宇宙管理局医療センター。
午後。
個室の中は静かだった。
窓の外には、宇宙管理局の連絡通路と、その向こうに広がる宇宙港の一部が見えている。
数日前まで。
リュウジは、その宇宙港へ戻れるかどうかさえ分からない場所にいた。
北部未探索領域。
粉塵帯。
損傷した調査船。
疲労。
睡眠不足。
そこから帰還した今。
ベッド脇には点滴台が置かれ。
リュウジの腕には細いチューブが繋がっていた。
本人はというと。
上半身を少し起こし。
病院から渡された端末で、調査船の最終記録を眺めている。
入院している人間とは思えない。
もっと正確に言えば。
入院している自覚が薄い。
医師からは休めと言われ。
エリンからは。
わがまま言わないの。
と強く言われた。
それでも。
何もせずに寝ているということが苦手だった。
その時。
個室の扉が。
軽く二回叩かれた。
「どうぞ」
リュウジが答える。
扉が開く。
最初に見えたのは。
金色の髪だった。
「お邪魔しまーす」
聞き慣れた軽い声。
ペルシアだった。
片手には紙袋。
もう片方には小さな飲み物の袋を持っている。
「ペルシア」
「お、生きてる」
「見れば分かるだろ」
「一応ね」
ペルシアは室内へ入り。
後ろ手で扉を閉める。
そのままベッド脇へ歩いてきた。
「もっと病人みたいな顔してると思った」
「病人みたいな顔って何だ」
「こう」
ペルシアは急に肩を落とし。
目を半分閉じ。
弱々しい声を作った。
「もう駄目……私はここまで……って感じ」
「帰れ」
「ひどっ」
いつものやり取り。
だが。
リュウジには分かる。
ペルシアが入室して最初に確認したのは。
自分の顔色。
点滴。
モニター。
そして。
ベッド脇の飲み物だった。
口ではふざけている。
目は。
ちゃんと見ている。
ペルシアは椅子を引き。
そこへ座ろうとして。
ふと。
室内を見渡した。
そして。
首を傾げる。
「あれ?」
「何だ」
「エリンは?」
リュウジは端末から視線を上げた。
「フライトがあるからって仕事に行った。夜に来るそうだ」
一瞬。
ペルシアが止まった。
「……夜に来るの?」
「ああ」
「朝もいた?」
「いた」
「昨日も?」
「来てた」
ペルシアの口元が。
ゆっくりと上がっていく。
リュウジは嫌な予感がした。
「何だ」
「いやぁ?」
ペルシアは肘を椅子の背へ乗せ。
頬杖をつく。
「朝来て、仕事行って、フライト終わったら夜また来るの?」
「そう言ってた」
「なにそれ」
ペルシアの目が。
完全に面白がるものへ変わった。
「夫婦?」
ニヤニヤしながら。
言い切った。
リュウジの眉が動く。
「違う」
「即答」
「違うものは違う」
「はいはい」
ペルシアは全く信じていない。
「でもさ」
「何だ」
「精密検査に一日付き添って、入院の説明聞いて、書類まで書いて、朝も見に来て、仕事終わったら夜また来るんでしょ?」
ペルシアは指を一つずつ折る。
「それを世間では」
「世間で勝手に決めるな」
「まだ言い終わってない」
「言わなくていい」
「夫婦」
「帰れ」
「二回目!」
ペルシアは楽しそうに笑った。
リュウジは。
僅かにため息を吐く。
「エリンさんは」
言ってから。
一度止まる。
「今回のことを心配してくれてるだけだ」
「うん」
「それ以上じゃない」
「うんうん」
「その返事やめろ」
「聞いてるわよ」
ペルシアは笑いを堪えながら。
リュウジを見る。
「でも」
少しだけ。
声の温度が変わった。
「エリンが心配するのも当然よ」
リュウジの目が。
僅かに下がる。
ペルシアは。
ふざけるのをやめる。
「あなた、帰還直前の声、本当に酷かったもの」
数日前。
調査船との通信。
何時間起きているのか。
聞いても。
分からない。
最後に寝たのは。
昨日。
何時かは覚えていない。
それでも。
操縦はできる。
問題ない。
その言葉ばかり。
あの時のリュウジは。
怒っていたわけではない。
投げやりだったわけでもない。
ただ。
疲れ切っていた。
言葉を出すことさえ。
面倒になるほど。
「今だから言うけど」
「何だ」
「通信してる時、結構怖かった」
リュウジが。
少しだけ目を上げる。
ペルシアは笑わない。
「操縦が失敗すると思ったわけじゃない、あなたなら帰ってくるって思ってた。でも、その前に身体が止まるんじゃないかと思った」
リュウジは何も言わない。
「だからエリンが毎日来るのも分かる。私だって来たし」
そこで。
ペルシアは紙袋を持ち上げた。
「ほら見舞い」
「何だ?」
「開けてみて」
リュウジが。
袋の中を覗く。
「……プリン?」
「そう」
数種類のプリン。
ゼリー。
飲むヨーグルト。
小さなスポーツドリンク。
胃へ負担が少なそうなものが。
いくつも入っている。
リュウジが。
ペルシアを見る。
「お前が選んだのか?」
「失礼ね。一応、クリスタルに聞いた」
「やっぱりな」
「何その反応」
「お前だけなら、酒持ってきそうだから」
「さすがに入院患者へ酒は持ってこないわよ!」
一拍置いて。
ペルシアは小さく付け足す。
「退院祝いなら考えるけど」
「考えるな」
「冗談よ」
リュウジは。
プリンの一つを手に取る。
「ありがとう」
「素直」
「礼ぐらい言う」
「もっと褒めてもいいわよ」
「何を」
「わざわざ仕事の合間に来てあげた統括官様を」
「暇なのか?」
「忙しい!」
ペルシアは即座に言う。
「忙しいけど、来たの。だから感謝して」
「してる」
「もっと」
「ありがとう」
「気持ちが薄い」
「面倒くさいな」
「病人が酷い」
また。
いつもの軽口。
それが。
ペルシアにとっても。
少し安心だった。
調査船との通信では。
返事の一つ一つが遅かった。
声も重かった。
今は。
こうして普通に言い返してくる。
面倒そうに眉を寄せる。
ため息も吐く。
その全部が。
戻ってきた証拠に見えた。
「それで?」
リュウジが聞く。
「見舞いだけか?」
「何よ」
「何か話がある顔してる」
「……分かる?」
「長い付き合いだからな」
ペルシアは。
少しだけ笑った。
「さっき」
「調査隊の人達と会議してきた」
リュウジの表情が。
僅かに変わる。
「カイルもか」
「いた」
「そうか」
それだけ。
リュウジは。
特に興味を示さない。
ペルシアは。
その反応を見て。
何となく察した。
「聞かないの?」
「何を」
「何を話したとか」
「必要なら報告が来るだろ」
「相変わらずね」
ペルシアは。
椅子へ深く座る。
「報告書を管理局にも出してほしいってお願いしたの。任意で、そのための同意書も置いて」
「それで?」
「カイルと少し揉めた」
「少し?」
リュウジが。
疑うように見る。
「……まあまあ」
「お前のまあまあは信用できない」
「最近みんなそれ言うのよ」
ペルシアは口を尖らせる。
「でも大丈夫。ちゃんと止めたから」
「誰を」
「みんなを」
「何したんだ」
リュウジの目が。
少し鋭くなる。
「別に大したことじゃない。私のことを馬鹿にされて、みんなが怒っただけ」
「……全員?」
「ほぼ全員」
「何でそうなる」
「私も聞いた」
ペルシアは。
急に嬉しそうになる。
「そしたらさ、みんな私のこと好きみたい」
「そうか」
「反応薄くない?」
「良かったな」
「もっと驚きなさいよ」
「前から分かってる」
今度は。
ペルシアが止まった。
「何が?」
「みんな、お前のこと信頼してるだろ」
それは。
リュウジにとって。
特別なことを言ったつもりではなかった。
ただ。
見たまま。
思ったままを口にしただけ。
ペルシアは。
数秒黙る。
「……そういうこと、さらっと言うの」
「何がだ」
「ずるいわね」
ペルシアは。
少し照れたように視線を逸らす。
そして。
すぐに話題を戻した。
「まあ、あなたが入院してて良かったわ」
「何でだ」
「会議にいたらカイルと絶対揉めてたでしょう?」
リュウジは。
少しだけ考える。
「揉めない」
「嘘」
「必要がなければ何も言わない」
「必要があったら?」
「言う」
「ほら」
ペルシアは即座に指を差す。
「絶対揉める」
「内容による」
「私のこと馬鹿にされたら?」
リュウジは。
一瞬。
黙る。
ペルシアが。
にやりとする。
「何?」
「別に」
「今、考えたでしょ」
「考えてない」
「嘘」
「しつこい」
ペルシアは。
楽しそうに笑う。
「リュウジも怒るんだ?」
「状況による」
「へぇー」
「その顔やめろ」
「可愛いところあるじゃない」
「帰れ」
「今日三回目!」
病室に。
ペルシアの笑い声が広がった。
数秒後。
リュウジも。
小さく息を吐く。
僅かに。
口元が緩んでいた。
それを。
ペルシアは見逃さない。
「笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせいだ」
「エリンに言お」
「何を」
「リュウジ、私と二人きりだと笑ってたよって」
「余計なこと言うな」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「怪しい」
「何がだ」
「夫婦だから?」
「違う」
ペルシアは。
またニヤニヤする。
「でも」
ふと。
扉へ視線を向ける。
「夜に来るんでしょ?」
「ああ」
「何時?」
「フライトが終わってからだから、分からない」
「待ってるの?」
「別に」
「待ってる顔してる」
「どんな顔だ」
「旦那の顔」
「帰れ」
「四回目!」
ペルシアは笑いながら立ち上がる。
「まあ、長居するとエリンに怒られそうだし」
「何でエリンさんが怒るんだ」
「病人を疲れさせるなって、言いそうでしょ?」
リュウジは。
否定しようとして。
少し考える。
「……言いそうだな」
「でしょ?」
ペルシアは紙袋をベッド脇へ置き。
椅子を元の位置へ戻す。
「じゃあ今日はちゃんと寝なさい」
「分かってる」
「端末も閉じる」
「あとで」
「今」
「ペルシア」
「何?」
「エリンさんみたいになってきたな」
ペルシアは。
一瞬。
固まった。
そして。
すぐに嫌そうな顔をする。
「それ褒めてる?」
「どうだろうな」
「絶対褒めてない」
リュウジは。
端末を閉じる。
「これでいいか」
「よろしい」
満足そうに。
ペルシアが頷く。
扉へ向かい。
手をかける。
そこで。
一度だけ振り返った。
「リュウジ」
「何だ」
先ほどまでの。
からかう顔ではない。
「帰ってきてくれて、本当に良かった」
リュウジは。
少しだけ目を細めた。
「ああ、助かった」
粉塵帯を抜けた直後。
宇宙管理局へ戻った時。
リュウジは。
ペルシアへ同じ言葉を言った。
助かった。
ペルシアは。
その言葉を思い出し。
僅かに笑った。
「今度はこんな無茶しないでよ」
「俺のせいじゃない」
「知ってる」
ペルシアは。
すぐに答えた。
「だから今度はちゃんと周りを頼りなさい」
リュウジは。
少しだけ黙る。
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ」
ペルシアは。
また悪戯っぽい笑みに戻る。
「エリン奥さんにもちゃんと頼るのよ?」
「帰れ」
「五回目!」
笑いながら。
ペルシアは病室を出ていった。
扉が閉まる。
再び。
静かになる個室。
リュウジは。
閉じた端末へ視線を落とす。
それから。
枕元に置かれた自分の携帯端末を見る。
画面には。
エリンから届いた短いメッセージ。
『フライト終わったら行くね。ちゃんと休んでて』
リュウジは。
数秒。
その文字を見つめた。
「……夫婦じゃない」
誰もいない部屋で。
小さく呟く。
だが。
その声には。
先ほどより。
ほんの僅かに。
照れが混じっていた。
―――――
結局。
リュウジの入院は、一週間になった。
当初は。
精密検査を終え。
数日間の経過観察。
それで済む予定だった。
だが。
長期間に及んだ睡眠不足。
極度の疲労。
栄養状態の低下。
さらに。
本人が自覚している以上に。
身体へ負担が残っていた。
医師は。
退院を急がせなかった。
そして。
一週間後。
退院の日。
当然のように。
エリンがいた。
◇
「これで全部かしら?」
「はい。退院関係の書類はこちらで以上です」
宇宙管理局医療センター。
退院受付。
エリンは渡された書類を一枚ずつ確認していた。
退院許可書。
処方薬。
次回受診日。
生活上の注意事項。
食事。
睡眠。
運動。
復職までの目安。
その横には。
退院する本人。
リュウジが立っている。
だが。
なぜか。
話はほとんどエリンへ向けられていた。
「しばらく睡眠時間は十分に確保してください」
「はい」
「食事も一度に多く摂らなくて構いません。三食を基本に、食欲が戻らなければ少量ずつでも」
「分かりました」
「激しい運動は?」
「少なくとも次回診察までは控えてください」
「フライトは?」
「操縦業務への復帰は、次回診察の結果を見てからです」
「分かりました」
エリンが真剣に頷く。
医師も。
エリンを見て話している。
リュウジは。
少し黙っていた。
そして。
ようやく口を挟む。
「あの」
「はい?」
「退院するのは俺です」
医師がリュウジを見る。
「分かっています」
「なら、俺に説明した方がいいのでは?」
一瞬。
医師が黙る。
それから。
エリンを見る。
「入院中の様子を見ていると、エリンさんにも説明しておいた方が確実かと」
「どういう意味ですか」
「あなた、無理をしても『大丈夫です』と言うでしょう」
「……」
「言いますね」
エリンが即答した。
「エリンさん」
「だって言うでしょう?」
「状況によります」
「粉塵帯から帰ってきた時も言ってたじゃない」
「それは」
「歩ける。問題ない、少し疲れてるだけ。全部聞いたわよ」
「……」
医師が小さく頷いた。
「ですので」
「何が、ですので、なんですか」
「退院後の管理については、エリンさんにも共有します」
「管理って」
「分かりました」
エリンが頷く。
「エリンさん?」
「何?」
「何で引き受けてるんですか」
「あなたが言うこと聞かないからでしょう?」
「聞きます」
「本当に?」
「……」
「ほら」
医師が再び説明を始める。
「特に最初の三日間です。本人は体力が戻ったと感じても、長時間の外出は控えてください」
「はい」
「睡眠不足は厳禁です」
「はい」
「夜更かしも」
「させません」
「仕事関係の端末も、長時間は」
「取り上げます」
「ちょっと待ってください」
リュウジが横を見る。
エリンは。
真面目な顔をしていた。
「そこまで言われてないでしょう」
「長時間は駄目って言われたでしょう?」
「取り上げろとは言われてません」
「同じようなものでしょう?」
「違います」
医師は。
二人のやり取りを見て。
何も言わなかった。
ただ。
退院後の注意事項を。
エリンへ渡した。
リュウジではなく。
エリンへ。
「お願いします」
「はい。ありがとうございます」
「だから何でエリンさんに渡すんですか」
「失くさないでしょうから」
「俺も失くしません」
「そういう問題じゃないと思うわ」
「どういう問題なんですか」
エリンは。
書類を鞄へしまう。
「帰りましょう」
「話が終わってません」
「退院おめでとう、リュウジ」
「誤魔化さないでください」
それでも。
病院の外へ出た時。
リュウジは。
一週間ぶりの外の空気に。
ほんの少しだけ目を細めた。
その横を。
エリンが歩く。
「荷物、持つわ」
「大丈夫です」
「駄目」
「軽いですよ」
「そういうところ」
「何がですか」
「先生が私に説明した理由」
「……」
リュウジは。
小さく息を吐いた。
それでも。
エリンが差し出した手へ。
荷物を一つ。
渡した。
その頃。
ドルトムントでは。
全く別の出来事が起きていた。
◇
ドルトムント財閥旅行会社。
十四班フロア。
昼前。
最初に気づいたのは。
誰だったのか。
社内掲示板。
普段なら。
業務連絡。
運航変更。
研修案内。
勤務規定の更新。
そんなものが並ぶ場所。
その一番上。
新しい通知が掲載されていた。
『人事異動のお知らせ』
数人の社員が。
何気なく画面を見る。
そして。
足を止めた。
異動者。
所属。
異動先。
発令日。
そこに。
一人の名前があった。
カイエ。
ドルトムント財閥旅行会社。
十四班。
異動先。
ドルトムント財閥系列会社。
冥王星支社。
その文字を。
カイエ自身も見ていた。
「……」
声は出なかった。
驚いた。
はずだった。
だが。
不思議と。
頭のどこかでは。
納得している自分がいた。
ああ。
やっぱり。
そう思った。
ナッシュに怒った時点で。
こうなるのではないか。
どこかで。
思っていた。
乗客の安全を軽視する発言。
責任を周囲へ押し付ける態度。
それに。
自分は。
初めて。
真正面から怒った。
言い返した。
十四班のカイエではなく。
一人の社員として。
許せないと言った。
その後。
自分の伝え方に問題があったのではないかとも考えた。
もっと冷静に。
もっと早く。
周囲へ相談していれば。
違う結果になったのではないか。
エリンにも言われた。
全部背負う必要はない。
一人で受け止めないこと。
タツヤ班長へすぐ共有すること。
分かっていた。
分かっていたのに。
結局。
こうなった。
「冥王星……」
誰かが。
小さく呟いた。
遠い。
あまりにも。
遠い。
同じ財閥系列。
形式上は。
単なる人事異動。
だが。
十四班から。
冥王星。
簡単に行き来できる距離ではない。
事実上。
今までの生活も。
人間関係も。
仕事も。
全部変わる。
カイエは。
掲示板を見たまま。
静かに息を吐いた。
ちょうどよかった。
そう思った。
今は。
ガーネットもいない。
ミラもいない。
ランもいない。
エマも。
ククルも。
別の業務へ出ている。
タツヤ班長も。
外している。
そして。
エリンも。
いない。
リュウジの退院へ行っている。
こんな姿を。
見せなくて済む。
カイエは。
もう。
決めていた。
冥王星へは行かない。
異動もしない。
ドルトムントを。
辞める。
それだけだった。
もし。
エリンがここにいたら。
きっと。
止める。
絶対に。
『カイエ』
いつもの。
柔らかい声で。
『一人で決めないで』
そう言う。
それでも自分が辞めると言えば。
理由を聞く。
人事部へ行く。
タツヤ班長へ相談する。
ガーネットにも連絡する。
必要なら。
財閥上層部にだって話を持っていく。
エリンなら。
そうする。
どんな手を使ってでも。
自分を。
十四班から。
簡単には離さない。
そんな姿が。
簡単に想像できた。
だが。
それは。
エリンだけではない。
ククルも。
『何でカイエが辞めるんですか!』
絶対に怒る。
エマは。
普段より低い声で。
『納得できません』
そう言うだろう。
ミラは。
きっと。
泣く。
ランも。
黙ってはいない。
タツヤ班長は。
いつもの柔らかい口調を消して。
本気で会社と話す。
ガーネットも。
理由を聞けば。
動く。
そして。
ペルシア。
知ったら。
何をするか。
分からない。
宇宙管理局の統括官になった今でも。
きっと。
関係ない顔をして。
ドルトムントへ乗り込んでくる。
『何それ』
『誰が決めたの?』
そんな声が。
簡単に想像できる。
そして。
最後には。
『カイエはどうしたいの?』
そう聞く。
カイエは。
目を閉じた。
駄目だ。
それでは。
また。
みんなに迷惑をかける。
自分のために。
エリンが動く。
タツヤ班長が動く。
ペルシアが動く。
ククル達が怒る。
誰かが。
会社と対立する。
そんなことは。
望んでいない。
自分のせいで。
誰かに迷惑をかけるのは。
嫌だった。
だったら。
誰もいない今。
終わらせればいい。
カイエは。
掲示板から振り返った。
その時。
視線が。
ぶつかった。
少し離れた場所。
ナッシュ。
こちらを見ている。
表情は。
読めなかった。
偶然なのか。
何か知っていたのか。
それすら。
カイエには分からない。
だが。
もう。
どうでもよかった。
カイエは。
ナッシュをまっすぐ見た。
以前なら。
目を逸らしていたかもしれない。
揉めたくない。
空気を悪くしたくない。
自分が我慢すればいい。
そう思ったかもしれない。
でも。
今は。
違った。
カイエは。
静かに。
口を開いた。
「私は」
ナッシュが。
僅かに眉を動かす。
「あんた達の思い通りにはならない」
それだけ。
声を荒らげない。
睨みつけもしない。
説明もしない。
カイエは。
その横を通り過ぎた。
「カイエ」
後ろから。
ナッシュの声。
止まらなかった。
もう。
聞く必要はない。
自席へ戻る。
端末。
書類。
小さな私物。
仕事で使っていたメモ。
ペン。
休憩中に使っていたマグカップ。
少しずつ。
机の上から。
自分のものを取り除いていく。
一つ。
また一つ。
机が。
入社した時のように。
何もない状態へ戻っていく。
引き出しを開ける。
そこに。
一枚の写真があった。
十四班。
みんなで撮った写真。
ペルシアが。
まだドルトムントにいた頃。
真ん中で。
当然のように笑っている。
その横にエリン。
タツヤ班長。
ミラ。
ラン。
ククル。
エマ。
そして。
自分。
「……」
カイエの指が。
少しだけ止まった。
ペルシア。
あの人が。
ドルトムントを離れる時。
言った。
頼む。
十四班を。
みんなを。
その言葉を。
カイエは。
ずっと覚えていた。
ペルシアがいなくなっても。
ここを。
大切にしたかった。
ペルシアが大事にしていた場所を。
守りたかった。
エリンと。
タツヤ班長と。
みんなと。
もっと。
十四班を良くしたかった。
自分だって。
少しは。
役に立てると思っていた。
ナッシュのことも。
本当なら。
何とかしたかった。
怒りたいわけではなかった。
追い出したいわけでもない。
ただ。
安全に。
ちゃんと仕事ができるように。
変わってほしかった。
それだけだった。
でも。
ここまでだった。
「ごめんなさい」
誰にも聞こえない声。
ペルシアへ。
言った。
「頼むって言われたのに」
写真を。
ゆっくり持ち上げる。
「最後まで、できませんでした」
志半ば。
その言葉が。
胸の中へ落ちる。
悔しくないわけではない。
寂しくないわけでもない。
でも。
涙は。
出なかった。
不思議なくらい。
出なかった。
悲しくないからではない。
たぶん。
もう。
決めてしまったから。
カイエは。
写真を丁寧に。
荷物の一番上へ置いた。
そして。
最後に。
自分の席を見る。
何もなくなった机。
何度も。
ここで仕事をした。
ククルに話しかけられ。
エマと資料を確認し。
ミラをからかい。
ランと笑い。
タツヤ班長に相談し。
エリンに助けられ。
ペルシアに振り回された。
楽しかった。
そう思う。
間違いなく。
楽しかった。
だからこそ。
ここで。
終わりにする。
誰かが帰ってくる前に。
カイエは。
荷物を持ち上げた。
そして。
机から離れた。
その時。
十四班の共有端末。
小さな通知音が鳴った。
カイエは。
反射的に画面を見る。
『エリン』
一瞬。
身体が止まった。
通信ではない。
短いメッセージ。
『リュウジ、無事に退院したわ。心配かけました。午後には一度そっちへ顔を出すね』
カイエは。
その文字を。
しばらく見つめた。
「……午後」
小さく呟く。
時間は。
まだ。
昼前。
午後になれば。
エリンが戻ってくる。
見つかる。
この荷物を。
空になった机を。
退職しようとしている自分を。
見つける。
そして。
絶対に。
止める。
カイエは。
端末から目を離した。
「……駄目」
自分へ言い聞かせるように。
小さく言う。
エリンさんが来る前に。
行かなければ。
そうしなければ。
きっと。
自分は。
ここを離れられなくなる。
十四班の出口へ。
歩き出す。
荷物は。
それほど重くない。
なのに。
一歩ずつが。
妙に重かった。
それでも。
カイエは。
振り返らなかった。
涙も。
最後まで。
出なかった。
―――
宇宙管理局医療センターを出てから。
エリンは、リュウジを一人で帰らせなかった。
当然だった。
退院許可は出た。
歩くこともできる。
食事もできる。
数値も回復している。
だが。
医師から渡された注意事項には。
無理をしない。
十分な睡眠。
長時間の外出を控える。
食事を抜かない。
仕事関係の端末を長時間使用しない。
操縦業務への復帰は次回診察後。
いくつもの項目が並んでいた。
リュウジの家へ到着すると。
エリンは荷物を置いた。
そして。
リュウジをソファへ座らせた。
「じゃあ、もう一回確認するわよ」
リュウジの眉が動いた。
「さっき病院で聞きました」
「聞いたのと守るのは別でしょう?」
「守ります」
「本当に?」
「本当です」
エリンは。
医療センターから渡された書類を広げた。
「まず、今日は外出しないこと」
「はい」
「仕事の端末も必要以上に見ない」
「はい」
「食欲がなくても何か食べる」
「はい」
「夜更かししない」
「はい」
「お酒は禁止」
「飲みません」
「運動も駄目」
「しません」
「操縦訓練も」
「しません」
「会社から連絡が来ても」
「必要なら返します」
「必要最低限」
「分かってます」
「それから――」
リュウジが。
小さく息を吐いた。
「エリンさん」
「何?」
「もう耳にタコができそうです」
「できるくらいでちょうどいいの」
「病院からここまでの間にも聞きました」
「あなたは何回言っても無理するでしょう?」
「しません」
「信用できない」
「酷いですね」
「今回のあなたを見た後だもの」
その言葉で。
リュウジが黙った。
エリンも。
少しだけ表情を緩める。
「……お願いだから、今くらい、ちゃんと休んで」
先ほどまでとは違う。
静かな声。
リュウジは。
エリンを見る。
未探索領域から戻ってきて。
精密検査。
入院。
退院。
そのほとんどに。
エリンがいた。
「分かりました」
今度は。
少し素直に答えた。
「ちゃんと休みます」
「うん」
エリンはようやく笑った。
「じゃあ、私は会社に行ってくる」
「今日は休んでもいいんじゃないですか?」
「あなたの退院手続きが終わるまで休みにしてもらっただけよ」
「そうですか」
「夕方には戻るから」
リュウジが。
僅かに眉を上げる。
「戻ってくるんですか?」
「何?」
「いや」
「何よ」
「別に」
エリンは。
少しだけ目を細めた。
「夕食、一人で適当に済ませそうだから」
「できますよ」
「何食べるつもり?」
「……」
「ほら」
「まだ決めてないだけです」
「だから戻ってくるの」
「ペルシアに夫婦って言われますよ」
エリンの動きが止まった。
「……え?」
「昨日、ペルシアが見舞いに来て、エリンさんはどこだって聞かれたから、フライトに行って夜に来るって言ったら」
リュウジは。
少し面倒そうに続ける。
「夫婦かって」
「……」
エリンの頬が。
みるみる赤くなる。
「ペルシア……!」
「俺に怒らないでください」
「あなたには怒ってない!」
「ならいいですけど」
「もう……!」
エリンは鞄を持つ。
「とにかく!今日は休む!」
「はい」
「何かあったら連絡!」
「はい」
「勝手に出掛けない!」
「分かりました」
「絶対よ?」
「分かってます」
玄関へ向かう。
それでも。
最後にもう一度。
振り返った。
「本当に無理しないでね」
「大丈夫です」
エリンの目が細くなる。
「……じゃなくて」
リュウジが。
一瞬考える。
「分かりました」
「よろしい」
エリンは。
ようやく家を出た。
◇
ドルトムント財閥旅行会社。
エリンが会社へ到着したのは。
それから少し後だった。
建物へ入り。
社員用通路を進む。
十四班へ戻る前に。
退院手続きのため遅れて出社したことを報告しよう。
そう思っていた時だった。
携帯端末が鳴った。
画面を見る。
「ガーネット?」
珍しい。
すぐに通話へ出る。
「もしもし?」
『エリンさん』
ガーネットの声。
それだけで。
エリンの足が止まった。
いつもの落ち着いた声ではない。
「どうしたの?」
『今、どちらですか?』
「会社に着いたところだけど」
『急いで十四班へ来てください』
エリンの表情が変わる。
「何かあったの?」
短い沈黙。
『……来ていただいた方が早いです』
「分かった」
通話が切れる。
何?
事故?
乗務関係?
ナッシュ?
それとも。
誰かが怪我をした?
エリンは。
歩く速度を上げた。
やがて。
十四班フロアへ続く廊下へ入る。
その時だった。
「カイエに何をしたの!!」
響いた声。
エリンが。
足を止める。
「……ククル?」
間違いない。
ククルだ。
だが。
普段の明るい声ではない。
完全に怒っている。
エリンは。
駆け出した。
十四班の扉を開く。
「何してるの!?」
目に飛び込んできた光景。
中央。
ナッシュ。
その正面に。
ククル。
そして。
「ククル、やめて!」
エマが。
後ろからククルを必死に抑えていた。
「離して、エマ!」
「駄目!」
「離して!」
「落ち着いて!」
「落ち着けるわけないでしょ!!」
ククルの目には。
涙が溜まっている。
怒っている。
それなのに。
泣いている。
エマも。
いつもの穏やかな顔ではなかった。
必死だった。
少し離れた場所には。
ガーネット。
ミラ。
ラン。
数人の乗務員。
誰も。
いつもの顔をしていない。
エリンは。
すぐに二人の間へ入った。
「ククル!」
ククルが。
振り向く。
「エリンさん……」
その瞬間。
怒りで張り詰めていた顔が。
僅かに崩れた。
「何があったの!?」
エリンは。
ククルの肩へ手を置く。
「何でナッシュと揉めてるの?」
「だって……」
ククルの唇が震える。
「ククル?」
「カイエが……」
一度。
声が詰まった。
「カイエが……」
涙が落ちる。
エリンの胸に。
嫌な感覚が走った。
「カイエが何?」
ククルは。
答えられない。
エマが。
ククルの背中へ手を置いた。
エリンは。
周囲を見る。
そして。
気づいた。
カイエがいない。
「……カイエは?」
誰も。
すぐに答えない。
「今日、出勤してたんでしょう?」
沈黙。
「ガーネット」
エリンが見る。
ガーネットは。
唇を僅かに噛み。
エリンへ頭を下げた。
「エリンさん」
「何?」
「人事異動が発表されました」
「人事異動?」
「はい」
エリンの眉が寄る。
「誰の?」
ガーネットが。
答える前に。
ミラが。
小さな声を出した。
「カイエさんです」
エリンの表情が。
止まる。
「……え?」
「今日付で、社内掲示板に出ました」
ミラの声が震えている。
ミラはエリンへ敬語を崩さない。
それでも。
今は。
いつもの落ち着きがない。
「異動先は……」
言いづらそうに。
言葉を止める。
ランが。
代わった。
「冥王星です」
「……冥王星?」
エリンは。
聞き返した。
「系列子会社の冥王星支社への異動です」
「待って」
エリンが。
すぐに言う。
「私は聞いてない」
ガーネットが頷く。
「私達もです」
「タツヤ班長は?」
「まだ戻られていません」
「カイエ本人は?」
また。
沈黙。
今度は。
ランが目を伏せた。
「……辞めました」
「何を?」
エリンは。
本当に意味が分からなかった。
「会社を」
ランが。
はっきり言った。
「カイエさんは、会社を辞めました」
エリンの頭から。
一瞬。
音が消えた。
「……辞めた?」
聞き間違いだと思った。
「はい」
「カイエが?」
「はい」
「今日?」
「はい」
「何で?」
誰も答えられない。
「何でカイエが辞めるの?」
エリンの声が。
少しだけ強くなる。
ククルが。
またナッシュを見る。
「こいつのせいです!」
「ククル」
エマが止める。
「だってそうでしょ!」
ククルは。
涙を拭おうともせず。
ナッシュを睨んだ。
「カイエがナッシュに怒った後で!いきなり冥王星に異動なんて!そんなの偶然なわけない!」
ナッシュが。
眉を寄せる。
「俺が決めたわけじゃない」
「じゃあ誰が決めたの!」
「知らない」
「嘘!」
「ククル!」
エリンの声。
ククルが止まる。
「今は決めつけない」
「でも!」
「分かってる」
エリンは。
ククルをまっすぐ見る。
「私だって、納得してない」
静かだが。
はっきりした声。
「だからこそ何があったのか確認する。ナッシュを責めるのは、それから」
ククルは。
歯を食いしばる。
「……はい」
それでも。
涙は止まらない。
エリンは。
カイエの席を見る。
そして。
言葉を失った。
何もない。
端末も。
マグカップも。
普段置かれていた私物も。
ない。
綺麗だった。
あまりにも。
綺麗だった。
カイエが。
最初からそこにいなかったように。
「……荷物は?」
エリンが聞く。
エマが。
小さく答える。
「持っていきました」
「全部?」
「……たぶん」
「誰も止めなかったの?」
責めたわけではない。
ただ。
理解できなかった。
ガーネットが。
苦しそうに答える。
「私達が戻った時には、もういなかったんです。掲示板を見た後、荷物をまとめて出たらしくて」
エリンの目が。
カイエの机から離れない。
「連絡は?」
「何度もしています」
「繋がらない?」
「はい」
ガーネットの言葉を聞くより早く。
エリンは。
自分の端末を取り出していた。
連絡先。
カイエ。
通話。
呼び出し。
一回。
二回。
三回。
誰も出ない。
「カイエ……」
四回。
五回。
そして。
通話終了。
「もう一回」
再び。
発信。
呼び出し。
誰も出ない。
エリンの表情が。
少しずつ変わっていく。
「出て……」
小さな声。
「カイエ、出て」
繋がらない。
エリンは。
今度はメッセージを開く。
『カイエ、今どこ?』
送信。
『会社に戻ってきて』
一度。
指が止まる。
違う。
命令するように言っても。
カイエは戻らないかもしれない。
エリンは。
文字を打ち直す。
『怒ってないから』
『何があったのか、ちゃんと話して』
『一人で決めないで』
送る。
既読は。
つかない。
「……どうして」
エリンは。
カイエの空席を見る。
昨日まで。
そこにいた。
少し眠そうな顔で。
真面目に端末を見て。
ククルに絡まれて。
エマと話して。
必要なら。
誰より正確に指摘する。
そのカイエが。
いない。
そして。
エリンの頭に。
数日前のやり取りが蘇る。
『カイエが全部背負う必要はないわ』
『はい』
『一人で受け止めないこと』
『承知しました』
『いつでも相談してよ』
『はい』
あの時。
カイエは。
ちゃんと返事をした。
「……カイエ」
エリンの手が。
僅かに震えた。
「私、言ったじゃない」
誰へ言ったわけでもない。
「一人で受け止めないでって」
ククルが。
また泣いた。
「エリンさん……」
「うん」
エリンは。
まだ端末を握っている。
「絶対に探す」
その言葉に。
全員がエリンを見る。
エリンは。
空席から目を離した。
そして。
ガーネットを見る。
「ガーネット」
「はい」
「この異動」
声が。
チーフパーサーのものへ変わる。
「誰が決裁したのか確認して」
「分かりました」
「異動の起案日も」
「はい」
「ナッシュとの件より前なのか、後なのか」
「確認します」
「ミラ」
「はい」
「カイエが今日、誰と話したか分かる?」
「確認します」
「ラン」
「はい」
「退職手続き」
「誰が受けたのか調べて」
「承知しました」
エリンは。
次々と指示を出す。
「エマ」
「はい」
「ククルをお願い」
「分かりました」
「私は大丈夫!」
ククルが。
涙を拭きながら言う。
「大丈夫じゃないでしょう」
エマが。
今度は優しくククルの腕を掴む。
「カイエを探さないと!」
「探すわ」
エリンが答える。
「でも、今のククルを一人では行かせられない」
「……」
「お願い」
ククルの顔が。
また崩れる。
「カイエ……」
エマが。
そっと抱き寄せる。
「うん。絶対、見つけよう」
エリンは。
最後に。
ナッシュを見る。
ナッシュは。
先ほどから黙っていた。
「ナッシュ」
「……はい」
エリンに呼ばれ。
いつものように敬語へ戻る。
「あなたにも後で話を聞く」
「分かりました」
「今は何も決めつけない」
「でも」
エリンの目が。
僅かに鋭くなる。
「カイエとの間で何があったのか、一つも隠さないで」
ナッシュが。
僅かに目を逸らす。
「……はい」
エリンは。
もう一度。
カイエへ電話をかけた。
繋がらない。
「お願い……」
呼び出し音。
「出てよ、カイエ」
それでも。
応答はなかった。
◇
その頃。
カイエの携帯端末には。
いくつもの着信が残っていた。
ククル。
エマ。
ガーネット。
ミラ。
ラン。
そして。
エリン。
何度も。
何度も。
エリン。
画面が光る。
『カイエ、今どこ?』
『怒ってないから』
『何があったのか、ちゃんと話して』
『一人で決めないで』
カイエは。
画面を見ていた。
指が。
僅かに動く。
エリンさん。
やっぱり。
戻ってきた。
予想通りだった。
そして。
予想通り。
探している。
「……すみません」
小さく呟く。
電話へ出れば。
終わる。
エリンの声を聞けば。
きっと。
戻ってしまう。
『カイエ、帰ってきて』
そう言われたら。
自分は。
断れない。
だから。
出ない。
端末が。
また震えた。
表示。
『エリン』
カイエは。
目を閉じた。
胸が痛い。
それでも。
通話ボタンには触れなかった。
「……今だけ」
声が。
ほんの少し震えた。
「今だけは」
「エリンさんの言うこと」
「聞けません」
着信が。
切れた。
画面が暗くなる。
だが。
数秒後。
再び。
光った。
また。
エリンだった。
今度こそ。
カイエの目に。
僅かに涙が滲んだ。