サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

95 / 99
捕獲完了

 

屋上には。

 

穏やかな風が流れていた。

 

遠くでは。

 

ドルトムントのエアポートを離れた旅客船が、ゆっくりと航路へ入っていく。

 

その推進光が。

 

人工天体の淡い光の中へ溶けていった。

 

ベンチでは。

 

リュウジがエリンの肩へ頭を預けたまま、深く眠っている。

 

呼吸は静かで。

 

先ほどまでの張り詰めた表情も、今は消えていた。

 

眉間に残っていた僅かな皺もなく。

 

力の抜けた横顔は。

 

普段のリュウジより、どこか幼く見える。

 

カイエは。

 

テーブルへ置いたリュウジのコーヒーから視線を移し、その寝顔を見つめた。

 

屋上へ来てから。

 

リュウジは何度も大丈夫だと言った。

 

顔色が悪くても。

 

手が僅かに震えていても。

 

座っているだけで辛そうに見えても。

 

何でもないように振る舞い。

 

自分のことより先に、カイエ達の話を聞こうとした。

 

だが。

 

エリンが現れた途端。

 

それまで保っていたものが切れたように眠ってしまった。

 

カイエは。

 

声を抑えて呟いた。

 

「本当に、大変だったんですね」

 

ミラも。

 

リュウジを起こさないよう、小さな声で答える。

 

「はい。戻られた時から、顔色が良くありませんでした」

 

ランは。

 

眠るリュウジの手元を見る。

 

操縦桿を握り続けた影響なのか。

 

指には細かな傷が残っている。

 

手の甲にも。

 

手首にも。

 

新しい擦れた跡があった。

 

「手も傷だらけです」

 

ランの言葉に。

 

エリンもリュウジの手へ目を向ける。

 

眠っている今は。

 

普段なら何気なく隠してしまうような小さな傷まで。

 

全て見えていた。

 

エリンは。

 

リュウジの身体が傾かないように肩で支えながら、そっとその手へ触れた。

 

指先。

 

掌。

 

手の甲。

 

新しい傷がいくつもある。

 

操縦席で身体を支えた時についたものなのか。

 

揺れる船内で、何かを掴んだ時についたものなのか。

 

一つ一つの理由までは分からない。

 

ただ。

 

決して平穏な航行ではなかったことだけは分かる。

 

エリンが指先を重ねた時。

 

眠っているリュウジの指が。

 

僅かに動いた。

 

無意識のまま。

 

エリンの指を確かめるように触れ。

 

そのまま緩く握った。

 

「……え?」

 

エリンの肩が。

 

小さく跳ねた。

 

リュウジは目を覚まさない。

 

ただ。

 

眠ったまま。

 

エリンの指を掴んでいる。

 

強くはない。

 

離そうと思えば。

 

すぐに離せる程度。

 

それでも。

 

自分から触れてきたことに。

 

エリンの頬へ、じわりと熱が集まった。

 

カイエが。

 

その様子に気づく。

 

「エリンさん?」

 

「な、何?」

 

返事が。

 

僅かに上ずった。

 

ミラとランも。

 

エリンの手元を見る。

 

リュウジの指が。

 

エリンの指へ重なっている。

 

エリンは。

 

慌てて説明する。

 

「違うのよ」

 

「何も申し上げていませんが……」

 

ミラが答える。

 

「寝ている間に、リュウジが勝手に掴んだだけだから」

 

「はい」

 

カイエは素直に頷いた。

 

だが。

 

口元には。

 

僅かな笑みが浮かんでいる。

 

ランも。

 

同じように二人の手を見ていた。

 

エリンは。

 

さらに頬を赤くする。

 

「そんなに見ないで」

 

「申し訳ありません」

 

カイエは謝ったが。

 

視線を逸らす前に。

 

もう一度だけ。

 

二人の手を見た。

 

リュウジは。

 

変わらず深く眠っている。

 

エリンの指を掴んだことで。

 

先ほどよりも。

 

僅かに表情が穏やかになったように見えた。

 

エリンは。

 

手を引こうとした。

 

だが。

 

リュウジの指が離れかけた瞬間。

 

眉が僅かに寄った。

 

何かを失いかけたように。

 

眠ったまま。

 

指先がエリンを探す。

 

その仕草を見て。

 

エリンの手が止まった。

 

「……もう」

 

小さく呟く。

 

困っているような声。

 

それでも。

 

今度は手を引かなかった。

 

リュウジが安心して眠れるなら。

 

しばらくこのままでいい。

 

そう自分へ言い聞かせる。

 

ただ。

 

三人に見られていることを意識すると。

 

頬の熱は、なかなか引かなかった。

 

カイエが。

 

穏やかに言う。

 

「やはり、エリンさんが来られて安心したんですね」

 

エリンは。

 

すぐには答えなかった。

 

肩へ預けられた重み。

 

指へ伝わる僅かな温度。

 

規則正しい呼吸。

 

どれも。

 

リュウジが本当に帰ってきたことを伝えている。

 

「……そうみたいね」

 

エリンは。

 

照れを隠すように。

 

少しだけ顔を横へ向けた。

 

「私達が何を言っても、大丈夫としかおっしゃいませんでした」

 

カイエが続ける。

 

「未探索領域で何があったのか尋ねても、色々あったとしか教えてくださいませんでした」

 

エリンは。

 

眠るリュウジの横顔を見る。

 

「リュウジらしいわね」

 

「はい」

 

「自分が辛かったことは、簡単には話さないから」

 

エリンは。

 

ペルシアから聞いた話を思い出す。

 

宇宙連邦連盟のエアポートで。

 

調査船が来ないと知らされ。

 

何が起きているのか分からないまま待っていた時。

 

ペルシアから届いた連絡。

 

リュウジが無事だと聞いた時の安堵。

 

そして。

 

その後に聞かされた。

 

帰還までの経緯。

 

「ペルシアから聞いたの」

 

エリンが静かに話し始める。

 

カイエ達が。

 

揃ってエリンを見る。

 

「調査船は、北部未探索領域で大きな損傷を受けたそうよ。最初に護衛艦二隻が損傷して、調査を続けられなくなったの」

 

カイエの表情が僅かに曇る。

 

「それで、予定より早く調査が中止になったのですね」

 

「ええ」

 

エリンは頷く。

 

「でも、調査を中止したからといって、すぐに戻れたわけではなかった。調査船の主推進器を支える部分が壊れかけていて、通常の出力を出せなかったそうよ。少しでも無理をすれば、推進器が船体から外れる可能性があったって」

 

ミラが息を呑む。

 

「推進器が外れる……」

 

「そうなったら、航行できないだけでは済まなかったと思う」

 

エリンは。

 

リュウジの手を包むように持ったまま続ける。

 

「船体そのものも、大きく破損していた。外側の装甲が剥がれて、観測装置や通信設備もほとんど壊れていたそうよ。その船の操縦を、リュウジが引き受けた」

 

ランが。

 

信じられないように尋ねる。

 

「他の操縦士はいなかったのですか?」

 

「いたと思うわ」

 

「でも、あの状態の船を動かせる人が、リュウジしかいなかったみたい」

 

エリンは。

 

ペルシアの言葉を思い出しながら話す。

 

壊れかけた調査船。

 

出力を上げられない主推進器。

 

僅かな振動の変化。

 

計器だけでは判断できない船体の状態。

 

リュウジは。

 

その全てを感じながら。

 

何日も操縦を続けた。

 

「普通の状態なら、計器を見ながら正しい操作をすれば船は動かせる。でも、あの調査船は違った。計器が示す数字だけでは、船体が次にどう動くか分からなかったそうよ。リュウジは、船の音や振動を感じながら操縦していたって、ペルシアが言ってた」

 

カイエは。

 

その言葉へ強く反応した。

 

以前。

 

リュウジから操縦を教わった時。

 

似たようなことを言われた。

 

計器を見るだけではない。

 

船が何を嫌がっているのか。

 

どちらへ動こうとしているのか。

 

操縦桿から伝わる反応を感じる。

 

それは。

 

カイエがリュウジの操縦へ触れた時から、何度も聞いてきた考え方だった。

 

「リュウジさんは、ずっと船の状態を感じ続けていたんですね」

 

「そうだと思う」

 

エリンの声が。

 

少しだけ苦しくなる。

 

「何日も‥‥ほとんど眠らずに」

 

ミラの目が大きくなる。

 

「ほとんど眠っていなかったのですか?」

 

「ペルシアが、途中で少しだけ眠らせたって言ってた。でも、本当に少しだけだったみたい。リュウジが眠っている間にも、船の状態は悪くなっていた。だから、長く休ませることができなかったって」

 

ランは。

 

リュウジの寝顔を見る。

 

「それで、エリンさんを見た途端に眠ってしまったのですね」

 

エリンは。

 

小さく息を吐いた。

 

「たぶんね。調査船を宇宙管理局へ入れるまでは、自分が気を抜けなかった。管理局へ戻った後も、先に会社へ報告するって言って、メディカルチェックを受けずに来たそうよ。ここへ来てからも、皆の話を聞いていたのでしょう?」

 

カイエは。

 

リュウジを見る。

 

「はい」

 

何の話をしていたのか。

 

カイエは詳しく説明しなかった。

 

エリンも。

 

今は尋ねなかった。

 

リュウジが疲れ切っていることは。

 

見れば分かる。

 

起きた後に。

 

改めて聞けばいい。

 

エリンは続ける。

 

「帰還航路の途中で、粉塵帯が進路を塞いだそうよ」

 

ミラが。

 

不安そうに言う。

 

「救助船が来るまで待つことはできなかったのですか?」

 

「待つ案もあったみたい。でも、調査船がそこまで持たなかった。推進器の支持部が、いつ壊れてもおかしくなかった。待てば安全になるんじゃなくて、待つほど危険になる状態だったそうよ」

 

カイエの表情が硬くなる。

 

「それで、粉塵帯を突破したのですね」

 

「ええ」

 

エリンは。

 

眠るリュウジの顔を見る。

 

「最後は、リュウジが突破すると決めた」

 

ランの手が。

 

ジュースの容器を強く握る。

 

「怖くなかったのでしょうか」

 

エリンは。

 

すぐには答えなかった。

 

きっと。

 

怖かった。

 

壊れかけた船。

 

視界を塞ぐ粉塵。

 

正常に動かない計器。

 

後ろには。

 

自分へ命を預けている調査隊の乗員達。

 

判断を間違えれば。

 

全員が帰れなくなる。

 

怖くないはずがない。

 

だが。

 

リュウジ本人へ聞けば。

 

必要だったからやったと。

 

それだけを答えるかもしれない。

 

「怖かったと思うわ」

 

エリンは静かに言った。

 

「でも、怖いって言える状況じゃなかったんでしょうね。リュウジが迷えば、乗っている人達も不安になる。だから、自分が大丈夫なふりをしていたんだと思う」

 

カイエの目が。

 

リュウジへ向く。

 

先ほども。

 

リュウジは何度も大丈夫だと言っていた。

 

顔色が悪くても。

 

手が震えていても。

 

大丈夫だと。

 

自分へ言い聞かせるように。

 

「ペルシアは、最後までリュウジを信じたって言ってた」

 

エリンが続ける。

 

「粉塵帯へ入るのを許可するのは、簡単な判断じゃなかったと思う。失敗すれば、リュウジ達を死なせることになる。それでも、リュウジなら抜けられると信じた。救助船も、スターフォックスも、皆で出口側から待っていたそうよ」

 

ミラが。

 

僅かに安堵したように言う。

 

「一人ではなかったのですね」

 

「そうね…操縦していたのはリュウジ一人でも、帰る場所には皆がいた」

 

エリンは。

 

肩へ寄りかかって眠るリュウジを見る。

 

そして。

 

静かに呟いた。

 

「本当に、リュウジは辛かったと思うわ」

 

その声は。

 

責めるものではない。

 

哀れむものでもない。

 

ただ。

 

自分の知らない場所で。

 

大切な仲間が耐えていた時間を思い。

 

胸を痛めている声だった。

 

「なのに、管理局へ着いたら、先に会社へ戻るって言ったのよ」

 

エリンは。

 

困ったように息を吐く。

 

「ペルシアがメディカルチェックを受けるよう言っても、先に報告するって」

 

カイエが小さく笑う。

 

「リュウジさんらしいですね」

 

「本当にね」

 

エリンは。

 

リュウジの指が自分の手を掴んだままであることを思い出し。

 

また少しだけ頬を赤くする。

 

「自分の身体のことは、一番最後。周りが止めないと、どこまでも動こうとするんだから」

 

その時。

 

眠っているリュウジが。

 

僅かに身体を動かした。

 

肩へ預けていた頭が。

 

少し滑る。

 

エリンは。

 

落ちないように。

 

反射的に腕をリュウジの背中へ回した。

 

その結果。

 

リュウジの顔が。

 

先ほどより近くなる。

 

額が。

 

エリンの頬のすぐ横へ触れそうな距離。

 

穏やかな寝息が。

 

耳元へかかる。

 

「……っ」

 

エリンの身体が固まった。

 

顔が近い。

 

思っていた以上に。

 

リュウジの体温も。

 

呼吸も。

 

はっきり分かる。

 

離そうとすれば。

 

眠っているリュウジの身体が傾いてしまう。

 

支えるためには。

 

このままでいるしかない。

 

エリンの頬が。

 

さらに赤く染まる。

 

ミラが心配そうに尋ねる。

 

「エリンさん、大丈夫ですか?」

 

「だ、大丈夫よ」

 

「お顔が赤いです」

 

ランが素直に指摘する。

 

「走って戻ってきたからよ」

 

エリンは即答した。

 

「ですが、先ほどより赤くなっています」

 

カイエも。

 

真面目な表情で言う。

 

「気のせいよ」

 

「そうでしょうか」

 

「そうなの」

 

エリンは。

 

三人へ言い切った。

 

だが。

 

視線をどこへ向ければいいのか分からない。

 

肩には。

 

眠るリュウジ。

 

手は。

 

まだ握られている。

 

背中へ回した腕も。

 

今さら動かせない。

 

リュウジ本人は。

 

何も知らずに眠っている。

 

それが。

 

余計にエリンを動揺させた。

 

「リュウジ」

 

聞こえないと分かっていながら。

 

小さく呼ぶ。

 

返事はない。

 

代わりに。

 

リュウジが眠ったまま。

 

エリンの肩へ、もう少しだけ身体を寄せた。

 

「ちょっと……」

 

エリンの声が。

 

さらに小さくなる。

 

カイエ達は。

 

何も言わなかった。

 

だが。

 

三人の視線が。

 

エリンへ集まっている。

 

「見ないで」

 

エリンが言う。

 

「申し訳ありません」

 

カイエは謝る。

 

ミラも。

 

慌てて遠くの旅客船へ視線を移す。

 

ランも。

 

ジュースの表示を確認するふりをする。

 

ただ。

 

三人とも。

 

僅かに口元が緩んでいた。

 

しばらく。

 

屋上には。

 

静かな時間が流れた。

 

エリンは。

 

ペルシアから聞いた話を。

 

途切れ途切れにカイエ達へ伝えた。

 

調査船の損傷。

 

救助船との合流。

 

宇宙管理局へ収容先が変更された理由。

 

調査隊の乗員が。

 

全員無事に降りたこと。

 

カイエ達は。

 

一つずつ。

 

静かに聞いた。

 

その間も。

 

リュウジは目を覚まさなかった。

 

何日分もの眠りを。

 

少しずつ取り戻すように。

 

深く。

 

穏やかに眠っていた。

 

やがて。

 

エリンの携帯端末が震えた。

 

短い着信音。

 

エリンは。

 

リュウジを起こさないよう。

 

空いている方の手で端末を取り出す。

 

画面には。

 

ペルシア。

 

と表示されている。

 

カイエ達も。

 

その名前に気づいた。

 

エリンは。

 

肩へリュウジを預けたまま。

 

通話を繋ぐ。

 

「もしもし」

 

端末の向こうから。

 

すぐにペルシアの声が聞こえた。

 

「エリン、リュウジは捕獲した?」

 

エリンの眉が。

 

僅かに動く。

 

カイエは。

 

思わず口元を押さえた。

 

ミラとランも。

 

笑っていいのか迷うように顔を見合わせる。

 

エリンは。

 

声を抑えて答える。

 

「捕獲って言い方はやめて」

 

「じゃあ確保?」

 

「同じでしょう」

 

ペルシアは。

 

楽しそうに笑っている。

 

「だって、あの状態でメディカルチェックから逃げたんだから、捕獲で合ってるでしょ」

 

「逃げたんじゃないわ。会社へ報告に来たの」

 

「結果として検査を受けずにいなくなったんだから、逃亡よ」

 

エリンは。

 

反論しようとして。

 

言葉に詰まる。

 

ペルシアは。

 

その沈黙を逃さなかった。

 

「捕獲したのね?」

 

「今は私の隣にいるわ」

 

「じゃあ代わって」

 

エリンは。

 

肩へ寄りかかるリュウジを見る。

 

「寝てる」

 

電話の向こうが。

 

数秒静かになる。

 

「寝たの?」

 

「ええ。私が来たら、すぐに」

 

ペルシアの声が。

 

僅かに柔らかくなる。

 

「そう」

 

短い返事。

 

そこには。

 

安堵が含まれていた。

 

管理局では。

 

ペルシアへ身体を預けながらも。

 

リュウジは会社へ戻るために。

 

再び自分を立たせた。

 

そして。

 

エリンの姿を見て。

 

ようやく完全に眠ることができた。

 

ペルシアにも。

 

その意味が分かった。

 

だが。

 

素直に良かったとは言わない。

 

すぐに。

 

いつもの調子へ戻った。

 

「それで、いつまでイチャイチャしてるの?」

 

エリンの頬が。

 

一瞬で赤くなる。

 

「イチャイチャなんてしてない!」

 

思わず声が大きくなる。

 

肩へ頭を預けたリュウジが。

 

僅かに眉を動かす。

 

エリンは。

 

慌てて口元を押さえた。

 

カイエが。

 

堪えきれずに視線を逸らす。

 

ミラは。

 

両手でジュースを持ったまま、口元を緩めている。

 

ランは。

 

完全に笑いそうになり。

 

唇を強く結んだ。

 

端末の向こうで。

 

ペルシアがさらに笑う。

 

「隣で寝かせてるんでしょ?」

 

「疲れていたから支えてるだけよ」

 

「手も握ってたりして?」

 

エリンの動きが。

 

完全に止まった。

 

ペルシアには。

 

見えていない。

 

それなのに。

 

リュウジの指は。

 

今もエリンの手を緩く握っている。

 

エリンは。

 

思わず自分達の手元を見る。

 

「……握ってないわ」

 

カイエ達三人の視線が。

 

同時に二人の手へ向く。

 

エリンは。

 

顔を赤くしたまま。

 

三人へ鋭い視線を送った。

 

見ないで。

 

声に出さず。

 

そう訴えている。

 

ペルシアは。

 

見えていないはずなのに。

 

全て分かっているような声を出す。

 

「その間、絶対に握ってるでしょ」

 

「握ってないって言ってるでしょう!」

 

「じゃあ、どうしてそんなに動揺してるの?」

 

「動揺してない!」

 

「声が上ずってるわよ」

 

「走って戻ってきたからよ!」

 

「へぇ~」

 

エリンは。

 

完全に言葉へ詰まる。

 

カイエが。

 

俯いたまま肩を震わせている。

 

ミラは。

 

カイエへ小さな声で言う。

 

「笑ったら失礼です」

 

「ミラも笑っているでしょう」

 

カイエも。

 

同じように小声で返す。

 

ランは。

 

二人のやり取りを聞きながら。

 

とうとう小さく笑ってしまう。

 

エリンが。

 

三人を見る。

 

「皆も笑わないで」

 

「申し訳ありません、エリンさん」

 

カイエは謝るが。

 

まだ口元には笑みが残っている。

 

ペルシアが。

 

端末越しに尋ねる。

 

「カイエ達も一緒なの?」

 

「ええ」

 

「なら、証人がいるじゃない」

 

「何の証人よ」

 

「イチャイチャしてた証人」

 

エリンの顔が。

 

さらに赤くなる。

 

「してないって言ってるでしょう!」

 

その声に。

 

リュウジが。

 

僅かに身体を動かした。

 

閉じていた瞼が。

 

少しだけ開く。

 

「……エリンさん?」

 

眠気の残った声。

 

エリンの動きが止まる。

 

カイエ達も。

 

一斉にリュウジを見る。

 

リュウジは。

 

まだ意識がはっきりしていない。

 

自分がエリンの肩へ寄りかかり。

 

手まで握っていたことにも。

 

すぐには気づいていなかった。

 

「どうしました?」

 

「な、何でもないわ」

 

エリンは。

 

不自然なほど早く答えた。

 

リュウジは。

 

ゆっくりと顔を上げる。

 

その動きで。

 

エリンとの距離がさらに近くなる。

 

目を開いたリュウジの顔が。

 

すぐ目の前にあった。

 

「……エリンさん?」

 

「近い」

 

エリンが。

 

反射的に言った。

 

リュウジは。

 

まだ状況が分からない。

 

「すみません」

 

素直に謝り。

 

身体を離そうとする。

 

だが。

 

寝起きで身体へ力が入らず。

 

僅かに傾いた。

 

エリンは。

 

すぐに背中へ回していた腕へ力を入れ。

 

再び支えた。

 

その拍子に。

 

リュウジの身体が。

 

エリンの方へ引き寄せられる。

 

「ちょっと!」

 

エリンの頬が。

 

耳まで赤くなる。

 

リュウジは。

 

ようやく自分の状況を理解し始めた。

 

肩へ寄りかかっていたこと。

 

エリンの手を握っていたこと。

 

背中を支えられていること。

 

カイエ達が。

 

少し離れた場所から見ていること。

 

リュウジは。

 

掴んでいた手を離す。

 

「すみません、エリンさん」

 

「べ、別に謝らなくてもいいけど」

 

エリンは。

 

顔を逸らす。

 

「疲れてたんでしょう」

 

「はい」

 

「だから、仕方ないわ」

 

「ありがとうございます」

 

「そこで普通にお礼を言わないで」

 

「え?」

 

リュウジは。

 

本当に意味が分からないように首を傾げる。

 

エリンは。

 

さらに顔を赤くする。

 

「もういいわ」

 

端末の向こうから。

 

ペルシアの笑い声が聞こえた。

 

「まだイチャイチャしてるの?」

 

エリンは。

 

端末を睨む。

 

「ペルシア!」

 

リュウジが。

 

ようやく通話中であることに気づく。

 

「ペルシアですか?」

 

「そうよ」

 

エリンは。

 

頬を赤くしたまま答える。

 

端末の向こうから。

 

ペルシアが言う。

 

「ようやく起きた?」

 

「ああ」

 

「戻ってくるって約束したわよね」

 

リュウジの表情が。

 

少しだけ気まずそうになる。

 

「覚えてる」

 

「じゃあ、早く戻ってきてよ」

 

「メディカルチェックの準備はできてる。調査隊の乗員は、もうほとんど終わった。残ってるのは、勝手に会社へ戻った操縦士だけ」

 

リュウジは。

 

小さく息を吐いた。

 

「悪い」

 

「その言葉、今日何回目?」

 

「分からない」

 

「反省してないでしょ」

 

「してる」

 

「なら早く来て」

 

エリンが。

 

通話へ入る。

 

「今から連れていくわ」

 

「よろしく」

 

ペルシアは。

 

少し間を置いてから。

 

からかうように続ける。

 

「でも、移動中までイチャイチャしないでよ」

 

エリンの顔が。

 

また赤くなる。

 

「だから、してない!」

 

「はいはい」

 

「ペルシア!」

 

楽しそうな笑い声を残し。

 

通話が切れた。

 

エリンは。

 

しばらく端末を睨んでいた。

 

リュウジは。

 

まだ状況が分かっていない。

 

「何の話ですか?」

 

「何でもないわ」

 

エリンは即答する。

 

カイエ。

 

ミラ。

 

ラン。

 

三人が。

 

顔を見合わせる。

 

誰も。

 

本当のことを言わない。

 

リュウジは。

 

少し不思議そうにエリンを見る。

 

その視線が。

 

頬へ向けられているように感じ。

 

エリンは。

 

さらに落ち着かなくなる。

 

「何?」

 

「顔が赤いですけど」

 

「走ったからよ」

 

「そうですか…」

 

「リュウジ」

 

エリンの声が低くなる。

 

「はい」

 

「今は余計なことを言わないで」

 

「すみません」

 

また素直に謝る。

 

その反応に。

 

カイエ達は。

 

再び笑いを堪えた。

 

エリンは立ち上がる。

 

「リュウジも立って。管理局へ戻るわよ」

 

リュウジは。

 

ベンチから立ち上がろうとする。

 

だが。

 

足へ力を入れた瞬間。

 

僅かに身体が揺れた。

 

エリンが。

 

すぐに腕を掴む。

 

「ほら、やっぱり一人で歩けないでしょう」

 

「歩けます」

 

「今、揺れたわ」

 

「少し眠った直後だからです」

 

「理由になってない」

 

エリンは。

 

リュウジの腕を自分の肩へ回す。

 

リュウジは。

 

少し抵抗する。

 

「エリンさん、大丈夫です」

 

「大丈夫じゃない」

 

「皆が見てます」

 

その一言に。

 

先ほどのペルシアの言葉が。

 

エリンの頭へ戻る。

 

イチャイチャ。

 

肩を貸す。

 

手を握る。

 

今も。

 

リュウジの腕が自分の肩へ回っている。

 

身体の距離も近い。

 

エリンは。

 

一瞬だけ。

 

動きを止めた。

 

頬へ。

 

また熱が戻る。

 

「エリンさん?」

 

リュウジが不思議そうに顔を見る。

 

「近いですか?」

 

そう聞かれ。

 

エリンは余計に動揺した。

 

「ち、近くないわよ!」

 

声が裏返る。

 

カイエが。

 

慌てて口元を押さえる。

 

ミラとランも。

 

視線を逸らした。

 

リュウジだけが。

 

何が起きたのか分からない。

 

「そうですか」

 

「そうよ」

 

「なら、このままでいいんですね」

 

「……いいわよ」

 

エリンは。

 

赤くなった顔を見られないよう。

 

正面だけを見る。

 

「一人で歩かせる方が危ないから」

 

「分かりました」

 

リュウジは。

 

素直に体重を預ける。

 

その重みと。

 

すぐ近くにある体温へ。

 

エリンの心臓が。

 

また大きく鳴った。

 

それでも。

 

今度は腕を離さなかった。

 

カイエ達も。

 

飲み物の容器を片付け。

 

二人の後を追った。

 

 

屋上から。

 

十四班のフロアへ戻る扉が開く。

 

エリンに支えられたリュウジ。

 

その後ろを歩く。

 

カイエ。

 

ミラ。

 

ラン。

 

フロアへ残っていた乗務員達は。

 

リュウジが戻ってきたことに、改めて気づく。

 

驚き。

 

安堵。

 

喜び。

 

様々な表情が向けられる。

 

だが。

 

その中に。

 

一人だけ。

 

全く違う視線を向けている者がいた。

 

ナッシュ。

 

少し離れた柱の陰。

 

周囲の乗務員から見えにくい位置に立ち。

 

リュウジ達を見ていた。

 

エリンに支えられているリュウジ。

 

その周囲を歩く。

 

カイエ。

 

ミラ。

 

ラン。

 

皆が。

 

リュウジを気遣っている。

 

帰還を喜び。

 

疲労を心配し。

 

当然のように受け入れている。

 

そして。

 

エリンは。

 

頬を僅かに赤くしたまま。

 

リュウジの腕を支えている。

 

二人の距離は近い。

 

リュウジも。

 

エリンへ身体を預けることを。

 

当然のように受け入れている。

 

ナッシュへ向けられていた。

 

警戒。

 

非難。

 

失望。

 

それとは。

 

正反対だった。

 

リュウジは。

 

戻ってきただけで。

 

十四班の空気を変えた。

 

カイエの前へ立ち。

 

拳を止め。

 

名前すら知らないナッシュへ。

 

冷たい目を向けた。

 

そして。

 

ナッシュのことなど。

 

すぐに忘れたように。

 

カイエ達を連れて屋上へ行った。

 

今も。

 

誰もナッシュを見ていない。

 

誰も。

 

声をかけない。

 

フロアの中心にいるのは。

 

リュウジだった。

 

ナッシュは。

 

拳を強く握った。

 

先ほど掴まれた手首に。

 

まだ感覚が残っている。

 

力を込めても。

 

僅かにも動かなかった。

 

疲れ切った状態だったはずなのに。

 

自分の拳を。

 

簡単に止めた。

 

S級。

 

総帥から聞かされていた男。

 

十四班の基準。

 

皆が信頼する操縦士。

 

エリンが。

 

わざわざ迎えに行った男。

 

ナッシュは。

 

皆へ気づかれないように。

 

柱の陰から。

 

リュウジを睨みつける。

 

その視線は。

 

リュウジだけでなく。

 

リュウジへ寄り添うエリンにも。

 

その後ろを歩くカイエ達にも向けられていた。

 

羨望ではない。

 

尊敬でもない。

 

自分が得られないものを。

 

最初から持っている相手への。

 

暗く。

 

濁った感情。

 

誰も。

 

その視線には気づかなかった。

 

リュウジも。

 

エリンも。

 

カイエ達も。

 

宇宙管理局へ戻ることだけを考え。

 

フロアを通り過ぎていく。

 

ナッシュは。

 

最後まで。

 

その背中を睨み続けていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。