翌朝。
ドルトムントの運航区画は、いつもと変わらない忙しさに包まれていた。
短距離便。
定期旅客便。
貨客混載便。
各方面へ向かう船の発着予定が、壁面モニターへ並んでいる。
十四班から他班へ応援に出る乗務員達も。
それぞれの集合場所へ向かっていた。
カイエが乗るのは。
午前中に出発し、昼前には戻る予定の短距離定期便だった。
操縦担当者の不足を補うため。
ナッシュが操縦室へ入り。
カイエが客室側の応援へ入る。
本来であれば。
タツヤ班長も同行する予定だった。
ナッシュが操縦席へ入る場合。
必ず経験者が判断を監督する。
昨日。
タツヤ班長はそう決めていた。
ナッシュにも。
今回は操縦技術を見る便ではない。
周囲の報告を聞けるか。
機長の指示に従えるか。
自分の判断を勝手に押し通さないか。
そこを確認する便だと伝えていた。
ところが。
出発の約一時間前。
十四班へ一本の連絡が入った。
ユイが熱を出した。
朝から身体が熱く。
食欲もなく。
いつもなら元気に話すはずのユイが、起き上がることさえ嫌がっている。
タツヤ班長は最初。
予定どおり出社するつもりだった。
だが。
エリンからも。
今日の便は代わりを立てられる。
ユイのそばにいるべきだと言われた。
運航管理側も事情を理解し。
タツヤ班長の同行は、急遽取り消しとなった。
出発前。
タツヤ班長は通信でナッシュへ念を押した。
「今日は俺が乗れない。だから操縦はしなくていい。機長の横に座って見ているだけにして」
ナッシュは不満そうな表情を隠さなかった。
「俺が乗る意味がないだろ」
「あるよ。操縦しなくても、確認の仕方や報告の流れは見られる」
「昨日の件をまだ引きずってるのか」
「昨日だけの話じゃない」
タツヤ班長の声は。
いつものように軽かった。
だが。
言葉には曖昧さがなかった。
「勝手に操縦しないこと。機長から勧められても、今日は断ること。これは指示だから」
ナッシュは画面から目を逸らした。
「分かった」
タツヤ班長は、その返事を聞いても表情を緩めなかった。
「ナッシュ」
「分かったって言ってるだろ」
「ならいい。カイエもいるけど、客室側の仕事を増やさないで」
通信はそこで終わった。
カイエは。
少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
タツヤ班長へは。
出発前に一度だけ伝えた。
「ユイちゃんのそばにいてあげてください。こちらは大丈夫です」
タツヤ班長は短く頷いた。
「何かあったら、すぐ連絡して」
「承知しました」
その時のカイエは。
本当に大丈夫だと思っていた。
ナッシュは不満を持っている。
だが。
タツヤ班長から明確に操縦禁止を言い渡された。
同乗する機長も。
当然、その指示を理解しているはずだった。
まさか。
その機長自身が。
ナッシュへ操縦を譲るとは思っていなかった。
◇
出発準備は。
最初のうちは問題なく進んだ。
乗客は百二十名余り。
子ども連れ。
高齢者。
観光客。
仕事で移動する者。
短時間の便ということもあり。
機内には比較的、落ち着いた空気が流れていた。
カイエは客室中央部を担当した。
離陸前の安全確認。
収納棚。
座席ベルト。
非常設備。
乗客の体調。
一つずつ確認していく。
同じ便へ入った乗務員達も。
全員が十四班ではない。
他班から集められた混成編成だった。
カイエにとって。
慣れた相手ばかりではない。
それでも。
必要な報告を簡潔に行い。
役割を整理し。
離陸準備を終えた。
操縦室では。
正規の機長が左席。
ナッシュが右席に座っていた。
本来。
ナッシュは操縦へ手を出さない。
航路確認。
通信手順。
出力管理。
機長の操作を見て学ぶだけ。
そう決められていた。
だが。
同乗した機長は。
ナッシュを総帥の息子として意識しすぎていた。
年齢も経験も。
ナッシュより上。
機長資格も持っている。
本来なら。
指導する側だった。
それでも。
ナッシュが操縦席へ座ると。
機長は必要以上に丁寧な態度を取った。
「本日は私が担当いたしますが、御希望がございましたら、一部操作をお願いすることも可能です」
ナッシュは横目で機長を見る。
「タツヤ班長から聞いてないのか」
「本日は見学を中心に、とは伺っております」
「なら、何で操作を任せられるって言った」
機長は慌てて言葉を選ぶ。
「ナッシュ様ほどの御経験があれば、巡航中の一部であれば問題ないかと考えました」
「様はやめろ」
「失礼いたしました」
ナッシュは前方画面を見る。
自動操縦によって。
船は指定航路へ入っている。
速度。
姿勢。
航路。
全て安定。
操縦士が手を加える必要はない。
だからこそ。
ナッシュには退屈だった。
「この航路、自動操縦の補正が多すぎないか」
機長が答える。
「本日は側方からの粒子風がありますので、細かく補正しています」
「手動なら、こんなに何度も動かさなくて済む」
「そうかもしれません」
機長は否定しなかった。
それどころか。
ナッシュの機嫌を損ねないように。
同調する。
「ナッシュさんであれば、より滑らかに操縦されるかもしれません」
その一言が。
ナッシュの判断を後押しした。
「少し触る」
機長は一瞬、迷った。
タツヤ班長からの指示。
今日は操縦をさせない。
それを思い出した。
だが。
正面にいるのは。
総帥の息子。
今後。
会社の上層部へ入る可能性が高い人物。
ここで拒絶すれば。
自分の評価へ影響するかもしれない。
そんな思いが。
安全上の判断を鈍らせた。
「巡航区間のみであれば」
ナッシュは自動操縦解除の操作へ手を伸ばす。
機長は止めなかった。
警告表示。
自動操縦解除確認。
ナッシュは迷わず承認する。
操縦権限が手動へ移った。
その瞬間。
船体が僅かに傾いた。
ナッシュが操縦桿を強く持ちすぎたためだった。
機長が小さく言う。
「少し入力が大きいです」
ナッシュは前を向いたまま答える。
「分かってる」
傾きを戻す。
だが。
戻す操作も強い。
右へ傾いた船体が。
今度は左へ揺れる。
客室では。
まだ大きな問題とは感じられなかった。
乗客の何人かが。
窓の外を見る。
飲み物の表面が。
小さく揺れた程度だった。
カイエは中央通路を歩いていた。
床から伝わる揺れを感じ。
一度足を止める。
自動操縦中の揺れではない。
規則的な姿勢補正でもない。
入力が大きい。
誰かが手動で動かしている。
カイエはすぐにチーフパーサーへ確認する。
「操縦室から手動操縦への切り替え報告はありましたか?」
チーフパーサーは端末を見る。
「来ていません」
「確認をお願いします」
「分かりました」
チーフパーサーが操縦室へ通信を入れる。
「客室です。機体の揺れを確認しています。運航状況を報告してください」
機長が答えるまで。
僅かな間があった。
「現在、一時的に手動操縦へ切り替えています。航行に問題はありません」
カイエの表情が変わる。
「誰が操縦していますか?」
チーフパーサーが聞く。
通信の向こうで。
機長がまた迷う。
「ナッシュさんです」
カイエは息を止めた。
タツヤ班長の指示。
今日は操縦しない。
本人も了承した。
それなのに。
勝手に自動操縦を切った。
「直ちに自動操縦へ戻すよう伝えてください」
チーフパーサーがカイエを見る。
「カイエさんからですか?」
「タツヤ班長の指示です」
その言葉を聞き。
チーフパーサーはすぐに操縦室へ伝える。
「タツヤ班長から、本日は操縦を行わないよう指示が出ています。直ちに自動操縦へ戻してください」
ナッシュが通信へ出る。
「問題ない。巡航区間だけだ」
カイエはチーフパーサーから通信端末を受け取る。
「ナッシュさん、すぐに自動操縦へ戻してください」
「カイエか」
「タツヤ班長から、今日は操縦をしないよう指示を受けています」
「機長が許可した」
「タツヤ班長の指示は、機長の許可で変更できるものではありません」
「操縦責任者は機長だろ」
「今回の同行条件は、ナッシュさんが操縦しないことです」
ナッシュの声に。
苛立ちが混ざる。
「何も起きてない」
「すでに客室で揺れが出ています」
「この程度で騒ぐな」
カイエの目が僅かに細くなる。
だが。
声はまだ丁寧だった。
「乗客が乗っています。訓練ではありません」
「分かってる」
「分かっているのであれば、すぐに戻してください」
「操縦室にいないお前には分からない」
通信が切られた。
カイエは端末を見つめる。
胸の奥に。
冷たいものが広がる。
怒り。
だが。
まだ押さえた。
今。
自分が感情的になれば。
客室対応が遅れる。
まず。
乗客を守る。
カイエはチーフパーサーへ端末を返す。
「全乗務員へ、揺れに備えるよう共有してください」
「サービスを一時中止しますか?」
「はい。カートを固定し、乗客へ着席をお願いします」
機内放送が流れる。
「現在、機体の揺れが予想されます。お客様は座席へお戻りになり、シートベルトをお締めください」
乗務員達が。
飲み物の提供を止める。
サービスカートを固定。
通路にいる乗客を座席へ誘導する。
だが。
その時には。
すでに次の揺れが始まっていた。
ナッシュは。
自動操縦より滑らかに動かせることを示そうとしていた。
側方から来る粒子風。
それに対して。
小さな修正を重ねるのではなく。
一度大きく機体を傾け。
まとめて航路へ戻そうとした。
操縦桿を右へ。
船体が傾く。
粒子風が側面へ当たる。
予想より反応が強い。
ナッシュは逆方向へ戻す。
入力が大きすぎる。
機体が左へ振れる。
その時。
客室全体を。
激しい横揺れが襲った。
テーブルの上に置かれていたカップが滑る。
飲み物が乗客の衣服へこぼれる。
固定前だった小型トレーが床へ落ちる。
子どもが驚いて泣き出す。
通路を移動していた乗務員が。
座席の背もたれへ身体をぶつける。
怪我をするほどではない。
だが。
機内は一瞬で混乱した。
「大丈夫ですか!」
「そのまま座っていてください!」
「シートベルトを締めてください!」
乗務員達の声が飛ぶ。
カイエは。
近くにいた高齢の乗客が座席からずれそうになるのを支える。
「大丈夫です。ゆっくり座り直してください」
反対側では。
若い乗客が口元を押さえている。
乗り物酔い。
急激な横揺れによって。
顔色が悪くなっている。
カイエは近くの乗務員へ指示する。
「あちらのお客様へ酔い止め袋と水をお願いします」
「分かりました」
再び揺れる。
今度は上下。
ナッシュが姿勢を戻そうとして。
補助推進器へ強い入力を入れた。
飲み物が。
また床へ散る。
乗客の一人が声を荒げる。
「何が起きてるんだ!」
別の乗客も。
「本当に大丈夫なのか!」
客室乗務員は。
状況を説明できない。
手動操縦で揺れている。
しかも。
本来操縦してはいけない人物が。
勝手に自動操縦を切った。
そんなことを。
乗客へ伝えられるはずがない。
カイエは客室通信を開く。
「操縦室、直ちに自動操縦へ戻してください。客室で複数名に酔いが出ています」
機長が答える。
「了解しました。自動操縦へ戻します」
だが。
ナッシュが機長を制した。
「まだ安定してない」
「だから自動へ戻すんです」
機長の声は弱い。
「ナッシュさん、客室から要請が出ています」
「今戻したら補正が入って、余計に揺れる」
「ですが」
「俺が安定させる」
機長は。
それ以上強く言えなかった。
数秒後。
さらに大きな揺れ。
カイエは。
座席の肘掛けを掴んで身体を支えた。
通路の先で。
固定済みのサービスカートが。
留め具を軋ませる。
乗客の悲鳴。
子どもの泣き声。
食器が床を滑る音。
その全てを聞きながら。
カイエの中で。
何かが切れかけていた。
だが。
まだ。
客室対応を優先する。
「全員、サービスは中止です。乗客の安全確認を優先してください」
「中央区画、怪我人はいません」
「後方区画、酔いを訴える方が三名です」
「前方区画、飲み物が複数の座席へこぼれています」
報告が集まる。
怪我人はいない。
だが。
無事だったから問題がないわけではない。
乗客は不安に晒された。
乗務員達は。
本来必要のない対応へ追われた。
客室全体が。
一人の勝手な操縦によって。
荒れに荒れている。
しばらくして。
ようやく機体が自動操縦へ戻った。
揺れが収まる。
船内には。
泣き声。
吐き気を訴える声。
こぼれた飲み物を拭く音。
乗客へ謝罪する乗務員の声が残った。
カイエは。
一つずつ客室を回った。
体調。
怪我。
衣服の汚れ。
荷物。
飲み物。
全てを確認する。
何度も頭を下げる。
「御不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「到着後、改めて状況を御説明します」
「体調が戻らない場合は、医療担当へお繋ぎします」
自分が操縦したわけではない。
自分が許可したわけでもない。
それでも。
客室にいる以上。
乗客へ向き合うのは自分達だった。
操縦室にいるナッシュではない。
カイエ達が。
頭を下げる。
謝る。
汚れを拭く。
酔った乗客を支える。
その事実が。
胸の奥へ積み重なる。
◇
ドルトムントへ戻ったのは。
予定より二十分遅れた頃だった。
乗客を降ろす。
体調不良者を医療室へ案内。
座席の汚れを記録。
破損した食器を確認。
乗客からの苦情を受ける。
報告書を作成。
客室乗務員達は。
疲れ切った顔をしていた。
怪我人はいない。
それだけが救いだった。
だが。
事故にならなかっただけ。
安全な運航だったとは。
誰も思っていなかった。
カイエは。
最後まで客室へ残った。
座席の下。
収納棚。
床。
忘れ物。
汚れ。
一つずつ確認する。
その後。
他の乗務員達と共に。
十四班のフロアへ戻った。
そこにいたのは。
ミラ。
ラン。
そして。
他班から戻っていた乗務員が数名。
エリンはいない。
リュウジを迎えるため。
宇宙連邦連盟へ向かっている。
ガーネット。
ククル。
エマも。
別の便へ出ていた。
タツヤ班長も。
ユイの看病で不在。
十四班の中心となる者達が。
ほとんどいない。
フロアは。
普段より静かだった。
カイエが入ってくると。
ミラがすぐに気づく。
「カイエさん、お疲れさまです」
ランも顔を上げる。
「お帰りなさい。かなり遅かったですね」
カイエは。
すぐには答えなかった。
疲れている。
だが。
それだけではない。
表情が固い。
手に持った端末を。
強く握っている。
ミラが心配そうに近づく。
「何かあったのですか?」
カイエが答えようとした時。
後ろの扉が開いた。
ナッシュが入ってくる。
その後ろには。
同乗した機長。
そして。
数名の乗務員。
機長は。
フロアへ入るなり。
ナッシュの少し後ろへ下がった。
自分が許可したことを。
すでに後悔している。
だが。
今も。
ナッシュの前へ出て説明しようとはしない。
カイエは。
その態度を見て。
さらに表情を硬くした。
まず。
ナッシュへ向き直る。
「ナッシュさん。確認させてください」
ナッシュは。
面倒そうにカイエを見る。
「何だよ」
カイエは端末を開く。
「本日の便で、自動操縦を解除し、手動操縦へ切り替えましたね」
「そうだ」
「タツヤ班長から、今日は操縦をしないよう指示を受けていたはずです」
「機長が許可した」
カイエは機長を見る。
「許可されたのですか?」
機長は視線を落とす。
「巡航中の一部だけであれば、問題ないと判断しました」
カイエの声は。
まだ丁寧だった。
「タツヤ班長からの指示は御存じでしたか?」
「はい」
「では、なぜ許可されたのですか?」
機長は答えに詰まる。
ナッシュが横から言う。
「俺が頼んだ」
カイエはナッシュへ戻る。
「頼んだことではなく、勝手に操縦したことを問題にしています」
「勝手じゃない。機長の許可があった」
「タツヤ班長から、機長に勧められても断るよう指示されていました」
「タツヤ班長は乗ってなかった」
「乗っていなくても指示は変わりません」
ナッシュは鼻で息を吐く。
「結果的に事故は起きてない」
その言葉で。
周囲の乗務員達の表情が変わる。
カイエは。
一度だけ。
ゆっくり息を吸った。
まだ。
敬語を崩さない。
「怪我人がいなかっただけです」
「同じだろ」
「違います」
「何が違う」
カイエは端末の記録を示す。
「乗客六名が強い酔いを訴えています。飲み物が座席や衣服へこぼれた方が十一名。子ども二名が揺れへの恐怖で泣き続けました。乗務員一名が座席へ身体をぶつけています。怪我としての申告はありませんが、無事だったから問題がないとは言えません」
ナッシュは記録へ一度目を向ける。
だが。
すぐに逸らした。
「客室側が早く座らせればよかったんじゃないか」
フロアに。
静かな緊張が走る。
カイエは。
一瞬。
聞き間違えたのかと思った。
「今、何とおっしゃいましたか?」
「手動に切り替えた時点で揺れる可能性はあった」
ナッシュは悪びれずに続ける。
「客室乗務員が早くサービスを止めて、全員を座らせれば被害は減った」
近くにいた乗務員が。
信じられないようにナッシュを見る。
カイエは。
声を低くする。
「手動操縦への切り替えは、客室へ事前に共有されていません」
「それは機長の仕事だろ」
機長が顔を上げる。
だが。
何も言えない。
「御自身からの共有もありませんでした」
「俺は操縦してた」
「客室への影響を考えずに操縦していたということですか?」
「操縦室と客室じゃ役割が違う」
「違うからこそ、共有が必要です」
「細かいな」
ナッシュは苛立ったように言う。
「乗務員なら、揺れくらい自分達で対応しろよ」
その瞬間。
カイエの中で。
昨日から押さえていたものが。
大きく軋んだ。
だが。
まだ。
言葉は敬語だった。
「乗務員は対応しました。だから怪我人が出なかったんです。飲み物を浴びた乗客へ謝罪し、酔った乗客を支え、泣いている子どもを落ち着かせ、散乱した物を片付けました。その間、ナッシュさんは何をされていたのですか?」
ナッシュの眉が動く。
「船を安定させてた」
「自分で不安定にした船をですか?」
周囲が静まる。
カイエの言葉は。
鋭い。
それでも。
声量は上がっていない。
ナッシュが一歩近づく。
「言い方に気をつけろ」
カイエは動かない。
「事実を申し上げています」
「お前は操縦室にいなかった」
「客室にいました」
「だから分からないだろ」
「客室で何が起きたかは、私の方が分かっています」
「操縦が難しいことも知らないくせに」
その言葉に。
カイエの目が僅かに揺れる。
カイエは。
操縦を知らないわけではない。
アーケード機とはいえ。
リュウジから操縦の考え方を教わった。
実機の訓練も。
航行側の判断も。
十四班で何度も見てきた。
だが。
今。
そこを争うつもりはない。
問題は。
操縦が難しかったことではない。
勝手に操縦したこと。
失敗したこと。
そして。
その結果を。
客室乗務員の責任にしようとしていること。
カイエは静かに言う。
「操縦が難しいのであれば、なおさら手を出すべきではありませんでした」
ナッシュの顔が険しくなる。
「俺には経験が必要なんだよ」
「乗客を使って経験を積まないでください」
「機長が隣にいた」
「その機長が止めなかった結果が、今日の客室です」
機長の顔が青くなる。
カイエは。
ナッシュだけでなく。
機長へも視線を向けた。
「機長もです。タツヤ班長の指示を御存じでありながら、なぜ操縦を許可したのですか?」
「それは」
「ナッシュさんが総帥の御子息だからですか?」
機長は答えられなかった。
その沈黙が。
答えだった。
カイエの胸に。
新たな怒りが生まれる。
ナッシュが勝手に動いた。
それだけではない。
周囲が。
総帥の息子だからと止めなかった。
責任ある立場の者まで。
安全より機嫌を優先した。
その結果。
客室乗務員が。
乗客へ頭を下げた。
誰も怪我をしなかったのは。
ナッシュの操縦が正しかったからではない。
現場の乗務員達が。
必死に対応したから。
それなのに。
ナッシュは。
その乗務員達を見下す。
「乗務員なら自分達で対応しろ」
その一言が。
カイエには許せなかった。
ナッシュが苛立ちながら言う。
「何で機長まで責めるんだよ。俺が操縦したいって言ったんだ」
「なら、御自身の判断だったと認めるのですね」
「そうだよ」
「機長に勧められたからではなく?」
「俺が決めた」
「タツヤ班長の指示を無視して?」
「いちいち確認しなくても、操縦できる」
「できていません」
カイエは。
はっきりと言った。
ナッシュの目が鋭くなる。
「何だと」
「今日の操縦は、乗客を危険に晒しました」
「危険じゃない」
「危険でした」
「怪我人はいない」
「それは乗務員が守ったからです」
「客室の仕事をしただけだろ」
その言い方。
当然のような。
見下した言い方。
自分が作った混乱を。
片付けるのが乗務員の仕事だと。
そう言い切る態度。
カイエの中で。
最後まで残っていた線が。
切れた。
「……今、何て言った?」
ナッシュが一瞬。
顔を動かす。
敬語ではない。
昨日まで。
どれほど腹が立っても。
カイエはナッシュへ丁寧に話していた。
立場。
年齢。
会社内での関係。
その全てを考え。
最低限の礼儀を崩さなかった。
だが。
今の声には。
それがなかった。
冷たい。
低い。
剥き出しの怒り。
ミラが小さく息を呑む。
「カイエさん……」
ランも。
カイエの横顔を見つめる。
ナッシュは。
自分へ向けられた口調が変わったことに気づき。
さらに苛立つ。
「何だよ、その言い方」
カイエはナッシュをまっすぐ見る。
「乗務員が仕事をしただけだって言った?」
「そうだろ」
「誰のせいで、その仕事が増えたと思ってるの?」
フロアの空気が凍る。
ナッシュが言い返す。
「揺れに対応するのは客室乗務員の仕事だ」
「揺れを作ったのはあなたでしょう」
カイエの声が。
初めて明確に強くなる。
普段。
淡々としているカイエが。
感情を隠さず。
ナッシュを睨んでいる。
「自動操縦を勝手に切った。止めろと言われても続けた。乗客が酔っても、子どもが泣いても、乗務員が身体をぶつけても、自分の操縦をやめなかった」
ナッシュが声を荒げる。
「安定させるために必要だった!」
「最初から触らなければ安定してた!」
カイエの声が。
フロアへ響く。
ミラも。
ランも。
他の乗務員達も。
動けない。
カイエが。
ここまで声を上げる姿を。
誰も見たことがなかった。
「何も起きてなかった船を、勝手に揺らしたのはあなたでしょう!――手動操縦をすれば多少は揺れる!」
「多少じゃない!」
カイエは端末を机へ置く。
強く置いたため。
硬い音が響く。
「飲み物が床に散った!――何人も吐きそうになった!――乗客が何が起きたのか分からなくて、怖がってた!――子どもが泣いてた!――それを全部、客室乗務員が悪いみたいに言うな!」
ナッシュも声を上げる。
「俺はそんなこと言ってない!」
「言った!」
「対応が遅いって言っただけだ!」
「事前共有もしてないのに、どうやって早く対応するの!」
「操縦室の判断を先回りするのも仕事だろ!」
カイエの表情が。
完全に変わる。
怒っている。
それだけではない。
呆れている。
失望している。
本気で。
目の前の相手を軽蔑しかけている。
「ふざけないで」
低い声。
ナッシュの口が止まる。
カイエは続ける。
「操縦室の勝手な判断を、客室が先回りして尻拭いするのが仕事だと思ってるの?」
「尻拭いなんて言ってない」
「同じことを言ってる!」
「お前達は客室側だろ!」
「だから何!」
カイエが一歩前へ出る。
ナッシュとの距離が縮まる。
「客室側なら、何をされても黙って片付けろって?――操縦士が勝手に船を揺らしても?――乗客を怖がらせても?――それが総帥の息子なら、誰も何も言うなって?」
ナッシュの顔が歪む。
「親父は関係ないだろ!」
「関係ある!」
カイエは機長へ視線を向ける。
「この人が止めなかったのは、誰の息子だから?」
機長は何も言えない。
「タツヤ班長の指示を知ってた。操縦させるなって言われてた。それでも許した。あなたに逆らうのが怖かったからでしょう!」
ナッシュが拳を握る。
「勝手に決めつけるな」
「じゃあ、どうして?」
「俺に操縦する能力があると思ったからだ」
カイエは。
短く。
乾いた息を吐いた。
笑ったわけではない。
信じられないものを見るような反応だった。
「能力?」
「何だよ」
「乗客を揺らして、止めろと言われても止めなくて、最後は客室乗務員のせいにする。それが操縦士の能力なの?」
「黙れ」
「黙らない」
カイエは即答した。
「昨日も言った。判断に責任を持てって…でも、あなたは何も変わってない。機長が許可した、客室の対応が遅かった、自動補正が悪かった。何でも人のせい…一度でも、自分が悪かったって言った?」
ナッシュが言い返す。
「俺だけが悪いわけじゃない!」
「まず自分の責任を認めろ!」
カイエの声が。
鋭く突き刺さる。
「あなたが自動操縦を切った!―――あなたが操縦を続けた!――あなたが客室からの要請を無視した!――今日の原因はあなた!」
ナッシュの顔が赤くなる。
怒り。
屈辱。
周囲の視線。
全員が。
自分を責めている。
そう感じている。
「偉そうに言うな」
カイエは引かない。
「偉そうなのはどっち?」
「何だと」
「総帥の息子だから、何をしても許されると思ってるの?」
「思ってない!」
「思ってるから勝手に操縦したんでしょう!」
「俺には操縦士としての実力がある!」
「実力がある人は、乗客を危険に晒した後に人のせいにしない!」
ナッシュが机を強く叩く。
「あなたに操縦の何が分かる!」
カイエも。
ほとんど間を置かなかった。
「少なくとも、あなたより責任が必要なことは分かる!」
ミラが。
耐えきれずに二人の間へ入りかける。
「カイエさん、少し落ち着いてください」
カイエはミラを見ない。
「ミラは下がってて」
通常口調。
だが。
怒りを向けているのではない。
巻き込みたくない。
それだけだった。
ランも心配そうに声をかける。
「カイエさん、このままでは」
「大丈夫」
大丈夫ではない。
誰が見ても分かる。
カイエの手も。
僅かに震えている。
怒りで。
悔しさで。
乗客へ何度も謝ったこと。
他の乗務員が。
ナッシュ本人へ何も言えず。
自分達だけで処理していたこと。
その全てが。
胸の中で燃えている。
ナッシュが冷たく言う。
「十四班の人間は、いつも自分達が正しいと思ってる」
カイエが返す。
「少なくとも、安全を無視するあなたよりは正しい」
「またそれか」
「何度でも言う」
「あなたには十四班の操縦なんて無理」
周囲が息を呑む。
カイエは。
もう止まらなかった。
昨日までなら。
言わなかった。
タツヤ班長の判断。
本人の成長。
組織の事情。
そこへ踏み込みすぎないようにしていた。
だが。
今日。
乗客を乗せた便で。
ナッシュは線を越えた。
「技術の話じゃない。どれだけ操縦が上手くなっても無理。仲間を見下して、乗客を危険に晒して、失敗を認めない人を、十四班に入れられるわけない!」
ナッシュの目が大きくなる。
「お前が決めることじゃない」
「私一人が決めることじゃない。でも、私は認めない」
「何様だよ」
「今日、客室で乗客を守ってた乗務員だよ!」
カイエは。
声を震わせながら言った。
「あなたが勝手に揺らした船で!――吐きそうな人の背中をさすって!――泣いてる子どもに大丈夫って言って!――服を汚された人に謝って!――何が起きたのか説明できないまま、頭を下げ続けた乗務員だよ!」
ナッシュは。
一瞬だけ言葉を失った。
だが。
謝罪は出なかった。
代わりに。
苛立ちをさらに強める。
「それがお前の仕事だろ!」
フロアの空気が。
完全に止まった。
カイエの目から。
一瞬。
感情が消える。
怒りが強すぎて。
逆に。
表情が静かになる。
「……そう」
カイエは。
低く言った。
「最後まで、それなんだ」
ナッシュが顔をしかめる。
「何がだよ」
「自分は操縦する側。私達は片付ける側。だから、何をしても私達が処理すればいい。そう思ってるんだ」
「違う」
「違わない」
カイエは。
ナッシュから目を逸らさない。
「あなたは乗務員を仲間だと思ってない。自分のために動く人間だと思ってる。操縦士の方が上で、客室乗務員は下。自分は総帥の息子だから、誰も強く言えない。そうやって、ずっと周りを見下してる」
ナッシュの肩が動く。
「黙れ」
「嫌」
「黙れって言ってるだろ」
「聞きたくないなら、最初から責任を持て!」
ナッシュが。
カイエへ一歩詰め寄る。
二人の距離は。
腕を伸ばせば届くほどになった。
ミラが慌てて近づく。
「ナッシュさん、カイエさんから離れてください」
ランも続く。
「これ以上はやめてください」
ナッシュは二人を睨む。
「関係ない奴は黙ってろ」
カイエの目がさらに鋭くなる。
「ミラとランにその言い方をするな」
「お前も命令するな」
「仲間を見下すなって言ってる!」
「仲間?」
ナッシュが鼻で笑う。
「あなた達が勝手に固まってるだけだろ」
その瞬間。
カイエの顔から。
僅かに残っていた抑制が消えた。
「あなたに十四班の何が分かる!」
ナッシュも怒鳴る。
「分かりたくもない!」
「だったら来るな!」
「俺だって来たくて来てるわけじゃない!」
「なら出ていけ!」
フロアにいた乗務員達が。
完全に動けなくなる。
カイエが。
人へ向かって「出ていけ」と叫んだ。
それほど。
今のナッシュを。
十四班へ置いておけないと思っている。
ナッシュは。
顔を歪めた。
「お前に追い出す権限なんてない」
「権限の話しかできないの?」
「立場も考えろよ」
「またそれ?」
「お前みたいな一乗務員が、俺に」
「一乗務員?」
カイエの声が。
低くなる。
「今、私達を一乗務員って言った?」
「事実だろ」
「じゃあ、その一乗務員に守られた乗客は何?―――あなたが揺らした船を立て直した乗務員達は何?―――自分一人で飛ばしてるつもり?―――操縦室に座ってるだけで、船全部を動かしてるつもりなの?」
ナッシュが怒鳴る。
「俺が操縦しなければ船は飛ばない!」
カイエも即座に返す。
「乗務員がいなければ乗客を乗せられない!」
二人の声が。
真正面からぶつかる。
「操縦士だけでフライトができると思うな!」
「お前に言われる筋合いはない!」
「ある!―――今日、あなたのせいで客室がどうなったか見たから!」
ナッシュの拳が。
強く握られる。
指先が白くなる。
それに気づいたミラが。
一歩前へ出る。
「ナッシュさん、やめてください」
ナッシュはミラを押しのけるように腕を動かす。
直接触れはしなかった。
だが。
威圧するような動きだった。
カイエがすぐにミラの前へ立つ。
「ミラに何してるの」
「邪魔しただけだ」
「触るな」
「触ってない」
「同じこと」
「いちいちうるさいんだよ!」
ナッシュの声が。
怒りで震える。
カイエも。
一歩も下がらない。
「うるさく言われることをしたのはあなた!」
「黙れ!」
「謝るまで黙らない!」
「誰にだよ!」
「乗客に!―――乗務員に!―――タツヤ班長に!―――今日の便に関わった全員に!」
ナッシュは。
完全に我慢を失った。
「お前にだけは言われたくない!」
右腕が動く。
肘を引く。
握り締めた拳が上がる。
ミラが叫ぶ。
「カイエさん!」
ランも息を呑む。
カイエは。
目の前で振り上げられた拳を見た。
避けるには。
僅かに遅い。
ナッシュの肩が回る。
拳が。
カイエの顔へ向かって振り出される。
だが。
その拳は。
カイエへ届かなかった。
乾いた音。
誰かの手が。
ナッシュの手首を。
途中で掴んでいた。
強く。
一切動かないように。
ナッシュの拳が。
空中で止まる。
ナッシュが驚いて横を見る。
カイエも。
目を見開く。
そこに立っていたのは。
リュウジだった。
未探索領域から帰還したばかり。
長い航行の疲労が。
顔にも。
身体にも残っている。
それでも。
ナッシュの拳を止めた右手は。
僅かにも揺れていなかった。
リュウジは。
ナッシュの手首を掴んだまま。
カイエの前へ立つ。
表情には。
怒りさえ浮かんでいない。
ただ。
冷たい。
粉塵帯の中で見せたものとは。
別の静けさ。
仲間へ向けられた暴力を見た瞬間。
感情を深く沈めた声。
リュウジは。
ナッシュをまっすぐ見た。
「仲間に何してるんだ?」