調査船が、三度だけ向きを変える。
補助推進器の短い噴射。
停止。
船体負荷の確認。
次の操作まで待機。
帰還のための反転は、始まったばかりだった。
完全に船首を返すまで、最低でも六時間。
そこから既知領域へ戻るまで、さらに十日以上。
現在の調査船は動いている。
通信も繋がっている。
乗員にも、重大な負傷者は出ていない。
だが、それは安全を意味しなかった。
推進出力は十パーセントに制限されている。
護衛艦二隻は、すでに帰還航路へ入った。
船体には、通常検査で確認できない損傷が残っている可能性がある。
さらに未探索領域の奥では、通信中継点との接続も不安定になり始めていた。
反転を始めたからといって、もう安心してよい状況ではない。
むしろ。
最も危険な時間は、これからだった。
ペルシアは調査船の推進ログを見つめながら、急速に頭を切り替えていた。
つい先ほどまで、ヴァレン准将や調査隊を相手に怒りをぶつけていた。
だが、権限が宇宙管理局へ移った以上。
ここから先は、怒っているだけでは誰も帰せない。
必要なのは、救援体制。
通信の維持。
機体監視。
医療支援。
護衛。
そして。
調査船が自力航行不能になった瞬間、迷わず動ける船だ。
「リュウジ」
ペルシアが通信へ呼びかける。
『聞こえてる』
「次の姿勢変更まで、あとどのくらい?」
『二分四十秒』
「船体負荷は?」
『さっきの噴射から減衰中。許容範囲内』
「操縦席に振動は?」
『ない』
「違和感も?」
『今のところはない』
「そう」
ペルシアは短く答えた。
「そのまま続けて」
『了解』
通信を切らずに、ペルシアは隣のシャオメイを見る。
「シャオメイ」
「はい」
「宇宙管理局へ繋いで」
「通常回線でしょうか」
「統括官専用回線」
シャオメイの目が僅かに鋭くなる。
「警戒体制を発令されますか」
「ええ」
ペルシアは即答した。
「もう調査船だけを見ていればいい段階じゃない」
「了解しました」
シャオメイは連盟指令室の通信卓へ認証端末を接続する。
連盟の回線と、宇宙管理局の内部通信網。
通常なら、それぞれ別の系統で管理される。
だが現在は、調査船の運航及び安全管理権限が宇宙管理局へ移っている。
ペルシアの統括官認証。
マーカス局長の承認。
その二つを使い、シャオメイは両組織の通信基盤を接続していく。
「宇宙管理局主回線への接続を開始します。連盟指令室識別コード送信。統括官認証、確認。局長承認、確認」
画面上の表示が一つずつ緑へ変わる。
「接続完了。宇宙管理局オペレーションルームを呼び出します」
◇
宇宙管理局では、ペルシア達が連盟本部へ向かった後も通常業務が続いていた。
フレイが統括官席の横に立ち、進行中の案件を管理している。
イーナは複数の報告を整理し、優先順位に従って各担当へ振り分けていた。
リリアは宇宙警察から届いた追加照会を確認している。
ナミとマリは、通信障害訓練の手順書を修正しながら、通常回線の異常監視も続けていた。
ファルコは訓練航路の記録を眺め、片手で端末を操作している。
クリスタルは医療支援時の受入れ手順を確認していた。
フォックスが不在であるため、オペレーションルームは普段より僅かに静かだった。
その時。
室内へ、通常とは異なる呼出音が響く。
低い警報音が三度。
続いて、壁面画面へ統括官専用回線が表示された。
ナミが即座に顔を上げる。
「連盟本部からの回線です」
マリが識別情報を確認する。
「ペルシア統括官の認証コードと一致しています」
フレイは迷わなかった。
「全員、現在の作業を一時停止してください」
ファルコが椅子を戻す。
「何があった?」
「まだ分かりません」
フレイは回線を開いた。
大型画面へ、連盟指令室の様子が映る。
中央にペルシア。
背後にはマーカス局長。
シャオメイ。
ジェームズ。
フォックス。
そして複数の連盟職員がいる。
ペルシアの表情を見た瞬間。
フレイは、説明を待たずに端末を警戒体制用の画面へ切り替えた。
「統括官」
「フレイ」
ペルシアの声に、普段の軽さはなかった。
「宇宙管理局を警戒体制へ移行する」
フレイはすぐに尋ねる。
「対象案件をお願いします」
「北部未探索領域の調査船」
オペレーションルームの空気が変わった。
「護衛艦二隻は粉塵帯で損傷し、すでに離脱。調査船は単独航行中。推進系統に構造損傷の疑い、通常出力は使用不能。現在、推進出力十パーセント。調査を中止し、帰還のため反転操作を開始している」
フレイの指が止まることはなかった。
内容を聞きながら、同時に記録を作成していく。
「調査船の乗員数は?」
「調査隊全員。現時点で重大な負傷者はいない。ただし、帰還には十日以上かかる。自力航行を失う可能性がある」
クリスタルの表情が引き締まる。
イーナも作業画面を切り替えた。
フレイが尋ねる。
「警戒体制の段階は?」
ペルシアは一瞬だけ考えた。
調査船は救難信号を発していない。
自力航行も続けている。
形式上なら、緊急救難段階ではない。
だが。
異常が起きてから船を集めたのでは遅い。
「第二種警戒体制」
ペルシアは明確に告げた。
「救助船、医療船、技術支援船、補給船を出す。北部未探索領域手前のセーシング領域で待機させる」
フレイが北部宙域の航路図を開く。
「待機地点の指定をお願いします」
ペルシアも同じ航路図を表示する。
未探索領域と既知領域の境界。
過去の観測データが揃い、安定した通信中継設備が存在する場所。
救助船団が複数待機できるだけの空間もある。
「第三セーシングポイント」
ペルシアが座標を指定する。
「調査船が既知領域へ戻る場合、最も早く接近できる地点。そこを前方待機拠点にする」
「承知しました」
フレイが待機船の一覧を開く。
「救助船の必要数は?」
「二隻。一隻は調査船の乗員救助、もう一隻は予備兼牽引支援。医療船一隻、技術支援船一隻、補給船一隻。救助船には追加の通信中継機を積んで、帰還途中で通信が切れた時に使う」
フレイは正確に復唱する。
「救助船二隻、医療船一隻、技術支援船一隻、補給船一隻、全船、第三セーシングポイントへ前進待機。救助船へ臨時通信中継機を搭載。間違いありませんか」
「ええ」
「発進期限は?」
「可能な限り早く」
フレイの指が止まった。
「統括官」
ペルシアは一瞬、フレイを見る。
「何?」
「各部署へ具体的な期限を示す必要があります」
警戒体制でも、フレイは変わらない。
曖昧な指示をそのまま命令として流さない。
焦っている時ほど、ペルシアの言葉を正確な形へ直す。
ペルシアは短く息を吐いた。
「救助船と医療船と技術支援船と補給船、二時間以内。通信中継機の積載を優先 ――分離して運ぶくらいなら、救助船の発進を三十分遅らせてもいい。ただし、二時間半を超えないで」
「承知しました」
フレイが即座に各部署へ発進準備命令を送る。
壁面画面へ待機候補船が表示された。
救助船二隻。
医療船。
技術支援船。
補給船。
整備状態。
現在の乗員。
出動可能時刻。
必要な追加装備。
一つずつ、状態表示が通常待機から緊急準備へ変わっていく。
「イーナ」
フレイが呼ぶ。
「はい」
「各船の乗員構成を確認してください。連続航行及び長期待機を想定し、通常より一班多く編成します」
「承知しました」
イーナはすぐに乗員名簿を開く。
「救助船二隻は、操縦士及び救助要員ともに確保できます。医療船は医師二名、看護師四名、救急対応員二名です」
クリスタルが画面を確認する。
「医師をもう一名追加した方がいいわ」
イーナがクリスタルを見る。
「理由をお願いします」
「調査隊は一か月間、未探索領域で緊張状態が続いている。負傷がなくても、帰還途中に体調を崩す可能性があるわ。睡眠不足や判断疲労もある。心理対応ができる医師も必要ね」
ペルシアが画面越しに頷く。
「クリスタルの言うとおりにして」
「心理対応ができる医師を一名。それから、長期勤務に対応できる交代要員も追加して」
イーナはすぐに候補者を検索する。
「承知しました。待機名簿から選定します。医療船の乗員確定後、クリスタルさんにも確認をお願いします」
「ええ」
クリスタルは調査船の情報へ視線を戻した。
「船内の医療記録は共有できる?」
ペルシアはシャオメイを見る。
「できる?」
「調査船側の承認が必要ですが、技術的には可能です」
「セレナへ確認して、医療情報は、医療船とクリスタルだけが見られる区画へ分けて。全回線へ流さないで」
「承知しました」
ペルシアは次にリリアを見る。
「リリア」
「はい」
「救助船団の護衛を宇宙警察へ頼みたい」
リリアの表情が引き締まる。
「必要な護衛規模は?」
「巡視艦か警備艦を二隻。第三セーシングポイントまで救助船団に同行。待機後は周辺警戒と航路管理。不審船の接近だけじゃなく、救助船団の航路を他の船が塞がないようにして」
「承知しました」
リリアはすぐに宇宙警察との専用回線を開こうとする。
ペルシアが続けた。
「グレイ本部長へ直接上げられる?」
リリアの指が僅かに止まった。
宇宙警察本部長グレイ。
リリアの父親。
だが、リリアが答えるまでに迷った時間は僅かだった。
「可能です。宇宙管理局からの正式要請として連絡します」
「お願い」
「共有する情報は、調査船の現在位置、船体損傷、救助船団の航路、待機地点まで」
「調査内容と隊員の個人情報は出さないで」
「承知しました」
リリアは姿勢を正す。
「宇宙警察本部、緊急連絡コードを使用します」
回線が接続される。
『宇宙警察本部です』
「こちら宇宙管理局、リリアです」
リリアの声は丁寧だった。
しかし、以前の受付時代のような遠慮はない。
宇宙管理局の一員として。
必要なことを、明確に伝える。
「宇宙管理局第二種警戒体制に基づき、救助船団の護衛を正式に要請します。北部未探索領域手前、第三セーシングポイントまで巡視艦二隻の派遣をお願いします。対象船団の情報を送信します」
リリアが資料を送る。
画面上に、宇宙警察側の受領表示が出た。
ペルシアはそのまま次の指示へ移る。
「ナミ」
「はい」
「調査船の通信を常時監視。音声が繋がっていても、位置情報の更新が遅れたら異常として扱って」
ナミはすぐに回答する。
「中継点ごとの遅延を分離して監視します。調査船側の送信遅延なのか、中継設備側の問題なのかを判別します」
「通信が途切れた時は?」
ペルシアが聞く。
「最初に最終位置を確定します。次に進行方向と速度。その後、船体状態と乗員状況を取得します」
「そうして」
ナミが以前から訓練で主張していた順番だった。
危険な通信では、全てを聞こうとしない。
回線が切れる前に、救助に必要な情報を最初に確保する。
「マリ」
「はい」
「機体ログと通信ログの変化を照合して、推進系統に異常が出た瞬間、声や背景音にも変化がないか見て」
マリは端末へ複数の波形を表示する。
「推進音、警報音、船体振動、通信雑音を分けて記録します。通常時との差が閾値以下でも、継続して同じ周期に出る場合は異常候補として報告します」
ジェームズが画面越しに言う。
「推進音の周期を優先しろ」
マリがジェームズを見る。
「理由をお願いします」
「構造負荷が計器に出る前に、推進器の回転音が変わる可能性がある。支持材がずれれば、推進軸の振動が音へ出る」
マリはすぐに項目を追加する。
「承知しました。推進音の周期変化を最優先監視へ変更します。ジェームズさんが指定する正常音と比較します」
「ああ」
ジェームズは短く答え、再び調査船の機体ログへ視線を戻した。
ペルシアも調査船へ注意を戻す。
「リュウジ」
『聞こえてる』
「次の姿勢変更は?」
『四十秒後』
「ジェームズ」
「負荷は戻ってる。補助推進器一番、四番ともに温度正常。今の設定でいい」
ペルシアが通信へ言う。
「そのまま開始して」
『了解』
短い噴射。
船体が、さらに三度だけ傾く。
負荷波形が上がる。
ペルシアは無意識に息を止めていた。
一秒。
二秒。
数値が下がる。
ジェームズが言う。
「問題ない」
ペルシアは小さく息を吐いた。
「次まで三分」
『了解』
その間にも。
宇宙管理局の警戒体制は動き続ける。
救助船。
医療船。
技術支援船。
補給船。
必要な人員。
必要な資機材。
一つずつ準備が始まる。
ファルコは壁面画面に表示された北部宙域を見ていた。
調査船の位置。
救助船団の予定航路。
第三セーシングポイント。
そして、調査船と待機地点の間にある長い距離。
「ペルシア」
ファルコが声を上げる。
「何?」
「救助船だけじゃ遅くないか」
ペルシアの目がファルコへ向く。
「どういうこと?」
「調査船が今すぐ止まったら、救助船が第三セーシングポイントへ着いても届かねぇ」
ファルコは航路図を拡大する。
「未探索領域へ入れる船が、もう一隻必要だ」
クリスタルも画面を見る。
「グレートフォックスなら、通常の救助船より速いわ。通信設備も索敵装置もある。スリッピーがいれば、応急修理にも対応できる」
ファルコが続ける。
「俺達も出る」
ペルシアは数秒、黙って考えた。
スターフォックス。
グレートフォックス。
高速航行。
長距離通信。
索敵能力。
船外作業能力。
未確認領域での活動経験。
何より。
予測不能な状況で、それぞれが自分の役割を理解して動ける。
救援船団へ加える価値は十分にある。
だが。
現在、フォックスは連盟指令室にいる。
スリッピーは休息中。
グレートフォックスの発進準備もできていない。
ペルシアは横にいるフォックスを見る。
「フォックス」
「ああ」
「宇宙管理局へ戻って」
フォックスはすぐに立ち上がった。
「グレートフォックスを出すんだな」
「ええ」
「ファルコ、クリスタル、スリッピーと合流。救助船団より先に第三セーシングポイントへ向かって、調査船が完全停止した場合は、最前線の救援船として動いて」
「了解」
フォックスは迷わず答えた。
ペルシアが続ける。
「ただし」
フォックスが足を止める。
「独断で未探索領域の奥へ入らないで、調査船と通信が繋がっている間は、リュウジの判断を聞く」
「通信が切れた場合は?」
ペルシアは航路図を見る。
最後に確認した位置。
調査船の速度。
推進出力。
機体状態。
通信断が起きた場合。
どこまで進むことを認めるか。
判断を誤れば、救助する側まで戻れなくなる。
「最後に確認した位置と進行速度から予測地点を出して、グレートフォックスが確実に帰還できる範囲までなら入っていい。粉塵帯は避けて、救助船団との通信を切らさないで」
「ああ」
フォックスは短く答える。
それだけで十分だった。
ペルシアは宇宙管理局側へ視線を戻す。
「ファルコ」
「おう」
「クリスタル」
「ええ」
「スリッピーを起こして」
ファルコが立ち上がる。
「やっと動けるな」
「遊びに行くんじゃないのよ」
「分かってる」
「分かってる顔に見えない」
「俺はいつもこういう顔だ」
クリスタルが穏やかに言う。
「それが問題なのよ」
「お前まで言うのかよ」
クリスタルも席を立つ。
「スリッピーは昨夜遅くまで中継装置の調整をしていたわ。かなり疲れていると思う」
ペルシアは一瞬だけ迷った。
だが、グレートフォックスの機体と通信設備を最も理解しているのはスリッピーだ。
「起こして。ただし、クリスタルが状態を確認して。作業できないなら無理に乗せない、技術支援船から別の整備士を付ける」
「分かったわ」
ファルコが言う。
「スリッピーなら起きるだろ」
「起きることと、正常に判断できることは別よ」
クリスタルはファルコを見る。
「寝起きの貴方なら分かるでしょう?」
「俺は寝起きでも動ける」
「機嫌が悪いだけね」
「それは関係ねぇだろ」
ペルシアが二人の会話を遮る。
「ファルコ」
「何だよ」
「勝手に先行しないで」
「フォックスを待って」
ファルコが少し不満そうな顔をする。
「分かってる」
「本当に?」
「今日、何回それ聞くんだ」
「普段の行い」
クリスタルが即座に答える。
ファルコはクリスタルを見る。
「お前はペルシアの味方かよ」
「安全な方の味方よ」
ペルシアは二人をまっすぐ見る。
「頼むわよ」
その一言で。
ファルコの表情から軽さが消えた。
「任せろ」
クリスタルも静かに頷く。
「ええ」
二人は休息区画へ向かった。
◇
スリッピーは、簡易ベッドの上で眠っていた。
枕元には端末。
床には工具箱。
机の上には、途中まで作成された通信中継装置の設計図が表示されている。
作業を終えたのではない。
途中で力尽きたように眠っていた。
ファルコが扉を開ける。
「おい、スリッピー」
反応はない。
「スリッピー」
ファルコは少し声を大きくする。
それでも起きない。
クリスタルがファルコの横を通り、ベッドのそばへ座る。
「スリッピー」
肩へ軽く手を置く。
「起きて」
スリッピーの眉が僅かに動く。
「……あと少し」
「出動よ」
「出動……?」
薄く開いた目が、ゆっくりとクリスタルを捉える。
「何かあったの?」
ファルコが答える。
「北の未探索領域で調査船が孤立してる。護衛艦は二隻とも離脱。推進器も壊れかけてる」
スリッピーの目が一気に開いた。
「推進器?」
身体を起こす。
「どの船?」
「情報は今送る。グレートフォックスで出るぞ」
スリッピーはクリスタルから端末を受け取り、表示された資料を読み始めた。
「推進出力十パーセント……」
「動的負荷が出てる?」
「ジェームズが見つけた」
クリスタルが答える。
スリッピーは少しだけ安心したように息を吐く。
「ジェームズが見てるなら、原因の見立てはかなり正確だと思う。グレートフォックスの役割は?」
「第三セーシングポイントで前進待機」
ファルコが言う。
「調査船が止まったら救援へ入る。必要なら応急修理もする」
スリッピーはすぐに必要装備を考え始める。
「牽引装置。外部作業用アーム。大型船用の応急補修材。通信中継機も必要。
「積む予定だ」
「推進器の固定部に使える支持材は?」
ファルコが黙る。
クリスタルが尋ねる。
「グレートフォックスにあるの?」
「小型船用しかない」
スリッピーは端末を操作する。
「でも、格納庫三番に廃船回収用の支持フレームがあるはず、規格を変更すれば、大型推進器の固定補助に使える」
「準備にどのくらいかかる?」
「一時間」
ファルコが言う。
「長いな」
「短くできる?」
スリッピーは一瞬考える。
「四十分」
クリスタルが即座に言う。
「無理な時間を言わないの」
スリッピーは黙った。
クリスタルは目を逸らさない。
「正確には?」
「……五十五分」
「固定試験までやるなら、一時間十分」
「一時間十分でいいわ」
クリスタルは言った。
「急いで壊れるものを積んでも意味がない」
ファルコも頷く。
「フォックスが戻るまでには終わるだろ」
スリッピーはベッドから立ち上がった。
一瞬、足元が揺れる。
クリスタルがすぐに腕を支える。
「大丈夫?」
「大丈夫」
クリスタルの目が細くなる。
「その答えだけでは分からないわ」
スリッピーは一瞬、戸惑った。
「少し眠い」
正直に答える。
「でも作業はできる。発進後に交代で休めば、問題ないと思う」
「どのくらい眠れば戻る?」
「二時間」
「なら、格納庫で作業を終えたら食事を取って、移動中に必ず二時間休んで」
「分かった」
「約束よ」
「うん」
ファルコが扉を開ける。
「行くぞ」
スリッピーは工具端末を手に取った。
「ナウスにも発進準備を頼まないと」
その瞬間。
部屋の端末から、落ち着いた声が流れる。
『すでに開始しています』
ファルコが僅かに笑う。
「聞いてたのか」
『宇宙管理局の警戒体制発令と同時に、グレートフォックスの発進前点検を開始しました』
クリスタルが尋ねる。
「現在の状態は?」
『主推進器、正常。補助推進器、正常。索敵装置、正常。長距離通信装置、正常。搭載燃料、八十二パーセント。第三セーシングポイントへの往復航行は可能です』
スリッピーがすぐに言う。
「外部作業用アームを詳しく確認して」
『了解しました』
「牽引装置の接続部も」
『確認します』
「中継機を二基積めるように空間を空けて」
『搭載物を再配置します』
ファルコは休息区画を出る。
「話が早くて助かるな」
クリスタルとスリッピーも後に続いた。
◇
一方。
連盟指令室では、シャオメイが宇宙管理局との同期作業を続けていた。
調査船の位置情報。
機体ログ。
推進系統の波形。
船内通信。
医療記録。
連盟本部から送られた過去の命令ログ。
宇宙管理局が準備している救助船団の位置。
宇宙警察の護衛状況。
グレートフォックスの発進準備。
それら全てを、同一の時刻基準で管理しなければならない。
「連盟側時刻と宇宙管理局側時刻に〇・四秒のずれ、調査船内部時刻は基準時より〇・三秒進んでいます。第三中継点による平均遅延、一・七秒。第二中継点、〇・八秒」
シャオメイが一つずつ補正値を設定する。
ナミの声が宇宙管理局から届く。
『こちらでも時刻補正を確認しました』
「位置情報の更新時刻は一致していますか」
『一致しています』
マリも続く。
『推進器の噴射時刻と構造負荷の上昇も一致しました』
「同期率九十四パーセント」
シャオメイが答える。
「残りは医療記録と、救助船団航路です」
ペルシアが言う。
「医療記録は分離して、セレナ、クリスタル、医療船以外からは見えないようにして」
「承知しました」
「救助船団の航路は全員で共有して、調査船が停止した時、どの船が最短で行けるか常に出して」
「設定します」
シャオメイの指が休むことはない。
その横で。
ジェームズも、一度も機体ログから目を離していなかった。
ペルシアが尋ねる。
「次の姿勢変更は?」
ジェームズは波形を見る。
「あと三十秒。支持材の負荷は戻ってる。補助推進器四番の温度が、前回より少し高い」
ペルシアはすぐに通信へ向く。
「リュウジ」
『聞こえてる』
「四番の温度が上がってる」
『許容範囲内だ』
ジェームズが言う。
「許容範囲でも、上昇傾向は無視するな」
『使用を止めるか?』
「次は一番と三番を使え」
リュウジの返答が僅かに遅れる。
『三番は粉塵帯で一度停止している』
「修理後の検査結果は正常だ」
『四番より信頼できるのか』
「支持位置が主推進器から離れてる。共振の影響は少ない。ただし出力は八割。一回の姿勢変更は二度半に落とせ」
『反転時間が延びる』
「延ばせ」
ジェームズは即答した。
「時間より推進器を残せ」
リュウジは数秒、機体情報を確認する。
『了解。補助推進器一番、三番。出力八十パーセント。姿勢変更角度、二・五度』
「それでいい」
短い噴射。
調査船が二度半だけ向きを変える。
ジェームズの目が波形を追う。
負荷上昇。
減衰。
温度。
振動。
「問題ない」
ペルシアは小さく息を吐いた。
そして。
ジェームズの横顔を見る。
「ジェームズ」
「何だ」
「調査船が帰るまで、機体監視をお願い」
ジェームズは画面を見たまま答える。
「言われなくてもやる」
「休憩も取って」
「後だ」
「食事は?」
「後でいい」
ペルシアの眉が寄る。
「あなたまでリュウジみたいなことを言わないで」
ジェームズが僅かに顔を向ける。
「操縦はしてない」
「でも判断してる」
「あなたが疲れて見落としたら、同じでしょう」
「俺以外にこの異常を――」
「判断はあなたがして、でも数値を監視する人は増やす。異常が出たら起こす」
ジェームズは不満そうに黙った。
ペルシアは引かない。
「何時間後なら休む?」
「必要ない」
「ジェームズ」
「……三時間後」
「何分?」
「十五分」
「短い」
「十分でもいい」
「減らさないで」
ペルシアは腕を組む。
「三十分」
「二十分」
「三十分」
「二十五分」
「分かった」
ジェームズは再び画面へ向く。
「今は集中させろ」
「はいはい」
ペルシアは、ほんの少しだけいつもの調子を戻した。
しかし、すぐに全体を見渡す。
宇宙管理局。
宇宙警察。
救助船団。
医療船。
技術支援船。
補給船。
スターフォックス。
連盟指令室。
そして。
未探索領域を、僅かな推進力で帰ろうとしている調査船。
ようやく。
リュウジ一人へ押し付けられていたものが、分けられ始めている。
船を操縦するのはリュウジ。
だが。
船を帰す責任まで、リュウジ一人に背負わせてはいけない。
ペルシアはフレイへ呼びかける。
「フレイ」
『はい、統括官』
「各船の準備状況は?」
フレイが画面を切り替える。
『救助船一番船、発進準備率六十八パーセント。二番船、六十一パーセント。医療船、乗員搭乗中、技術支援船、応急補修資材を積載中。補給船、燃料及び酸素供給設備を確認中です』
「通信中継機は?」
『一基目は救助船へ積載完了。二基目は点検中です』
「宇宙警察は?」
リリアが答える。
『グレイ本部長の承認が下りました。巡視艦二隻が一時間以内に発進します。追加一隻も即応待機へ移行しました』
ペルシアは頷く。
「ありがとう、リリア」
『任務ですから』
「それでもありがとう」
リリアは僅かに目を伏せる。
『はい』
ペルシアは次に、グレートフォックスの準備画面を見る。
発進準備率、三十七パーセント。
数値が急速に上昇している。
ナウスの点検。
ファルコの発進準備。
クリスタルの医療資材確認。
スリッピーの装備改造。
「ファルコ」
『聞こえてるぜ』
格納庫の騒音と共に、ファルコの声が返ってくる。
「フォックスが戻るまで発進しないで」
『分かってるって』
「勝手に近道を選ばないで」
『まだ飛んでもいねぇよ』
「今のうちに言ってるの」
クリスタルの声が入る。
『ペルシアの判断は正しいわ』
『お前ら、俺を信用してないだろ』
『信用と警戒は両立するのよ』
ファルコがため息を吐く。
『クリスタルまでフレイみたいになってきたな』
『褒め言葉として受け取っておくわ』
スリッピーの声も入る。
『支持フレームの加工を始めたよ』
ペルシアが尋ねる。
「間に合いそう?」
『固定試験まで含めて、あと五十二分』
「急がなくていい」
『でも早く出た方が――』
「壊れるものを積む方が遅くなる」
ペルシアははっきりと言う。
「正確に作って」
『うん』
「頼むわよ、スリッピー」
『任せて』
その時。
フォックスがペルシアの横を通る。
「俺は戻る」
「ええ」
ペルシアはフォックスを見る。
「グレートフォックスの指揮は任せる。調査船を追い立てないで」
「了解」
「リュウジが待てと言ったら待つ」
「ああ」
「入るなと言ったら入らない」
「分かっている」
「通信が切れた時だけ、判断して」
フォックスはペルシアをまっすぐ見る。
「必ず見つける」
ペルシアは一瞬だけ黙った。
その言葉は、軽い励ましではない。
フォックスが言うなら。
本当に、そのために動く。
「お願い」
フォックスは短く頷き、連盟指令室を出ていった。
◇
準備は進む。
それでも。
調査船が安全になったわけではない。
ペルシアは再び中央画面の前へ立つ。
各組織の回線を一つへまとめる。
宇宙管理局。
連盟指令室。
救助船。
医療船。
宇宙警察。
グレートフォックス。
そして調査船。
全ての担当者へ、ペルシアの声が届く状態にする。
「全員、聞いて」
複数の場所で、手が止まる。
ペルシアは一つずつ言葉を選んだ。
「目的は一つ。調査船を帰す。調査成果より、計画より、船体より、乗っている人間の命を優先する」
連盟職員の中には、僅かに表情を変える者もいた。
だが、ペルシアは気にしない。
「判断に迷ったら、安全な方を選んで、情報が整理できていなくても送る。異常だと確定していなくても、違和感があれば報告する。誰かが言った後に乗っかるんじゃなくて、自分が気づいた時に言う」
その言葉は。
調査隊へ向けたものでもあった。
「船の操縦判断は、リュウジを信じる。推進出力、航路、停止、反転、その判断へ、外から無理を言わない―――ただし」
ペルシアは一度、息を吸う。
「リュウジ一人に全てを背負わせない。機体はジェームズ。通信はシャオメイ、ナミ、マリ。救援体制はフレイ。医療はクリスタルと医療船。護衛はリリアを通じて宇宙警察。前方救援はスターフォックス。それぞれが自分の仕事をする。何か起きた時、操縦士のせいにしない―――それが宇宙管理局の方針よ」
ペルシアは調査船の回線を見る。
「リュウジ」
『聞こえてる』
「あなたは船を帰すことだけ考えて」
『ああ』
「こっちは」
ペルシアは準備が進む複数の画面を見る。
「あなた達が帰れる場所を作る」
通信の向こうで、リュウジは暫く答えなかった。
それまで。
帰るかどうかも。
進むかどうかも。
全員の命も。
一人で考えていた。
だが今。
自分が戻る先で。
複数の船が動こうとしている。
通信を守る者がいる。
機体を見る者がいる。
医療の準備をする者がいる。
護衛に出る者がいる。
自分達が辿り着く前から。
帰る場所が作られている。
『……頼む』
小さな声だった。
だが、はっきりと届いた。
ペルシアの表情が僅かに柔らかくなる。
「任せなさい」
そして。
宇宙管理局のオペレーションルーム。
格納庫。
救助船。
医療船。
宇宙警察。
連盟指令室。
全てへ向けて。
ペルシアは強く言った。
「頼むわよ!」
最初に返したのはフレイだった。
『承知しました』
イーナが続く。
『救助船団の人員を確定します』
リリア。
『護衛艦との連携を進めます』
ナミ。
『通信断の予兆を監視します』
マリ。
『機体ログとの時間軸を照合します』
クリスタル。
『医療船の受入れ体制を整えるわ』
ファルコ。
『グレートフォックスは任せろ』
スリッピー。
『必要な装備を全部積む』
ナウス。
『発進準備を継続します』
ジェームズは画面を見たまま、短く答えた。
「機体は俺が見る」
シャオメイも端末から目を離さない。
「全回線を維持します」
宇宙警察からも返答が入る。
『巡視艦二隻、発進準備へ移行』
そして。
未探索領域の奥から。
リュウジの声が届く。
『帰還操作を続ける』
短い噴射。
調査船が、また二度半だけ向きを変える。
それは航路図の上では、ほとんど分からないほど小さな変化だった。
だが。
その小さな船首の動きを支えるために。
救助船が動く。
医療船が動く。
宇宙警察が動く。
グレートフォックスが動く。
宇宙管理局全体が動き始める。
もう。
リュウジ一人の操縦だけで帰るのではない。
今度は皆で。
調査船が戻る道を作っていた。