベンも続く。
「了解しました」
「ノアさん」
「はい」
「修理中の主操縦監視をお願いします」
「リュウジさんは?」
「勤務表を再編します」
「その後、休むんですか」
「必要であれば休みます」
以前なら、セレナに確認すると答えたかもしれない。
疲労状態を共有したかもしれない。
今は、それ以上言わなかった。
「ソフィアさん」
「はい」
「ノアさんの補助をお願いします」
「分かりました」
「カイルさん」
カイルが僅かに顔を上げる。
「何だ」
「本部命令どおり、主操縦は禁止します」
「分かっている」
「修理完了まで、現在の航跡と粉塵帯進入時の操縦記録を整理してください」
カイルの表情が硬くなる。
「俺に事故報告を書かせるのか」
「操縦記録の整理です」
「同じだろ」
「必要な作業です」
カイルはリュウジの横顔を見る。
先ほどまで、本部へ強く異議を出していた人物とは思えない。
感情が見えない。
怒りも。
非難も。
落胆も。
何も出てこない。
「了解」
カイルは低く答えた。
最後に、リュウジはセレナを見る。
「セレナさん」
「はい」
「全員の勤務継続可否を再確認してください」
「リュウジさんも含めてです」
「はい」
「それだけですか」
リュウジが初めて、セレナへ視線を向けた。
「他に何がありますか」
セレナは一瞬、言葉を失った。
「先ほどのことです」
「本部との協議は終了しました」
「そうではありません」
「では?」
「今、何を感じていますか」
リュウジはセレナを見た。
出発前。
何を考えているか。
何を怖がっているか。
隠さずに言ってほしい。
そう言われた。
エリンからも、セレナからも。
リュウジは言おうとしてきた。
怖い。
信頼されていない。
このまま出発することが不安だ。
カイルへの反発で判断を誤ることが怖い。
隊員達の報告が止まることが怖い。
言葉にした。
皆へ判断基準を見せようとした。
話そうとした。
その結果が、先ほどの沈黙だった。
リュウジはゆっくりと答えた。
「任務に必要な状態です」
セレナの表情が固まる。
「それは答えになっていません」
「身体状態に問題があるなら報告してください」
「心理状態を確認しています」
「任務中止基準に達していますか」
ヴァレン准将が使った言葉だった。
セレナはすぐに答えられなかった。
リュウジは続ける。
「達していないなら、問題ありません」
「リュウジさん」
「出発前に、その言い方をやめてくださいと言いましたね」
「はい」
「ですが、本部はその基準で判断しました」
「本部と私は違います」
「任務上は同じです」
「違います」
セレナの声に、初めて焦りが混ざる。
「私は、数値だけを見ているわけではありません」
「先ほど、何も言いませんでした」
その一言で、セレナの声が止まった。
リュウジの声は静かだった。
責めているようには聞こえない。
だからこそ、強く刺さった。
「セレナさんは、心理状態を理由に撤退を提案しました」
「はい」
「ヴァレン准将から異議を聞かれた時、何も言いませんでした」
「それは……」
「説明は不要です」
リュウジは視線を主画面へ戻した。
「本部の判断では、任務中止基準に達していない」
「セレナさんも、その場で異議を示さなかった」
「ですから、俺の心理状態も任務継続可能として扱ってください」
「私は、そういう意味で黙ったのではありません」
「意味は関係ありません」
先ほど、ヴァレン准将が言った。
発言されない意見を、命令判断へ反映することはできない。
リュウジは、その論理をそのまま使った。
「言われなかったことは、俺には分かりません」
セレナは何も返せなかった。
それは、かつて皆がリュウジへ向けた言葉でもあった。
判断基準が見えない。
考えていることが分からない。
言葉にしてほしい。
今、リュウジは同じ言葉を返している。
だが、以前のように理解しようとはしていなかった。
言われなかった。
だから考慮しない。
それだけだった。
◇
ソフィアが耐えきれずに口を開いた。
「リュウジさん」
「何ですか」
「私は、本部へ異議を言おうとしました」
「そうですか」
「でも、どう説明すればいいか迷って」
「分かりました」
「分かりましたって……」
「勤務再編へ戻ってください」
「待ってください」
ソフィアが一歩前へ出る。
「撤退すべきだという考えは、変わっていません」
リュウジはようやくソフィアを見た。
「本部から聞かれた時に言ってください」
「言えませんでした」
「はい」
「怖かったんです」
「分かります」
「本当に分かっていますか」
「本部へ正式な異議を出すことには、記録と責任が伴います。だから迷ったんだと思います。それを責めるつもりはありません」
穏やかな言葉だった。
だが、ソフィアは安心できなかった。
「では、どうしてそんな言い方をするんですか」
「どんな言い方ですか」
「私達の意見は、もう必要ないような言い方です」
リュウジは少しだけ黙った。
「必要な意見は聞きます」
「では、撤退については?」
「本部の命令が決まりました」
「リュウジさん自身は、まだ撤退すべきだと思っているんですよね」
「俺の異議は却下されました」
「考えまで変える必要はありません」
「任務に不要な考えは、操縦へ持ち込みません」
ソフィアの表情が変わる。
「任務に不要ではありません」
「本部が判断しました」
「本部が間違っている可能性は?」
「あります」
「なら」
「ですが、調査継続命令は出ました」
リュウジは言った。
「俺一人の異議では変更されませんでした」
その一言で、全員が再び黙った。
責めてはいない。
だが、自分一人だったと明確に言った。
誰も、それを否定できなかった。
ユアンが小さく言う。
「俺も撤退に賛成だった」
リュウジは答えた。
「知っています」
「今もだ」
「そうですか」
「本部には言えなかった」
「はい」
「悪かった」
ユアンは視線を落とした。
リュウジはすぐには答えなかった。
少し間を置き、静かに言う。
「謝る必要はありません」
その言葉に、ユアンが顔を上げる。
「発言するかどうかは、ユアンさんの判断です。その結果も含めて、命令は決まりました」
「俺達の沈黙のせいだと言うのか」
「そうは言っていません」
「同じだろ」
カイルが何度も使った言葉。
ユアンの口から同じ言葉が出た。
リュウジの目が僅かに動いた。
「では、違わないかもしれません」
ユアンは言葉を失った。
以前のリュウジなら、違うと説明した。
意図を伝えようとした。
誤解を解こうとした。
今は、それをしなかった。
◇
マーヤが席を立った。
「リュウジさん」
「はい」
「私は、機体が修理可能だという点で迷いました」
「はい」
「システムエンジニアとして、継続不能とは言えませんでした」
「分かりました」
「ですが、指揮系統が戻ったとは思っていません」
「本部は戻ったと判断しました」
「私自身は、そう思っていません」
「では、次に本部から聞かれた時に伝えてください」
「今、伝えています」
リュウジはマーヤを見る。
「俺に伝えて、何が変わりますか」
マーヤの表情が固まる。
「以前、リュウジさんは、私達の意見を聞くと言いました」
「聞いています」
「聞くだけですか」
「最終判断は本部が行いました」
「リュウジさん自身の判断は?」
「却下されました」
「だから、もう何も言わないんですか」
リュウジは答えなかった。
マーヤは続ける。
「間違いが分かった後に、何をする人かを見たいと私は言いました」
「覚えています」
「今、本部が間違っていると思うなら、何をするんですか」
「命令に従います」
「それだけですか」
「他に何ができますか」
「私達と話すことはできます」
リュウジの表情が、僅かに硬くなる。
「話しました」
短い言葉だった。
「出発前から話しました。訓練でも話しました。航行中も話しました。粉塵帯を抜けた後、皆の意見を聞きました。その意見を本部へ伝えました。ですが、本部から皆へ直接確認があった時、誰も話しませんでした」
声は荒れていない。
それでも、抑えていたものが一つずつ表へ出ていた。
「これ以上、何を話せばいいんですか」
マーヤは何も答えられなかった。
リュウジも答えを求めなかった。
「予備センサーの切替時間をお願いします」
「……分かりました」
マーヤは席へ戻った。
◇
オスカーは、暫く黙っていた。
やがて腕を解き、低い声で言った。
「俺も悪かった」
リュウジは画面を見たまま答える。
「悪いとは言っていません」
「言っているのと同じだ」
「そう聞こえるなら、すみません」
「その謝り方はやめろ」
リュウジは黙った。
オスカーは頭を掻く。
「船は直せる」
「はい」
「だから、本部に継続不能とは言えなかった」
「はい」
「だが、今の隊で飛ばしたくないと言ったのも本当だ」
「分かっています」
「なら、まだ俺の意見は変わっていない」
「そうですか」
「お前はどうなんだ」
「何がですか」
「この隊で飛ばしたくないと思っているのか」
リュウジは一度、主画面から目を離した。
コックピットにいる全員を見る。
「関係ありません」
「関係あるだろ」
「飛ばしたいかどうかで命令は変わりません」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話ですか」
オスカーは言葉を探した。
「俺達が、これからお前と飛べるかって話だ」
リュウジは静かに答えた。
「飛んでもらいます」
命令としての言葉だった。
「本部から調査継続命令が出ました。俺が操縦責任者です。皆さんには、それぞれの役割を果たしてもらいます」
エリンが最初に警戒していたパイロット。
乗務員や周囲の人間を、機体の部品のように使う者。
必要な時だけ呼び、必要な仕事だけさせる者。
リュウジは、それを嫌っていた。
自分はそうならないようにしてきた。
頼む。
お願いする。
意見を聞く。
判断理由を共有する。
人として見る。
だが今の言葉は、役割だけを求めるものだった。
セレナはそれに気づいた。
マーヤも。
ソフィアも。
しかし、誰もすぐには止められなかった。
リュウジ自身も、自分が何を切り捨て始めたのか理解していた。
理解していて、それでも戻ろうとはしなかった。
人として向き合おうとした結果、言葉は返ってこなかった。
なら、役割だけを求めればいい。
命令系統だけを守ればいい。
信頼がなくても船は動く。
ヴァレン准将がそう言った。
皆も、その命令へ異議を示さなかった。
それなら、そのとおりにする。
◇
カイルが後方席から立ち上がった。
「結局、お前も本部へ従うのか」
リュウジは振り返らない。
「はい」
「さっきまで、あれだけ反対していたのに?」
「異議は却下されました」
「納得したのか」
「していません」
「なら、なぜ従う」
「命令だからです」
カイルは僅かに笑った。
嘲るような笑いではなかった。
疲れたような、歪んだ笑いだった。
「俺に言っていたことと同じだな」
「何がですか」
「間違っていると思っても、却下されたら従え」
リュウジは一瞬黙った。
「そうですね」
「今度はお前が従う側か」
「はい」
「どんな気分だ」
リュウジの指が止まる。
カイルは、その背中を見た。
「自分が正しいと思っているのに、上から却下される。現場を見ていない人間から、従えと言われる」
「気分が分かったか」
リュウジはゆっくりとカイルを見る。
「同じではありません」
カイルの目が細くなる。
「何が違う」
「俺は、調査船を危険へ進める命令を出していません」
「本部は出した」
「はい」
「それに従うんだろ」
「はい」
「なら同じだ」
リュウジは、それ以上否定しなかった。
「そうかもしれません」
カイルの表情が僅かに変わる。
勝ったような顔にはならなかった。
むしろ、言い返されなかったことに戸惑っていた。
リュウジが自分との対話を切ったことを、カイルも感じた。
「カイルさん」
「何だ」
「操縦記録の整理をお願いします」
「話は終わりか」
「はい」
「俺に何も言うことはないのか」
リュウジは正面へ向き直った。
「今はありません」
カイルは暫く立っていた。
やがて何も言わずに席へ戻った。
◇
それから、調査船の中では作業が始まった。
マーヤが予備センサーへの切替手順を組む。
オスカーが補助推進器の停止箇所を確認する。
ユアンが護衛艦二隻へ本部命令を伝える。
アデルとベンが粉塵帯の観測データを整理する。
ノアとソフィアが航行監視を引き継ぐ。
セレナが全員の生体状態を再確認する。
カイルが自分の操縦記録を開く。
全員が役割へ戻った。
先ほどまでと違い、指示は明確だった。
迷いもない。
誰が何をするのか、完全に分けられている。
報告先も一つ。
判断者も一人。
形式上、指揮系統は回復した。
ヴァレン准将が求めた状態だった。
だが、誰も安心しなかった。
リュウジは、必要な指示だけを出した。
理由を説明しない。
相手の考えを聞かない。
意見が必要な時だけ尋ねる。
返答を受ければ、その場で採用か却下を決める。
却下理由も、記録に必要な範囲でしか話さない。
以前のように、自分が何を怖がっているかは言わなかった。
判断基準を見せようともしなかった。
皆の表情を確認することも減った。
セレナが休息を提案すれば、数値を確認する。
数値が基準内なら作業を続ける。
食事を取るよう言われれば、時間を指定する。
眠れるかどうかは話さない。
ソフィアが何度か声をかけようとした。
そのたびに、リュウジは業務の話へ戻した。
ユアンも謝罪の続きを言おうとした。
だが、通信報告を求められ、機会を失った。
マーヤは、予備センサー切替時間を報告した。
リュウジは短く礼を言った。
それ以上、会話は続かなかった。
命令は通る。
作業も進む。
誰も逆らわない。
調査船は、以前より整然と動き始めた。
しかし、それは隊がまとまったからではない。
互いに必要以上のことを言わなくなったからだった。
リュウジは、皆に見えるようにしようとしていた自分の判断を、再び内側へ閉じた。
エリンから、何を怖がっているのか言葉にするよう言われた。
セレナから、異常を隠さないよう言われた。
隊員達から、判断基準を共有するよう求められた。
リュウジは、それに応えようとした。
だが、本部から問われた瞬間。
皆は沈黙した。
その沈黙を見たリュウジは、もう自分の内側を見せる必要はないと判断した。
必要なのは信頼ではない。
命令への服従。
ヴァレン准将の言葉が、胸の奥へ残っている。
それなら、自分も同じように動けばいい。
信頼されなくていい。
理解されなくていい。
ただ、命令を出す。
船を進める。
危険を避ける。
そして、全員を帰す。
それだけでいい。
リュウジは堅く口を閉ざした。
その横顔を見ながら、セレナは端末へ新しい記録を残した。
【操縦責任者、感情表出の急激な低下】
【対人会話を必要業務へ限定】
【心理負荷は継続して高値】
【本人は任務継続可能と申告】
最後の一文を入力したところで、セレナの指が止まった。
本人は申告している。
だから、本部の基準では問題ない。
だが、セレナには分かっていた。
先ほどまでのリュウジより、今のリュウジの方が危険だった。
怒っている者は、まだ言葉を出せる。
迷っている者は、誰かへ助けを求められる。
怖いと言える者は、自分が危険を感じていることを認識している。
今のリュウジは、どれも言わない。
言うことをやめた。
調査船の外では、粉塵帯が遠ざかっていく。
ヴァルキュリアとアストライアが、合流するために進路を変えている。
船体は修理される。
補助推進器も、外部センサーも、時間をかければ戻る。
だが、粉塵帯の中で生まれた亀裂は修理されなかった。
本部への異議は却下された。
他の隊員達は沈黙した。
そして、これまで誰よりも帰還を優先し、周囲の意見を聞こうとしていた操縦責任者は、自分の言葉を閉ざした。
調査隊は、命令どおり未探索領域へ進む。
今度は、表面上の対立すら減っていく。
だがそれは、関係が改善したからではなかった。
誰よりも対話を必要としていた者が、対話を諦めたからだった。