「仲間に何してるんだ?」
低く。
冷たい声だった。
ナッシュの拳を受け止めたリュウジは、その手首を掴んだまま動かなかった。
強く握り潰しているわけではない。
だが。
ナッシュが腕を引こうとしても、拳は少しも動かなかった。
調査船の操縦を終えたばかり。
何日もまともに眠らず。
歩いている途中で躓くほど疲れている。
それでも。
仲間へ向けられた拳を止める力だけは、少しも緩まなかった。
十四班のフロアは静まり返っていた。
ミラも。
ランも。
他の乗務員達も。
突然現れたリュウジを見つめている。
カイエも。
自分の目の前に立つ背中を見たまま、動けなかった。
間違いなく。
リュウジだった。
未探索領域へ向かった時より。
少し痩せている。
顔色も悪い。
制服ではなく、調査船で着ていたフライトスーツのまま。
袖や肩には擦れた跡があり。
長い航行の疲労が、全身へ残っている。
それでも。
ナッシュを見る目だけは。
鋭かった。
リュウジはナッシュの手首を掴んだまま。
その顔を正面から見る。
「お前は誰だ?」
声は低い。
怒鳴ってはいない。
だが。
ナッシュの名前を尋ねているというより。
なぜ十四班のフロアにいて。
なぜカイエへ拳を向けたのか。
その存在そのものを問いただしているような声だった。
ナッシュは。
一瞬、言葉を失った。
目の前にいる男。
総帥からも。
周囲の乗務員からも。
何度も名前を聞かされてきた。
比較され。
自分より上だと言われ。
十四班の基準として扱われている男。
だが。
直接顔を合わせるのは。
これが初めてだった。
周囲から。
遅れて声が上がる。
「リュウジさんが戻ってきた……」
一人の乗務員が呟く。
別の乗務員も。
驚いた声を漏らす。
「本当にリュウジさんだ」
「未探索領域から戻ったんじゃ」
「今日だったの?」
「調査船は連盟に入る予定だったはずじゃ」
小さな声が。
次々に広がる。
リュウジが戻った。
十四班へ。
何の連絡もなく。
突然。
ナッシュの拳を止める形で。
カイエは。
ようやく息を吐いた。
先ほどまで。
身体の中を満たしていた怒りが。
全て消えたわけではない。
だが。
リュウジの背中を見た瞬間。
張り詰めていたものが。
少しだけ緩んだ。
ナッシュは。
周囲の声を聞き。
目の前の男が誰なのかを理解する。
「お前が、S級の……」
小さな呟き。
その声には。
驚き。
警戒。
そして。
隠し切れない対抗心が混ざっていた。
リュウジは。
その続きを待たなかった。
ナッシュがS級という言葉を出しても。
表情は変わらない。
自分の等級を説明する気も。
名乗る気もない。
今。
重要なのは。
ナッシュが誰かではなく。
カイエへ拳を振り下ろそうとしたこと。
ただ。
それ以上。
この場で問い詰めることもしなかった。
リュウジは一度。
カイエを見る。
顔に怪我はない。
身体にも。
拳は届いていない。
ミラとランも。
近くにいる。
周囲の乗務員達にも。
目立った怪我はない。
そこまで確認すると。
ナッシュへ視線を戻す。
「まあいい」
リュウジは。
短く言った。
そして。
掴んでいたナッシュの手首を離した。
ナッシュは。
反射的に一歩下がる。
腕を押さえながら。
リュウジを睨む。
だが。
もう拳は上げなかった。
リュウジは。
そんなナッシュへ背を向けた。
完全に無視するように。
カイエを見る。
「カイエ、ついてこい」
突然。
名前を呼ばれたカイエは。
少し目を瞬く。
「はい、リュウジさん」
声は。
いつもの敬語へ戻っていた。
先ほど。
ナッシュへ向けていた鋭い口調は。
もうない。
リュウジは。
それ以上説明せず。
フロアの出口へ向かう。
歩き方は。
どこか重い。
だが。
止まらない。
カイエは。
すぐにその後を追う。
数歩進んだところで。
ミラがカイエを見る。
それから。
ランを見る。
ランも。
不安そうにカイエの背中を見ている。
二人は。
ほとんど同時に動いた。
「私達も行きます」
ミラが言う。
「うん。私も行く」
ランも続く。
ミラが小さく振り返る。
「ラン、リュウジさんには敬語」
「あ……私も行きます」
ランは慌てて言い直した。
リュウジは。
振り返らなかった。
止めもしない。
カイエ。
ミラ。
ラン。
三人は。
そのままリュウジの後を追った。
フロアに残されたナッシュは。
四人の背中を睨んでいた。
だが。
誰も。
ナッシュへ声をかけなかった。
同乗していた機長も。
他の乗務員達も。
ただ。
何も言えないまま。
リュウジ達が出ていった扉を見ていた。
◇
リュウジが向かったのは。
ドルトムント財閥旅行会社の屋上だった。
十四班のフロアから。
専用エレベーターで数階上がる。
短い連絡通路。
その先に。
簡易休憩スペースがある。
屋上へ出る扉が開く。
柔らかな風。
人工天体の外周光。
遠くを行き交う旅客船。
地上とは違う。
薄く澄んだ空気。
屋上には。
いくつかのベンチ。
小さなテーブル。
飲み物の自動販売機。
最低限の休憩設備だけが置かれていた。
以前。
ペルシアも。
仕事から逃げるように。
カイエとミラを連れて来た場所。
フロアから離れ。
少しだけ息をつくための場所だった。
リュウジは。
屋上へ出ると。
すぐに自動販売機へ向かった。
カイエ達は。
少し離れたところで立ち止まる。
リュウジは販売機の表示を見る。
コーヒー。
茶。
炭酸飲料。
果汁飲料。
栄養補助飲料。
何を飲むか。
暫く迷うように画面を見ていたが。
結局。
温かいブラックコーヒーを選んだ。
決済音。
紙製のカップが出てくる。
リュウジは。
そのカップを取る。
一口飲む前に。
カイエ達を見る。
「何飲む?」
カイエが。
少し驚く。
「私達もですか?」
「ここまで連れてきたからな」
ミラは。
販売機の表示を見る。
「では、私はリンゴジュースをお願いします」
「私はオレンジがいいです」
ランも続く。
リュウジがカイエを見る。
「カイエは?」
カイエは。
一瞬迷う。
普段なら。
自分で買うと言うところ。
だが。
リュウジがすでに決済画面を開いている。
断る方が。
かえって長くなりそうだった。
「では、紅茶をお願いします」
「分かった」
リュウジは。
順番に購入する。
リンゴジュース。
オレンジジュース。
温かい紅茶。
それぞれの容器を取り出し。
三人へ渡す。
「ありがとうございます、リュウジさん」
カイエが受け取る。
「ありがとうございます」
ミラも頭を下げる。
「ありがとうございます」
ランも続いた。
リュウジは。
短く頷く。
「座るぞ」
屋上の端。
人工天体の光が見えるベンチ。
リュウジが。
そこへ腰を下ろす。
座った瞬間。
僅かに身体が沈む。
立っている時より。
明らかに疲労が見えた。
背もたれへ身体を預け。
コーヒーのカップを両手で持つ。
目を閉じるわけではない。
だが。
一度。
長く息を吐いた。
カイエは。
その様子を見て。
胸の奥に違和感を覚える。
いつものリュウジではない。
普段なら。
疲れていても。
姿勢を崩さない。
周囲を見て。
必要なことを先に確認する。
だが。
今は。
ベンチへ座っただけで。
少し安心したように見える。
未探索領域で。
何があったのか。
調査がなぜ中止になったのか。
予定より早く戻った理由。
何日も連絡がなかった理由。
聞きたいことは。
いくつもある。
それでも。
カイエは聞かなかった。
今。
先に話すべきことが。
別にある。
四人は。
同じベンチと。
向かいのベンチへ分かれて座った。
リュウジが中央。
隣にカイエ。
向かい側にミラとラン。
しばらく。
誰も話さなかった。
風の音。
遠くの船の推進音。
販売機の内部で。
次の商品を補充位置へ動かす小さな音。
リュウジは。
コーヒーを一口飲む。
味を確認するように。
少しだけ目を細める。
カイエは。
紅茶の容器を持ったまま。
俯いていた。
先ほどまで。
あれほど激しく怒っていた。
だが。
屋上へ来ると。
今度は。
自分がしたことを考え始めている。
ナッシュへ敬語を使わなかった。
声を荒げた。
十四班から出ていけと言った。
感情を。
乗務員のいるフロアで。
全てぶつけた。
間違ったことを言ったとは思わない。
それでも。
リュウジから。
何を言われるのか。
少し怖かった。
ミラとランも。
黙っている。
リュウジが。
カイエへ何を聞くのか。
二人も。
緊張していた。
だが。
カイエの中には。
もう一つ。
気になっていることがあった。
リュウジが。
ここにいる。
今日。
戻ってきた。
それなのに。
本来なら。
一番先にリュウジの近くにいるはずの人がいない。
カイエは。
小さく呟いた。
「エリンさんは……」
リュウジが。
コーヒーのカップから顔を上げる。
「エリンさん?」
本当に。
何も知らない顔だった。
カイエは。
少し目を瞬く。
「今日、リュウジさんが戻られるので、宇宙連邦連盟へ迎えに行ったんですけど」
リュウジの動きが止まる。
コーヒーを持った手。
視線。
僅かな呼吸。
全てが。
一瞬だけ止まった。
「連盟に?」
「はい」
カイエは頷く。
「宇宙連邦連盟のエアポートへ戻られる予定でしたよね。エリンさんは、朝から迎えに行かれました。何日も連絡がなかったので、かなり心配されていました」
リュウジは。
少しだけ顔を伏せる。
調査船の収容先。
当初。
宇宙連邦連盟。
途中で。
宇宙管理局へ変更。
その変更を。
ドルトムント側へ自分から連絡していない。
そもそも。
連絡する余裕がなかった。
端末も。
調査船へ置いたまま。
エリンが。
最初の予定を信じて。
宇宙連邦連盟へ向かっていた。
自分は。
宇宙管理局から。
直接ドルトムントへ戻った。
完全な行き違い。
リュウジは。
静かに呟く。
「行き違いになった」
カイエは。
少し心配そうにリュウジを見る。
「電話してあげてください」
リュウジは。
無意識に。
フライトスーツのポケットへ手を入れる。
右。
ない。
左。
ない。
胸元。
ない。
そこで。
ようやく思い出した。
調査船を降りる時。
医療班から。
身につけていた装備だけを返された。
端末は。
操縦席の脇。
補助コンソールの近くへ置いたまま。
持ってきていない。
リュウジは。
少しだけ眉を寄せる。
「携帯を忘れてきたらしい」
カイエは。
一瞬。
真顔でリュウジを見る。
それから。
思わず小さく笑った。
「リュウジさんらしいですね」
先ほどまでの。
張り詰めた表情。
怒り。
悔しさ。
その全てが。
ほんの少しだけ緩む。
ミラも。
口元へ手を添える。
「調査船に置いてこられたのですか?」
「たぶん」
リュウジが答える。
ランも。
少しだけ笑う。
「戻ってきたのに、携帯は戻ってないんですね」
ミラが。
すぐにランを見る。
「ラン、言い方」
「あ、ごめん。でも、本当だから」
「リュウジさんに失礼でしょう」
リュウジは。
二人のやり取りを見ながら。
小さく息を吐く。
少しだけ。
いつもの十四班へ戻ったような空気。
それでも。
エリンが連盟で待っていることを考えると。
そのままにはできない。
「会社の端末から連絡する」
リュウジは言った。
「話が終わったらな」
カイエは。
少し目を伏せる。
話。
それが。
何を指しているのか。
分かっている。
リュウジは。
コーヒーをもう一口飲む。
それから。
カイエを見る。
先ほどまで。
ナッシュへ怒鳴っていたカイエ。
普段は。
何があっても。
声を荒げることは少ない。
冷静に。
事実を並べ。
必要なことを正確に伝える。
そのカイエが。
本気で怒っていた。
しかも。
相手へ敬語を使うことさえやめていた。
そこまでのことが。
今日。
起きた。
リュウジは。
責めるような声を出さない。
カイエが怒ったことを。
先に問題にもしない。
ただ。
何があったのか。
全てを聞くために。
低く尋ねた。
「それで、何があったんだ?」
リュウジの問いに。
カイエは、両手で持っていた紅茶へ視線を落とした。
屋上を吹き抜ける風が。
長い黒髪を静かに揺らす。
先ほどまで。
ナッシュに対して、感情のまま声を荒らげていた。
十四班から出ていけとまで言った。
だが。
リュウジを前にすると。
どこから話せばいいのか分からなくなる。
無断で自動操縦を切ったこと。
客室が激しく揺れたこと。
乗客が飲み物をこぼし。
何人も酔いを訴え。
子ども達が泣き続けたこと。
それでもナッシュが。
自分の責任を認めなかったこと。
そして。
最後には。
客室乗務員を見下すような言葉を口にしたこと。
全てを説明しようとすれば。
先ほどの怒りが。
また戻ってきそうだった。
リュウジは。
急かさなかった。
コーヒーを一口飲み。
カイエが話し始めるのを待っている。
ミラとランも。
向かいのベンチで黙っていた。
やがて。
カイエは小さく息を吸った。
「今日の午前便には、本来、タツヤ班長も同行される予定でした」
リュウジが頷く。
「あいつの監督か?」
「はい。ですが、ユイちゃんが熱を出したため、タツヤ班長は急遽お休みになりました」
リュウジの表情が僅かに変わる。
「ユイが?」
「朝から熱が高かったそうです。エリンさんからも、今日はそばにいてあげるようにとお伝えしていました」
「そうか」
リュウジは。
ユイの顔を思い浮かべるように、少しだけ目を伏せた。
「それで、代わりの操縦士が付いたのか?」
「正規の機長はいました。ただ、ナッシュは操縦をしないよう、タツヤ班長から明確に指示を受けていました」
カイエは続ける。
「タツヤ班長が同行できなくなった時点で、今日は操縦席に座って見学するだけにするよう言われていました。機長に勧められても、断るようにとも」
リュウジの指が。
コーヒーの容器をゆっくりとなぞる。
「それでも操縦したのか」
「はい」
カイエの声が。
僅かに硬くなる。
「同乗した機長が、ナッシュに必要以上に気を遣っていました。総帥の御子息という立場を意識して、ナッシュが操縦したいと言った時に止めなかったんです。ナッシュは巡航中、自動操縦を勝手に解除しました。客室への事前連絡もありませんでした」
リュウジは。
何も挟まずに聞いている。
だが。
先ほどまでより。
目が少しだけ鋭くなっていた。
「最初は小さな揺れでした」
カイエは。
記憶を順番に辿る。
「自動操縦の補正とは違う、不規則な揺れでした。客室から確認を入れたところ、ナッシュが操縦していることが分かりました。すぐに自動操縦へ戻すよう伝えましたが、ナッシュは問題ないと言って、通信を切りました」
リュウジが低く尋ねる。
「客室から戻せと言われた後も続けたのか?」
「はい」
カイエは頷いた。
「その後、横からの粒子風に対して入力を大きくしたようです。船体が左右へ激しく振られました」
紅茶の容器を握る指へ。
力が入る。
「テーブルの上にあった飲み物がこぼれました。トレーも落ちました。子どもが泣き出して、酔いを訴える方も出ました。通路にいた乗務員が、座席へ身体をぶつけました。幸い、怪我として申告するほどではありませんでしたが……」
カイエは一度。
言葉を止めた。
リュウジは。
カイエの顔を見ている。
「怪我人がいなかっただけか」
カイエが。
静かに頷く。
「はい」
その一言で。
カイエの中にあったものを。
リュウジは正確に理解した。
事故が起きなかった。
だから問題はない。
そうではない。
乗務員達が。
事故へ発展させなかった。
乗客を座らせ。
揺れに耐え。
体調不良者を支え。
散乱する物を押さえ。
必死に守った。
結果として。
大きな怪我が出なかっただけ。
「自動操縦に戻ったのは、いつだ?」
リュウジが尋ねる。
「客室から何度も要請した後です。機長は戻そうとしていましたが、ナッシュが自分で安定させると言って、すぐには応じませんでした。その間に、さらに大きな揺れがありました」
リュウジは。
コーヒーを口へ運びかけ。
途中で止めた。
「機長も止められなかったのか」
「はい」
リュウジは。
短く息を吐いた。
怒鳴らない。
機長を罵ることもしない。
ただ。
その沈黙に。
強い失望が混ざっていた。
「それで、戻ってから話したのか」
「はい」
カイエは。
今度は少し顔を伏せる。
「最初は、いつもどおり話すつもりでした。何が問題だったのか、記録に沿って確認しました。落ち着いて、伝えていました」
ミラが。
小さく頷く。
「最初は、本当に冷静でした」
ランも続ける。
「カイエさんは、声を荒らげていませんでした。ナッシュさんが操縦した理由を聞いて、乗客の状況を説明していました」
カイエは。
二人へ一度だけ視線を向けた。
それから。
リュウジへ戻す。
「ですが、ナッシュは事故が起きていないと言いました。怪我人もいないから、問題ではないと」
リュウジの目が細くなる。
「それだけじゃないな」
カイエは。
唇を僅かに結んだ。
本当に自分が怒ったのは。
無断操縦だけではない。
失敗を認めなかったことだけでもない。
「客室側が早く対応していれば、被害は少なかったと言いました」
リュウジの表情が。
静かに消える。
カイエは続ける。
「乗務員なら、揺れくらい自分達で対応しろと、客室乗務員が乗客へ謝罪し、酔った方を支え、泣いている子どもを落ち着かせたことも、仕事をしただけだと言いました」
風の音だけが。
四人の間を通り抜ける。
リュウジは。
暫く何も言わなかった。
怒りを抑えているというより。
一つずつ。
言葉の意味を確認しているようだった。
「それで、敬語をやめたのか」
カイエは。
少しだけ身体を固くする。
「はい。申し訳ありません」
リュウジがカイエを見る。
「何で謝る?」
カイエは。
予想していなかった言葉に目を上げた。
「十四班のフロアで声を荒らげました。他の乗務員もいる前で、ナッシュに出ていけとまで言いました。感情的になってしまいました」
リュウジは。
すぐには答えない。
カイエは続ける。
「指摘の内容が間違っているとは思っていません。ですが、言い方は正しくなかったかもしれません。ミラとランにも心配をかけました」
ミラがすぐに首を横へ振る。
「私は、カイエさんが悪いとは思いません」
ランも強く頷く。
「私もです。ナッシュさんの言い方は酷かったです」
カイエは。
二人へ小さく笑おうとした。
だが。
上手く笑えなかった。
リュウジは。
カイエの手元を見る。
紅茶の容器。
もう温かさは。
ほとんど残っていないはずだった。
それでも。
カイエは一口も飲んでいない。
「カイエ」
「はい」
「怒ったこと自体を謝る必要はない」
カイエの瞳が僅かに揺れる。
リュウジは。
静かに続ける。
「乗客を危険に晒した。指示を無視した。止めろと言われても続けた。その後で、客室乗務員のせいにした。怒るのは当然だ」
カイエは。
黙ってリュウジを見る。
「ただ」
リュウジは言葉を続ける。
「殴られる距離まで近づくな」
カイエの目が僅かに開く。
「相手が話を聞けない状態なら、距離を取れ、ミラとランを下げたのは正しい――でも、自分も下がれ。正しいことを言っていても、殴られたら終わりだ」
カイエは。
小さく頷く。
「はい」
「仲間を守ろうとして、自分が怪我をするな」
リュウジの声には。
叱責より。
心配が滲んでいた。
カイエの胸の奥へ。
その言葉がゆっくりと入る。
自分の怒りを。
否定されなかった。
内容を。
間違いだとも言われなかった。
ただ。
自分まで危険へ入るなと。
言われた。
「申し訳ありません、リュウジさん」
「だから、謝らなくていい」
「はい」
カイエは。
今度こそ。
紅茶を一口飲んだ。
すでに少し冷めている。
それでも。
喉を通る温かさが。
張り詰めていた身体を緩めた。
ミラが。
遠慮がちにリュウジへ尋ねる。
「ナッシュさんは、どうなるのでしょうか」
リュウジは。
屋上の向こうへ視線を向ける。
遠くを。
一隻の旅客船が通過していく。
「俺が決めることじゃない。タツヤ班長とエリンさんが戻ってからだ。機長の報告も必要になる」
ランが。
少し不安そうに言う。
「ナッシュさんは、総帥の息子です」
リュウジは。
迷わず答える。
「関係ない」
短い言葉。
だが。
はっきりしていた。
「乗客を乗せた船で、勝手なことをした。誰の息子でも同じだ。むしろ、止められなかった周りも問題だ」
カイエが尋ねる。
「リュウジさんからも、タツヤ班長へ報告されますか?」
「話す」
リュウジは頷いた。
「カイエの報告も残しておけ。客室側の乗務員全員から聞いた方がいい。乗客の体調記録も必要だ。操縦記録は消されないように、先に保全しておけ」
カイエの表情に。
少しだけ仕事の顔が戻る。
「承知しました。機長とナッシュの通信記録もですか?」
「全部だ」
「分かりました」
そこまで話したところで。
リュウジは。
コーヒーを持ったまま。
深く息を吐いた。
肩が。
僅かに下がる。
カイエは。
その変化に気づいた。
「リュウジさん?」
「何だ?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
答えは早い。
だが。
声が。
先ほどより少し掠れている。
カイエは。
リュウジの顔を見る。
近くで見るほど。
疲労が酷い。
目の下の影。
乾いた唇。
頬の痩せ。
フライトスーツには。
長期間着続けた跡が残っている。
コーヒーを持つ指も。
僅かに震えていた。
「未探索領域で、何があったんですか?」
カイエが尋ねる。
リュウジは。
遠くを見る。
「色々あった」
「それだけですか?」
「ああ」
カイエの眉が僅かに寄る。
明らかに。
話すつもりがない。
というより。
今。
説明するだけの余力がない。
ミラも心配そうに言う。
「少し休まれた方がいいのではありませんか?」
「報告が終わってない」
「ですが」
「大丈夫だ」
また。
同じ言葉。
ランが小さく呟く。
「大丈夫には見えません」
ミラがランを見る。
今度は。
注意しなかった。
自分も。
同じことを思っていたから。
リュウジは。
何か返そうとした。
だが。
その前に。
屋上へ続く扉が。
勢いよく開いた。
四人が振り返る。
扉の向こうから。
一人の女性が駆け込んでくる。
緑色の長い髪が。
走った勢いで大きく揺れている。
息を切らし。
肩を上下させ。
普段の落ち着いた姿からは。
想像できないほど急いでいる。
エリンだった。
宇宙連邦連盟から。
ドルトムントへ戻ったばかり。
会社の受付で。
リュウジが帰ってきたと聞き。
十四班のフロアへ向かった。
だが。
そこにいた乗務員から。
リュウジがカイエ達を連れて屋上へ行ったと聞き。
休む間もなく。
ここまで走ってきた。
エリンは。
屋上へ出た瞬間。
四人を探す。
そして。
ベンチへ座るリュウジを見つけた。
「リュウジ!」
いつもの柔らかな声ではない。
安堵と。
心配と。
怒りと。
全てが混ざった声。
リュウジは。
ゆっくりと顔を上げた。
緑色の髪。
見慣れた姿。
自分を真っ直ぐに見つめる瞳。
何日も。
聞くことのできなかった声。
「エリンさん」
リュウジの声が。
僅かに緩んだ。
カイエは。
その変化に気づいた。
先ほどまで。
ナッシュの件を聞いていた時は。
疲れていても。
背中に力が入っていた。
周囲を確認し。
必要な指示を考え。
自分が動こうとしていた。
だが。
エリンの姿を見た瞬間。
その力が。
目に見えて抜けた。
エリンは。
リュウジの前まで駆け寄る。
「どうして連絡しなかったの!」
息を切らしながら。
それでも。
最初に出たのは叱る言葉だった。
リュウジは。
少し申し訳なさそうに答える。
「すみません。携帯を調査船に忘れました」
「それはペルシアから聞いたわ」
エリンは。
リュウジの全身を見る。
傷。
汚れ。
顔色。
目の下の影。
少し痩せた身体。
見れば見るほど。
表情が曇っていく。
「調査船が宇宙管理局へ入ったことも、粉塵帯を突破したことも、何日も一人で操縦していたことも聞いた」
リュウジが。
僅かに視線を逸らす。
「ペルシアが話したんですか」
「全部ではないと思う」
エリンは。
リュウジの前へしゃがみ。
顔を下から覗き込む。
「顔を見れば、十分分かるわ」
リュウジは。
逃げるように。
コーヒーへ視線を落とす。
「先に報告を」
「報告は後」
「でも」
「後」
エリンの声が。
少し強くなる。
リュウジは。
それ以上言えなくなった。
エリンには。
昔から。
隠し切れない。
疲れている時。
無理をしている時。
何かを抱え込んでいる時。
本人が大丈夫だと言っても。
エリンは。
声。
目。
呼吸。
立ち方。
全てから気づいてしまう。
エリンは。
リュウジの持つコーヒーへ手を伸ばす。
「これ、いつ買ったの?」
「さっきです」
「ほとんど飲んでないでしょう」
「少し飲みました」
「食事は?」
リュウジは黙る。
エリンの目が細くなる。
「最後に食べたのはいつ?」
「調査船で」
「何時間前?」
リュウジは。
また答えない。
カイエ。
ミラ。
ラン。
三人は。
黙って二人を見ていた。
ナッシュを前にした時。
あれほど冷たく。
一歩も引かなかったリュウジが。
エリンの前では。
完全に押されている。
エリンは。
小さく息を吐いた。
怒りたい。
何日も連絡がなく。
宇宙連邦連盟で待ち続け。
調査船が来ないと知った時は。
胸が潰れそうだった。
ペルシアから。
リュウジが壊れかけた船を一人で操縦していたと聞き。
どれほど怖かったか。
直接言いたいことは。
いくらでもある。
だが。
今のリュウジへ。
全てをぶつけることはできなかった。
本当に。
限界まで疲れている。
エリンは。
声を少しだけ柔らかくする。
「帰ってきたのね」
リュウジが。
ゆっくりとエリンを見る。
「はい。ただいま、エリンさん」
その言葉を聞いた瞬間。
エリンの瞳が。
僅かに揺れた。
「おかえり、リュウジ」
ようやく。
言えた。
宇宙連邦連盟のエアポートで。
何度も。
頭の中で考えていた言葉。
無事に帰ってきたら。
最初に言おうと思っていた。
だが。
調査船は来なかった。
行き違いになり。
会社へ戻って。
やっと。
目の前で言えた。
リュウジは。
ほんの少し笑った。
弱い。
それでも。
安心した笑顔。
エリンが来た。
声を聞いた。
帰ってきたと。
自分の口で言えた。
それだけで。
張り詰め続けていたものが。
完全に緩んだ。
コーヒーを持っていた手が。
ゆっくりと下がる。
背中が。
ベンチの背もたれへ深く沈む。
瞼が。
一度。
ゆっくり閉じる。
すぐに開こうとする。
だが。
開かない。
エリンが気づく。
「リュウジ?」
返事がない。
リュウジの頭が。
僅かに横へ傾く。
身体が。
エリンの方へ崩れかける。
エリンは。
すぐに隣へ座り。
その身体を支えた。
リュウジの頭が。
エリンの肩へ乗る。
手から落ちかけたコーヒーを。
カイエが素早く受け取った。
「リュウジさん?」
カイエが呼ぶ。
返事はない。
だが。
呼吸は安定している。
意識を失ったのではない。
眠っている。
本当に。
糸が切れたように。
静かに。
深く。
エリンは。
リュウジの顔を横から見る。
眉間に入っていた力が。
抜けている。
呼吸も。
先ほどより深い。
肩へ預けられた身体は重い。
それでも。
エリンは動かなかった。
リュウジが目を覚まさないように。
姿勢を少しだけ整える。
「眠りました?」
ミラが。
小さな声で尋ねる。
エリンは。
リュウジの呼吸を確認しながら頷く。
「ええ。完全に寝てるわ」
ランが。
驚いたようにリュウジを見る。
「さっきまで普通に話していたのに」
「普通じゃなかったよ」
エリンは静かに答える。
「無理に話していただけ」
カイエは。
手に持ったリュウジのコーヒーを見る。
ほとんど減っていない。
温かいはずの飲み物も。
すでに少し冷め始めている。
リュウジは。
屋上へ来てからも。
自分の疲労より。
ナッシュのことを聞いた。
カイエが怪我をしていないかを確認し。
今後必要な記録について話し。
自分が動こうとしていた。
エリンが来るまでは。
眠ることさえ。
自分に許していなかった。
カイエは。
肩へ頭を預けて眠るリュウジを見つめる。
表情が。
先ほどまでとは。
まるで違う。
未探索領域から帰ったS級操縦士ではない。
ナッシュの拳を止めた十四班の仲間でもない。
ただ。
戻るべき相手のそばへ帰り。
ようやく休むことができた人。
カイエは。
小さく笑った。
「エリンさんが来て、安心したんですね」
エリンは。
眠るリュウジを見る。
否定しなかった。
リュウジの髪へ。
そっと手を添える。
乱れた髪を。
指で静かに整える。
「そうみたいね」
エリンの声には。
安堵と。
少しだけ困ったような優しさが混ざっていた。
「本当に、この人は、限界になるまで帰ってこないんだから」
ミラが。
小さな声で言う。
「エリンさんを待っていたのでしょうか」
「本人は、待ってないって言うと思うわ」
エリンは。
僅かに笑う。
「でも、私の顔を見た途端にこれでしょう」
ランも。
微笑みながら頷く。
「分かりやすいですね」
カイエは。
リュウジから預かったコーヒーを。
近くのテーブルへ置いた。
「私達が何を言っても、大丈夫だとしか言いませんでした」
「そうでしょうね」
エリンは。
呆れたように息を吐く。
「ペルシアにも同じことを言ったはずよ。歩ける、報告できる、問題ない、全部、自分の中だけで決めて、周りが止めても聞かない」
それでも。
エリンの手は。
リュウジの髪を優しく撫でていた。
「でも、今は寝かせてあげましょう」
「はい」
カイエが答える。
ミラとランも。
静かに頷いた。
屋上へ吹く風が。
少しだけ弱くなる。
遠くでは。
次の旅客船が。
ドルトムントのエアポートから出発していく。
十四班のフロアには。
まだナッシュの問題が残っている。
無断操縦。
乗客への影響。
機長の責任。
調査しなければならないことは。
いくつもある。
リュウジも。
宇宙管理局へ戻り。
メディカルチェックを受けなければならない。
未探索領域で起きたことも。
報告しなければならない。
それでも。
今だけは。
誰もリュウジを起こさなかった。
エリンの肩へ頭を預け。
深く眠っている。
何日も。
壊れた船の音を聞き。
僅かな振動へ神経を張り。
一人で操縦を続けていた。
その耳に。
今聞こえているのは。
風の音と。
十四班の仲間達の静かな声だけ。
エリンは。
眠るリュウジの背中へ腕を回し。
身体が傾かないように支えた。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「もう頑張らなくていいわ」
リュウジは。
眠ったまま。
ほんの僅かに。
エリンの方へ身体を寄せた。