サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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 宇宙管理局本部。

 

 オペレーションルーム。

 

 午前の監視業務が一段落し。

 

 各担当者が、それぞれの端末へ向かっていた。

 

 大型モニターには。

 

 木星圏内の航路。

 

 巡航中の船舶。

 

 救難情報。

 

 宇宙警察から共有された警戒情報。

 

 各管制区との通信状況。

 

 普段と変わらない情報が並んでいる。

 

 イーナは。

 

 前日の勤務記録を整理していた。

 

 シャオメイは。

 

 通信卓で定期回線の点検中。

 

 リリアは。

 

 宇宙警察との共有資料を確認している。

 

 ナミとマリは。

 

 別の卓で航路状況を確認。

 

 そして。

 

 本来なら。

 

 統括官席には。

 

 ペルシアがいるはずだった。

 

 だが。

 

 いない。

 

 正確には。

 

 見えない。

 

 オペレーションルームの入口。

 

 自動扉が開いた。

 

 その瞬間。

 

 シャオメイの肩が。

 

 僅かに跳ねた。

 

 入ってきたのは。

 

 フレイ。

 

 手には。

 

 何枚もの資料。

 

 そして。

 

 いつも以上に。

 

 静かな顔。

 

 シャオメイは。

 

 その顔を見ただけで。

 

 嫌な予感がした。

 

 フレイは。

 

 自分の机へ向かわない。

 

 最初に。

 

 統括官席を見る。

 

 空席。

 

 次に。

 

 会議卓。

 

 いない。

 

 休憩区画。

 

 いない。

 

 視線だけが。

 

 ゆっくりとオペレーションルーム全体を移動する。

 

「……統括官は、どこに行ったのですか?」

 

 低い。

 

 冷たい声だった。

 

 シャオメイの指が。

 

 通信卓の上で止まる。

 

「わ、分かりません」

 

 思わず。

 

 声が裏返った。

 

 嘘ではない。

 

 少なくとも。

 

 行き先は知らない。

 

 ただし。

 

 現在地は知っていた。

 

 いや。

 

 見えていた。

 

 オペレーションルーム中央より少し奥。

 

 リリアの机。

 

 その陰。

 

 フレイからは。

 

 ちょうど死角になる場所。

 

 そこに。

 

 金色の髪が。

 

 ほんの少しだけ見えている。

 

 ペルシアだった。

 

 しゃがみ込んでいる。

 

 膝を抱えるほどではない。

 

 だが。

 

 完全に身を低くしている。

 

 まるで。

 

 敵の監視を避ける潜入任務でもしているかのように。

 

 リリアは。

 

 自分の端末を操作しながら。

 

 横目で。

 

 机の下に近い位置へ隠れているペルシアを見る。

 

 そして。

 

 苦笑いを浮かべた。

 

 数分前。

 

 ペルシアは。

 

 仕事用端末を閉じた。

 

「よし」

 

 突然。

 

 満足そうに立ち上がった。

 

 イーナが。

 

 不思議そうに見る。

 

「統括官?」

 

「何?」

 

「資料は終わったのですか?」

 

「終わってない」

 

 即答だった。

 

「では、なぜ立たれたのですか?」

 

「人間には休息が必要なのよ、イーナ」

 

「先ほど休憩されたばかりでは」

 

「今度は精神的休息」

 

 シャオメイが。

 

 通信卓から顔を上げた。

 

「どちらへ行かれるんですか?」

 

「喫茶店」

 

「勤務中ですが」

 

「知ってる」

 

「フレイさんには?」

 

「言わない」

 

 イーナの表情が。

 

 みるみる不安になる。

 

「統括官、それは」

 

「大丈夫」

 

 ペルシアは。

 

 胸を張った。

 

「フレイ、今は局長のところ」

 

「戻ってくるまでにコーヒー飲んで帰ってくればいいのよ」

 

 そこまで。

 

 完璧な計画だった。

 

 少なくとも。

 

 ペルシアの中では。

 

 鞄は持たない。

 

 端末だけ。

 

 統括官席から。

 

 オペレーションルームの出口まで。

 

 およそ二十秒。

 

 あとは。

 

 同じ階の端にある喫茶区画へ行くだけ。

 

 コーヒーを飲んで。

 

 少し甘いものを食べ。

 

 二十分程度で戻る。

 

 誰にも迷惑はかからない。

 

 その予定だった。

 

 自動扉が開くまでは。

 

「……」

 

 ペルシアの動きが。

 

 止まった。

 

 扉の向こうから。

 

 フレイが入ってくる。

 

 ペルシアと。

 

 フレイ。

 

 距離。

 

 およそ十五メートル。

 

 出口へ向かっていたペルシアは。

 

 完全に。

 

 進路上で鉢合わせする位置だった。

 

「まずい」

 

 小声。

 

 イーナが。

 

 目を大きくする。

 

「統括官?」

 

「リリア」

 

「はい?」

 

「失礼」

 

「え?」

 

 次の瞬間。

 

 ペルシアは。

 

 方向を変えた。

 

 音を立てずに。

 

 素早く。

 

 リリアの机へ回り込む。

 

 そして。

 

 その陰へ。

 

 しゃがんだ。

 

 リリアは。

 

 呆然とする。

 

「ペルシアさん……?」

 

「しーっ」

 

 ペルシアは。

 

 唇へ人差し指を当てた。

 

 イーナは。

 

 その光景を見て。

 

 心臓が。

 

 急に早くなるのを感じていた。

 

 何をしているのだろう。

 

 統括官が。

 

 自分のオペレーションルームで。

 

 部下から隠れている。

 

 それも。

 

 仕事を抜け出そうとして。

 

 フレイは。

 

 まだ気づいていない。

 

 資料を手に。

 

 統括官席を見る。

 

 空席。

 

 そして。

 

 今。

 

 聞いた。

 

「統括官は、どこに行ったのですか?」

 

「わ、分かりません」

 

 シャオメイが答える。

 

 イーナは。

 

 自分へ聞かれないことを祈った。

 

 視線を。

 

 端末へ固定する。

 

 見ない。

 

 ペルシアを見ない。

 

 絶対に。

 

 目を動かさない。

 

 リリアも。

 

 平静を装っている。

 

 だが。

 

 口元の苦笑いだけは。

 

 どうしても消えなかった。

 

 フレイの目が。

 

 シャオメイから。

 

 統括官席へ戻る。

 

「先ほどまで、いらっしゃったはずですが」

 

「そうですね」

 

 シャオメイの声が。

 

 僅かに硬い。

 

「外出予定は?」

 

「把握していません」

 

「休憩時間ではありません」

 

「はい」

 

 ペルシアが。

 

 机の陰で。

 

 小さく顔をしかめた。

 

 フレイは。

 

 資料を統括官席へ置く。

 

 そして。

 

 低く呟いた。

 

「仕事がまだ残っているのに」

 

 ペルシアの肩が。

 

 ほんの少し。

 

 縮こまる。

 

「また抜け出すとは」

 

 イーナの心臓が。

 

 さらに速くなる。

 

 また。

 

 という部分。

 

 完全に。

 

 疑われている。

 

 ペルシアは。

 

 机の陰から。

 

 そっと。

 

 リリアを見る。

 

 口の動きだけで。

 

 言った。

 

 ばれてる?

 

 リリアは。

 

 苦笑いしたまま。

 

 ほんの僅かに首を傾げた。

 

 分かりません。

 

 そんな返事。

 

 ペルシアは。

 

 困った顔になる。

 

 フレイは。

 

 統括官席にある端末を確認した。

 

 作業途中。

 

 資料は。

 

 開きっぱなし。

 

 しかも。

 

 最後の入力から。

 

 数分しか経っていない。

 

「……」

 

 フレイの目が。

 

 さらに冷える。

 

 ペルシアは。

 

 それを。

 

 机の隙間から見ていた。

 

 逃げなければ。

 

 捕まる。

 

 だが。

 

 今。

 

 フレイの視線は。

 

 統括官席。

 

 こちらを見ていない。

 

 出口までは。

 

 およそ十メートル。

 

 床は。

 

 静音素材。

 

 普通に歩けば。

 

 ほとんど音はしない。

 

 いける。

 

 ペルシアの目が。

 

 出口へ向く。

 

 イーナが。

 

 その視線に気づいた。

 

 まさか。

 

 まだ行くつもりなのだろうか。

 

 ペルシアは。

 

 ゆっくり立ち上がる。

 

 リリアの机の陰から。

 

 少しずつ。

 

 身体を出す。

 

 フレイは。

 

 まだ背を向けている。

 

 ペルシア。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 足音。

 

 ほぼなし。

 

 リリアは。

 

 何とも言えない表情で。

 

 その後ろ姿を見る。

 

 イーナは。

 

 呼吸することすら。

 

 怖くなっている。

 

 シャオメイは。

 

 通信卓の画面を。

 

 必要以上に真剣に見ていた。

 

 ペルシア。

 

 出口まで。

 

 あと。

 

 五メートル。

 

 四メートル。

 

 三メートル。

 

 自動扉のセンサーへ。

 

 あと少し。

 

 その時。

 

 扉が。

 

 先に開いた。

 

 ペルシアの顔が。

 

 明るくなる。

 

 開いた。

 

 行ける。

 

 だが。

 

 扉の向こうから。

 

 一人の男が入ってきた。

 

 ジェームズ。

 

「……」

 

 ジェームズが。

 

 止まる。

 

 ペルシアも。

 

 止まる。

 

 二人。

 

 真正面。

 

 距離。

 

 一メートルもない。

 

 ジェームズの目が。

 

 ゆっくり。

 

 ペルシアの顔。

 

 次に。

 

 その後ろ。

 

 オペレーションルーム。

 

 さらに。

 

 統括官席。

 

 そして。

 

 また。

 

 ペルシアへ戻る。

 

「何をしてるんだ、お前は」

 

 低い声。

 

 ペルシアの額に。

 

 冷たい汗が浮かぶ。

 

「……散歩」

 

「勤務中に?」

 

「健康管理」

 

「資料は」

 

「精神衛生も大事」

 

「聞いてない」

 

「ジェームズ」

 

 ペルシアは。

 

 小声になる。

 

「お願い」

 

「何がだ」

 

「今だけ」

 

「何が今だけだ」

 

「見なかったことにして」

 

 ジェームズの眉が。

 

 深く寄る。

 

「何で俺が」

 

「プリン買ってくる」

 

「いらん」

 

「コーヒー」

 

「自分で買う」

 

「じゃあ何が欲しい?」

 

「仕事しろ」

 

 ペルシアの口が。

 

 止まった。

 

 その瞬間。

 

 背後から。

 

 声。

 

「統括官」

 

 ペルシアの背筋が。

 

 完全に固まる。

 

 ゆっくり。

 

 振り返る。

 

 フレイ。

 

 こちらを見ていた。

 

 目が。

 

 合う。

 

「……フレイ」

 

「何をされているのですか?」

 

 先ほどより。

 

 低い。

 

 ペルシアは。

 

 笑顔を作る。

 

「ちょっと外の空気を」

 

「ここは宇宙施設内です」

 

「気分の話」

 

「席へ戻ってください」

 

「でも」

 

「戻ってください」

 

「コーヒーだけ」

 

「後で」

 

「十分だけ」

 

「駄目です」

 

「五分」

 

「駄目です」

 

「三分」

 

「交渉ではありません」

 

 逃げ道。

 

 なし。

 

 ペルシアは。

 

 ジェームズを見る。

 

 助けて。

 

 目で訴える。

 

 ジェームズは。

 

 完全に無視した。

 

「自業自得だ」

 

「冷たい」

 

「知るか」

 

 フレイが。

 

 ペルシアの横へ来る。

 

「統括官」

 

「はい」

 

「席へ」

 

「はい……」

 

 完全敗北。

 

 ペルシアは。

 

 フレイに促され。

 

 今来た道を戻る。

 

 リリアの横を通る。

 

 リリアは。

 

 必死に笑わないようにしている。

 

 ペルシアが。

 

 小声で言う。

 

「笑ってるでしょ」

 

「笑っていません」

 

「口元」

 

「申し訳ありません」

 

 イーナも。

 

 ようやく息を吐いた。

 

 ばれた。

 

 でも。

 

 自分が告げ口したわけではない。

 

 それだけで。

 

 少し安心する。

 

 シャオメイは。

 

 ペルシアが席へ戻るのを確認し。

 

 小さく言った。

 

「統括官」

 

「何?」

 

「私は何も言っていません」

 

「分かってる」

 

「本当です」

 

「疑ってない」

 

「そうですか」

 

 シャオメイは。

 

 少しだけ安心した。

 

 ペルシアは。

 

 統括官席へ座らされる。

 

 目の前。

 

 資料。

 

 一枚。

 

 二枚。

 

 三枚。

 

 フレイが。

 

 追加資料まで置く。

 

「増えてない?」

 

「先ほど局長室で追加になりました」

 

「だから抜け出す前に行けばよかった」

 

「抜け出さなければいいだけです」

 

「正論が痛い」

 

 ジェームズも。

 

 自分の席へ向かう。

 

「馬鹿なことしてないで終わらせろ」

 

「ジェームズまで」

 

「俺は最初から言ってる」

 

「みんな厳しい」

 

「統括官が逃げるからです」

 

 フレイが。

 

 淡々と返す。

 

 ペルシアは。

 

 机へ肘をつき。

 

 頭を抱えた。

 

「喫茶店……」

 

「資料が終われば行って構いません」

 

「いつ終わる?」

 

「統括官次第です」

 

「一番嫌な答え」

 

 その時だった。

 

 ペルシアの端末が。

 

 鳴った。

 

 業務用。

 

 外線。

 

 ペルシアの顔が。

 

 一瞬で上がる。

 

「電話!」

 

 フレイが。

 

 僅かに眉を寄せる。

 

 ペルシアは。

 

 誰よりも早く。

 

 端末を取った。

 

「はい、宇宙管理局。ペルシア」

 

 あまりにも。

 

 俊敏だった。

 

 フレイが。

 

 小さく。

 

 舌打ちする。

 

「……」

 

 ペルシアは。

 

 聞こえなかったことにした。

 

 端末の向こうから。

 

 受付担当者の声。

 

『ペルシア統括官』

 

「はい」

 

『統括官にお客様です』

 

 ペルシアの目が。

 

 輝いた。

 

 客。

 

 これは。

 

 仕事。

 

 正式な来客。

 

 逃亡ではない。

 

 誰にも文句を言われない。

 

 ペルシアの口元が。

 

 ゆっくり上がる。

 

「お客様?」

 

『はい。直接お会いしたいとのことですが』

 

 ペルシアは。

 

 フレイを見る。

 

 勝った。

 

 そんな顔だった。

 

 フレイは。

 

 完全に。

 

 嫌な予感がするという目で。

 

 ペルシアを見る。

 

「誰ですか?」

 

 フレイが。

 

 小声で聞く。

 

 ペルシアは。

 

 端末を手で隠すようにして。

 

 まだ聞いてない。

 

 と口だけで返す。

 

 それから。

 

 電話へ戻る。

 

「分かった」

 

「すぐ通して」

 

 フレイが。

 

 目を細める。

 

「統括官、来訪者の確認を先に」

 

「大丈夫」

 

「何が大丈夫なのですか」

 

「お客様なんだから」

 

「だから確認を」

 

 ペルシアは。

 

 端末へ向かって。

 

 明るく言った。

 

「すぐ通してて」

 

 通話を切る。

 

 そして。

 

 椅子から立ち上がろうとする。

 

 フレイの手が。

 

 無言で。

 

 資料の上へ置かれた。

 

 ペルシアの動きが止まる。

 

「……何?」

 

「来客対応後」

 

「はい」

 

「戻ってきてください」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「仕事の来客でしょう?」

 

「ですから」

 

「逃げない」

 

「先ほども同じようなことをおっしゃっていました」

 

「今回は本当に逃げない!」

 

 ジェームズが。

 

 少し離れた席から。

 

 呆れたように言う。

 

「信用がねぇな」

 

 ペルシアが。

 

 ジェームズを見る。

 

「誰のせいよ」

 

「お前だ」

 

 即答。

 

 リリアが。

 

 とうとう。

 

 小さく笑った。

 

 イーナも。

 

 緊張が解けたように。

 

 僅かに口元を緩める。

 

 シャオメイは。

 

 通信卓へ視線を戻しながら。

 

 ぽつりと呟いた。

 

「来客がなければ、捕まったままでしたね」

 

「シャオメイ」

 

「はい?」

 

「余計なこと言わない」

 

「事実です」

 

 ペルシアは。

 

 深く息を吐いた。

 

 そんなやり取りえおしながらペルシアは受付へ向かった。

 

 誰が来たのか。

 

 受付からは聞いていない。

 

 宇宙連邦連盟。

 

 ドルトムント。

 

 宇宙警察。

 

 あるいは。

 

 局長関係の来客。

 

 統括官になってから。

 

 突然訪ねてくる人間は増えた。

 

 ペルシアは。

 

 特に何も考えず。

 

 来客区画へ続く扉を開いた。

 

 そして。

 

 足を止めた。

 

「……カイエ?」

 

 そこに。

 

 カイエが立っていた。

 

 いつものように。

 

 背筋は伸びている。

 

 姿勢も。

 

 崩れてはいない。

 

 だが。

 

 手には。

 

 大きめの鞄。

 

 普段。

 

 会社へ来る時に持つものとは違う。

 

 それだけではない。

 

 顔。

 

 目。

 

 口元。

 

 全部。

 

 いつものカイエなのに。

 

 何かが違った。

 

 ペルシアを見たカイエは。

 

 小さく頭を下げた。

 

「ペルシアさん」

 

「……うん」

 

「いきなりすみません」

 

 その声を聞いた瞬間。

 

 ペルシアの顔から。

 

 先ほどまでの軽さが消えた。

 

 何があったのか。

 

 具体的には分からない。

 

 でも。

 

 何かあった。

 

 それだけは。

 

 一瞬で分かった。

 

 カイエは。

 

 普段から声を荒らげる人間ではない。

 

 辛いことがあっても。

 

 まず自分の中で整理する。

 

 何かを言う前に。

 

 相手へ迷惑をかけない言い方を考える。

 

 そのカイエの声が。

 

 今は。

 

 妙に平らだった。

 

 落ち着いているのではない。

 

 落ち着かせている。

 

 ペルシアは。

 

 何も聞かなかった。

 

「カイエ」

 

「はい」

 

「喫茶店行こ」

 

 カイエが。

 

 目を瞬く。

 

「え?」

 

「ちょうど私も行きたかったの」

 

「でも、お仕事は……」

 

「お客様対応も仕事」

 

「いや、それは……」

 

「いいの」

 

 ペルシアは。

 

 ほんの少しだけ笑う。

 

「ここで立ち話するよりいいでしょ」

 

 カイエは。

 

 少し迷った。

 

 だが。

 

 やがて。

 

 小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「じゃ、行こ」

 

 ペルシアは。

 

 カイエの事情を。

 

 一つも聞かなかった。

 

 ◇

 

 オペレーションルームの前を通る。

 

 ペルシアは。

 

 中へ顔だけ出した。

 

「フレイ」

 

「はい」

 

「お客様と打ち合わせしてくる」

 

 フレイが。

 

 顔を上げる。

 

 そして。

 

 ペルシアの後ろに立っているカイエを見た。

 

「カイエさん」

 

「フレイさん。お疲れ様です」

 

 カイエが。

 

 いつも通り丁寧に頭を下げる。

 

 それだけ。

 

 フレイは。

 

 カイエの顔を数秒見た。

 

 手に持った鞄にも。

 

 一度。

 

 視線を向ける。

 

 そして。

 

 ペルシアへ戻した。

 

「どちらへ?」

 

「喫茶店」

 

「……」

 

「仕事よ?」

 

「まだ何も申し上げていません」

 

「その目が言ってる」

 

 フレイは。

 

 いつもなら。

 

 ここで止める。

 

 会議室を使ってください。

 

 あるいは。

 

 来客用応接室で十分です。

 

 そう言う。

 

 だが。

 

 今日は。

 

 何も言わなかった。

 

 もう一度。

 

 カイエを見る。

 

 それから。

 

「承知しました」

 

 短く答えた。

 

「必要であれば、こちらの予定は調整します」

 

「ありがとう」

 

 ペルシアの返事も。

 

 いつもより静かだった。

 

 フレイは。

 

 何も聞かない。

 

 ペルシアも。

 

 それ以上何も言わない。

 

 二人は。

 

 オペレーションルームを離れた。

 

 イーナが。

 

 その後ろ姿を見送る。

 

「カイエさん……何かあったのでしょうか」

 

 シャオメイも。

 

 少し心配そうに扉を見る。

 

 リリアは。

 

 静かに言った。

 

「ペルシアさんが、何も聞かなかったから、たぶん、今は、聞かない方がいいんだと思います」

 

 フレイは。

 

 何も答えなかった。

 

 ただ。

 

 ペルシアの統括官席へ置いた資料を。

 

 それ以上増やすことはしなかった。

 

 ◇

 

 宇宙管理局内。

 

 喫茶区画。

 

 昼を少し過ぎた時間。

 

 店内は。

 

 それほど混んでいなかった。

 

 窓際の席。

 

 宇宙港を見渡せる場所。

 

 ペルシアは。

 

 いつもなら。

 

 甘いものの陳列棚へ真っ先に行く。

 

 今日は違った。

 

 まず。

 

 カイエを席へ座らせた。

 

「何飲む?」

 

「私は……何でも」

 

「それが一番困るやつ」

 

「すみません」

 

「謝らない」

 

 ペルシアは。

 

 メニューをカイエへ向ける。

 

「コーヒー?」

 

「はい」

 

「ブラック?」

 

「……今日は、ミルク入れます」

 

 ペルシアの目が。

 

 ほんの少し動いた。

 

「分かった」

 

 それだけ。

 

 自分は。

 

 カフェラテ。

 

 それから。

 

 小さなプリンを一つ。

 

 いつもなら。

 

 ケーキも。

 

 ドーナツも。

 

 追加する。

 

 今日は。

 

 プリンだけだった。

 

 二人の前へ。

 

 飲み物が置かれる。

 

 ペルシアは。

 

 カフェラテを一口飲んだ。

 

 カイエも。

 

 コーヒーへ口をつける。

 

 沈黙。

 

 ペルシアは。

 

 何も聞かない。

 

 どうしたの。

 

 何があったの。

 

 なぜ来たの。

 

 どれも。

 

 言わない。

 

 プリンの蓋を開ける。

 

 スプーンで一口。

 

「ここのプリン」

 

 ペルシアが。

 

 ぽつりと言う。

 

「前より美味しくなったのよ」

 

 カイエが。

 

 少しだけ顔を上げる。

 

「そうなんですか」

 

「うん」

 

「前はね、少し固かった。今は柔らかい」

 

「……そうなんですね」

 

「今度ククルが来たら、絶対二個食べると思う」

 

 カイエの指が。

 

 コーヒーカップの縁で止まった。

 

 ククル。

 

 名前を聞いた瞬間。

 

 目が。

 

 ほんの僅かに揺れる。

 

 ペルシアは。

 

 気づいた。

 

 でも。

 

 何も言わなかった。

 

 プリンを。

 

 もう一口。

 

 ただ。

 

 待つ。

 

 カイエが。

 

 自分から話すまで。

 

 数十秒。

 

 もしかすると。

 

 数分。

 

 店内の音だけが。

 

 二人の間を流れていた。

 

 やがて。

 

 カイエが。

 

 小さく口を開いた。

 

「……今日」

 

 ペルシアは。

 

 顔を上げる。

 

「うん」

 

「人事異動が出ました」

 

 それだけ。

 

 ペルシアは。

 

 まだ聞かない。

 

「私のです」

 

「うん」

 

「異動先が」

 

 カイエは。

 

 一度。

 

 息を吸った。

 

「ドルトムント財閥系列の子会社。冥王星支社でした」

 

 ペルシアのスプーンが。

 

 止まった。

 

「……冥王星?」

 

 初めて。

 

 驚きが声へ出た。

 

「はい」

 

「十四班から?」

 

「はい」

 

「冥王星?」

 

「はい」

 

「それ……」

 

 ペルシアは。

 

 何か言おうとして。

 

 止めた。

 

 感情だけで。

 

 先へ決めつけない。

 

「続けて」

 

「……はい」

 

 カイエは。

 

 少し視線を落とした。

 

「ナッシュさんの件があって」

 

 ペルシアの表情が。

 

 僅かに変わる。

 

 カイエは。

 

 ゆっくり。

 

 話した。

 

 ナッシュが。

 

 操縦禁止の指示を守らなかったこと。

 

 飛行中。

 

 乗客や乗務員に負担が出たこと。

 

 到着後。

 

 客室側へ責任を押し付けるような発言をしたこと。

 

 それを聞いて。

 

 自分が怒ったこと。

 

 普段なら。

 

 もっと言葉を選べた。

 

 もっと冷静でいられた。

 

 でも。

 

 あの時は。

 

 許せなかった。

 

 そして。

 

 ナッシュに手を出されそうになり。

 

 リュウジが止めた。

 

 そこまで。

 

 カイエは。

 

 淡々と話した。

 

 ペルシアは。

 

 一度も遮らない。

 

 驚いた顔も。

 

 怒った顔も。

 

 途中では見せなかった。

 

「その後」

 

 カイエが続ける。

 

「今日、異動の掲示が出ました」

 

「……うん」

 

「ナッシュさんの件と関係があるのかは、分かりません。私には証拠もありません。だから、そのことを理由に、誰かを責めるつもりもありません」

 

 ペルシアは。

 

 黙って聞く。

 

「ただ」

 

 カイエの手が。

 

 少しだけ。

 

 カップを強く握る。

 

「冥王星へ行くつもりには、なれませんでした」

 

 ペルシアが。

 

 静かに頷く。

 

「それで」

 

 カイエは。

 

 次の言葉を言うまで。

 

 少し時間がかかった。

 

「……辞めました」

 

 今度こそ。

 

 ペルシアの目が。

 

 大きく開いた。

 

「ドルトムントを?」

 

「はい」

 

「今日?」

 

「はい」

 

「もう?」

 

「手続きはしました」

 

「……そう」

 

 ペルシアは。

 

 カフェラテへ視線を落とした。

 

 驚いている。

 

 かなり。

 

 だが。

 

 最初に出た言葉は。

 

「戻りなさい」

 

 ではなかった。

 

「何で相談しなかったの」

 

 でもない。

 

「馬鹿」

 

 でもなかった。

 

「そっか」

 

 ただ。

 

 それだけ。

 

 カイエが。

 

 少し驚いたように顔を上げる。

 

 ペルシアは。

 

 カップへ触れたまま。

 

 カイエを見る。

 

「それで、ここに来たの?」

 

「……はい」

 

「私に言いに?」

 

「はい」

 

 カイエは。

 

 一度。

 

 目を伏せる。

 

「エリン達には?」

 

「何も言っていません」

 

「連絡は?」

 

「来ています」

 

「出てない?」

 

「……はい」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ眉を下げた。

 

「そっか」

 

 やっぱり。

 

 それ以上。

 

 責めない。

 

「エリンさんが戻ってくる前に」

 

 カイエは続ける。

 

「会社を出ました。エリンさんがいたら、止めてくれると思ったので」

 

 ペルシアの口元が。

 

 ほんの少しだけ緩む。

 

「止めるでしょうね」

 

「はい」

 

「絶対止める」

 

「はい」

 

「タツヤ班長も」

 

「はい」

 

「ククルなんて、足にしがみついてでも止めそう」

 

 カイエの口元が。

 

 ほんの少し。

 

 震える。

 

「……そうですね」

 

「エマは静かな顔して、出口塞ぐわね。ミラは泣く、ランも黙ってない。ガーネットも、たぶん、人事に直接行く」

 

 ペルシアは。

 

 十四班の顔を。

 

 一人ずつ思い浮かべる。

 

「リュウジがいたら何も言わずに話を全部聞いて、そのあと会社側に確認しに行くでしょうね」

 

 カイエは。

 

 小さく笑いかけた。

 

 でも。

 

 笑えなかった。

 

「だから嫌だったんです。自分のために、皆さんが動くのが」

 

 ペルシアは。

 

 何も言わない。

 

「私が怒ったせいで、誰かが会社と揉めて、エリンさんがまた何かを背負って、タツヤ班長にも迷惑をかけて、ククル達も」

 

「……」

 

 カイエの声が。

 

 少しずつ。

 

 小さくなる。

 

「それが嫌でした。自分のことなら自分で終わらせればいいと思ったんです」

 

 ペルシアの目が。

 

 少しだけ。

 

 悲しそうに細くなった。

 

 その考え方。

 

 知っている。

 

 よく。

 

 知っている。

 

 自分も。

 

 同じことをしたから。

 

 何も言わず。

 

 ドルトムントを辞めようとした。

 

 止められるのが分かっていたから。

 

 言わなかった。

 

 そして。

 

 あの日。

 

 追いかけてきたのが。

 

 目の前にいる。

 

 カイエだった。

 

『どうして、何も言わずに辞めるんですか』

 

『止めます!』

 

『止めるに決まってます!』

 

 息を切らせ。

 

 泣きながら。

 

 自分を止めようとした。

 

 そのカイエが。

 

 今日は。

 

 誰にも止められないうちに。

 

 自分から辞めてきた。

 

 ペルシアは。

 

 その皮肉に。

 

 笑えなかった。

 

「……カイエ」

 

「はい」

 

「私が辞めた時」

 

「怒ったよね」

 

 カイエの目が。

 

 少し動く。

 

「……はい」

 

「何で言わなかったんですかって」

 

「言いました」

 

「止めるって」

 

「言いました」

 

「今」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ困ったように笑う。

 

「私、あの時のカイエの気持ち、すごく分かる」

 

 カイエの目が。

 

 僅かに潤む。

 

「でも」

 

 ペルシアは続ける。

 

「だからって戻れとは言わない」

 

 カイエが。

 

 ペルシアを見る。

 

「私はカイエがどうして辞めたのか、ちゃんと聞いた。それで十分。正しかったかどうかなんて、今ここで決めなくていい」

 

 ペルシアは。

 

 優しく言った。

 

「辞めたくなるくらい、辛かったんでしょ」

 

 その一言で。

 

 カイエの目が。

 

 揺れた。

 

「……」

 

 でも。

 

 まだ。

 

 涙は出ない。

 

 今日。

 

 人事異動を見た時も。

 

 机を片付けた時も。

 

 写真を見た時も。

 

 エリンから何度も電話が来た時も。

 

 泣かなかった。

 

 泣けなかった。

 

 カイエは。

 

 両手を膝の上へ置く。

 

「ペルシアさん」

 

「うん」

 

「一つだけ」

 

「言わないといけないことがあります」

 

 ペルシアは。

 

 何も急かさない。

 

「何?」

 

 カイエの指が。

 

 少し震えた。

 

「……約束」

 

 ペルシアの表情が。

 

 止まる。

 

「ペルシアさんがドルトムントを辞めた時」

 

 あの日。

 

 ロビー。

 

 涙。

 

 額と額を合わせた。

 

 最後の言葉。

 

『あとは任せた』

 

『だからちゃんと守りなさいよ、十四班』

 

 カイエは。

 

 全部。

 

 覚えている。

 

「私、任されましたって言いました」

 

「うん」

 

「十四班を守るって約束しました」

 

「うん」

 

 ペルシアの返事は。

 

 変わらない。

 

 カイエの声だけが。

 

 少しずつ震えていく。

 

「なのに、私、途中で……」

 

 声が。

 

 止まる。

 

「辞めました」

 

 ペルシアは。

 

 黙っている。

 

「まだ、皆は十四班にいるのに、私は、先に―――」

 

 カイエは。

 

 唇を強く噛んだ。

 

「ペルシアさんとの約束、守れませんでした」

 

 そして。

 

 深く。

 

 頭を下げた。

 

「すみません」

 

 ペルシアは。

 

 数秒。

 

 何も言わなかった。

 

 カイエの頭が。

 

 下がったまま。

 

 戻らない。

 

「……すみません」

 

 もう一度。

 

 同じ言葉。

 

 ペルシアは。

 

 椅子から立ち上がった。

 

 カイエの肩が。

 

 ほんの少しだけ強張る。

 

 怒られる。

 

 そう思ったわけではない。

 

 ただ。

 

 何を言われても。

 

 受け止めようと思った。

 

 自分が。

 

 約束を守れなかったのは。

 

 事実だから。

 

 ペルシアは。

 

 テーブルの横を回る。

 

 カイエの隣へ立つ。

 

 そして。

 

 手を伸ばした。

 

 カイエの頭へ。

 

 そっと。

 

 手を置く。

 

「……え?」

 

 カイエが。

 

 顔を上げる。

 

 ペルシアは。

 

 優しく。

 

 髪を撫でた。

 

 一度。

 

 ゆっくり。

 

 子どもを褒めるように。

 

「よく頑張った」

 

 カイエの目が。

 

 大きくなる。

 

「……ペルシアさん?」

 

「よく頑張ったね、カイエ」

 

 もう一度。

 

 頭を撫でる。

 

 ペルシアは。

 

 笑っていた。

 

 でも。

 

 からかう笑いではない。

 

 あの日。

 

 カイエの肩へ手を置いた時と。

 

 同じ。

 

 優しい顔だった。

 

「私との約束なんて、いいの」

 

 カイエの唇が。

 

 僅かに震える。

 

「でも」

 

「いい」

 

 ペルシアは。

 

 はっきり言った。

 

「十四班を守ってって言った。確かに言った。任せたって、私が言った。でもね」

 

 手を。

 

 カイエの頭から離さない。

 

「その約束のせいでカイエが苦しい思いをするくらいなら、全然いい。守らなくていい」

 

 カイエの目に。

 

 水が溜まる。

 

「……でも、私が守ってほしかった十四班の中には」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ。

 

 声を柔らかくする。

 

「カイエも入ってるの」

 

 その言葉で。

 

 カイエの呼吸が。

 

 止まった。

 

「リュウジも、エリンも、タツヤ班長も、ククルも、エマも、みんな、あの時、私が守りたいって言ったでしょう?」

 

 ペルシアは。

 

 以前。

 

 カイエへ言った。

 

 自分が守りたいのは。

 

 十四班という名前でも。

 

 ドルトムントという会社でもない。

 

 そこにいる。

 

 人。

 

 だった。

 

「カイエもその一人よ」

 

 カイエの目から。

 

 一粒。

 

 涙が落ちた。

 

「……」

 

 自分でも。

 

 驚いた。

 

 今日。

 

 ずっと。

 

 出なかった。

 

 掲示板を見ても。

 

 机を片付けても。

 

 十四班の写真を手に取っても。

 

 何度も鳴る。

 

 エリンの着信を見ても。

 

 出なかった。

 

 涙が。

 

 今。

 

 たった一言で。

 

 落ちた。

 

「だから」

 

 ペルシアは続ける。

 

「十四班を守るためにカイエが壊れたら意味ないでしょう?」

 

 もう一粒。

 

 落ちる。

 

「……私」

 

 声が。

 

 出ない。

 

 カイエは。

 

 口元を押さえる。

 

「私……」

 

「うん」

 

「ちゃんと、やろうと」

 

「うん」

 

「ペルシアさんが任せてくれたから、ちゃんと……」

 

 声が。

 

 崩れた。

 

「ちゃんと守らないとって……」

 

「うん」

 

「ペルシアさんがいなくても十四班をちゃんと……」

 

 もう。

 

 言葉にならない。

 

 カイエの肩が。

 

 初めて。

 

 大きく震えた。

 

 涙が。

 

 次々に。

 

 頬を伝っていく。

 

「すみません……」

 

「謝らない」

 

「でも……」

 

「謝らない」

 

 ペルシアは。

 

 もう一度。

 

 頭を撫でる。

 

「よく頑張った」

 

 その言葉が。

 

 カイエの中で。

 

 最後まで残っていたものを。

 

 切った。

 

「……っ」

 

 カイエは。

 

 顔を伏せた。

 

 声を抑えようとした。

 

 だが。

 

 無理だった。

 

「……ペルシアさん……」

 

「うん」

 

「私……」

 

「うん」

 

「悔しいです……」

 

 初めて。

 

 本音が出た。

 

「本当は……」

 

「辞めたくなんか……」

 

 ペルシアの目が。

 

 僅かに揺れる。

 

 それでも。

 

 止めない。

 

「うん」

 

「ずっと十四班にいたかったです……」

 

「うん」

 

「ククル達ともっと仕事したかった……」

 

「うん」

 

「エリンさんにもっと教えてもらいたかった……」

 

「うん」

 

「タツヤ班長にも、リュウジさんにも、ちゃんと……」

 

 涙で。

 

 言葉が続かない。

 

「ペルシアさんに、頼まれたことも……最後まで……やりたかったです……」

 

 ペルシアは。

 

 何も否定しなかった。

 

 何も正そうとしなかった。

 

 ただ。

 

 カイエの頭を。

 

 撫で続けた。

 

「そっか」

 

 静かな声。

 

「悔しかったね」

 

 その瞬間。

 

 カイエは。

 

 完全に泣いた。

 

「……っ、はい……!」

 

 今日初めて。

 

 子どものように。

 

 涙を止めようともせず。

 

 泣いた。

 

 ペルシアは。

 

 そっと。

 

 カイエの頭を自分の方へ寄せた。

 

「泣いていいよ……前にも言ったでしょう?」

 

 あの日。

 

 ペルシアが去る時。

 

 泣き止めないカイエへ。

 

 言った。

 

『じゃあ泣いてていい』

 

『でも、ちゃんと息して』

 

 カイエの目が。

 

 さらに崩れる。

 

「覚えて……」

 

「覚えてるわよ」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ笑う。

 

「私、自分が言ったこと全部忘れるほど適当じゃないわ。たまに忘れるけど」

 

「……今、それ……言いますか……」

 

「喋れた」

 

 カイエが。

 

 泣きながら。

 

 ほんの僅かに笑う。

 

「そう」

 

 ペルシアも。

 

 笑う。

 

「それでいい」

 

 少しの間。

 

 二人は。

 

 そのままだった。

 

 周囲の客は。

 

 こちらを見ない。

 

 店内には。

 

 食器の小さな音と。

 

 遠くの会話。

 

 窓の向こうには。

 

 宇宙管理局の船が。

 

 ゆっくりと航路へ出ていく。

 

 やがて。

 

 カイエの呼吸が。

 

 少しずつ整ってきた。

 

 ペルシアは。

 

 頭を撫でながら。

 

 小さく言った。

 

「ねぇ、カイエ」

 

「……はい」

 

「約束って」

 

「守るために人が壊れるものじゃないよ」

 

 カイエは。

 

 黙って聞く。

 

「状況が変わったなら、変えていい。できなくなったなら、一回手放していい。私があの時、十四班を頼んだのは、カイエを縛るためじゃない」

 

 ペルシアの声は。

 

 優しい。

 

「カイエなら皆を大事にしてくれると思ったから、それだけ」

 

 カイエは目元を拭う。

 

「……はい」

 

「で」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ悪戯っぽい顔へ戻る。

 

「実際、大事にしたでしょ?」

 

「……できていたかは」

 

「そこ」

 

 ペルシアが。

 

 軽く。

 

 カイエの額を指で押した。

 

「すぐ自分の点数下げるのやめなさい」

 

「でも」

 

「私が決める」

 

「横暴です」

 

「統括官だから」

 

「関係ないでしょう……」

 

「あるの」

 

 カイエが。

 

 泣きながら。

 

 少しだけ笑う。

 

 ペルシアは。

 

 満足そうに頷いた。

 

「カイエはちゃんとやった。十分。だから私との約束は」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ考える。

 

「今日で終わり」

 

 カイエの目が。

 

 僅かに寂しそうになる。

 

 ペルシアは。

 

 すぐに続けた。

 

「でもカイエとの関係まで終わるとは言ってないわよ」

 

 カイエが。

 

 顔を上げる。

 

「ドルトムント辞めたら」

 

「私と会っちゃいけないの?」

 

「……いえ」

 

「宇宙管理局に来ちゃいけない?」

 

「いえ」

 

「喫茶店も?」

 

「……来てもいいと思います」

 

「ならいいじゃない」

 

 ペルシアは。

 

 笑った。

 

「仕事を辞めただけ、全部失くしたみたいな顔しない」

 

 カイエは。

 

 また。

 

 目を潤ませる。

 

「……ペルシアさん」

 

「何?」

 

「ありがとうございます」

 

 ペルシアは。

 

 少しだけ目を細める。

 

「どういたしまして」

 

 そして。

 

 カイエの頭へ。

 

 最後にもう一度。

 

 優しく手を置いた。

 

「本当によく頑張ったね」

 

 その言葉に。

 

 カイエの涙が。

 

 また一粒。

 

 落ちた。

 

 でも。

 

 今度の涙は。

 

 さっきまでとは。

 

 少しだけ。

 

 違っていた。

 

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