サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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帰る場所

 

「仲間に何してるんだ?」

 

低く。

 

冷たい声だった。

 

ナッシュの拳を受け止めたリュウジは、その手首を掴んだまま動かなかった。

 

強く握り潰しているわけではない。

 

だが。

 

ナッシュが腕を引こうとしても、拳は少しも動かなかった。

 

調査船の操縦を終えたばかり。

 

何日もまともに眠らず。

 

歩いている途中で躓くほど疲れている。

 

それでも。

 

仲間へ向けられた拳を止める力だけは、少しも緩まなかった。

 

十四班のフロアは静まり返っていた。

 

ミラも。

 

ランも。

 

他の乗務員達も。

 

突然現れたリュウジを見つめている。

 

カイエも。

 

自分の目の前に立つ背中を見たまま、動けなかった。

 

間違いなく。

 

リュウジだった。

 

未探索領域へ向かった時より。

 

少し痩せている。

 

顔色も悪い。

 

制服ではなく、調査船で着ていたフライトスーツのまま。

 

袖や肩には擦れた跡があり。

 

長い航行の疲労が、全身へ残っている。

 

それでも。

 

ナッシュを見る目だけは。

 

鋭かった。

 

リュウジはナッシュの手首を掴んだまま。

 

その顔を正面から見る。

 

「お前は誰だ?」

 

声は低い。

 

怒鳴ってはいない。

 

だが。

 

ナッシュの名前を尋ねているというより。

 

なぜ十四班のフロアにいて。

 

なぜカイエへ拳を向けたのか。

 

その存在そのものを問いただしているような声だった。

 

ナッシュは。

 

一瞬、言葉を失った。

 

目の前にいる男。

 

総帥からも。

 

周囲の乗務員からも。

 

何度も名前を聞かされてきた。

 

比較され。

 

自分より上だと言われ。

 

十四班の基準として扱われている男。

 

だが。

 

直接顔を合わせるのは。

 

これが初めてだった。

 

周囲から。

 

遅れて声が上がる。

 

「リュウジさんが戻ってきた……」

 

一人の乗務員が呟く。

 

別の乗務員も。

 

驚いた声を漏らす。

 

「本当にリュウジさんだ」

 

「未探索領域から戻ったんじゃ」

 

「今日だったの?」

 

「調査船は連盟に入る予定だったはずじゃ」

 

小さな声が。

 

次々に広がる。

 

リュウジが戻った。

 

十四班へ。

 

何の連絡もなく。

 

突然。

 

ナッシュの拳を止める形で。

 

カイエは。

 

ようやく息を吐いた。

 

先ほどまで。

 

身体の中を満たしていた怒りが。

 

全て消えたわけではない。

 

だが。

 

リュウジの背中を見た瞬間。

 

張り詰めていたものが。

 

少しだけ緩んだ。

 

ナッシュは。

 

周囲の声を聞き。

 

目の前の男が誰なのかを理解する。

 

「お前が、S級の……」

 

小さな呟き。

 

その声には。

 

驚き。

 

警戒。

 

そして。

 

隠し切れない対抗心が混ざっていた。

 

リュウジは。

 

その続きを待たなかった。

 

ナッシュがS級という言葉を出しても。

 

表情は変わらない。

 

自分の等級を説明する気も。

 

名乗る気もない。

 

今。

 

重要なのは。

 

ナッシュが誰かではなく。

 

カイエへ拳を振り下ろそうとしたこと。

 

ただ。

 

それ以上。

 

この場で問い詰めることもしなかった。

 

リュウジは一度。

 

カイエを見る。

 

顔に怪我はない。

 

身体にも。

 

拳は届いていない。

 

ミラとランも。

 

近くにいる。

 

周囲の乗務員達にも。

 

目立った怪我はない。

 

そこまで確認すると。

 

ナッシュへ視線を戻す。

 

「まあいい」

 

リュウジは。

 

短く言った。

 

そして。

 

掴んでいたナッシュの手首を離した。

 

ナッシュは。

 

反射的に一歩下がる。

 

腕を押さえながら。

 

リュウジを睨む。

 

だが。

 

もう拳は上げなかった。

 

リュウジは。

 

そんなナッシュへ背を向けた。

 

完全に無視するように。

 

カイエを見る。

 

「カイエ、ついてこい」

 

突然。

 

名前を呼ばれたカイエは。

 

少し目を瞬く。

 

「はい、リュウジさん」

 

声は。

 

いつもの敬語へ戻っていた。

 

先ほど。

 

ナッシュへ向けていた鋭い口調は。

 

もうない。

 

リュウジは。

 

それ以上説明せず。

 

フロアの出口へ向かう。

 

歩き方は。

 

どこか重い。

 

だが。

 

止まらない。

 

カイエは。

 

すぐにその後を追う。

 

数歩進んだところで。

 

ミラがカイエを見る。

 

それから。

 

ランを見る。

 

ランも。

 

不安そうにカイエの背中を見ている。

 

二人は。

 

ほとんど同時に動いた。

 

「私達も行きます」

 

ミラが言う。

 

「うん。私も行く」

 

ランも続く。

 

ミラが小さく振り返る。

 

「ラン、リュウジさんには敬語」

 

「あ……私も行きます」

 

ランは慌てて言い直した。

 

リュウジは。

 

振り返らなかった。

 

止めもしない。

 

カイエ。

 

ミラ。

 

ラン。

 

三人は。

 

そのままリュウジの後を追った。

 

フロアに残されたナッシュは。

 

四人の背中を睨んでいた。

 

だが。

 

誰も。

 

ナッシュへ声をかけなかった。

 

同乗していた機長も。

 

他の乗務員達も。

 

ただ。

 

何も言えないまま。

 

リュウジ達が出ていった扉を見ていた。

 

 

リュウジが向かったのは。

 

ドルトムント財閥旅行会社の屋上だった。

 

十四班のフロアから。

 

専用エレベーターで数階上がる。

 

短い連絡通路。

 

その先に。

 

簡易休憩スペースがある。

 

屋上へ出る扉が開く。

 

柔らかな風。

 

人工天体の外周光。

 

遠くを行き交う旅客船。

 

地上とは違う。

 

薄く澄んだ空気。

 

屋上には。

 

いくつかのベンチ。

 

小さなテーブル。

 

飲み物の自動販売機。

 

最低限の休憩設備だけが置かれていた。

 

以前。

 

ペルシアも。

 

仕事から逃げるように。

 

カイエとミラを連れて来た場所。

 

フロアから離れ。

 

少しだけ息をつくための場所だった。

 

リュウジは。

 

屋上へ出ると。

 

すぐに自動販売機へ向かった。

 

カイエ達は。

 

少し離れたところで立ち止まる。

 

リュウジは販売機の表示を見る。

 

コーヒー。

 

茶。

 

炭酸飲料。

 

果汁飲料。

 

栄養補助飲料。

 

何を飲むか。

 

暫く迷うように画面を見ていたが。

 

結局。

 

温かいブラックコーヒーを選んだ。

 

決済音。

 

紙製のカップが出てくる。

 

リュウジは。

 

そのカップを取る。

 

一口飲む前に。

 

カイエ達を見る。

 

「何飲む?」

 

カイエが。

 

少し驚く。

 

「私達もですか?」

 

「ここまで連れてきたからな」

 

ミラは。

 

販売機の表示を見る。

 

「では、私はリンゴジュースをお願いします」

 

「私はオレンジがいいです」

 

ランも続く。

 

リュウジがカイエを見る。

 

「カイエは?」

 

カイエは。

 

一瞬迷う。

 

普段なら。

 

自分で買うと言うところ。

 

だが。

 

リュウジがすでに決済画面を開いている。

 

断る方が。

 

かえって長くなりそうだった。

 

「では、紅茶をお願いします」

 

「分かった」

 

リュウジは。

 

順番に購入する。

 

リンゴジュース。

 

オレンジジュース。

 

温かい紅茶。

 

それぞれの容器を取り出し。

 

三人へ渡す。

 

「ありがとうございます、リュウジさん」

 

カイエが受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

ミラも頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

ランも続いた。

 

リュウジは。

 

短く頷く。

 

「座るぞ」

 

屋上の端。

 

人工天体の光が見えるベンチ。

 

リュウジが。

 

そこへ腰を下ろす。

 

座った瞬間。

 

僅かに身体が沈む。

 

立っている時より。

 

明らかに疲労が見えた。

 

背もたれへ身体を預け。

 

コーヒーのカップを両手で持つ。

 

目を閉じるわけではない。

 

だが。

 

一度。

 

長く息を吐いた。

 

カイエは。

 

その様子を見て。

 

胸の奥に違和感を覚える。

 

いつものリュウジではない。

 

普段なら。

 

疲れていても。

 

姿勢を崩さない。

 

周囲を見て。

 

必要なことを先に確認する。

 

だが。

 

今は。

 

ベンチへ座っただけで。

 

少し安心したように見える。

 

未探索領域で。

 

何があったのか。

 

調査がなぜ中止になったのか。

 

予定より早く戻った理由。

 

何日も連絡がなかった理由。

 

聞きたいことは。

 

いくつもある。

 

それでも。

 

カイエは聞かなかった。

 

今。

 

先に話すべきことが。

 

別にある。

 

四人は。

 

同じベンチと。

 

向かいのベンチへ分かれて座った。

 

リュウジが中央。

 

隣にカイエ。

 

向かい側にミラとラン。

 

しばらく。

 

誰も話さなかった。

 

風の音。

 

遠くの船の推進音。

 

販売機の内部で。

 

次の商品を補充位置へ動かす小さな音。

 

リュウジは。

 

コーヒーを一口飲む。

 

味を確認するように。

 

少しだけ目を細める。

 

カイエは。

 

紅茶の容器を持ったまま。

 

俯いていた。

 

先ほどまで。

 

あれほど激しく怒っていた。

 

だが。

 

屋上へ来ると。

 

今度は。

 

自分がしたことを考え始めている。

 

ナッシュへ敬語を使わなかった。

 

声を荒げた。

 

十四班から出ていけと言った。

 

感情を。

 

乗務員のいるフロアで。

 

全てぶつけた。

 

間違ったことを言ったとは思わない。

 

それでも。

 

リュウジから。

 

何を言われるのか。

 

少し怖かった。

 

ミラとランも。

 

黙っている。

 

リュウジが。

 

カイエへ何を聞くのか。

 

二人も。

 

緊張していた。

 

だが。

 

カイエの中には。

 

もう一つ。

 

気になっていることがあった。

 

リュウジが。

 

ここにいる。

 

今日。

 

戻ってきた。

 

それなのに。

 

本来なら。

 

一番先にリュウジの近くにいるはずの人がいない。

 

カイエは。

 

小さく呟いた。

 

「エリンさんは……」

 

リュウジが。

 

コーヒーのカップから顔を上げる。

 

「エリンさん?」

 

本当に。

 

何も知らない顔だった。

 

カイエは。

 

少し目を瞬く。

 

「今日、リュウジさんが戻られるので、宇宙連邦連盟へ迎えに行ったんですけど」

 

リュウジの動きが止まる。

 

コーヒーを持った手。

 

視線。

 

僅かな呼吸。

 

全てが。

 

一瞬だけ止まった。

 

「連盟に?」

 

「はい」

 

カイエは頷く。

 

「宇宙連邦連盟のエアポートへ戻られる予定でしたよね。エリンさんは、朝から迎えに行かれました。何日も連絡がなかったので、かなり心配されていました」

 

リュウジは。

 

少しだけ顔を伏せる。

 

調査船の収容先。

 

当初。

 

宇宙連邦連盟。

 

途中で。

 

宇宙管理局へ変更。

 

その変更を。

 

ドルトムント側へ自分から連絡していない。

 

そもそも。

 

連絡する余裕がなかった。

 

端末も。

 

調査船へ置いたまま。

 

エリンが。

 

最初の予定を信じて。

 

宇宙連邦連盟へ向かっていた。

 

自分は。

 

宇宙管理局から。

 

直接ドルトムントへ戻った。

 

完全な行き違い。

 

リュウジは。

 

静かに呟く。

 

「行き違いになった」

 

カイエは。

 

少し心配そうにリュウジを見る。

 

「電話してあげてください」

 

リュウジは。

 

無意識に。

 

フライトスーツのポケットへ手を入れる。

 

右。

 

ない。

 

左。

 

ない。

 

胸元。

 

ない。

 

そこで。

 

ようやく思い出した。

 

調査船を降りる時。

 

医療班から。

 

身につけていた装備だけを返された。

 

端末は。

 

操縦席の脇。

 

補助コンソールの近くへ置いたまま。

 

持ってきていない。

 

リュウジは。

 

少しだけ眉を寄せる。

 

「携帯を忘れてきたらしい」

 

カイエは。

 

一瞬。

 

真顔でリュウジを見る。

 

それから。

 

思わず小さく笑った。

 

「リュウジさんらしいですね」

 

先ほどまでの。

 

張り詰めた表情。

 

怒り。

 

悔しさ。

 

その全てが。

 

ほんの少しだけ緩む。

 

ミラも。

 

口元へ手を添える。

 

「調査船に置いてこられたのですか?」

 

「たぶん」

 

リュウジが答える。

 

ランも。

 

少しだけ笑う。

 

「戻ってきたのに、携帯は戻ってないんですね」

 

ミラが。

 

すぐにランを見る。

 

「ラン、言い方」

 

「あ、ごめん。でも、本当だから」

 

「リュウジさんに失礼でしょう」

 

リュウジは。

 

二人のやり取りを見ながら。

 

小さく息を吐く。

 

少しだけ。

 

いつもの十四班へ戻ったような空気。

 

それでも。

 

エリンが連盟で待っていることを考えると。

 

そのままにはできない。

 

「会社の端末から連絡する」

 

リュウジは言った。

 

「話が終わったらな」

 

カイエは。

 

少し目を伏せる。

 

話。

 

それが。

 

何を指しているのか。

 

分かっている。

 

リュウジは。

 

コーヒーをもう一口飲む。

 

それから。

 

カイエを見る。

 

先ほどまで。

 

ナッシュへ怒鳴っていたカイエ。

 

普段は。

 

何があっても。

 

声を荒げることは少ない。

 

冷静に。

 

事実を並べ。

 

必要なことを正確に伝える。

 

そのカイエが。

 

本気で怒っていた。

 

しかも。

 

相手へ敬語を使うことさえやめていた。

 

そこまでのことが。

 

今日。

 

起きた。

 

リュウジは。

 

責めるような声を出さない。

 

カイエが怒ったことを。

 

先に問題にもしない。

 

ただ。

 

何があったのか。

 

全てを聞くために。

 

低く尋ねた。

 

「それで、何があったんだ?」

 

リュウジの問いに。

 

カイエは、両手で持っていた紅茶へ視線を落とした。

 

屋上を吹き抜ける風が。

 

長い黒髪を静かに揺らす。

 

先ほどまで。

 

ナッシュに対して、感情のまま声を荒らげていた。

 

十四班から出ていけとまで言った。

 

だが。

 

リュウジを前にすると。

 

どこから話せばいいのか分からなくなる。

 

無断で自動操縦を切ったこと。

 

客室が激しく揺れたこと。

 

乗客が飲み物をこぼし。

 

何人も酔いを訴え。

 

子ども達が泣き続けたこと。

 

それでもナッシュが。

 

自分の責任を認めなかったこと。

 

そして。

 

最後には。

 

客室乗務員を見下すような言葉を口にしたこと。

 

全てを説明しようとすれば。

 

先ほどの怒りが。

 

また戻ってきそうだった。

 

リュウジは。

 

急かさなかった。

 

コーヒーを一口飲み。

 

カイエが話し始めるのを待っている。

 

ミラとランも。

 

向かいのベンチで黙っていた。

 

やがて。

 

カイエは小さく息を吸った。

 

「今日の午前便には、本来、タツヤ班長も同行される予定でした」

 

リュウジが頷く。

 

「あいつの監督か?」

 

「はい。ですが、ユイちゃんが熱を出したため、タツヤ班長は急遽お休みになりました」

 

リュウジの表情が僅かに変わる。

 

「ユイが?」

 

「朝から熱が高かったそうです。エリンさんからも、今日はそばにいてあげるようにとお伝えしていました」

 

「そうか」

 

リュウジは。

 

ユイの顔を思い浮かべるように、少しだけ目を伏せた。

 

「それで、代わりの操縦士が付いたのか?」

 

「正規の機長はいました。ただ、ナッシュは操縦をしないよう、タツヤ班長から明確に指示を受けていました」

 

カイエは続ける。

 

「タツヤ班長が同行できなくなった時点で、今日は操縦席に座って見学するだけにするよう言われていました。機長に勧められても、断るようにとも」

 

リュウジの指が。

 

コーヒーの容器をゆっくりとなぞる。

 

「それでも操縦したのか」

 

「はい」

 

カイエの声が。

 

僅かに硬くなる。

 

「同乗した機長が、ナッシュに必要以上に気を遣っていました。総帥の御子息という立場を意識して、ナッシュが操縦したいと言った時に止めなかったんです。ナッシュは巡航中、自動操縦を勝手に解除しました。客室への事前連絡もありませんでした」

 

リュウジは。

 

何も挟まずに聞いている。

 

だが。

 

先ほどまでより。

 

目が少しだけ鋭くなっていた。

 

「最初は小さな揺れでした」

 

カイエは。

 

記憶を順番に辿る。

 

「自動操縦の補正とは違う、不規則な揺れでした。客室から確認を入れたところ、ナッシュが操縦していることが分かりました。すぐに自動操縦へ戻すよう伝えましたが、ナッシュは問題ないと言って、通信を切りました」

 

リュウジが低く尋ねる。

 

「客室から戻せと言われた後も続けたのか?」

 

「はい」

 

カイエは頷いた。

 

「その後、横からの粒子風に対して入力を大きくしたようです。船体が左右へ激しく振られました」

 

紅茶の容器を握る指へ。

 

力が入る。

 

「テーブルの上にあった飲み物がこぼれました。トレーも落ちました。子どもが泣き出して、酔いを訴える方も出ました。通路にいた乗務員が、座席へ身体をぶつけました。幸い、怪我として申告するほどではありませんでしたが……」

 

カイエは一度。

 

言葉を止めた。

 

リュウジは。

 

カイエの顔を見ている。

 

「怪我人がいなかっただけか」

 

カイエが。

 

静かに頷く。

 

「はい」

 

その一言で。

 

カイエの中にあったものを。

 

リュウジは正確に理解した。

 

事故が起きなかった。

 

だから問題はない。

 

そうではない。

 

乗務員達が。

 

事故へ発展させなかった。

 

乗客を座らせ。

 

揺れに耐え。

 

体調不良者を支え。

 

散乱する物を押さえ。

 

必死に守った。

 

結果として。

 

大きな怪我が出なかっただけ。

 

「自動操縦に戻ったのは、いつだ?」

 

リュウジが尋ねる。

 

「客室から何度も要請した後です。機長は戻そうとしていましたが、ナッシュが自分で安定させると言って、すぐには応じませんでした。その間に、さらに大きな揺れがありました」

 

リュウジは。

 

コーヒーを口へ運びかけ。

 

途中で止めた。

 

「機長も止められなかったのか」

 

「はい」

 

 

リュウジは。

 

短く息を吐いた。

 

怒鳴らない。

 

機長を罵ることもしない。

 

ただ。

 

その沈黙に。

 

強い失望が混ざっていた。

 

「それで、戻ってから話したのか」

 

「はい」

 

カイエは。

 

今度は少し顔を伏せる。

 

「最初は、いつもどおり話すつもりでした。何が問題だったのか、記録に沿って確認しました。落ち着いて、伝えていました」

 

ミラが。

 

小さく頷く。

 

「最初は、本当に冷静でした」

 

ランも続ける。

 

「カイエさんは、声を荒らげていませんでした。ナッシュさんが操縦した理由を聞いて、乗客の状況を説明していました」

 

カイエは。

 

二人へ一度だけ視線を向けた。

 

それから。

 

リュウジへ戻す。

 

「ですが、ナッシュは事故が起きていないと言いました。怪我人もいないから、問題ではないと」

 

リュウジの目が細くなる。

 

「それだけじゃないな」

 

カイエは。

 

唇を僅かに結んだ。

 

本当に自分が怒ったのは。

 

無断操縦だけではない。

 

失敗を認めなかったことだけでもない。

 

「客室側が早く対応していれば、被害は少なかったと言いました」

 

リュウジの表情が。

 

静かに消える。

 

カイエは続ける。

 

「乗務員なら、揺れくらい自分達で対応しろと、客室乗務員が乗客へ謝罪し、酔った方を支え、泣いている子どもを落ち着かせたことも、仕事をしただけだと言いました」

 

風の音だけが。

 

四人の間を通り抜ける。

 

リュウジは。

 

暫く何も言わなかった。

 

怒りを抑えているというより。

 

一つずつ。

 

言葉の意味を確認しているようだった。

 

「それで、敬語をやめたのか」

 

カイエは。

 

少しだけ身体を固くする。

 

「はい。申し訳ありません」

 

リュウジがカイエを見る。

 

「何で謝る?」

 

カイエは。

 

予想していなかった言葉に目を上げた。

 

「十四班のフロアで声を荒らげました。他の乗務員もいる前で、ナッシュに出ていけとまで言いました。感情的になってしまいました」

 

リュウジは。

 

すぐには答えない。

 

カイエは続ける。

 

「指摘の内容が間違っているとは思っていません。ですが、言い方は正しくなかったかもしれません。ミラとランにも心配をかけました」

 

ミラがすぐに首を横へ振る。

 

「私は、カイエさんが悪いとは思いません」

 

ランも強く頷く。

 

「私もです。ナッシュさんの言い方は酷かったです」

 

カイエは。

 

二人へ小さく笑おうとした。

 

だが。

 

上手く笑えなかった。

 

リュウジは。

 

カイエの手元を見る。

 

紅茶の容器。

 

もう温かさは。

 

ほとんど残っていないはずだった。

 

それでも。

 

カイエは一口も飲んでいない。

 

「カイエ」

 

「はい」

 

「怒ったこと自体を謝る必要はない」

 

カイエの瞳が僅かに揺れる。

 

リュウジは。

 

静かに続ける。

 

「乗客を危険に晒した。指示を無視した。止めろと言われても続けた。その後で、客室乗務員のせいにした。怒るのは当然だ」

 

カイエは。

 

黙ってリュウジを見る。

 

「ただ」

 

リュウジは言葉を続ける。

 

「殴られる距離まで近づくな」

 

カイエの目が僅かに開く。

 

「相手が話を聞けない状態なら、距離を取れ、ミラとランを下げたのは正しい――でも、自分も下がれ。正しいことを言っていても、殴られたら終わりだ」

 

カイエは。

 

小さく頷く。

 

「はい」

 

「仲間を守ろうとして、自分が怪我をするな」

 

リュウジの声には。

 

叱責より。

 

心配が滲んでいた。

 

カイエの胸の奥へ。

 

その言葉がゆっくりと入る。

 

自分の怒りを。

 

否定されなかった。

 

内容を。

 

間違いだとも言われなかった。

 

ただ。

 

自分まで危険へ入るなと。

 

言われた。

 

「申し訳ありません、リュウジさん」

 

「だから、謝らなくていい」

 

「はい」

 

カイエは。

 

今度こそ。

 

紅茶を一口飲んだ。

 

すでに少し冷めている。

 

それでも。

 

喉を通る温かさが。

 

張り詰めていた身体を緩めた。

 

ミラが。

 

遠慮がちにリュウジへ尋ねる。

 

「ナッシュさんは、どうなるのでしょうか」

 

リュウジは。

 

屋上の向こうへ視線を向ける。

 

遠くを。

 

一隻の旅客船が通過していく。

 

「俺が決めることじゃない。タツヤ班長とエリンさんが戻ってからだ。機長の報告も必要になる」

 

ランが。

 

少し不安そうに言う。

 

「ナッシュさんは、総帥の息子です」

 

リュウジは。

 

迷わず答える。

 

「関係ない」

 

短い言葉。

 

だが。

 

はっきりしていた。

 

「乗客を乗せた船で、勝手なことをした。誰の息子でも同じだ。むしろ、止められなかった周りも問題だ」

 

カイエが尋ねる。

 

「リュウジさんからも、タツヤ班長へ報告されますか?」

 

「話す」

 

リュウジは頷いた。

 

「カイエの報告も残しておけ。客室側の乗務員全員から聞いた方がいい。乗客の体調記録も必要だ。操縦記録は消されないように、先に保全しておけ」

 

カイエの表情に。

 

少しだけ仕事の顔が戻る。

 

「承知しました。機長とナッシュの通信記録もですか?」

 

「全部だ」

 

「分かりました」

 

そこまで話したところで。

 

リュウジは。

 

コーヒーを持ったまま。

 

深く息を吐いた。

 

肩が。

 

僅かに下がる。

 

カイエは。

 

その変化に気づいた。

 

「リュウジさん?」

 

「何だ?」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ」

 

答えは早い。

 

だが。

 

声が。

 

先ほどより少し掠れている。

 

カイエは。

 

リュウジの顔を見る。

 

近くで見るほど。

 

疲労が酷い。

 

目の下の影。

 

乾いた唇。

 

頬の痩せ。

 

フライトスーツには。

 

長期間着続けた跡が残っている。

 

コーヒーを持つ指も。

 

僅かに震えていた。

 

「未探索領域で、何があったんですか?」

 

カイエが尋ねる。

 

リュウジは。

 

遠くを見る。

 

「色々あった」

 

「それだけですか?」

 

「ああ」

 

カイエの眉が僅かに寄る。

 

明らかに。

 

話すつもりがない。

 

というより。

 

今。

 

説明するだけの余力がない。

 

ミラも心配そうに言う。

 

「少し休まれた方がいいのではありませんか?」

 

「報告が終わってない」

 

「ですが」

 

「大丈夫だ」

 

また。

 

同じ言葉。

 

ランが小さく呟く。

 

「大丈夫には見えません」

 

ミラがランを見る。

 

今度は。

 

注意しなかった。

 

自分も。

 

同じことを思っていたから。

 

リュウジは。

 

何か返そうとした。

 

だが。

 

その前に。

 

屋上へ続く扉が。

 

勢いよく開いた。

 

四人が振り返る。

 

扉の向こうから。

 

一人の女性が駆け込んでくる。

 

緑色の長い髪が。

 

走った勢いで大きく揺れている。

 

息を切らし。

 

肩を上下させ。

 

普段の落ち着いた姿からは。

 

想像できないほど急いでいる。

 

エリンだった。

 

宇宙連邦連盟から。

 

ドルトムントへ戻ったばかり。

 

会社の受付で。

 

リュウジが帰ってきたと聞き。

 

十四班のフロアへ向かった。

 

だが。

 

そこにいた乗務員から。

 

リュウジがカイエ達を連れて屋上へ行ったと聞き。

 

休む間もなく。

 

ここまで走ってきた。

 

エリンは。

 

屋上へ出た瞬間。

 

四人を探す。

 

そして。

 

ベンチへ座るリュウジを見つけた。

 

「リュウジ!」

 

いつもの柔らかな声ではない。

 

安堵と。

 

心配と。

 

怒りと。

 

全てが混ざった声。

 

リュウジは。

 

ゆっくりと顔を上げた。

 

緑色の髪。

 

見慣れた姿。

 

自分を真っ直ぐに見つめる瞳。

 

何日も。

 

聞くことのできなかった声。

 

「エリンさん」

 

リュウジの声が。

 

僅かに緩んだ。

 

カイエは。

 

その変化に気づいた。

 

先ほどまで。

 

ナッシュの件を聞いていた時は。

 

疲れていても。

 

背中に力が入っていた。

 

周囲を確認し。

 

必要な指示を考え。

 

自分が動こうとしていた。

 

だが。

 

エリンの姿を見た瞬間。

 

その力が。

 

目に見えて抜けた。

 

エリンは。

 

リュウジの前まで駆け寄る。

 

「どうして連絡しなかったの!」

 

息を切らしながら。

 

それでも。

 

最初に出たのは叱る言葉だった。

 

リュウジは。

 

少し申し訳なさそうに答える。

 

「すみません。携帯を調査船に忘れました」

 

「それはペルシアから聞いたわ」

 

エリンは。

 

リュウジの全身を見る。

 

傷。

 

汚れ。

 

顔色。

 

目の下の影。

 

少し痩せた身体。

 

見れば見るほど。

 

表情が曇っていく。

 

「調査船が宇宙管理局へ入ったことも、粉塵帯を突破したことも、何日も一人で操縦していたことも聞いた」

 

リュウジが。

 

僅かに視線を逸らす。

 

「ペルシアが話したんですか」

 

「全部ではないと思う」

 

エリンは。

 

リュウジの前へしゃがみ。

 

顔を下から覗き込む。

 

「顔を見れば、十分分かるわ」

 

リュウジは。

 

逃げるように。

 

コーヒーへ視線を落とす。

 

「先に報告を」

 

「報告は後」

 

「でも」

 

「後」

 

エリンの声が。

 

少し強くなる。

 

リュウジは。

 

それ以上言えなくなった。

 

エリンには。

 

昔から。

 

隠し切れない。

 

疲れている時。

 

無理をしている時。

 

何かを抱え込んでいる時。

 

本人が大丈夫だと言っても。

 

エリンは。

 

声。

 

目。

 

呼吸。

 

立ち方。

 

全てから気づいてしまう。

 

エリンは。

 

リュウジの持つコーヒーへ手を伸ばす。

 

「これ、いつ買ったの?」

 

「さっきです」

 

「ほとんど飲んでないでしょう」

 

「少し飲みました」

 

「食事は?」

 

リュウジは黙る。

 

エリンの目が細くなる。

 

「最後に食べたのはいつ?」

 

「調査船で」

 

「何時間前?」

 

リュウジは。

 

また答えない。

 

カイエ。

 

ミラ。

 

ラン。

 

三人は。

 

黙って二人を見ていた。

 

ナッシュを前にした時。

 

あれほど冷たく。

 

一歩も引かなかったリュウジが。

 

エリンの前では。

 

完全に押されている。

 

エリンは。

 

小さく息を吐いた。

 

怒りたい。

 

何日も連絡がなく。

 

宇宙連邦連盟で待ち続け。

 

調査船が来ないと知った時は。

 

胸が潰れそうだった。

 

ペルシアから。

 

リュウジが壊れかけた船を一人で操縦していたと聞き。

 

どれほど怖かったか。

 

直接言いたいことは。

 

いくらでもある。

 

だが。

 

今のリュウジへ。

 

全てをぶつけることはできなかった。

 

本当に。

 

限界まで疲れている。

 

エリンは。

 

声を少しだけ柔らかくする。

 

「帰ってきたのね」

 

リュウジが。

 

ゆっくりとエリンを見る。

 

「はい。ただいま、エリンさん」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

エリンの瞳が。

 

僅かに揺れた。

 

「おかえり、リュウジ」

 

ようやく。

 

言えた。

 

宇宙連邦連盟のエアポートで。

 

何度も。

 

頭の中で考えていた言葉。

 

無事に帰ってきたら。

 

最初に言おうと思っていた。

 

だが。

 

調査船は来なかった。

 

行き違いになり。

 

会社へ戻って。

 

やっと。

 

目の前で言えた。

 

リュウジは。

 

ほんの少し笑った。

 

弱い。

 

それでも。

 

安心した笑顔。

 

エリンが来た。

 

声を聞いた。

 

帰ってきたと。

 

自分の口で言えた。

 

それだけで。

 

張り詰め続けていたものが。

 

完全に緩んだ。

 

コーヒーを持っていた手が。

 

ゆっくりと下がる。

 

背中が。

 

ベンチの背もたれへ深く沈む。

 

瞼が。

 

一度。

 

ゆっくり閉じる。

 

すぐに開こうとする。

 

だが。

 

開かない。

 

エリンが気づく。

 

「リュウジ?」

 

返事がない。

 

リュウジの頭が。

 

僅かに横へ傾く。

 

身体が。

 

エリンの方へ崩れかける。

 

エリンは。

 

すぐに隣へ座り。

 

その身体を支えた。

 

リュウジの頭が。

 

エリンの肩へ乗る。

 

手から落ちかけたコーヒーを。

 

カイエが素早く受け取った。

 

「リュウジさん?」

 

カイエが呼ぶ。

 

返事はない。

 

だが。

 

呼吸は安定している。

 

意識を失ったのではない。

 

眠っている。

 

本当に。

 

糸が切れたように。

 

静かに。

 

深く。

 

エリンは。

 

リュウジの顔を横から見る。

 

眉間に入っていた力が。

 

抜けている。

 

呼吸も。

 

先ほどより深い。

 

肩へ預けられた身体は重い。

 

それでも。

 

エリンは動かなかった。

 

リュウジが目を覚まさないように。

 

姿勢を少しだけ整える。

 

「眠りました?」

 

ミラが。

 

小さな声で尋ねる。

 

エリンは。

 

リュウジの呼吸を確認しながら頷く。

 

「ええ。完全に寝てるわ」

 

ランが。

 

驚いたようにリュウジを見る。

 

「さっきまで普通に話していたのに」

 

「普通じゃなかったよ」

 

エリンは静かに答える。

 

「無理に話していただけ」

 

カイエは。

 

手に持ったリュウジのコーヒーを見る。

 

ほとんど減っていない。

 

温かいはずの飲み物も。

 

すでに少し冷め始めている。

 

リュウジは。

 

屋上へ来てからも。

 

自分の疲労より。

 

ナッシュのことを聞いた。

 

カイエが怪我をしていないかを確認し。

 

今後必要な記録について話し。

 

自分が動こうとしていた。

 

エリンが来るまでは。

 

眠ることさえ。

 

自分に許していなかった。

 

カイエは。

 

肩へ頭を預けて眠るリュウジを見つめる。

 

表情が。

 

先ほどまでとは。

 

まるで違う。

 

未探索領域から帰ったS級操縦士ではない。

 

ナッシュの拳を止めた十四班の仲間でもない。

 

ただ。

 

戻るべき相手のそばへ帰り。

 

ようやく休むことができた人。

 

カイエは。

 

小さく笑った。

 

「エリンさんが来て、安心したんですね」

 

エリンは。

 

眠るリュウジを見る。

 

否定しなかった。

 

リュウジの髪へ。

 

そっと手を添える。

 

乱れた髪を。

 

指で静かに整える。

 

「そうみたいね」

 

エリンの声には。

 

安堵と。

 

少しだけ困ったような優しさが混ざっていた。

 

「本当に、この人は、限界になるまで帰ってこないんだから」

 

ミラが。

 

小さな声で言う。

 

「エリンさんを待っていたのでしょうか」

 

「本人は、待ってないって言うと思うわ」

 

エリンは。

 

僅かに笑う。

 

「でも、私の顔を見た途端にこれでしょう」

 

ランも。

 

微笑みながら頷く。

 

「分かりやすいですね」

 

カイエは。

 

リュウジから預かったコーヒーを。

 

近くのテーブルへ置いた。

 

「私達が何を言っても、大丈夫だとしか言いませんでした」

 

「そうでしょうね」

 

エリンは。

 

呆れたように息を吐く。

 

「ペルシアにも同じことを言ったはずよ。歩ける、報告できる、問題ない、全部、自分の中だけで決めて、周りが止めても聞かない」

 

それでも。

 

エリンの手は。

 

リュウジの髪を優しく撫でていた。

 

「でも、今は寝かせてあげましょう」

 

「はい」

 

カイエが答える。

 

ミラとランも。

 

静かに頷いた。

 

屋上へ吹く風が。

 

少しだけ弱くなる。

 

遠くでは。

 

次の旅客船が。

 

ドルトムントのエアポートから出発していく。

 

十四班のフロアには。

 

まだナッシュの問題が残っている。

 

無断操縦。

 

乗客への影響。

 

機長の責任。

 

調査しなければならないことは。

 

いくつもある。

 

リュウジも。

 

宇宙管理局へ戻り。

 

メディカルチェックを受けなければならない。

 

未探索領域で起きたことも。

 

報告しなければならない。

 

それでも。

 

今だけは。

 

誰もリュウジを起こさなかった。

 

エリンの肩へ頭を預け。

 

深く眠っている。

 

何日も。

 

壊れた船の音を聞き。

 

僅かな振動へ神経を張り。

 

一人で操縦を続けていた。

 

その耳に。

 

今聞こえているのは。

 

風の音と。

 

十四班の仲間達の静かな声だけ。

 

エリンは。

 

眠るリュウジの背中へ腕を回し。

 

身体が傾かないように支えた。

 

そして。

 

誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 

「もう頑張らなくていいわ」

 

リュウジは。

 

眠ったまま。

 

ほんの僅かに。

 

エリンの方へ身体を寄せた。

 

 

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