サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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総帥の息子

リュウジが、遠く離れた北部未探索領域で言葉を閉ざし始めていた頃。

 

スペースホープでもまた、十四班の今後を大きく変える一つの決定が下されようとしていた。

 

 

ドルトムント財閥旅行会社。

 

本社タワー上層部に設けられた役員会議区画は、現場の事務所とは空気が違っていた。

 

音を吸収する分厚い床。

 

窓の外に広がる居住リング。

 

必要以上に広い会議室。

 

壁面には、財閥全体の運航実績や収益、保有船舶数が整然と表示されている。

 

その中に、現場で働く乗務員一人一人の姿はない。

 

人員数。

 

資格区分。

 

稼働率。

 

欠員。

 

予備要員。

 

全て数字だった。

 

タツヤ班長は、長い会議卓の端に座っていた。

 

目の前には、一枚の人事通知書が置かれている。

 

【宇宙事業部・旅行会社部門】

 

【第十四班配属】

 

【ナッシュ・ドルトムント】

 

【保有資格・C級操縦士免許】

 

その名前を見た時点で、タツヤ班長は、この会議が相談ではないことを理解していた。

 

ドルトムント財閥総帥、リョク。

 

その一人息子。

 

次期後継者と目されている人物。

 

形式上はC級操縦士。

 

だが、一般のC級操縦士と同じ採用過程を経た者ではない。

 

人事通知書の下部には、配属理由として簡潔な一文が記されていた。

 

【実地経験及び上位操縦士による指導を通じ、操縦能力並びに組織運営能力の向上を図る】

 

綺麗な言葉だった。

 

だが、その実態は明らかだった。

 

総帥の息子を、最も実績のある班へ入れる。

 

そして、S級パイロットの下で経験を積ませる。

 

十四班が選ばれたのは、班の事情を考えた結果ではない。

 

リュウジが所属しているからだった。

 

正面に座る役員が、淡々と説明を続ける。

 

「ナッシュ様の配属は、本日付で決定している」

 

相談ではない。

 

その言葉が、改めて示された。

 

タツヤ班長は通知書から目を上げた。

 

「一つ、確認してもいいですか」

 

「何だ」

 

「ナッシュさんはC級ライセンスの操縦士です」

 

役員の眉が僅かに動く。

 

タツヤ班長は、相手の反応を見ながら言葉を選んだ。

 

「今の十四班には、少し荷が重いかと」

 

役員室の空気が僅かに変わった。

 

タツヤ班長は、資格が低いから不要だと言っているわけではない。

 

十四班には、すでに育成中の乗務員が複数いる。

 

ランとミラは、今も現場経験を積んでいる段階。

 

ガーネットも副パーサーとして加入し、班内の役割を調整している最中だった。

 

さらに、リュウジは現在、北部未探索領域の長期調査任務へ出ている。

 

十四班の主力操縦士が不在。

 

タツヤ班長自身も、通常便の操縦、班全体の管理、若手育成を兼任している。

 

そこへ、新たにC級操縦士を受け入れる。

 

しかも、通常の新人とは違う。

 

総帥の息子。

 

指導一つ。

 

評価一つ。

 

注意一つ。

 

全てが政治問題になり得る。

 

「十四班は現在、長期調査に伴いリュウジが不在です」

 

タツヤ班長は続けた。

 

「S級の下で学ばせるという目的なら、少なくともリュウジが戻ってからの方がいいと思います」

 

役員は、手元の端末を一度確認した。

 

「リュウジの帰還は、早くても二か月後だ」

 

「はい」

 

「その間、何もさせないつもりか」

 

「別の班で基礎訓練を受けてもらう方法もあります」

 

「総帥は十四班を指定した」

 

タツヤ班長の指先が、膝の上で僅かに動いた。

 

「ですが」

 

「総帥の命令だ」

 

役員の声が、一段低くなる。

 

「S級の下で学ばせろとのことだ」

 

「リュウジは今いません」

 

「所属は十四班だ」

 

「所属しているだけでは、指導はできません」

 

「帰還するまで、お前が指導しろ」

 

予想していた答えだった。

 

それでも、タツヤ班長はすぐには頷かなかった。

 

「俺はA級です」

 

「十分だ」

 

「資格だけの問題ではありません」

 

「何が問題だ」

 

「十四班は、今、新しい人間を一人入れて済む状態ではありません」

 

役員は僅かに眉を寄せた。

 

「人員が増えることは、現場にとって不利益なのか」

 

「人が増えることと、戦力が増えることは同じではありません」

 

タツヤ班長は静かに答えた。

 

役員の表情が硬くなる。

 

言い方を誤れば、総帥の息子を戦力外と評価したと受け取られる。

 

だが、曖昧に受け入れれば、負担を負うのは十四班だった。

 

「新人を入れるなら、教育計画が必要です」

 

「その計画を作るのが班長の役目だ」

 

「はい」

 

「なら問題はない」

 

「ナッシュさん本人が、通常の新人と同じ指導を受け入れるか確認されていますか」

 

会議室が静まった。

 

役員は数秒、タツヤ班長を見た。

 

「どういう意味だ」

 

「特別扱いを望む人間を、現場で育てることはできません」

 

タツヤ班長の声は穏やかだった。

 

しかし、言葉の内容は明確だった。

 

「十四班へ入るなら、他の班員と同じように訓練を受けてもらいます。勤務予定も、安全規則も、報告義務も同じです。総帥の息子であることを理由に、その部分を変えるつもりはありません」

 

役員の目が細くなる。

 

「ナッシュ様に失礼がないようにしろ」

 

「失礼の話ではありません」

 

「口答えをするな」

 

短い言葉が、会話を切った。

 

タツヤ班長は黙る。

 

この会議に、現場判断を入れる余地はなかった。

 

役員は通知書を指先で軽く押した。

 

「配属は決定事項だ」

 

「ナッシュ様は、将来ドルトムント財閥全体を率いる立場になる」

 

「現場を知る必要がある」

 

「そのために、最も優秀な操縦士が所属する班を選んだ」

 

「十四班にとっても名誉なことだ」

 

タツヤ班長は、名誉という言葉に何も返さなかった。

 

現場へ押し付けられるものは、いつも綺麗な言葉で包まれる。

 

期待。

 

育成。

 

名誉。

 

将来。

 

その包装を剥がせば、残るのは命令だった。

 

「それと」

 

役員が続ける。

 

「ナッシュ様の評価については、役員室へ直接報告しろ」

 

「通常の人事評価では駄目なんですか」

 

「総帥が確認される」

 

「本人にも同じ内容を伝えますか」

 

「必要ない」

 

タツヤ班長の表情が変わった。

 

「本人に伝えない評価を、俺に作れということですか」

 

「言葉を選べ」

 

「評価内容を本人へ伝えず、役員室だけで共有するなら、育成にはなりません」

 

「お前は命じられた報告をすればいい」

 

また、同じだった。

 

必要なのは対話ではない。

 

命令への服従。

 

遠く離れた調査船で、ヴァレン准将がリュウジへ告げたものと、ほとんど同じ論理だった。

 

だが、タツヤ班長はそれを知らない。

 

今、リュウジが本部へ異議を退けられ、一人だけ沈黙の中へ置かれたことも知らない。

 

ただ、自分の目の前にある命令が、現場へ新しい亀裂を持ち込もうとしていることだけは分かった。

 

「分かりました」

 

タツヤ班長は答えた。

 

その言葉に、納得はなかった。

 

「十四班で受け入れます」

 

役員が満足そうに頷く。

 

「結構だ」

 

「くれぐれも粗相のないように」

 

「はい」

 

「S級が帰還した後は、優先してナッシュ様の指導へ当たらせろ」

 

タツヤ班長の目が僅かに鋭くなる。

 

「リュウジの帰還後の状態を確認してから判断します」

 

「命令だ」

 

「未探索領域から戻った直後に、すぐ指導へ入れるとは限りません」

 

「S級は、そのためにいる」

 

タツヤ班長は、そこで完全に口を閉じた。

 

S級は、そのためにいる。

 

人ではなく、能力。

 

帰還した直後の疲労も。

 

任務で何を経験したかも。

 

心理状態も。

 

何も考慮されていない。

 

総帥の息子を育てるために使う。

 

ただ、それだけだった。

 

「承知しました」

 

タツヤ班長は、低く答えた。

 

それ以上、何も言えなかった。

 

 

役員会議区画を出た後。

 

タツヤ班長は、エレベーターの中で一人、深く息を吐いた。

 

手元には、人事通知書。

 

ナッシュ・ドルトムント。

 

C級操縦士。

 

十四班配属。

 

リュウジの下で指導。

 

文字を見れば見るほど、頭が重くなった。

 

十四班の現在の状況を思い浮かべる。

 

エリンは、リュウジが長期調査へ出た後も、班全体を崩さないように働いている。

 

通常便。

 

応援勤務。

 

若手の教育。

 

勤務表の調整。

 

さらに、リュウジから届く定時連絡も気にしていた。

 

最近の連絡は、以前より短い。

 

問題ありません。

 

予定どおりです。

 

調査を継続しています。

 

食事は取っています。

 

休息も取っています。

 

エリンが何を聞いても、返ってくる言葉は整っていた。

 

だが、それだけに見えた。

 

タツヤ班長も、少し気になっていた。

 

ただ、長距離調査中。

 

通信時間も限られている。

 

任務の機密もある。

 

本人が問題ないと言う以上、今は待つしかない。

 

その状況で、さらにナッシュが入る。

 

「面倒どころじゃないな」

 

誰もいないエレベーターの中で、タツヤ班長は呟いた。

 

到着音が鳴る。

 

宇宙事業部フロア。

 

扉が開いた。

 

いつもの事務所へ続く廊下。

 

だが、今日は扉の向こうから、すでに大きな声が聞こえていた。

 

「だから、僕の席はどこだと聞いている!」

 

タツヤ班長の足が止まった。

 

まだ正式な説明もしていない。

 

受入れの連絡も、班員へ共有していない。

 

それなのに、本人の声が事務所から聞こえている。

 

「……早すぎるだろ」

 

タツヤ班長は、人事通知書を持ったまま事務所へ向かった。

 

 

十四班の事務所では、すでに小さな混乱が起きていた。

 

中央付近に、一人の青年が立っている。

 

整えられた金髪。

 

高価な生地の制服。

 

新品の操縦士用ジャケット。

 

胸元には、C級操縦士の資格章。

 

だが、服装以上に目を引くのは、その立ち方だった。

 

初めて配属された新人の姿ではない。

 

自分がここを見に来た。

 

自分が、この場所を評価する。

 

そう言わんばかりに、事務所全体を見渡している。

 

ナッシュ・ドルトムント。

 

総帥リョクの息子。

 

十四班への配属通知を受け、班長より先に事務所へ来ていた。

 

「こちらの空いている席をお使いください」

 

ガーネットが、できる限り丁寧に説明していた。

 

示しているのは、リュウジの席ではない。

 

事務所の端に用意された予備席。

 

新人や応援要員が、一時的に使用する場所だった。

 

だが、ナッシュは予備席を一度見ただけで、露骨に眉を寄せた。

 

「僕をここへ座らせるつもりか」

 

「現在、固定席として使用されていない場所はこちらになります」

 

「端ではないか」

 

「はい」

 

「僕が誰か分かっているのか」

 

ガーネットの表情が僅かに硬くなる。

 

「ナッシュ・ドルトムントさんです」

 

「名前の確認をしているんじゃない」

 

「では、何を確認されていますか」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

ガーネットの言葉は丁寧だった。

 

しかし、必要以上に持ち上げる気はない。

 

その態度が、ナッシュには気に入らなかった。

 

「僕はドルトムント財閥総帥の息子だ」

 

事務所の空気が僅かに冷える。

 

ククルは、自分の席で口を閉じた。

 

エマは静かに端末から顔を上げる。

 

カイエは、ミラとランが不用意な発言をしないよう、二人の方へ視線を向けた。

 

ミラとランは並んで立ち、戸惑ったようにナッシュを見ている。

 

ナッシュは続けた。

 

「いずれ、この財閥全体を継ぐ。その僕が、臨時要員用の端席を使うのか」

 

ガーネットは答える。

 

「十四班内の座席は、役割と設備接続に合わせて決めています」

 

「なら、役割を変えればいい」

 

「ナッシュさんの役割は、まだタツヤ班長から共有されていません」

 

「C級操縦士だ」

 

「資格は確認しています」

 

「なら操縦士用の席を用意しろ」

 

ナッシュが目を向けた先。

 

事務所の壁側。

 

航路資料。

 

操縦ログ。

 

訓練記録。

 

複数の認証機器が整然と置かれた席。

 

リュウジの席だった。

 

長期調査中のため、本人はいない。

 

だが、端末は休止状態に設定され、資料もそのまま残されている。

 

誰も勝手に触らない。

 

十四班にとって、そこは空席ではなかった。

 

帰ってくる者の席だった。

 

ナッシュは迷いなく近づく。

 

「ここがいい」

 

ククルが反射的に立ち上がった。

 

「そこはリュウジさんの席です」

 

ナッシュが振り返る。

 

「今はいないんだろう」

 

「はい。でも、リュウジさんの席です」

 

「空いているなら使えばいい」

 

ククルの表情が変わる。

 

「空いているわけではありません」

 

「本人がいないのに?」

 

「帰ってきますから」

 

短い言葉だった。

 

ナッシュは、ククルを見た。

 

自分へ即座に反論したことが意外だったのか、数秒黙る。

 

「君は?」

 

「ククルです」

 

「役職は」

 

「客室乗務員です」

 

「なら、操縦士の席について口を出す必要はない」

 

ククルの目が鋭くなる。

 

「十四班の席です」

 

「だから?」

 

「誰がどこを使っているかは、私達にも関係あります」

 

「客室乗務員が、操縦士へ指図するのか」

 

ククルが何か言い返そうとした時。

 

カイエが静かに間へ入った。

 

「ククル」

 

呼び捨て。

 

いつもの、互いに対する口調だった。

 

ククルは唇を結ぶ。

 

カイエはナッシュへ向き直った。

 

「タツヤ班長が戻るまで、予備席でお待ちください」

 

「君も客室乗務員か」

 

「はい」

 

「この班は、操縦士より客室乗務員の方が偉いのか」

 

「偉さの話はしていません」

 

「同じだろう」

 

ナッシュは不満そうに言い、リュウジの机へ手を伸ばした。

 

机の上には、訓練用の簡易航路図が置かれている。

 

端末へ触れるつもりだったのかもしれない。

 

その前に、ガーネットが一歩動いた。

 

「触らないでください」

 

声は低かった。

 

ナッシュの手が止まる。

 

「何?」

 

「その端末には、リュウジさんの操縦記録とS級案件の資料が含まれています」

 

「僕は総帥の息子だ」

 

「閲覧権限とは関係ありません」

 

「僕に見せられない資料があるのか」

 

「あります」

 

即答だった。

 

ナッシュの顔が僅かに赤くなる。

 

「君達は、僕を何だと思っている」

 

ガーネットは落ち着いた声で答える。

 

「本日から配属される予定の新人操縦士です」

 

「新人?」

 

「はい」

 

「僕を新人扱いするのか」

 

「新しく配属された方ですので」

 

「僕はC級操縦士だ」

 

「存じています」

 

「すでに複数の訓練航行を経験している」

 

「正式な営業運航の経験は?」

 

ナッシュが一瞬黙る。

 

ガーネットはそれ以上追及しなかった。

 

その沈黙だけで十分だった。

 

ナッシュの自尊心を傷つけたことも分かっていた。

 

だが、嘘をついて持ち上げるつもりもなかった。

 

「……君、名前は何だった」

 

「ガーネットです」

 

「覚えておく」

 

脅しに近い言い方だった。

 

ガーネットの表情は変わらない。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めていない」

 

「そうですか」

 

ククルが、少しだけ口元を動かした。

 

笑いそうになったのだ。

 

カイエが横目で止める。

 

ナッシュはその反応に気づき、さらに苛立った。

 

「それより、S級はどこだ」

 

事務所が静まる。

 

「リュウジという操縦士がいるんだろう」

 

ミラが答える。

 

「リュウジさんは、現在、北部未探索領域の調査任務へ出ています」

 

「いつ戻る」

 

「二か月ほどの予定です」

 

「二か月?」

 

ナッシュの顔が歪む。

 

「僕は、S級から指導を受けるために来たんだぞ」

 

ランが戸惑ったように言う。

 

「ですが、リュウジさんの任務は以前から決まっていました」

 

「僕の配属を優先して戻せばいい」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

その発想自体が、十四班の誰にもなかった。

 

未探索領域の調査任務を途中で切り上げさせる。

 

自分を指導させるために。

 

ナッシュにとっては、それが不自然なことではない。

 

自分が必要なら、他人の予定が変わる。

 

自分が望めば、周囲が調整する。

 

そういう環境で生きてきた。

 

エマが静かに言った。

 

「それはできません」

 

ナッシュが見る。

 

「君は?」

 

「エマです」

 

「できないとは?」

 

「リュウジさんは、調査隊の操縦責任者として出ています」

 

「代わりを送ればいい」

 

「簡単に代わりを送れる任務ではありません」

 

「S級は他にもいる」

 

「今回の任務には、リュウジさんが選ばれています」

 

「なら、僕が総帥へ頼めばいい」

 

エマの表情が僅かに硬くなる。

 

だが、声は穏やかなままだった。

 

「リュウジさんの任務を、ナッシュさんの訓練のために変える必要はないと思います」

 

ナッシュはエマを睨む。

 

「君達は、僕よりリュウジを優先するのか」

 

ククルが即座に答えそうになる。

 

カイエがまた止めた。

 

代わりに、ガーネットが答える。

 

「優先順位ではありません」

 

「任務中の人間を呼び戻さないだけです」

 

「僕は、その任務より価値が低いと言いたいのか」

 

「誰もそうは言っていません」

 

「同じだ」

 

ナッシュは吐き捨てるように言った。

 

その言葉に、誰も反応しなかった。

 

誰かを納得させるための会話ではない。

 

自分が一番であることを確認するための会話。

 

そう気づき始めていた。

 

 

その時。

 

事務所の扉が開いた。

 

タツヤ班長が戻ってきた。

 

全員の視線が、一斉に向く。

 

ガーネットの顔に、僅かな安堵が浮かぶ。

 

ククルはあからさまに助かったという表情をした。

 

カイエは小さく息を吐く。

 

ミラとランは姿勢を正した。

 

ナッシュだけが、堂々とその場に立ったままだった。

 

タツヤ班長は、事務所の様子を一度見渡した。

 

ナッシュ。

 

リュウジの机の前。

 

緊張した班員達。

 

机の上に置かれたままの航路資料。

 

それだけで、大体のことは理解した。

 

「もう来ていたんですね」

 

タツヤ班長が言う。

 

ナッシュは顎を僅かに上げた。

 

「遅いじゃないか」

 

事務所の空気がさらに冷える。

 

タツヤ班長は表情を変えない。

 

「役員室で、配属について説明を受けていました」

 

「僕を待たせるほどの説明が必要なのか」

 

「必要でした」

 

「ふうん」

 

ナッシュは人事通知書へ目を向ける。

 

「君がタツヤか」

 

「十四班班長のタツヤです」

 

「A級操縦士らしいな」

 

「はい」

 

「僕の指導役か」

 

「リュウジが帰還するまでは、俺が操縦訓練を担当します」

 

ナッシュは露骨に不満そうな顔をした。

 

「僕はS級に教わると聞いている」

 

「リュウジは調査任務中です」

 

「戻せないのか」

 

「戻しません」

 

今度は、誰よりも早い返答だった。

 

ナッシュが眉を寄せる。

 

「総帥が命令すれば?」

 

「調査本部と宇宙連邦連盟が判断することです」

 

「父上はドルトムント財閥の総帥だぞ」

 

「今回の調査任務は、財閥だけで動いているものではありません」

 

「僕の訓練より重要なのか」

 

タツヤ班長は数秒、ナッシュを見た。

 

「はい」

 

事務所の全員が、僅かに目を見開いた。

 

ナッシュの顔が赤くなる。

 

「何?」

 

「北部未探索領域の調査は、多くの船の安全に関わります」

 

「ナッシュさんの訓練も必要です」

 

「ですが、比較する話ではありません」

 

「今の答えでは、僕を軽く見ているように聞こえる」

 

「軽くは見ていません」

 

「なら、言い方を変えろ」

 

「事実なので変えません」

 

タツヤ班長の声は穏やかだった。

 

怒ってはいない。

 

挑発もしていない。

 

だからこそ、ナッシュには扱いづらかった。

 

怒鳴れば、相手が引く。

 

肩書きを言えば、姿勢を変える。

 

それが普通だった。

 

だが、タツヤ班長は変わらない。

 

「まず、座席について説明します」

 

タツヤ班長は、予備席を示した。

 

「当面は、こちらを使ってください」

 

「端の席は嫌だ」

 

「操縦関連の固定端末は、資格と担当便に応じて使用権限を設定します」

 

「リュウジの席があるだろう」

 

「リュウジの席です」

 

「本人はいない」

 

「帰ってきます」

 

ククルと同じ答え。

 

ナッシュは苛立ったように舌打ちした。

 

「この班は、誰も融通が利かないな」

 

「安全に関係する部分では、利かせません」

 

「僕は危険ではない」

 

「まだ判断していません」

 

「僕を評価するつもりか」

 

「班長なので」

 

ナッシュの目が鋭くなる。

 

「僕は総帥の息子だぞ」

 

「十四班では、新しく配属されたC級操縦士です」

 

同じ言葉。

 

ガーネットが先ほど言ったことと同じ。

 

ナッシュは周囲を見る。

 

誰も、自分を総帥の息子として扱おうとしない。

 

当然、知っている。

 

警戒もしている。

 

それでも、表面上は新人操縦士として接している。

 

ナッシュにとって、それは侮辱に近かった。

 

「父上へ報告する」

 

「構いません」

 

「僕への扱いが不適切だと伝える」

 

「その際は、俺も今日の状況を報告します」

 

「何を?」

 

「班長不在時に、本人の許可なくS級案件端末へ触れようとしたこと」

 

ナッシュの表情が変わる。

 

「触っていない」

 

「触ろうとしたんですか」

 

タツヤ班長はガーネットを見る。

 

「はい」

 

「まだ触れてはいません」

 

「止めましたので」

 

「分かりました」

 

タツヤ班長はナッシュへ視線を戻す。

 

「では、未遂として記録します」

 

「記録?」

 

「安全管理記録です」

 

「僕を問題職員のように扱うのか」

 

「問題があれば記録します」

 

「僕はまだ何もしていない!」

 

「権限のない端末へ触れようとした」

 

「見ようとしただけだ!」

 

「同じです」

 

「違う!」

 

ナッシュの声が、事務所へ響いた。

 

ククルの肩が僅かに動く。

 

ミラとランの表情が硬くなる。

 

タツヤ班長は声量を変えなかった。

 

「大声を出さないでください」

 

「僕に命令するのか」

 

「はい」

 

短い返答。

 

ナッシュは言葉を失った。

 

 

そこへ、事務所の扉が再び開いた。

 

「おはよう」

 

エリンの声だった。

 

少し遅れて出勤したエリンが、資料端末と乗務員用のファイルを抱えて入ってくる。

 

いつもと同じ、落ち着いた歩幅。

 

緑色の髪。

 

整えられた制服。

 

派手ではない。

 

だが、事務所へ入っただけで、全体の空気が僅かに変わる。

 

誰がどこにいるか。

 

何が止まっているか。

 

誰の表情が硬いか。

 

エリンは、扉から数歩進む間にほとんどを見ていた。

 

タツヤ班長がいる。

 

全員が作業を止めている。

 

知らない青年が、リュウジの机の前に立っている。

 

ガーネットが警戒している。

 

ククルが言い返したそうな顔をしている。

 

ミラとランが緊張している。

 

何かが起きている。

 

「タツヤ班長」

 

エリンは、班長に対してだけ少し改まった口調になる。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、エリン」

 

「何かありましたか」

 

タツヤ班長が答えようとした。

 

だが、その前に。

 

ナッシュの動きが止まった。

 

エリンを見たまま、何も言わない。

 

先ほどまでの苛立った表情が消えている。

 

怒鳴っていたことも。

 

席への不満も。

 

リュウジを戻せと言っていたことも。

 

一瞬、全て忘れたようだった。

 

エリンは、その視線にすぐ気づいた。

 

だが、反応はしない。

 

知らない人物から見られることには慣れている。

 

乗客。

 

役員。

 

取引先。

 

同僚。

 

人の視線には、様々な意味がある。

 

今のナッシュの視線は、明らかに業務上のものではなかった。

 

顔。

 

髪。

 

姿勢。

 

制服。

 

エリンという人間ではなく、自分の目を引いた女性を眺める視線。

 

エリンの目が、僅かに冷える。

 

「こちらの方は?」

 

エリンはタツヤ班長へ尋ねた。

 

ナッシュは、そこで我に返った。

 

「僕はナッシュと申します」

 

タツヤ班長が紹介する前に、自ら名乗る。

 

「ナッシュ・ドルトムントです」

 

名前の後に、僅かな間を置く。

 

相手が驚くことを期待した間だった。

 

総帥の息子。

 

ドルトムントの名。

 

多くの人間は、その名字を聞けば態度を変える。

 

だが、エリンの表情は変わらなかった。

 

「初めまして」

 

エリンは静かに答えた。

 

「十四班チーフパーサーのエリンです」

 

ナッシュの目が、さらに明るくなる。

 

「エリンさん」

 

呼び方には敬意の形がある。

 

だが、その視線には遠慮がなかった。

 

ククルの眉が動く。

 

カイエも僅かに表情を変える。

 

エリン自身は、声を荒らげなかった。

 

「はい」

 

「あなたがチーフパーサーなのですか」

 

「そうです」

 

「驚きました」

 

「何が?」

 

エリンは通常口調で返した。

 

ナッシュは一歩近づく。

 

「こんなに綺麗な女性がいらっしゃるとは、聞いていませんでした」

 

事務所の空気が止まった。

 

タツヤ班長が、僅かに目を閉じる。

 

ガーネットは表情を消す。

 

ククルは明らかに嫌そうな顔をした。

 

エマはナッシュとエリンの距離を見る。

 

カイエは、必要なら間へ入れるように僅かに身体を動かした。

 

ミラとランは互いに一度だけ視線を交わす。

 

エリンは、ナッシュを見た。

 

「それは業務に関係がありますか」

 

ナッシュが一瞬、言葉に詰まる。

 

「いえ」

 

「では、配属の説明を続けましょう」

 

エリンはタツヤ班長へ視線を戻した。

 

ナッシュの賛辞を喜ぶでもなく。

 

拒絶を強く示すでもなく。

 

業務外の言葉として切り離した。

 

その態度が、かえってナッシュの興味を強くした。

 

自分の名字に驚かない。

 

自分の容姿にも、褒め言葉にも反応しない。

 

これまで周囲にいた女性とは違う。

 

ナッシュは、そう受け取った。

 

だが、エリンが求めていたのは特別な反応ではない。

 

ただ仕事を進めようとしているだけだった。

 

「エリンさん」

 

ナッシュが再び呼ぶ。

 

「何ですか」

 

「僕のことをご存じないのですか」

 

「総帥の息子であることは知っています」

 

「でしたら、もう少し驚かれると思っていました」

 

「どうして?」

 

「僕はいずれ、この財閥を継ぎます」

 

「そうですか」

 

「それだけですか?」

 

「今の十四班での役割とは別の話でしょう」

 

ナッシュの目が僅かに細くなる。

 

だが、不快というより、面白がっているようにも見えた。

 

「エリンさんは、面白い方ですね」

 

「私は仕事の話をしています」

 

「少し堅いですね」

 

「勤務中ですから」

 

「もう少し笑われた方が、さらに綺麗だと思います」

 

エリンの表情から、僅かに温度が消えた。

 

「ナッシュ」

 

初対面にもかかわらず、呼び捨て。

 

だが、それは親しさからではない。

 

十四班の他の者と同じ距離で扱うという意思だった。

 

「ここは職場です」

 

「それが何か?」

 

「私の外見についての感想は必要ありません」

 

ナッシュは、少し驚いたように目を見開く。

 

「褒めたつもりなのですが」

 

「必要ないと言っています」

 

「普通なら喜ばれるでしょう」

 

「私は喜びません」

 

「なぜですか?」

 

「仕事と関係がないから」

 

明確だった。

 

ナッシュは、断られたことそのものより、自分の褒め言葉が価値を持たなかったことに戸惑った。

 

自分が相手を選ぶ。

 

自分が褒める。

 

相手は喜ぶ。

 

そういう流れが当然だった。

 

「エリンさんには、恋人はいらっしゃるのですか」

 

その言葉が出た瞬間。

 

タツヤ班長が口を開いた。

 

「ナッシュさん」

 

声は低かった。

 

「業務と関係のない質問はやめてください」

 

ナッシュがタツヤ班長を見る。

 

「ご本人へ聞いただけです」

 

「配属初日に聞くことではありません」

 

「何が悪い」

 

エリンが自分で答えた。

 

「答える必要がないので、答えません」

 

「いらっしゃるのですか」

 

「答えません」

 

「では、いらっしゃらないのですか」

 

「同じです」

 

ナッシュは、少しだけ笑った。

 

「ますます気に入りました」

 

ククルが小さく呟く。

 

「話、聞いてない……」

 

カイエが小声で止める。

 

「ククル」

 

「聞こえたぞ」

 

ナッシュが振り向く。

 

ククルは一瞬だけ姿勢を正した。

 

だが、引かなかった。

 

「すみません」

 

口調は丁寧。

 

表情は、全く謝っていない。

 

「ですが、エリンさんは答えないと言っています」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

「君には関係ない」

 

「あります」

 

「なぜ」

 

「エリンさんは十四班のチーフパーサーです」

 

「だから?」

 

「困らせる人がいたら、私達も気になります」

 

エリンがククルを見る。

 

「ククル、大丈夫」

 

声は柔らかい。

 

だが、その一言で、これ以上前へ出なくていいと伝えている。

 

ククルは渋々頷いた。

 

「はい」

 

ナッシュは、そのやり取りを見ていた。

 

エリンが一言言うだけで、ククルが止まる。

 

他の班員達も、エリンの様子を見ている。

 

命令していない。

 

怒鳴っていない。

 

それでも、自然に中心へ立っている。

 

ナッシュの目に、エリンはさらに魅力的に映った。

 

美しい。

 

役職がある。

 

周囲から信頼されている。

 

そして、自分へ簡単になびかない。

 

「エリンさんが、この班をまとめていらっしゃるのですか」

 

ナッシュが聞く。

 

エリンは答える。

 

「班長はタツヤ班長です」

 

「ですが、皆さんはエリンさんを見ています」

 

「客室運用については、私が責任者だからです」

 

「僕の専属になっていただけませんか」

 

全員が固まった。

 

エリンの目が完全に冷えた。

 

「なりません」

 

即答だった。

 

「まだ条件もお伝えしていません」

 

「聞く必要がありません」

 

「僕が財閥を継げば、エリンさんには今より上の立場をご用意できます」

 

「必要ありません」

 

「収入も、権限もです」

 

「必要ないと言っています」

 

「客室乗務員より、もっとエリンさんに相応しい仕事をご用意できます」

 

その言葉で、十四班全体の空気が変わった。

 

エリンの表情は動かなかった。

 

だが、声は先ほどより僅かに低くなった。

 

「客室乗務員より相応しい仕事とは、何ですか」

 

ナッシュは気づかない。

 

「僕の補佐です」

 

「客室乗務員の仕事を、下に見ていますか」

 

「そのような意味ではありません」

 

「では、どういう意味ですか」

 

「エリンさんほどの女性が、乗客の世話をするだけでは勿体ないと申し上げているのです」

 

エリンの目が鋭くなる。

 

ガーネットも、はっきりと不快な表情を見せた。

 

ククルは今度こそ言い返そうとした。

 

だが、エリンが片手を僅かに動かした。

 

それだけで止まる。

 

「私達は、乗客の世話だけをしているわけではありません」

 

エリンは静かに言った。

 

「緊急時の避難誘導。乗客の安全確認。医療対応の補助。操縦室への情報共有。客室内の混乱防止。フライトの安全を支えるのが、私達の仕事です。それを軽く扱う人とは、一緒に飛べません」

 

ナッシュの表情が僅かに固くなる。

 

「僕は操縦士です」

 

「だからこそです」

 

「どういう意味ですか?」

 

「操縦士が客室乗務員を軽く扱えば、船は壊れます」

 

エリンは一歩も引かなかった。

 

「ナッシュが十四班へ配属されるなら、最初に覚えてください。操縦室だけでフライトはできません。客室乗務員は、操縦士の使用人でも、飾りでもありません」

 

ナッシュの頬が僅かに赤くなる。

 

「僕を説教なさるのですか」

 

「必要な説明です」

 

「僕が誰なのか、分かっていらっしゃるのでしょうね」

 

「十四班へ配属されたC級操縦士です」

 

タツヤ班長。

 

ガーネット。

 

そしてエリン。

 

三人目だった。

 

ナッシュを、総帥の息子ではなく新人操縦士として扱う。

 

ナッシュの自尊心が、強く刺激される。

 

だが同時に、エリンへの興味も消えなかった。

 

むしろ、自分にこれほど明確に物を言う女性を、手に入れたいという歪んだ欲求へ変わり始めていた。

 

「分かりました」

 

ナッシュは、ゆっくりと笑った。

 

「エリンさんには、僕を認めていただきます」

 

エリンの眉が僅かに動く。

 

「私に認められるために働くのではありません」

 

「どういうことですか?」

 

「安全な操縦士になるために学んでください。結果として、私達が一緒に飛べると判断できれば認めます」

 

「できなければ、どうなさるのですか」

 

「十四班の便には乗せません」

 

ナッシュがタツヤ班長を見る。

 

「彼女に、そんな権限があるのか」

 

タツヤ班長は答える。

 

「客室の安全を確保できない操縦士について、チーフパーサーが異議を出す権限はあります」

 

「最終判断は?」

 

「俺です」

 

「なら、君が認めれば飛べる」

 

「エリンが安全上の異議を出した状態では、飛ばしません」

 

ナッシュの表情が固まる。

 

「全員で僕を試すつもりか」

 

「配属された全員を確認します」

 

「僕だけではありません」

 

「リュウジも?」

 

「しました」

 

「S級を?」

 

「はい」

 

「エリンさんが評価なさったのですか」

 

エリンが答える。

 

「操縦技術はタツヤ班長が見ました。私は、客室乗務員を人として扱えるか見ました」

 

ナッシュはエリンをじっと見た。

 

「リュウジは合格したのですか」

 

一瞬。

 

エリンの表情が僅かに柔らかくなった。

 

本人は今、遠く離れた場所で苦しんでいる。

 

そのことを、エリンはまだ知らない。

 

「今も見ています」

 

エリンは答えた。

 

「簡単に合格や不合格で決めるものではないから」

 

「随分、信用していらっしゃるように見えます」

 

「信頼しています」

 

迷いのない答えだった。

 

ナッシュの目に、不快な色が浮かぶ。

 

「恋人なのですか」

 

「答えません」

 

「ですが、信頼していらっしゃる」

 

「仕事でも人としても」

 

エリンは隠さなかった。

 

ナッシュの胸の中に、まだ会ったこともないリュウジへの対抗心が生まれた。

 

S級。

 

十四班の中心。

 

自分が使いたかった席の持ち主。

 

エリンから信頼されている男。

 

全てが気に入らなかった。

 

「ちょうどいいですね」

 

ナッシュは言った。

 

「何が?」

 

「僕が、S級より優れていることを証明します」

 

タツヤ班長が僅かに眉を寄せる。

 

「資格はC級です」

 

「今はだ」

 

「資格を上げるには訓練と実績が必要です」

 

「分かっている」

 

「それなら、最初に基礎確認を行います」

 

「僕に基礎?」

 

「はい」

 

「C級免許を持っている」

 

「免許があることと、十四班の運航基準を満たすことは別です」

 

「また試験か」

 

「嫌なら、配属を断ってください」

 

タツヤ班長は平然と言った。

 

ナッシュが睨む。

 

「父上の命令だ」

 

「なら受けてください」

 

「……いいだろう」

 

ナッシュは、余裕を見せるように笑った。

 

「僕の操縦を見れば、君達の態度も変わる」

 

誰も答えなかった。

 

変わるかもしれない。

 

良い方向とは限らない。

 

 

タツヤ班長は、ナッシュを予備席へ案内した。

 

今度は、本人も強く拒否しなかった。

 

ただし、座る前に椅子の状態を見て、露骨に不満そうな顔をした。

 

「古くないか」

 

「予備席なので」

 

ガーネットが答える。

 

「もっと良い椅子は?」

 

「ありません」

 

「総帥の息子が使うんだぞ」

 

「椅子に身分は関係ありません」

 

ナッシュは何か言い返そうとした。

 

だが、エリンが近くで資料を整理していることに気づき、言葉を飲み込んだ。

 

少しでも余裕のある姿を見せたい。

 

その意識が、先ほどまでの怒りを抑えさせた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「今日、僕の訓練をご覧になるのですか」

 

「予定を確認してから決めます」

 

「見ていただきたいです」

 

「どうして?」

 

「僕の実力を知っていただくためです」

 

「操縦技術はタツヤ班長が評価します」

 

「エリンさんにも見ていただきたいのです」

 

「必要があれば見ます」

 

「必要はあります」

 

「誰にとって?」

 

ナッシュが一瞬黙る。

 

「エリンさんにとってです」

 

「私が判断します」

 

また、簡単には思いどおりにならない。

 

ナッシュはそれを拒絶ではなく、攻略すべきものとして受け取っていた。

 

エリンは、相手の視線の意味を感じ取っていた。

 

単なる一時的な興味ならいい。

 

だが、ナッシュの目には、自分の意思よりも自分の欲求を優先する者の色がある。

 

断られた。

 

だから諦めるのではない。

 

断った相手を、自分へ向かせることが勝利だと考える。

 

危険な種類の自尊心だった。

 

エリンはタツヤ班長の近くへ移動する。

 

「タツヤ班長」

 

「うん」

 

「今日の予定、少し確認してもよろしいですか」

 

「もちろん」

 

二人は少し離れた場所へ移動した。

 

ナッシュは、その後ろ姿を見ていた。

 

エリンがタツヤ班長へだけ丁寧に話す。

 

その距離。

 

その信頼。

 

それすら、ナッシュには特別なものに見えた。

 

「随分、班長と親しいんだな」

 

ナッシュが呟く。

 

ククルが聞きつける。

 

「エリンさんとタツヤ班長は、長く一緒に働いていますから」

 

「君、よく話しかけてくるな」

 

「ナッシュさんが、皆に聞こえる声で話しているので」

 

ナッシュはククルを見る。

 

「僕のことが気になるのか」

 

「違います」

 

即答だった。

 

エマが小さく息を吐く。

 

カイエは口元を僅かに押さえた。

 

ミラとランは、互いに目を合わせてから視線を逸らす。

 

「では、なぜ答える」

 

「間違ったことを言われると気になるからです」

 

「僕が間違っていると?」

 

「エリンさんとタツヤ班長が親しいことを、変な意味で見ているように聞こえました」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

「変な意味とは?」

 

「それは自分で考えてください」

 

「ククル」

 

ガーネットが呼ぶ。

 

「少し抑えて」

 

「分かりました」

 

ククルは頷く。

 

だが、完全には納得していない。

 

ナッシュは周囲を見た。

 

全員がエリンを守るように反応する。

 

エリン自身は強い。

 

それでも、周囲も自然に動く。

 

その関係が、ナッシュには理解できなかった。

 

命令されたからではない。

 

得があるからでもない。

 

怖いからでもない。

 

互いを大切にしているから動く。

 

ナッシュの知る組織には、ほとんど存在しない関係だった。

 

だからこそ、欲しくなった。

 

エリンだけではない。

 

十四班という場所そのものを、自分へ従わせたい。

 

自分が中心に立てば、この信頼も自分へ向く。

 

そう考えた。

 

「悪くない班だ」

 

ナッシュは、誰に言うでもなく呟いた。

 

ガーネットが聞く。

 

「先ほどまで不満そうでしたが」

 

「僕が入れば、もっと良くなる」

 

「まだ何もしていません」

 

「これからする」

 

「そうですか」

 

「君達も、いずれ分かる」

 

ナッシュは、リュウジの席へもう一度視線を向けた。

 

「S級がいなくても、僕がいれば十分だと」

 

その言葉を聞いた全員の表情が、僅かに硬くなった。

 

リュウジが今、どこで何をしているのか。

 

どれほど危険な任務へ出ているのか。

 

十四班の者達は知っている。

 

それを、何も知らないナッシュが簡単に置き換えようとした。

 

エリンがタツヤ班長との話を終え、戻ってくる。

 

「何の話?」

 

ククルが答える。

 

「ナッシュさんが、自分がいればリュウジさんはいなくても十分だと言っていました」

 

「ククル!」

 

ナッシュが声を上げる。

 

「言いましたよね」

 

「意味が違う!」

 

「どこがですか」

 

エリンは二人を見た。

 

そして、ナッシュへ視線を向ける。

 

「リュウジと比べる必要はないよ」

 

声は静かだった。

 

ナッシュが答える。

 

「僕は、いずれ超えます」

 

「超えることを目的にすると、危険だよ」

 

「なぜですか?」

 

「操縦は勝負ではないから」

 

「資格には上下があります」

 

「能力の区分はある」

 

「同じではありませんか」

 

「違うよ」

 

エリンは、はっきりと答えた。

 

「上の資格を取っても、乗客を安全に帰せなければ意味がない。他の操縦士より速く飛べても、機体を壊せば意味がない。リュウジに勝つために操縦するなら、十四班では飛ばせない」

 

ナッシュはエリンを見る。

 

「エリンさんは、あの人を特別扱いしていらっしゃる」

 

「していない」

 

「名前を呼ばれる時の表情が違います」

 

エリンの表情が僅かに止まる。

 

ククル達も、少し反応した。

 

ナッシュはそれを見逃さなかった。

 

「やはり、何かあるのですか」

 

「今はナッシュの訓練の話をしています」

 

「答えを逸らされましたね」

 

「必要のない質問だから」

 

「僕には必要です」

 

「私には必要ない」

 

ナッシュは、少しだけ笑った。

 

「分かりました」

 

「何が?」

 

「リュウジが帰ってきたら、僕が直接確かめます」

 

エリンの目が細くなる。

 

「何を?」

 

「S級と呼ばれるほどの人間なのか」

 

「それから」

 

ナッシュはエリンをまっすぐ見た。

 

「エリンさんの隣にいる資格があるのか、確かめさせていただきます」

 

事務所の空気が完全に冷えた。

 

エリンの表情から、柔らかさが消える。

 

「私の隣に誰がいるかを、ナッシュが決めることではありません」

 

「僕が決めるとは申し上げていません」

 

「確かめる必要もない」

 

「僕にはあります」

 

「ないよ」

 

短い否定だった。

 

ナッシュは言い返そうとする。

 

だが、タツヤ班長が間へ入った。

 

「ナッシュさん」

 

「何だ」

 

「今日の基礎確認を始めます」

 

「今から?」

 

「はい」

 

「準備がある」

 

「新人用の基本操縦確認です」

 

「僕を新人と呼ぶな」

 

「十四班では新人です」

 

「……分かった」

 

ナッシュはエリンから視線を外した。

 

「僕の操縦をご覧になって、後悔なさらないでください」

 

「何をですか」

 

タツヤ班長が聞く。

 

「僕を端の席へ置いたことだ」

 

ナッシュは自信に満ちた表情で、訓練区画へ向かう。

 

その背中を見送りながら、ククルが小さく呟いた。

 

「すごい人が来ましたね……」

 

エマが静かに答える。

 

「別の意味でね」

 

ミラは不安そうにエリンを見る。

 

「エリンさん、大丈夫ですか」

 

「大丈夫」

 

エリンは答えた。

 

「でも、少し気をつけた方がいいと思う」

 

ランも頷く。

 

「私もそう思います」

 

カイエがナッシュの消えた扉を見る。

 

「人の話を、自分に都合のいい意味へ変えています」

 

ガーネットも静かに言う。

 

「断られたことを、まだ可能性があると受け取っています」

 

エリンは、リュウジの空席へ視線を向けた。

 

「そうね」

 

リュウジがいれば、どう対応しただろう。

 

ナッシュが自分へ近づくことに、どんな顔をしただろう。

 

淡々としているかもしれない。

 

必要なら止めるかもしれない。

 

あるいは、何も言わずに自分の判断を尊重するかもしれない。

 

だが、今はいない。

 

遠く離れた未探索領域。

 

定時連絡では問題ないとしか言わない。

 

エリンの胸に、僅かな不安が浮かんだ。

 

ナッシュのことではない。

 

リュウジのこと。

 

何かが起きている気がする。

 

言葉にできない。

 

根拠もない。

 

ただ、最近のリュウジの文章は、あまりにも整いすぎていた。

 

エリンは、自分の端末を見た。

 

最後に届いた連絡。

 

【調査は予定どおり継続しています】

 

【船体及び隊員に、任務継続を妨げる問題はありません】

 

【次回の定時連絡は予定どおり行います】

 

隙のない文章。

 

だが、以前ならあったはずの言葉がない。

 

食事の話。

 

班の話。

 

帰った後の話。

 

エリンへ向けた、短い個人的な言葉。

 

何もない。

 

「エリンさん?」

 

ククルの声で、エリンは顔を上げた。

 

「何でもない」

 

そう答えようとして、止める。

 

リュウジに、何を怖がっているか言葉にするよう伝えた。

 

自分が何でもないと言って隠せば、同じことになる。

 

「少し、リュウジの連絡が気になってる」

 

エリンは正直に言った。

 

周囲の表情が変わる。

 

ガーネットが聞く。

 

「何か書かれていましたか」

 

「逆」

 

「逆ですか?」

 

「何も書かれていないの」

 

エリンは端末を閉じる。

 

「必要な報告しかない」

 

ククルが首を傾げる。

 

「任務中だからでは?」

 

「そうかもしれない」

 

「でも」

 

エリンはリュウジの席を見る。

 

「リュウジが、本当に必要なことだけしか言わなくなる時は、少し危ないの」

 

その言葉の重さを、十四班の者達はまだ理解できなかった。

 

一方では、言葉を閉ざしたS級操縦士。

 

もう一方では、十四班へ押し込まれた総帥の息子。

 

二人は、まだ出会っていない。

 

だが、ナッシュはすでにリュウジを競争相手として見始めていた。

 

操縦士として。

 

S級として。

 

そして、エリンから信頼される男として。

 

新しい亀裂は、リュウジが帰還する前から、十四班の中で静かに広がり始めていた。

 

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