サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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異動

 

 宇宙管理局医療センター。

 

 午後。

 

 個室の中は静かだった。

 

 窓の外には、宇宙管理局の連絡通路と、その向こうに広がる宇宙港の一部が見えている。

 

 数日前まで。

 

 リュウジは、その宇宙港へ戻れるかどうかさえ分からない場所にいた。

 

 北部未探索領域。

 

 粉塵帯。

 

 損傷した調査船。

 

 疲労。

 

 睡眠不足。

 

 そこから帰還した今。

 

 ベッド脇には点滴台が置かれ。

 

 リュウジの腕には細いチューブが繋がっていた。

 

 本人はというと。

 

 上半身を少し起こし。

 

 病院から渡された端末で、調査船の最終記録を眺めている。

 

 入院している人間とは思えない。

 

 もっと正確に言えば。

 

 入院している自覚が薄い。

 

 医師からは休めと言われ。

 

 エリンからは。

 

 わがまま言わないの。

 

 と強く言われた。

 

 それでも。

 

 何もせずに寝ているということが苦手だった。

 

 その時。

 

 個室の扉が。

 

 軽く二回叩かれた。

 

「どうぞ」

 

 リュウジが答える。

 

 扉が開く。

 

 最初に見えたのは。

 

 金色の髪だった。

 

「お邪魔しまーす」

 

 聞き慣れた軽い声。

 

 ペルシアだった。

 

 片手には紙袋。

 

 もう片方には小さな飲み物の袋を持っている。

 

「ペルシア」

 

「お、生きてる」

 

「見れば分かるだろ」

 

「一応ね」

 

 ペルシアは室内へ入り。

 

 後ろ手で扉を閉める。

 

 そのままベッド脇へ歩いてきた。

 

「もっと病人みたいな顔してると思った」

 

「病人みたいな顔って何だ」

 

「こう」

 

 ペルシアは急に肩を落とし。

 

 目を半分閉じ。

 

 弱々しい声を作った。

 

「もう駄目……私はここまで……って感じ」

 

「帰れ」

 

「ひどっ」

 

 いつものやり取り。

 

 だが。

 

 リュウジには分かる。

 

 ペルシアが入室して最初に確認したのは。

 

 自分の顔色。

 

 点滴。

 

 モニター。

 

 そして。

 

 ベッド脇の飲み物だった。

 

 口ではふざけている。

 

 目は。

 

 ちゃんと見ている。

 

 ペルシアは椅子を引き。

 

 そこへ座ろうとして。

 

 ふと。

 

 室内を見渡した。

 

 そして。

 

 首を傾げる。

 

「あれ?」

 

「何だ」

 

「エリンは?」

 

 リュウジは端末から視線を上げた。

 

「フライトがあるからって仕事に行った。夜に来るそうだ」

 

 一瞬。

 

 ペルシアが止まった。

 

「……夜に来るの?」

 

「ああ」

 

「朝もいた?」

 

「いた」

 

「昨日も?」

 

「来てた」

 

 ペルシアの口元が。

 

 ゆっくりと上がっていく。

 

 リュウジは嫌な予感がした。

 

「何だ」

 

「いやぁ?」

 

 ペルシアは肘を椅子の背へ乗せ。

 

 頬杖をつく。

 

「朝来て、仕事行って、フライト終わったら夜また来るの?」

 

「そう言ってた」

 

「なにそれ」

 

 ペルシアの目が。

 

 完全に面白がるものへ変わった。

 

「夫婦?」

 

 ニヤニヤしながら。

 

 言い切った。

 

 リュウジの眉が動く。

 

「違う」

 

「即答」

 

「違うものは違う」

 

「はいはい」

 

 ペルシアは全く信じていない。

 

「でもさ」

 

「何だ」

 

「精密検査に一日付き添って、入院の説明聞いて、書類まで書いて、朝も見に来て、仕事終わったら夜また来るんでしょ?」

 

 ペルシアは指を一つずつ折る。

 

「それを世間では」

 

「世間で勝手に決めるな」

 

「まだ言い終わってない」

 

「言わなくていい」

 

「夫婦」

 

「帰れ」

 

「二回目!」

 

 ペルシアは楽しそうに笑った。

 

 リュウジは。

 

 僅かにため息を吐く。

 

「エリンさんは」

 

 言ってから。

 

 一度止まる。

 

「今回のことを心配してくれてるだけだ」

 

「うん」

 

「それ以上じゃない」

 

「うんうん」

 

「その返事やめろ」

 

「聞いてるわよ」

 

 ペルシアは笑いを堪えながら。

 

 リュウジを見る。

 

「でも」

 

 少しだけ。

 

 声の温度が変わった。

 

「エリンが心配するのも当然よ」

 

 リュウジの目が。

 

 僅かに下がる。

 

 ペルシアは。

 

 ふざけるのをやめる。

 

「あなた、帰還直前の声、本当に酷かったもの」

 

 数日前。

 

 調査船との通信。

 

 何時間起きているのか。

 

 聞いても。

 

 分からない。

 

 最後に寝たのは。

 

 昨日。

 

 何時かは覚えていない。

 

 それでも。

 

 操縦はできる。

 

 問題ない。

 

 その言葉ばかり。

 

 あの時のリュウジは。

 

 怒っていたわけではない。

 

 投げやりだったわけでもない。

 

 ただ。

 

 疲れ切っていた。

 

 言葉を出すことさえ。

 

 面倒になるほど。

 

「今だから言うけど」

 

「何だ」

 

「通信してる時、結構怖かった」

 

 リュウジが。

 

 少しだけ目を上げる。

 

 ペルシアは笑わない。

 

「操縦が失敗すると思ったわけじゃない、あなたなら帰ってくるって思ってた。でも、その前に身体が止まるんじゃないかと思った」

 

 リュウジは何も言わない。

 

「だからエリンが毎日来るのも分かる。私だって来たし」

 

 そこで。

 

 ペルシアは紙袋を持ち上げた。

 

「ほら見舞い」

 

「何だ?」

 

「開けてみて」

 

 リュウジが。

 

 袋の中を覗く。

 

「……プリン?」

 

「そう」

 

 数種類のプリン。

 

 ゼリー。

 

 飲むヨーグルト。

 

 小さなスポーツドリンク。

 

 胃へ負担が少なそうなものが。

 

 いくつも入っている。

 

 リュウジが。

 

 ペルシアを見る。

 

「お前が選んだのか?」

 

「失礼ね。一応、クリスタルに聞いた」

 

「やっぱりな」

 

「何その反応」

 

「お前だけなら、酒持ってきそうだから」

 

「さすがに入院患者へ酒は持ってこないわよ!」

 

 一拍置いて。

 

 ペルシアは小さく付け足す。

 

「退院祝いなら考えるけど」

 

「考えるな」

 

「冗談よ」

 

 リュウジは。

 

 プリンの一つを手に取る。

 

「ありがとう」

 

「素直」

 

「礼ぐらい言う」

 

「もっと褒めてもいいわよ」

 

「何を」

 

「わざわざ仕事の合間に来てあげた統括官様を」

 

「暇なのか?」

 

「忙しい!」

 

 ペルシアは即座に言う。

 

「忙しいけど、来たの。だから感謝して」

 

「してる」

 

「もっと」

 

「ありがとう」

 

「気持ちが薄い」

 

「面倒くさいな」

 

「病人が酷い」

 

 また。

 

 いつもの軽口。

 

 それが。

 

 ペルシアにとっても。

 

 少し安心だった。

 

 調査船との通信では。

 

 返事の一つ一つが遅かった。

 

 声も重かった。

 

 今は。

 

 こうして普通に言い返してくる。

 

 面倒そうに眉を寄せる。

 

 ため息も吐く。

 

 その全部が。

 

 戻ってきた証拠に見えた。

 

「それで?」

 

 リュウジが聞く。

 

「見舞いだけか?」

 

「何よ」

 

「何か話がある顔してる」

 

「……分かる?」

 

「長い付き合いだからな」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ笑った。

 

「さっき」

 

「調査隊の人達と会議してきた」

 

 リュウジの表情が。

 

 僅かに変わる。

 

「カイルもか」

 

「いた」

 

「そうか」

 

 それだけ。

 

 リュウジは。

 

 特に興味を示さない。

 

 ペルシアは。

 

 その反応を見て。

 

 何となく察した。

 

「聞かないの?」

 

「何を」

 

「何を話したとか」

 

「必要なら報告が来るだろ」

 

「相変わらずね」

 

 ペルシアは。

 

 椅子へ深く座る。

 

「報告書を管理局にも出してほしいってお願いしたの。任意で、そのための同意書も置いて」

 

「それで?」

 

「カイルと少し揉めた」

 

「少し?」

 

 リュウジが。

 

 疑うように見る。

 

「……まあまあ」

 

「お前のまあまあは信用できない」

 

「最近みんなそれ言うのよ」

 

 ペルシアは口を尖らせる。

 

「でも大丈夫。ちゃんと止めたから」

 

「誰を」

 

「みんなを」

 

「何したんだ」

 

 リュウジの目が。

 

 少し鋭くなる。

 

「別に大したことじゃない。私のことを馬鹿にされて、みんなが怒っただけ」

 

「……全員?」

 

「ほぼ全員」

 

「何でそうなる」

 

「私も聞いた」

 

 ペルシアは。

 

 急に嬉しそうになる。

 

「そしたらさ、みんな私のこと好きみたい」

 

「そうか」

 

「反応薄くない?」

 

「良かったな」

 

「もっと驚きなさいよ」

 

「前から分かってる」

 

 今度は。

 

 ペルシアが止まった。

 

「何が?」

 

「みんな、お前のこと信頼してるだろ」

 

 それは。

 

 リュウジにとって。

 

 特別なことを言ったつもりではなかった。

 

 ただ。

 

 見たまま。

 

 思ったままを口にしただけ。

 

 ペルシアは。

 

 数秒黙る。

 

「……そういうこと、さらっと言うの」

 

「何がだ」

 

「ずるいわね」

 

 ペルシアは。

 

 少し照れたように視線を逸らす。

 

 そして。

 

 すぐに話題を戻した。

 

「まあ、あなたが入院してて良かったわ」

 

「何でだ」

 

「会議にいたらカイルと絶対揉めてたでしょう?」

 

 リュウジは。

 

 少しだけ考える。

 

「揉めない」

 

「嘘」

 

「必要がなければ何も言わない」

 

「必要があったら?」

 

「言う」

 

「ほら」

 

 ペルシアは即座に指を差す。

 

「絶対揉める」

 

「内容による」

 

「私のこと馬鹿にされたら?」

 

 リュウジは。

 

 一瞬。

 

 黙る。

 

 ペルシアが。

 

 にやりとする。

 

「何?」

 

「別に」

 

「今、考えたでしょ」

 

「考えてない」

 

「嘘」

 

「しつこい」

 

 ペルシアは。

 

 楽しそうに笑う。

 

「リュウジも怒るんだ?」

 

「状況による」

 

「へぇー」

 

「その顔やめろ」

 

「可愛いところあるじゃない」

 

「帰れ」

 

「今日三回目!」

 

 病室に。

 

 ペルシアの笑い声が広がった。

 

 数秒後。

 

 リュウジも。

 

 小さく息を吐く。

 

 僅かに。

 

 口元が緩んでいた。

 

 それを。

 

 ペルシアは見逃さない。

 

「笑った」

 

「笑ってない」

 

「笑った」

 

「気のせいだ」

 

「エリンに言お」

 

「何を」

 

「リュウジ、私と二人きりだと笑ってたよって」

 

「余計なこと言うな」

 

「どうして?」

 

「どうしてもだ」

 

「怪しい」

 

「何がだ」

 

「夫婦だから?」

 

「違う」

 

 ペルシアは。

 

 またニヤニヤする。

 

「でも」

 

 ふと。

 

 扉へ視線を向ける。

 

「夜に来るんでしょ?」

 

「ああ」

 

「何時?」

 

「フライトが終わってからだから、分からない」

 

「待ってるの?」

 

「別に」

 

「待ってる顔してる」

 

「どんな顔だ」

 

「旦那の顔」

 

「帰れ」

 

「四回目!」

 

 ペルシアは笑いながら立ち上がる。

 

「まあ、長居するとエリンに怒られそうだし」

 

「何でエリンさんが怒るんだ」

 

「病人を疲れさせるなって、言いそうでしょ?」

 

 リュウジは。

 

 否定しようとして。

 

 少し考える。

 

「……言いそうだな」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは紙袋をベッド脇へ置き。

 

 椅子を元の位置へ戻す。

 

「じゃあ今日はちゃんと寝なさい」

 

「分かってる」

 

「端末も閉じる」

 

「あとで」

 

「今」

 

「ペルシア」

 

「何?」

 

「エリンさんみたいになってきたな」

 

 ペルシアは。

 

 一瞬。

 

 固まった。

 

 そして。

 

 すぐに嫌そうな顔をする。

 

「それ褒めてる?」

 

「どうだろうな」

 

「絶対褒めてない」

 

 リュウジは。

 

 端末を閉じる。

 

「これでいいか」

 

「よろしい」

 

 満足そうに。

 

 ペルシアが頷く。

 

 扉へ向かい。

 

 手をかける。

 

 そこで。

 

 一度だけ振り返った。

 

「リュウジ」

 

「何だ」

 

 先ほどまでの。

 

 からかう顔ではない。

 

「帰ってきてくれて、本当に良かった」

 

 リュウジは。

 

 少しだけ目を細めた。

 

「ああ、助かった」

 

 粉塵帯を抜けた直後。

 

 宇宙管理局へ戻った時。

 

 リュウジは。

 

 ペルシアへ同じ言葉を言った。

 

 助かった。

 

 ペルシアは。

 

 その言葉を思い出し。

 

 僅かに笑った。

 

「今度はこんな無茶しないでよ」

 

「俺のせいじゃない」

 

「知ってる」

 

 ペルシアは。

 

 すぐに答えた。

 

「だから今度はちゃんと周りを頼りなさい」

 

 リュウジは。

 

 少しだけ黙る。

 

「……分かった」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「じゃあ」

 

 ペルシアは。

 

 また悪戯っぽい笑みに戻る。

 

「エリン奥さんにもちゃんと頼るのよ?」

 

「帰れ」

 

「五回目!」

 

 笑いながら。

 

 ペルシアは病室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 再び。

 

 静かになる個室。

 

 リュウジは。

 

 閉じた端末へ視線を落とす。

 

 それから。

 

 枕元に置かれた自分の携帯端末を見る。

 

 画面には。

 

 エリンから届いた短いメッセージ。

 

『フライト終わったら行くね。ちゃんと休んでて』

 

 リュウジは。

 

 数秒。

 

 その文字を見つめた。

 

「……夫婦じゃない」

 

 誰もいない部屋で。

 

 小さく呟く。

 

 だが。

 

 その声には。

 

 先ほどより。

 

 ほんの僅かに。

 

 照れが混じっていた。

 

 

 

―――――

 

 

 

 

 結局。

 

 リュウジの入院は、一週間になった。

 

 当初は。

 

 精密検査を終え。

 

 数日間の経過観察。

 

 それで済む予定だった。

 

 だが。

 

 長期間に及んだ睡眠不足。

 

 極度の疲労。

 

 栄養状態の低下。

 

 さらに。

 

 本人が自覚している以上に。

 

 身体へ負担が残っていた。

 

 医師は。

 

 退院を急がせなかった。

 

 そして。

 

 一週間後。

 

 退院の日。

 

 当然のように。

 

 エリンがいた。

 

 ◇

 

「これで全部かしら?」

 

「はい。退院関係の書類はこちらで以上です」

 

 宇宙管理局医療センター。

 

 退院受付。

 

 エリンは渡された書類を一枚ずつ確認していた。

 

 退院許可書。

 

 処方薬。

 

 次回受診日。

 

 生活上の注意事項。

 

 食事。

 

 睡眠。

 

 運動。

 

 復職までの目安。

 

 その横には。

 

 退院する本人。

 

 リュウジが立っている。

 

 だが。

 

 なぜか。

 

 話はほとんどエリンへ向けられていた。

 

「しばらく睡眠時間は十分に確保してください」

 

「はい」

 

「食事も一度に多く摂らなくて構いません。三食を基本に、食欲が戻らなければ少量ずつでも」

 

「分かりました」

 

「激しい運動は?」

 

「少なくとも次回診察までは控えてください」

 

「フライトは?」

 

「操縦業務への復帰は、次回診察の結果を見てからです」

 

「分かりました」

 

 エリンが真剣に頷く。

 

 医師も。

 

 エリンを見て話している。

 

 リュウジは。

 

 少し黙っていた。

 

 そして。

 

 ようやく口を挟む。

 

「あの」

 

「はい?」

 

「退院するのは俺です」

 

 医師がリュウジを見る。

 

「分かっています」

 

「なら、俺に説明した方がいいのでは?」

 

 一瞬。

 

 医師が黙る。

 

 それから。

 

 エリンを見る。

 

「入院中の様子を見ていると、エリンさんにも説明しておいた方が確実かと」

 

「どういう意味ですか」

 

「あなた、無理をしても『大丈夫です』と言うでしょう」

 

「……」

 

「言いますね」

 

 エリンが即答した。

 

「エリンさん」

 

「だって言うでしょう?」

 

「状況によります」

 

「粉塵帯から帰ってきた時も言ってたじゃない」

 

「それは」

 

「歩ける。問題ない、少し疲れてるだけ。全部聞いたわよ」

 

「……」

 

 医師が小さく頷いた。

 

「ですので」

 

「何が、ですので、なんですか」

 

「退院後の管理については、エリンさんにも共有します」

 

「管理って」

 

「分かりました」

 

 エリンが頷く。

 

「エリンさん?」

 

「何?」

 

「何で引き受けてるんですか」

 

「あなたが言うこと聞かないからでしょう?」

 

「聞きます」

 

「本当に?」

 

「……」

 

「ほら」

 

 医師が再び説明を始める。

 

「特に最初の三日間です。本人は体力が戻ったと感じても、長時間の外出は控えてください」

 

「はい」

 

「睡眠不足は厳禁です」

 

「はい」

 

「夜更かしも」

 

「させません」

 

「仕事関係の端末も、長時間は」

 

「取り上げます」

 

「ちょっと待ってください」

 

 リュウジが横を見る。

 

 エリンは。

 

 真面目な顔をしていた。

 

「そこまで言われてないでしょう」

 

「長時間は駄目って言われたでしょう?」

 

「取り上げろとは言われてません」

 

「同じようなものでしょう?」

 

「違います」

 

 医師は。

 

 二人のやり取りを見て。

 

 何も言わなかった。

 

 ただ。

 

 退院後の注意事項を。

 

 エリンへ渡した。

 

 リュウジではなく。

 

 エリンへ。

 

「お願いします」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「だから何でエリンさんに渡すんですか」

 

「失くさないでしょうから」

 

「俺も失くしません」

 

「そういう問題じゃないと思うわ」

 

「どういう問題なんですか」

 

 エリンは。

 

 書類を鞄へしまう。

 

「帰りましょう」

 

「話が終わってません」

 

「退院おめでとう、リュウジ」

 

「誤魔化さないでください」

 

 それでも。

 

 病院の外へ出た時。

 

 リュウジは。

 

 一週間ぶりの外の空気に。

 

 ほんの少しだけ目を細めた。

 

 その横を。

 

 エリンが歩く。

 

「荷物、持つわ」

 

「大丈夫です」

 

「駄目」

 

「軽いですよ」

 

「そういうところ」

 

「何がですか」

 

「先生が私に説明した理由」

 

「……」

 

 リュウジは。

 

 小さく息を吐いた。

 

 それでも。

 

 エリンが差し出した手へ。

 

 荷物を一つ。

 

 渡した。

 

 その頃。

 

 ドルトムントでは。

 

 全く別の出来事が起きていた。

 

 ◇

 

 ドルトムント財閥旅行会社。

 

 十四班フロア。

 

 昼前。

 

 最初に気づいたのは。

 

 誰だったのか。

 

 社内掲示板。

 

 普段なら。

 

 業務連絡。

 

 運航変更。

 

 研修案内。

 

 勤務規定の更新。

 

 そんなものが並ぶ場所。

 

 その一番上。

 

 新しい通知が掲載されていた。

 

『人事異動のお知らせ』

 

 数人の社員が。

 

 何気なく画面を見る。

 

 そして。

 

 足を止めた。

 

 異動者。

 

 所属。

 

 異動先。

 

 発令日。

 

 そこに。

 

 一人の名前があった。

 

 カイエ。

 

 ドルトムント財閥旅行会社。

 

 十四班。

 

 異動先。

 

 ドルトムント財閥系列会社。

 

 冥王星支社。

 

 その文字を。

 

 カイエ自身も見ていた。

 

「……」

 

 声は出なかった。

 

 驚いた。

 

 はずだった。

 

 だが。

 

 不思議と。

 

 頭のどこかでは。

 

 納得している自分がいた。

 

 ああ。

 

 やっぱり。

 

 そう思った。

 

 ナッシュに怒った時点で。

 

 こうなるのではないか。

 

 どこかで。

 

 思っていた。

 

 乗客の安全を軽視する発言。

 

 責任を周囲へ押し付ける態度。

 

 それに。

 

 自分は。

 

 初めて。

 

 真正面から怒った。

 

 言い返した。

 

 十四班のカイエではなく。

 

 一人の社員として。

 

 許せないと言った。

 

 その後。

 

 自分の伝え方に問題があったのではないかとも考えた。

 

 もっと冷静に。

 

 もっと早く。

 

 周囲へ相談していれば。

 

 違う結果になったのではないか。

 

 エリンにも言われた。

 

 全部背負う必要はない。

 

 一人で受け止めないこと。

 

 タツヤ班長へすぐ共有すること。

 

 分かっていた。

 

 分かっていたのに。

 

 結局。

 

 こうなった。

 

「冥王星……」

 

 誰かが。

 

 小さく呟いた。

 

 遠い。

 

 あまりにも。

 

 遠い。

 

 同じ財閥系列。

 

 形式上は。

 

 単なる人事異動。

 

 だが。

 

 十四班から。

 

 冥王星。

 

 簡単に行き来できる距離ではない。

 

 事実上。

 

 今までの生活も。

 

 人間関係も。

 

 仕事も。

 

 全部変わる。

 

 カイエは。

 

 掲示板を見たまま。

 

 静かに息を吐いた。

 

 ちょうどよかった。

 

 そう思った。

 

 今は。

 

 ガーネットもいない。

 

 ミラもいない。

 

 ランもいない。

 

 エマも。

 

 ククルも。

 

 別の業務へ出ている。

 

 タツヤ班長も。

 

 外している。

 

 そして。

 

 エリンも。

 

 いない。

 

 リュウジの退院へ行っている。

 

 こんな姿を。

 

 見せなくて済む。

 

 カイエは。

 

 もう。

 

 決めていた。

 

 冥王星へは行かない。

 

 異動もしない。

 

 ドルトムントを。

 

 辞める。

 

 それだけだった。

 

 もし。

 

 エリンがここにいたら。

 

 きっと。

 

 止める。

 

 絶対に。

 

『カイエ』

 

 いつもの。

 

 柔らかい声で。

 

『一人で決めないで』

 

 そう言う。

 

 それでも自分が辞めると言えば。

 

 理由を聞く。

 

 人事部へ行く。

 

 タツヤ班長へ相談する。

 

 ガーネットにも連絡する。

 

 必要なら。

 

 財閥上層部にだって話を持っていく。

 

 エリンなら。

 

 そうする。

 

 どんな手を使ってでも。

 

 自分を。

 

 十四班から。

 

 簡単には離さない。

 

 そんな姿が。

 

 簡単に想像できた。

 

 だが。

 

 それは。

 

 エリンだけではない。

 

 ククルも。

 

『何でカイエが辞めるんですか!』

 

 絶対に怒る。

 

 エマは。

 

 普段より低い声で。

 

『納得できません』

 

 そう言うだろう。

 

 ミラは。

 

 きっと。

 

 泣く。

 

 ランも。

 

 黙ってはいない。

 

 タツヤ班長は。

 

 いつもの柔らかい口調を消して。

 

 本気で会社と話す。

 

 ガーネットも。

 

 理由を聞けば。

 

 動く。

 

 そして。

 

 ペルシア。

 

 知ったら。

 

 何をするか。

 

 分からない。

 

 宇宙管理局の統括官になった今でも。

 

 きっと。

 

 関係ない顔をして。

 

 ドルトムントへ乗り込んでくる。

 

『何それ』

 

『誰が決めたの?』

 

 そんな声が。

 

 簡単に想像できる。

 

 そして。

 

 最後には。

 

『カイエはどうしたいの?』

 

 そう聞く。

 

 カイエは。

 

 目を閉じた。

 

 駄目だ。

 

 それでは。

 

 また。

 

 みんなに迷惑をかける。

 

 自分のために。

 

 エリンが動く。

 

 タツヤ班長が動く。

 

 ペルシアが動く。

 

 ククル達が怒る。

 

 誰かが。

 

 会社と対立する。

 

 そんなことは。

 

 望んでいない。

 

 自分のせいで。

 

 誰かに迷惑をかけるのは。

 

 嫌だった。

 

 だったら。

 

 誰もいない今。

 

 終わらせればいい。

 

 カイエは。

 

 掲示板から振り返った。

 

 その時。

 

 視線が。

 

 ぶつかった。

 

 少し離れた場所。

 

 ナッシュ。

 

 こちらを見ている。

 

 表情は。

 

 読めなかった。

 

 偶然なのか。

 

 何か知っていたのか。

 

 それすら。

 

 カイエには分からない。

 

 だが。

 

 もう。

 

 どうでもよかった。

 

 カイエは。

 

 ナッシュをまっすぐ見た。

 

 以前なら。

 

 目を逸らしていたかもしれない。

 

 揉めたくない。

 

 空気を悪くしたくない。

 

 自分が我慢すればいい。

 

 そう思ったかもしれない。

 

 でも。

 

 今は。

 

 違った。

 

 カイエは。

 

 静かに。

 

 口を開いた。

 

「私は」

 

 ナッシュが。

 

 僅かに眉を動かす。

 

「あんた達の思い通りにはならない」

 

 それだけ。

 

 声を荒らげない。

 

 睨みつけもしない。

 

 説明もしない。

 

 カイエは。

 

 その横を通り過ぎた。

 

「カイエ」

 

 後ろから。

 

 ナッシュの声。

 

 止まらなかった。

 

 もう。

 

 聞く必要はない。

 

 自席へ戻る。

 

 端末。

 

 書類。

 

 小さな私物。

 

 仕事で使っていたメモ。

 

 ペン。

 

 休憩中に使っていたマグカップ。

 

 少しずつ。

 

 机の上から。

 

 自分のものを取り除いていく。

 

 一つ。

 

 また一つ。

 

 机が。

 

 入社した時のように。

 

 何もない状態へ戻っていく。

 

 引き出しを開ける。

 

 そこに。

 

 一枚の写真があった。

 

 十四班。

 

 みんなで撮った写真。

 

 ペルシアが。

 

 まだドルトムントにいた頃。

 

 真ん中で。

 

 当然のように笑っている。

 

 その横にエリン。

 

 タツヤ班長。

 

 ミラ。

 

 ラン。

 

 ククル。

 

 エマ。

 

 そして。

 

 自分。

 

「……」

 

 カイエの指が。

 

 少しだけ止まった。

 

 ペルシア。

 

 あの人が。

 

 ドルトムントを離れる時。

 

 言った。

 

 頼む。

 

 十四班を。

 

 みんなを。

 

 その言葉を。

 

 カイエは。

 

 ずっと覚えていた。

 

 ペルシアがいなくなっても。

 

 ここを。

 

 大切にしたかった。

 

 ペルシアが大事にしていた場所を。

 

 守りたかった。

 

 エリンと。

 

 タツヤ班長と。

 

 みんなと。

 

 もっと。

 

 十四班を良くしたかった。

 

 自分だって。

 

 少しは。

 

 役に立てると思っていた。

 

 ナッシュのことも。

 

 本当なら。

 

 何とかしたかった。

 

 怒りたいわけではなかった。

 

 追い出したいわけでもない。

 

 ただ。

 

 安全に。

 

 ちゃんと仕事ができるように。

 

 変わってほしかった。

 

 それだけだった。

 

 でも。

 

 ここまでだった。

 

「ごめんなさい」

 

 誰にも聞こえない声。

 

 ペルシアへ。

 

 言った。

 

「頼むって言われたのに」

 

 写真を。

 

 ゆっくり持ち上げる。

 

「最後まで、できませんでした」

 

 志半ば。

 

 その言葉が。

 

 胸の中へ落ちる。

 

 悔しくないわけではない。

 

 寂しくないわけでもない。

 

 でも。

 

 涙は。

 

 出なかった。

 

 不思議なくらい。

 

 出なかった。

 

 悲しくないからではない。

 

 たぶん。

 

 もう。

 

 決めてしまったから。

 

 カイエは。

 

 写真を丁寧に。

 

 荷物の一番上へ置いた。

 

 そして。

 

 最後に。

 

 自分の席を見る。

 

 何もなくなった机。

 

 何度も。

 

 ここで仕事をした。

 

 ククルに話しかけられ。

 

 エマと資料を確認し。

 

 ミラをからかい。

 

 ランと笑い。

 

 タツヤ班長に相談し。

 

 エリンに助けられ。

 

 ペルシアに振り回された。

 

 楽しかった。

 

 そう思う。

 

 間違いなく。

 

 楽しかった。

 

 だからこそ。

 

 ここで。

 

 終わりにする。

 

 誰かが帰ってくる前に。

 

 カイエは。

 

 荷物を持ち上げた。

 

 そして。

 

 机から離れた。

 

 その時。

 

 十四班の共有端末。

 

 小さな通知音が鳴った。

 

 カイエは。

 

 反射的に画面を見る。

 

『エリン』

 

 一瞬。

 

 身体が止まった。

 

 通信ではない。

 

 短いメッセージ。

 

『リュウジ、無事に退院したわ。心配かけました。午後には一度そっちへ顔を出すね』

 

 カイエは。

 

 その文字を。

 

 しばらく見つめた。

 

「……午後」

 

 小さく呟く。

 

 時間は。

 

 まだ。

 

 昼前。

 

 午後になれば。

 

 エリンが戻ってくる。

 

 見つかる。

 

 この荷物を。

 

 空になった机を。

 

 退職しようとしている自分を。

 

 見つける。

 

 そして。

 

 絶対に。

 

 止める。

 

 カイエは。

 

 端末から目を離した。

 

「……駄目」

 

 自分へ言い聞かせるように。

 

 小さく言う。

 

 エリンさんが来る前に。

 

 行かなければ。

 

 そうしなければ。

 

 きっと。

 

 自分は。

 

 ここを離れられなくなる。

 

 十四班の出口へ。

 

 歩き出す。

 

 荷物は。

 

 それほど重くない。

 

 なのに。

 

 一歩ずつが。

 

 妙に重かった。

 

 それでも。

 

 カイエは。

 

 振り返らなかった。

 

 涙も。

 

 最後まで。

 

 出なかった。

 

 

 

―――

 

 宇宙管理局医療センターを出てから。

 

 エリンは、リュウジを一人で帰らせなかった。

 

 当然だった。

 

 退院許可は出た。

 

 歩くこともできる。

 

 食事もできる。

 

 数値も回復している。

 

 だが。

 

 医師から渡された注意事項には。

 

 無理をしない。

 

 十分な睡眠。

 

 長時間の外出を控える。

 

 食事を抜かない。

 

 仕事関係の端末を長時間使用しない。

 

 操縦業務への復帰は次回診察後。

 

 いくつもの項目が並んでいた。

 

 リュウジの家へ到着すると。

 

 エリンは荷物を置いた。

 

 そして。

 

 リュウジをソファへ座らせた。

 

「じゃあ、もう一回確認するわよ」

 

 リュウジの眉が動いた。

 

「さっき病院で聞きました」

 

「聞いたのと守るのは別でしょう?」

 

「守ります」

 

「本当に?」

 

「本当です」

 

 エリンは。

 

 医療センターから渡された書類を広げた。

 

「まず、今日は外出しないこと」

 

「はい」

 

「仕事の端末も必要以上に見ない」

 

「はい」

 

「食欲がなくても何か食べる」

 

「はい」

 

「夜更かししない」

 

「はい」

 

「お酒は禁止」

 

「飲みません」

 

「運動も駄目」

 

「しません」

 

「操縦訓練も」

 

「しません」

 

「会社から連絡が来ても」

 

「必要なら返します」

 

「必要最低限」

 

「分かってます」

 

「それから――」

 

 リュウジが。

 

 小さく息を吐いた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「もう耳にタコができそうです」

 

「できるくらいでちょうどいいの」

 

「病院からここまでの間にも聞きました」

 

「あなたは何回言っても無理するでしょう?」

 

「しません」

 

「信用できない」

 

「酷いですね」

 

「今回のあなたを見た後だもの」

 

 その言葉で。

 

 リュウジが黙った。

 

 エリンも。

 

 少しだけ表情を緩める。

 

「……お願いだから、今くらい、ちゃんと休んで」

 

 先ほどまでとは違う。

 

 静かな声。

 

 リュウジは。

 

 エリンを見る。

 

 未探索領域から戻ってきて。

 

 精密検査。

 

 入院。

 

 退院。

 

 そのほとんどに。

 

 エリンがいた。

 

「分かりました」

 

 今度は。

 

 少し素直に答えた。

 

「ちゃんと休みます」

 

「うん」

 

 エリンはようやく笑った。

 

「じゃあ、私は会社に行ってくる」

 

「今日は休んでもいいんじゃないですか?」

 

「あなたの退院手続きが終わるまで休みにしてもらっただけよ」

 

「そうですか」

 

「夕方には戻るから」

 

 リュウジが。

 

 僅かに眉を上げる。

 

「戻ってくるんですか?」

 

「何?」

 

「いや」

 

「何よ」

 

「別に」

 

 エリンは。

 

 少しだけ目を細めた。

 

「夕食、一人で適当に済ませそうだから」

 

「できますよ」

 

「何食べるつもり?」

 

「……」

 

「ほら」

 

「まだ決めてないだけです」

 

「だから戻ってくるの」

 

「ペルシアに夫婦って言われますよ」

 

 エリンの動きが止まった。

 

「……え?」

 

「昨日、ペルシアが見舞いに来て、エリンさんはどこだって聞かれたから、フライトに行って夜に来るって言ったら」

 

 リュウジは。

 

 少し面倒そうに続ける。

 

「夫婦かって」

 

「……」

 

 エリンの頬が。

 

 みるみる赤くなる。

 

「ペルシア……!」

 

「俺に怒らないでください」

 

「あなたには怒ってない!」

 

「ならいいですけど」

 

「もう……!」

 

 エリンは鞄を持つ。

 

「とにかく!今日は休む!」

 

「はい」

 

「何かあったら連絡!」

 

「はい」

 

「勝手に出掛けない!」

 

「分かりました」

 

「絶対よ?」

 

「分かってます」

 

 玄関へ向かう。

 

 それでも。

 

 最後にもう一度。

 

 振り返った。

 

「本当に無理しないでね」

 

「大丈夫です」

 

 エリンの目が細くなる。

 

「……じゃなくて」

 

 リュウジが。

 

 一瞬考える。

 

「分かりました」

 

「よろしい」

 

 エリンは。

 

 ようやく家を出た。

 

 ◇

 

 ドルトムント財閥旅行会社。

 

 エリンが会社へ到着したのは。

 

 それから少し後だった。

 

 建物へ入り。

 

 社員用通路を進む。

 

 十四班へ戻る前に。

 

 退院手続きのため遅れて出社したことを報告しよう。

 

 そう思っていた時だった。

 

 携帯端末が鳴った。

 

 画面を見る。

 

「ガーネット?」

 

 珍しい。

 

 すぐに通話へ出る。

 

「もしもし?」

 

『エリンさん』

 

 ガーネットの声。

 

 それだけで。

 

 エリンの足が止まった。

 

 いつもの落ち着いた声ではない。

 

「どうしたの?」

 

『今、どちらですか?』

 

「会社に着いたところだけど」

 

『急いで十四班へ来てください』

 

 エリンの表情が変わる。

 

「何かあったの?」

 

 短い沈黙。

 

『……来ていただいた方が早いです』

 

「分かった」

 

 通話が切れる。

 

 何?

 

 事故?

 

 乗務関係?

 

 ナッシュ?

 

 それとも。

 

 誰かが怪我をした?

 

 エリンは。

 

 歩く速度を上げた。

 

 やがて。

 

 十四班フロアへ続く廊下へ入る。

 

 その時だった。

 

「カイエに何をしたの!!」

 

 響いた声。

 

 エリンが。

 

 足を止める。

 

「……ククル?」

 

 間違いない。

 

 ククルだ。

 

 だが。

 

 普段の明るい声ではない。

 

 完全に怒っている。

 

 エリンは。

 

 駆け出した。

 

 十四班の扉を開く。

 

「何してるの!?」

 

 目に飛び込んできた光景。

 

 中央。

 

 ナッシュ。

 

 その正面に。

 

 ククル。

 

 そして。

 

「ククル、やめて!」

 

 エマが。

 

 後ろからククルを必死に抑えていた。

 

「離して、エマ!」

 

「駄目!」

 

「離して!」

 

「落ち着いて!」

 

「落ち着けるわけないでしょ!!」

 

 ククルの目には。

 

 涙が溜まっている。

 

 怒っている。

 

 それなのに。

 

 泣いている。

 

 エマも。

 

 いつもの穏やかな顔ではなかった。

 

 必死だった。

 

 少し離れた場所には。

 

 ガーネット。

 

 ミラ。

 

 ラン。

 

 数人の乗務員。

 

 誰も。

 

 いつもの顔をしていない。

 

 エリンは。

 

 すぐに二人の間へ入った。

 

「ククル!」

 

 ククルが。

 

 振り向く。

 

「エリンさん……」

 

 その瞬間。

 

 怒りで張り詰めていた顔が。

 

 僅かに崩れた。

 

「何があったの!?」

 

 エリンは。

 

 ククルの肩へ手を置く。

 

「何でナッシュと揉めてるの?」

 

「だって……」

 

 ククルの唇が震える。

 

「ククル?」

 

「カイエが……」

 

 一度。

 

 声が詰まった。

 

「カイエが……」

 

 涙が落ちる。

 

 エリンの胸に。

 

 嫌な感覚が走った。

 

「カイエが何?」

 

 ククルは。

 

 答えられない。

 

 エマが。

 

 ククルの背中へ手を置いた。

 

 エリンは。

 

 周囲を見る。

 

 そして。

 

 気づいた。

 

 カイエがいない。

 

「……カイエは?」

 

 誰も。

 

 すぐに答えない。

 

「今日、出勤してたんでしょう?」

 

 沈黙。

 

「ガーネット」

 

 エリンが見る。

 

 ガーネットは。

 

 唇を僅かに噛み。

 

 エリンへ頭を下げた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「人事異動が発表されました」

 

「人事異動?」

 

「はい」

 

 エリンの眉が寄る。

 

「誰の?」

 

 ガーネットが。

 

 答える前に。

 

 ミラが。

 

 小さな声を出した。

 

「カイエさんです」

 

 エリンの表情が。

 

 止まる。

 

「……え?」

 

「今日付で、社内掲示板に出ました」

 

 ミラの声が震えている。

 

 ミラはエリンへ敬語を崩さない。

 

 それでも。

 

 今は。

 

 いつもの落ち着きがない。

 

「異動先は……」

 

 言いづらそうに。

 

 言葉を止める。

 

 ランが。

 

 代わった。

 

「冥王星です」

 

「……冥王星?」

 

 エリンは。

 

 聞き返した。

 

「系列子会社の冥王星支社への異動です」

 

「待って」

 

 エリンが。

 

 すぐに言う。

 

「私は聞いてない」

 

 ガーネットが頷く。

 

「私達もです」

 

「タツヤ班長は?」

 

「まだ戻られていません」

 

「カイエ本人は?」

 

 また。

 

 沈黙。

 

 今度は。

 

 ランが目を伏せた。

 

「……辞めました」

 

「何を?」

 

 エリンは。

 

 本当に意味が分からなかった。

 

「会社を」

 

 ランが。

 

 はっきり言った。

 

「カイエさんは、会社を辞めました」

 

 エリンの頭から。

 

 一瞬。

 

 音が消えた。

 

「……辞めた?」

 

 聞き間違いだと思った。

 

「はい」

 

「カイエが?」

 

「はい」

 

「今日?」

 

「はい」

 

「何で?」

 

 誰も答えられない。

 

「何でカイエが辞めるの?」

 

 エリンの声が。

 

 少しだけ強くなる。

 

 ククルが。

 

 またナッシュを見る。

 

「こいつのせいです!」

 

「ククル」

 

 エマが止める。

 

「だってそうでしょ!」

 

 ククルは。

 

 涙を拭おうともせず。

 

 ナッシュを睨んだ。

 

「カイエがナッシュに怒った後で!いきなり冥王星に異動なんて!そんなの偶然なわけない!」

 

 ナッシュが。

 

 眉を寄せる。

 

「俺が決めたわけじゃない」

 

「じゃあ誰が決めたの!」

 

「知らない」

 

「嘘!」

 

「ククル!」

 

 エリンの声。

 

 ククルが止まる。

 

「今は決めつけない」

 

「でも!」

 

「分かってる」

 

 エリンは。

 

 ククルをまっすぐ見る。

 

「私だって、納得してない」

 

 静かだが。

 

 はっきりした声。

 

「だからこそ何があったのか確認する。ナッシュを責めるのは、それから」

 

 ククルは。

 

 歯を食いしばる。

 

「……はい」

 

 それでも。

 

 涙は止まらない。

 

 エリンは。

 

 カイエの席を見る。

 

 そして。

 

 言葉を失った。

 

 何もない。

 

 端末も。

 

 マグカップも。

 

 普段置かれていた私物も。

 

 ない。

 

 綺麗だった。

 

 あまりにも。

 

 綺麗だった。

 

 カイエが。

 

 最初からそこにいなかったように。

 

「……荷物は?」

 

 エリンが聞く。

 

 エマが。

 

 小さく答える。

 

「持っていきました」

 

「全部?」

 

「……たぶん」

 

「誰も止めなかったの?」

 

 責めたわけではない。

 

 ただ。

 

 理解できなかった。

 

 ガーネットが。

 

 苦しそうに答える。

 

「私達が戻った時には、もういなかったんです。掲示板を見た後、荷物をまとめて出たらしくて」

 

 エリンの目が。

 

 カイエの机から離れない。

 

「連絡は?」

 

「何度もしています」

 

「繋がらない?」

 

「はい」

 

 ガーネットの言葉を聞くより早く。

 

 エリンは。

 

 自分の端末を取り出していた。

 

 連絡先。

 

 カイエ。

 

 通話。

 

 呼び出し。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 誰も出ない。

 

「カイエ……」

 

 四回。

 

 五回。

 

 そして。

 

 通話終了。

 

「もう一回」

 

 再び。

 

 発信。

 

 呼び出し。

 

 誰も出ない。

 

 エリンの表情が。

 

 少しずつ変わっていく。

 

「出て……」

 

 小さな声。

 

「カイエ、出て」

 

 繋がらない。

 

 エリンは。

 

 今度はメッセージを開く。

 

『カイエ、今どこ?』

 

 送信。

 

『会社に戻ってきて』

 

 一度。

 

 指が止まる。

 

 違う。

 

 命令するように言っても。

 

 カイエは戻らないかもしれない。

 

 エリンは。

 

 文字を打ち直す。

 

『怒ってないから』

 

『何があったのか、ちゃんと話して』

 

『一人で決めないで』

 

 送る。

 

 既読は。

 

 つかない。

 

「……どうして」

 

 エリンは。

 

 カイエの空席を見る。

 

 昨日まで。

 

 そこにいた。

 

 少し眠そうな顔で。

 

 真面目に端末を見て。

 

 ククルに絡まれて。

 

 エマと話して。

 

 必要なら。

 

 誰より正確に指摘する。

 

 そのカイエが。

 

 いない。

 

 そして。

 

 エリンの頭に。

 

 数日前のやり取りが蘇る。

 

『カイエが全部背負う必要はないわ』

 

『はい』

 

『一人で受け止めないこと』

 

『承知しました』

 

『いつでも相談してよ』

 

『はい』

 

 あの時。

 

 カイエは。

 

 ちゃんと返事をした。

 

「……カイエ」

 

 エリンの手が。

 

 僅かに震えた。

 

「私、言ったじゃない」

 

 誰へ言ったわけでもない。

 

「一人で受け止めないでって」

 

 ククルが。

 

 また泣いた。

 

「エリンさん……」

 

「うん」

 

 エリンは。

 

 まだ端末を握っている。

 

「絶対に探す」

 

 その言葉に。

 

 全員がエリンを見る。

 

 エリンは。

 

 空席から目を離した。

 

 そして。

 

 ガーネットを見る。

 

「ガーネット」

 

「はい」

 

「この異動」

 

 声が。

 

 チーフパーサーのものへ変わる。

 

「誰が決裁したのか確認して」

 

「分かりました」

 

「異動の起案日も」

 

「はい」

 

「ナッシュとの件より前なのか、後なのか」

 

「確認します」

 

「ミラ」

 

「はい」

 

「カイエが今日、誰と話したか分かる?」

 

「確認します」

 

「ラン」

 

「はい」

 

「退職手続き」

 

「誰が受けたのか調べて」

 

「承知しました」

 

 エリンは。

 

 次々と指示を出す。

 

「エマ」

 

「はい」

 

「ククルをお願い」

 

「分かりました」

 

「私は大丈夫!」

 

 ククルが。

 

 涙を拭きながら言う。

 

「大丈夫じゃないでしょう」

 

 エマが。

 

 今度は優しくククルの腕を掴む。

 

「カイエを探さないと!」

 

「探すわ」

 

 エリンが答える。

 

「でも、今のククルを一人では行かせられない」

 

「……」

 

「お願い」

 

 ククルの顔が。

 

 また崩れる。

 

「カイエ……」

 

 エマが。

 

 そっと抱き寄せる。

 

「うん。絶対、見つけよう」

 

 エリンは。

 

 最後に。

 

 ナッシュを見る。

 

 ナッシュは。

 

 先ほどから黙っていた。

 

「ナッシュ」

 

「……はい」

 

 エリンに呼ばれ。

 

 いつものように敬語へ戻る。

 

「あなたにも後で話を聞く」

 

「分かりました」

 

「今は何も決めつけない」

 

「でも」

 

 エリンの目が。

 

 僅かに鋭くなる。

 

「カイエとの間で何があったのか、一つも隠さないで」

 

 ナッシュが。

 

 僅かに目を逸らす。

 

「……はい」

 

 エリンは。

 

 もう一度。

 

 カイエへ電話をかけた。

 

 繋がらない。

 

「お願い……」

 

 呼び出し音。

 

「出てよ、カイエ」

 

 それでも。

 

 応答はなかった。

 

 ◇

 

 その頃。

 

 カイエの携帯端末には。

 

 いくつもの着信が残っていた。

 

 ククル。

 

 エマ。

 

 ガーネット。

 

 ミラ。

 

 ラン。

 

 そして。

 

 エリン。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 エリン。

 

 画面が光る。

 

『カイエ、今どこ?』

 

『怒ってないから』

 

『何があったのか、ちゃんと話して』

 

『一人で決めないで』

 

 カイエは。

 

 画面を見ていた。

 

 指が。

 

 僅かに動く。

 

 エリンさん。

 

 やっぱり。

 

 戻ってきた。

 

 予想通りだった。

 

 そして。

 

 予想通り。

 

 探している。

 

「……すみません」

 

 小さく呟く。

 

 電話へ出れば。

 

 終わる。

 

 エリンの声を聞けば。

 

 きっと。

 

 戻ってしまう。

 

『カイエ、帰ってきて』

 

 そう言われたら。

 

 自分は。

 

 断れない。

 

 だから。

 

 出ない。

 

 端末が。

 

 また震えた。

 

 表示。

 

『エリン』

 

 カイエは。

 

 目を閉じた。

 

 胸が痛い。

 

 それでも。

 

 通話ボタンには触れなかった。

 

「……今だけ」

 

 声が。

 

 ほんの少し震えた。

 

「今だけは」

 

「エリンさんの言うこと」

 

「聞けません」

 

 着信が。

 

 切れた。

 

 画面が暗くなる。

 

 だが。

 

 数秒後。

 

 再び。

 

 光った。

 

 また。

 

 エリンだった。

 

 今度こそ。

 

 カイエの目に。

 

 僅かに涙が滲んだ。

 

 

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