屋上には。
穏やかな風が流れていた。
遠くでは。
ドルトムントのエアポートを離れた旅客船が、ゆっくりと航路へ入っていく。
その推進光が。
人工天体の淡い光の中へ溶けていった。
ベンチでは。
リュウジがエリンの肩へ頭を預けたまま、深く眠っている。
呼吸は静かで。
先ほどまでの張り詰めた表情も、今は消えていた。
眉間に残っていた僅かな皺もなく。
力の抜けた横顔は。
普段のリュウジより、どこか幼く見える。
カイエは。
テーブルへ置いたリュウジのコーヒーから視線を移し、その寝顔を見つめた。
屋上へ来てから。
リュウジは何度も大丈夫だと言った。
顔色が悪くても。
手が僅かに震えていても。
座っているだけで辛そうに見えても。
何でもないように振る舞い。
自分のことより先に、カイエ達の話を聞こうとした。
だが。
エリンが現れた途端。
それまで保っていたものが切れたように眠ってしまった。
カイエは。
声を抑えて呟いた。
「本当に、大変だったんですね」
ミラも。
リュウジを起こさないよう、小さな声で答える。
「はい。戻られた時から、顔色が良くありませんでした」
ランは。
眠るリュウジの手元を見る。
操縦桿を握り続けた影響なのか。
指には細かな傷が残っている。
手の甲にも。
手首にも。
新しい擦れた跡があった。
「手も傷だらけです」
ランの言葉に。
エリンもリュウジの手へ目を向ける。
眠っている今は。
普段なら何気なく隠してしまうような小さな傷まで。
全て見えていた。
エリンは。
リュウジの身体が傾かないように肩で支えながら、そっとその手へ触れた。
指先。
掌。
手の甲。
新しい傷がいくつもある。
操縦席で身体を支えた時についたものなのか。
揺れる船内で、何かを掴んだ時についたものなのか。
一つ一つの理由までは分からない。
ただ。
決して平穏な航行ではなかったことだけは分かる。
エリンが指先を重ねた時。
眠っているリュウジの指が。
僅かに動いた。
無意識のまま。
エリンの指を確かめるように触れ。
そのまま緩く握った。
「……え?」
エリンの肩が。
小さく跳ねた。
リュウジは目を覚まさない。
ただ。
眠ったまま。
エリンの指を掴んでいる。
強くはない。
離そうと思えば。
すぐに離せる程度。
それでも。
自分から触れてきたことに。
エリンの頬へ、じわりと熱が集まった。
カイエが。
その様子に気づく。
「エリンさん?」
「な、何?」
返事が。
僅かに上ずった。
ミラとランも。
エリンの手元を見る。
リュウジの指が。
エリンの指へ重なっている。
エリンは。
慌てて説明する。
「違うのよ」
「何も申し上げていませんが……」
ミラが答える。
「寝ている間に、リュウジが勝手に掴んだだけだから」
「はい」
カイエは素直に頷いた。
だが。
口元には。
僅かな笑みが浮かんでいる。
ランも。
同じように二人の手を見ていた。
エリンは。
さらに頬を赤くする。
「そんなに見ないで」
「申し訳ありません」
カイエは謝ったが。
視線を逸らす前に。
もう一度だけ。
二人の手を見た。
リュウジは。
変わらず深く眠っている。
エリンの指を掴んだことで。
先ほどよりも。
僅かに表情が穏やかになったように見えた。
エリンは。
手を引こうとした。
だが。
リュウジの指が離れかけた瞬間。
眉が僅かに寄った。
何かを失いかけたように。
眠ったまま。
指先がエリンを探す。
その仕草を見て。
エリンの手が止まった。
「……もう」
小さく呟く。
困っているような声。
それでも。
今度は手を引かなかった。
リュウジが安心して眠れるなら。
しばらくこのままでいい。
そう自分へ言い聞かせる。
ただ。
三人に見られていることを意識すると。
頬の熱は、なかなか引かなかった。
カイエが。
穏やかに言う。
「やはり、エリンさんが来られて安心したんですね」
エリンは。
すぐには答えなかった。
肩へ預けられた重み。
指へ伝わる僅かな温度。
規則正しい呼吸。
どれも。
リュウジが本当に帰ってきたことを伝えている。
「……そうみたいね」
エリンは。
照れを隠すように。
少しだけ顔を横へ向けた。
「私達が何を言っても、大丈夫としかおっしゃいませんでした」
カイエが続ける。
「未探索領域で何があったのか尋ねても、色々あったとしか教えてくださいませんでした」
エリンは。
眠るリュウジの横顔を見る。
「リュウジらしいわね」
「はい」
「自分が辛かったことは、簡単には話さないから」
エリンは。
ペルシアから聞いた話を思い出す。
宇宙連邦連盟のエアポートで。
調査船が来ないと知らされ。
何が起きているのか分からないまま待っていた時。
ペルシアから届いた連絡。
リュウジが無事だと聞いた時の安堵。
そして。
その後に聞かされた。
帰還までの経緯。
「ペルシアから聞いたの」
エリンが静かに話し始める。
カイエ達が。
揃ってエリンを見る。
「調査船は、北部未探索領域で大きな損傷を受けたそうよ。最初に護衛艦二隻が損傷して、調査を続けられなくなったの」
カイエの表情が僅かに曇る。
「それで、予定より早く調査が中止になったのですね」
「ええ」
エリンは頷く。
「でも、調査を中止したからといって、すぐに戻れたわけではなかった。調査船の主推進器を支える部分が壊れかけていて、通常の出力を出せなかったそうよ。少しでも無理をすれば、推進器が船体から外れる可能性があったって」
ミラが息を呑む。
「推進器が外れる……」
「そうなったら、航行できないだけでは済まなかったと思う」
エリンは。
リュウジの手を包むように持ったまま続ける。
「船体そのものも、大きく破損していた。外側の装甲が剥がれて、観測装置や通信設備もほとんど壊れていたそうよ。その船の操縦を、リュウジが引き受けた」
ランが。
信じられないように尋ねる。
「他の操縦士はいなかったのですか?」
「いたと思うわ」
「でも、あの状態の船を動かせる人が、リュウジしかいなかったみたい」
エリンは。
ペルシアの言葉を思い出しながら話す。
壊れかけた調査船。
出力を上げられない主推進器。
僅かな振動の変化。
計器だけでは判断できない船体の状態。
リュウジは。
その全てを感じながら。
何日も操縦を続けた。
「普通の状態なら、計器を見ながら正しい操作をすれば船は動かせる。でも、あの調査船は違った。計器が示す数字だけでは、船体が次にどう動くか分からなかったそうよ。リュウジは、船の音や振動を感じながら操縦していたって、ペルシアが言ってた」
カイエは。
その言葉へ強く反応した。
以前。
リュウジから操縦を教わった時。
似たようなことを言われた。
計器を見るだけではない。
船が何を嫌がっているのか。
どちらへ動こうとしているのか。
操縦桿から伝わる反応を感じる。
それは。
カイエがリュウジの操縦へ触れた時から、何度も聞いてきた考え方だった。
「リュウジさんは、ずっと船の状態を感じ続けていたんですね」
「そうだと思う」
エリンの声が。
少しだけ苦しくなる。
「何日も‥‥ほとんど眠らずに」
ミラの目が大きくなる。
「ほとんど眠っていなかったのですか?」
「ペルシアが、途中で少しだけ眠らせたって言ってた。でも、本当に少しだけだったみたい。リュウジが眠っている間にも、船の状態は悪くなっていた。だから、長く休ませることができなかったって」
ランは。
リュウジの寝顔を見る。
「それで、エリンさんを見た途端に眠ってしまったのですね」
エリンは。
小さく息を吐いた。
「たぶんね。調査船を宇宙管理局へ入れるまでは、自分が気を抜けなかった。管理局へ戻った後も、先に会社へ報告するって言って、メディカルチェックを受けずに来たそうよ。ここへ来てからも、皆の話を聞いていたのでしょう?」
カイエは。
リュウジを見る。
「はい」
何の話をしていたのか。
カイエは詳しく説明しなかった。
エリンも。
今は尋ねなかった。
リュウジが疲れ切っていることは。
見れば分かる。
起きた後に。
改めて聞けばいい。
エリンは続ける。
「帰還航路の途中で、粉塵帯が進路を塞いだそうよ」
ミラが。
不安そうに言う。
「救助船が来るまで待つことはできなかったのですか?」
「待つ案もあったみたい。でも、調査船がそこまで持たなかった。推進器の支持部が、いつ壊れてもおかしくなかった。待てば安全になるんじゃなくて、待つほど危険になる状態だったそうよ」
カイエの表情が硬くなる。
「それで、粉塵帯を突破したのですね」
「ええ」
エリンは。
眠るリュウジの顔を見る。
「最後は、リュウジが突破すると決めた」
ランの手が。
ジュースの容器を強く握る。
「怖くなかったのでしょうか」
エリンは。
すぐには答えなかった。
きっと。
怖かった。
壊れかけた船。
視界を塞ぐ粉塵。
正常に動かない計器。
後ろには。
自分へ命を預けている調査隊の乗員達。
判断を間違えれば。
全員が帰れなくなる。
怖くないはずがない。
だが。
リュウジ本人へ聞けば。
必要だったからやったと。
それだけを答えるかもしれない。
「怖かったと思うわ」
エリンは静かに言った。
「でも、怖いって言える状況じゃなかったんでしょうね。リュウジが迷えば、乗っている人達も不安になる。だから、自分が大丈夫なふりをしていたんだと思う」
カイエの目が。
リュウジへ向く。
先ほども。
リュウジは何度も大丈夫だと言っていた。
顔色が悪くても。
手が震えていても。
大丈夫だと。
自分へ言い聞かせるように。
「ペルシアは、最後までリュウジを信じたって言ってた」
エリンが続ける。
「粉塵帯へ入るのを許可するのは、簡単な判断じゃなかったと思う。失敗すれば、リュウジ達を死なせることになる。それでも、リュウジなら抜けられると信じた。救助船も、スターフォックスも、皆で出口側から待っていたそうよ」
ミラが。
僅かに安堵したように言う。
「一人ではなかったのですね」
「そうね…操縦していたのはリュウジ一人でも、帰る場所には皆がいた」
エリンは。
肩へ寄りかかって眠るリュウジを見る。
そして。
静かに呟いた。
「本当に、リュウジは辛かったと思うわ」
その声は。
責めるものではない。
哀れむものでもない。
ただ。
自分の知らない場所で。
大切な仲間が耐えていた時間を思い。
胸を痛めている声だった。
「なのに、管理局へ着いたら、先に会社へ戻るって言ったのよ」
エリンは。
困ったように息を吐く。
「ペルシアがメディカルチェックを受けるよう言っても、先に報告するって」
カイエが小さく笑う。
「リュウジさんらしいですね」
「本当にね」
エリンは。
リュウジの指が自分の手を掴んだままであることを思い出し。
また少しだけ頬を赤くする。
「自分の身体のことは、一番最後。周りが止めないと、どこまでも動こうとするんだから」
その時。
眠っているリュウジが。
僅かに身体を動かした。
肩へ預けていた頭が。
少し滑る。
エリンは。
落ちないように。
反射的に腕をリュウジの背中へ回した。
その結果。
リュウジの顔が。
先ほどより近くなる。
額が。
エリンの頬のすぐ横へ触れそうな距離。
穏やかな寝息が。
耳元へかかる。
「……っ」
エリンの身体が固まった。
顔が近い。
思っていた以上に。
リュウジの体温も。
呼吸も。
はっきり分かる。
離そうとすれば。
眠っているリュウジの身体が傾いてしまう。
支えるためには。
このままでいるしかない。
エリンの頬が。
さらに赤く染まる。
ミラが心配そうに尋ねる。
「エリンさん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ」
「お顔が赤いです」
ランが素直に指摘する。
「走って戻ってきたからよ」
エリンは即答した。
「ですが、先ほどより赤くなっています」
カイエも。
真面目な表情で言う。
「気のせいよ」
「そうでしょうか」
「そうなの」
エリンは。
三人へ言い切った。
だが。
視線をどこへ向ければいいのか分からない。
肩には。
眠るリュウジ。
手は。
まだ握られている。
背中へ回した腕も。
今さら動かせない。
リュウジ本人は。
何も知らずに眠っている。
それが。
余計にエリンを動揺させた。
「リュウジ」
聞こえないと分かっていながら。
小さく呼ぶ。
返事はない。
代わりに。
リュウジが眠ったまま。
エリンの肩へ、もう少しだけ身体を寄せた。
「ちょっと……」
エリンの声が。
さらに小さくなる。
カイエ達は。
何も言わなかった。
だが。
三人の視線が。
エリンへ集まっている。
「見ないで」
エリンが言う。
「申し訳ありません」
カイエは謝る。
ミラも。
慌てて遠くの旅客船へ視線を移す。
ランも。
ジュースの表示を確認するふりをする。
ただ。
三人とも。
僅かに口元が緩んでいた。
しばらく。
屋上には。
静かな時間が流れた。
エリンは。
ペルシアから聞いた話を。
途切れ途切れにカイエ達へ伝えた。
調査船の損傷。
救助船との合流。
宇宙管理局へ収容先が変更された理由。
調査隊の乗員が。
全員無事に降りたこと。
カイエ達は。
一つずつ。
静かに聞いた。
その間も。
リュウジは目を覚まさなかった。
何日分もの眠りを。
少しずつ取り戻すように。
深く。
穏やかに眠っていた。
やがて。
エリンの携帯端末が震えた。
短い着信音。
エリンは。
リュウジを起こさないよう。
空いている方の手で端末を取り出す。
画面には。
ペルシア。
と表示されている。
カイエ達も。
その名前に気づいた。
エリンは。
肩へリュウジを預けたまま。
通話を繋ぐ。
「もしもし」
端末の向こうから。
すぐにペルシアの声が聞こえた。
「エリン、リュウジは捕獲した?」
エリンの眉が。
僅かに動く。
カイエは。
思わず口元を押さえた。
ミラとランも。
笑っていいのか迷うように顔を見合わせる。
エリンは。
声を抑えて答える。
「捕獲って言い方はやめて」
「じゃあ確保?」
「同じでしょう」
ペルシアは。
楽しそうに笑っている。
「だって、あの状態でメディカルチェックから逃げたんだから、捕獲で合ってるでしょ」
「逃げたんじゃないわ。会社へ報告に来たの」
「結果として検査を受けずにいなくなったんだから、逃亡よ」
エリンは。
反論しようとして。
言葉に詰まる。
ペルシアは。
その沈黙を逃さなかった。
「捕獲したのね?」
「今は私の隣にいるわ」
「じゃあ代わって」
エリンは。
肩へ寄りかかるリュウジを見る。
「寝てる」
電話の向こうが。
数秒静かになる。
「寝たの?」
「ええ。私が来たら、すぐに」
ペルシアの声が。
僅かに柔らかくなる。
「そう」
短い返事。
そこには。
安堵が含まれていた。
管理局では。
ペルシアへ身体を預けながらも。
リュウジは会社へ戻るために。
再び自分を立たせた。
そして。
エリンの姿を見て。
ようやく完全に眠ることができた。
ペルシアにも。
その意味が分かった。
だが。
素直に良かったとは言わない。
すぐに。
いつもの調子へ戻った。
「それで、いつまでイチャイチャしてるの?」
エリンの頬が。
一瞬で赤くなる。
「イチャイチャなんてしてない!」
思わず声が大きくなる。
肩へ頭を預けたリュウジが。
僅かに眉を動かす。
エリンは。
慌てて口元を押さえた。
カイエが。
堪えきれずに視線を逸らす。
ミラは。
両手でジュースを持ったまま、口元を緩めている。
ランは。
完全に笑いそうになり。
唇を強く結んだ。
端末の向こうで。
ペルシアがさらに笑う。
「隣で寝かせてるんでしょ?」
「疲れていたから支えてるだけよ」
「手も握ってたりして?」
エリンの動きが。
完全に止まった。
ペルシアには。
見えていない。
それなのに。
リュウジの指は。
今もエリンの手を緩く握っている。
エリンは。
思わず自分達の手元を見る。
「……握ってないわ」
カイエ達三人の視線が。
同時に二人の手へ向く。
エリンは。
顔を赤くしたまま。
三人へ鋭い視線を送った。
見ないで。
声に出さず。
そう訴えている。
ペルシアは。
見えていないはずなのに。
全て分かっているような声を出す。
「その間、絶対に握ってるでしょ」
「握ってないって言ってるでしょう!」
「じゃあ、どうしてそんなに動揺してるの?」
「動揺してない!」
「声が上ずってるわよ」
「走って戻ってきたからよ!」
「へぇ~」
エリンは。
完全に言葉へ詰まる。
カイエが。
俯いたまま肩を震わせている。
ミラは。
カイエへ小さな声で言う。
「笑ったら失礼です」
「ミラも笑っているでしょう」
カイエも。
同じように小声で返す。
ランは。
二人のやり取りを聞きながら。
とうとう小さく笑ってしまう。
エリンが。
三人を見る。
「皆も笑わないで」
「申し訳ありません、エリンさん」
カイエは謝るが。
まだ口元には笑みが残っている。
ペルシアが。
端末越しに尋ねる。
「カイエ達も一緒なの?」
「ええ」
「なら、証人がいるじゃない」
「何の証人よ」
「イチャイチャしてた証人」
エリンの顔が。
さらに赤くなる。
「してないって言ってるでしょう!」
その声に。
リュウジが。
僅かに身体を動かした。
閉じていた瞼が。
少しだけ開く。
「……エリンさん?」
眠気の残った声。
エリンの動きが止まる。
カイエ達も。
一斉にリュウジを見る。
リュウジは。
まだ意識がはっきりしていない。
自分がエリンの肩へ寄りかかり。
手まで握っていたことにも。
すぐには気づいていなかった。
「どうしました?」
「な、何でもないわ」
エリンは。
不自然なほど早く答えた。
リュウジは。
ゆっくりと顔を上げる。
その動きで。
エリンとの距離がさらに近くなる。
目を開いたリュウジの顔が。
すぐ目の前にあった。
「……エリンさん?」
「近い」
エリンが。
反射的に言った。
リュウジは。
まだ状況が分からない。
「すみません」
素直に謝り。
身体を離そうとする。
だが。
寝起きで身体へ力が入らず。
僅かに傾いた。
エリンは。
すぐに背中へ回していた腕へ力を入れ。
再び支えた。
その拍子に。
リュウジの身体が。
エリンの方へ引き寄せられる。
「ちょっと!」
エリンの頬が。
耳まで赤くなる。
リュウジは。
ようやく自分の状況を理解し始めた。
肩へ寄りかかっていたこと。
エリンの手を握っていたこと。
背中を支えられていること。
カイエ達が。
少し離れた場所から見ていること。
リュウジは。
掴んでいた手を離す。
「すみません、エリンさん」
「べ、別に謝らなくてもいいけど」
エリンは。
顔を逸らす。
「疲れてたんでしょう」
「はい」
「だから、仕方ないわ」
「ありがとうございます」
「そこで普通にお礼を言わないで」
「え?」
リュウジは。
本当に意味が分からないように首を傾げる。
エリンは。
さらに顔を赤くする。
「もういいわ」
端末の向こうから。
ペルシアの笑い声が聞こえた。
「まだイチャイチャしてるの?」
エリンは。
端末を睨む。
「ペルシア!」
リュウジが。
ようやく通話中であることに気づく。
「ペルシアですか?」
「そうよ」
エリンは。
頬を赤くしたまま答える。
端末の向こうから。
ペルシアが言う。
「ようやく起きた?」
「ああ」
「戻ってくるって約束したわよね」
リュウジの表情が。
少しだけ気まずそうになる。
「覚えてる」
「じゃあ、早く戻ってきてよ」
「メディカルチェックの準備はできてる。調査隊の乗員は、もうほとんど終わった。残ってるのは、勝手に会社へ戻った操縦士だけ」
リュウジは。
小さく息を吐いた。
「悪い」
「その言葉、今日何回目?」
「分からない」
「反省してないでしょ」
「してる」
「なら早く来て」
エリンが。
通話へ入る。
「今から連れていくわ」
「よろしく」
ペルシアは。
少し間を置いてから。
からかうように続ける。
「でも、移動中までイチャイチャしないでよ」
エリンの顔が。
また赤くなる。
「だから、してない!」
「はいはい」
「ペルシア!」
楽しそうな笑い声を残し。
通話が切れた。
エリンは。
しばらく端末を睨んでいた。
リュウジは。
まだ状況が分かっていない。
「何の話ですか?」
「何でもないわ」
エリンは即答する。
カイエ。
ミラ。
ラン。
三人が。
顔を見合わせる。
誰も。
本当のことを言わない。
リュウジは。
少し不思議そうにエリンを見る。
その視線が。
頬へ向けられているように感じ。
エリンは。
さらに落ち着かなくなる。
「何?」
「顔が赤いですけど」
「走ったからよ」
「そうですか…」
「リュウジ」
エリンの声が低くなる。
「はい」
「今は余計なことを言わないで」
「すみません」
また素直に謝る。
その反応に。
カイエ達は。
再び笑いを堪えた。
エリンは立ち上がる。
「リュウジも立って。管理局へ戻るわよ」
リュウジは。
ベンチから立ち上がろうとする。
だが。
足へ力を入れた瞬間。
僅かに身体が揺れた。
エリンが。
すぐに腕を掴む。
「ほら、やっぱり一人で歩けないでしょう」
「歩けます」
「今、揺れたわ」
「少し眠った直後だからです」
「理由になってない」
エリンは。
リュウジの腕を自分の肩へ回す。
リュウジは。
少し抵抗する。
「エリンさん、大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「皆が見てます」
その一言に。
先ほどのペルシアの言葉が。
エリンの頭へ戻る。
イチャイチャ。
肩を貸す。
手を握る。
今も。
リュウジの腕が自分の肩へ回っている。
身体の距離も近い。
エリンは。
一瞬だけ。
動きを止めた。
頬へ。
また熱が戻る。
「エリンさん?」
リュウジが不思議そうに顔を見る。
「近いですか?」
そう聞かれ。
エリンは余計に動揺した。
「ち、近くないわよ!」
声が裏返る。
カイエが。
慌てて口元を押さえる。
ミラとランも。
視線を逸らした。
リュウジだけが。
何が起きたのか分からない。
「そうですか」
「そうよ」
「なら、このままでいいんですね」
「……いいわよ」
エリンは。
赤くなった顔を見られないよう。
正面だけを見る。
「一人で歩かせる方が危ないから」
「分かりました」
リュウジは。
素直に体重を預ける。
その重みと。
すぐ近くにある体温へ。
エリンの心臓が。
また大きく鳴った。
それでも。
今度は腕を離さなかった。
カイエ達も。
飲み物の容器を片付け。
二人の後を追った。
◇
屋上から。
十四班のフロアへ戻る扉が開く。
エリンに支えられたリュウジ。
その後ろを歩く。
カイエ。
ミラ。
ラン。
フロアへ残っていた乗務員達は。
リュウジが戻ってきたことに、改めて気づく。
驚き。
安堵。
喜び。
様々な表情が向けられる。
だが。
その中に。
一人だけ。
全く違う視線を向けている者がいた。
ナッシュ。
少し離れた柱の陰。
周囲の乗務員から見えにくい位置に立ち。
リュウジ達を見ていた。
エリンに支えられているリュウジ。
その周囲を歩く。
カイエ。
ミラ。
ラン。
皆が。
リュウジを気遣っている。
帰還を喜び。
疲労を心配し。
当然のように受け入れている。
そして。
エリンは。
頬を僅かに赤くしたまま。
リュウジの腕を支えている。
二人の距離は近い。
リュウジも。
エリンへ身体を預けることを。
当然のように受け入れている。
ナッシュへ向けられていた。
警戒。
非難。
失望。
それとは。
正反対だった。
リュウジは。
戻ってきただけで。
十四班の空気を変えた。
カイエの前へ立ち。
拳を止め。
名前すら知らないナッシュへ。
冷たい目を向けた。
そして。
ナッシュのことなど。
すぐに忘れたように。
カイエ達を連れて屋上へ行った。
今も。
誰もナッシュを見ていない。
誰も。
声をかけない。
フロアの中心にいるのは。
リュウジだった。
ナッシュは。
拳を強く握った。
先ほど掴まれた手首に。
まだ感覚が残っている。
力を込めても。
僅かにも動かなかった。
疲れ切った状態だったはずなのに。
自分の拳を。
簡単に止めた。
S級。
総帥から聞かされていた男。
十四班の基準。
皆が信頼する操縦士。
エリンが。
わざわざ迎えに行った男。
ナッシュは。
皆へ気づかれないように。
柱の陰から。
リュウジを睨みつける。
その視線は。
リュウジだけでなく。
リュウジへ寄り添うエリンにも。
その後ろを歩くカイエ達にも向けられていた。
羨望ではない。
尊敬でもない。
自分が得られないものを。
最初から持っている相手への。
暗く。
濁った感情。
誰も。
その視線には気づかなかった。
リュウジも。
エリンも。
カイエ達も。
宇宙管理局へ戻ることだけを考え。
フロアを通り過ぎていく。
ナッシュは。
最後まで。
その背中を睨み続けていた。