翌朝。
ドルトムント財閥旅行会社。
十四班のフロアには。
いつもより早い時間から、重い空気が漂っていた。
前日の便に関する報告書。
乗客から寄せられた意見。
客室乗務員の記録。
操縦室と客室間の通信記録。
自動操縦が解除された時刻。
船体が大きく揺れた時間帯。
機長から提出された事情説明。
机の上だけでは収まらず。
タツヤ班長の端末にも。
いくつもの資料が表示されていた。
タツヤ班長は。
自分の席へ座ったまま。
両手で頭を抱えていた。
「……本当にやったのか」
正面には。
カイエが立っている。
いつもどおり姿勢を整え。
端末を持ち。
昨日起きたことを。
最初から順番に説明していた。
感情を交えず。
自分に都合のいい部分だけを抜き出すこともなく。
事実だけを。
一つずつ。
「はい」
カイエは答えた。
「巡航状態へ移行した後、ナッシュさんが自動操縦を解除しました。機長からも、タツヤ班長から操縦を禁止されていることは伝えられていました。それでも、ナッシュさんが操縦を希望し、機長が認めています」
タツヤ班長は。
深く息を吐いた。
自分が同行できなくなった朝。
ナッシュへ。
何度も伝えた。
今日は操縦するな。
見学だけにしろ。
機長から勧められても断れ。
まだ一人で判断できる段階ではない。
ユイの熱が高くなり。
予定されていた便を外れることになった後も。
ナッシュ本人へ連絡を入れた。
機長へも。
念を押した。
それでも。
指示は守られなかった。
「機長は、どうして止めなかったんだろうね」
タツヤ班長の声は。
普段と変わらず穏やかだった。
だが。
目元には疲労が滲んでいる。
カイエは。
少し言葉を選んだ。
「機長本人は、ナッシュさんが操縦経験を積みたいと強く希望したためと説明しています。ただ……」
「ただ?」
「総帥の御子息という立場を意識していたように見えました」
タツヤ班長は。
目を閉じる。
「やっぱり、そこか」
機長の事情説明には。
ナッシュの希望を尊重した。
実力を確認したかった。
巡航中であり、危険性は低いと判断した。
そう記載されている。
だが。
指示を破ってまで。
経験の浅い者へ操縦を任せる理由にはならない。
まして。
ナッシュは。
一度自動操縦を解除した後。
客室から戻すよう求められても。
すぐには応じなかった。
結果として。
船体は大きく揺れた。
飲み物がこぼれ。
食器が落ち。
乗務員が座席へ身体をぶつけた。
複数の乗客が。
船酔いを訴えた。
怪我人はいない。
だが。
怪我人がいなかったから。
問題がなかったことにはならない。
タツヤ班長は。
端末の画面を指で送る。
乗客からの申告。
客室乗務員への苦情。
操縦に関する問い合わせ。
船会社の安全管理を問う内容。
一件ではない。
「クレームは、カイエからだけじゃないんだよね」
タツヤ班長が言う。
カイエは頷いた。
「はい。同じ便に乗務していた他班の乗務員からも、複数の報告が提出されています」
この便は。
十四班だけで編成された便ではなかった。
欠員補充。
勤務時間の調整。
運航計画。
それらの事情から。
複数の班から乗務員が集められていた。
そのため。
ナッシュの無断操縦に対する報告は。
十四班の内部だけに留まらなかった。
他班の客室乗務員。
機内サービス担当。
保安担当。
地上で乗客対応を引き継いだ職員。
それぞれから。
異なる立場での報告が上がっている。
カイエは。
端末へ表示された一覧を確認する。
「五班の客室乗務員からは、飲み物を提供していた最中に揺れが発生し、熱い飲み物が乗客へかかる可能性があったとの報告があります。八班の乗務員からは、通路で対応中に身体を座席へぶつけたとの申告がありました。十一班からは、幼い乗客が強い恐怖を訴え、到着後も泣き止まなかったと報告されています」
タツヤ班長の眉間に。
深い皺が寄る。
「熱い飲み物も出てたのか」
「はい」
「火傷は?」
「ありませんでした」
「乗務員が咄嗟にトレーを引いたため、乗客にはかかっていません」
「そう」
タツヤ班長は。
小さく頷く。
「それは、運がよかったんじゃない。乗務員が守ったんだ」
カイエは。
静かに答える。
「はい」
その言葉は。
昨日。
カイエがナッシュへ伝えたかったことと同じだった。
怪我人が出なかった。
だから。
操縦に問題はなかった。
そうではない。
乗務員達が。
咄嗟に動いた。
乗客を座らせ。
子どもを支え。
トレーを押さえ。
飲み物がかからないように身体を入れた。
その結果。
怪我を防いだ。
タツヤ班長は。
報告書をもう一度見る。
「乗客から直接入ってるのは?」
「現在確認できているのは十二件です」
カイエは答えた。
「衣服や手荷物が汚れたことに関する申告が五件。体調不良に関する申告が四件。運航上の安全性に関する問い合わせが三件です」
「増えるだろうね」
「はい」
「到着してすぐは何も言わなくても、家へ帰ってから連絡する方もいます」
「そうだね」
タツヤ班長は。
椅子へ深く座り直した。
そして。
再び頭を抱える。
「俺が休んだ日に限って、これかぁ……」
声には。
疲れ。
後悔。
そして。
自分への苛立ちが混ざっている。
カイエは。
少し顔を上げた。
「タツヤ班長の責任ではありません」
「でも、俺が乗ってたら止められた」
「タツヤ班長は、ナッシュさんにも機長にも、操縦させないよう指示をされています。指示を守らなかったのは、ナッシュさんと機長です」
カイエは。
きっぱりと言った。
それでも。
タツヤ班長の表情は晴れない。
「それはそうなんだけどね。俺がナッシュを見ることになってた。なのに、急に外れた。代わりの人間を、もう少しはっきり決めるべきだった。機長へ任せて大丈夫だと思ったのが甘かった」
カイエは。
反論しようとした。
だが。
タツヤ班長が。
責任を他人へ押しつけようとしているのではないと分かる。
ナッシュと機長の責任は。
当然追及する。
その上で。
班長として。
自分にできたことはなかったかと考えている。
それが。
タツヤ班長だった。
「ユイちゃんの御体調は、いかがですか?」
カイエが尋ねた。
タツヤ班長は。
少しだけ表情を緩める。
「今朝は熱も下がったよ。昨日の夜には、少し食べられるようになった」
「それはよかったです」
「うん」
「今は、家で寝てる」
タツヤ班長は。
僅かに笑った。
「出社しようとしたら、パパ行かないでって言われたけど」
「大丈夫だったのですか?」
「今日は俺の母親がいるから、昨日はどうしても外せなくてね」
カイエは頷いた。
「そうでしたか」
タツヤ班長は。
もう一度。
机の上の資料へ視線を落とす。
「ユイのそばにいたことを後悔するつもりはないよ。でも、こっちで問題が起きたことも、放ってはおけない。難しいねぇ」
父親として。
娘のそばにいる。
班長として。
部下と乗客の安全を守る。
どちらも。
タツヤ班長にとっては大切だった。
だが。
身体は一つしかない。
だからこそ。
自分がいない時でも。
安全が守られる仕組みを作らなければならない。
それを。
今回の件で。
改めて突きつけられていた。
タツヤ班長は。
暫く黙っていたが。
やがて。
フロアの入り口へ視線を向けた。
いつもなら。
すでにエリンが出社している時間だった。
昨日の便の乗客対応。
報告書。
他班との調整。
こうした問題が起きれば。
真っ先にフロアへ入り。
必要な業務を整理しているはず。
だが。
姿がない。
「エリンは?」
タツヤ班長が尋ねる。
カイエは。
すぐに答えた。
「エリンさんなら、本日は休暇です」
タツヤ班長が。
少し意外そうに目を瞬く。
「エリンが休み?」
「はい」
「珍しいね」
「リュウジさんが精密検査を受けられるため、付き添いで一日休暇を取られています」
タツヤ班長の動きが。
僅かに止まる。
「付き添い?」
「はい」
カイエは。
端末を持ったまま。
落ち着いて説明する。
「昨日、宇宙管理局で簡易的なメディカルチェックは受けられました。ですが、長期間の睡眠不足と栄養状態の低下が確認されたため、今日は精密検査を受けることになったそうです。エリンさんが付き添われています」
タツヤ班長は。
少しだけ口を開いたまま。
カイエを見た。
それから。
机の上の資料へ目を落とす。
再び。
カイエを見る。
「……あの二人って、付き合ってるの?」
あまりにも自然に出た質問だった。
カイエは。
一瞬。
返答に困った。
昨日。
屋上で見た光景が。
頭へ浮かぶ。
エリンの肩へ頭を預けて眠るリュウジ。
眠ったまま。
エリンの手を握っていたこと。
ペルシアから。
イチャイチャしているとからかわれ。
エリンが真っ赤になっていたこと。
宇宙管理局へ戻る時も。
エリンは。
リュウジの腕を離さなかった。
二人が。
正式に付き合っていると聞いたことはない。
本人達も。
そうした関係だとは言っていない。
だが。
付き合っていない二人としては。
距離が近すぎるようにも見える。
カイエは。
慎重に答えた。
「いえ。そのようなことはないと思いますけど……」
最後の言葉が。
僅かに弱くなる。
タツヤ班長は。
その変化を聞き逃さなかった。
「その間は何?」
「いえ」
「何か見た?」
「何も見ていません」
即答。
タツヤ班長の眉が上がる。
「それ、何か見た人の返事だよ」
「何もありません」
「本当に?」
「はい」
カイエは。
表情を変えないようにしている。
だが。
昨日の屋上で。
頬を赤くしていたエリンを思い出す。
リュウジが眠り。
無意識にエリンへ身体を寄せた時。
エリンは。
困ったようにしながらも。
決して離れようとはしなかった。
その後。
管理局へ向かうため。
二人が並んで歩く姿も。
自然だった。
付き合っていない。
おそらく。
だが。
周囲から見れば。
そう尋ねたくなる距離ではある。
タツヤ班長は。
カイエの顔を暫く見た後。
椅子の背へ身体を預けた。
「まあ、前から雰囲気はあるけどねぇ」
「エリンさんとリュウジさんですか?」
「うん。ユイも、あの二人は一緒にいるものだと思ってるし」
タツヤ班長は。
以前。
ユイとリュウジ。
エリンが並んでいた時のことを思い出す。
リュウジが。
自然にユイの願いを受け入れ。
エリンが。
その行動を少しだけ止める。
リュウジが甘やかし。
エリンが生活の線を引く。
二人とも。
役割を相談したわけではない。
それでも。
自然に噛み合っていた。
周囲から見れば。
一つの家族のように見えることさえある。
タツヤ班長は。
小さく笑う。
「リュウジの精密検査に、エリンが丸一日付き添いかぁ」
「はい」
「普通の上司と部下では、なかなかしないよね」
カイエは。
少しだけ考える。
「エリンさんは、リュウジさんの体調をかなり心配されていました」
「それは知ってる」
「リュウジさんも、エリンさんが来られた後に安心されたようでした」
「へぇ」
タツヤ班長の目が。
少しだけ楽しそうになる。
「どういう意味?」
カイエは。
言ってから。
余計なことを話したと気づいた。
「昨日、リュウジさんはかなり疲れていました」
「それで?」
「エリンさんが屋上へ来られた直後に、眠ってしまわれました」
「エリンが来るまでは起きてたの?」
「はい」
タツヤ班長は。
何かを納得したように。
ゆっくり頷く。
「なるほどねぇ。リュウジも分かりやすいところがあるんだね」
「そうかもしれません」
「それで、どこで寝たの?」
カイエは。
一瞬。
口を閉じた。
「ベンチです」
「それだけ?」
「はい」
「エリンの肩とかじゃなくて?」
カイエの目が。
僅かに動く。
タツヤ班長は。
それを見逃さなかった。
「肩だったんだ」
「……眠っている間に、少し寄りかかられただけです」
「手は?」
カイエは。
答えなかった。
タツヤ班長が。
思わず笑う。
「手も握ったんだ」
「リュウジさんが、眠ったまま無意識にです」
「カイエ」
「はい」
「俺、そこまで聞いてないよ」
カイエの動きが止まる。
自分から。
詳しく説明してしまった。
タツヤ班長は。
楽しそうに笑っていた。
「やっぱり付き合ってるんじゃない?」
「いえ、本人達からは何も聞いておりません」
「本人達が気づいてないだけじゃない?」
「それは……」
カイエは。
否定できなかった。
タツヤ班長は。
さらに何か言おうとした。
だが。
机の上へ置かれた。
昨日の便の報告書が目に入る。
乗客の安全。
ナッシュの無断操縦。
機長の判断。
他班からの苦情。
今。
優先すべきことは。
明らかだった。
タツヤ班長は。
表情を切り替えた。
「今は、そんな話じゃないか」
先ほどまでの笑みが。
少しだけ消える。
カイエも。
姿勢を正した。
「はい」
「話を戻そう」
タツヤ班長は。
端末を操作し。
報告書の先頭へ戻す。
だが。
そのまま読み始める前に。
一度。
カイエを見る。
昨日。
自分がいない中で。
乗客対応をした。
ナッシュへ。
何度も操縦をやめるよう求めた。
到着後も。
乗客の体調を確認し。
他班の乗務員と調整し。
報告書を作成した。
そして。
ナッシュから。
客室乗務員を軽視する言葉を向けられた。
その全てを。
カイエ一人へ背負わせるつもりはなかった。
タツヤ班長の声が。
少し柔らかくなる。
「カイエにも、負担をかけたね」
カイエが。
僅かに目を見開く。
「いえ。私だけではありません。他班の乗務員も、皆さん対応されていました」
「それでも」
タツヤ班長は。
穏やかに言う。
「十四班側で中心になったのはカイエだろ。その中で、乗客対応と他班との調整をした。戻ってからも、ナッシュに説明しようとしたんだよね」
カイエは。
少しだけ視線を伏せる。
「はい。でも、上手く伝えることができませんでした」
「その報告も読んだよ」
タツヤ班長は。
カイエが提出した記録を表示する。
ナッシュへ。
自動操縦を解除した理由を確認したこと。
乗客の状態を説明したこと。
安全上の問題を指摘したこと。
ナッシュが。
問題はなかったと主張したこと。
客室側の対応不足だと発言したこと。
その後。
口論になったこと。
最後に。
ナッシュがカイエへ拳を向け。
リュウジが止めたこと。
カイエは。
自分が敬語をやめ。
感情的になったことも。
報告書へ記載していた。
自分に不利になる部分も。
隠していない。
タツヤ班長は。
その記録を見ながら言う。
「カイエが怒ったことを、責めるつもりはないよ」
カイエが顔を上げる。
「ですが、私は冷静さを失いました」
「そうだね」
タツヤ班長は。
そこを否定しなかった。
「感情的になったのは事実だと思う。でも、どうしてそこまで怒ったのかも、俺は考える必要がある。普段のカイエが、突然そこまで怒るとは思えない」
カイエは。
黙っている。
「客室乗務員なら、揺れくらい対応しろ、仕事をしただけだ、客室側が悪い」
タツヤ班長は。
ナッシュの発言を一つずつ確認する。
「こんなことを言われたんだろ?」
「はい」
「それなら、怒るよ」
タツヤ班長は。
小さく息を吐く。
「俺でも怒る」
カイエの瞳が。
僅かに揺れる。
「でもね」
タツヤ班長は続ける。
「次からは、カイエ一人で受け止めなくていい。話を聞かない相手へ、無理に分からせようとしなくていい。記録を残して、上へ持ってきて、止めるのは俺達の仕事だ」
カイエは。
静かに頷く。
「はい」
「それと」
「はい」
「殴られそうになったら逃げること」
タツヤ班長は。
少しだけ声を強くした。
「リュウジがいなかったら、拳が当たってたかもしれない。正しいことを言うために、怪我をする必要はないよ」
昨日。
リュウジからも。
同じようなことを言われた。
仲間を守ろうとして。
自分が怪我をするな。
カイエは。
その言葉を思い出す。
「リュウジさんにも、同じことを言われました」
「やっぱり?」
タツヤ班長は。
僅かに笑う。
「そういうところは、ちゃんとしてるんだよね。自分のことになると、全然守らないけど」
「はい」
カイエは。
思わず同意する。
タツヤ班長は。
椅子から身体を起こした。
「ナッシュと機長の聞き取りは、俺がやる。運航管理と安全管理にも入ってもらう。他班から上がっている報告も、全部まとめよう」
「乗客への対応は?」
「補償も含めて、会社として正式に案内する。怪我人がいなかったから終わりにはしない」
カイエは。
はっきりと答える。
「承知しました」
「カイエは、今日は通常業務へ戻っていいよ。報告書は十分書けてる。追加で確認したいことが出たら、俺から聞く」
「はい」
カイエは。
一度頭を下げた。
だが。
その場を離れる前に。
タツヤ班長が呼び止める。
「カイエ」
「はい」
「昨日は、本当にありがとう」
カイエは。
少し目を瞬く。
タツヤ班長の顔には。
班長としての真剣さと。
自分がいなかったことへの申し訳なさがあった。
「乗客を守ってくれて。他班の人達をまとめてくれて。それから、ちゃんと全部報告してくれて」
カイエは。
暫く黙っていた。
自分ができなかったことばかりを考えていた。
ナッシュを止められなかった。
冷静さを失った。
リュウジへ。
余計な負担をかけた。
だが。
タツヤ班長は。
できたことを見てくれている。
「ありがとうございます」
カイエは。
深く頭を下げた。
「次は、もっと早く周囲へ相談します」
「うん」
「それでいい」
タツヤ班長は。
穏やかに頷く。
カイエが。
自分の席へ戻っていく。
その背中を見送り。
タツヤ班長は。
再び机の上へ目を向けた。
ナッシュ。
機長。
安全管理。
乗客対応。
解決しなければならない問題は。
山ほどある。
だが。
その前に。
一つだけ。
頭へ浮かんだ。
エリンとリュウジ。
精密検査。
一日休暇。
付き添い。
肩へ寄りかかって眠り。
手まで握ったらしい。
タツヤ班長は。
顎へ手を当て。
小さく呟く。
「やっぱり、付き合ってるんじゃないかなぁ」
少し離れた席で。
カイエの肩が。
僅かに動いた。
聞こえている。
だが。
今度は。
何も答えなかった。
――――――――
翌日。
宇宙管理局附属医療センター。
精密検査棟の待合室には。
白を基調とした静かな空間が広がっていた。
壁面には。
各検査室の案内。
受診番号。
所要時間。
検査前の注意事項。
それらが立体表示で並んでいる。
消毒液の匂い。
医療機器の低い作動音。
時折。
名前を呼ぶ自動音声。
その中で。
リュウジは椅子へ深く腰掛けていた。
昨日まで着ていたフライトスーツではない。
宇宙管理局から用意された。
簡素な検査着。
その上へ。
薄手の上着を羽織っている。
髪も整えられている。
顔も洗っている。
昨日よりは。
見た目だけなら少し落ち着いていた。
だが。
顔色はまだ悪い。
目の下には。
深い疲労の跡が残っている。
背もたれへ預けた身体にも。
普段のような力はなかった。
隣には。
エリンが座っている。
十四班の制服ではなく。
落ち着いた色の私服。
手元には。
昨日。
宇宙管理局から渡された検査資料。
帰還直後の簡易検査結果。
調査船内での睡眠記録。
食事摂取状況。
操縦時間。
身体へかかった負荷。
全てがまとめられていた。
エリンは。
その一枚一枚へ目を通している。
リュウジは。
待合室の天井を見上げていた。
まるで。
自分とは関係のない場所へ連れてこられたような顔だった。
「リュウジ」
エリンが資料から顔を上げる。
「はい」
「昨日、最後に食べたのは?」
「管理局で食べました」
「何を?」
リュウジは少し考える。
「栄養食です」
「どのくらい?」
「少し」
エリンの目が細くなる。
「少しって、どのくらい?」
「食べられる分です」
「答えになってないわ」
リュウジは。
視線を逸らした。
エリンは。
小さく息を吐く。
昨日。
宇宙管理局へ連れ戻した後。
簡易的な診察。
血液採取。
水分補給。
最低限の栄養補給。
そこまでは受けさせた。
だが。
精密検査は。
翌日に改めて行うことになった。
リュウジは。
その時も。
問題ないと言い続けていた。
歩ける。
話せる。
意識もある。
だから問題ない。
本人の判断基準は。
いつも同じだった。
動けるなら。
まだ大丈夫。
倒れていないなら。
休む必要はない。
エリンは。
その考え方を。
昨日から何度も否定している。
「今日の検査が終わるまでは、勝手に帰らないでね」
「帰りません」
「本当に?」
「はい」
「昨日は、メディカルチェックを後回しにして会社へ戻ったでしょう」
「報告が必要だったので」
「今日も、何か必要なことを思い出したら帰るつもり?」
「今日は何もありません」
「何もなければ帰らないのね」
「はい」
エリンは。
しばらくリュウジを見る。
返事は素直。
表情も変わらない。
だが。
信用できない。
「携帯は?」
「預けています」
「誰に?」
「エリンさんに」
「そうね」
エリンは。
自分の鞄を軽く叩く。
リュウジの携帯端末。
社員証。
宇宙管理局への入退館証。
全て。
エリンが預かっている。
一人で移動するために必要なものを。
ほとんど持たせていない。
リュウジが。
少し困ったように言う。
「そこまでする必要ありますか?」
「あるわ」
「逃げません」
「昨日も似たようなことを言ってたでしょう」
「逃げてはいません」
「検査を受ける前にいなくなるのは、逃げたって言うの」
「会社にいました」
「場所の問題じゃないわ」
エリンの返事は早かった。
リュウジは。
それ以上反論せず。
また天井を見る。
その横顔へ。
エリンは小さくため息をついた。
やがて。
待合室の表示が切り替わる。
受診番号。
リュウジの名前。
診察室への案内。
エリンは立ち上がる。
「呼ばれたわよ」
「はい」
リュウジも。
椅子から立ち上がる。
昨日ほどではない。
だが。
立った直後。
一瞬だけ足が止まった。
エリンは。
すぐに腕へ手を添える。
「大丈夫です」
「まだ何も聞いてないわ」
「支えなくても歩けます」
「そう」
エリンは。
手を離さなかった。
リュウジは。
一度。
その手を見る。
だが。
振り払うことはしない。
二人は。
並んで診察室へ入った。
◇
診察室には。
白髪の混じった医師と。
記録端末を持つ看護師がいた。
医師は。
宇宙船乗務員の長期任務後検査を専門としている。
リュウジが座ると。
エリンも。
その隣へ腰を下ろした。
医師は。
まずリュウジを見る。
次に。
エリンを見る。
そして。
二人の間へ置かれた資料へ視線を落とした。
「リュウジさんですね」
「はい」
「昨日、帰還直後の簡易検査を受けていただいています」
「はい」
「その結果ですが」
医師は。
立体画面へ数値を表示する。
「長期間の睡眠不足、水分不足、栄養状態の低下、筋疲労、軽度の低血糖、自律神経系の乱れ、そのほか、複数の項目で基準値から外れています」
リュウジは。
画面を一度見る。
それから。
医師へ答えた。
「問題ありません」
医師の動きが止まる。
エリンも。
ゆっくりリュウジを見る。
「問題があるから、ここに来ているのよ」
「動けています」
「動けるかどうかだけで決めないで」
医師は。
二人のやり取りを見ながら。
少し困ったように咳払いする。
「現時点では、直ちに生命へ関わる状態ではありません。ですが、問題がないという状態でもありません」
リュウジは。
静かに頷く。
「分かりました」
医師が尋ねる。
「体調について、自覚症状はありますか?」
「ありません」
エリンが。
すぐ横から言う。
「あります」
リュウジが。
エリンを見る。
「エリンさん」
「昨日、立ち上がった時にふらついたでしょう」
「寝起きだったので」
「管理局へ戻る途中も、二回足が止まった」
「歩けていました」
「食事もほとんど取れていない」
「少しは食べました」
「夜中に何度も目を覚ましていたでしょう」
リュウジの表情が。
僅かに変わる。
「起きていたんですか?」
「起きるわよ」
エリンは。
少しだけ声を強くした。
「あなたが何度も起きれば、隣の部屋でも分かるわ」
昨夜。
宇宙管理局の宿泊区画。
リュウジは。
休養用の個室へ入れられた。
エリンは。
その隣の付き添い室へ泊まった。
深夜。
何度も。
ベッドが軋む音がした。
扉が開き。
廊下へ出ようとする気配もあった。
その度に。
エリンが確認した。
水を飲みに行こうとした。
船の状況が気になった。
報告書を確認したかった。
理由は違っても。
リュウジは。
まともに眠れていなかった。
「眠れなかったのですね」
医師が尋ねる。
リュウジは。
少し間を置く。
「眠りました」
エリンが。
医師へ向き直る。
「二時間ほどです」
「連続して?」
「いいえ。何度も目を覚ましています」
医師は。
記録端末へ入力する。
リュウジは。
何か言おうとする。
だが。
エリンが先に言った。
「先生、お願いします」
その声には。
迷いがなかった。
「本人は何を聞いても問題ないとしか言いません。必要な検査をしてください」
リュウジが。
僅かに眉を寄せる。
「エリンさん」
「何?」
「自分で答えます」
「答えが全部、問題ありませんでしょう」
「問題ないので」
エリンは。
目を細くする。
「ほら」
医師は。
思わず小さく息を吐いた。
看護師は。
記録端末を持ったまま。
僅かに口元を緩めている。
医師は。
話を進めることにした。
「では、精密検査の内容について説明します。基本的には、血液検査、心電図、脳波、筋疲労測定、神経反応検査、内臓機能検査、画像診断を予定しています。必要に応じて、睡眠状態や心理的負荷についても確認できます」
リュウジは。
画面へ並ぶ検査項目を見る。
項目が多い。
所要時間も。
長い。
午前中だけでは終わらない。
午後までかかる。
検査によっては。
翌日まで記録装置を装着する必要もある。
リュウジの表情に。
僅かな面倒そうな色が浮かぶ。
医師が尋ねた。
「精密検査は、どこまで行いましょうか?最低限の検査だけにすることもできます。今回の任務状況を考えれば、全項目を受けていただくことを勧めますが」
リュウジは。
少し考える。
というより。
早く終わる方を選んでいた。
「簡単なので構いません」
エリンが。
ほとんど同時に答えた。
「全部お願いします」
リュウジが。
隣を見る。
エリンは。
医師だけを見ていた。
「エリンさん」
「全部です」
「時間がかかります」
「だから?」
「そこまで必要ありません」
「必要かどうかを決めるために検査するの」
「簡易検査で十分です」
「昨日の簡易検査で、精密検査が必要だと言われたでしょう」
「俺は問題ありません」
エリンの眉間へ。
僅かに皺が寄る。
「先生」
「はい」
「全部お願いします」
医師は。
リュウジを見る。
「御本人としては?」
リュウジが口を開く。
「簡単なもので」
「全部お願いします」
また。
エリンが重ねる。
医師は。
二人を交互に見る。
「御家族ですか?」
エリンの表情が。
一瞬だけ止まる。
「いえ」
返事は早い。
だが。
僅かに頬が赤くなる。
「同じ会社の」
エリンは。
言葉を選ぶ。
「大切な同僚です」
リュウジが。
少しだけエリンを見る。
その視線に気づき。
エリンの頬へ。
さらに僅かな熱が集まる。
だが。
今は。
動揺している場合ではない。
エリンは。
医師へ向き直る。
「任務中の状況も考えれば、本人の判断だけでは不十分だと思います。会社側からも、必要な検査を受けさせるよう言われています」
これは。
嘘ではない。
タツヤ班長も。
ペルシアも。
宇宙管理局の医療担当も。
全員が。
精密検査を受けさせるべきだと判断している。
医師は頷いた。
「分かりました。では、全項目で進めます」
リュウジは。
小さく息を吐いた。
「長くなりますよ」
エリンが言う。
「問題ないわ」
リュウジは。
自分の言葉を返されたことに気づく。
「それは俺が言う言葉です」
「今日は私が言うの」
看護師が。
とうとう少しだけ笑った。
◇
検査は。
午前中から始まった。
最初は。
採血。
通常よりも多くの項目を確認するため。
何本もの検査容器へ血液が採られる。
リュウジは。
針が刺さっても。
表情を変えなかった。
エリンは。
少し離れた椅子で。
検査手順を確認している。
採血が終わると。
心電図。
心臓の拍動。
血圧。
酸素飽和度。
呼吸機能。
立位と座位での血圧変化。
自律神経反応。
リュウジは。
医師や技師の指示に。
淡々と従った。
だが。
質問へは。
ほとんど同じ答えだった。
「息苦しさはありますか?」
「ありません」
「動悸は?」
「ありません」
「立ち眩みは?」
「ありません」
その直後。
立位検査で。
リュウジの身体が僅かに揺れた。
エリンが。
壁際から言う。
「今、ふらついたわよ」
「足の位置が悪かっただけです」
検査技師が。
記録へ追加する。
次は。
筋力と反応速度。
握力。
指先の動作精度。
視覚刺激への反応。
操縦士として。
重要な検査。
普段のリュウジなら。
どの項目も。
平均を大きく上回る。
だが。
今日は違った。
基準値は超えている。
それでも。
過去の記録より。
明らかに落ちている。
特に。
連続した反応検査で。
後半になるほど。
数値が下がった。
「疲労感は?」
技師が尋ねる。
「ありません」
エリンは。
もう口を挟まなかった。
代わりに。
検査結果の表示を見ていた。
言葉より。
数値の方が正直だった。
次は。
画像診断。
脳。
胸部。
腹部。
筋肉。
骨格。
放射線を使わない。
高精度の立体走査。
検査台へ横になる前。
リュウジは。
少しだけエリンを見る。
「まだありますか?」
「あるわ」
「あと何個ですか?」
「聞かない方がいいと思う」
「そんなに?」
「全部って言ったでしょう」
リュウジは。
初めて。
少しだけ後悔したような顔をした。
エリンは。
それを見て。
僅かに口元を緩める。
「面倒そうな顔をしても駄目よ」
「してません」
「してるわ」
「普通です」
「今の顔、ペルシアにも見せたいわね」
「呼ばなくていいです」
リュウジは。
静かに検査台へ横になった。
◇
全ての検査が終わったのは。
午後を大きく過ぎた頃だった。
リュウジは。
検査着のまま。
再び診察室へ戻っている。
エリンも。
隣へ座っていた。
机の上には。
検査結果。
血液数値。
内臓機能。
筋疲労。
神経反応。
脳波。
心電図。
画像診断。
大量の情報が表示されている。
医師は。
一つずつ確認していた。
リュウジは。
椅子へ座り。
腕を組んでいる。
表情は変わらない。
エリンは。
身を少し前へ傾け。
医師の説明を待っていた。
やがて。
医師が顔を上げる。
「検査結果を御説明します」
エリンが頷く。
「お願いします」
リュウジも。
短く頷いた。
「まず、重大な外傷や、直ちに治療が必要な臓器障害は確認されませんでした」
エリンの肩から。
僅かに力が抜ける。
「よかった……」
小さな声。
リュウジは。
その横顔を見る。
だが。
医師の説明は続く。
「ただし」
エリンの表情が。
すぐに戻る。
「全体的な状態は、決して良好とは言えません」
画面へ。
複数の数値が表示される。
「血糖値、血圧、電解質、肝機能、腎機能、筋損傷を示す数値、自律神経反応、睡眠不足による脳疲労、免疫機能、どれも、治療が必要となる基準の直前です」
エリンは。
画面を見つめる。
基準値の範囲。
注意域。
治療域。
リュウジの数値は。
ほぼ全てが。
注意域の端。
治療域の手前。
まさに。
ぎりぎりの位置だった。
一つだけなら。
経過観察で済む。
だが。
全身の各項目が。
同じように限界へ近づいている。
「全ての数値が」
エリンが確認する。
「ぎりぎりなのですか?」
「はい」
医師は頷く。
「一つの臓器だけが悪いわけではありません。全身が、長期間の過度な負荷へ耐え続けた結果です。身体が、複数の機能を少しずつ落としながら、何とか動ける状態を維持していたと考えられます」
リュウジは。
何も言わない。
画面を見ても。
表情は変わらない。
エリンは。
一つずつ確認する。
「肝機能の数値は、元に戻りますか?」
「十分な休養と栄養補給があれば、現段階では戻る可能性が高いです」
「腎機能は?」
「脱水の影響が大きいと思われます」
「水分と電解質を補給し、再検査します」
「筋肉の損傷は?」
「長時間、同じ姿勢で緊張状態が続いたことが原因でしょう。特に肩、腕、背中、腰へ負担が集中しています」
エリンは。
リュウジの肩を見る。
昨日。
肩へ頭を預けられた時。
想像以上に身体が硬かった。
眠っていても。
完全には力が抜けていなかった。
今。
その理由が。
数値として示されている。
「脳疲労というのは?」
「長期間の睡眠不足と、極度の集中状態によるものです。判断力や反応速度は、通常より低下しています」
リュウジが。
そこで初めて口を開く。
「操縦に支障はありません」
医師が。
リュウジを見る。
「現在は操縦してはいけません」
「数値は基準内です」
「基準の最低線です」
「下回ってはいません」
エリンが。
ゆっくりリュウジを見る。
「リュウジ」
声は。
静かだった。
だが。
明らかに怒っている。
リュウジは。
口を閉じた。
医師は。
エリンへ説明を続ける。
「本人の自覚症状が少ないことも、危険な要素です。疲労状態へ慣れすぎて、異常を異常として感じにくくなっています。本人が大丈夫だと感じていても、身体の状態とは一致しません」
エリンが。
深く頷く。
「分かりました」
リュウジは。
何も言わない。
医師は。
検査結果をまとめ。
一つの提案を示す。
「念のため、二日から三日ほど入院していただきましょう」
リュウジの目が。
僅かに動く。
医師は続ける。
「点滴で水分、電解質、栄養を補給します。睡眠状態も確認します。数値が改善したことを確認してから、退院としたいと思います」
リュウジが。
断ろうと口を開く。
「そこまでは――」
「分かりました」
エリンが。
先に答えた。
医師が頷く。
「では、三日を目安に、二日で状態が改善すれば、その時点で退院も可能です」
「お願いします」
エリンは。
迷わず答える。
リュウジは。
隣からエリンを見る。
「エリンさん」
「何?」
「入院は必要ありません」
「必要だって先生が言ってるでしょう」
「通院で点滴を受けます」
「その後、会社へ行くつもりでしょう」
「状況を確認する必要があります」
「必要ないわ」
「ナッシュの件も」
「タツヤ班長がいる」
「調査船の報告も」
「ペルシアがいる」
「十四班の業務は」
「私達がいる」
エリンは。
一つずつ。
逃げ道を塞ぐ。
「今、リュウジにしかできないことはない。あるとすれば」
エリンは。
少しだけ身を乗り出す。
「きちんと休んで、身体を戻すことだけよ」
リュウジは。
黙る。
医師は。
二人の会話を見た後。
入院手続の資料を看護師へ渡す。
「では、こちらへサインをお願いします」
看護師が。
電子署名用の端末をリュウジへ差し出す。
リュウジは。
その画面を見る。
入院同意。
治療内容。
緊急時の連絡。
身元保証。
検査結果の共有範囲。
いくつもの項目。
ペンが。
端末の横へ置かれている。
だが。
リュウジは。
手を伸ばさない。
エリンが。
その様子を見る。
「書かないの?」
「入院するとは言っていません」
「今、先生と私が決めたわ」
「本人の同意が必要です」
「だからサインするの」
「まだ考えています」
「何を?」
「二日間も必要かどうかです」
「三日の可能性もあるわ」
「増えてます」
「状態次第でしょう」
リュウジは。
端末を見たまま。
動かない。
エリンは。
しばらく待った。
十秒。
二十秒。
それでも。
リュウジはペンを取らない。
エリンは。
看護師へ向き直る。
「代筆で書きます」
看護師が。
少し驚く。
「御本人の了承があれば、代理署名は可能です」
エリンは。
リュウジを見る。
「了承する?」
「しません」
「先生」
エリンは。
医師へ向く。
「今の判断力に問題はありませんか?」
医師は。
少し考えてから答える。
「意思決定能力そのものに、大きな問題はありません。ただし、疲労と睡眠不足で、自己評価が著しく甘くなっている可能性はあります」
エリンは頷く。
「会社側の健康管理責任者から、必要な治療へ同意する権限は預かっています」
昨日。
ペルシアから渡された。
緊急時の治療同意書。
未探索領域調査へ参加した乗員について。
本人の判断が。
疲労や意識状態により不十分と認められる場合。
宇宙管理局側の責任者。
または。
登録された付き添い人が。
必要な治療手続を進められる。
その付き添い人として。
エリンの名前が登録されていた。
リュウジが。
初めて知ったようにエリンを見る。
「いつ登録したんですか?」
「昨日」
「誰が?」
「ペルシア」
「聞いてません」
「今、言ったわ」
エリンは。
看護師から端末を受け取る。
そして。
迷いなく。
署名欄へ名前を書く。
エリン。
続いて。
リュウジとの関係。
同僚。
付き添い責任者。
必要事項を。
一つずつ入力する。
リュウジは。
その横で。
何もできないまま見ている。
「エリンさん……」
声には。
僅かな抗議。
困惑。
諦め。
全てが混ざっていた。
エリンは。
署名を終え。
端末を看護師へ返す。
それから。
リュウジへ向き直る。
「わがまま言わないの!」
診察室へ。
エリンの声が響いた。
リュウジは。
一瞬。
目を見開く。
医師も。
看護師も。
少し驚いた。
エリンは。
頬を僅かに赤くしながらも。
視線を逸らさない。
「何日も寝ないで操縦して、まともに食べないで、水分も足りなくて、全部の数値が限界ぎりぎりなのに、それでも問題ないって言い続けて、今度は入院したくない?―――いい加減にして」
リュウジは。
何も言えない。
エリンは続ける。
「あなたが帰ってこなかったらって、どれだけ心配したと思ってるの」
その声が。
最後だけ。
僅かに震えた。
怒っている。
だが。
怒りだけではない。
宇宙連邦連盟のエアポートで。
来ない調査船を待っていた時間。
連絡がなく。
何が起きたかも分からず。
ただ。
帰ってくると信じるしかなかった時間。
ペルシアから。
調査船が大破したと聞いた瞬間。
リュウジが。
一人で何日も操縦していたと知った瞬間。
昨日。
目の前で眠った姿。
そして。
今日。
全ての数値が。
限界へ近いと説明された。
それらが。
一度に込み上げていた。
リュウジは。
エリンを見る。
頬が。
少し赤い。
目も。
僅かに潤んでいる。
だが。
泣かないように。
強い目で。
自分を見ている。
リュウジは。
しばらく黙った後。
小さく答えた。
「……分かりました」
エリンは。
すぐに尋ねる。
「入院する?」
「はい」
「三日でも?」
「必要なら」
「点滴も?」
「受けます」
「勝手に抜かない?」
「抜きません」
「会社へ行かない?」
リュウジは。
少し間を置く。
エリンの目が。
さらに鋭くなる。
「行きません」
「携帯を返せって言わない?」
「言いません」
「本当に?」
「はい」
エリンは。
ようやく。
少しだけ息を吐いた。
「最初からそう言えばいいの」
医師は。
そのやり取りを見て。
静かに頷く。
それから。
リュウジではなく。
エリンへ向き直った。
「では、治療計画について説明します」
リュウジが。
僅かに顔を上げる。
だが。
医師は。
もうエリンだけを見ている。
「初日は、水分と電解質の補正を中心に行います」
「はい」
「栄養状態を見ながら、糖質とアミノ酸も点滴で補います」
「食事は?」
「最初は消化の良いものからです」
「食べられない場合は?」
「点滴の量を調整します」
「睡眠については?」
「自然睡眠を優先しますが、眠れない状態が続く場合は軽い睡眠導入を検討します」
エリンは。
一つずつ。
真剣に聞く。
必要なことは。
端末へ記録する。
「再検査はいつですか?」
「明日の朝と、退院判断の前です」
「数値が改善しなかった場合は?」
「入院を延長します」
「操縦へ戻れるのは?」
「最低でも、退院後数日は休養が必要です」
「会社への出勤も?」
「短時間の事務作業であれば可能ですが、基本的には休ませてください」
「分かりました」
リュウジが。
隣から言う。
「事務作業なら」
エリンが。
視線だけを向ける。
リュウジは。
言葉を止めた。
医師も。
リュウジへ説明することを諦めたように。
再びエリンへ向き直る。
「退院後の予定については、付き添いの方が管理していただけますか?」
「はい」
エリンは即答する。
リュウジが。
少し困ったように言う。
「先生」
医師が。
一度だけリュウジを見る。
「何でしょう」
「俺の予定です」
「そうですね」
医師は頷く。
そして。
またエリンへ向く。
「無理をしないように見てあげてください」
「分かりました」
「先生」
リュウジがもう一度呼ぶ。
医師は。
今度は聞こえなかったように。
エリンへ続けた。
「睡眠時間は、最低でも八時間」
「はい」
「食事は一日三回」
「はい」
「水分量も記録してください」
「分かりました」
リュウジは。
黙って二人を見る。
完全に。
自分の治療方針なのに。
自分を通り越して。
話が進んでいく。
エリンは。
リュウジの視線へ気づく。
「何?」
「俺の話ですよね」
「あなたと話しても進まないからでしょう」
「答えてます」
「全部、問題ないでしょう」
「事実です」
エリンは。
医師を見る。
「こういう人です」
医師は。
深く頷いた。
「よく分かりました」
リュウジは。
小さく息を吐いた。
◇
診察が終わると。
看護師が。
リュウジを入院病棟へ案内することになった。
エリンは。
入院に必要な物を準備するため。
一度。
受付へ向かう。
着替え。
洗面用品。
通信制限。
面会時間。
会社への診断書。
必要な手続を確認する。
リュウジは。
看護師と二人で。
病棟へ続く通路を歩いていた。
腕には。
仮の認証帯。
もう。
患者として登録されている。
看護師は。
少し前を歩いていたが。
周囲に誰もいないことを確認すると。
歩幅を緩めた。
そして。
小さな声で言う。
「良い彼女さんですね」
リュウジの足が。
一瞬止まる。
「彼女ではありません」
返事は。
すぐだった。
看護師は。
振り返る。
「違うんですか?」
「はい」
「そうなんですね」
看護師は。
少し意外そうな顔をする。
「ずっと付き添って、検査の説明も全部聞いて、入院の手続もして、結果を聞いた時は、本人より心配そうでしたけど」
リュウジは。
何も答えない。
看護師は。
少しだけ笑う。
「先生も、途中から完全にあの方へ説明していましたし」
「俺に話しても同じです」
「問題ないとしか言わないからですか?」
リュウジは。
看護師を見る。
看護師は。
悪意なく笑っている。
「聞こえてました」
「そうですか」
「皆さん、聞こえていたと思います」
リュウジは。
少しだけ視線を逸らす。
看護師は続ける。
「でも、あれだけ怒ってくれる人は大事にした方がいいですよ。本当に心配していなければ、あんなに怒れませんから」
リュウジは。
通路の先を見る。
受付では。
エリンが。
職員から説明を受けている。
手元の資料を確認し。
一つずつ質問し。
必要な物を整理している。
自分の入院なのに。
自分より真剣に。
自分の体調を考えている。
昨日も。
宇宙連邦連盟で待っていた。
行き違いになっても。
すぐに会社へ戻ってきた。
自分が眠れば。
肩を貸した。
管理局へ連れ戻した。
今日も。
一日休暇を取り。
精密検査へ付き添った。
リュウジは。
小さく答える。
「大切な人です」
看護師が。
少し目を見開く。
リュウジは。
すぐに付け加える。
「十四班のチーフです」
「そういう意味ですか」
「はい」
看護師は。
どこか納得していないような顔で頷く。
「そういうことにしておきます」
「何ですか、それ」
「何でもありません」
看護師は。
再び歩き始める。
その時。
受付から。
エリンが戻ってくる。
手には。
複数の資料。
入院用品。
リュウジの携帯端末。
ただし。
携帯端末は。
エリンの鞄へ入れられたまま。
リュウジへ返す気はないらしい。
「手続、終わったわ」
「ありがとうございます」
「病室へ行きましょう」
「はい」
エリンは。
看護師へ頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「はい」
看護師も頭を下げる。
それから。
リュウジへ。
意味ありげな視線を向けた。
「大切にしてくださいね」
エリンが。
僅かに首を傾げる。
「何をですか?」
リュウジは。
すぐに答えた。
「何でもありません」
「本当に?」
「はい」
エリンは。
少し疑うようにリュウジを見る。
その視線から逃れるように。
リュウジは病棟の先へ目を向けた。
看護師は。
二人の後ろで。
小さく笑っていた。