宇宙管理局本部。
オペレーションルーム。
午前の監視業務が一段落し。
各担当者が、それぞれの端末へ向かっていた。
大型モニターには。
木星圏内の航路。
巡航中の船舶。
救難情報。
宇宙警察から共有された警戒情報。
各管制区との通信状況。
普段と変わらない情報が並んでいる。
イーナは。
前日の勤務記録を整理していた。
シャオメイは。
通信卓で定期回線の点検中。
リリアは。
宇宙警察との共有資料を確認している。
ナミとマリは。
別の卓で航路状況を確認。
そして。
本来なら。
統括官席には。
ペルシアがいるはずだった。
だが。
いない。
正確には。
見えない。
オペレーションルームの入口。
自動扉が開いた。
その瞬間。
シャオメイの肩が。
僅かに跳ねた。
入ってきたのは。
フレイ。
手には。
何枚もの資料。
そして。
いつも以上に。
静かな顔。
シャオメイは。
その顔を見ただけで。
嫌な予感がした。
フレイは。
自分の机へ向かわない。
最初に。
統括官席を見る。
空席。
次に。
会議卓。
いない。
休憩区画。
いない。
視線だけが。
ゆっくりとオペレーションルーム全体を移動する。
「……統括官は、どこに行ったのですか?」
低い。
冷たい声だった。
シャオメイの指が。
通信卓の上で止まる。
「わ、分かりません」
思わず。
声が裏返った。
嘘ではない。
少なくとも。
行き先は知らない。
ただし。
現在地は知っていた。
いや。
見えていた。
オペレーションルーム中央より少し奥。
リリアの机。
その陰。
フレイからは。
ちょうど死角になる場所。
そこに。
金色の髪が。
ほんの少しだけ見えている。
ペルシアだった。
しゃがみ込んでいる。
膝を抱えるほどではない。
だが。
完全に身を低くしている。
まるで。
敵の監視を避ける潜入任務でもしているかのように。
リリアは。
自分の端末を操作しながら。
横目で。
机の下に近い位置へ隠れているペルシアを見る。
そして。
苦笑いを浮かべた。
数分前。
ペルシアは。
仕事用端末を閉じた。
「よし」
突然。
満足そうに立ち上がった。
イーナが。
不思議そうに見る。
「統括官?」
「何?」
「資料は終わったのですか?」
「終わってない」
即答だった。
「では、なぜ立たれたのですか?」
「人間には休息が必要なのよ、イーナ」
「先ほど休憩されたばかりでは」
「今度は精神的休息」
シャオメイが。
通信卓から顔を上げた。
「どちらへ行かれるんですか?」
「喫茶店」
「勤務中ですが」
「知ってる」
「フレイさんには?」
「言わない」
イーナの表情が。
みるみる不安になる。
「統括官、それは」
「大丈夫」
ペルシアは。
胸を張った。
「フレイ、今は局長のところ」
「戻ってくるまでにコーヒー飲んで帰ってくればいいのよ」
そこまで。
完璧な計画だった。
少なくとも。
ペルシアの中では。
鞄は持たない。
端末だけ。
統括官席から。
オペレーションルームの出口まで。
およそ二十秒。
あとは。
同じ階の端にある喫茶区画へ行くだけ。
コーヒーを飲んで。
少し甘いものを食べ。
二十分程度で戻る。
誰にも迷惑はかからない。
その予定だった。
自動扉が開くまでは。
「……」
ペルシアの動きが。
止まった。
扉の向こうから。
フレイが入ってくる。
ペルシアと。
フレイ。
距離。
およそ十五メートル。
出口へ向かっていたペルシアは。
完全に。
進路上で鉢合わせする位置だった。
「まずい」
小声。
イーナが。
目を大きくする。
「統括官?」
「リリア」
「はい?」
「失礼」
「え?」
次の瞬間。
ペルシアは。
方向を変えた。
音を立てずに。
素早く。
リリアの机へ回り込む。
そして。
その陰へ。
しゃがんだ。
リリアは。
呆然とする。
「ペルシアさん……?」
「しーっ」
ペルシアは。
唇へ人差し指を当てた。
イーナは。
その光景を見て。
心臓が。
急に早くなるのを感じていた。
何をしているのだろう。
統括官が。
自分のオペレーションルームで。
部下から隠れている。
それも。
仕事を抜け出そうとして。
フレイは。
まだ気づいていない。
資料を手に。
統括官席を見る。
空席。
そして。
今。
聞いた。
「統括官は、どこに行ったのですか?」
「わ、分かりません」
シャオメイが答える。
イーナは。
自分へ聞かれないことを祈った。
視線を。
端末へ固定する。
見ない。
ペルシアを見ない。
絶対に。
目を動かさない。
リリアも。
平静を装っている。
だが。
口元の苦笑いだけは。
どうしても消えなかった。
フレイの目が。
シャオメイから。
統括官席へ戻る。
「先ほどまで、いらっしゃったはずですが」
「そうですね」
シャオメイの声が。
僅かに硬い。
「外出予定は?」
「把握していません」
「休憩時間ではありません」
「はい」
ペルシアが。
机の陰で。
小さく顔をしかめた。
フレイは。
資料を統括官席へ置く。
そして。
低く呟いた。
「仕事がまだ残っているのに」
ペルシアの肩が。
ほんの少し。
縮こまる。
「また抜け出すとは」
イーナの心臓が。
さらに速くなる。
また。
という部分。
完全に。
疑われている。
ペルシアは。
机の陰から。
そっと。
リリアを見る。
口の動きだけで。
言った。
ばれてる?
リリアは。
苦笑いしたまま。
ほんの僅かに首を傾げた。
分かりません。
そんな返事。
ペルシアは。
困った顔になる。
フレイは。
統括官席にある端末を確認した。
作業途中。
資料は。
開きっぱなし。
しかも。
最後の入力から。
数分しか経っていない。
「……」
フレイの目が。
さらに冷える。
ペルシアは。
それを。
机の隙間から見ていた。
逃げなければ。
捕まる。
だが。
今。
フレイの視線は。
統括官席。
こちらを見ていない。
出口までは。
およそ十メートル。
床は。
静音素材。
普通に歩けば。
ほとんど音はしない。
いける。
ペルシアの目が。
出口へ向く。
イーナが。
その視線に気づいた。
まさか。
まだ行くつもりなのだろうか。
ペルシアは。
ゆっくり立ち上がる。
リリアの机の陰から。
少しずつ。
身体を出す。
フレイは。
まだ背を向けている。
ペルシア。
一歩。
二歩。
三歩。
足音。
ほぼなし。
リリアは。
何とも言えない表情で。
その後ろ姿を見る。
イーナは。
呼吸することすら。
怖くなっている。
シャオメイは。
通信卓の画面を。
必要以上に真剣に見ていた。
ペルシア。
出口まで。
あと。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
自動扉のセンサーへ。
あと少し。
その時。
扉が。
先に開いた。
ペルシアの顔が。
明るくなる。
開いた。
行ける。
だが。
扉の向こうから。
一人の男が入ってきた。
ジェームズ。
「……」
ジェームズが。
止まる。
ペルシアも。
止まる。
二人。
真正面。
距離。
一メートルもない。
ジェームズの目が。
ゆっくり。
ペルシアの顔。
次に。
その後ろ。
オペレーションルーム。
さらに。
統括官席。
そして。
また。
ペルシアへ戻る。
「何をしてるんだ、お前は」
低い声。
ペルシアの額に。
冷たい汗が浮かぶ。
「……散歩」
「勤務中に?」
「健康管理」
「資料は」
「精神衛生も大事」
「聞いてない」
「ジェームズ」
ペルシアは。
小声になる。
「お願い」
「何がだ」
「今だけ」
「何が今だけだ」
「見なかったことにして」
ジェームズの眉が。
深く寄る。
「何で俺が」
「プリン買ってくる」
「いらん」
「コーヒー」
「自分で買う」
「じゃあ何が欲しい?」
「仕事しろ」
ペルシアの口が。
止まった。
その瞬間。
背後から。
声。
「統括官」
ペルシアの背筋が。
完全に固まる。
ゆっくり。
振り返る。
フレイ。
こちらを見ていた。
目が。
合う。
「……フレイ」
「何をされているのですか?」
先ほどより。
低い。
ペルシアは。
笑顔を作る。
「ちょっと外の空気を」
「ここは宇宙施設内です」
「気分の話」
「席へ戻ってください」
「でも」
「戻ってください」
「コーヒーだけ」
「後で」
「十分だけ」
「駄目です」
「五分」
「駄目です」
「三分」
「交渉ではありません」
逃げ道。
なし。
ペルシアは。
ジェームズを見る。
助けて。
目で訴える。
ジェームズは。
完全に無視した。
「自業自得だ」
「冷たい」
「知るか」
フレイが。
ペルシアの横へ来る。
「統括官」
「はい」
「席へ」
「はい……」
完全敗北。
ペルシアは。
フレイに促され。
今来た道を戻る。
リリアの横を通る。
リリアは。
必死に笑わないようにしている。
ペルシアが。
小声で言う。
「笑ってるでしょ」
「笑っていません」
「口元」
「申し訳ありません」
イーナも。
ようやく息を吐いた。
ばれた。
でも。
自分が告げ口したわけではない。
それだけで。
少し安心する。
シャオメイは。
ペルシアが席へ戻るのを確認し。
小さく言った。
「統括官」
「何?」
「私は何も言っていません」
「分かってる」
「本当です」
「疑ってない」
「そうですか」
シャオメイは。
少しだけ安心した。
ペルシアは。
統括官席へ座らされる。
目の前。
資料。
一枚。
二枚。
三枚。
フレイが。
追加資料まで置く。
「増えてない?」
「先ほど局長室で追加になりました」
「だから抜け出す前に行けばよかった」
「抜け出さなければいいだけです」
「正論が痛い」
ジェームズも。
自分の席へ向かう。
「馬鹿なことしてないで終わらせろ」
「ジェームズまで」
「俺は最初から言ってる」
「みんな厳しい」
「統括官が逃げるからです」
フレイが。
淡々と返す。
ペルシアは。
机へ肘をつき。
頭を抱えた。
「喫茶店……」
「資料が終われば行って構いません」
「いつ終わる?」
「統括官次第です」
「一番嫌な答え」
その時だった。
ペルシアの端末が。
鳴った。
業務用。
外線。
ペルシアの顔が。
一瞬で上がる。
「電話!」
フレイが。
僅かに眉を寄せる。
ペルシアは。
誰よりも早く。
端末を取った。
「はい、宇宙管理局。ペルシア」
あまりにも。
俊敏だった。
フレイが。
小さく。
舌打ちする。
「……」
ペルシアは。
聞こえなかったことにした。
端末の向こうから。
受付担当者の声。
『ペルシア統括官』
「はい」
『統括官にお客様です』
ペルシアの目が。
輝いた。
客。
これは。
仕事。
正式な来客。
逃亡ではない。
誰にも文句を言われない。
ペルシアの口元が。
ゆっくり上がる。
「お客様?」
『はい。直接お会いしたいとのことですが』
ペルシアは。
フレイを見る。
勝った。
そんな顔だった。
フレイは。
完全に。
嫌な予感がするという目で。
ペルシアを見る。
「誰ですか?」
フレイが。
小声で聞く。
ペルシアは。
端末を手で隠すようにして。
まだ聞いてない。
と口だけで返す。
それから。
電話へ戻る。
「分かった」
「すぐ通して」
フレイが。
目を細める。
「統括官、来訪者の確認を先に」
「大丈夫」
「何が大丈夫なのですか」
「お客様なんだから」
「だから確認を」
ペルシアは。
端末へ向かって。
明るく言った。
「すぐ通してて」
通話を切る。
そして。
椅子から立ち上がろうとする。
フレイの手が。
無言で。
資料の上へ置かれた。
ペルシアの動きが止まる。
「……何?」
「来客対応後」
「はい」
「戻ってきてください」
「分かってる」
「本当に?」
「仕事の来客でしょう?」
「ですから」
「逃げない」
「先ほども同じようなことをおっしゃっていました」
「今回は本当に逃げない!」
ジェームズが。
少し離れた席から。
呆れたように言う。
「信用がねぇな」
ペルシアが。
ジェームズを見る。
「誰のせいよ」
「お前だ」
即答。
リリアが。
とうとう。
小さく笑った。
イーナも。
緊張が解けたように。
僅かに口元を緩める。
シャオメイは。
通信卓へ視線を戻しながら。
ぽつりと呟いた。
「来客がなければ、捕まったままでしたね」
「シャオメイ」
「はい?」
「余計なこと言わない」
「事実です」
ペルシアは。
深く息を吐いた。
そんなやり取りえおしながらペルシアは受付へ向かった。
誰が来たのか。
受付からは聞いていない。
宇宙連邦連盟。
ドルトムント。
宇宙警察。
あるいは。
局長関係の来客。
統括官になってから。
突然訪ねてくる人間は増えた。
ペルシアは。
特に何も考えず。
来客区画へ続く扉を開いた。
そして。
足を止めた。
「……カイエ?」
そこに。
カイエが立っていた。
いつものように。
背筋は伸びている。
姿勢も。
崩れてはいない。
だが。
手には。
大きめの鞄。
普段。
会社へ来る時に持つものとは違う。
それだけではない。
顔。
目。
口元。
全部。
いつものカイエなのに。
何かが違った。
ペルシアを見たカイエは。
小さく頭を下げた。
「ペルシアさん」
「……うん」
「いきなりすみません」
その声を聞いた瞬間。
ペルシアの顔から。
先ほどまでの軽さが消えた。
何があったのか。
具体的には分からない。
でも。
何かあった。
それだけは。
一瞬で分かった。
カイエは。
普段から声を荒らげる人間ではない。
辛いことがあっても。
まず自分の中で整理する。
何かを言う前に。
相手へ迷惑をかけない言い方を考える。
そのカイエの声が。
今は。
妙に平らだった。
落ち着いているのではない。
落ち着かせている。
ペルシアは。
何も聞かなかった。
「カイエ」
「はい」
「喫茶店行こ」
カイエが。
目を瞬く。
「え?」
「ちょうど私も行きたかったの」
「でも、お仕事は……」
「お客様対応も仕事」
「いや、それは……」
「いいの」
ペルシアは。
ほんの少しだけ笑う。
「ここで立ち話するよりいいでしょ」
カイエは。
少し迷った。
だが。
やがて。
小さく頷いた。
「……はい」
「じゃ、行こ」
ペルシアは。
カイエの事情を。
一つも聞かなかった。
◇
オペレーションルームの前を通る。
ペルシアは。
中へ顔だけ出した。
「フレイ」
「はい」
「お客様と打ち合わせしてくる」
フレイが。
顔を上げる。
そして。
ペルシアの後ろに立っているカイエを見た。
「カイエさん」
「フレイさん。お疲れ様です」
カイエが。
いつも通り丁寧に頭を下げる。
それだけ。
フレイは。
カイエの顔を数秒見た。
手に持った鞄にも。
一度。
視線を向ける。
そして。
ペルシアへ戻した。
「どちらへ?」
「喫茶店」
「……」
「仕事よ?」
「まだ何も申し上げていません」
「その目が言ってる」
フレイは。
いつもなら。
ここで止める。
会議室を使ってください。
あるいは。
来客用応接室で十分です。
そう言う。
だが。
今日は。
何も言わなかった。
もう一度。
カイエを見る。
それから。
「承知しました」
短く答えた。
「必要であれば、こちらの予定は調整します」
「ありがとう」
ペルシアの返事も。
いつもより静かだった。
フレイは。
何も聞かない。
ペルシアも。
それ以上何も言わない。
二人は。
オペレーションルームを離れた。
イーナが。
その後ろ姿を見送る。
「カイエさん……何かあったのでしょうか」
シャオメイも。
少し心配そうに扉を見る。
リリアは。
静かに言った。
「ペルシアさんが、何も聞かなかったから、たぶん、今は、聞かない方がいいんだと思います」
フレイは。
何も答えなかった。
ただ。
ペルシアの統括官席へ置いた資料を。
それ以上増やすことはしなかった。
◇
宇宙管理局内。
喫茶区画。
昼を少し過ぎた時間。
店内は。
それほど混んでいなかった。
窓際の席。
宇宙港を見渡せる場所。
ペルシアは。
いつもなら。
甘いものの陳列棚へ真っ先に行く。
今日は違った。
まず。
カイエを席へ座らせた。
「何飲む?」
「私は……何でも」
「それが一番困るやつ」
「すみません」
「謝らない」
ペルシアは。
メニューをカイエへ向ける。
「コーヒー?」
「はい」
「ブラック?」
「……今日は、ミルク入れます」
ペルシアの目が。
ほんの少し動いた。
「分かった」
それだけ。
自分は。
カフェラテ。
それから。
小さなプリンを一つ。
いつもなら。
ケーキも。
ドーナツも。
追加する。
今日は。
プリンだけだった。
二人の前へ。
飲み物が置かれる。
ペルシアは。
カフェラテを一口飲んだ。
カイエも。
コーヒーへ口をつける。
沈黙。
ペルシアは。
何も聞かない。
どうしたの。
何があったの。
なぜ来たの。
どれも。
言わない。
プリンの蓋を開ける。
スプーンで一口。
「ここのプリン」
ペルシアが。
ぽつりと言う。
「前より美味しくなったのよ」
カイエが。
少しだけ顔を上げる。
「そうなんですか」
「うん」
「前はね、少し固かった。今は柔らかい」
「……そうなんですね」
「今度ククルが来たら、絶対二個食べると思う」
カイエの指が。
コーヒーカップの縁で止まった。
ククル。
名前を聞いた瞬間。
目が。
ほんの僅かに揺れる。
ペルシアは。
気づいた。
でも。
何も言わなかった。
プリンを。
もう一口。
ただ。
待つ。
カイエが。
自分から話すまで。
数十秒。
もしかすると。
数分。
店内の音だけが。
二人の間を流れていた。
やがて。
カイエが。
小さく口を開いた。
「……今日」
ペルシアは。
顔を上げる。
「うん」
「人事異動が出ました」
それだけ。
ペルシアは。
まだ聞かない。
「私のです」
「うん」
「異動先が」
カイエは。
一度。
息を吸った。
「ドルトムント財閥系列の子会社。冥王星支社でした」
ペルシアのスプーンが。
止まった。
「……冥王星?」
初めて。
驚きが声へ出た。
「はい」
「十四班から?」
「はい」
「冥王星?」
「はい」
「それ……」
ペルシアは。
何か言おうとして。
止めた。
感情だけで。
先へ決めつけない。
「続けて」
「……はい」
カイエは。
少し視線を落とした。
「ナッシュさんの件があって」
ペルシアの表情が。
僅かに変わる。
カイエは。
ゆっくり。
話した。
ナッシュが。
操縦禁止の指示を守らなかったこと。
飛行中。
乗客や乗務員に負担が出たこと。
到着後。
客室側へ責任を押し付けるような発言をしたこと。
それを聞いて。
自分が怒ったこと。
普段なら。
もっと言葉を選べた。
もっと冷静でいられた。
でも。
あの時は。
許せなかった。
そして。
ナッシュに手を出されそうになり。
リュウジが止めた。
そこまで。
カイエは。
淡々と話した。
ペルシアは。
一度も遮らない。
驚いた顔も。
怒った顔も。
途中では見せなかった。
「その後」
カイエが続ける。
「今日、異動の掲示が出ました」
「……うん」
「ナッシュさんの件と関係があるのかは、分かりません。私には証拠もありません。だから、そのことを理由に、誰かを責めるつもりもありません」
ペルシアは。
黙って聞く。
「ただ」
カイエの手が。
少しだけ。
カップを強く握る。
「冥王星へ行くつもりには、なれませんでした」
ペルシアが。
静かに頷く。
「それで」
カイエは。
次の言葉を言うまで。
少し時間がかかった。
「……辞めました」
今度こそ。
ペルシアの目が。
大きく開いた。
「ドルトムントを?」
「はい」
「今日?」
「はい」
「もう?」
「手続きはしました」
「……そう」
ペルシアは。
カフェラテへ視線を落とした。
驚いている。
かなり。
だが。
最初に出た言葉は。
「戻りなさい」
ではなかった。
「何で相談しなかったの」
でもない。
「馬鹿」
でもなかった。
「そっか」
ただ。
それだけ。
カイエが。
少し驚いたように顔を上げる。
ペルシアは。
カップへ触れたまま。
カイエを見る。
「それで、ここに来たの?」
「……はい」
「私に言いに?」
「はい」
カイエは。
一度。
目を伏せる。
「エリン達には?」
「何も言っていません」
「連絡は?」
「来ています」
「出てない?」
「……はい」
ペルシアは。
少しだけ眉を下げた。
「そっか」
やっぱり。
それ以上。
責めない。
「エリンさんが戻ってくる前に」
カイエは続ける。
「会社を出ました。エリンさんがいたら、止めてくれると思ったので」
ペルシアの口元が。
ほんの少しだけ緩む。
「止めるでしょうね」
「はい」
「絶対止める」
「はい」
「タツヤ班長も」
「はい」
「ククルなんて、足にしがみついてでも止めそう」
カイエの口元が。
ほんの少し。
震える。
「……そうですね」
「エマは静かな顔して、出口塞ぐわね。ミラは泣く、ランも黙ってない。ガーネットも、たぶん、人事に直接行く」
ペルシアは。
十四班の顔を。
一人ずつ思い浮かべる。
「リュウジがいたら何も言わずに話を全部聞いて、そのあと会社側に確認しに行くでしょうね」
カイエは。
小さく笑いかけた。
でも。
笑えなかった。
「だから嫌だったんです。自分のために、皆さんが動くのが」
ペルシアは。
何も言わない。
「私が怒ったせいで、誰かが会社と揉めて、エリンさんがまた何かを背負って、タツヤ班長にも迷惑をかけて、ククル達も」
「……」
カイエの声が。
少しずつ。
小さくなる。
「それが嫌でした。自分のことなら自分で終わらせればいいと思ったんです」
ペルシアの目が。
少しだけ。
悲しそうに細くなった。
その考え方。
知っている。
よく。
知っている。
自分も。
同じことをしたから。
何も言わず。
ドルトムントを辞めようとした。
止められるのが分かっていたから。
言わなかった。
そして。
あの日。
追いかけてきたのが。
目の前にいる。
カイエだった。
『どうして、何も言わずに辞めるんですか』
『止めます!』
『止めるに決まってます!』
息を切らせ。
泣きながら。
自分を止めようとした。
そのカイエが。
今日は。
誰にも止められないうちに。
自分から辞めてきた。
ペルシアは。
その皮肉に。
笑えなかった。
「……カイエ」
「はい」
「私が辞めた時」
「怒ったよね」
カイエの目が。
少し動く。
「……はい」
「何で言わなかったんですかって」
「言いました」
「止めるって」
「言いました」
「今」
ペルシアは。
少しだけ困ったように笑う。
「私、あの時のカイエの気持ち、すごく分かる」
カイエの目が。
僅かに潤む。
「でも」
ペルシアは続ける。
「だからって戻れとは言わない」
カイエが。
ペルシアを見る。
「私はカイエがどうして辞めたのか、ちゃんと聞いた。それで十分。正しかったかどうかなんて、今ここで決めなくていい」
ペルシアは。
優しく言った。
「辞めたくなるくらい、辛かったんでしょ」
その一言で。
カイエの目が。
揺れた。
「……」
でも。
まだ。
涙は出ない。
今日。
人事異動を見た時も。
机を片付けた時も。
写真を見た時も。
エリンから何度も電話が来た時も。
泣かなかった。
泣けなかった。
カイエは。
両手を膝の上へ置く。
「ペルシアさん」
「うん」
「一つだけ」
「言わないといけないことがあります」
ペルシアは。
何も急かさない。
「何?」
カイエの指が。
少し震えた。
「……約束」
ペルシアの表情が。
止まる。
「ペルシアさんがドルトムントを辞めた時」
あの日。
ロビー。
涙。
額と額を合わせた。
最後の言葉。
『あとは任せた』
『だからちゃんと守りなさいよ、十四班』
カイエは。
全部。
覚えている。
「私、任されましたって言いました」
「うん」
「十四班を守るって約束しました」
「うん」
ペルシアの返事は。
変わらない。
カイエの声だけが。
少しずつ震えていく。
「なのに、私、途中で……」
声が。
止まる。
「辞めました」
ペルシアは。
黙っている。
「まだ、皆は十四班にいるのに、私は、先に―――」
カイエは。
唇を強く噛んだ。
「ペルシアさんとの約束、守れませんでした」
そして。
深く。
頭を下げた。
「すみません」
ペルシアは。
数秒。
何も言わなかった。
カイエの頭が。
下がったまま。
戻らない。
「……すみません」
もう一度。
同じ言葉。
ペルシアは。
椅子から立ち上がった。
カイエの肩が。
ほんの少しだけ強張る。
怒られる。
そう思ったわけではない。
ただ。
何を言われても。
受け止めようと思った。
自分が。
約束を守れなかったのは。
事実だから。
ペルシアは。
テーブルの横を回る。
カイエの隣へ立つ。
そして。
手を伸ばした。
カイエの頭へ。
そっと。
手を置く。
「……え?」
カイエが。
顔を上げる。
ペルシアは。
優しく。
髪を撫でた。
一度。
ゆっくり。
子どもを褒めるように。
「よく頑張った」
カイエの目が。
大きくなる。
「……ペルシアさん?」
「よく頑張ったね、カイエ」
もう一度。
頭を撫でる。
ペルシアは。
笑っていた。
でも。
からかう笑いではない。
あの日。
カイエの肩へ手を置いた時と。
同じ。
優しい顔だった。
「私との約束なんて、いいの」
カイエの唇が。
僅かに震える。
「でも」
「いい」
ペルシアは。
はっきり言った。
「十四班を守ってって言った。確かに言った。任せたって、私が言った。でもね」
手を。
カイエの頭から離さない。
「その約束のせいでカイエが苦しい思いをするくらいなら、全然いい。守らなくていい」
カイエの目に。
水が溜まる。
「……でも、私が守ってほしかった十四班の中には」
ペルシアは。
少しだけ。
声を柔らかくする。
「カイエも入ってるの」
その言葉で。
カイエの呼吸が。
止まった。
「リュウジも、エリンも、タツヤ班長も、ククルも、エマも、みんな、あの時、私が守りたいって言ったでしょう?」
ペルシアは。
以前。
カイエへ言った。
自分が守りたいのは。
十四班という名前でも。
ドルトムントという会社でもない。
そこにいる。
人。
だった。
「カイエもその一人よ」
カイエの目から。
一粒。
涙が落ちた。
「……」
自分でも。
驚いた。
今日。
ずっと。
出なかった。
掲示板を見ても。
机を片付けても。
十四班の写真を手に取っても。
何度も鳴る。
エリンの着信を見ても。
出なかった。
涙が。
今。
たった一言で。
落ちた。
「だから」
ペルシアは続ける。
「十四班を守るためにカイエが壊れたら意味ないでしょう?」
もう一粒。
落ちる。
「……私」
声が。
出ない。
カイエは。
口元を押さえる。
「私……」
「うん」
「ちゃんと、やろうと」
「うん」
「ペルシアさんが任せてくれたから、ちゃんと……」
声が。
崩れた。
「ちゃんと守らないとって……」
「うん」
「ペルシアさんがいなくても十四班をちゃんと……」
もう。
言葉にならない。
カイエの肩が。
初めて。
大きく震えた。
涙が。
次々に。
頬を伝っていく。
「すみません……」
「謝らない」
「でも……」
「謝らない」
ペルシアは。
もう一度。
頭を撫でる。
「よく頑張った」
その言葉が。
カイエの中で。
最後まで残っていたものを。
切った。
「……っ」
カイエは。
顔を伏せた。
声を抑えようとした。
だが。
無理だった。
「……ペルシアさん……」
「うん」
「私……」
「うん」
「悔しいです……」
初めて。
本音が出た。
「本当は……」
「辞めたくなんか……」
ペルシアの目が。
僅かに揺れる。
それでも。
止めない。
「うん」
「ずっと十四班にいたかったです……」
「うん」
「ククル達ともっと仕事したかった……」
「うん」
「エリンさんにもっと教えてもらいたかった……」
「うん」
「タツヤ班長にも、リュウジさんにも、ちゃんと……」
涙で。
言葉が続かない。
「ペルシアさんに、頼まれたことも……最後まで……やりたかったです……」
ペルシアは。
何も否定しなかった。
何も正そうとしなかった。
ただ。
カイエの頭を。
撫で続けた。
「そっか」
静かな声。
「悔しかったね」
その瞬間。
カイエは。
完全に泣いた。
「……っ、はい……!」
今日初めて。
子どものように。
涙を止めようともせず。
泣いた。
ペルシアは。
そっと。
カイエの頭を自分の方へ寄せた。
「泣いていいよ……前にも言ったでしょう?」
あの日。
ペルシアが去る時。
泣き止めないカイエへ。
言った。
『じゃあ泣いてていい』
『でも、ちゃんと息して』
カイエの目が。
さらに崩れる。
「覚えて……」
「覚えてるわよ」
ペルシアは。
少しだけ笑う。
「私、自分が言ったこと全部忘れるほど適当じゃないわ。たまに忘れるけど」
「……今、それ……言いますか……」
「喋れた」
カイエが。
泣きながら。
ほんの僅かに笑う。
「そう」
ペルシアも。
笑う。
「それでいい」
少しの間。
二人は。
そのままだった。
周囲の客は。
こちらを見ない。
店内には。
食器の小さな音と。
遠くの会話。
窓の向こうには。
宇宙管理局の船が。
ゆっくりと航路へ出ていく。
やがて。
カイエの呼吸が。
少しずつ整ってきた。
ペルシアは。
頭を撫でながら。
小さく言った。
「ねぇ、カイエ」
「……はい」
「約束って」
「守るために人が壊れるものじゃないよ」
カイエは。
黙って聞く。
「状況が変わったなら、変えていい。できなくなったなら、一回手放していい。私があの時、十四班を頼んだのは、カイエを縛るためじゃない」
ペルシアの声は。
優しい。
「カイエなら皆を大事にしてくれると思ったから、それだけ」
カイエは目元を拭う。
「……はい」
「で」
ペルシアは。
少しだけ悪戯っぽい顔へ戻る。
「実際、大事にしたでしょ?」
「……できていたかは」
「そこ」
ペルシアが。
軽く。
カイエの額を指で押した。
「すぐ自分の点数下げるのやめなさい」
「でも」
「私が決める」
「横暴です」
「統括官だから」
「関係ないでしょう……」
「あるの」
カイエが。
泣きながら。
少しだけ笑う。
ペルシアは。
満足そうに頷いた。
「カイエはちゃんとやった。十分。だから私との約束は」
ペルシアは。
少しだけ考える。
「今日で終わり」
カイエの目が。
僅かに寂しそうになる。
ペルシアは。
すぐに続けた。
「でもカイエとの関係まで終わるとは言ってないわよ」
カイエが。
顔を上げる。
「ドルトムント辞めたら」
「私と会っちゃいけないの?」
「……いえ」
「宇宙管理局に来ちゃいけない?」
「いえ」
「喫茶店も?」
「……来てもいいと思います」
「ならいいじゃない」
ペルシアは。
笑った。
「仕事を辞めただけ、全部失くしたみたいな顔しない」
カイエは。
また。
目を潤ませる。
「……ペルシアさん」
「何?」
「ありがとうございます」
ペルシアは。
少しだけ目を細める。
「どういたしまして」
そして。
カイエの頭へ。
最後にもう一度。
優しく手を置いた。
「本当によく頑張ったね」
その言葉に。
カイエの涙が。
また一粒。
落ちた。
でも。
今度の涙は。
さっきまでとは。
少しだけ。
違っていた。