いつもの夕方だった。
窓の外では、コロニーの人工空がゆっくりと橙色に沈み、フロアの照明が少しだけ早く説明的になる。
退勤の足音が増え、端末のシャットダウン音がちらほら混じり始める時間帯。
その日、宇宙事業部の一角には、珍しく段ボール箱が積まれていた。
先日、タツヤから渡された分厚いカタログの中から選んだ――リュウジ用のデスクが届いたのだ。
「……思ったより大きいですね」
リュウジが箱の角を押さえながら言う。
エリンは作業用の手袋をはめ、説明書を確認して頷いた。
「タツヤ班長が“どうせならちゃんとしたのにしな”って言ってたからね」
ペルシアは箱の側面に貼られた配送伝票を指で叩きながら、楽しそうに笑う。
「いいじゃん。やっと“リゅウジの席”ができる」
「“ペルシアの席を借りてる”って言われなくて済むわね」
エリンがさらりと告げると、ペルシアは「うっ」と小さく詰まった。
先日の会議室の一件が、まだ尾を引いているらしい。
「……はいはい。」
ペルシアは両手を上げて降参のポーズをしつつ、工具の袋を開ける。
手際は良い。客室でドリンクカートを整える時のように、無駄がない。
リュウジも説明書を読み、部品を並べる。
ネジ、板、脚、配線用の穴、補強バー。
組み立て家具の工程は、機体整備ほど複雑ではないが、それでも“順番”は重要だ。
「この板、裏表あります」
リュウジが言うと、エリンはすぐ頷いた。
「うん、穴の位置が違うね。ありがとう」
ペルシアが鼻を鳴らす。
「ふーん。リゅウジ、こういうの真面目説明するんだ」
「真面目じゃなきゃ、崩れるだろ」
「崩れるのは人間関係だけで十分」
「お前、それまだ引きずってるのか」
「引きずってない!」
即答が怪しい。
それでも、三人で作業すると早かった。
脚を固定し、天板を乗せ、補強を入れ、配線穴のキャップをはめる。
最後に高さを調整し、ぐらつきを確認して――。
「よし」
エリンが小さく頷く。
「設置完了」
リュウジは机の天板に軽く手を置いて、まっすぐな感触を確かめた。
それは“居場所”の触感だった。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼はいいわよ。どうせ私たち、現場の設営慣れてるし」
エリンが言い、ペルシアが得意げに胸を張る。
「客室乗務員なめないでよね。組み立ても掃除も得意」
「掃除は……得意だったか?」
リュウジがじとっと見やると、ペルシアは目を逸らした。
「……今日は我慢してあげる」
「節度は掃除に関係ない」
その時だった。
「……なんだって!?」
フロアの少し向こう、タツヤのデスクから声が上がった。
いつもののらりとした声ではない。明らかに面倒事を掴まされた声だ。
三人が顔を上げると、タツヤが端末を耳に当てたまま立ち上がり、眉間に皺を寄せていた。
会話の相手に向けて、短く相槌を打つ。
「うん、うん……いや、待って。それは――」
数秒の沈黙。
それから、タツヤが深く息を吐いた。
「……分かった。先方には俺から謝っておくから。今、向かう」
通話が切れる。
タツヤは端末を机に置き、肩を落とした。
のらりくらりの皮が、一瞬だけ剥がれて見えた。
エリンがすぐに近づく。
「どうかしましたか?」
タツヤは額を指で押さえながら、苦笑する。
「うちの班のフライトで、お客さんともめたらしくてね」
「……もめた?」
ペルシアが目を丸くする。
タツヤは頷いた。
「とりあえず謝りに行かなくちゃいけない。現場ってさ、こういうの急にくる」
「そうなんだ……」
ペルシアが珍しく素直な声を出す。
タツヤはそれを見て、さらに苦笑した。
「だからさ、帰りが遅くなる」
そして、いつもの調子で言う――が、目は真面目だ。
「いつも悪いけど、エリン、頼めるか?」
エリンは迷わず頷いた。
「分かりました」
その答えの速さに、タツヤは少しだけ肩の力を抜く。
「助かる」
そして、さらに言葉を足した。
「……それと、リュウジも連れてって」
「え?」
リュウジが思わず声を漏らす。
エリンも一瞬、首を傾げた。
「……ええと」
けれど、タツヤはもう決めている顔だった。
「いや、たぶんリュウジがいた方がいい。
俺、現場の事情で手一杯になくなるから。あと――」
タツヤは言いかけて、少しだけ視線を逸らす。
言葉を選んでいる。
「……見といた方がいいこともある」
リュウジはそれ以上、聞かなかった。
タツヤの“真面目な時の口調”が出ている。
こういう時は、理由を掘るより先に動く方が正しい。
「承知しました。行きます」
リュウジが言うと、エリンは確認するように目を細め、軽く頷いた。
「じゃあ、行こうか」
ペルシアが「私は?」と言いかける前に、タツヤがのらりと手を振る。
「ペルシアは……まだ会議録が残ってるでしょ」
「うっ」
「それと、机の梱包材の処分。頼んだ」
「……はーい……」
ペルシアは恨めしそうに二人を見送りながら、段ボールを蹴りそうな勢いで抱えた。
⸻
夕陽で染まるコロニーの街を歩く。
通路の壁は橙色の光を反射し、行き交う人々の影が長く伸びる。
仕事終わりのざわめきが、どこか柔らかい。
エリンは迷いなく進む。
リュウジはその半歩後ろを歩きながら、目的地を探る。
しばらくして、エリンが足を止めた。
建物の前には、小さな看板。
子ども向けの絵と、短い施設名。
そして、低いフェンスと、彩色された入口。
「……ここ?」
リュウジが首を傾げる。
「どうしてここに?」
エリンは振り返り、柔らかく言った。
「タツヤ班長の一人娘がいるのよ」
「……タツヤ班長の」
リュウジは驚きはしたが、表情には出さなかった。
タツヤが時々、急に電話で声色を変える理由が、少しだけ腑に落ちる。
エリンは続ける。
「タツヤ班長の帰りが遅い時は、私かペルシアがお迎えに行くよう頼まれてるの」
「そうなんですね」
リュウジは静かに頷いた。
“仕事の延長”ではなく、“生活の延長”だ。
それを当たり前に引き受けているエリンの姿勢に、どこか客室で見た覚悟が重なる。
入口の扉を開けると、中から子どもたちの声が聞こえた。
笑い声、呼び声、泣き声の残り香。
夕方の保育園特有の、少しだけ慌ただしくて温かい空気。
ちょうど、迎えに来た母親たちの波と重なる時間帯だった。
エリンは気にせず、明るい声で言う。
「こんにちは」
職員に向けた挨拶。
その声の通りが、現場の人間のそれだ。
リュウジは少し遅れて会釈した。
「……こんにちは」
すると、周囲の視線が幾重にも重なるのが分かった。
若い男女が並んでいる。
しかも、どちらも整っている。
保育園という空間では、それだけで目立つ。
ひそひそと、囁きが耳に入る。
「まだ若いのに、あんな大きな子がいるのね」
「やだ、美男美女ね」
「どっちが親? え、二人とも?」
リュウジは無言で背筋を正し、視線を落とさずに通路の奥を見る。
仕事場と同じ。
視線に反応しない。反応すると“燃料”になる。
エリンは何も気にしない。
ただ、目的地へまっすぐ進む。
園内に入り、廊下を曲がり、さらに奥へ。
子ども用の靴箱、壁に貼られた絵、低い手洗い場。
どれも小さくて、柔らかい。
そして――エリンが、ふっと足を止めた。
そこにいたのは、小さな女の子だった。
隅の方で、土の入った箱のそばにしゃがみ込み、木の棒で土をいじっている。
誰かと遊んでいる様子はない。
一人で、静かに、小さくなっていた。
エリンはその姿を見つけた瞬間、表情がほんの少しだけ変わった。
仕事の顔でも、チーフパーサーの顔でもない。
もっと個人的な――守る側の顔。
リュウジも、その変化に気づき、自然と足を止めた。
エリンは息を整え、少女の方へ一歩踏み出す。
――そこで、空気が少しだけ静まった。
ーーーー
エリンが、その小さな背中に向けて声をかけた。
「ユイ」
少女は土をいじる手を止め、顔を向けた。
次の瞬間――ぱっと笑顔が咲いた。
「エリンさん!」
声が弾ける。
手に持っていた木の棒を、ぽいっと放り投げてしまうくらいの勢いだった。棒は土の箱の縁に当たって転がり、乾いた音がした。
ユイは迷いなく走り出す。
小さな靴がぱたぱた鳴り、制服の裾がふわりと揺れて――そして、エリンの前で勢いを殺しきれず、そのまま腰の位置にぎゅっと抱きついた。
「……っ」
エリンは反射で両手を広げ、ユイの体を受け止める。
その動きは、客室で転びそうな乗客を支える時と同じくらい自然だった。
「ただいま、ユイ」
エリンは優しく、しかし少しだけ注意を込めて言う。
「ちゃんといい子にしてた?」
ユイはエリンの腰にしがみついたまま、顔を上げて大きく頷いた。
「うん!」
その返事があまりにも元気で、エリンはふっと笑ってしまう。
子どもの「うん」は、嘘がつけない音だ。
ユイはエリンに抱きついたまま、視線を横へ滑らせた。
すぐ隣に、見慣れない大人がいることに気づき、眉を少しだけ上げる。
「……だれ?」
純粋な疑問の声だった。
警戒というより、世界を確認する声。
エリンはユイの背中を軽く撫でながら、落ち着いた声で紹介する。
「パパのお仕事のお友達で、リュウジよ。今日は一緒にお迎えに来たの」
ユイは「ふーん」とでも言いたげにリュウジを見る。
リュウジは一歩前へ出て、圧をかけない距離で軽く頭を下げた。
「こんにちは」
ユイはしばらくじっと見つめてから、こくりと頭を下げた。
小さな礼。けれど、きちんとした礼。
「……こんにちは」
声は小さいが、はっきりしていた。
リュウジは思わず口角を上げそうになるのを抑えた。
相手は子どもだ。
けれど、こういう礼儀の“芯”は、自然と人を安心させる。
エリンがユイをそっと離し、カバンを整えようとした時だった。
背後から、柔らかいが慎重な足音が近づいてくる。
保育士が一人、エリンの元へ歩み寄ってきた。表情は丁寧だが、どこか言いにくそうな困りが混じっている。
「あの……ユイちゃんの保護者の方でしょうか?」
エリンはすぐに首を振った。
「あ、いえ。ユイのパパがお仕事で来れなくて、代わりに迎えに来ました。宇宙事業部の――」
名乗りかけて、エリンは言葉を切った。
ここは職場ではない。肩書きを並べる場でもない。
必要なのは、“安心させる説明”だ。
「いつも、私か同僚が迎えに行くようにお願いされているんです」
保育士は「あ、そうでしたか……」と頷いた。
だが、その声の後に小さな間があった。
そして、困惑がほんの少し濃くなる。
エリンは、その表情を見逃さなかった。
(言いづらい話がある)
保育士は視線を落とし、次にちらりとユイを見る。
そして、ユイの隣に立つリュウジへも目を向けた。
何かを測っている視線だ。慎重に選ぶ視線。
エリンは微笑みを崩さず、声を柔らかくした。
「もし良ければ、お話は伺いますよ」
保育士の肩がわずかに緩む。
その変化だけで、“今ここで言いたいことがある”のが分かった。
ただ――保育士の視線はもう一度、ユイへ向いた。
子どもの前では話しにくい内容なのだろう。
エリンはすぐに判断した。
そして、リュウジへ視線を送る。
「リュウジ」
「はい」
「ユイを連れて、園庭で待っててくれる?」
リュウジは状況を瞬時に理解し、頷いた。
エリンが“話を聞く”時の顔になっている。
そして、ユイの前で余計な空気を作りたくないのだ。
「分かりました」
エリンはユイの肩に手を置いて、優しく言う。
「ユイ、荷物持って、ちょっと待っててね」
ユイはまだ何が起きているのか分からない顔をしながらも、エリンの声のトーンから「大事な話」があるのを感じ取ったのか、大きく頷いた。
「うん!」
そして、すぐに自分のカバンを探す。
床に置いたままの小さな荷物を両手で抱え、エリンを見上げる。
「……まってる!」
「ありがとう。すぐ行くね」
エリンが頷くと、ユイはリュウジの方へ体を向けた。
さっきより少しだけ距離が近い。
「……いこ」
短い命令形。
でも、そこに怖さはない。
“連れていって”の言い方を、ユイなりに選んだ声だった。
リュウジは静かに膝を折り、ユイと同じ高さに目線を合わせる。
「行こう。園庭、どっちだ?」
ユイは迷いなく指差した。
「あっち!」
「了解」
リュウジは立ち上がり、ユイの歩幅に合わせて歩き出す。
走らない。急がせない。
ユイもそれに合わせるように、ぱたぱたと小さな足音でついてくる。
背後で、エリンの声が聞こえた気がした。
保育士と、静かに話を始める声。
夕暮れの園庭へ向かう廊下は、柔らかい光で満ちている。
子どもたちの声が遠くなり、代わりに外の空気の匂いが近づく。
ユイは園庭に出た途端、少しだけ顔を上げた。
空の橙色を見て、目を細める。
「……きれい」
「そうだな」
リュウジは短く答えた。
余計なことは言わない。
ユイの視線が、今は空に向いているのが分かったから。
そして、リュウジは背中で感じていた。
エリンが保育士から聞こうとしている“話”が、決して軽くないかもしれないことを。
だからこそ、今この瞬間だけは――ユイの時間を、なるべく穏やかに保っておきたかった
ーーーー
リュウジは園庭の端にあるベンチを見つけると、そこに腰を降ろした。
金属の座面は夕方の冷えを少しだけ含んでいて、背中に当たる風が柔らかい。
ユイも、迷いなくその隣に腰を降ろす。
小さなカバンを膝の上に抱え、足をぶらぶらさせた。
園庭の中央では、同じくらいの年代の子どもたちがキャキャと声を上げながら走り回っている。
鬼ごっこ。追いかけっこ。砂場。滑り台。
ぶつかっては笑い、転びそうになっては叫び、また笑う。
夕暮れの園庭は、小さな熱で満ちていた。
リュウジはその光景を横目に見ながら、ユイに声をかける。
「……遊ばないのか?」
ユイは、園庭の真ん中を見つめたまま、少しだけ肩をすくめた。
そして、か細い声で言う。
「……別にいい」
短い。
それだけで話を終わらせるつもりの声音だった。
その声に、リュウジの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
理由のはっきりしない痛み。
操縦席で“異常”を察した時の感覚と似ている。
ただし、相手は機械じゃない。
小さな子どもだ。
リュウジは、声のトーンを少し落として言った。
「……そうか」
否定しない。
“遊べ”とも言わない。
押し付けると、ユイはますます殻に入る気がした。
少し沈黙が落ちる。
遠くで子どもたちの笑い声が弾けて、すぐに風に溶ける。
リュウジは、どう言葉を置けばいいか迷って――それでも、置く。
「じゃあさ」
ユイがちらりとこちらを見る。
「ユイは、何したい?」
問いかけは簡単でいい。
選択肢もいらない。
“やりたい”を引き出すだけでいい。
ユイはすぐに答えなかった。
膝の上のカバンの取っ手を指でいじり、視線を地面に落とす。
小さな口が、ほんの少し動いて――
「……木に登りたい」
ぽつり。
まるで、秘密を漏らすみたいに。
「木?」
リュウジが聞き返すと、ユイは顔を上げ、園庭の中心を指差した。
「あれ」
そこには、巨木があった。
園庭のど真ん中に、まるでここが元々森だったかのように根を張っている。
枝は太く、葉は密で、夕陽を受けて黒い影を落としていた。
リュウジは目測で高さを測る。
……ざっと二十メートル。
子どもが登る木ではない。大人でも危ない。
「……あの木か」
ユイは真剣な顔で頷く。
「うん。あの木の上で、お日様を見たい」
“お日様”。
コロニーの人工空に浮かぶ光源のことを、ユイはそう呼んだ。
その言い方が、胸の奥をまた少しだけ刺す。
リュウジは巨木を見上げた。
枝の先は夕焼けに溶けて、空と境界が曖昧になる。
⸻
一方、園舎の中。
保育士とエリンは、残った教室にいた。
日中の賑やかさが消え、椅子が整列し、絵本が棚に戻され、床が静かに光っている。
その静けさが、話の内容を先に教えてくる。
保育士は、言いにくそうに口を開いた。
「……実は、ユイちゃんのことで」
エリンは視線を上げ、頷いた。
「はい」
保育士は一度息を整え、言葉を選ぶ。
「ユイちゃんが……友達を作ろうとしないんです」
「友達を……?」
エリンが静かに聞き返す。
驚きというより、確認。
“事実”を受け取るための声。
「ええ。いつも一人でいて、みんなの輪に入ろうとはしないんです」
保育士の言葉は慎重だった。
責めているのではない。困っているのだ。
「もちろん、転園してきたので、上手く馴染めていないのかもしれないんですが……」
保育士は、そこで少し言葉を止めた。
そして、申し訳なさそうに続ける。
「どうも、それだけじゃなさそうでして」
エリンは、ゆっくり息を吐いた。
「……そうなんですね」
エリンの胸の中に、ユイの笑顔が浮かぶ。
さっきの、ぱっと咲いた笑顔。
抱きついてきた温度。
“元気で明るい女の子”――それは確かに事実だ。
だからこそ、疑問が生まれる。
(どうして?)
ユイは誰かを嫌っているわけではない。
ただ、輪に入ろうとしない。
入り方が分からないのか、入らない方が安全だと判断しているのか。
そのどちらにせよ、子どもにとっては、重たい選択だ。
エリンは表情を整え、保育士に向けて頷いた。
「分かりました。父親には、私からお話しておきます」
保育士は、ほっとしたように肩を落とした。
「すみませんが、よろしくお願いします」
深く頭を下げる。
エリンはその頭を上げさせるように、柔らかい声で言った。
「いえ。教えてくださってありがとうございます。
……ユイのことは、私も気にして見ておきます」
保育士は小さく頷き、エリンも頷き返す。
そして、教室を出る準備をしながら、エリンは心の中で考え始めた。
(タツヤ班長にどう伝えるべきか)
(ユイは何を感じているのか)
(そして――リュウジは、今、何を見ているか)
エリンは一度、園庭の方角を見た。
窓の外に、夕陽の色。
そこにいるはずの二人の姿が、ぼんやりと重なって見える。
彼女は小さく息を吐き、歩き出した。
守るための言葉を選ぶために。
ーーーー
エリンと保育士が教室を出て、園庭へ向かおうとした――その瞬間だった。
「大変です!」
扉が勢いよく開き、別の保育士が飛び込んでくる。頬が赤い。息が上がっている。
その様子だけで、ただ事ではないと分かった。
「至急、園庭に来てください!」
「え……何があったんですか?」
エリンが思わず一歩踏み出して尋ねる。だが、保育士は首を振った。説明する余裕がない。
「と、とりあえず急いでください!」
その言葉に、エリンは迷わず頷いた。
保育士も後ろからついてくる。廊下を駆け足で進む。園児用の低い手洗い場を横切り、靴箱の前を抜け、出口へ――。
扉が開いた瞬間、園庭の“空気”が違った。
ざわ、という音がまず耳に入る。
子どもたちの声でも、夕方の雑談でもない。
驚きと不安と好奇心が混ざった、群れの音。
園庭にいる子どもや保護者が、みんな一様に“天”を見上げていた。
誰もが同じ方向へ顔を向けている。
まるで空に何か落ちてきたかのように。
その視線を追うように、エリンも顔を上げた。
――園庭の中心。巨木。
枝葉の間、太い枝の上に、誰かが“座って”いる。
夕陽を背に、影の輪郭がくっきり浮かんだ。
そして――その人物の腕の中に、小さな影が抱えられている。
エリンの喉が、ひゅっと鳴った。
(まさか)
その輪郭を認識した瞬間、エリンは声を上げていた。
「……リュウジ!?」
木の上の人物が、ちらりとこちらを見た。
リュウジだ。間違いない。
その腕の中にいるのは――ユイ。
ユイは落ち着いているどころか、目を輝かせている。
両手でリュウジの胸元の服を掴み、まるで“高い場所”の景色を全身で味わっているようだった。
園庭のあちこちから悲鳴に近い息が漏れる。
「え……あの子……!」
「危ない……!」
「だ、誰か……!」
保育士たちも固まり、保護者は子どもを抱き寄せる。
それでも視線だけは、木の上から離せない。
エリンは一歩、二歩と前に出る。
叫びたい衝動を押し殺し、声を震わせないように腹の底で支えた。
「リュウジ、何して――」
言い終わらないうちに、リュウジの視線が一瞬だけエリンを捉えた。
そして、彼は腕の中のユイに何かを告げる。口元が動いた。距離があって声は届かないが、ユイが頷くのが見えた。
次の瞬間。
リュウジは、木の上から――落ちた。
正確には“落ちるように見えた”。
枝から身を投げる。
重力に身を預ける。
空中に身体が放たれ、影がすっと下へ滑る。
「――っ!」
園庭の空気が凍りついた。
息が止まる。
誰かが「やめて!」と叫んだ気がする。
子どもが泣きそうな声を上げる。
けれど、その“心配”をよそに――リュウジは空中で一回転した。
速い。滑らか。
まるで無重力下で姿勢を整える時のように、身体の軸を作り、重心を読み、着地点を決める。
そして――
音を立てることなく、スタッと着地した。
砂もほとんど舞わない。
足裏が地面を“掴む”ように触れた一瞬で、衝撃を消している。
見ている側の身体だけが、遅れて震えた。
誰もが声を失った。
保育士も保護者も、子どもたちも――ただ、目を見開いている。
ありえないものを見た時の、静かな硬直。
そんな沈黙を、真っ先に破ったのは――ユイだった。
ユイはまだリュウジの腕の中にいた。
目をきらきらさせたまま、息を弾ませ、叫ぶ。
「リュウジ、すごい! もう一回やって!」
あまりに無邪気な声に、周囲の大人の表情がさらに固まった。
だが、リュウジは落ち着いていた。
いつもの淡々とした顔で、ユイの額を軽く指でつつく。
「……そろそろ帰る時間だろ?」
「えー! 少しだけ!」
「少しだけは、危ない」
リュウジはそう言いながらも、声はきつくない。
むしろ、ユイの興奮を“受け止める”声だ。
そのやり取りに、子どもたちが反応した。
「いまの見た!?」
「すごい! すごい!」
「もう一回! もう一回!」
わらわらと、リュウジの周りに子どもたちが集まってくる。
さっきまで遊び回っていた子どもたちも、迎えを待っていた子どもたちも、全員が一箇所へ吸い寄せられる。
「ねえ、やって!」
「ぼくも!」
「あたしもできる?」
「ぼくも木の上行きたい!」
口々にせがむ声が飛ぶ。
保育士が慌てて前へ出ようとするが、保護者が制止する。
誰もが“危ない”と分かっているのに、“凄い”の方が勝ってしまう。
リュウジは一度深く息を吐き、ユイをそっと地面に降ろした。
ユイは名残惜しそうにリュウジの袖を掴むが、すぐに手を離す。
リュウジは子どもたち全体を見渡し、声を張りすぎない程度に通る声で言った。
「……これは、真似するな」
その一言に、子どもたちが「えー!」と不満を漏らす。
けれど、リュウジは続ける。
「危ないからだ。
できるかどうかじゃない。危ない」
真面目な言い方。
しかし、押さえつけるのではなく、“理由”で止める言い方だった。
子どもたちは一瞬だけ黙った。
“危ないからだめ”ではなく、“危ないから危ない”と言われたような、妙な納得の顔。
リュウジはユイの頭を軽く撫で、目線を合わせる。
「ユイも。木はまた今度な」
ユイは頬を膨らませかけて――でも、すぐに笑顔になる。
リュウジが“約束”の形で言ったのが分かったからだ。
「……うん!」
その瞬間、別の子どもがユイを見て叫んだ。
「ユイちゃんのおにいちゃん!?」
「ユイちゃんのおにいちゃん、すごい!」
「おにいちゃん、またやって!」
子どもたちの視線が、ユイへと移る。
ユイは一瞬きょとんとした。
でも、次の瞬間――少し照れ臭そうに鼻の頭を擦り、満面の笑みを浮かべた。
「うん。おにいちゃん、すごいでしょ」
胸を張る。
誇らしさが、全身から溢れる。
リュウジはその姿を見て、目元を柔らかくした。
優しい笑みが、自然に浮かぶ。
ユイが“誰かの輪の中心”にいる。
それも、無理に入ったのではなく――自分の言葉で、自然に。
その光景は、なぜだかリュウジの胸を少しだけ温めた。
⸻
一方で――。
「すみません! 本当にすみません!」
エリンは、保育士や保護者の方々に向かって何度も頭を下げていた。
その姿勢は丁寧で、真摯で、逃げない。
まさにチーフパーサーの“現場対応”だった。
「こちらの不手際で……」
「いえ、でも……あの方は……」
「危険な行為を……」
保護者の声は、驚きと怒りと困惑が混ざっている。
当然だ。
安全が何より優先される場で、あんな動きが起きたのだから。
エリンは何度も謝りながら、同時に頭の中で整理していた。
(リュウジは、危険を理解してる)
(理解してるのに、やった)
(ユイの願いを叶えたかった?)
(でも……場所が悪い)
(そして今、ユイは――)
エリンが視線を上げると、ユイが子どもたちの中心にいた。
さっきまで一人で小さくなっていたユイが。
友達の輪に入ろうとしなかったユイが。
今は、自然に笑っている。
その事実が、エリンの心を複雑にした。
怒るべきか。
責めるべきか。
でも、目の前にあるのは、“ユイの笑顔”だ。
そして、その笑顔を作ったのは、今――子どもたちに囲まれながら困った顔をしているリュウジだった。
リュウジは子どもたちにあれこれ言われ、少しだけ居心地悪そうに眉を動かしている。
だが、距離は取らない。
怖がらせないように、声のトーンを落とし、目線を合わせている。
それができるのは――ただ優しいからではない。
“守るべき相手が目の前にいる”と理解している人間の動きだ。
エリンは謝罪を続けながら、胸の奥で決めた。
(あとで――必ず話す)
安全の話。
保育園という場の話。
そして、ユイの話。
リュウジはきっと、言えば分かる。
分かるからこそ、今は“謝るべき人”がいる場所で、エリンが頭を下げ続けている。
夕陽が園庭を赤く染め、巨木の影が長く伸びる。
その影の中で、子どもたちの輪の中心に、ユイがいた。
ユイはまた笑って、リュウジを見上げた。
「リュウジ、またやってね!」
リュウジは軽く頷く。
「ああ。今度な」
その短い返事に、ユイが嬉しそうに頷いた。
――その瞬間だけは、確かに“いい時間”だった。
けれど同時に、エリンの胸の中には、次に来る“話し合い”の影が静かに伸びていた。
ーーーー
ユイは園庭の出口へ向かいながら、振り返って手を振った。
「また明日ねー!」
夕焼け色の空の下、子どもたちの輪の中からも声が返る。
「また明日ー!」
「ユイちゃん、ばいばーい!」
「おにいちゃんも、またねー!」
ユイは照れ臭そうに笑いながら、もう一度大きく手を振った。
その笑顔は、さっきまで一人で小さくなっていた姿が嘘みたいに明るい。
それを見ていたリュウジは、胸の奥でふっと息を吐いた。
(よかった)
友達の輪に自然に入っていた。
別に、無理をしている感じはしない。
声も出ていた。目も輝いていた。
――それなら、今日の“景色”は、意味があった。
リュウジは一瞬だけ、安心に身を預けた。
だがそれは、束の間だった。
背後から、鋭い気配が刺さった。
空気が変わる。
気温が一度、下がったように感じる。
リュウジは反射で肩を竦め、ビクッと身体を震わせた。
「……っ」
操縦室でも、整備士の視線でも、乗客の苛立ちでもない。
もっと身近で、もっと確実な圧。
「リュウジ」
名前を呼ぶ声が横から来る。
エリンが、いつの間にか隣に並んでいた。
エリンは“笑顔”だった。
穏やかな微笑み。柔らかな目元。
そのまま、ユイが手を振る友達に会釈をする。
「今日はすみませんでした」
保護者にも、子どもたちにも、丁寧な声。
外から見れば、完璧な大人だ。
完璧な、優しい人。
けれど――リュウジには分かった。
その笑顔が“怒りを包んだ笑顔”だということが。
恐怖にも似た微笑み。
客室で乗客が笑顔のまま苦情を言う時のそれとは違う。
もっと、逃げ場がない。
ユイが手を振り終え、出口の方へ小走りで向かい、保育士に促されて靴を履く。
園庭のざわめきが少しずつ落ち着き、保護者たちも子どもを連れて帰路につき始めた。
今なら――話せる。
誰にも聞かれない距離。
だからこそ、逃げられない。
エリンは笑顔のまま、声の温度だけを落とした。
「……どうして、あんなことをしたのよ」
リュウジは、喉がきゅっと締まるのを感じた。
反射で背筋を正す。
エリンの前だと、身体が勝手に“報告モード”になる。
「ユイが、木の上でお日様を見たいって言ったからです」
リュウジは真っ直ぐ答えた。
嘘はない。
言い訳でもない。
目的はそれだけだった。
エリンの笑顔が、ぴくりとも揺れない。
「……そう」
その一言が、逆に怖い。
エリンは一歩だけ歩みを止め、リュウジの横顔を見上げた。
彼女の目は笑っていない。
しかし怒りに任せてもいない。
“守るために怒る”目だ。
「ユイの願いを叶えたかったのね」
「はい」
「気持ちは分かるわ」
エリンはそこで一拍置き、さらに声を落とす。
「でもね、リュウジ。場所が違う」
その言葉に、リュウジはわずかに目を伏せた。
分かっている。
分かっていた。
それでもやった。
エリンは畳みかけない。
責めるのではなく、事実を一つずつ並べていく。
チーフパーサーとして、現場を回す人間の話し方。
「保育園はね、“安全”が最優先なの」
「……はい」
「あなたがどれだけ身体能力があっても、あなたが“落ちない”自信があっても」
エリンの言葉が、リュウジの胸に刺さる。
「周りの人は、そんなこと知らない。
見えたのは、ただ“危険な行為”よ」
リュウジは唇を結び、黙って聞いた。
反論はできない。
反論するべきではない。
エリンは続けた。
「それに、子どもたちは真似する」
その一言で、リュウジの背中に冷たい汗が滲んだ。
さっき、子どもたちが口々に言った声が蘇る。
『ぼくも!』
『あたしもできる?』
『木の上行きたい!』
リュウジの脳裏に、最悪の映像が浮かぶ。
子どもが木に登ろうとして落ちる。
それを止められない。
自分の“善意”が、事故の引き金になる。
リュウジの顔色が変わったのを、エリンは見逃さない。
彼女はほんの少しだけ声を柔らかくした。
「あなたが“守るために”動いたのは分かる」
リュウジは、唾を飲み込んだ。
「……俺は、ユイがあのまま一人でいるのが、嫌だったんです」
ぽつりと出た本音。
言うつもりはなかったのに、口からこぼれた。
エリンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……分かってる」
エリンは息を吐き、空を見上げた。
夕陽がもう沈みかけている。
コロニーの空の色が、橙から紫へ滲み始めていた。
「ユイはね、友達の輪に入ろうとしないって」
「……」
「だから、あなたは“景色”を作ったのね。
ユイが中心に立てる景色」
言い当てられて、リュウジは黙った。
否定できない。
エリンは、少しだけ困ったように笑った。
今度の笑みは、恐怖の笑みではない。
疲れと、安堵と、微かな呆れが混ざった笑み。
「……本当に、あなたって」
言葉を探している。
怒りたいのに、感謝が混ざる。
叱りたいのに、結果が良すぎる。
それでも、エリンは立ち止まり、リュウジに向き直った。
「でも、方法は選びなさい」
その声は、真面目な声だった。
部下を守る時のタツヤの声と同じ温度。
逃げ道を与えない温度。
「あなたはパイロットよ。
“自分ができる”ことを基準にしたら、みんながついてこれない」
リュウジは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「あなたの善意は、時々、危険になる」
「……はい」
リュウジはその言葉を受け止める。
胸が痛い。
けれど、必要な痛みだ。
エリンはふっと息を吐き、少しだけ声を柔らかくする。
「今日、ユイが友達に『また明日ね』って言えたのは、嬉しい」
リュウジは目を上げた。
エリンの目は、今度はちゃんと笑っていた。
「……よかったです」
「うん。よかった」
エリンは頷き、そして最後に、きっぱりと言った。
「だからこそ、二度と同じことはしないで」
リュウジは迷いなく答えた。
「しません」
「約束できる?」
「約束します」
エリンはその返事を聞いて、やっと肩の力を抜いた。
そして、小さくため息をつく。
「……もう。ほんと、心臓に悪い」
その言い方が、少しだけ可笑しくて、リュウジは苦笑した。
笑っていいのか分からないが、笑わずにはいられなかった。
エリンはその苦笑を見て、もう一度だけ、軽く睨む。
「笑うところじゃないわよ」
「すみません」
リュウジは素直に謝った。
その素直さに、エリンはさらに困ったように笑う。
遠くで、ユイが靴を履き終え、こちらを振り返った。
小さな手を振っている。
「エリンさーん! りゅうじー! はやくー!」
リュウジはその声に応えるように手を上げた。
エリンも微笑んで手を振り返す。
夕焼けの園庭に、三人の影が長く伸びる。
ひとつは小さく、ひとつはしなやかで、ひとつはまっすぐ。
そしてその影は、同じ方向へ歩き始めた。
ーーーー
帰り道。
園庭の喧騒が背後に遠ざかり、コロニーの通路に夜の気配が滲みはじめる。
人工空の夕焼けは紫へ傾き、足元のライトが規則正しく点灯していく。
ユイはエリンの手を握り、リュウジは少し後ろを歩いた。
さっきまでの出来事が嘘みたいに、ユイの足取りは軽い。
エリンは歩きながら、ユイに顔を向けた。
「ユイ。夕飯、何食べたい?」
ユイは一瞬だけ立ち止まり、指を口元に当てて考える真似をする。
それからぱっと顔を上げた。
「えーと……ハンバーグ!」
「ハンバーグね」
エリンは即答で頷く。
迷いがない。
“了解、献立確定”と言わんばかりのテンポだ。
「分かったわ。じゃあスーパーに寄っていきましょう」
「やったー!」
ユイが跳ねるように言い、エリンの手をぎゅっと握る。
リュウジはその様子を横目で見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
園庭での件は――終わったわけじゃない。
でも、今は“帰り道”だ。
ユイの一日は、これから夕飯と風呂と、眠りへ向かう。
その流れが守られることが、何より大事だと、リュウジはなんとなく分かっていた。
⸻
スーパーに着くと、入口の自動ドアが静かに開いた。
明るい照明と、食材の匂いと、レジの電子音。
仕事終わりの人たちが買い物かごを手にして行き交う。
エリンは慣れた様子でカートを取ると、すっと押し始めた。
迷いのないルート。
棚の位置を把握している動き。
ユイはカートの横にぴったりつき、時々つま先立ちになって棚を覗き込む。
リュウジは少し後ろで、周囲に人がぶつからないよう距離を取って歩いた。
エリンは夕食に必要な食材を次々とかごに入れていく。
合い挽き肉。玉ねぎ。パン粉。卵。牛乳。
付け合わせのレタスとトマト。
ソース用にケチャップとウスター。
あと、ユイが好きそうなコーンと、簡単なスープ用の野菜も。
どれも手早い。
献立が頭の中で完成しているから、手が迷わない。
その隣でユイは――別の計画を立てていた。
(おかし……)
ユイは棚の端に並ぶカラフルな袋菓子に目を奪われ、そっと手を伸ばす。
エリンは視線を食材の棚に向けたまま、ソースの成分表示を確認している。
今ならいける。
ユイはそう判断し、小さな手で袋を一つ掴んで、かごへ――
入れる瞬間。
「ユイ。だめよ」
エリンが視線を向けずに言った。
ユイの手が空中で止まる。
袋菓子は宙に浮いたまま、ぴくりとも動かない。
ユイはゆっくり顔を上げて、エリンを見る。
エリンはまだ棚を見ている。
見ていないのに、分かっている。
それが余計に怖い。
「……はーい」
ユイは肩を落とし、しょんぼりした声で袋を棚に戻した。
その背中が、さっき木に登りたいと言った時より小さく見える。
その様子に、リュウジの胸がくすぐられた。
子どもは、こういう時に“全身でしょんぼり”する。
(仕方ない、買ってやるか)
リュウジが心の中でそう思った、その瞬間。
「リュウジ。買ったら怒るからね」
エリンが、今度ははっきり名前を呼んで告げた。
「……」
リュウジの足が止まった。
視線は前。エリンは相変わらず棚を見ている。
なのに、思考を読まれたようなタイミング。
(鋭い……)
リュウジは内心で小さく息を呑んだ。
操縦室で計器の微妙な揺れを読むのとは違う種類の“読み”だ。
人の欲と甘さを見抜く読み。
それをさらりとやってのけるのが、エリンだ。
リュウジは咳払いをして、素直に言った。
「……分かりました」
ユイが目を丸くしてリュウジを見る。
“味方”だと思っていたらしい。
その表情に、リュウジは少しだけ居心地悪くなった。
「お菓子は……今日はだめなの?」
ユイが小さな声で言う。
エリンはカートを押しながら、横目だけでユイを見る。
「今日は夕飯をちゃんと食べる日。
それに――」
エリンは一拍置いて、柔らかく続けた。
「お菓子は、買う“理由”がある時にね」
「理由?」
「例えば、頑張った日とか。約束を守れた日とか」
ユイは少し考えてから、ぱっと顔を上げた。
「今日、いいこにした!」
その自己申告に、エリンは小さく笑った。
「……うん。そうね。
でも“園内で走らない”は守れた?」
「……」
ユイはぷいっと目を逸らす。
守れていない。
「じゃあ、次の“いいこ”の日にしよう」
「……はーい」
ユイは渋々頷き、またカートの横に張り付いた。
リュウジはそのやり取りを見て、心の中で感心する。
(叱るだけじゃなくて、ちゃんと“次”を作る)
それができる大人は、意外と少ない。
エリンは、ユイの気持ちを潰さずにルールを守らせる。
客室で乗客の不満を受け止めながら安全を守るのと、同じ手つきだ。
⸻
買い物を終え、エリンが会計を済ませる。
ユイは袋の中身を覗き込もうとして、エリンに「持ち方、こう」と直される。
リュウジは荷物を半分持とうとしたが、エリンが「重い方お願い」とさらりと振り分けてきた。
帰り道は、さっきより空が暗い。
コロニーの夜がしっかりと降りてきて、照明が道を白く照らす。
ユイは袋を揺らしながら、ハンバーグの話を繰り返す。
「ハンバーグ、チーズのせたい」
「いいわよ。チーズも買ったから」
「やったー!」
その会話だけで、家の匂いが想像できた。
リュウジは少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じる。
⸻
タツヤの家に到着すると、エリンは鍵の入力を迷いなく行い、扉を開けた。
室内は静かで、薄い暖房の風が回っている。
生活の匂い。
子どもの靴。
小さなクッション。
壁に貼られたユイの絵。
エリンは靴を揃えながら、いつもの調子で言った。
「ユイ、リュウジ。手洗い、うがいをするのよ」
「はーい!」
ユイが先に洗面へ走っていく。
リュウジは一拍遅れて靴を揃え、エリンの言葉に従った。
洗面台でユイが石鹸を泡立てる。
小さな手が泡だらけになる。
リュウジが手を洗いながらそれを見ると、ユイが誇らしげに言った。
「こうやってね、あわあわにするの」
「上手だな」
「えへへ」
うがいも、少し大げさに“がらがら”する。
それを見て、リュウジは自然に笑ってしまった。
その間に、エリンは買ってきた食材を手早く冷蔵庫へ振り分け、すぐに調理の準備に入る。
袖をまくり、手を洗い、まな板を出す。
「じゃあ、私は料理を作るから。
リュウジ、ユイ、先にお風呂入っちゃって」
「分かりました」
リュウジが頷くと、ユイが「おふろ!」と目を輝かせる。
お風呂が好きな子どもの顔だった。
⸻
浴室は、子ども用の踏み台と小さな桶が置かれている。
ユイは湯気の中で、少しだけ緊張した顔をした。
「……りゅうじ、いっしょ?」
「一緒だ」
リュウジは淡々と言いながら、ユイの目線が安心に変わるのを待つ。
いきなり距離を詰めない。
でも、離れすぎない。
「髪、濡れるのやだ」
「じゃあ先に体から洗うか」
「うん」
ユイは素直に頷く。
リュウジは湯加減を確かめ、ユイにかけ湯をしてやる。
熱くないように、少しずつ。
ユイが「つめたい」「あつい」と言えば、すぐ調整する。
その一つ一つが、“操縦”に似ていた。
相手の反応を見て、微調整して、揺れを感じさせないようにする。
子どもは、客室以上に正直だ。
嘘をつけない分、読み取りやすい。
「リュウジ、さっきの、またやって」
湯船に浸かりながら、ユイが突然言った。
リュウジは一瞬固まり、すぐに言い直す。
「……木から落ちるやつは、だめだ」
「えー」
「危ない」
「でも、すごかった」
「すごいのと危ないのは別だ」
ユイは頬を膨らませる。
その顔が可笑しくて、リュウジは目を逸らしながら続けた。
「代わりに、別の“すごい”なら見せられる」
「なに?」
「……風呂から出たらな」
「ずるい!」
ユイが笑って湯をぱしゃぱしゃさせる。
浴室に小さな水音が広がった。
⸻
風呂から上がると、廊下の先から香ばしい匂いが漂ってきた。
肉が焼ける匂い。玉ねぎの甘い匂い。
ソースの酸味がほんの少し混ざっている。
ハンバーグだ。
リビングに入ると、匂いがさらに濃くなる。
テーブルの上には皿が並び、サラダの緑が鮮やかに見えた。
湯気が上がっている。
エリンはキッチンから顔を出し、ユイに声をかける。
「ユイ。髪、乾かしてあげるからおいで」
「はーい!」
ユイがぴょこぴょこ歩いていく。
エリンはドライヤーを手に取り、ユイを椅子に座らせた。
動かないように、肩にタオルをかける。
ドライヤーの音がぶわっと響く。
エリンの手つきは早い。
根元から風を当て、指で髪をほぐし、熱が偏らないように左右に振る。
ユイがじっとしていられる程度の時間で、仕上げる。
「はい、できた」
ユイが髪を触って「ふわふわ!」と笑う。
エリンがその頭を軽く撫でる。
「じゃあ、席につこう」
リュウジも椅子に座る。
手を合わせるのは、ユイが一番早かった。
「いただきます!」
「いただきます」
エリンも静かに言う。
ハンバーグはふっくらしていて、切ると肉汁がじゅわっと溢れた。
ソースが絡み、香りが鼻に抜ける。
ユイは一口食べた瞬間、目を丸くする。
「おいしい!!」
「よかった」
エリンは微笑んだ。
その笑顔は、さっきの“恐怖の笑み”とは違う。
ただの家庭の笑みだ。
リュウジも一口食べ、素直に言う。
「……美味しいです」
「でしょう。タツヤ班長が帰ってきたら、温め直して出してあげないとね」
エリンが言うと、ユイが口いっぱいに頬張りながら頷く。
「パパにも!」
「もちろん」
食卓は穏やかだった。
ユイが今日あったことを断片的に話し、エリンが適度に相槌を打つ。
リュウジは言葉を選びながら、必要なところだけ補足する。
やがて皿が空になり、ユイは満足そうに背もたれに寄りかかった。
「おなか、いっぱい……」
「じゃあ、歯みがきして、少ししたら寝る準備ね」
「はーい……」
ユイの返事は、もう眠気を含んでいた。
リュウジはその様子を見て、胸の奥で静かに思う。
(……今日は、いい一日だった)
危ない場面もあった。叱られもした。
それでも、ユイは“また明日ね”と言えた。
笑って、食べて、湯船で笑った。
それだけで、十分だ。
そして、エリンは最後まで、当たり前のように家を回していた。
誰かを守ることを、特別なことにしないまま。
リュウジは、テーブルの端で静かに背筋を伸ばした。
守るというのは、派手な動きじゃない。
こうして――毎日の流れを崩さずに、続けることなのだと、ようやく分かり始めていた。
ーーーー
エリンが食器を片付けながら、いつもの調子で声をかけた。
「ユイ。歯磨きしましょ」
陶器が触れ合う、軽い音。
蛇口から流れる水の音。
キッチンの空気は、夕飯の余韻と洗剤の匂いが混ざっている。
――けれど。
いつもなら飛んでくるはずの返事が、返ってこなかった。
「……ユイ?」
エリンは一瞬だけ手を止める。
視線はシンクの中。耳はリビング。
反応がない。
エリンは濡れた手を軽く拭き、キッチンからそっと顔を出した。
そこにいたのは、ソファの端にちょこんと座ったまま、完全に眠り込んでいるユイだった。
小さな口がわずかに開き、頬が柔らかく沈んでいる。まつ毛が影を落とし、呼吸がゆっくりだ。
リュウジがすぐ横で見守っていた。
「……寝ちゃいました」
リュウジが声を落として告げると、エリンはユイの寝顔を見て、ふっと微笑んだ。
「疲れたのね」
その笑みは柔らかい。
先ほどまでの園庭の緊張や、スーパーでの鋭さとは別の、家庭の顔。
エリンはユイに毛布をそっとかけようとして、途中で手を止めた。
「……ベッドに運ぶ?」
「俺が運びます」
リュウジは迷わず言った。
エリンは小さく頷く。
「お願い」
リュウジはしゃがみ込み、ユイの身体を起こさないように、ゆっくり抱き上げた。
軽い。驚くほど軽い。
腕の中の重みが、守るべきものの小ささを教えてくる。
ユイは少しだけ眉を動かしたが、起きない。
リュウジの胸元に頬を寄せるようにして、また深い呼吸へ戻った。
リュウジは足音を殺し、寝室へ向かった。
⸻
ユイの寝室は、薄い明かりと柔らかな匂いがした。
子ども用の小さなベッド。
枕の横にはぬいぐるみが並び、壁にはユイが描いたらしい星の絵が貼ってある。
“お日様”の絵もある。丸い黄色い輪郭。周りに線。
リュウジはそっとベッドにユイを寝かせた。
毛布をかけ、端を軽く整える。
ユイの手が毛布の縁を掴み、安心したように胸のあたりで止まった。
リュウジは一瞬、その寝顔を見つめる。
さっきまで走って笑っていた子が、もうこんなにも静かだ。
(……今日一日、よく頑張ったな)
リュウジはそれを声にせず、ただ小さく頷いた。
そして寝室のドアを、きちんと閉め切らず、少しだけ開けておく。
空気の通り道と、音が届く距離。
そういう“ちょうど”が必要な夜だ。
リビングへ戻ると、テーブルの上に湯気の立つカップが二つ置かれていた。
コーヒーの香りがふわりと広がる。
エリンがカップを置き終え、椅子を引いた。
「座って」
「ありがとうございます」
リュウジは礼を述べ、正面の椅子に腰を下ろした。
背筋が自然と伸びる。
相手がエリンだと、どうしてもそうなる。
エリンも向かいに座る。
コーヒーを一口含み、ほっと息を吐いた。
数秒の静けさ。
コーヒーの香りと、遠くの生活音だけが漂う。
エリンが先に口を開いた。
「……今日はありがとうね」
その声は、柔らかい。
叱る時の鋭さではない。
むしろ、ユイの寝顔を見た後の、少しだけ緩んだ声だった。
リュウジは頷く。
「いえ。俺も楽しかったですし……夕食までご馳走していただいて」
エリンは小さく笑う。
「いいのよ。私が来た時はいつも作ってるから」
「……そうなんですね」
「ええ」
エリンはカップを指で包み、湯気を見つめる。
それから、思い出したように言った。
「それにしても……意外だったな」
「意外?」
「タツヤ班長が『リュウジを連れてけ』って言った時」
エリンは肩をすくめるように笑う。
少しだけ冗談めかした口調。
だけど、その裏には本音がある。
リュウジも小さく笑みを浮かべた。
「まさかユイのお迎えだとは思いませんでしたが」
「でしょ?」
エリンは頷き、少しだけ声のトーンを落とす。
「……信頼されてるのよ」
その言葉に、リュウジの表情が一瞬だけ引き締まった。
「じゃなきゃ、タツヤ班長が私やペルシア以外に、ユイのこと任せたりしないもの」
エリンはそう言って、ふっと笑った。
笑いながらも、言葉の芯は真面目だ。
リュウジは頷き、目を伏せる。
「……大事な一人娘ですからね」
「そうね」
エリンは小さく頷く。
そして、その“そうね”の後に、少しだけ重みが落ちた。
「……タツヤ班長にとっては、ユイしかいないから」
リュウジは顔を上げた。
「ユイしか……?」
エリンは一度、息を吸った。
話すことを決めた人の呼吸だ。
「ユイがまだ二歳の時にね」
エリンの声が、静かに落ちる。
「奥さんが……宇宙病で亡くなったの」
リュウジの喉が、わずかに鳴った。
驚きというより、受け止めるための反応。
リュウジは黙って耳を傾ける。
エリンは続けた。
淡々としているのに、丁寧だ。
タツヤのことを守るための話し方。
「その時、タツヤ班長は宇宙船を操縦してて……結局、ユイの所に着いたのは、奥さんが亡くなってから三日後だったの」
リビングの空気が少しだけ冷たくなった気がした。
コーヒーの湯気が、細く揺れる。
リュウジは真剣な表情で頷いた。
「……パイロットなら、仕方ないですね」
エリンはその言葉に小さく頷く。
「ええ。仕方ない。分かってる。
でもね……」
エリンは一瞬、視線を落とした。
ユイの寝室の方角を見るように。
「その時に見たユイの悲しむ姿に、二度とユイを悲しませたくないって誓ったのよ」
リュウジは唇を結ぶ。
園庭でユイが一人で小さくなっていた姿が浮かぶ。
それと、“二歳の悲しみ”が重なると、胸が痛む。
エリンは静かに続ける。
「だからタツヤ班長は、原則、宇宙船を操縦しない」
リュウジは少しだけ目を見開いた。
あのA級パイロットが、操縦しない。
それが“技術の問題”ではなく、“誓い”だと理解した。
「……そして、ユイを一人にしないように、私たちに頼んでいるのよ」
エリンの声は、ここで少しだけ柔らかくなった。
頼まれた側の責任感ではなく、家族に近い温度。
それから、エリンはリュウジをまっすぐ見た。
「だからね」
微笑む。
でも、冗談ではない微笑み。
「リュウジもお願い。ユイのこと」
“お願い”という言葉の中に、守ってほしいという意味が詰まっていた。
タツヤの代わりではない。
ただ、一緒に支える一人として。
リュウジは少しだけ息を吸い、ゆっくり頷いた。
「……ええ」
短い返事。
だが、嘘のない返事だった。
エリンはそれを聞いて、ようやく肩の力を抜く。
カップを持ち上げ、もう一口コーヒーを飲む。
「……ありがとう」
小さな声。
チーフパーサーの声じゃない。
ただのエリンの声。
リビングに、静けさが戻る。
その静けさの奥で、寝室からユイの寝息がかすかに聞こえた気がした。
リュウジはカップに触れながら、心の中で繰り返す。
(守る)
派手なことじゃなくていい。
木の上に登ることでもない。
日々の流れを崩さないこと。
ユイが笑って眠れる夜を、続けること。
それが、今日ここに連れて来られた理由なのだと――リュウジはようやく、確信に近いものを掴み始めていた。
ーーーー
次の日。
コロニーの朝は、どこか機械的に整っている。
照明が一定のリズムで明るさを増し、人の流れが同じ速度でオフィス街へ吸い込まれていく。
リュウジがドルトムント財閥の宇宙事業部フロアに入ると、いつもの空気――端末の起動音、資料の紙擦れ、挨拶の波が迎えた。
「おはようございます」
リュウジが頭を下げると、周囲が「おはよう」と返す。
まだ例の“囲み”は落ち着いていた。ペルシアの「彼氏宣言」効果は健在らしい。
自分の席に鞄を置こうとした時だった。
「いや〜、悪かったねぇ」
背後から、のらりくらりした声。
振り返ると、タツヤが自分のデスクに寄りかかるように立っていた。
昨日の件で疲れているはずなのに、口調はいつも通り軽い。
「いえ」
リュウジは短く返す。謝られるようなことはしていない――と、本人は思っている。
タツヤはニヤニヤしたまま、リュウジの顔を覗き込む。
「それで?」
「……はい?」
「一体、何したの?」
急に核心を突いてくる。
リュウジは眉をわずかに上げた。
「何とは?」
「いやね」
タツヤは椅子を引いてどさっと座り、肩を回しながら言った。
「ユイがさ、リュウジは次いつ来るんだって、朝から大騒ぎだよ」
「……」
リュウジが固まる。
頭の中で昨日のユイの笑顔が再生される。
あの「またね」の声。
それが“次いつ”に繋がっているのかと思うと、胸の奥が妙にくすぐったい。
タツヤはさらに、どこか照れ隠しのように笑った。
「パパ朝から複雑だよ」
「何言ってるんですか」
横からエリンが微笑みながら口を挟んだ。
いつものチーフパーサーの落ち着き。だが、どこか柔らかい表情だ。
タツヤは両手を上げて降参のポーズをしつつ、でも言葉は止めない。
「だってさ、ユイが言ってたんだよ。
“エリンのハンバーグもとっても美味しかった”って」
「……!」
エリンの眉がほんの少しだけ上がる。
驚きと、嬉しさと、照れが混ざった一瞬の変化。
リュウジはその表情を横目で見て、心の中で小さく頷いた。
(あれは、美味かった)
「それにね」
タツヤは続ける。
「……あんなに嬉しそうなユイ、久しぶりに見たよ」
今度は軽口ではなく、素直な声だった。
のらりくらりの皮が、少しだけ剥がれている。
エリンは小さく息を吐き、微笑んだ。
「それなら良かったです」
その一言に、タツヤは頷く。
そして、ふっと笑いながら言った。
「リュウジとエリンがいれば……いいのかなぁって思っちゃうよね」
「え?」
リュウジが思わず声を漏らす。
エリンも一瞬、言葉を失う。
それは冗談の形をしているが、タツヤの本音が覗く言い方だ。
そのタイミングを逃さない声が、横から割り込んだ。
「え? 私は?」
ペルシアが、机の上に肘をついて不満げに言った。
どこか演技がかった拗ね方だが、目は本気で抗議している。
タツヤは即答する。
「ペルシアのこと、何にも言ってなかったよ」
「……なにそれ」
ペルシアの口が尖る。
その尖り方が、子どもみたいで妙に可愛い。
「なんか悔しい」
「悔しがる問題?」
エリンが苦笑して突っ込むと、ペルシアはむっとした顔のまま胸を張った。
「悔しいに決まってるでしょ!
私だってユイと仲良しだし!」
「仲良しの方向性が不安だけどね」
エリンがさらりと言うと、ペルシアは反射で「失礼ね!」と声を上げた。
そして突然、宣言する。
「今日は私がお迎えに行く!」
「……え?」
タツヤとエリンとリュウジ、三人の声が重なる。
ペルシアは自信満々に頷いた。
「私が行けば、ユイだって“ペルシアさんも好き!”って言うに決まってる!」
「目的がねじれてない?」
エリンがまた苦笑した。
タツヤは額を軽く押さえ、のらりとした口調に戻す。
「いやいや、いいよ。今日は――」
ペルシアが「え、なに」と身を乗り出す。
タツヤは肩をすくめて言った。
「今日は俺が行くから」
その言葉に、ペルシアの目が丸くなる。
「え? 仕事は?」
「昨日のお詫びってわけじゃないけどさ」
タツヤは軽く言うが、目は真面目だった。
「……たまには“パパ”しないとね」
リュウジは、その言葉に小さく頷いた。
タツヤが操縦を避ける理由も、ユイを一人にしない誓いも、昨日エリンから聞いた。
だからこの一言は、軽口で覆われているだけで、ちゃんとした決意だ。
エリンもそれを理解しているのか、微笑んで頷いた。
「いいと思います。ユイ、喜びますよ」
ペルシアは「むぅ」と唸り、腕を組んだ。
「……悔しいけど、今日は譲る」
「譲るってなに」
エリンが突っ込み、タツヤが笑う。
リュウジはそのやり取りを見ながら、胸の奥でふっと温かいものを感じた。
ここは会社だ。
宇宙事業部だ。
仕事の場だ。
それでも、この班には――
“帰る場所”の話が、当たり前に混ざっている。
それが、思った以上にリュウジの心を落ち着かせていた。