リュウジが、遠く離れた北部未探索領域で言葉を閉ざし始めていた頃。
スペースホープでもまた、十四班の今後を大きく変える一つの決定が下されようとしていた。
◇
ドルトムント財閥旅行会社。
本社タワー上層部に設けられた役員会議区画は、現場の事務所とは空気が違っていた。
音を吸収する分厚い床。
窓の外に広がる居住リング。
必要以上に広い会議室。
壁面には、財閥全体の運航実績や収益、保有船舶数が整然と表示されている。
その中に、現場で働く乗務員一人一人の姿はない。
人員数。
資格区分。
稼働率。
欠員。
予備要員。
全て数字だった。
タツヤ班長は、長い会議卓の端に座っていた。
目の前には、一枚の人事通知書が置かれている。
【宇宙事業部・旅行会社部門】
【第十四班配属】
【ナッシュ・ドルトムント】
【保有資格・C級操縦士免許】
その名前を見た時点で、タツヤ班長は、この会議が相談ではないことを理解していた。
ドルトムント財閥総帥、リョク。
その一人息子。
次期後継者と目されている人物。
形式上はC級操縦士。
だが、一般のC級操縦士と同じ採用過程を経た者ではない。
人事通知書の下部には、配属理由として簡潔な一文が記されていた。
【実地経験及び上位操縦士による指導を通じ、操縦能力並びに組織運営能力の向上を図る】
綺麗な言葉だった。
だが、その実態は明らかだった。
総帥の息子を、最も実績のある班へ入れる。
そして、S級パイロットの下で経験を積ませる。
十四班が選ばれたのは、班の事情を考えた結果ではない。
リュウジが所属しているからだった。
正面に座る役員が、淡々と説明を続ける。
「ナッシュ様の配属は、本日付で決定している」
相談ではない。
その言葉が、改めて示された。
タツヤ班長は通知書から目を上げた。
「一つ、確認してもいいですか」
「何だ」
「ナッシュさんはC級ライセンスの操縦士です」
役員の眉が僅かに動く。
タツヤ班長は、相手の反応を見ながら言葉を選んだ。
「今の十四班には、少し荷が重いかと」
役員室の空気が僅かに変わった。
タツヤ班長は、資格が低いから不要だと言っているわけではない。
十四班には、すでに育成中の乗務員が複数いる。
ランとミラは、今も現場経験を積んでいる段階。
ガーネットも副パーサーとして加入し、班内の役割を調整している最中だった。
さらに、リュウジは現在、北部未探索領域の長期調査任務へ出ている。
十四班の主力操縦士が不在。
タツヤ班長自身も、通常便の操縦、班全体の管理、若手育成を兼任している。
そこへ、新たにC級操縦士を受け入れる。
しかも、通常の新人とは違う。
総帥の息子。
指導一つ。
評価一つ。
注意一つ。
全てが政治問題になり得る。
「十四班は現在、長期調査に伴いリュウジが不在です」
タツヤ班長は続けた。
「S級の下で学ばせるという目的なら、少なくともリュウジが戻ってからの方がいいと思います」
役員は、手元の端末を一度確認した。
「リュウジの帰還は、早くても二か月後だ」
「はい」
「その間、何もさせないつもりか」
「別の班で基礎訓練を受けてもらう方法もあります」
「総帥は十四班を指定した」
タツヤ班長の指先が、膝の上で僅かに動いた。
「ですが」
「総帥の命令だ」
役員の声が、一段低くなる。
「S級の下で学ばせろとのことだ」
「リュウジは今いません」
「所属は十四班だ」
「所属しているだけでは、指導はできません」
「帰還するまで、お前が指導しろ」
予想していた答えだった。
それでも、タツヤ班長はすぐには頷かなかった。
「俺はA級です」
「十分だ」
「資格だけの問題ではありません」
「何が問題だ」
「十四班は、今、新しい人間を一人入れて済む状態ではありません」
役員は僅かに眉を寄せた。
「人員が増えることは、現場にとって不利益なのか」
「人が増えることと、戦力が増えることは同じではありません」
タツヤ班長は静かに答えた。
役員の表情が硬くなる。
言い方を誤れば、総帥の息子を戦力外と評価したと受け取られる。
だが、曖昧に受け入れれば、負担を負うのは十四班だった。
「新人を入れるなら、教育計画が必要です」
「その計画を作るのが班長の役目だ」
「はい」
「なら問題はない」
「ナッシュさん本人が、通常の新人と同じ指導を受け入れるか確認されていますか」
会議室が静まった。
役員は数秒、タツヤ班長を見た。
「どういう意味だ」
「特別扱いを望む人間を、現場で育てることはできません」
タツヤ班長の声は穏やかだった。
しかし、言葉の内容は明確だった。
「十四班へ入るなら、他の班員と同じように訓練を受けてもらいます。勤務予定も、安全規則も、報告義務も同じです。総帥の息子であることを理由に、その部分を変えるつもりはありません」
役員の目が細くなる。
「ナッシュ様に失礼がないようにしろ」
「失礼の話ではありません」
「口答えをするな」
短い言葉が、会話を切った。
タツヤ班長は黙る。
この会議に、現場判断を入れる余地はなかった。
役員は通知書を指先で軽く押した。
「配属は決定事項だ」
「ナッシュ様は、将来ドルトムント財閥全体を率いる立場になる」
「現場を知る必要がある」
「そのために、最も優秀な操縦士が所属する班を選んだ」
「十四班にとっても名誉なことだ」
タツヤ班長は、名誉という言葉に何も返さなかった。
現場へ押し付けられるものは、いつも綺麗な言葉で包まれる。
期待。
育成。
名誉。
将来。
その包装を剥がせば、残るのは命令だった。
「それと」
役員が続ける。
「ナッシュ様の評価については、役員室へ直接報告しろ」
「通常の人事評価では駄目なんですか」
「総帥が確認される」
「本人にも同じ内容を伝えますか」
「必要ない」
タツヤ班長の表情が変わった。
「本人に伝えない評価を、俺に作れということですか」
「言葉を選べ」
「評価内容を本人へ伝えず、役員室だけで共有するなら、育成にはなりません」
「お前は命じられた報告をすればいい」
また、同じだった。
必要なのは対話ではない。
命令への服従。
遠く離れた調査船で、ヴァレン准将がリュウジへ告げたものと、ほとんど同じ論理だった。
だが、タツヤ班長はそれを知らない。
今、リュウジが本部へ異議を退けられ、一人だけ沈黙の中へ置かれたことも知らない。
ただ、自分の目の前にある命令が、現場へ新しい亀裂を持ち込もうとしていることだけは分かった。
「分かりました」
タツヤ班長は答えた。
その言葉に、納得はなかった。
「十四班で受け入れます」
役員が満足そうに頷く。
「結構だ」
「くれぐれも粗相のないように」
「はい」
「S級が帰還した後は、優先してナッシュ様の指導へ当たらせろ」
タツヤ班長の目が僅かに鋭くなる。
「リュウジの帰還後の状態を確認してから判断します」
「命令だ」
「未探索領域から戻った直後に、すぐ指導へ入れるとは限りません」
「S級は、そのためにいる」
タツヤ班長は、そこで完全に口を閉じた。
S級は、そのためにいる。
人ではなく、能力。
帰還した直後の疲労も。
任務で何を経験したかも。
心理状態も。
何も考慮されていない。
総帥の息子を育てるために使う。
ただ、それだけだった。
「承知しました」
タツヤ班長は、低く答えた。
それ以上、何も言えなかった。
◇
役員会議区画を出た後。
タツヤ班長は、エレベーターの中で一人、深く息を吐いた。
手元には、人事通知書。
ナッシュ・ドルトムント。
C級操縦士。
十四班配属。
リュウジの下で指導。
文字を見れば見るほど、頭が重くなった。
十四班の現在の状況を思い浮かべる。
エリンは、リュウジが長期調査へ出た後も、班全体を崩さないように働いている。
通常便。
応援勤務。
若手の教育。
勤務表の調整。
さらに、リュウジから届く定時連絡も気にしていた。
最近の連絡は、以前より短い。
問題ありません。
予定どおりです。
調査を継続しています。
食事は取っています。
休息も取っています。
エリンが何を聞いても、返ってくる言葉は整っていた。
だが、それだけに見えた。
タツヤ班長も、少し気になっていた。
ただ、長距離調査中。
通信時間も限られている。
任務の機密もある。
本人が問題ないと言う以上、今は待つしかない。
その状況で、さらにナッシュが入る。
「面倒どころじゃないな」
誰もいないエレベーターの中で、タツヤ班長は呟いた。
到着音が鳴る。
宇宙事業部フロア。
扉が開いた。
いつもの事務所へ続く廊下。
だが、今日は扉の向こうから、すでに大きな声が聞こえていた。
「だから、僕の席はどこだと聞いている!」
タツヤ班長の足が止まった。
まだ正式な説明もしていない。
受入れの連絡も、班員へ共有していない。
それなのに、本人の声が事務所から聞こえている。
「……早すぎるだろ」
タツヤ班長は、人事通知書を持ったまま事務所へ向かった。
◇
十四班の事務所では、すでに小さな混乱が起きていた。
中央付近に、一人の青年が立っている。
整えられた金髪。
高価な生地の制服。
新品の操縦士用ジャケット。
胸元には、C級操縦士の資格章。
だが、服装以上に目を引くのは、その立ち方だった。
初めて配属された新人の姿ではない。
自分がここを見に来た。
自分が、この場所を評価する。
そう言わんばかりに、事務所全体を見渡している。
ナッシュ・ドルトムント。
総帥リョクの息子。
十四班への配属通知を受け、班長より先に事務所へ来ていた。
「こちらの空いている席をお使いください」
ガーネットが、できる限り丁寧に説明していた。
示しているのは、リュウジの席ではない。
事務所の端に用意された予備席。
新人や応援要員が、一時的に使用する場所だった。
だが、ナッシュは予備席を一度見ただけで、露骨に眉を寄せた。
「僕をここへ座らせるつもりか」
「現在、固定席として使用されていない場所はこちらになります」
「端ではないか」
「はい」
「僕が誰か分かっているのか」
ガーネットの表情が僅かに硬くなる。
「ナッシュ・ドルトムントさんです」
「名前の確認をしているんじゃない」
「では、何を確認されていますか」
ナッシュの眉が上がる。
ガーネットの言葉は丁寧だった。
しかし、必要以上に持ち上げる気はない。
その態度が、ナッシュには気に入らなかった。
「僕はドルトムント財閥総帥の息子だ」
事務所の空気が僅かに冷える。
ククルは、自分の席で口を閉じた。
エマは静かに端末から顔を上げる。
カイエは、ミラとランが不用意な発言をしないよう、二人の方へ視線を向けた。
ミラとランは並んで立ち、戸惑ったようにナッシュを見ている。
ナッシュは続けた。
「いずれ、この財閥全体を継ぐ。その僕が、臨時要員用の端席を使うのか」
ガーネットは答える。
「十四班内の座席は、役割と設備接続に合わせて決めています」
「なら、役割を変えればいい」
「ナッシュさんの役割は、まだタツヤ班長から共有されていません」
「C級操縦士だ」
「資格は確認しています」
「なら操縦士用の席を用意しろ」
ナッシュが目を向けた先。
事務所の壁側。
航路資料。
操縦ログ。
訓練記録。
複数の認証機器が整然と置かれた席。
リュウジの席だった。
長期調査中のため、本人はいない。
だが、端末は休止状態に設定され、資料もそのまま残されている。
誰も勝手に触らない。
十四班にとって、そこは空席ではなかった。
帰ってくる者の席だった。
ナッシュは迷いなく近づく。
「ここがいい」
ククルが反射的に立ち上がった。
「そこはリュウジさんの席です」
ナッシュが振り返る。
「今はいないんだろう」
「はい。でも、リュウジさんの席です」
「空いているなら使えばいい」
ククルの表情が変わる。
「空いているわけではありません」
「本人がいないのに?」
「帰ってきますから」
短い言葉だった。
ナッシュは、ククルを見た。
自分へ即座に反論したことが意外だったのか、数秒黙る。
「君は?」
「ククルです」
「役職は」
「客室乗務員です」
「なら、操縦士の席について口を出す必要はない」
ククルの目が鋭くなる。
「十四班の席です」
「だから?」
「誰がどこを使っているかは、私達にも関係あります」
「客室乗務員が、操縦士へ指図するのか」
ククルが何か言い返そうとした時。
カイエが静かに間へ入った。
「ククル」
呼び捨て。
いつもの、互いに対する口調だった。
ククルは唇を結ぶ。
カイエはナッシュへ向き直った。
「タツヤ班長が戻るまで、予備席でお待ちください」
「君も客室乗務員か」
「はい」
「この班は、操縦士より客室乗務員の方が偉いのか」
「偉さの話はしていません」
「同じだろう」
ナッシュは不満そうに言い、リュウジの机へ手を伸ばした。
机の上には、訓練用の簡易航路図が置かれている。
端末へ触れるつもりだったのかもしれない。
その前に、ガーネットが一歩動いた。
「触らないでください」
声は低かった。
ナッシュの手が止まる。
「何?」
「その端末には、リュウジさんの操縦記録とS級案件の資料が含まれています」
「僕は総帥の息子だ」
「閲覧権限とは関係ありません」
「僕に見せられない資料があるのか」
「あります」
即答だった。
ナッシュの顔が僅かに赤くなる。
「君達は、僕を何だと思っている」
ガーネットは落ち着いた声で答える。
「本日から配属される予定の新人操縦士です」
「新人?」
「はい」
「僕を新人扱いするのか」
「新しく配属された方ですので」
「僕はC級操縦士だ」
「存じています」
「すでに複数の訓練航行を経験している」
「正式な営業運航の経験は?」
ナッシュが一瞬黙る。
ガーネットはそれ以上追及しなかった。
その沈黙だけで十分だった。
ナッシュの自尊心を傷つけたことも分かっていた。
だが、嘘をついて持ち上げるつもりもなかった。
「……君、名前は何だった」
「ガーネットです」
「覚えておく」
脅しに近い言い方だった。
ガーネットの表情は変わらない。
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうですか」
ククルが、少しだけ口元を動かした。
笑いそうになったのだ。
カイエが横目で止める。
ナッシュはその反応に気づき、さらに苛立った。
「それより、S級はどこだ」
事務所が静まる。
「リュウジという操縦士がいるんだろう」
ミラが答える。
「リュウジさんは、現在、北部未探索領域の調査任務へ出ています」
「いつ戻る」
「二か月ほどの予定です」
「二か月?」
ナッシュの顔が歪む。
「僕は、S級から指導を受けるために来たんだぞ」
ランが戸惑ったように言う。
「ですが、リュウジさんの任務は以前から決まっていました」
「僕の配属を優先して戻せばいい」
誰もすぐには答えなかった。
その発想自体が、十四班の誰にもなかった。
未探索領域の調査任務を途中で切り上げさせる。
自分を指導させるために。
ナッシュにとっては、それが不自然なことではない。
自分が必要なら、他人の予定が変わる。
自分が望めば、周囲が調整する。
そういう環境で生きてきた。
エマが静かに言った。
「それはできません」
ナッシュが見る。
「君は?」
「エマです」
「できないとは?」
「リュウジさんは、調査隊の操縦責任者として出ています」
「代わりを送ればいい」
「簡単に代わりを送れる任務ではありません」
「S級は他にもいる」
「今回の任務には、リュウジさんが選ばれています」
「なら、僕が総帥へ頼めばいい」
エマの表情が僅かに硬くなる。
だが、声は穏やかなままだった。
「リュウジさんの任務を、ナッシュさんの訓練のために変える必要はないと思います」
ナッシュはエマを睨む。
「君達は、僕よりリュウジを優先するのか」
ククルが即座に答えそうになる。
カイエがまた止めた。
代わりに、ガーネットが答える。
「優先順位ではありません」
「任務中の人間を呼び戻さないだけです」
「僕は、その任務より価値が低いと言いたいのか」
「誰もそうは言っていません」
「同じだ」
ナッシュは吐き捨てるように言った。
その言葉に、誰も反応しなかった。
誰かを納得させるための会話ではない。
自分が一番であることを確認するための会話。
そう気づき始めていた。
◇
その時。
事務所の扉が開いた。
タツヤ班長が戻ってきた。
全員の視線が、一斉に向く。
ガーネットの顔に、僅かな安堵が浮かぶ。
ククルはあからさまに助かったという表情をした。
カイエは小さく息を吐く。
ミラとランは姿勢を正した。
ナッシュだけが、堂々とその場に立ったままだった。
タツヤ班長は、事務所の様子を一度見渡した。
ナッシュ。
リュウジの机の前。
緊張した班員達。
机の上に置かれたままの航路資料。
それだけで、大体のことは理解した。
「もう来ていたんですね」
タツヤ班長が言う。
ナッシュは顎を僅かに上げた。
「遅いじゃないか」
事務所の空気がさらに冷える。
タツヤ班長は表情を変えない。
「役員室で、配属について説明を受けていました」
「僕を待たせるほどの説明が必要なのか」
「必要でした」
「ふうん」
ナッシュは人事通知書へ目を向ける。
「君がタツヤか」
「十四班班長のタツヤです」
「A級操縦士らしいな」
「はい」
「僕の指導役か」
「リュウジが帰還するまでは、俺が操縦訓練を担当します」
ナッシュは露骨に不満そうな顔をした。
「僕はS級に教わると聞いている」
「リュウジは調査任務中です」
「戻せないのか」
「戻しません」
今度は、誰よりも早い返答だった。
ナッシュが眉を寄せる。
「総帥が命令すれば?」
「調査本部と宇宙連邦連盟が判断することです」
「父上はドルトムント財閥の総帥だぞ」
「今回の調査任務は、財閥だけで動いているものではありません」
「僕の訓練より重要なのか」
タツヤ班長は数秒、ナッシュを見た。
「はい」
事務所の全員が、僅かに目を見開いた。
ナッシュの顔が赤くなる。
「何?」
「北部未探索領域の調査は、多くの船の安全に関わります」
「ナッシュさんの訓練も必要です」
「ですが、比較する話ではありません」
「今の答えでは、僕を軽く見ているように聞こえる」
「軽くは見ていません」
「なら、言い方を変えろ」
「事実なので変えません」
タツヤ班長の声は穏やかだった。
怒ってはいない。
挑発もしていない。
だからこそ、ナッシュには扱いづらかった。
怒鳴れば、相手が引く。
肩書きを言えば、姿勢を変える。
それが普通だった。
だが、タツヤ班長は変わらない。
「まず、座席について説明します」
タツヤ班長は、予備席を示した。
「当面は、こちらを使ってください」
「端の席は嫌だ」
「操縦関連の固定端末は、資格と担当便に応じて使用権限を設定します」
「リュウジの席があるだろう」
「リュウジの席です」
「本人はいない」
「帰ってきます」
ククルと同じ答え。
ナッシュは苛立ったように舌打ちした。
「この班は、誰も融通が利かないな」
「安全に関係する部分では、利かせません」
「僕は危険ではない」
「まだ判断していません」
「僕を評価するつもりか」
「班長なので」
ナッシュの目が鋭くなる。
「僕は総帥の息子だぞ」
「十四班では、新しく配属されたC級操縦士です」
同じ言葉。
ガーネットが先ほど言ったことと同じ。
ナッシュは周囲を見る。
誰も、自分を総帥の息子として扱おうとしない。
当然、知っている。
警戒もしている。
それでも、表面上は新人操縦士として接している。
ナッシュにとって、それは侮辱に近かった。
「父上へ報告する」
「構いません」
「僕への扱いが不適切だと伝える」
「その際は、俺も今日の状況を報告します」
「何を?」
「班長不在時に、本人の許可なくS級案件端末へ触れようとしたこと」
ナッシュの表情が変わる。
「触っていない」
「触ろうとしたんですか」
タツヤ班長はガーネットを見る。
「はい」
「まだ触れてはいません」
「止めましたので」
「分かりました」
タツヤ班長はナッシュへ視線を戻す。
「では、未遂として記録します」
「記録?」
「安全管理記録です」
「僕を問題職員のように扱うのか」
「問題があれば記録します」
「僕はまだ何もしていない!」
「権限のない端末へ触れようとした」
「見ようとしただけだ!」
「同じです」
「違う!」
ナッシュの声が、事務所へ響いた。
ククルの肩が僅かに動く。
ミラとランの表情が硬くなる。
タツヤ班長は声量を変えなかった。
「大声を出さないでください」
「僕に命令するのか」
「はい」
短い返答。
ナッシュは言葉を失った。
◇
そこへ、事務所の扉が再び開いた。
「おはよう」
エリンの声だった。
少し遅れて出勤したエリンが、資料端末と乗務員用のファイルを抱えて入ってくる。
いつもと同じ、落ち着いた歩幅。
緑色の髪。
整えられた制服。
派手ではない。
だが、事務所へ入っただけで、全体の空気が僅かに変わる。
誰がどこにいるか。
何が止まっているか。
誰の表情が硬いか。
エリンは、扉から数歩進む間にほとんどを見ていた。
タツヤ班長がいる。
全員が作業を止めている。
知らない青年が、リュウジの机の前に立っている。
ガーネットが警戒している。
ククルが言い返したそうな顔をしている。
ミラとランが緊張している。
何かが起きている。
「タツヤ班長」
エリンは、班長に対してだけ少し改まった口調になる。
「おはようございます」
「おはよう、エリン」
「何かありましたか」
タツヤ班長が答えようとした。
だが、その前に。
ナッシュの動きが止まった。
エリンを見たまま、何も言わない。
先ほどまでの苛立った表情が消えている。
怒鳴っていたことも。
席への不満も。
リュウジを戻せと言っていたことも。
一瞬、全て忘れたようだった。
エリンは、その視線にすぐ気づいた。
だが、反応はしない。
知らない人物から見られることには慣れている。
乗客。
役員。
取引先。
同僚。
人の視線には、様々な意味がある。
今のナッシュの視線は、明らかに業務上のものではなかった。
顔。
髪。
姿勢。
制服。
エリンという人間ではなく、自分の目を引いた女性を眺める視線。
エリンの目が、僅かに冷える。
「こちらの方は?」
エリンはタツヤ班長へ尋ねた。
ナッシュは、そこで我に返った。
「僕はナッシュと申します」
タツヤ班長が紹介する前に、自ら名乗る。
「ナッシュ・ドルトムントです」
名前の後に、僅かな間を置く。
相手が驚くことを期待した間だった。
総帥の息子。
ドルトムントの名。
多くの人間は、その名字を聞けば態度を変える。
だが、エリンの表情は変わらなかった。
「初めまして」
エリンは静かに答えた。
「十四班チーフパーサーのエリンです」
ナッシュの目が、さらに明るくなる。
「エリンさん」
呼び方には敬意の形がある。
だが、その視線には遠慮がなかった。
ククルの眉が動く。
カイエも僅かに表情を変える。
エリン自身は、声を荒らげなかった。
「はい」
「あなたがチーフパーサーなのですか」
「そうです」
「驚きました」
「何が?」
エリンは通常口調で返した。
ナッシュは一歩近づく。
「こんなに綺麗な女性がいらっしゃるとは、聞いていませんでした」
事務所の空気が止まった。
タツヤ班長が、僅かに目を閉じる。
ガーネットは表情を消す。
ククルは明らかに嫌そうな顔をした。
エマはナッシュとエリンの距離を見る。
カイエは、必要なら間へ入れるように僅かに身体を動かした。
ミラとランは互いに一度だけ視線を交わす。
エリンは、ナッシュを見た。
「それは業務に関係がありますか」
ナッシュが一瞬、言葉に詰まる。
「いえ」
「では、配属の説明を続けましょう」
エリンはタツヤ班長へ視線を戻した。
ナッシュの賛辞を喜ぶでもなく。
拒絶を強く示すでもなく。
業務外の言葉として切り離した。
その態度が、かえってナッシュの興味を強くした。
自分の名字に驚かない。
自分の容姿にも、褒め言葉にも反応しない。
これまで周囲にいた女性とは違う。
ナッシュは、そう受け取った。
だが、エリンが求めていたのは特別な反応ではない。
ただ仕事を進めようとしているだけだった。
「エリンさん」
ナッシュが再び呼ぶ。
「何ですか」
「僕のことをご存じないのですか」
「総帥の息子であることは知っています」
「でしたら、もう少し驚かれると思っていました」
「どうして?」
「僕はいずれ、この財閥を継ぎます」
「そうですか」
「それだけですか?」
「今の十四班での役割とは別の話でしょう」
ナッシュの目が僅かに細くなる。
だが、不快というより、面白がっているようにも見えた。
「エリンさんは、面白い方ですね」
「私は仕事の話をしています」
「少し堅いですね」
「勤務中ですから」
「もう少し笑われた方が、さらに綺麗だと思います」
エリンの表情から、僅かに温度が消えた。
「ナッシュ」
初対面にもかかわらず、呼び捨て。
だが、それは親しさからではない。
十四班の他の者と同じ距離で扱うという意思だった。
「ここは職場です」
「それが何か?」
「私の外見についての感想は必要ありません」
ナッシュは、少し驚いたように目を見開く。
「褒めたつもりなのですが」
「必要ないと言っています」
「普通なら喜ばれるでしょう」
「私は喜びません」
「なぜですか?」
「仕事と関係がないから」
明確だった。
ナッシュは、断られたことそのものより、自分の褒め言葉が価値を持たなかったことに戸惑った。
自分が相手を選ぶ。
自分が褒める。
相手は喜ぶ。
そういう流れが当然だった。
「エリンさんには、恋人はいらっしゃるのですか」
その言葉が出た瞬間。
タツヤ班長が口を開いた。
「ナッシュさん」
声は低かった。
「業務と関係のない質問はやめてください」
ナッシュがタツヤ班長を見る。
「ご本人へ聞いただけです」
「配属初日に聞くことではありません」
「何が悪い」
エリンが自分で答えた。
「答える必要がないので、答えません」
「いらっしゃるのですか」
「答えません」
「では、いらっしゃらないのですか」
「同じです」
ナッシュは、少しだけ笑った。
「ますます気に入りました」
ククルが小さく呟く。
「話、聞いてない……」
カイエが小声で止める。
「ククル」
「聞こえたぞ」
ナッシュが振り向く。
ククルは一瞬だけ姿勢を正した。
だが、引かなかった。
「すみません」
口調は丁寧。
表情は、全く謝っていない。
「ですが、エリンさんは答えないと言っています」
ナッシュの眉が上がる。
「君には関係ない」
「あります」
「なぜ」
「エリンさんは十四班のチーフパーサーです」
「だから?」
「困らせる人がいたら、私達も気になります」
エリンがククルを見る。
「ククル、大丈夫」
声は柔らかい。
だが、その一言で、これ以上前へ出なくていいと伝えている。
ククルは渋々頷いた。
「はい」
ナッシュは、そのやり取りを見ていた。
エリンが一言言うだけで、ククルが止まる。
他の班員達も、エリンの様子を見ている。
命令していない。
怒鳴っていない。
それでも、自然に中心へ立っている。
ナッシュの目に、エリンはさらに魅力的に映った。
美しい。
役職がある。
周囲から信頼されている。
そして、自分へ簡単になびかない。
「エリンさんが、この班をまとめていらっしゃるのですか」
ナッシュが聞く。
エリンは答える。
「班長はタツヤ班長です」
「ですが、皆さんはエリンさんを見ています」
「客室運用については、私が責任者だからです」
「僕の専属になっていただけませんか」
全員が固まった。
エリンの目が完全に冷えた。
「なりません」
即答だった。
「まだ条件もお伝えしていません」
「聞く必要がありません」
「僕が財閥を継げば、エリンさんには今より上の立場をご用意できます」
「必要ありません」
「収入も、権限もです」
「必要ないと言っています」
「客室乗務員より、もっとエリンさんに相応しい仕事をご用意できます」
その言葉で、十四班全体の空気が変わった。
エリンの表情は動かなかった。
だが、声は先ほどより僅かに低くなった。
「客室乗務員より相応しい仕事とは、何ですか」
ナッシュは気づかない。
「僕の補佐です」
「客室乗務員の仕事を、下に見ていますか」
「そのような意味ではありません」
「では、どういう意味ですか」
「エリンさんほどの女性が、乗客の世話をするだけでは勿体ないと申し上げているのです」
エリンの目が鋭くなる。
ガーネットも、はっきりと不快な表情を見せた。
ククルは今度こそ言い返そうとした。
だが、エリンが片手を僅かに動かした。
それだけで止まる。
「私達は、乗客の世話だけをしているわけではありません」
エリンは静かに言った。
「緊急時の避難誘導。乗客の安全確認。医療対応の補助。操縦室への情報共有。客室内の混乱防止。フライトの安全を支えるのが、私達の仕事です。それを軽く扱う人とは、一緒に飛べません」
ナッシュの表情が僅かに固くなる。
「僕は操縦士です」
「だからこそです」
「どういう意味ですか?」
「操縦士が客室乗務員を軽く扱えば、船は壊れます」
エリンは一歩も引かなかった。
「ナッシュが十四班へ配属されるなら、最初に覚えてください。操縦室だけでフライトはできません。客室乗務員は、操縦士の使用人でも、飾りでもありません」
ナッシュの頬が僅かに赤くなる。
「僕を説教なさるのですか」
「必要な説明です」
「僕が誰なのか、分かっていらっしゃるのでしょうね」
「十四班へ配属されたC級操縦士です」
タツヤ班長。
ガーネット。
そしてエリン。
三人目だった。
ナッシュを、総帥の息子ではなく新人操縦士として扱う。
ナッシュの自尊心が、強く刺激される。
だが同時に、エリンへの興味も消えなかった。
むしろ、自分にこれほど明確に物を言う女性を、手に入れたいという歪んだ欲求へ変わり始めていた。
「分かりました」
ナッシュは、ゆっくりと笑った。
「エリンさんには、僕を認めていただきます」
エリンの眉が僅かに動く。
「私に認められるために働くのではありません」
「どういうことですか?」
「安全な操縦士になるために学んでください。結果として、私達が一緒に飛べると判断できれば認めます」
「できなければ、どうなさるのですか」
「十四班の便には乗せません」
ナッシュがタツヤ班長を見る。
「彼女に、そんな権限があるのか」
タツヤ班長は答える。
「客室の安全を確保できない操縦士について、チーフパーサーが異議を出す権限はあります」
「最終判断は?」
「俺です」
「なら、君が認めれば飛べる」
「エリンが安全上の異議を出した状態では、飛ばしません」
ナッシュの表情が固まる。
「全員で僕を試すつもりか」
「配属された全員を確認します」
「僕だけではありません」
「リュウジも?」
「しました」
「S級を?」
「はい」
「エリンさんが評価なさったのですか」
エリンが答える。
「操縦技術はタツヤ班長が見ました。私は、客室乗務員を人として扱えるか見ました」
ナッシュはエリンをじっと見た。
「リュウジは合格したのですか」
一瞬。
エリンの表情が僅かに柔らかくなった。
本人は今、遠く離れた場所で苦しんでいる。
そのことを、エリンはまだ知らない。
「今も見ています」
エリンは答えた。
「簡単に合格や不合格で決めるものではないから」
「随分、信用していらっしゃるように見えます」
「信頼しています」
迷いのない答えだった。
ナッシュの目に、不快な色が浮かぶ。
「恋人なのですか」
「答えません」
「ですが、信頼していらっしゃる」
「仕事でも人としても」
エリンは隠さなかった。
ナッシュの胸の中に、まだ会ったこともないリュウジへの対抗心が生まれた。
S級。
十四班の中心。
自分が使いたかった席の持ち主。
エリンから信頼されている男。
全てが気に入らなかった。
「ちょうどいいですね」
ナッシュは言った。
「何が?」
「僕が、S級より優れていることを証明します」
タツヤ班長が僅かに眉を寄せる。
「資格はC級です」
「今はだ」
「資格を上げるには訓練と実績が必要です」
「分かっている」
「それなら、最初に基礎確認を行います」
「僕に基礎?」
「はい」
「C級免許を持っている」
「免許があることと、十四班の運航基準を満たすことは別です」
「また試験か」
「嫌なら、配属を断ってください」
タツヤ班長は平然と言った。
ナッシュが睨む。
「父上の命令だ」
「なら受けてください」
「……いいだろう」
ナッシュは、余裕を見せるように笑った。
「僕の操縦を見れば、君達の態度も変わる」
誰も答えなかった。
変わるかもしれない。
良い方向とは限らない。
◇
タツヤ班長は、ナッシュを予備席へ案内した。
今度は、本人も強く拒否しなかった。
ただし、座る前に椅子の状態を見て、露骨に不満そうな顔をした。
「古くないか」
「予備席なので」
ガーネットが答える。
「もっと良い椅子は?」
「ありません」
「総帥の息子が使うんだぞ」
「椅子に身分は関係ありません」
ナッシュは何か言い返そうとした。
だが、エリンが近くで資料を整理していることに気づき、言葉を飲み込んだ。
少しでも余裕のある姿を見せたい。
その意識が、先ほどまでの怒りを抑えさせた。
「エリンさん」
「何?」
「今日、僕の訓練をご覧になるのですか」
「予定を確認してから決めます」
「見ていただきたいです」
「どうして?」
「僕の実力を知っていただくためです」
「操縦技術はタツヤ班長が評価します」
「エリンさんにも見ていただきたいのです」
「必要があれば見ます」
「必要はあります」
「誰にとって?」
ナッシュが一瞬黙る。
「エリンさんにとってです」
「私が判断します」
また、簡単には思いどおりにならない。
ナッシュはそれを拒絶ではなく、攻略すべきものとして受け取っていた。
エリンは、相手の視線の意味を感じ取っていた。
単なる一時的な興味ならいい。
だが、ナッシュの目には、自分の意思よりも自分の欲求を優先する者の色がある。
断られた。
だから諦めるのではない。
断った相手を、自分へ向かせることが勝利だと考える。
危険な種類の自尊心だった。
エリンはタツヤ班長の近くへ移動する。
「タツヤ班長」
「うん」
「今日の予定、少し確認してもよろしいですか」
「もちろん」
二人は少し離れた場所へ移動した。
ナッシュは、その後ろ姿を見ていた。
エリンがタツヤ班長へだけ丁寧に話す。
その距離。
その信頼。
それすら、ナッシュには特別なものに見えた。
「随分、班長と親しいんだな」
ナッシュが呟く。
ククルが聞きつける。
「エリンさんとタツヤ班長は、長く一緒に働いていますから」
「君、よく話しかけてくるな」
「ナッシュさんが、皆に聞こえる声で話しているので」
ナッシュはククルを見る。
「僕のことが気になるのか」
「違います」
即答だった。
エマが小さく息を吐く。
カイエは口元を僅かに押さえた。
ミラとランは、互いに目を合わせてから視線を逸らす。
「では、なぜ答える」
「間違ったことを言われると気になるからです」
「僕が間違っていると?」
「エリンさんとタツヤ班長が親しいことを、変な意味で見ているように聞こえました」
ナッシュの眉が上がる。
「変な意味とは?」
「それは自分で考えてください」
「ククル」
ガーネットが呼ぶ。
「少し抑えて」
「分かりました」
ククルは頷く。
だが、完全には納得していない。
ナッシュは周囲を見た。
全員がエリンを守るように反応する。
エリン自身は強い。
それでも、周囲も自然に動く。
その関係が、ナッシュには理解できなかった。
命令されたからではない。
得があるからでもない。
怖いからでもない。
互いを大切にしているから動く。
ナッシュの知る組織には、ほとんど存在しない関係だった。
だからこそ、欲しくなった。
エリンだけではない。
十四班という場所そのものを、自分へ従わせたい。
自分が中心に立てば、この信頼も自分へ向く。
そう考えた。
「悪くない班だ」
ナッシュは、誰に言うでもなく呟いた。
ガーネットが聞く。
「先ほどまで不満そうでしたが」
「僕が入れば、もっと良くなる」
「まだ何もしていません」
「これからする」
「そうですか」
「君達も、いずれ分かる」
ナッシュは、リュウジの席へもう一度視線を向けた。
「S級がいなくても、僕がいれば十分だと」
その言葉を聞いた全員の表情が、僅かに硬くなった。
リュウジが今、どこで何をしているのか。
どれほど危険な任務へ出ているのか。
十四班の者達は知っている。
それを、何も知らないナッシュが簡単に置き換えようとした。
エリンがタツヤ班長との話を終え、戻ってくる。
「何の話?」
ククルが答える。
「ナッシュさんが、自分がいればリュウジさんはいなくても十分だと言っていました」
「ククル!」
ナッシュが声を上げる。
「言いましたよね」
「意味が違う!」
「どこがですか」
エリンは二人を見た。
そして、ナッシュへ視線を向ける。
「リュウジと比べる必要はないよ」
声は静かだった。
ナッシュが答える。
「僕は、いずれ超えます」
「超えることを目的にすると、危険だよ」
「なぜですか?」
「操縦は勝負ではないから」
「資格には上下があります」
「能力の区分はある」
「同じではありませんか」
「違うよ」
エリンは、はっきりと答えた。
「上の資格を取っても、乗客を安全に帰せなければ意味がない。他の操縦士より速く飛べても、機体を壊せば意味がない。リュウジに勝つために操縦するなら、十四班では飛ばせない」
ナッシュはエリンを見る。
「エリンさんは、あの人を特別扱いしていらっしゃる」
「していない」
「名前を呼ばれる時の表情が違います」
エリンの表情が僅かに止まる。
ククル達も、少し反応した。
ナッシュはそれを見逃さなかった。
「やはり、何かあるのですか」
「今はナッシュの訓練の話をしています」
「答えを逸らされましたね」
「必要のない質問だから」
「僕には必要です」
「私には必要ない」
ナッシュは、少しだけ笑った。
「分かりました」
「何が?」
「リュウジが帰ってきたら、僕が直接確かめます」
エリンの目が細くなる。
「何を?」
「S級と呼ばれるほどの人間なのか」
「それから」
ナッシュはエリンをまっすぐ見た。
「エリンさんの隣にいる資格があるのか、確かめさせていただきます」
事務所の空気が完全に冷えた。
エリンの表情から、柔らかさが消える。
「私の隣に誰がいるかを、ナッシュが決めることではありません」
「僕が決めるとは申し上げていません」
「確かめる必要もない」
「僕にはあります」
「ないよ」
短い否定だった。
ナッシュは言い返そうとする。
だが、タツヤ班長が間へ入った。
「ナッシュさん」
「何だ」
「今日の基礎確認を始めます」
「今から?」
「はい」
「準備がある」
「新人用の基本操縦確認です」
「僕を新人と呼ぶな」
「十四班では新人です」
「……分かった」
ナッシュはエリンから視線を外した。
「僕の操縦をご覧になって、後悔なさらないでください」
「何をですか」
タツヤ班長が聞く。
「僕を端の席へ置いたことだ」
ナッシュは自信に満ちた表情で、訓練区画へ向かう。
その背中を見送りながら、ククルが小さく呟いた。
「すごい人が来ましたね……」
エマが静かに答える。
「別の意味でね」
ミラは不安そうにエリンを見る。
「エリンさん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
エリンは答えた。
「でも、少し気をつけた方がいいと思う」
ランも頷く。
「私もそう思います」
カイエがナッシュの消えた扉を見る。
「人の話を、自分に都合のいい意味へ変えています」
ガーネットも静かに言う。
「断られたことを、まだ可能性があると受け取っています」
エリンは、リュウジの空席へ視線を向けた。
「そうね」
リュウジがいれば、どう対応しただろう。
ナッシュが自分へ近づくことに、どんな顔をしただろう。
淡々としているかもしれない。
必要なら止めるかもしれない。
あるいは、何も言わずに自分の判断を尊重するかもしれない。
だが、今はいない。
遠く離れた未探索領域。
定時連絡では問題ないとしか言わない。
エリンの胸に、僅かな不安が浮かんだ。
ナッシュのことではない。
リュウジのこと。
何かが起きている気がする。
言葉にできない。
根拠もない。
ただ、最近のリュウジの文章は、あまりにも整いすぎていた。
エリンは、自分の端末を見た。
最後に届いた連絡。
【調査は予定どおり継続しています】
【船体及び隊員に、任務継続を妨げる問題はありません】
【次回の定時連絡は予定どおり行います】
隙のない文章。
だが、以前ならあったはずの言葉がない。
食事の話。
班の話。
帰った後の話。
エリンへ向けた、短い個人的な言葉。
何もない。
「エリンさん?」
ククルの声で、エリンは顔を上げた。
「何でもない」
そう答えようとして、止める。
リュウジに、何を怖がっているか言葉にするよう伝えた。
自分が何でもないと言って隠せば、同じことになる。
「少し、リュウジの連絡が気になってる」
エリンは正直に言った。
周囲の表情が変わる。
ガーネットが聞く。
「何か書かれていましたか」
「逆」
「逆ですか?」
「何も書かれていないの」
エリンは端末を閉じる。
「必要な報告しかない」
ククルが首を傾げる。
「任務中だからでは?」
「そうかもしれない」
「でも」
エリンはリュウジの席を見る。
「リュウジが、本当に必要なことだけしか言わなくなる時は、少し危ないの」
その言葉の重さを、十四班の者達はまだ理解できなかった。
一方では、言葉を閉ざしたS級操縦士。
もう一方では、十四班へ押し込まれた総帥の息子。
二人は、まだ出会っていない。
だが、ナッシュはすでにリュウジを競争相手として見始めていた。
操縦士として。
S級として。
そして、エリンから信頼される男として。
新しい亀裂は、リュウジが帰還する前から、十四班の中で静かに広がり始めていた。