サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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超えてはいけない線

翌朝。

 

ドルトムントの運航区画は、いつもと変わらない忙しさに包まれていた。

 

短距離便。

 

定期旅客便。

 

貨客混載便。

 

各方面へ向かう船の発着予定が、壁面モニターへ並んでいる。

 

十四班から他班へ応援に出る乗務員達も。

 

それぞれの集合場所へ向かっていた。

 

カイエが乗るのは。

 

午前中に出発し、昼前には戻る予定の短距離定期便だった。

 

操縦担当者の不足を補うため。

 

ナッシュが操縦室へ入り。

 

カイエが客室側の応援へ入る。

 

本来であれば。

 

タツヤ班長も同行する予定だった。

 

ナッシュが操縦席へ入る場合。

 

必ず経験者が判断を監督する。

 

昨日。

 

タツヤ班長はそう決めていた。

 

ナッシュにも。

 

今回は操縦技術を見る便ではない。

 

周囲の報告を聞けるか。

 

機長の指示に従えるか。

 

自分の判断を勝手に押し通さないか。

 

そこを確認する便だと伝えていた。

 

ところが。

 

出発の約一時間前。

 

十四班へ一本の連絡が入った。

 

ユイが熱を出した。

 

朝から身体が熱く。

 

食欲もなく。

 

いつもなら元気に話すはずのユイが、起き上がることさえ嫌がっている。

 

タツヤ班長は最初。

 

予定どおり出社するつもりだった。

 

だが。

 

エリンからも。

 

今日の便は代わりを立てられる。

 

ユイのそばにいるべきだと言われた。

 

運航管理側も事情を理解し。

 

タツヤ班長の同行は、急遽取り消しとなった。

 

出発前。

 

タツヤ班長は通信でナッシュへ念を押した。

 

「今日は俺が乗れない。だから操縦はしなくていい。機長の横に座って見ているだけにして」

 

ナッシュは不満そうな表情を隠さなかった。

 

「俺が乗る意味がないだろ」

 

「あるよ。操縦しなくても、確認の仕方や報告の流れは見られる」

 

「昨日の件をまだ引きずってるのか」

 

「昨日だけの話じゃない」

 

タツヤ班長の声は。

 

いつものように軽かった。

 

だが。

 

言葉には曖昧さがなかった。

 

「勝手に操縦しないこと。機長から勧められても、今日は断ること。これは指示だから」

 

ナッシュは画面から目を逸らした。

 

「分かった」

 

タツヤ班長は、その返事を聞いても表情を緩めなかった。

 

「ナッシュ」

 

「分かったって言ってるだろ」

 

「ならいい。カイエもいるけど、客室側の仕事を増やさないで」

 

通信はそこで終わった。

 

カイエは。

 

少し離れた場所で、その会話を聞いていた。

 

タツヤ班長へは。

 

出発前に一度だけ伝えた。

 

「ユイちゃんのそばにいてあげてください。こちらは大丈夫です」

 

タツヤ班長は短く頷いた。

 

「何かあったら、すぐ連絡して」

 

「承知しました」

 

その時のカイエは。

 

本当に大丈夫だと思っていた。

 

ナッシュは不満を持っている。

 

だが。

 

タツヤ班長から明確に操縦禁止を言い渡された。

 

同乗する機長も。

 

当然、その指示を理解しているはずだった。

 

まさか。

 

その機長自身が。

 

ナッシュへ操縦を譲るとは思っていなかった。

 

 

出発準備は。

 

最初のうちは問題なく進んだ。

 

乗客は百二十名余り。

 

子ども連れ。

 

高齢者。

 

観光客。

 

仕事で移動する者。

 

短時間の便ということもあり。

 

機内には比較的、落ち着いた空気が流れていた。

 

カイエは客室中央部を担当した。

 

離陸前の安全確認。

 

収納棚。

 

座席ベルト。

 

非常設備。

 

乗客の体調。

 

一つずつ確認していく。

 

同じ便へ入った乗務員達も。

 

全員が十四班ではない。

 

他班から集められた混成編成だった。

 

カイエにとって。

 

慣れた相手ばかりではない。

 

それでも。

 

必要な報告を簡潔に行い。

 

役割を整理し。

 

離陸準備を終えた。

 

操縦室では。

 

正規の機長が左席。

 

ナッシュが右席に座っていた。

 

本来。

 

ナッシュは操縦へ手を出さない。

 

航路確認。

 

通信手順。

 

出力管理。

 

機長の操作を見て学ぶだけ。

 

そう決められていた。

 

だが。

 

同乗した機長は。

 

ナッシュを総帥の息子として意識しすぎていた。

 

年齢も経験も。

 

ナッシュより上。

 

機長資格も持っている。

 

本来なら。

 

指導する側だった。

 

それでも。

 

ナッシュが操縦席へ座ると。

 

機長は必要以上に丁寧な態度を取った。

 

「本日は私が担当いたしますが、御希望がございましたら、一部操作をお願いすることも可能です」

 

ナッシュは横目で機長を見る。

 

「タツヤ班長から聞いてないのか」

 

「本日は見学を中心に、とは伺っております」

 

「なら、何で操作を任せられるって言った」

 

機長は慌てて言葉を選ぶ。

 

「ナッシュ様ほどの御経験があれば、巡航中の一部であれば問題ないかと考えました」

 

「様はやめろ」

 

「失礼いたしました」

 

ナッシュは前方画面を見る。

 

自動操縦によって。

 

船は指定航路へ入っている。

 

速度。

 

姿勢。

 

航路。

 

全て安定。

 

操縦士が手を加える必要はない。

 

だからこそ。

 

ナッシュには退屈だった。

 

「この航路、自動操縦の補正が多すぎないか」

 

機長が答える。

 

「本日は側方からの粒子風がありますので、細かく補正しています」

 

「手動なら、こんなに何度も動かさなくて済む」

 

「そうかもしれません」

 

機長は否定しなかった。

 

それどころか。

 

ナッシュの機嫌を損ねないように。

 

同調する。

 

「ナッシュさんであれば、より滑らかに操縦されるかもしれません」

 

その一言が。

 

ナッシュの判断を後押しした。

 

「少し触る」

 

機長は一瞬、迷った。

 

タツヤ班長からの指示。

 

今日は操縦をさせない。

 

それを思い出した。

 

だが。

 

正面にいるのは。

 

総帥の息子。

 

今後。

 

会社の上層部へ入る可能性が高い人物。

 

ここで拒絶すれば。

 

自分の評価へ影響するかもしれない。

 

そんな思いが。

 

安全上の判断を鈍らせた。

 

「巡航区間のみであれば」

 

ナッシュは自動操縦解除の操作へ手を伸ばす。

 

機長は止めなかった。

 

警告表示。

 

自動操縦解除確認。

 

ナッシュは迷わず承認する。

 

操縦権限が手動へ移った。

 

その瞬間。

 

船体が僅かに傾いた。

 

ナッシュが操縦桿を強く持ちすぎたためだった。

 

機長が小さく言う。

 

「少し入力が大きいです」

 

ナッシュは前を向いたまま答える。

 

「分かってる」

 

傾きを戻す。

 

だが。

 

戻す操作も強い。

 

右へ傾いた船体が。

 

今度は左へ揺れる。

 

客室では。

 

まだ大きな問題とは感じられなかった。

 

乗客の何人かが。

 

窓の外を見る。

 

飲み物の表面が。

 

小さく揺れた程度だった。

 

カイエは中央通路を歩いていた。

 

床から伝わる揺れを感じ。

 

一度足を止める。

 

自動操縦中の揺れではない。

 

規則的な姿勢補正でもない。

 

入力が大きい。

 

誰かが手動で動かしている。

 

カイエはすぐにチーフパーサーへ確認する。

 

「操縦室から手動操縦への切り替え報告はありましたか?」

 

チーフパーサーは端末を見る。

 

「来ていません」

 

「確認をお願いします」

 

「分かりました」

 

チーフパーサーが操縦室へ通信を入れる。

 

「客室です。機体の揺れを確認しています。運航状況を報告してください」

 

機長が答えるまで。

 

僅かな間があった。

 

「現在、一時的に手動操縦へ切り替えています。航行に問題はありません」

 

カイエの表情が変わる。

 

「誰が操縦していますか?」

 

チーフパーサーが聞く。

 

通信の向こうで。

 

機長がまた迷う。

 

「ナッシュさんです」

 

カイエは息を止めた。

 

タツヤ班長の指示。

 

今日は操縦しない。

 

本人も了承した。

 

それなのに。

 

勝手に自動操縦を切った。

 

「直ちに自動操縦へ戻すよう伝えてください」

 

チーフパーサーがカイエを見る。

 

「カイエさんからですか?」

 

「タツヤ班長の指示です」

 

その言葉を聞き。

 

チーフパーサーはすぐに操縦室へ伝える。

 

「タツヤ班長から、本日は操縦を行わないよう指示が出ています。直ちに自動操縦へ戻してください」

 

ナッシュが通信へ出る。

 

「問題ない。巡航区間だけだ」

 

カイエはチーフパーサーから通信端末を受け取る。

 

「ナッシュさん、すぐに自動操縦へ戻してください」

 

「カイエか」

 

「タツヤ班長から、今日は操縦をしないよう指示を受けています」

 

「機長が許可した」

 

「タツヤ班長の指示は、機長の許可で変更できるものではありません」

 

「操縦責任者は機長だろ」

 

「今回の同行条件は、ナッシュさんが操縦しないことです」

 

ナッシュの声に。

 

苛立ちが混ざる。

 

「何も起きてない」

 

「すでに客室で揺れが出ています」

 

「この程度で騒ぐな」

 

カイエの目が僅かに細くなる。

 

だが。

 

声はまだ丁寧だった。

 

「乗客が乗っています。訓練ではありません」

 

「分かってる」

 

「分かっているのであれば、すぐに戻してください」

 

「操縦室にいないお前には分からない」

 

通信が切られた。

 

カイエは端末を見つめる。

 

胸の奥に。

 

冷たいものが広がる。

 

怒り。

 

だが。

 

まだ押さえた。

 

今。

 

自分が感情的になれば。

 

客室対応が遅れる。

 

まず。

 

乗客を守る。

 

カイエはチーフパーサーへ端末を返す。

 

「全乗務員へ、揺れに備えるよう共有してください」

 

「サービスを一時中止しますか?」

 

「はい。カートを固定し、乗客へ着席をお願いします」

 

機内放送が流れる。

 

「現在、機体の揺れが予想されます。お客様は座席へお戻りになり、シートベルトをお締めください」

 

乗務員達が。

 

飲み物の提供を止める。

 

サービスカートを固定。

 

通路にいる乗客を座席へ誘導する。

 

だが。

 

その時には。

 

すでに次の揺れが始まっていた。

 

ナッシュは。

 

自動操縦より滑らかに動かせることを示そうとしていた。

 

側方から来る粒子風。

 

それに対して。

 

小さな修正を重ねるのではなく。

 

一度大きく機体を傾け。

 

まとめて航路へ戻そうとした。

 

操縦桿を右へ。

 

船体が傾く。

 

粒子風が側面へ当たる。

 

予想より反応が強い。

 

ナッシュは逆方向へ戻す。

 

入力が大きすぎる。

 

機体が左へ振れる。

 

その時。

 

客室全体を。

 

激しい横揺れが襲った。

 

テーブルの上に置かれていたカップが滑る。

 

飲み物が乗客の衣服へこぼれる。

 

固定前だった小型トレーが床へ落ちる。

 

子どもが驚いて泣き出す。

 

通路を移動していた乗務員が。

 

座席の背もたれへ身体をぶつける。

 

怪我をするほどではない。

 

だが。

 

機内は一瞬で混乱した。

 

「大丈夫ですか!」

 

「そのまま座っていてください!」

 

「シートベルトを締めてください!」

 

乗務員達の声が飛ぶ。

 

カイエは。

 

近くにいた高齢の乗客が座席からずれそうになるのを支える。

 

「大丈夫です。ゆっくり座り直してください」

 

反対側では。

 

若い乗客が口元を押さえている。

 

乗り物酔い。

 

急激な横揺れによって。

 

顔色が悪くなっている。

 

カイエは近くの乗務員へ指示する。

 

「あちらのお客様へ酔い止め袋と水をお願いします」

 

「分かりました」

 

再び揺れる。

 

今度は上下。

 

ナッシュが姿勢を戻そうとして。

 

補助推進器へ強い入力を入れた。

 

飲み物が。

 

また床へ散る。

 

乗客の一人が声を荒げる。

 

「何が起きてるんだ!」

 

別の乗客も。

 

「本当に大丈夫なのか!」

 

客室乗務員は。

 

状況を説明できない。

 

手動操縦で揺れている。

 

しかも。

 

本来操縦してはいけない人物が。

 

勝手に自動操縦を切った。

 

そんなことを。

 

乗客へ伝えられるはずがない。

 

カイエは客室通信を開く。

 

「操縦室、直ちに自動操縦へ戻してください。客室で複数名に酔いが出ています」

 

機長が答える。

 

「了解しました。自動操縦へ戻します」

 

だが。

 

ナッシュが機長を制した。

 

「まだ安定してない」

 

「だから自動へ戻すんです」

 

機長の声は弱い。

 

「ナッシュさん、客室から要請が出ています」

 

「今戻したら補正が入って、余計に揺れる」

 

「ですが」

 

「俺が安定させる」

 

機長は。

 

それ以上強く言えなかった。

 

数秒後。

 

さらに大きな揺れ。

 

カイエは。

 

座席の肘掛けを掴んで身体を支えた。

 

通路の先で。

 

固定済みのサービスカートが。

 

留め具を軋ませる。

 

乗客の悲鳴。

 

子どもの泣き声。

 

食器が床を滑る音。

 

その全てを聞きながら。

 

カイエの中で。

 

何かが切れかけていた。

 

だが。

 

まだ。

 

客室対応を優先する。

 

「全員、サービスは中止です。乗客の安全確認を優先してください」

 

「中央区画、怪我人はいません」

 

「後方区画、酔いを訴える方が三名です」

 

「前方区画、飲み物が複数の座席へこぼれています」

 

報告が集まる。

 

怪我人はいない。

 

だが。

 

無事だったから問題がないわけではない。

 

乗客は不安に晒された。

 

乗務員達は。

 

本来必要のない対応へ追われた。

 

客室全体が。

 

一人の勝手な操縦によって。

 

荒れに荒れている。

 

しばらくして。

 

ようやく機体が自動操縦へ戻った。

 

揺れが収まる。

 

船内には。

 

泣き声。

 

吐き気を訴える声。

 

こぼれた飲み物を拭く音。

 

乗客へ謝罪する乗務員の声が残った。

 

カイエは。

 

一つずつ客室を回った。

 

体調。

 

怪我。

 

衣服の汚れ。

 

荷物。

 

飲み物。

 

全てを確認する。

 

何度も頭を下げる。

 

「御不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

 

「到着後、改めて状況を御説明します」

 

「体調が戻らない場合は、医療担当へお繋ぎします」

 

自分が操縦したわけではない。

 

自分が許可したわけでもない。

 

それでも。

 

客室にいる以上。

 

乗客へ向き合うのは自分達だった。

 

操縦室にいるナッシュではない。

 

カイエ達が。

 

頭を下げる。

 

謝る。

 

汚れを拭く。

 

酔った乗客を支える。

 

その事実が。

 

胸の奥へ積み重なる。

 

 

ドルトムントへ戻ったのは。

 

予定より二十分遅れた頃だった。

 

乗客を降ろす。

 

体調不良者を医療室へ案内。

 

座席の汚れを記録。

 

破損した食器を確認。

 

乗客からの苦情を受ける。

 

報告書を作成。

 

客室乗務員達は。

 

疲れ切った顔をしていた。

 

怪我人はいない。

 

それだけが救いだった。

 

だが。

 

事故にならなかっただけ。

 

安全な運航だったとは。

 

誰も思っていなかった。

 

カイエは。

 

最後まで客室へ残った。

 

座席の下。

 

収納棚。

 

床。

 

忘れ物。

 

汚れ。

 

一つずつ確認する。

 

その後。

 

他の乗務員達と共に。

 

十四班のフロアへ戻った。

 

そこにいたのは。

 

ミラ。

 

ラン。

 

そして。

 

他班から戻っていた乗務員が数名。

 

エリンはいない。

 

リュウジを迎えるため。

 

宇宙連邦連盟へ向かっている。

 

ガーネット。

 

ククル。

 

エマも。

 

別の便へ出ていた。

 

タツヤ班長も。

 

ユイの看病で不在。

 

十四班の中心となる者達が。

 

ほとんどいない。

 

フロアは。

 

普段より静かだった。

 

カイエが入ってくると。

 

ミラがすぐに気づく。

 

「カイエさん、お疲れさまです」

 

ランも顔を上げる。

 

「お帰りなさい。かなり遅かったですね」

 

カイエは。

 

すぐには答えなかった。

 

疲れている。

 

だが。

 

それだけではない。

 

表情が固い。

 

手に持った端末を。

 

強く握っている。

 

ミラが心配そうに近づく。

 

「何かあったのですか?」

 

カイエが答えようとした時。

 

後ろの扉が開いた。

 

ナッシュが入ってくる。

 

その後ろには。

 

同乗した機長。

 

そして。

 

数名の乗務員。

 

機長は。

 

フロアへ入るなり。

 

ナッシュの少し後ろへ下がった。

 

自分が許可したことを。

 

すでに後悔している。

 

だが。

 

今も。

 

ナッシュの前へ出て説明しようとはしない。

 

カイエは。

 

その態度を見て。

 

さらに表情を硬くした。

 

まず。

 

ナッシュへ向き直る。

 

「ナッシュさん。確認させてください」

 

ナッシュは。

 

面倒そうにカイエを見る。

 

「何だよ」

 

カイエは端末を開く。

 

「本日の便で、自動操縦を解除し、手動操縦へ切り替えましたね」

 

「そうだ」

 

「タツヤ班長から、今日は操縦をしないよう指示を受けていたはずです」

 

「機長が許可した」

 

カイエは機長を見る。

 

「許可されたのですか?」

 

機長は視線を落とす。

 

「巡航中の一部だけであれば、問題ないと判断しました」

 

カイエの声は。

 

まだ丁寧だった。

 

「タツヤ班長からの指示は御存じでしたか?」

 

「はい」

 

「では、なぜ許可されたのですか?」

 

機長は答えに詰まる。

 

ナッシュが横から言う。

 

「俺が頼んだ」

 

カイエはナッシュへ戻る。

 

「頼んだことではなく、勝手に操縦したことを問題にしています」

 

「勝手じゃない。機長の許可があった」

 

「タツヤ班長から、機長に勧められても断るよう指示されていました」

 

「タツヤ班長は乗ってなかった」

 

「乗っていなくても指示は変わりません」

 

ナッシュは鼻で息を吐く。

 

「結果的に事故は起きてない」

 

その言葉で。

 

周囲の乗務員達の表情が変わる。

 

カイエは。

 

一度だけ。

 

ゆっくり息を吸った。

 

まだ。

 

敬語を崩さない。

 

「怪我人がいなかっただけです」

 

「同じだろ」

 

「違います」

 

「何が違う」

 

カイエは端末の記録を示す。

 

「乗客六名が強い酔いを訴えています。飲み物が座席や衣服へこぼれた方が十一名。子ども二名が揺れへの恐怖で泣き続けました。乗務員一名が座席へ身体をぶつけています。怪我としての申告はありませんが、無事だったから問題がないとは言えません」

 

ナッシュは記録へ一度目を向ける。

 

だが。

 

すぐに逸らした。

 

「客室側が早く座らせればよかったんじゃないか」

 

フロアに。

 

静かな緊張が走る。

 

カイエは。

 

一瞬。

 

聞き間違えたのかと思った。

 

「今、何とおっしゃいましたか?」

 

「手動に切り替えた時点で揺れる可能性はあった」

 

ナッシュは悪びれずに続ける。

 

「客室乗務員が早くサービスを止めて、全員を座らせれば被害は減った」

 

近くにいた乗務員が。

 

信じられないようにナッシュを見る。

 

カイエは。

 

声を低くする。

 

「手動操縦への切り替えは、客室へ事前に共有されていません」

 

「それは機長の仕事だろ」

 

機長が顔を上げる。

 

だが。

 

何も言えない。

 

「御自身からの共有もありませんでした」

 

「俺は操縦してた」

 

「客室への影響を考えずに操縦していたということですか?」

 

「操縦室と客室じゃ役割が違う」

 

「違うからこそ、共有が必要です」

 

「細かいな」

 

ナッシュは苛立ったように言う。

 

「乗務員なら、揺れくらい自分達で対応しろよ」

 

その瞬間。

 

カイエの中で。

 

昨日から押さえていたものが。

 

大きく軋んだ。

 

だが。

 

まだ。

 

言葉は敬語だった。

 

「乗務員は対応しました。だから怪我人が出なかったんです。飲み物を浴びた乗客へ謝罪し、酔った乗客を支え、泣いている子どもを落ち着かせ、散乱した物を片付けました。その間、ナッシュさんは何をされていたのですか?」

 

ナッシュの眉が動く。

 

「船を安定させてた」

 

「自分で不安定にした船をですか?」

 

周囲が静まる。

 

カイエの言葉は。

 

鋭い。

 

それでも。

 

声量は上がっていない。

 

ナッシュが一歩近づく。

 

「言い方に気をつけろ」

 

カイエは動かない。

 

「事実を申し上げています」

 

「お前は操縦室にいなかった」

 

「客室にいました」

 

「だから分からないだろ」

 

「客室で何が起きたかは、私の方が分かっています」

 

「操縦が難しいことも知らないくせに」

 

その言葉に。

 

カイエの目が僅かに揺れる。

 

カイエは。

 

操縦を知らないわけではない。

 

アーケード機とはいえ。

 

リュウジから操縦の考え方を教わった。

 

実機の訓練も。

 

航行側の判断も。

 

十四班で何度も見てきた。

 

だが。

 

今。

 

そこを争うつもりはない。

 

問題は。

 

操縦が難しかったことではない。

 

勝手に操縦したこと。

 

失敗したこと。

 

そして。

 

その結果を。

 

客室乗務員の責任にしようとしていること。

 

カイエは静かに言う。

 

「操縦が難しいのであれば、なおさら手を出すべきではありませんでした」

 

ナッシュの顔が険しくなる。

 

「俺には経験が必要なんだよ」

 

「乗客を使って経験を積まないでください」

 

「機長が隣にいた」

 

「その機長が止めなかった結果が、今日の客室です」

 

機長の顔が青くなる。

 

カイエは。

 

ナッシュだけでなく。

 

機長へも視線を向けた。

 

「機長もです。タツヤ班長の指示を御存じでありながら、なぜ操縦を許可したのですか?」

 

「それは」

 

「ナッシュさんが総帥の御子息だからですか?」

 

機長は答えられなかった。

 

その沈黙が。

 

答えだった。

 

カイエの胸に。

 

新たな怒りが生まれる。

 

ナッシュが勝手に動いた。

 

それだけではない。

 

周囲が。

 

総帥の息子だからと止めなかった。

 

責任ある立場の者まで。

 

安全より機嫌を優先した。

 

その結果。

 

客室乗務員が。

 

乗客へ頭を下げた。

 

誰も怪我をしなかったのは。

 

ナッシュの操縦が正しかったからではない。

 

現場の乗務員達が。

 

必死に対応したから。

 

それなのに。

 

ナッシュは。

 

その乗務員達を見下す。

 

「乗務員なら自分達で対応しろ」

 

その一言が。

 

カイエには許せなかった。

 

ナッシュが苛立ちながら言う。

 

「何で機長まで責めるんだよ。俺が操縦したいって言ったんだ」

 

「なら、御自身の判断だったと認めるのですね」

 

「そうだよ」

 

「機長に勧められたからではなく?」

 

「俺が決めた」

 

「タツヤ班長の指示を無視して?」

 

「いちいち確認しなくても、操縦できる」

 

「できていません」

 

カイエは。

 

はっきりと言った。

 

ナッシュの目が鋭くなる。

 

「何だと」

 

「今日の操縦は、乗客を危険に晒しました」

 

「危険じゃない」

 

「危険でした」

 

「怪我人はいない」

 

「それは乗務員が守ったからです」

 

「客室の仕事をしただけだろ」

 

その言い方。

 

当然のような。

 

見下した言い方。

 

自分が作った混乱を。

 

片付けるのが乗務員の仕事だと。

 

そう言い切る態度。

 

カイエの中で。

 

最後まで残っていた線が。

 

切れた。

 

「……今、何て言った?」

 

ナッシュが一瞬。

 

顔を動かす。

 

敬語ではない。

 

昨日まで。

 

どれほど腹が立っても。

 

カイエはナッシュへ丁寧に話していた。

 

立場。

 

年齢。

 

会社内での関係。

 

その全てを考え。

 

最低限の礼儀を崩さなかった。

 

だが。

 

今の声には。

 

それがなかった。

 

冷たい。

 

低い。

 

剥き出しの怒り。

 

ミラが小さく息を呑む。

 

「カイエさん……」

 

ランも。

 

カイエの横顔を見つめる。

 

ナッシュは。

 

自分へ向けられた口調が変わったことに気づき。

 

さらに苛立つ。

 

「何だよ、その言い方」

 

カイエはナッシュをまっすぐ見る。

 

「乗務員が仕事をしただけだって言った?」

 

「そうだろ」

 

「誰のせいで、その仕事が増えたと思ってるの?」

 

フロアの空気が凍る。

 

ナッシュが言い返す。

 

「揺れに対応するのは客室乗務員の仕事だ」

 

「揺れを作ったのはあなたでしょう」

 

カイエの声が。

 

初めて明確に強くなる。

 

普段。

 

淡々としているカイエが。

 

感情を隠さず。

 

ナッシュを睨んでいる。

 

「自動操縦を勝手に切った。止めろと言われても続けた。乗客が酔っても、子どもが泣いても、乗務員が身体をぶつけても、自分の操縦をやめなかった」

 

ナッシュが声を荒げる。

 

「安定させるために必要だった!」

 

「最初から触らなければ安定してた!」

 

カイエの声が。

 

フロアへ響く。

 

ミラも。

 

ランも。

 

他の乗務員達も。

 

動けない。

 

カイエが。

 

ここまで声を上げる姿を。

 

誰も見たことがなかった。

 

「何も起きてなかった船を、勝手に揺らしたのはあなたでしょう!――手動操縦をすれば多少は揺れる!」

 

「多少じゃない!」

 

カイエは端末を机へ置く。

 

強く置いたため。

 

硬い音が響く。

 

「飲み物が床に散った!――何人も吐きそうになった!――乗客が何が起きたのか分からなくて、怖がってた!――子どもが泣いてた!――それを全部、客室乗務員が悪いみたいに言うな!」

 

ナッシュも声を上げる。

 

「俺はそんなこと言ってない!」

 

「言った!」

 

「対応が遅いって言っただけだ!」

 

「事前共有もしてないのに、どうやって早く対応するの!」

 

「操縦室の判断を先回りするのも仕事だろ!」

 

カイエの表情が。

 

完全に変わる。

 

怒っている。

 

それだけではない。

 

呆れている。

 

失望している。

 

本気で。

 

目の前の相手を軽蔑しかけている。

 

「ふざけないで」

 

低い声。

 

ナッシュの口が止まる。

 

カイエは続ける。

 

「操縦室の勝手な判断を、客室が先回りして尻拭いするのが仕事だと思ってるの?」

 

「尻拭いなんて言ってない」

 

「同じことを言ってる!」

 

「お前達は客室側だろ!」

 

「だから何!」

 

カイエが一歩前へ出る。

 

ナッシュとの距離が縮まる。

 

「客室側なら、何をされても黙って片付けろって?――操縦士が勝手に船を揺らしても?――乗客を怖がらせても?――それが総帥の息子なら、誰も何も言うなって?」

 

ナッシュの顔が歪む。

 

「親父は関係ないだろ!」

 

「関係ある!」

 

カイエは機長へ視線を向ける。

 

「この人が止めなかったのは、誰の息子だから?」

 

機長は何も言えない。

 

「タツヤ班長の指示を知ってた。操縦させるなって言われてた。それでも許した。あなたに逆らうのが怖かったからでしょう!」

 

ナッシュが拳を握る。

 

「勝手に決めつけるな」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「俺に操縦する能力があると思ったからだ」

 

カイエは。

 

短く。

 

乾いた息を吐いた。

 

笑ったわけではない。

 

信じられないものを見るような反応だった。

 

「能力?」

 

「何だよ」

 

「乗客を揺らして、止めろと言われても止めなくて、最後は客室乗務員のせいにする。それが操縦士の能力なの?」

 

「黙れ」

 

「黙らない」

 

カイエは即答した。

 

「昨日も言った。判断に責任を持てって…でも、あなたは何も変わってない。機長が許可した、客室の対応が遅かった、自動補正が悪かった。何でも人のせい…一度でも、自分が悪かったって言った?」

 

ナッシュが言い返す。

 

「俺だけが悪いわけじゃない!」

 

「まず自分の責任を認めろ!」

 

カイエの声が。

 

鋭く突き刺さる。

 

「あなたが自動操縦を切った!―――あなたが操縦を続けた!――あなたが客室からの要請を無視した!――今日の原因はあなた!」

 

ナッシュの顔が赤くなる。

 

怒り。

 

屈辱。

 

周囲の視線。

 

全員が。

 

自分を責めている。

 

そう感じている。

 

「偉そうに言うな」

 

カイエは引かない。

 

「偉そうなのはどっち?」

 

「何だと」

 

「総帥の息子だから、何をしても許されると思ってるの?」

 

「思ってない!」

 

「思ってるから勝手に操縦したんでしょう!」

 

「俺には操縦士としての実力がある!」

 

「実力がある人は、乗客を危険に晒した後に人のせいにしない!」

 

ナッシュが机を強く叩く。

 

「あなたに操縦の何が分かる!」

 

カイエも。

 

ほとんど間を置かなかった。

 

「少なくとも、あなたより責任が必要なことは分かる!」

 

ミラが。

 

耐えきれずに二人の間へ入りかける。

 

「カイエさん、少し落ち着いてください」

 

カイエはミラを見ない。

 

「ミラは下がってて」

 

通常口調。

 

だが。

 

怒りを向けているのではない。

 

巻き込みたくない。

 

それだけだった。

 

ランも心配そうに声をかける。

 

「カイエさん、このままでは」

 

「大丈夫」

 

大丈夫ではない。

 

誰が見ても分かる。

 

カイエの手も。

 

僅かに震えている。

 

怒りで。

 

悔しさで。

 

乗客へ何度も謝ったこと。

 

他の乗務員が。

 

ナッシュ本人へ何も言えず。

 

自分達だけで処理していたこと。

 

その全てが。

 

胸の中で燃えている。

 

ナッシュが冷たく言う。

 

「十四班の人間は、いつも自分達が正しいと思ってる」

 

カイエが返す。

 

「少なくとも、安全を無視するあなたよりは正しい」

 

「またそれか」

 

「何度でも言う」

 

「あなたには十四班の操縦なんて無理」

 

周囲が息を呑む。

 

カイエは。

 

もう止まらなかった。

 

昨日までなら。

 

言わなかった。

 

タツヤ班長の判断。

 

本人の成長。

 

組織の事情。

 

そこへ踏み込みすぎないようにしていた。

 

だが。

 

今日。

 

乗客を乗せた便で。

 

ナッシュは線を越えた。

 

「技術の話じゃない。どれだけ操縦が上手くなっても無理。仲間を見下して、乗客を危険に晒して、失敗を認めない人を、十四班に入れられるわけない!」

 

ナッシュの目が大きくなる。

 

「お前が決めることじゃない」

 

「私一人が決めることじゃない。でも、私は認めない」

 

「何様だよ」

 

「今日、客室で乗客を守ってた乗務員だよ!」

 

カイエは。

 

声を震わせながら言った。

 

「あなたが勝手に揺らした船で!――吐きそうな人の背中をさすって!――泣いてる子どもに大丈夫って言って!――服を汚された人に謝って!――何が起きたのか説明できないまま、頭を下げ続けた乗務員だよ!」

 

ナッシュは。

 

一瞬だけ言葉を失った。

 

だが。

 

謝罪は出なかった。

 

代わりに。

 

苛立ちをさらに強める。

 

「それがお前の仕事だろ!」

 

フロアの空気が。

 

完全に止まった。

 

カイエの目から。

 

一瞬。

 

感情が消える。

 

怒りが強すぎて。

 

逆に。

 

表情が静かになる。

 

「……そう」

 

カイエは。

 

低く言った。

 

「最後まで、それなんだ」

 

ナッシュが顔をしかめる。

 

「何がだよ」

 

「自分は操縦する側。私達は片付ける側。だから、何をしても私達が処理すればいい。そう思ってるんだ」

 

「違う」

 

「違わない」

 

カイエは。

 

ナッシュから目を逸らさない。

 

「あなたは乗務員を仲間だと思ってない。自分のために動く人間だと思ってる。操縦士の方が上で、客室乗務員は下。自分は総帥の息子だから、誰も強く言えない。そうやって、ずっと周りを見下してる」

 

ナッシュの肩が動く。

 

「黙れ」

 

「嫌」

 

「黙れって言ってるだろ」

 

「聞きたくないなら、最初から責任を持て!」

 

ナッシュが。

 

カイエへ一歩詰め寄る。

 

二人の距離は。

 

腕を伸ばせば届くほどになった。

 

ミラが慌てて近づく。

 

「ナッシュさん、カイエさんから離れてください」

 

ランも続く。

 

「これ以上はやめてください」

 

ナッシュは二人を睨む。

 

「関係ない奴は黙ってろ」

 

カイエの目がさらに鋭くなる。

 

「ミラとランにその言い方をするな」

 

「お前も命令するな」

 

「仲間を見下すなって言ってる!」

 

「仲間?」

 

ナッシュが鼻で笑う。

 

「あなた達が勝手に固まってるだけだろ」

 

その瞬間。

 

カイエの顔から。

 

僅かに残っていた抑制が消えた。

 

「あなたに十四班の何が分かる!」

 

ナッシュも怒鳴る。

 

「分かりたくもない!」

 

「だったら来るな!」

 

「俺だって来たくて来てるわけじゃない!」

 

「なら出ていけ!」

 

フロアにいた乗務員達が。

 

完全に動けなくなる。

 

カイエが。

 

人へ向かって「出ていけ」と叫んだ。

 

それほど。

 

今のナッシュを。

 

十四班へ置いておけないと思っている。

 

ナッシュは。

 

顔を歪めた。

 

「お前に追い出す権限なんてない」

 

「権限の話しかできないの?」

 

「立場も考えろよ」

 

「またそれ?」

 

「お前みたいな一乗務員が、俺に」

 

「一乗務員?」

 

カイエの声が。

 

低くなる。

 

「今、私達を一乗務員って言った?」

 

「事実だろ」

 

「じゃあ、その一乗務員に守られた乗客は何?―――あなたが揺らした船を立て直した乗務員達は何?―――自分一人で飛ばしてるつもり?―――操縦室に座ってるだけで、船全部を動かしてるつもりなの?」

 

ナッシュが怒鳴る。

 

「俺が操縦しなければ船は飛ばない!」

 

カイエも即座に返す。

 

「乗務員がいなければ乗客を乗せられない!」

 

二人の声が。

 

真正面からぶつかる。

 

「操縦士だけでフライトができると思うな!」

 

「お前に言われる筋合いはない!」

 

「ある!―――今日、あなたのせいで客室がどうなったか見たから!」

 

ナッシュの拳が。

 

強く握られる。

 

指先が白くなる。

 

それに気づいたミラが。

 

一歩前へ出る。

 

「ナッシュさん、やめてください」

 

ナッシュはミラを押しのけるように腕を動かす。

 

直接触れはしなかった。

 

だが。

 

威圧するような動きだった。

 

カイエがすぐにミラの前へ立つ。

 

「ミラに何してるの」

 

「邪魔しただけだ」

 

「触るな」

 

「触ってない」

 

「同じこと」

 

「いちいちうるさいんだよ!」

 

ナッシュの声が。

 

怒りで震える。

 

カイエも。

 

一歩も下がらない。

 

「うるさく言われることをしたのはあなた!」

 

「黙れ!」

 

「謝るまで黙らない!」

 

「誰にだよ!」

 

「乗客に!―――乗務員に!―――タツヤ班長に!―――今日の便に関わった全員に!」

 

ナッシュは。

 

完全に我慢を失った。

 

「お前にだけは言われたくない!」

 

右腕が動く。

 

肘を引く。

 

握り締めた拳が上がる。

 

ミラが叫ぶ。

 

「カイエさん!」

 

ランも息を呑む。

 

カイエは。

 

目の前で振り上げられた拳を見た。

 

避けるには。

 

僅かに遅い。

 

ナッシュの肩が回る。

 

拳が。

 

カイエの顔へ向かって振り出される。

 

だが。

 

その拳は。

 

カイエへ届かなかった。

 

乾いた音。

 

誰かの手が。

 

ナッシュの手首を。

 

途中で掴んでいた。

 

強く。

 

一切動かないように。

 

ナッシュの拳が。

 

空中で止まる。

 

ナッシュが驚いて横を見る。

 

カイエも。

 

目を見開く。

 

そこに立っていたのは。

 

リュウジだった。

 

未探索領域から帰還したばかり。

 

長い航行の疲労が。

 

顔にも。

 

身体にも残っている。

 

それでも。

 

ナッシュの拳を止めた右手は。

 

僅かにも揺れていなかった。

 

リュウジは。

 

ナッシュの手首を掴んだまま。

 

カイエの前へ立つ。

 

表情には。

 

怒りさえ浮かんでいない。

 

ただ。

 

冷たい。

 

粉塵帯の中で見せたものとは。

 

別の静けさ。

 

仲間へ向けられた暴力を見た瞬間。

 

感情を深く沈めた声。

 

リュウジは。

 

ナッシュをまっすぐ見た。

 

「仲間に何してるんだ?」

 

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