リュウジが北部未探索領域の粉塵帯を突破した頃。
その事実を、ドルトムントの乗務員達はまだ知らなかった。
宇宙連邦連盟から届いていた情報は。
未探索領域での調査が予定より早く打ち切られたこと。
調査船が帰還航路へ入ったこと。
そして。
当初の予定より早く、明日には連盟側の帰還施設へ到着する見込みだということだけだった。
船体の損傷。
護衛艦二隻の離脱。
粉塵帯の再接近。
そうした詳細は、一般の運航部門には共有されていない。
だから。
ドルトムントはいつもどおり動いていた。
旅客船が発着し。
各班がブリーフィングを行い。
乗務員が別の班へ応援に入り。
次のフライトに向けた準備が進められている。
ただ。
十四班のフロアだけは。
いつもとは違う緊張が溜まっていた。
原因は。
ナッシュだった。
◇
ナッシュが十四班へ顔を出すようになってから。
すでに数週間が経過している。
ドルトムント総帥の息子。
将来の経営側候補。
操縦士としての経験を積ませるため、ドルトムントの現場へ入れられている。
肩書だけを見れば。
特別な存在だった。
だが。
タツヤ班長の評価は、最初から明確だった。
十四班の正式なフライトへ継続して入れられる段階ではない。
操縦技術だけの問題ではない。
判断。
責任感。
他の乗務員との連携。
機体を預かる者としての意識。
その全てが。
十四班の求める水準へ達していなかった。
十四班は。
単に操縦の上手い者だけを集めた班ではない。
乗客。
客室。
機体。
航路。
整備。
通信。
それぞれの担当が。
互いの動きを見て。
必要な時だけ前へ出る。
誰かの失敗を責めるより先に。
全体を崩さないために動く。
そうして成立している班だった。
一人だけが自分の都合で動けば。
どれほど操縦技術があっても。
十四班のフライトには入れられない。
タツヤ班長は、運航管理担当者との打合せで。
いつもの軽い口調のまま言った。
「まだ十四班のレベルじゃないね。ここで形だけ合わせるより、他の便で操縦経験を積ませる方が先だと思う」
その判断によって。
ナッシュが十四班以外の便へ応援に入る回数は、次第に増えていった。
短距離便。
貨客混載便。
訓練を兼ねた定期航路。
操縦士が不足した他班の便。
ただし。
ナッシュ一人では出さない。
必ず。
タツヤ班長か。
経験のある操縦士が同行する。
問題が起きた時。
その場で判断を修正できる者を付ける。
ナッシュにとって。
それは自分を信用していない配置に見えた。
タツヤ班長にとっては。
当然の安全措置だった。
そして。
応援便へ出る回数が増えるほど。
ナッシュに対する不満も増えていった。
◇
その日の午後。
タツヤ班長が応援便から戻ると。
十四班の共有端末には、すでに複数の報告が届いていた。
操縦室での確認不足。
副操縦士の進言を軽く扱った。
到着時刻の遅れを整備側の責任として説明した。
航路変更の理由を客室側へ共有しなかった。
自分の判断で進めた後。
問題が起きると、指示を受けたと主張した。
一つだけなら。
新人にありがちな失敗として整理できる。
だが。
全てに共通しているものがあった。
自分の判断に責任を持たない。
失敗の理由を。
誰かの指示。
機体。
整備。
航路。
他の担当者へ移す。
報告を送ってきた乗務員達も。
ナッシュ本人には強く言えていなかった。
総帥の息子。
将来。
自分達の人事や配置へ影響を与える可能性がある。
そう思えば。
正面から苦情を言うことは難しい。
その分。
同行したタツヤ班長へ、全てが集まった。
廊下で声を止められ。
休憩区画で呼び止められ。
応援班の班長から個別に連絡が来る。
最初は遠慮がちだった。
だが。
一人が話し始めると。
次々に同じような話が出た。
「あの、タツヤ班長。ナッシュさんのことなんですが、こちらから強く言うのは難しくて」
「分かってるよ。内容だけ聞く」
「航路変更の判断自体は問題ありませんでした。ただ、客室側への共有がなく、着陸態勢へ入ってから急に揺れが出ました」
別の乗務員も続ける。
「整備確認で待機時間が増えた時、乗客への説明をこちらへ任せたまま、操縦室では整備の手際が悪いと言っていました」
さらに。
「副操縦士が燃料消費を指摘したのに、そのまま予定速度を維持しました。結局、途中で速度を落としています」
「自分で判断したはずなのに、後からタツヤ班長の方針だったと言っていました」
「乗客の前ではありません。でも、現場にいた私達には聞こえていました」
タツヤ班長は。
一つずつ否定せずに聞いた。
擁護もしない。
驚いた顔もしない。
ただ。
誰が。
いつ。
どの便で。
何を言ったか。
順番に記録する。
全員の話が終わった後。
軽く息を吐いた。
「言いにくいことを言わせたね。ありがとう。こっちで引き取るよ」
乗務員達は安堵したような。
それでも不安が残るような顔で頭を下げた。
ナッシュ本人へ言えば。
関係が悪くなる。
何も言わなければ。
次も同じことが起きる。
その間に挟まれ。
ずっと我慢していたのだろう。
タツヤ班長が十四班へ戻る頃には。
苦情は。
報告というより。
嵐に近い量になっていた。
◇
十四班のフロア。
ガーネットは翌日の乗務配置を確認していた。
ククルとエマは応援便から戻り、客室で起きた小さなトラブルを共有している。
ミラとランは備品棚を整理しながら。
その会話を静かに聞いていた。
エリンは中央の机で。
明日のフライト記録と人員配置を確認している。
カイエは。
窓際の端末前に立っていた。
その正面には。
ナッシュがいる。
二人の間に表示されているのは。
午前中に行われた訓練飛行の記録だった。
離陸。
航路移行。
推進出力。
姿勢制御。
機体反応。
そして。
帰還時に発生した、僅かな進路逸脱。
数値だけを見れば。
大きな事故ではない。
自動補正の範囲内。
乗客も乗っていない。
機体への損傷もない。
だが。
カイエが問題にしているのは。
逸脱そのものではなかった。
「進路がずれたことだけを指摘しているわけではありません」
カイエの声は静かだった。
怒鳴らない。
感情的にもならない。
ただ。
逃げ道を残さないほど正確に話す。
「補助推進器の反応が遅れた時、ナッシュさんは一度出力を上げています。その直前に整備担当から、反応遅延の可能性があると報告を受けていました」
ナッシュは腕を組んだ。
「遅延って言っても、許容範囲内だっただろ」
「許容範囲内であることと、追加出力を入れてよいことは別です」
「結果的に何も起きてない」
「結果ではなく、判断の過程について話しています」
ナッシュの眉が動く。
周囲の空気も。
少しずつ硬くなっていく。
ククルは話を止め。
エマも端末から目を上げた。
ミラとランは。
備品を持ったまま動かなくなる。
カイエは続ける。
「機体反応に違和感があった時、最初に行うべきなのは出力を上げることではありません。反応の確認、整備記録との照合、必要であれば速度を落とすことです」
ナッシュが低い声で返す。
「そんなことを全部やってたら、時間がかかる」
「時間がかかるから省略してよい確認ではありません」
「訓練だぞ」
「訓練だからです」
カイエは即答した。
「訓練で省略する人が、本番だけ正しく確認できるとは思いません」
ナッシュの表情が険しくなる。
「言い方があるだろ」
「必要なことを、そのまま申し上げています」
「俺が何も考えてないみたいに言うなよ」
「考えているかどうかではありません」
カイエは画面へ指を向ける。
「判断した後、その判断に責任を持っていないことを指摘しています」
その言葉に。
ナッシュの顔が明確に変わった。
「責任なら取ってる」
「どの部分ですか?」
「今日の訓練は俺が操縦した」
「操縦したことが、責任を取ることではありません」
「じゃあ何だよ」
「判断理由を説明することです」
カイエは淡々と続ける。
「なぜ整備担当の報告より、自分の感覚を優先したのか、なぜ出力を上げたのか、なぜ進路がずれた後、自動補正の設定を理由にしたのか、それを説明できなければ、次も同じ判断をします」
ナッシュが机へ手をつく。
「自動補正が遅れたのは事実だろ」
「その前に、ナッシュさんが出力を変えています」
「だから、それくらいは」
「それくらいという認識が問題です」
「お前に何が分かるんだよ」
フロアの空気が。
完全に止まった。
カイエは。
表情を変えなかった。
だが。
目だけが僅かに冷たくなる。
「少なくとも、操縦判断を他の担当者へ押し付けることが正しくないことは分かります」
ナッシュが一歩前へ出る。
「俺がいつ押し付けた」
「訓練終了後、整備担当の報告が曖昧だったため出力判断を誤ったと話していました」
「実際、曖昧だった」
「記録には、補助推進器の応答が通常より遅れる可能性があると明確に残っています」
「可能性だろ」
「可能性があるから確認するんです」
「だから結果は問題なかっただろ!」
ナッシュの声が大きくなる。
ミラの肩が僅かに跳ねる。
ランも表情を固くする。
カイエは。
それでも声を上げなかった。
「事故が起きなかったことを、正しい判断の証明にはできません」
その言葉が。
さらにナッシュを苛立たせた。
「十四班はいつもそうだな」
誰も返事をしない。
ナッシュは周囲を見回す。
「少しでもお前達のやり方から外れたら、全部間違いみたいに言う」
ククルの眉が寄る。
エマも静かにナッシュを見る。
ガーネットは口を開かず。
状況を見ている。
ナッシュは続ける。
「リュウジなら許されるのに、俺がやれば責任がないって言われる」
その瞬間。
カイエの目が鋭くなった。
「リュウジさんは、自分の判断を他人のせいにしません」
ナッシュの口元が歪む。
「またリュウジかよ」
「比較を始めたのはナッシュさんです」
「何をしても、あいつの方が上なんだろ」
「操縦技術だけの話ではありません」
カイエは一歩も引かない。
「リュウジさんは、判断を誤った可能性があれば、自分から記録を確認します。整備担当の報告も聞きます。誰かの意見が正しければ、相手の立場に関係なく受け入れます。それが操縦士としての責任です」
ナッシュの顔に。
怒りと。
別の感情が混ざる。
劣等感。
苛立ち。
自分が比較され続けているという感覚。
「じゃあ、俺は何もできないって言いたいのか」
「そうは言っていません」
「同じだろ」
「違います」
「何が違う!」
ナッシュの声が。
フロア全体へ響いた。
その時。
「はい、そこまで」
柔らかな声が。
二人の間へ入った。
エリンだった。
いつの間にか。
中央の机を離れ。
ナッシュとカイエの近くまで来ている。
笑顔ではない。
怒ってもいない。
少し困ったような。
苦笑いに近い表情を浮かべていた。
エリンは最初にカイエを見る。
「カイエ、伝えたいことは分かったわ」
カイエはすぐに姿勢を正す。
「はい」
次に。
ナッシュへ視線を向ける。
「ナッシュも、言われ方に納得できないところはあると思う」
ナッシュは。
まだ苛立った顔をしていた。
だが。
エリンへは声を荒げなかった。
「俺だけ責められてるようにしか聞こえませんでした」
「そう感じるのは分かるわ」
エリンは否定しない。
「でも、カイエが話していた内容は、ナッシュを追い出すためのものではないの」
ナッシュが黙る。
エリンは静かに続ける。
「次のフライトで、同じ判断を繰り返さないために話している。結果的に無事だったから終わりではなくて、どうしてそう判断したのかを確認する。それは十四班だけのやり方ではないわ」
ナッシュは目を逸らす。
「でも、あんな言い方じゃ」
エリンは少しだけカイエを見る。
「カイエは正確に伝えようとすると、少し厳しくなることがあるわね」
カイエの表情が僅かに固まる。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいの」
エリンは柔らかく言う。
「内容は間違っていないわ。ただ、ナッシュが何を考えていたかも、先に聞いてもよかったかもしれない」
カイエは短く息を吸い。
ナッシュを見る。
「出力を上げた時、どのように判断されたのですか?」
ナッシュは。
すぐには答えなかった。
先ほどまでなら。
また反発したかもしれない。
だが。
エリンが間に立っている。
それだけで。
声の強さが少し落ちる。
「反応が遅れたから、出力が足りないと思った」
カイエは聞く。
「整備担当からの報告は?」
「聞いてた。でも、実際に操縦してるのは俺だった」
「御自身の感覚を優先したということですか?」
「そうだ」
「その判断自体を、全て否定するつもりはありません」
ナッシュが僅かにカイエを見る。
カイエは続ける。
「ただし、感覚を優先するのであれば、その感覚が正しいと判断した根拠と、その結果に責任を持つ必要があります。リュウジさんも感覚を使いますが、機体記録や整備情報を無視しているわけではありません」
ナッシュは口を閉じる。
エリンも頷く。
「そうね。感覚で操縦することと、確認をしないことは違うわ。ナッシュが感じたものがあったなら、それを言葉にして整備担当へ伝える。そして、判断が違っていたなら認める。そこまでして初めて、経験になるの」
ナッシュは暫く黙っていた。
フロアの全員が。
その返答を待つ。
やがて。
小さく息を吐いた。
「分かりました」
エリンは少し首を傾げる。
「本当に?」
ナッシュが僅かに視線を上げる。
「次から確認します」
「そう」
エリンは。
そこでようやく微笑んだ。
「なら、今日はそれでいいわ」
カイエは何も言わなかった。
完全に納得したわけではない。
ナッシュの返答も。
反省というより。
エリンに言われたから受け入れたように見える。
実際。
ナッシュはカイエの指摘には反発し続けた。
だが。
エリンが言えば。
不思議なほど素直になる。
ナッシュにとって。
エリンは。
自分を総帥の息子として扱わず。
かといって。
最初から否定もしない。
数少ない相手なのかもしれない。
エリンは端末を手に取る。
「明日の便に向けて、今日の判断理由を簡単にまとめておいて」
ナッシュが尋ねる。
「明日の便?」
「午前の応援便よ」
ナッシュは少しだけ表情を戻した。
「エリンさんも乗りますか?」
「私は乗らないわ」
「そうですか」
ほんの僅かに。
残念そうな声だった。
それを聞いて。
ククルがエマを見る。
エマもククルを見る。
二人とも。
何も言わない。
今は言わない方がいいと理解していた。
ナッシュはカイエへ一度だけ視線を向ける。
「記録は出す」
カイエは短く答える。
「お願いします」
ナッシュはそれ以上何も言わず。
十四班のフロアを出ていった。
自動扉が閉まる。
その瞬間。
フロア全体の空気が。
僅かに緩んだ。
ククルが机へ両手をつく。
「疲れる……」
エマが静かに頷く。
「今日は長かったね」
ランが小さく息を吐く。
「声を出すのを我慢していました」
ミラも緊張が解けたように肩を下ろす。
「私もです」
ガーネットは扉を見たまま言う。
「エリンさんの言葉には、本当に素直ですね」
エリンが苦笑する。
「素直というより、今は私の方が話を聞きやすいだけだと思うわ」
ククルが言う。
「カイエの言ってることも同じだったのに」
カイエは端末へ視線を戻す。
「伝え方に問題があったのかもしれません」
エリンがすぐに答える。
「カイエだけの問題ではないわ」
カイエが顔を上げる。
エリンは穏やかに続ける。
「ナッシュは、自分が否定されると思った瞬間に話を聞けなくなるところがある。だから、正しいことを正確に言うだけでは届かない場合もあるの」
カイエは静かに頷いた。
「はい」
「でも、カイエが言わなかったら、今日の判断はそのままになっていたわ。必要な指摘だった」
「ありがとうございます」
エリンはカイエの顔を少し見る。
「ただ」
カイエが僅かに身構える。
「明日の午前だけ、ナッシュと一緒にフライトが入っているでしょう」
カイエの指が止まる。
明日の予定。
午前。
短距離の応援便。
操縦担当はナッシュ。
客室側の現場調整として。
カイエが入る。
タツヤ班長も同行する予定だが。
先ほどのやり取りを考えれば。
決して気楽な便ではない。
エリンは少し心配そうに尋ねる。
「大丈夫そう?」
カイエは答えなかった。
視線だけが。
明日の乗務表へ向く。
ナッシュ。
タツヤ班長。
カイエ。
その三人の名前。
短い便。
午前だけ。
それでも。
今日のような状態が続けば。
乗務中も互いの言葉を正しく受け取れない可能性がある。
カイエは。
自分が我慢すればいいとは思っていない。
乗客を乗せる便で。
感情的な対立を持ち込むわけにはいかない。
だが。
ナッシュの責任のない判断を。
見過ごすこともできない。
返事をしないカイエへ。
エリンは柔らかく言った。
「私が代わろうか?」
その言葉を聞いた瞬間。
カイエの目が大きくなる。
「え?」
エリンは自然に続ける。
「明日の午前なら予定を調整できるわ。ナッシュも、私となら少し落ち着いて話せると思う。カイエは午後の準備へ回ってもいいし、今日は疲れたでしょう」
カイエは。
エリンの顔を見た。
その時。
何かを思い出す。
明日。
午前。
エリンが空けていた時間。
それは。
単なる予備時間ではない。
リュウジが。
北部未探索領域の調査から帰ってくる日。
当初は、さらに長い調査になる予定だった。
だが。
途中で調査を切り上げ。
予定より早く帰還すると連絡があった。
詳しい理由は伝えられていない。
エリンは。
その連絡を受けた時から。
ずっと落ち着かない様子だった。
表面上は。
普段どおり仕事をしている。
フライトの確認。
乗務員の管理。
食事。
体調。
一つずつ丁寧に見ている。
だが。
何度も。
端末の通知画面へ視線を向けていた。
帰還予定時刻。
宇宙連邦連盟の到着施設。
調査船の運航状況。
更新される度に。
静かに確認していた。
そして。
明日の午前。
宇宙連邦連盟まで。
リュウジを迎えに行くと言っていた。
カイエの中で。
その予定が一気に戻ってくる。
エリンに代わってもらえば。
エリンは迎えに行けなくなる。
本人は。
恐らく何も言わない。
ナッシュとのフライトへ入り。
いつもどおり乗務を終え。
その後で連盟へ向かうか。
間に合わなければ。
リュウジへ連絡するだけで済ませる。
それでも。
本当は。
直接迎えに行きたいはずだった。
未探索領域から。
予定を切り上げて戻る。
それだけで。
エリンが心配しないはずがない。
カイエは息を呑む。
「……そうでした」
エリンが少し首を傾げる。
「何が?」
カイエはすぐに姿勢を正す。
「明日はリュウジさんが戻られる日でした」
フロアの空気が。
少し変わる。
ククルも思い出したように目を開く。
「そうだ。明日だった」
エマも静かに頷く。
「予定より早い帰還」
ミラが心配そうに言う。
「エリンさん、迎えに行かれるんですよね」
ランもエリンを見る。
エリンは少し困ったように笑った。
「ええ。そのつもりだったわ」
カイエは。
先ほどまでの沈黙を消すように。
はっきり答えた。
「大丈夫です」
エリンがカイエを見る。
「本当に?」
「はい」
「無理をしていない?」
「していません」
カイエは乗務表を確認する。
ナッシュ。
タツヤ班長。
自分。
「タツヤ班長も同行されます。今日の指摘内容も記録へ残します。明日の便では、必要なことだけを伝えます。感情的にならないようにします」
エリンは少し考える。
「でも、今日かなり疲れたでしょう」
「大丈夫です」
カイエはもう一度答える。
今度は。
先ほどより柔らかな声だった。
「エリンさんは、リュウジさんを迎えに行ってください」
エリンの表情が僅かに止まる。
「カイエ」
「途中で調査を切り上げたと聞いています。何もなければ、それでいいです。ですが、エリンさんが心配されていることも分かります。私のフライトのために、予定を変えていただく必要はありません」
エリンは。
すぐには答えなかった。
カイエは続ける。
「それに」
少しだけ間を置く。
「リュウジさんも、エリンさんが迎えに来られた方が安心されると思います」
ククルとエマが。
静かに目を合わせる。
ミラは。
小さく頷いている。
エリンは僅かに頬を緩めた。
「そうかしら」
カイエは真面目に答える。
「はい」
「リュウジさんはエリンさんには素直ですから」
エリンの頬が。
ほんの少しだけ赤くなる。
ククルが何か言いかける。
だが。
ガーネットが視線で止めた。
今は。
余計なことを言わない方がいい。
エリンは小さく息を吐く。
「分かったわ」
それから。
カイエをまっすぐ見る。
「でも、無理はしないで」
「はい」
「ナッシュがまた声を荒げたら、一人で受け止めないこと、タツヤ班長へすぐ共有して」
「承知しました」
「正しいことを伝えるのは大切だけど、カイエが全部背負う必要はないわ」
「はい」
エリンは。
最後に。
いつもの柔らかな声で言った。
「いつでも相談してよ」
カイエは一瞬だけ。
目を伏せた。
エリンは。
十四班の誰かが困っている時。
必ずこう言う。
大丈夫かと聞くだけではない。
本当に。
自分へ持ってきていいのだと。
逃げてもいいのだと。
そう伝える。
カイエは静かに頷いた。
「ありがとうございます、エリンさん」
エリンも頷く。
「明日の朝も、出る前に一度話しましょう」
「はい」
そこで。
十四班のフロアの扉が開いた。
タツヤ班長が戻ってくる。
手には。
複数の報告が表示された端末。
いつものように。
少し面倒そうな顔をしている。
だが。
目だけは笑っていない。
フロア全体を見渡し。
ナッシュがいないことを確認する。
「もう帰った?」
エリンが答える。
「ええ。カイエと少し話した後に」
タツヤ班長はカイエを見る。
「揉めた?」
カイエは正直に答える。
「少し」
「少しの顔じゃないね」
タツヤ班長は端末を机へ置く。
画面には。
応援便から届いた報告が並んでいる。
ククルが覗き込み。
思わず顔をしかめる。
「何これ」
エマも見る。
「全部、ナッシュさんのこと?」
タツヤ班長は椅子へ座る。
「うん。今日は大漁」
軽い言い方。
だが。
内容は軽くない。
エリンが資料を開く。
一つずつ読み。
表情を曇らせる。
「これだけですか?」
「まだ口頭で聞いた分があるよ」
ガーネットが静かに尋ねる。
「本人には伝えるのですか?」
タツヤ班長は少し考える。
「伝える。ただ、全部まとめて突きつけても、たぶん聞かない」
エリンが頷く。
「自分が攻撃されていると感じますよね」
「そうなんだよね」
タツヤ班長は背もたれへ身体を預ける。
「だから明日の便で見る」
カイエが確認する。
「明日の午前便ですか?」
「うん。操縦技術じゃなくて、周りの話を聞けるかどうか、自分の判断を説明できるか、失敗した時に、人のせいにしないか」
タツヤ班長の目が。
いつもより少しだけ厳しくなる。
「そこが変わらないなら、操縦経験を積ませる段階にも入れない」
エリンが尋ねる。
「十四班への参加は?」
タツヤ班長はすぐに答える。
「無理だね」
はっきりしていた。
総帥の息子。
将来の立場。
経営側の意向。
その全てを考慮しても。
乗客と乗務員の安全より優先されるものではない。
「十四班は、誰かの教育のために乗客を使う班じゃない」
タツヤ班長は静かに続ける。
「練習が必要なら、練習できる環境でやらせる。現場へ出すなら、現場へ出せる人間になってから」
カイエは。
小さく頷いた。
「はい」
タツヤ班長がカイエを見る。
「明日、大丈夫?」
先ほど。
エリンにも聞かれた言葉。
カイエは今度は迷わず答えた。
「大丈夫です」
「エリンと代わってもいいよ」
カイエは首を横へ振る。
「エリンさんは、リュウジさんを迎えに行かれます」
タツヤ班長の表情が少し動く。
「ああ。明日か」
エリンが頷く。
「ええ」
タツヤ班長は。
エリンを少し見る。
未探索領域から予定を早めて戻る。
それだけで。
何かあった可能性は高い。
詳しい情報が来ていないことも。
逆に気になる。
「行ってきな」
タツヤ班長は軽く言った。
エリンが少し目を瞬く。
「でも、午前便が」
「俺とカイエで見る。ナッシュに何かあれば、俺が止める。エリンはリュウジを見てきて」
エリンは。
僅かに考えた後。
静かに頷く。
「分かりました」
タツヤ班長は端末を取り上げる。
「じゃあ、明日の配置はそのまま。カイエ、無理にナッシュを変えようとしなくていい。見ること、記録すること、必要な時に止めること。それで十分」
カイエは答える。
「承知しました」
「それから」
タツヤ班長は。
エリンを見る。
「連盟へ着いたら、リュウジの様子を教えて」
エリンの表情が少し曇る。
「何かあったと思いますか?」
「予定を切り上げて戻る時は、何かあるよ」
タツヤ班長は軽く言う。
だが。
その声には確信があった。
「本人が大丈夫って言っても、ちゃんと見て」
エリンは小さく頷く。
「はい」
フロアに。
一瞬だけ静かな空気が流れる。
ナッシュの問題。
明日のフライト。
リュウジの帰還。
別々のことに見えて。
全て。
十四班が守らなければならないものへ繋がっている。
操縦技術。
責任。
信頼。
仲間。
そして。
全員が無事に戻ること。
エリンは。
明日の帰還予定をもう一度確認した。
宇宙連邦連盟。
午前。
調査船到着予定。
詳しい情報はない。
ただ。
リュウジが戻る。
その一文だけが表示されている。
エリンは端末を閉じた。
まだ知らない。
その頃。
リュウジが。
傷ついた調査船で粉塵帯を突破したことを。
宇宙管理局の指令室で。
ペルシアが震える拳を握りながら。
その操縦を見守っていたことを。
そして。
帰還予定という短い表示の裏で。
どれほど多くの船と人間が。
リュウジ達を帰すために動いているのかを。
エリンはまだ知らない。
それでも。
胸の奥にある不安は。
消えなかった。
明日。
顔を見れば分かる。
声を聞けば分かる。
無事なのか。
疲れているのか。
何を隠しているのか。
だから。
自分が迎えに行く。
エリンは。
誰にも聞こえないほど小さく。
呟いた。
「ちゃんと帰ってきてよ」