サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

84 / 100
総帥の息子

リュウジが、遠く離れた北部未探索領域で言葉を閉ざし始めていた頃。

 

スペースホープでもまた、十四班の今後を大きく変える一つの決定が下されようとしていた。

 

◇

 

ドルトムント財閥旅行会社。

 

本社タワー上層部に設けられた役員会議区画は、現場の事務所とは空気が違っていた。

 

音を吸収する分厚い床。

 

窓の外に広がる居住リング。

 

必要以上に広い会議室。

 

壁面には、財閥全体の運航実績や収益、保有船舶数が整然と表示されている。

 

その中に、現場で働く乗務員一人一人の姿はない。

 

人員数。

 

資格区分。

 

稼働率。

 

欠員。

 

予備要員。

 

全て数字だった。

 

タツヤ班長は、長い会議卓の端に座っていた。

 

目の前には、一枚の人事通知書が置かれている。

 

【宇宙事業部・旅行会社部門】

 

【第十四班配属】

 

【ナッシュ・ドルトムント】

 

【保有資格・C級操縦士免許】

 

その名前を見た時点で、タツヤ班長は、この会議が相談ではないことを理解していた。

 

ドルトムント財閥総帥、リョク。

 

その一人息子。

 

次期後継者と目されている人物。

 

形式上はC級操縦士。

 

だが、一般のC級操縦士と同じ採用過程を経た者ではない。

 

人事通知書の下部には、配属理由として簡潔な一文が記されていた。

 

【実地経験及び上位操縦士による指導を通じ、操縦能力並びに組織運営能力の向上を図る】

 

綺麗な言葉だった。

 

だが、その実態は明らかだった。

 

総帥の息子を、最も実績のある班へ入れる。

 

そして、S級パイロットの下で経験を積ませる。

 

十四班が選ばれたのは、班の事情を考えた結果ではない。

 

リュウジが所属しているからだった。

 

正面に座る役員が、淡々と説明を続ける。

 

「ナッシュ様の配属は、本日付で決定している」

 

相談ではない。

 

その言葉が、改めて示された。

 

タツヤ班長は通知書から目を上げた。

 

「一つ、確認してもいいですか」

 

「何だ」

 

「ナッシュさんはC級ライセンスの操縦士です」

 

役員の眉が僅かに動く。

 

タツヤ班長は、相手の反応を見ながら言葉を選んだ。

 

「今の十四班には、少し荷が重いかと」

 

役員室の空気が僅かに変わった。

 

タツヤ班長は、資格が低いから不要だと言っているわけではない。

 

十四班には、すでに育成中の乗務員が複数いる。

 

ランとミラは、今も現場経験を積んでいる段階。

 

ガーネットも副パーサーとして加入し、班内の役割を調整している最中だった。

 

さらに、リュウジは現在、北部未探索領域の長期調査任務へ出ている。

 

十四班の主力操縦士が不在。

 

タツヤ班長自身も、通常便の操縦、班全体の管理、若手育成を兼任している。

 

そこへ、新たにC級操縦士を受け入れる。

 

しかも、通常の新人とは違う。

 

総帥の息子。

 

指導一つ。

 

評価一つ。

 

注意一つ。

 

全てが政治問題になり得る。

 

「十四班は現在、長期調査に伴いリュウジが不在です」

 

タツヤ班長は続けた。

 

「S級の下で学ばせるという目的なら、少なくともリュウジが戻ってからの方がいいと思います」

 

役員は、手元の端末を一度確認した。

 

「リュウジの帰還は、早くても二か月後だ」

 

「はい」

 

「その間、何もさせないつもりか」

 

「別の班で基礎訓練を受けてもらう方法もあります」

 

「総帥は十四班を指定した」

 

タツヤ班長の指先が、膝の上で僅かに動いた。

 

「ですが」

 

「総帥の命令だ」

 

役員の声が、一段低くなる。

 

「S級の下で学ばせろとのことだ」

 

「リュウジは今いません」

 

「所属は十四班だ」

 

「所属しているだけでは、指導はできません」

 

「帰還するまで、お前が指導しろ」

 

予想していた答えだった。

 

それでも、タツヤ班長はすぐには頷かなかった。

 

「俺はA級です」

 

「十分だ」

 

「資格だけの問題ではありません」

 

「何が問題だ」

 

「十四班は、今、新しい人間を一人入れて済む状態ではありません」

 

役員は僅かに眉を寄せた。

 

「人員が増えることは、現場にとって不利益なのか」

 

「人が増えることと、戦力が増えることは同じではありません」

 

タツヤ班長は静かに答えた。

 

役員の表情が硬くなる。

 

言い方を誤れば、総帥の息子を戦力外と評価したと受け取られる。

 

だが、曖昧に受け入れれば、負担を負うのは十四班だった。

 

「新人を入れるなら、教育計画が必要です」

 

「その計画を作るのが班長の役目だ」

 

「はい」

 

「なら問題はない」

 

「ナッシュさん本人が、通常の新人と同じ指導を受け入れるか確認されていますか」

 

会議室が静まった。

 

役員は数秒、タツヤ班長を見た。

 

「どういう意味だ」

 

「特別扱いを望む人間を、現場で育てることはできません」

 

タツヤ班長の声は穏やかだった。

 

しかし、言葉の内容は明確だった。

 

「十四班へ入るなら、他の班員と同じように訓練を受けてもらいます。勤務予定も、安全規則も、報告義務も同じです。総帥の息子であることを理由に、その部分を変えるつもりはありません」

 

役員の目が細くなる。

 

「ナッシュ様に失礼がないようにしろ」

 

「失礼の話ではありません」

 

「口答えをするな」

 

短い言葉が、会話を切った。

 

タツヤ班長は黙る。

 

この会議に、現場判断を入れる余地はなかった。

 

役員は通知書を指先で軽く押した。

 

「配属は決定事項だ」

 

「ナッシュ様は、将来ドルトムント財閥全体を率いる立場になる」

 

「現場を知る必要がある」

 

「そのために、最も優秀な操縦士が所属する班を選んだ」

 

「十四班にとっても名誉なことだ」

 

タツヤ班長は、名誉という言葉に何も返さなかった。

 

現場へ押し付けられるものは、いつも綺麗な言葉で包まれる。

 

期待。

 

育成。

 

名誉。

 

将来。

 

その包装を剥がせば、残るのは命令だった。

 

「それと」

 

役員が続ける。

 

「ナッシュ様の評価については、役員室へ直接報告しろ」

 

「通常の人事評価では駄目なんですか」

 

「総帥が確認される」

 

「本人にも同じ内容を伝えますか」

 

「必要ない」

 

タツヤ班長の表情が変わった。

 

「本人に伝えない評価を、俺に作れということですか」

 

「言葉を選べ」

 

「評価内容を本人へ伝えず、役員室だけで共有するなら、育成にはなりません」

 

「お前は命じられた報告をすればいい」

 

また、同じだった。

 

必要なのは対話ではない。

 

命令への服従。

 

遠く離れた調査船で、ヴァレン准将がリュウジへ告げたものと、ほとんど同じ論理だった。

 

だが、タツヤ班長はそれを知らない。

 

今、リュウジが本部へ異議を退けられ、一人だけ沈黙の中へ置かれたことも知らない。

 

ただ、自分の目の前にある命令が、現場へ新しい亀裂を持ち込もうとしていることだけは分かった。

 

「分かりました」

 

タツヤ班長は答えた。

 

その言葉に、納得はなかった。

 

「十四班で受け入れます」

 

役員が満足そうに頷く。

 

「結構だ」

 

「くれぐれも粗相のないように」

 

「はい」

 

「S級が帰還した後は、優先してナッシュ様の指導へ当たらせろ」

 

タツヤ班長の目が僅かに鋭くなる。

 

「リュウジの帰還後の状態を確認してから判断します」

 

「命令だ」

 

「未探索領域から戻った直後に、すぐ指導へ入れるとは限りません」

 

「S級は、そのためにいる」

 

タツヤ班長は、そこで完全に口を閉じた。

 

S級は、そのためにいる。

 

人ではなく、能力。

 

帰還した直後の疲労も。

 

任務で何を経験したかも。

 

心理状態も。

 

何も考慮されていない。

 

総帥の息子を育てるために使う。

 

ただ、それだけだった。

 

「承知しました」

 

タツヤ班長は、低く答えた。

 

それ以上、何も言えなかった。

 

◇

 

役員会議区画を出た後。

 

タツヤ班長は、エレベーターの中で一人、深く息を吐いた。

 

手元には、人事通知書。

 

ナッシュ・ドルトムント。

 

C級操縦士。

 

十四班配属。

 

リュウジの下で指導。

 

文字を見れば見るほど、頭が重くなった。

 

十四班の現在の状況を思い浮かべる。

 

エリンは、リュウジが長期調査へ出た後も、班全体を崩さないように働いている。

 

通常便。

 

応援勤務。

 

若手の教育。

 

勤務表の調整。

 

さらに、リュウジから届く定時連絡も気にしていた。

 

最近の連絡は、以前より短い。

 

問題ありません。

 

予定どおりです。

 

調査を継続しています。

 

食事は取っています。

 

休息も取っています。

 

エリンが何を聞いても、返ってくる言葉は整っていた。

 

だが、それだけに見えた。

 

タツヤ班長も、少し気になっていた。

 

ただ、長距離調査中。

 

通信時間も限られている。

 

任務の機密もある。

 

本人が問題ないと言う以上、今は待つしかない。

 

その状況で、さらにナッシュが入る。

 

「面倒どころじゃないな」

 

誰もいないエレベーターの中で、タツヤ班長は呟いた。

 

到着音が鳴る。

 

宇宙事業部フロア。

 

扉が開いた。

 

いつもの事務所へ続く廊下。

 

だが、今日は扉の向こうから、すでに大きな声が聞こえていた。

 

「だから、僕の席はどこだと聞いている!」

 

タツヤ班長の足が止まった。

 

まだ正式な説明もしていない。

 

受入れの連絡も、班員へ共有していない。

 

それなのに、本人の声が事務所から聞こえている。

 

「……早すぎるだろ」

 

タツヤ班長は、人事通知書を持ったまま事務所へ向かった。

 

◇

 

十四班の事務所では、すでに小さな混乱が起きていた。

 

中央付近に、一人の青年が立っている。

 

整えられた金髪。

 

高価な生地の制服。

 

新品の操縦士用ジャケット。

 

胸元には、C級操縦士の資格章。

 

だが、服装以上に目を引くのは、その立ち方だった。

 

初めて配属された新人の姿ではない。

 

自分がここを見に来た。

 

自分が、この場所を評価する。

 

そう言わんばかりに、事務所全体を見渡している。

 

ナッシュ・ドルトムント。

 

総帥リョクの息子。

 

十四班への配属通知を受け、班長より先に事務所へ来ていた。

 

「こちらの空いている席をお使いください」

 

ガーネットが、できる限り丁寧に説明していた。

 

示しているのは、リュウジの席ではない。

 

事務所の端に用意された予備席。

 

新人や応援要員が、一時的に使用する場所だった。

 

だが、ナッシュは予備席を一度見ただけで、露骨に眉を寄せた。

 

「僕をここへ座らせるつもりか」

 

「現在、固定席として使用されていない場所はこちらになります」

 

「端ではないか」

 

「はい」

 

「僕が誰か分かっているのか」

 

ガーネットの表情が僅かに硬くなる。

 

「ナッシュ・ドルトムントさんです」

 

「名前の確認をしているんじゃない」

 

「では、何を確認されていますか」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

ガーネットの言葉は丁寧だった。

 

しかし、必要以上に持ち上げる気はない。

 

その態度が、ナッシュには気に入らなかった。

 

「僕はドルトムント財閥総帥の息子だ」

 

事務所の空気が僅かに冷える。

 

ククルは、自分の席で口を閉じた。

 

エマは静かに端末から顔を上げる。

 

カイエは、ミラとランが不用意な発言をしないよう、二人の方へ視線を向けた。

 

ミラとランは並んで立ち、戸惑ったようにナッシュを見ている。

 

ナッシュは続けた。

 

「いずれ、この財閥全体を継ぐ。その僕が、臨時要員用の端席を使うのか」

 

ガーネットは答える。

 

「十四班内の座席は、役割と設備接続に合わせて決めています」

 

「なら、役割を変えればいい」

 

「ナッシュさんの役割は、まだタツヤ班長から共有されていません」

 

「C級操縦士だ」

 

「資格は確認しています」

 

「なら操縦士用の席を用意しろ」

 

ナッシュが目を向けた先。

 

事務所の壁側。

 

航路資料。

 

操縦ログ。

 

訓練記録。

 

複数の認証機器が整然と置かれた席。

 

リュウジの席だった。

 

長期調査中のため、本人はいない。

 

だが、端末は休止状態に設定され、資料もそのまま残されている。

 

誰も勝手に触らない。

 

十四班にとって、そこは空席ではなかった。

 

帰ってくる者の席だった。

 

ナッシュは迷いなく近づく。

 

「ここがいい」

 

ククルが反射的に立ち上がった。

 

「そこはリュウジさんの席です」

 

ナッシュが振り返る。

 

「今はいないんだろう」

 

「はい。でも、リュウジさんの席です」

 

「空いているなら使えばいい」

 

ククルの表情が変わる。

 

「空いているわけではありません」

 

「本人がいないのに?」

 

「帰ってきますから」

 

短い言葉だった。

 

ナッシュは、ククルを見た。

 

自分へ即座に反論したことが意外だったのか、数秒黙る。

 

「君は?」

 

「ククルです」

 

「役職は」

 

「客室乗務員です」

 

「なら、操縦士の席について口を出す必要はない」

 

ククルの目が鋭くなる。

 

「十四班の席です」

 

「だから?」

 

「誰がどこを使っているかは、私達にも関係あります」

 

「客室乗務員が、操縦士へ指図するのか」

 

ククルが何か言い返そうとした時。

 

カイエが静かに間へ入った。

 

「ククル」

 

呼び捨て。

 

いつもの、互いに対する口調だった。

 

ククルは唇を結ぶ。

 

カイエはナッシュへ向き直った。

 

「タツヤ班長が戻るまで、予備席でお待ちください」

 

「君も客室乗務員か」

 

「はい」

 

「この班は、操縦士より客室乗務員の方が偉いのか」

 

「偉さの話はしていません」

 

「同じだろう」

 

ナッシュは不満そうに言い、リュウジの机へ手を伸ばした。

 

机の上には、訓練用の簡易航路図が置かれている。

 

端末へ触れるつもりだったのかもしれない。

 

その前に、ガーネットが一歩動いた。

 

「触らないでください」

 

声は低かった。

 

ナッシュの手が止まる。

 

「何?」

 

「その端末には、リュウジさんの操縦記録とS級案件の資料が含まれています」

 

「僕は総帥の息子だ」

 

「閲覧権限とは関係ありません」

 

「僕に見せられない資料があるのか」

 

「あります」

 

即答だった。

 

ナッシュの顔が僅かに赤くなる。

 

「君達は、僕を何だと思っている」

 

ガーネットは落ち着いた声で答える。

 

「本日から配属される予定の新人操縦士です」

 

「新人?」

 

「はい」

 

「僕を新人扱いするのか」

 

「新しく配属された方ですので」

 

「僕はC級操縦士だ」

 

「存じています」

 

「すでに複数の訓練航行を経験している」

 

「正式な営業運航の経験は?」

 

ナッシュが一瞬黙る。

 

ガーネットはそれ以上追及しなかった。

 

その沈黙だけで十分だった。

 

ナッシュの自尊心を傷つけたことも分かっていた。

 

だが、嘘をついて持ち上げるつもりもなかった。

 

「……君、名前は何だった」

 

「ガーネットです」

 

「覚えておく」

 

脅しに近い言い方だった。

 

ガーネットの表情は変わらない。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めていない」

 

「そうですか」

 

ククルが、少しだけ口元を動かした。

 

笑いそうになったのだ。

 

カイエが横目で止める。

 

ナッシュはその反応に気づき、さらに苛立った。

 

「それより、S級はどこだ」

 

事務所が静まる。

 

「リュウジという操縦士がいるんだろう」

 

ミラが答える。

 

「リュウジさんは、現在、北部未探索領域の調査任務へ出ています」

 

「いつ戻る」

 

「二か月ほどの予定です」

 

「二か月?」

 

ナッシュの顔が歪む。

 

「僕は、S級から指導を受けるために来たんだぞ」

 

ランが戸惑ったように言う。

 

「ですが、リュウジさんの任務は以前から決まっていました」

 

「僕の配属を優先して戻せばいい」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

その発想自体が、十四班の誰にもなかった。

 

未探索領域の調査任務を途中で切り上げさせる。

 

自分を指導させるために。

 

ナッシュにとっては、それが不自然なことではない。

 

自分が必要なら、他人の予定が変わる。

 

自分が望めば、周囲が調整する。

 

そういう環境で生きてきた。

 

エマが静かに言った。

 

「それはできません」

 

ナッシュが見る。

 

「君は?」

 

「エマです」

 

「できないとは?」

 

「リュウジさんは、調査隊の操縦責任者として出ています」

 

「代わりを送ればいい」

 

「簡単に代わりを送れる任務ではありません」

 

「S級は他にもいる」

 

「今回の任務には、リュウジさんが選ばれています」

 

「なら、僕が総帥へ頼めばいい」

 

エマの表情が僅かに硬くなる。

 

だが、声は穏やかなままだった。

 

「リュウジさんの任務を、ナッシュさんの訓練のために変える必要はないと思います」

 

ナッシュはエマを睨む。

 

「君達は、僕よりリュウジを優先するのか」

 

ククルが即座に答えそうになる。

 

カイエがまた止めた。

 

代わりに、ガーネットが答える。

 

「優先順位ではありません」

 

「任務中の人間を呼び戻さないだけです」

 

「僕は、その任務より価値が低いと言いたいのか」

 

「誰もそうは言っていません」

 

「同じだ」

 

ナッシュは吐き捨てるように言った。

 

その言葉に、誰も反応しなかった。

 

誰かを納得させるための会話ではない。

 

自分が一番であることを確認するための会話。

 

そう気づき始めていた。

 

◇

 

その時。

 

事務所の扉が開いた。

 

タツヤ班長が戻ってきた。

 

全員の視線が、一斉に向く。

 

ガーネットの顔に、僅かな安堵が浮かぶ。

 

ククルはあからさまに助かったという表情をした。

 

カイエは小さく息を吐く。

 

ミラとランは姿勢を正した。

 

ナッシュだけが、堂々とその場に立ったままだった。

 

タツヤ班長は、事務所の様子を一度見渡した。

 

ナッシュ。

 

リュウジの机の前。

 

緊張した班員達。

 

机の上に置かれたままの航路資料。

 

それだけで、大体のことは理解した。

 

「もう来ていたんですね」

 

タツヤ班長が言う。

 

ナッシュは顎を僅かに上げた。

 

「遅いじゃないか」

 

事務所の空気がさらに冷える。

 

タツヤ班長は表情を変えない。

 

「役員室で、配属について説明を受けていました」

 

「僕を待たせるほどの説明が必要なのか」

 

「必要でした」

 

「ふうん」

 

ナッシュは人事通知書へ目を向ける。

 

「君がタツヤか」

 

「十四班班長のタツヤです」

 

「A級操縦士らしいな」

 

「はい」

 

「僕の指導役か」

 

「リュウジが帰還するまでは、俺が操縦訓練を担当します」

 

ナッシュは露骨に不満そうな顔をした。

 

「僕はS級に教わると聞いている」

 

「リュウジは調査任務中です」

 

「戻せないのか」

 

「戻しません」

 

今度は、誰よりも早い返答だった。

 

ナッシュが眉を寄せる。

 

「総帥が命令すれば?」

 

「調査本部と宇宙連邦連盟が判断することです」

 

「父上はドルトムント財閥の総帥だぞ」

 

「今回の調査任務は、財閥だけで動いているものではありません」

 

「僕の訓練より重要なのか」

 

タツヤ班長は数秒、ナッシュを見た。

 

「はい」

 

事務所の全員が、僅かに目を見開いた。

 

ナッシュの顔が赤くなる。

 

「何?」

 

「北部未探索領域の調査は、多くの船の安全に関わります」

 

「ナッシュさんの訓練も必要です」

 

「ですが、比較する話ではありません」

 

「今の答えでは、僕を軽く見ているように聞こえる」

 

「軽くは見ていません」

 

「なら、言い方を変えろ」

 

「事実なので変えません」

 

タツヤ班長の声は穏やかだった。

 

怒ってはいない。

 

挑発もしていない。

 

だからこそ、ナッシュには扱いづらかった。

 

怒鳴れば、相手が引く。

 

肩書きを言えば、姿勢を変える。

 

それが普通だった。

 

だが、タツヤ班長は変わらない。

 

「まず、座席について説明します」

 

タツヤ班長は、予備席を示した。

 

「当面は、こちらを使ってください」

 

「端の席は嫌だ」

 

「操縦関連の固定端末は、資格と担当便に応じて使用権限を設定します」

 

「リュウジの席があるだろう」

 

「リュウジの席です」

 

「本人はいない」

 

「帰ってきます」

 

ククルと同じ答え。

 

ナッシュは苛立ったように舌打ちした。

 

「この班は、誰も融通が利かないな」

 

「安全に関係する部分では、利かせません」

 

「僕は危険ではない」

 

「まだ判断していません」

 

「僕を評価するつもりか」

 

「班長なので」

 

ナッシュの目が鋭くなる。

 

「僕は総帥の息子だぞ」

 

「十四班では、新しく配属されたC級操縦士です」

 

同じ言葉。

 

ガーネットが先ほど言ったことと同じ。

 

ナッシュは周囲を見る。

 

誰も、自分を総帥の息子として扱おうとしない。

 

当然、知っている。

 

警戒もしている。

 

それでも、表面上は新人操縦士として接している。

 

ナッシュにとって、それは侮辱に近かった。

 

「父上へ報告する」

 

「構いません」

 

「僕への扱いが不適切だと伝える」

 

「その際は、俺も今日の状況を報告します」

 

「何を?」

 

「班長不在時に、本人の許可なくS級案件端末へ触れようとしたこと」

 

ナッシュの表情が変わる。

 

「触っていない」

 

「触ろうとしたんですか」

 

タツヤ班長はガーネットを見る。

 

「はい」

 

「まだ触れてはいません」

 

「止めましたので」

 

「分かりました」

 

タツヤ班長はナッシュへ視線を戻す。

 

「では、未遂として記録します」

 

「記録?」

 

「安全管理記録です」

 

「僕を問題職員のように扱うのか」

 

「問題があれば記録します」

 

「僕はまだ何もしていない!」

 

「権限のない端末へ触れようとした」

 

「見ようとしただけだ!」

 

「同じです」

 

「違う!」

 

ナッシュの声が、事務所へ響いた。

 

ククルの肩が僅かに動く。

 

ミラとランの表情が硬くなる。

 

タツヤ班長は声量を変えなかった。

 

「大声を出さないでください」

 

「僕に命令するのか」

 

「はい」

 

短い返答。

 

ナッシュは言葉を失った。

 

◇

 

そこへ、事務所の扉が再び開いた。

 

「おはよう」

 

エリンの声だった。

 

少し遅れて出勤したエリンが、資料端末と乗務員用のファイルを抱えて入ってくる。

 

いつもと同じ、落ち着いた歩幅。

 

緑色の髪。

 

整えられた制服。

 

派手ではない。

 

だが、事務所へ入っただけで、全体の空気が僅かに変わる。

 

誰がどこにいるか。

 

何が止まっているか。

 

誰の表情が硬いか。

 

エリンは、扉から数歩進む間にほとんどを見ていた。

 

タツヤ班長がいる。

 

全員が作業を止めている。

 

知らない青年が、リュウジの机の前に立っている。

 

ガーネットが警戒している。

 

ククルが言い返したそうな顔をしている。

 

ミラとランが緊張している。

 

何かが起きている。

 

「タツヤ班長」

 

エリンは、班長に対してだけ少し改まった口調になる。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、エリン」

 

「何かありましたか」

 

タツヤ班長が答えようとした。

 

だが、その前に。

 

ナッシュの動きが止まった。

 

エリンを見たまま、何も言わない。

 

先ほどまでの苛立った表情が消えている。

 

怒鳴っていたことも。

 

席への不満も。

 

リュウジを戻せと言っていたことも。

 

一瞬、全て忘れたようだった。

 

エリンは、その視線にすぐ気づいた。

 

だが、反応はしない。

 

知らない人物から見られることには慣れている。

 

乗客。

 

役員。

 

取引先。

 

同僚。

 

人の視線には、様々な意味がある。

 

今のナッシュの視線は、明らかに業務上のものではなかった。

 

顔。

 

髪。

 

姿勢。

 

制服。

 

エリンという人間ではなく、自分の目を引いた女性を眺める視線。

 

エリンの目が、僅かに冷える。

 

「こちらの方は?」

 

エリンはタツヤ班長へ尋ねた。

 

ナッシュは、そこで我に返った。

 

「僕はナッシュと申します」

 

タツヤ班長が紹介する前に、自ら名乗る。

 

「ナッシュ・ドルトムントです」

 

名前の後に、僅かな間を置く。

 

相手が驚くことを期待した間だった。

 

総帥の息子。

 

ドルトムントの名。

 

多くの人間は、その名字を聞けば態度を変える。

 

だが、エリンの表情は変わらなかった。

 

「初めまして」

 

エリンは静かに答えた。

 

「十四班チーフパーサーのエリンです」

 

ナッシュの目が、さらに明るくなる。

 

「エリンさん」

 

呼び方には敬意の形がある。

 

だが、その視線には遠慮がなかった。

 

ククルの眉が動く。

 

カイエも僅かに表情を変える。

 

エリン自身は、声を荒らげなかった。

 

「はい」

 

「あなたがチーフパーサーなのですか」

 

「そうです」

 

「驚きました」

 

「何が?」

 

エリンは通常口調で返した。

 

ナッシュは一歩近づく。

 

「こんなに綺麗な女性がいらっしゃるとは、聞いていませんでした」

 

事務所の空気が止まった。

 

タツヤ班長が、僅かに目を閉じる。

 

ガーネットは表情を消す。

 

ククルは明らかに嫌そうな顔をした。

 

エマはナッシュとエリンの距離を見る。

 

カイエは、必要なら間へ入れるように僅かに身体を動かした。

 

ミラとランは互いに一度だけ視線を交わす。

 

エリンは、ナッシュを見た。

 

「それは業務に関係がありますか」

 

ナッシュが一瞬、言葉に詰まる。

 

「いえ」

 

「では、配属の説明を続けましょう」

 

エリンはタツヤ班長へ視線を戻した。

 

ナッシュの賛辞を喜ぶでもなく。

 

拒絶を強く示すでもなく。

 

業務外の言葉として切り離した。

 

その態度が、かえってナッシュの興味を強くした。

 

自分の名字に驚かない。

 

自分の容姿にも、褒め言葉にも反応しない。

 

これまで周囲にいた女性とは違う。

 

ナッシュは、そう受け取った。

 

だが、エリンが求めていたのは特別な反応ではない。

 

ただ仕事を進めようとしているだけだった。

 

「エリンさん」

 

ナッシュが再び呼ぶ。

 

「何ですか」

 

「僕のことをご存じないのですか」

 

「総帥の息子であることは知っています」

 

「でしたら、もう少し驚かれると思っていました」

 

「どうして?」

 

「僕はいずれ、この財閥を継ぎます」

 

「そうですか」

 

「それだけですか?」

 

「今の十四班での役割とは別の話でしょう」

 

ナッシュの目が僅かに細くなる。

 

だが、不快というより、面白がっているようにも見えた。

 

「エリンさんは、面白い方ですね」

 

「私は仕事の話をしています」

 

「少し堅いですね」

 

「勤務中ですから」

 

「もう少し笑われた方が、さらに綺麗だと思います」

 

エリンの表情から、僅かに温度が消えた。

 

「ナッシュ」

 

初対面にもかかわらず、呼び捨て。

 

だが、それは親しさからではない。

 

十四班の他の者と同じ距離で扱うという意思だった。

 

「ここは職場です」

 

「それが何か?」

 

「私の外見についての感想は必要ありません」

 

ナッシュは、少し驚いたように目を見開く。

 

「褒めたつもりなのですが」

 

「必要ないと言っています」

 

「普通なら喜ばれるでしょう」

 

「私は喜びません」

 

「なぜですか?」

 

「仕事と関係がないから」

 

明確だった。

 

ナッシュは、断られたことそのものより、自分の褒め言葉が価値を持たなかったことに戸惑った。

 

自分が相手を選ぶ。

 

自分が褒める。

 

相手は喜ぶ。

 

そういう流れが当然だった。

 

「エリンさんには、恋人はいらっしゃるのですか」

 

その言葉が出た瞬間。

 

タツヤ班長が口を開いた。

 

「ナッシュさん」

 

声は低かった。

 

「業務と関係のない質問はやめてください」

 

ナッシュがタツヤ班長を見る。

 

「ご本人へ聞いただけです」

 

「配属初日に聞くことではありません」

 

「何が悪い」

 

エリンが自分で答えた。

 

「答える必要がないので、答えません」

 

「いらっしゃるのですか」

 

「答えません」

 

「では、いらっしゃらないのですか」

 

「同じです」

 

ナッシュは、少しだけ笑った。

 

「ますます気に入りました」

 

ククルが小さく呟く。

 

「話、聞いてない……」

 

カイエが小声で止める。

 

「ククル」

 

「聞こえたぞ」

 

ナッシュが振り向く。

 

ククルは一瞬だけ姿勢を正した。

 

だが、引かなかった。

 

「すみません」

 

口調は丁寧。

 

表情は、全く謝っていない。

 

「ですが、エリンさんは答えないと言っています」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

「君には関係ない」

 

「あります」

 

「なぜ」

 

「エリンさんは十四班のチーフパーサーです」

 

「だから?」

 

「困らせる人がいたら、私達も気になります」

 

エリンがククルを見る。

 

「ククル、大丈夫」

 

声は柔らかい。

 

だが、その一言で、これ以上前へ出なくていいと伝えている。

 

ククルは渋々頷いた。

 

「はい」

 

ナッシュは、そのやり取りを見ていた。

 

エリンが一言言うだけで、ククルが止まる。

 

他の班員達も、エリンの様子を見ている。

 

命令していない。

 

怒鳴っていない。

 

それでも、自然に中心へ立っている。

 

ナッシュの目に、エリンはさらに魅力的に映った。

 

美しい。

 

役職がある。

 

周囲から信頼されている。

 

そして、自分へ簡単になびかない。

 

「エリンさんが、この班をまとめていらっしゃるのですか」

 

ナッシュが聞く。

 

エリンは答える。

 

「班長はタツヤ班長です」

 

「ですが、皆さんはエリンさんを見ています」

 

「客室運用については、私が責任者だからです」

 

「僕の専属になっていただけませんか」

 

全員が固まった。

 

エリンの目が完全に冷えた。

 

「なりません」

 

即答だった。

 

「まだ条件もお伝えしていません」

 

「聞く必要がありません」

 

「僕が財閥を継げば、エリンさんには今より上の立場をご用意できます」

 

「必要ありません」

 

「収入も、権限もです」

 

「必要ないと言っています」

 

「客室乗務員より、もっとエリンさんに相応しい仕事をご用意できます」

 

その言葉で、十四班全体の空気が変わった。

 

エリンの表情は動かなかった。

 

だが、声は先ほどより僅かに低くなった。

 

「客室乗務員より相応しい仕事とは、何ですか」

 

ナッシュは気づかない。

 

「僕の補佐です」

 

「客室乗務員の仕事を、下に見ていますか」

 

「そのような意味ではありません」

 

「では、どういう意味ですか」

 

「エリンさんほどの女性が、乗客の世話をするだけでは勿体ないと申し上げているのです」

 

エリンの目が鋭くなる。

 

ガーネットも、はっきりと不快な表情を見せた。

 

ククルは今度こそ言い返そうとした。

 

だが、エリンが片手を僅かに動かした。

 

それだけで止まる。

 

「私達は、乗客の世話だけをしているわけではありません」

 

エリンは静かに言った。

 

「緊急時の避難誘導。乗客の安全確認。医療対応の補助。操縦室への情報共有。客室内の混乱防止。フライトの安全を支えるのが、私達の仕事です。それを軽く扱う人とは、一緒に飛べません」

 

ナッシュの表情が僅かに固くなる。

 

「僕は操縦士です」

 

「だからこそです」

 

「どういう意味ですか?」

 

「操縦士が客室乗務員を軽く扱えば、船は壊れます」

 

エリンは一歩も引かなかった。

 

「ナッシュが十四班へ配属されるなら、最初に覚えてください。操縦室だけでフライトはできません。客室乗務員は、操縦士の使用人でも、飾りでもありません」

 

ナッシュの頬が僅かに赤くなる。

 

「僕を説教なさるのですか」

 

「必要な説明です」

 

「僕が誰なのか、分かっていらっしゃるのでしょうね」

 

「十四班へ配属されたC級操縦士です」

 

タツヤ班長。

 

ガーネット。

 

そしてエリン。

 

三人目だった。

 

ナッシュを、総帥の息子ではなく新人操縦士として扱う。

 

ナッシュの自尊心が、強く刺激される。

 

だが同時に、エリンへの興味も消えなかった。

 

むしろ、自分にこれほど明確に物を言う女性を、手に入れたいという歪んだ欲求へ変わり始めていた。

 

「分かりました」

 

ナッシュは、ゆっくりと笑った。

 

「エリンさんには、僕を認めていただきます」

 

エリンの眉が僅かに動く。

 

「私に認められるために働くのではありません」

 

「どういうことですか?」

 

「安全な操縦士になるために学んでください。結果として、私達が一緒に飛べると判断できれば認めます」

 

「できなければ、どうなさるのですか」

 

「十四班の便には乗せません」

 

ナッシュがタツヤ班長を見る。

 

「彼女に、そんな権限があるのか」

 

タツヤ班長は答える。

 

「客室の安全を確保できない操縦士について、チーフパーサーが異議を出す権限はあります」

 

「最終判断は?」

 

「俺です」

 

「なら、君が認めれば飛べる」

 

「エリンが安全上の異議を出した状態では、飛ばしません」

 

ナッシュの表情が固まる。

 

「全員で僕を試すつもりか」

 

「配属された全員を確認します」

 

「僕だけではありません」

 

「リュウジも?」

 

「しました」

 

「S級を?」

 

「はい」

 

「エリンさんが評価なさったのですか」

 

エリンが答える。

 

「操縦技術はタツヤ班長が見ました。私は、客室乗務員を人として扱えるか見ました」

 

ナッシュはエリンをじっと見た。

 

「リュウジは合格したのですか」

 

一瞬。

 

エリンの表情が僅かに柔らかくなった。

 

本人は今、遠く離れた場所で苦しんでいる。

 

そのことを、エリンはまだ知らない。

 

「今も見ています」

 

エリンは答えた。

 

「簡単に合格や不合格で決めるものではないから」

 

「随分、信用していらっしゃるように見えます」

 

「信頼しています」

 

迷いのない答えだった。

 

ナッシュの目に、不快な色が浮かぶ。

 

「恋人なのですか」

 

「答えません」

 

「ですが、信頼していらっしゃる」

 

「仕事でも人としても」

 

エリンは隠さなかった。

 

ナッシュの胸の中に、まだ会ったこともないリュウジへの対抗心が生まれた。

 

S級。

 

十四班の中心。

 

自分が使いたかった席の持ち主。

 

エリンから信頼されている男。

 

全てが気に入らなかった。

 

「ちょうどいいですね」

 

ナッシュは言った。

 

「何が?」

 

「僕が、S級より優れていることを証明します」

 

タツヤ班長が僅かに眉を寄せる。

 

「資格はC級です」

 

「今はだ」

 

「資格を上げるには訓練と実績が必要です」

 

「分かっている」

 

「それなら、最初に基礎確認を行います」

 

「僕に基礎?」

 

「はい」

 

「C級免許を持っている」

 

「免許があることと、十四班の運航基準を満たすことは別です」

 

「また試験か」

 

「嫌なら、配属を断ってください」

 

タツヤ班長は平然と言った。

 

ナッシュが睨む。

 

「父上の命令だ」

 

「なら受けてください」

 

「……いいだろう」

 

ナッシュは、余裕を見せるように笑った。

 

「僕の操縦を見れば、君達の態度も変わる」

 

誰も答えなかった。

 

変わるかもしれない。

 

良い方向とは限らない。

 

◇

 

タツヤ班長は、ナッシュを予備席へ案内した。

 

今度は、本人も強く拒否しなかった。

 

ただし、座る前に椅子の状態を見て、露骨に不満そうな顔をした。

 

「古くないか」

 

「予備席なので」

 

ガーネットが答える。

 

「もっと良い椅子は?」

 

「ありません」

 

「総帥の息子が使うんだぞ」

 

「椅子に身分は関係ありません」

 

ナッシュは何か言い返そうとした。

 

だが、エリンが近くで資料を整理していることに気づき、言葉を飲み込んだ。

 

少しでも余裕のある姿を見せたい。

 

その意識が、先ほどまでの怒りを抑えさせた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「今日、僕の訓練をご覧になるのですか」

 

「予定を確認してから決めます」

 

「見ていただきたいです」

 

「どうして?」

 

「僕の実力を知っていただくためです」

 

「操縦技術はタツヤ班長が評価します」

 

「エリンさんにも見ていただきたいのです」

 

「必要があれば見ます」

 

「必要はあります」

 

「誰にとって?」

 

ナッシュが一瞬黙る。

 

「エリンさんにとってです」

 

「私が判断します」

 

また、簡単には思いどおりにならない。

 

ナッシュはそれを拒絶ではなく、攻略すべきものとして受け取っていた。

 

エリンは、相手の視線の意味を感じ取っていた。

 

単なる一時的な興味ならいい。

 

だが、ナッシュの目には、自分の意思よりも自分の欲求を優先する者の色がある。

 

断られた。

 

だから諦めるのではない。

 

断った相手を、自分へ向かせることが勝利だと考える。

 

危険な種類の自尊心だった。

 

エリンはタツヤ班長の近くへ移動する。

 

「タツヤ班長」

 

「うん」

 

「今日の予定、少し確認してもよろしいですか」

 

「もちろん」

 

二人は少し離れた場所へ移動した。

 

ナッシュは、その後ろ姿を見ていた。

 

エリンがタツヤ班長へだけ丁寧に話す。

 

その距離。

 

その信頼。

 

それすら、ナッシュには特別なものに見えた。

 

「随分、班長と親しいんだな」

 

ナッシュが呟く。

 

ククルが聞きつける。

 

「エリンさんとタツヤ班長は、長く一緒に働いていますから」

 

「君、よく話しかけてくるな」

 

「ナッシュさんが、皆に聞こえる声で話しているので」

 

ナッシュはククルを見る。

 

「僕のことが気になるのか」

 

「違います」

 

即答だった。

 

エマが小さく息を吐く。

 

カイエは口元を僅かに押さえた。

 

ミラとランは、互いに目を合わせてから視線を逸らす。

 

「では、なぜ答える」

 

「間違ったことを言われると気になるからです」

 

「僕が間違っていると?」

 

「エリンさんとタツヤ班長が親しいことを、変な意味で見ているように聞こえました」

 

ナッシュの眉が上がる。

 

「変な意味とは?」

 

「それは自分で考えてください」

 

「ククル」

 

ガーネットが呼ぶ。

 

「少し抑えて」

 

「分かりました」

 

ククルは頷く。

 

だが、完全には納得していない。

 

ナッシュは周囲を見た。

 

全員がエリンを守るように反応する。

 

エリン自身は強い。

 

それでも、周囲も自然に動く。

 

その関係が、ナッシュには理解できなかった。

 

命令されたからではない。

 

得があるからでもない。

 

怖いからでもない。

 

互いを大切にしているから動く。

 

ナッシュの知る組織には、ほとんど存在しない関係だった。

 

だからこそ、欲しくなった。

 

エリンだけではない。

 

十四班という場所そのものを、自分へ従わせたい。

 

自分が中心に立てば、この信頼も自分へ向く。

 

そう考えた。

 

「悪くない班だ」

 

ナッシュは、誰に言うでもなく呟いた。

 

ガーネットが聞く。

 

「先ほどまで不満そうでしたが」

 

「僕が入れば、もっと良くなる」

 

「まだ何もしていません」

 

「これからする」

 

「そうですか」

 

「君達も、いずれ分かる」

 

ナッシュは、リュウジの席へもう一度視線を向けた。

 

「S級がいなくても、僕がいれば十分だと」

 

その言葉を聞いた全員の表情が、僅かに硬くなった。

 

リュウジが今、どこで何をしているのか。

 

どれほど危険な任務へ出ているのか。

 

十四班の者達は知っている。

 

それを、何も知らないナッシュが簡単に置き換えようとした。

 

エリンがタツヤ班長との話を終え、戻ってくる。

 

「何の話?」

 

ククルが答える。

 

「ナッシュさんが、自分がいればリュウジさんはいなくても十分だと言っていました」

 

「ククル!」

 

ナッシュが声を上げる。

 

「言いましたよね」

 

「意味が違う!」

 

「どこがですか」

 

エリンは二人を見た。

 

そして、ナッシュへ視線を向ける。

 

「リュウジと比べる必要はないよ」

 

声は静かだった。

 

ナッシュが答える。

 

「僕は、いずれ超えます」

 

「超えることを目的にすると、危険だよ」

 

「なぜですか?」

 

「操縦は勝負ではないから」

 

「資格には上下があります」

 

「能力の区分はある」

 

「同じではありませんか」

 

「違うよ」

 

エリンは、はっきりと答えた。

 

「上の資格を取っても、乗客を安全に帰せなければ意味がない。他の操縦士より速く飛べても、機体を壊せば意味がない。リュウジに勝つために操縦するなら、十四班では飛ばせない」

 

ナッシュはエリンを見る。

 

「エリンさんは、あの人を特別扱いしていらっしゃる」

 

「していない」

 

「名前を呼ばれる時の表情が違います」

 

エリンの表情が僅かに止まる。

 

ククル達も、少し反応した。

 

ナッシュはそれを見逃さなかった。

 

「やはり、何かあるのですか」

 

「今はナッシュの訓練の話をしています」

 

「答えを逸らされましたね」

 

「必要のない質問だから」

 

「僕には必要です」

 

「私には必要ない」

 

ナッシュは、少しだけ笑った。

 

「分かりました」

 

「何が?」

 

「リュウジが帰ってきたら、僕が直接確かめます」

 

エリンの目が細くなる。

 

「何を?」

 

「S級と呼ばれるほどの人間なのか」

 

「それから」

 

ナッシュはエリンをまっすぐ見た。

 

「エリンさんの隣にいる資格があるのか、確かめさせていただきます」

 

事務所の空気が完全に冷えた。

 

エリンの表情から、柔らかさが消える。

 

「私の隣に誰がいるかを、ナッシュが決めることではありません」

 

「僕が決めるとは申し上げていません」

 

「確かめる必要もない」

 

「僕にはあります」

 

「ないよ」

 

短い否定だった。

 

ナッシュは言い返そうとする。

 

だが、タツヤ班長が間へ入った。

 

「ナッシュさん」

 

「何だ」

 

「今日の基礎確認を始めます」

 

「今から?」

 

「はい」

 

「準備がある」

 

「新人用の基本操縦確認です」

 

「僕を新人と呼ぶな」

 

「十四班では新人です」

 

「……分かった」

 

ナッシュはエリンから視線を外した。

 

「僕の操縦をご覧になって、後悔なさらないでください」

 

「何をですか」

 

タツヤ班長が聞く。

 

「僕を端の席へ置いたことだ」

 

ナッシュは自信に満ちた表情で、訓練区画へ向かう。

 

その背中を見送りながら、ククルが小さく呟いた。

 

「すごい人が来ましたね……」

 

エマが静かに答える。

 

「別の意味でね」

 

ミラは不安そうにエリンを見る。

 

「エリンさん、大丈夫ですか」

 

「大丈夫」

 

エリンは答えた。

 

「でも、少し気をつけた方がいいと思う」

 

ランも頷く。

 

「私もそう思います」

 

カイエがナッシュの消えた扉を見る。

 

「人の話を、自分に都合のいい意味へ変えています」

 

ガーネットも静かに言う。

 

「断られたことを、まだ可能性があると受け取っています」

 

エリンは、リュウジの空席へ視線を向けた。

 

「そうね」

 

リュウジがいれば、どう対応しただろう。

 

ナッシュが自分へ近づくことに、どんな顔をしただろう。

 

淡々としているかもしれない。

 

必要なら止めるかもしれない。

 

あるいは、何も言わずに自分の判断を尊重するかもしれない。

 

だが、今はいない。

 

遠く離れた未探索領域。

 

定時連絡では問題ないとしか言わない。

 

エリンの胸に、僅かな不安が浮かんだ。

 

ナッシュのことではない。

 

リュウジのこと。

 

何かが起きている気がする。

 

言葉にできない。

 

根拠もない。

 

ただ、最近のリュウジの文章は、あまりにも整いすぎていた。

 

エリンは、自分の端末を見た。

 

最後に届いた連絡。

 

【調査は予定どおり継続しています】

 

【船体及び隊員に、任務継続を妨げる問題はありません】

 

【次回の定時連絡は予定どおり行います】

 

隙のない文章。

 

だが、以前ならあったはずの言葉がない。

 

食事の話。

 

班の話。

 

帰った後の話。

 

エリンへ向けた、短い個人的な言葉。

 

何もない。

 

「エリンさん?」

 

ククルの声で、エリンは顔を上げた。

 

「何でもない」

 

そう答えようとして、止める。

 

リュウジに、何を怖がっているか言葉にするよう伝えた。

 

自分が何でもないと言って隠せば、同じことになる。

 

「少し、リュウジの連絡が気になってる」

 

エリンは正直に言った。

 

周囲の表情が変わる。

 

ガーネットが聞く。

 

「何か書かれていましたか」

 

「逆」

 

「逆ですか?」

 

「何も書かれていないの」

 

エリンは端末を閉じる。

 

「必要な報告しかない」

 

ククルが首を傾げる。

 

「任務中だからでは?」

 

「そうかもしれない」

 

「でも」

 

エリンはリュウジの席を見る。

 

「リュウジが、本当に必要なことだけしか言わなくなる時は、少し危ないの」

 

その言葉の重さを、十四班の者達はまだ理解できなかった。

 

一方では、言葉を閉ざしたS級操縦士。

 

もう一方では、十四班へ押し込まれた総帥の息子。

 

二人は、まだ出会っていない。

 

だが、ナッシュはすでにリュウジを競争相手として見始めていた。

 

操縦士として。

 

S級として。

 

そして、エリンから信頼される男として。

 

新しい亀裂は、リュウジが帰還する前から、十四班の中で静かに広がり始めていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。