「行って」
ペルシアの声が届いた瞬間。
リュウジは主推進器の出力制限を解除した。
十パーセント。
機体後部に、低く抑えられていた推進光が灯る。
調査船の船首は、粉塵帯の薄い進入口へ向いている。
前方右十一度。
出口側は左へ流動中。
粉塵帯そのものが、一定の形を保っているわけではない。
膨張し。
収縮し。
周辺天体の重力に引かれ。
無数の粒子が波のようにうねっている。
一秒前まで通れた場所が閉じる。
閉じていた場所が、一瞬だけ薄くなる。
通常の航路計算では追いつかない。
マリが算出する密度変化。
ナミが送る位置情報。
ジェームズが監視する機体負荷。
その全てが、リュウジの正面へ重ねて表示される。
だが。
リュウジは画面だけを見ていなかった。
操縦桿へ伝わる僅かな反力。
座席の背を通して届く船体振動。
補助推進器が噴射した後、船首が戻ろうとする速さ。
主推進器の音が、船体内部を伝わって操縦室へ届くまでの僅かな間。
それらを、一つずつ感じ取っていた。
数値は、異常なしを示している。
だが、船は正常ではない。
右後方が重い。
一番補助推進器の反応が遅い。
船首を右へ振った後。
操縦を戻しても、船体がほんの僅かに右へ残ろうとする。
計器では誤差の範囲。
だが。
その小さな遅れが、粉塵帯の中では致命傷になる。
リュウジは呼吸を整えた。
粉塵帯の入口が、前方へ迫る。
「主推進出力、十一パーセント」
推進光が僅かに強くなる。
ジェームズが負荷波形を確認する。
「支持部負荷上昇。まだ許容範囲内だ。そのまま五秒維持しろ」
「了解」
一秒。
二秒。
船体後部の振動が強くなる。
三秒。
右側支持部の波形が僅かに跳ねる。
四秒。
リュウジは操縦桿へ返る力が、一瞬だけ軽くなったのを感じた。
数字が変わるより先に。
出力を戻す。
「十一パーセント終了。十・五へ落とす」
ジェームズが画面を見た。
「まだ五秒経ってない」
「右支持部が開きかけた」
「数値には出てない」
「戻した」
直後。
右側支持部の負荷値が、遅れて上昇する。
ジェームズの目が鋭くなる。
「……今出た」
連盟指令室にいる職員達が、一斉に波形を見る。
リュウジが出力を下げた後に。
異常値が表示された。
反応が出るより先に。
リュウジは感じ取っていた。
ジェームズは短く息を吐く。
「その判断でいい」
リュウジは返事をせず、前方を見る。
粉塵帯の外縁が迫る。
細かな粒子が、調査船の前部装甲へ触れ始めた。
最初は小さな音。
雨粒が遠くの窓を叩くような。
かすかな連続音。
だが。
一秒ごとに。
音の数が増えていく。
操縦室の照明が自動的に落ちる。
前方観測映像が暗視補正へ切り替わる。
粉塵が星の光を遮り。
外が灰色へ沈んでいく。
マリが密度変化を報告する。
「進入口正面、粒子密度が予測値より三パーセント上昇しています。右側の流入が強くなっています」
リュウジが即座に船首を左へ一・二度振る。
「左へ一・二度修正」
ジェームズが確認する。
「一番補助推進器は使うな」
「分かってる」
リュウジは三番補助推進器を短く噴射する。
船首が左へ動く。
だが。
調査船の後部が、僅かに遅れてついてくる。
船首だけが先へ入り。
船尾が右へ残る。
通常なら姿勢制御を追加する。
だが。
リュウジは操作しなかった。
そのまま。
船体が粉塵の流れへ触れるのを待つ。
連盟職員の一人が思わず声を上げる。
「船尾が流れています」
ジェームズが低く言う。
「黙って見ろ」
船尾が右へ流れる。
だが、その直後。
右側から流れ込んだ粉塵の圧力が。
遅れていた船尾を左へ押した。
調査船の軸が、進入口の流れと一致する。
リュウジはその瞬間だけ、三番補助推進器を止めた。
船体が。
粉塵の流れへ沿う。
無理に向きを変えるのではない。
押し返そうともしていない。
流される力を。
必要な方向へ使っている。
ジェームズの目が僅かに見開かれる。
「粒子流を姿勢制御に使ったのか」
リュウジは前を見たまま答える。
「補助推進器を使うより負荷が少ない」
ファルコがグレートフォックスの格納庫から映像を見ていた。
「相変わらず、無茶なことを普通にやりやがる」
クリスタルは画面から目を離さない。
「無茶ではないわ。流れを読んでいるのよ」
スリッピーが機体波形を見る。
「でも、一秒ずれたら逆に回されてた」
フォックスが静かに答える。
「ずらさない」
ペルシアは何も言わなかった。
指令室の中央。
統括席の前に立ったまま。
両手を身体の前で握っている。
右手で、左手の拳を包むように。
強く。
指先が白くなるほど。
誰にも気づかれないように。
だが。
その拳は、小さく震えていた。
止めたかった。
今も止めたい。
通信を開き。
戻ってと言いたい。
もう十分だと。
別の方法を探すからと。
そう叫びたい衝動を。
握った拳の中へ押し込めている。
自分が言った。
任せると。
信じると。
リュウジの操縦判断を邪魔しないと。
だから。
ペルシアは何も言わない。
画面の中にいるリュウジから、一度も目を逸らさず。
ただ。
見守っていた。
調査船が粉塵帯へ入る。
外装を打つ音が、一気に激しくなる。
細かな衝突音が。
船体全体を包む。
通信映像に乱れが入る。
前方観測装置の一つが、粒子の直撃を受けて停止する。
ナミが報告する。
「前方副観測器三番、信号消失。主観測器は維持しています」
シャオメイがすぐに回線を調整する。
「映像通信の容量を下げます。位置情報と機体ログを優先します」
画面の解像度が落ちる。
リュウジの顔が荒い映像へ変わる。
それでも。
表情は変わらない。
粉塵帯へ入るほど。
静かになっていく。
焦りが消える。
余計な操作も消える。
必要なものだけを残すように。
呼吸。
視線。
指先。
全てが。
操縦へ集中していく。
前方の粒子密度が上がる。
マリが声を上げる。
「正面の密度が急上昇しています。現在航路の先に高密度域が形成されます」
ペルシアの拳が、さらに強く握られる。
だが。
口は開かない。
リュウジは密度図を見る。
正面。
右。
左。
上下。
出口側。
粉塵は均一ではない。
正面に濃い壁ができ始めている。
右へ避ければ、一番補助推進器を使う必要がある。
左へ大きく振れば、船尾の遅れで側面を粒子流へ晒す。
上方は密度が低い。
だが。
船体を上へ向けるには、主推進器の角度を変える必要がある。
リュウジは一瞬だけ計器から目を離した。
前方映像。
粒子の流れ。
明滅。
遠くで粉塵がぶつかり。
波が割れるように散る場所。
一つの流れが。
上方から下へ押し込んでいる。
その下。
密度が僅かに薄くなる瞬間がある。
リュウジは呟く。
「谷が来る」
ジェームズが聞き返す。
「何?」
「七秒後」
マリが計算する。
「現在の観測では、正面密度は上昇中です。低下予測は出ていません」
リュウジは答えない。
五秒。
四秒。
船体を打つ音が強まる。
三秒。
粉塵の流れが、前方上部でぶつかる。
二秒。
密度の高い二つの流れが互いを押し合う。
一秒。
その間に。
一瞬だけ。
下方へ抜ける隙間が生まれる。
「主推進十二パーセント。船首下げ三度」
リュウジが出力を入れる。
ジェームズが反応する。
「十二パーセント。支持部負荷上昇」
調査船が前へ出る。
船首が三度下がる。
高密度域が閉じる直前。
船体が、その下へ滑り込む。
まるで。
押し寄せる波が崩れる、その僅かな谷間へ。
船を差し込むように。
外装を叩いていた音が、一瞬だけ弱くなる。
マリの画面で。
正面密度が急激に低下する。
連盟職員が息を呑む。
「本当に下がった……」
リュウジは十二パーセントの出力を維持しない。
高密度域を抜けた瞬間。
十パーセントへ戻す。
だが。
右側支持部の負荷が大きく跳ねた。
ジェームズが叫ぶ。
「右支持部、限界に近い。出力を落とせ」
「落とした」
「まだ負荷が下がらない」
リュウジは操縦桿へ伝わる振動を感じる。
右側。
船尾。
細かな震え。
支持部が壊れた振動ではない。
粉塵が、船体後部の一部へ集中して当たっている。
リュウジは主推進をさらに九パーセントへ落とす。
同時に、三番補助推進器を〇・五秒だけ噴射する。
船首が僅かに左へ動く。
船尾の右側が粉塵流から外れる。
負荷が下がり始める。
ジェームズが波形を確認する。
「下がった」
リュウジは短く答える。
「支持部じゃない」
「粒子衝突か」
「そうだ」
ジェームズは黙った。
外部の粉塵流。
船体内部の支持部。
計器上では。
どちらも同じような負荷上昇として現れる。
だが。
リュウジは振動の違いだけで。
原因を判断していた。
指令室の中で。
ペルシアの拳は、まだ震えている。
爪が手のひらへ食い込む。
それでも。
何も言わない。
リュウジが判断している。
今。
誰かが声を入れれば。
その一言へ意識を向けさせてしまう。
リュウジは、全てを機体へ預けている。
なら。
自分も。
全てをリュウジへ預ける。
そう決めて。
震える拳を握り続けた。
粉塵帯の内部で。
調査船の周囲を複数の粒子流が横切る。
前方映像は、ほとんど見えない。
星も。
出口も。
何も映っていない。
視界にあるのは。
灰色と。
観測装置が粒子を捉える僅かな光だけ。
通常であれば。
計器を頼る。
航路計算に従い。
自動姿勢制御で機体を安定させる。
だが。
リュウジは自動制御を切った。
ジェームズが気づく。
「自動姿勢制御を切ったのか」
「補正が遅い」
「手動だけで保つ気か」
「自動制御は船を水平に戻そうとする」
「それが駄目なのか」
「ここでは水平が正しいとは限らない」
調査船が右へ傾く。
警報が鳴る。
船体姿勢。
右十五度。
通常の安全基準を超え始める。
連盟職員の一人が声を上げる。
「姿勢が崩れています」
ジェームズが言う。
「崩してる」
リュウジは傾きを戻さない。
右へ傾いたまま。
主推進を維持する。
粉塵の強い流れが、船体左側へ当たる。
水平なら。
側面全体で流れを受ける。
だが。
右へ傾けたことで。
左側面へ当たった粒子が。
船体の上を滑るように後方へ抜けていく。
衝突負荷が分散する。
機体ログの負荷値が下がる。
ジェームズは小さく呟く。
「船体を盾にしたのか」
リュウジは返事をしない。
右十五度。
船首下げ二度。
主推進九パーセント。
補助推進器を使わず。
粉塵流に押される力だけで。
船を僅かに左へ移動させる。
船は。
まっすぐには進んでいない。
流され。
傾き。
押され。
それでも。
結果として出口へ近づいている。
操縦しているというより。
巨大な粉塵の流れと、互いに力を渡し合っている。
波に逆らわず。
しかし流されきらず。
必要な場所だけ。
操縦桿で支える。
リュウジは一度、右手の力を抜いた。
操縦桿が僅かに戻る。
その戻り方。
速度。
抵抗。
そこから次の粒子流を読む。
「五秒後、左から来る」
マリが観測画面を見る。
「左側密度に大きな変化はありません」
四秒。
三秒。
二秒。
左側の遠方で。
粉塵の小さな渦が崩れる。
その内部に溜まっていた粒子が。
一気に調査船側へ流れ込む。
「左側粒子流、急上昇」
マリが報告するより僅かに早く。
リュウジは船体を水平へ戻していた。
左からの流れが当たる。
だが。
傾きを戻した船体が、正面ではなく斜めに受ける。
衝撃が船尾へ抜ける。
船体は大きく揺れない。
ファルコが映像を見て、低く言う。
「見えてんのか、あいつ」
スリッピーは首を振る。
「観測装置でも、直前まで出てなかった」
クリスタルが静かに答える。
「見ているんじゃないと思う」
「感じてるのか」
フォックスが言う。
「船と同じものを」
調査船内部。
操縦席の後方で。
セレナも。
ソフィアも。
ノアも。
誰も口を開かなかった。
リュウジへ何かを聞くことも。
進路を提案することもない。
今。
自分達にできることは。
余計な言葉を入れないこと。
それだけだと。
ようやく理解していた。
警報音が変わる。
前方観測装置。
粒子密度。
出口方向。
マリの画面に。
粉塵帯外部の低密度領域が表示される。
「出口まで、推定八百四十キロメートル」
シャオメイが通信を維持する。
「回線遅延二・二秒。位置情報は正常です」
ナミが進行方向を確認する。
「現在航路を維持すれば、七分以内に外縁へ到達します」
七分。
わずかな時間。
だが。
粉塵帯の中では。
長い。
リュウジの呼吸が、少しずつ重くなっている。
額に汗が滲む。
右手は操縦桿。
左手は出力調整。
指先が小さく震える。
疲労。
睡眠不足。
十日間の緊張。
その全てが身体へ残っている。
だが。
操作には出さない。
一つの動きも。
余計にしない。
粉塵が正面から押し寄せる。
リュウジは船首を変えず。
主推進を一瞬だけ八パーセントまで落とした。
連盟職員が戸惑う。
「出口が近いのに減速を?」
ジェームズは画面を見る。
「前方の流れが速い」
粉塵が調査船へ追いつく。
船体が押される。
その力を受けた瞬間。
リュウジは主推進を十パーセントへ戻す。
後方から押す粒子流。
前へ進む推進力。
二つが重なり。
調査船の速度が上がる。
支持部へかかる主推進負荷を増やさず。
速度だけを得る。
ジェームズが初めて、明確に息を呑んだ。
「粉塵に押させた」
出口まで六百キロ。
五百。
粒子密度が低下し始める。
だが。
その直前。
調査船の右前方に。
新たな高密度域が発生した。
マリが報告する。
「出口右側に高密度反応。現在航路と交差します」
ナミが別の航路を算出する。
「左へ五度変更すれば回避可能です」
リュウジは左へ動かさない。
ナミがもう一度言う。
「現在航路では高密度域へ入ります」
ペルシアの拳が震える。
だが。
やはり何も言わない。
リュウジは前方を見ている。
高密度域は、出口を塞ぐように横へ流れている。
左へ避ければ。
粉塵帯の内部へ戻される。
右はさらに密度が高い。
正面。
塞がれている。
リュウジは主推進を十パーセントから九へ落とす。
船速が下がる。
マリが状況を確認する。
「高密度域との接触まで四十秒」
三十五秒。
リュウジは動かない。
三十秒。
外装を叩く音が強まる。
二十五秒。
ペルシアは拳を握ったまま。
小さく震えている。
止めない。
信じる。
そう決めた。
二十秒。
高密度域が。
調査船の前を横切る。
十五秒。
リュウジはまだ動かない。
ジェームズが画面を見る。
何かに気づく。
高密度域の後方。
粒子が引かれ。
薄い空間が生まれている。
十秒。
リュウジが主推進を十一パーセントへ上げる。
「来る」
高密度域が正面を通過する。
その後ろへ。
一瞬だけ。
細長い空間が開く。
「船首右二度。主推進十二パーセント」
調査船が加速する。
高密度域の直後。
粒子の少ない空間へ飛び込む。
ジェームズが支持部を監視する。
「右支持部負荷上昇。二十秒以内だ」
リュウジは答えない。
正面。
粉塵の灰色が薄くなる。
遠くに。
一つ。
星の光が見えた。
出口。
だが。
粉塵帯が後方から閉じ始める。
十二パーセント。
十五秒。
支持部負荷。
上昇。
右側接合部。
警戒値。
十八秒。
ジェームズが声を上げる。
「出力を落とせ」
リュウジは落とさない。
「あと二秒」
「支持部が持たない」
「持つ」
十九秒。
警告音。
右側支持部、限界値接近。
二十秒。
調査船の船首が、粉塵帯の外へ出る。
前方観測映像が一気に明るくなる。
星。
既知領域。
通信中継設備の光。
だが。
船尾はまだ粉塵帯の中にある。
ここで出力を落とせば。
後部が粒子流へ引かれる。
リュウジは操縦桿を握り直す。
主推進。
十二パーセント。
二十二秒。
支持部の波形が大きく跳ねる。
ジェームズが叫ぶ。
「リュウジ!」
リュウジはその瞬間。
主推進を完全に切った。
同時に。
三番補助推進器を最大で短く噴射する。
船首が左へ振れる。
粉塵帯の外へ出ていた船首が。
船体全体を横へ引く。
残っていた船尾が。
粉塵流から剥がれる。
調査船が。
粉塵帯の外へ滑り出す。
慣性だけで。
ゆっくりと回転しながら。
灰色の帯から離れていく。
主推進停止。
補助推進停止。
機体は静かになる。
粉塵が外装を叩く音も。
一つずつ消えていく。
やがて。
完全に。
何も聞こえなくなった。
調査船の全体が。
粉塵帯の外に出ている。
ナミが位置情報を確認する。
「調査船、粉塵帯外縁を通過」
マリも粒子密度を確認する。
「周辺密度、安全値まで低下」
シャオメイが通信状態を見る。
「回線正常。位置情報、機体ログともに受信継続」
ジェームズは機体負荷を確認する。
右側支持部。
一時的に限界近くまで上がった。
だが。
現在は低下している。
主推進器。
停止中。
補助推進器。
正常。
船体構造。
重大な破断なし。
ジェームズがゆっくりと言う。
「機体、維持してる」
一秒。
指令室は静まり返ったままだった。
誰も。
すぐには理解できなかった。
あの傷ついた調査船が。
護衛もなく。
牽引もなく。
十パーセントしか使えない推進器で。
粉塵帯を抜けた。
その事実が。
画面に表示されている。
リュウジは操縦桿から手を離さない。
呼吸を整える。
船体の反応を確かめる。
一番補助推進器。
右支持部。
主推進軸。
操縦桿を僅かに動かし。
船体が正しく反応することを確認する。
それから。
初めて通信へ口を開いた。
「調査船、粉塵帯を通過した」
その声が届いた瞬間。
連盟指令室の中で。
大きな歓声が上がった。
連盟職員達が立ち上がる。
互いに顔を見合わせ。
拍手をする。
宇宙管理局のオペレーションルームでも。
イーナが両手を胸元で握り。
リリアが大きく息を吐く。
ナミは安堵したように目を閉じ。
マリは表示された数値を見たまま、僅かに口元を緩めた。
グレートフォックスの格納庫では。
ファルコが拳を振り上げる。
「やりやがった!」
スリッピーも椅子から立ち上がる。
「本当に抜けた!」
クリスタルは胸へ手を置き、静かに息を吐く。
フォックスは画面を見たまま。
小さく頷いた。
歓声。
拍手。
安堵。
張り詰めていたものが。
一斉に解ける。
その中心で。
ペルシアだけは。
動かなかった。
拳を握ったまま。
画面の中のリュウジを見ている。
震えは、まだ止まっていない。
肩も。
僅かに揺れている。
だが。
泣いてはいない。
笑ってもいない。
ただ。
何度も小さく呼吸をする。
本当に抜けた。
生きている。
通信も繋がっている。
船も動いている。
リュウジが。
帰ってきた。
まだ。
完全にではない。
それでも。
粉塵帯の向こう側から。
こちら側へ出てきた。
ペルシアは握っていた拳を、ゆっくり開いた。
手のひらには。
爪が食い込んだ赤い痕が残っていた。
歓声は続いている。
だが。
ペルシアは。
そこで立ち止まらなかった。
中央画面に表示された調査船の位置。
救助船団。
アーウィン四機。
宇宙警察巡視艦。
護衛艦二隻。
それらを一度に確認する。
表情が変わる。
安堵を押し込み。
統括官へ戻る。
「歓声は後!」
ペルシアの声が指令室へ響く。
連盟職員達が一斉に静まる。
「調査船は粉塵帯を抜けただけよ!――機体は損傷したまま!――主推進器も止まってる!――救援作業へ移行して!」
全員が持ち場へ戻る。
ペルシアは即座に指示を出す。
「フォックス、アーウィン四機を発進!」
フォックスが答える。
「了解」
「フォックスとスリッピーは牽引装備を搭載!――ファルコとクリスタルは外縁警戒と船体確認!」
ファルコが応じる。
「任せろ」
クリスタルも続く。
「調査船の状態を確認するわ」
スリッピーは格納庫の状況を見る。
「牽引ワイヤーの交換は終わってる。すぐ出られるよ」
「ナウス、発進許可を出して!」
ナウスが答える。
「アーウィン四機、発進経路を確保しました」
ペルシアは次に救助船団へ回線を開く。
「救助船一番船、調査船へ直行!」
救助船の艦長が答える。
「了解しました」
「二番船は後方支援!――調査船が完全停止した場合に備えて、牽引設備を展開!」
「了解しました」
「医療船は救助船一番船の後方!――調査船との接触後、負傷者の有無に関係なく医療班を乗せて!」
医療船から返答が入る。
「医療班、出動準備完了しています」
「技術支援船は調査船後部へ!――推進器支持部の外部確認を最優先!」
技術支援船の責任者が答える。
「外部作業班を準備します」
「護衛艦二隻は?」
フレイが状況を確認する。
「第一護衛艦の補強作業は完了していません――第二護衛艦は冷却系統の試験中です」
ペルシアは一瞬で判断する。
「出さないで、今は宇宙警察の巡視艦を先行させる」
リリアが応じる。
「巡視艦二隻へ指示します。一隻は調査船前方。もう一隻は救助船団後方。他船の接近を止めて」
「承知しました」
ペルシアはジェームズを見る。
「調査船の主推進器は?」
ジェームズがログを拡大する。
「今は再起動させるな。右支持部が限界近くまで上がった。冷却後に外部確認が必要だ」
ペルシアは調査船へ通信を開く。
「リュウジ、主推進器はそのまま止めて」
「分かってる」
「姿勢は維持できる?」
「補助推進器だけで可能」
「一番は使わないで」
「使わない」
「現在速度は?」
「慣性航行中」
「救援船が向かってる」
「確認した」
リュウジの声は。
粉塵帯へ入る前よりも、さらに疲れていた。
集中が切れ始めている。
操縦を終えたことで。
押さえ込んでいた疲労が、一気に表へ出ている。
ペルシアは気づいた。
だが。
今はまだ。
話を止めない。
調査船を安全な状態へ移すまで。
確認しなければならない。
「船体に異常音は?」
「ない」
「振動は?」
「右後方に少し残ってる」
ジェームズがすぐに聞く。
「主推進停止後もか」
「小さくなってる」
「周期は?」
「一定じゃない」
「粒子が残ってる可能性がある」
スリッピーが回線へ入る。
「船体の隙間に粉塵が入り込んでるかもしれない。外から見れば分かると思う」
ペルシアは指示する。
「スリッピー、到着したら支持部だけじゃなく、粒子の残留も確認して」
「分かった」
格納庫内で。
四機のアーウィンが順番に発進位置へ移動する。
フォックス機。
スリッピー機。
ファルコ機。
クリスタル機。
補給を終えた推進器が点火する。
ナウスが発進経路を表示する。
「アーウィン一番機、発進可能です」
フォックスが答える。
「発進する」
フォックス機がグレートフォックスを離れる。
続いて。
ファルコ。
クリスタル。
スリッピー。
四機が編隊を組み。
調査船へ向けて加速する。
ペルシアは到着予測を見る。
「アーウィン到着まで?」
シャオメイが答える。
「現在位置から約一時間四十二分です」
「救助船は?」
「二時間十分」
「宇宙警察巡視艦は?」
リリアが確認する。
「一時間五十五分です」
ペルシアは考える。
アーウィンが最初に到着する。
船体外部を確認。
牽引準備。
その後。
巡視艦が周辺警戒。
救助船が接続。
技術支援船が修理。
医療船が乗員を受け入れる。
順序を崩さない。
粉塵帯を抜けた直後だからこそ。
焦らず。
確実に。
「フレイ」
ペルシアが呼ぶ。
フレイはすぐに答える。
「はい、統括官」
「救援作業の順序を全船へ共有して。第一到着、アーウィン、船体外部確認と牽引固定。第二到着、宇宙警察巡視艦、周辺警戒。第三到着、救助船一番船、調査船へ接続。その後、技術支援船、医療船」
フレイが正確に復唱する。
「アーウィンによる外部確認及び牽引固定。宇宙警察巡視艦による周辺警戒。救助船一番船による接続。技術支援船の作業後、医療船が接近。全船へ共有します。
「救助船二番船と補給船は後方待機。異常が出た時だけ前へ」
「承知しました」
指令室の歓声は。
もう完全に消えていた。
全員が。
新しい作業へ入っている。
リュウジが粉塵帯を抜けた。
それは奇跡ではない。
救援終了でもない。
調査船を。
全員を。
確実に帰すための。
一つの大きな段階を越えただけ。
ペルシアは調査船の映像を見る。
リュウジはまだ操縦席にいる。
両手は操縦桿と出力調整器の近く。
目も画面から離れていない。
だが。
もう粉塵帯はない。
前方には。
既知領域の星が広がっている。
ペルシアは個別通信へ切り替えた。
「リュウジ」
「何だ」
「抜けたわね」
短い沈黙。
リュウジは正面を見ながら答える。
「抜けた」
ペルシアの喉が僅かに詰まる。
言いたいことは多かった。
怖かった。
馬鹿。
もう二度とやらないで。
本当に。
本当に無事でよかった。
その全てを。
今は言葉にしない。
代わりに。
一つだけ。
「信じてよかった」
リュウジは暫く黙っていた。
それから。
疲れ切った声で返す。
「ありがとう」
ペルシアは目を伏せる。
握り締めていた手のひらが。
まだ痛い。
「でも、まだ終わってないから」
「分かってる」
「アーウィンが到着するまで、余計な操作はしないで」
「姿勢維持だけにする」
「主推進器は絶対に触らないで」
「触らない」
「何か感じたら、すぐ言って」
「分かった」
ペルシアは少し間を置く。
「リュウジ」
「何だ」
「よく抜けたわね」
通信の向こうで。
リュウジはすぐに答えなかった。
操縦桿を見て。
正面の星を見て。
ようやく。
小さく息を吐いた。
「船が動いてくれた」
ペルシアは首を横へ振る。
「違う」
リュウジが僅かに目を動かす。
「あなたが動かしたの」
リュウジは何も答えなかった。
ただ。
操縦桿から右手を離し。
疲れた指を、一度だけ握り直した。
ペルシアは中央回線へ戻る。
もう一度。
全体を見る。
アーウィン四機。
救助船団。
巡視艦。
調査船。
全てが一つの地点へ向かっている。
ペルシアは強く告げた。
「全員、調査船救援へ移行!――粉塵帯を抜けたからって油断しないで!――牽引固定、船体確認、乗員救出まで、一つずつ確実に進める!――今度こそ、全員を帰すわよ!」
複数の回線から。
返答が重なる。
「了解」
「承知しました」
「任せろ」
「準備できています」
画面の向こうで。
四機のアーウィンが加速する。
その先。
粉塵帯を背にした調査船が。
静かな宇宙空間を。
慣性だけで進んでいた。
リュウジは。
その船をもう一度。
帰る方向へ向け直している。
今度は。
一人ではない。
救助する者達が。
すぐそこまで来ていた。