ジャン・キルシュタインが兵士をやめた日 作:an-ryuka
その夜。
男子寮の暗闇は、昼よりうるさい。囁き声が増える。勝手に増える。
「なぁ、ジャン、お前……」
「うるせぇ」
「いや、でもさ……」
「寝ろ」
布団を被っても、思考は被れない。
(俺、告白したことになってる?)
いや、違う。
あいつが先に「好き」って言ってきたんだ。
俺は、それに……反応しただけだ。
……反応しただけって何だ。
(は?両思い?)
いや、あいつの「好き」は冗談だろ。
冗談だ。あいつはそういうやつだ。
……でも、今日は赤くなってた。
冗談の時の赤じゃない、あれは。
(じゃあ俺のも本気なのか?)
いや、別に本気で言ったわけじゃ……
……じゃないなら、なんで「どうすんだよ」なんて言った。
なんで心臓がまだうるさい。
なんで逃げた背中が、気になって仕方ない。
(……くそ)
⸻
翌朝。
ピアットは、一瞬ビクッとした。
食堂で目が合った瞬間、ほんの少しだけ肩が跳ねた。
でも次の瞬間には、いつもの顔、いつもの声を作る。
「ジャン、おはよ♡」
いつも通り、ふいっと寄って、腕に触れる。
くっついて、すぐ離れる。
いつものパターン。
違うのは、ジャンだった。
「……おう。おはよ」
それだけ。
たったそれだけなのに、ピアットの目が見開かれて、またビクッとする。
それから、照れたみたいに視線が泳いで、
でも嬉しそうに口角が上がった。
「……へへ」
小さく笑って、ピアットは逃げるみたいに去っていった。
いつもより少し早足で。
それを見ていたマルコが、そっとジャンの隣に来る。
優しい顔。気遣いの顔。
「……何かあったの?」
ジャンは答えない。答えられない。
代わりに、ぽつっと変なことを言った。
「……あいつ、あんなに可愛かったか?」
マルコが一瞬だけ笑った。
「彼女は、いつもと変わってないと思うよ」
そして、まっすぐに言う。
「変わったのは……ジャンじゃない?」
ジャンは目を逸らす。
図星だ。図星だから腹が立つ。
声のトーンを落として、別の話題に逃げるみたいに言った。
「……あいつ、調査兵団志望だって言うんだよ」
「……うん」
「何でなんだ?あんな所……死にに行くようなもんじゃねぇか」
マルコはすぐに返事をしなかった。
一拍、ちゃんと考える。そういう奴だ。
「理由は聞いた?」
「……聞いてない」
ジャンの声が、少しだけ小さくなる。
聞けなかった。聞こうとすると、昨日の赤い顔が思い出されるから。
マルコは静かに頷いた。
「なにか理由があるのかもしれないよ」
「……」
「彼女、冗談ばっかり言うけど……。
嘘はついてないような気がするんだ」
ジャンの喉が鳴った。
嘘をつくタイプじゃない。
それはつまり、調査兵団が本気だってことだ。
(……くそ)
⸻
その日の午後。
ジャンは、少し離れた場所から、声を拾ってしまう。
エレンとミカサとピアットが、並んで話している。
ピアットは、いつもの軽いノリで、でも昨日より少しだけ丁寧な距離感で笑っている。
エレンが言う。
「お前も調査兵団志望なんだってな」
「そだよ〜。2人もだよね。これからもよろしく♡」
ピアットが手を振る。
エレンは「お、おう」と、嬉しそうに少し笑う。
ミカサは無表情のまま、ピアットを一度だけ睨むように見る。
エレンが首を傾げる。
「そういや、お前はなんで調査兵団なんだ?」
ピアットが「うーん」って唇に指を当てる。
考えるふり。
だけど、その目はどこか遠い。
「……2人は?」
エレンが即答する。
「巨人を一匹残らず駆逐するためだ!」
ミカサは迷いなく言う。
「私がいないとエレンは死ぬから」
ピアットが笑った。
くすっと。いつもの軽い笑い。
でもそのあと、視線が少しだけ遠くを見た。
壁の向こうじゃなく、もっと遠く。
「私はね……歴史が変わる瞬間を、この目で見たいの」
「歴史……?」エレンが眉を寄せる。
ピアットはそれ以上説明する気がないらしく、すぐに笑って流した。
「まぁ、いいじゃん。面白そうでしょ?」
その瞬間、ピアットの目がふっと動いて、少し離れた場所のジャンを捉えた。
聞いてたんだ?みたいな、ほんの小さな笑い。
ジャンは反射で、バッと目を逸らした。
見てない。聞いてない。
そういう顔を作る。作ってしまった。
――――
訓練兵団の最後の日は、拍子抜けするくらい普通に始まった。
空は青くて、風は乾いていた。
コニーは落ち着きなく肩を揺らしてる。
「明日から俺ら、憲兵団だぜ」
「美味しいもの、沢山ありますかね……へへ」
サシャは相変わらず食い物のことしか頭にない。
俺だって、明日から憲兵団なんだ。
ただ、
……ピアットの「調査兵団♡」の声が、まだ取れない。
あの時の赤い顔も、消えない。
なのに本人は、いつも通り笑って、いつも通り触って、いつも通り離れて、いつも通り冗談で全部を流して行った。
(……俺だけ引っかかってるみてぇじゃねぇか)
ジャンがぼんやりしてると、背中に軽い衝撃が来る。
「ジャン〜」
声。近い。
振り向く前に、腕に指が絡む。いつもの絡み方。
「何ぼーっとしてるの?緊張してる?」
「してねぇよ」
「ふーん?じゃあ、考えごと?」
「してねぇっつってんだろ」
ピアットはにやにや――じゃない。
今日は少しだけ、控えめに笑った。
それが余計に、ジャンの神経を逆撫でした。
「――お前、本当に、」
――その瞬間。
遠くで、地鳴りがした。
最初は誰も反応できなかった。
訓練で鳴らす合図でもない。雷でもない。
何かが崩れる音が、時間差で響いてくる。
近くに居た全員が一斉に、音の方を見る。
――壁から、黒い煙が上がっていた。
――――――――
「訓練兵も持ち場へ!装備!走れ!」
そう叫んでその人は、すぐに立体機動装置で飛び立って行った。
足が動かないやつがいる。
恐怖で固まるやつがいる。
訓練の中でしか命令を聞いたことがない連中が、初めて命令が命を左右する空気に飲まれている。
ジャンは、自分でも驚くくらい大きな声を出した。
「おい!!聞こえねぇのか!!動け!!」
声が割れる。
怒鳴り声で、自分の心臓のうるささを黙らせるみたいに。
「ここで突っ立ってたら人が食われる!!やるしかねぇんだよ!!」
誰かがはっとする。
誰かが息を吸う。
マルコが一歩出て、頷く。
コニーが「クソ!」って叫んで走り出す。
サシャが顔を強張らせたまま動きだしま。
「ジャン……」とマルコが言いかけた、その時。
「そうだね?」
声が近い。
ジャンが振り向くと、ピアットがいた。
笑ってる。
笑ってるのに、目は妙に澄んでいた。
現実味がないはずの女が、現実の真ん中に立ってる。
ピアットは、なんてことないように、ジャンへ寄ってくる。
距離が詰まる。
ジャンが「お前、なに――」と言う前に、
ちゅ。
軽い音。
唇に触れたのは、一瞬で、熱だけが残った。
ジャンの脳が止まる。
世界が遅くなる。
鼓舞の声も、悲鳴も、地鳴りも、一瞬遠のく。
ピアットは平然と、笑った。
「また会おうね?」
そう言って、振り分けられた持ち場へ走っていく。
その背中が、あまりにも軽くて――ジャンは息ができなくなった。
(……今、何した?)
言葉が出ない。
出ないまま、周りの訓練兵たちがその一部始終を見ていたことに気づく。
コニーが口を開けたまま固まってる。
サシャが目を丸くして、次の瞬間「今の何!?」って顔。
マルコが一瞬だけ驚いた顔をして、それからすぐ真面目な顔に戻った。
――やらなきゃやられる。
今ここで、誰かが崩れたら、全員崩れる。
ジャンは歯を食いしばって、声を絞り出した。
「……行くぞ!!」
考えるのは後だ。
今は生き残る。生き残ってから、殴るなり抱きしめるなり、好きにすればいい。
ジャンは立体機動装置を締め直し、刃を確かめ、走った。
⸻
戦闘は、訓練の延長じゃなかった。
匂いが違う。音が違う。
人の足音が、命の音になる。
叫び声が、すぐ消える声になる。
巨人は、想像より遅くて、想像より速い。
のろいくせに、届く。
一瞬目を逸らしただけで、もうそこにいる。
「固まるな!屋根使え!」
そんな叫びの合間に、ジャンの目は勝手に走る。
(……ピアットは)
視界の端。屋根の上。煙の向こう。
ダメだと思っても、探してしまう。
でも――いない。見えない。
(くそ……!)
仲間が落ちる。
悲鳴が途切れる。
一人、二人、三人。
訓練で隣にいた奴らが、たった数秒でいなくなる。
ジャンは考えるのをやめた。やめないと壊れる。
生きるための最短手順だけを選ぶ。
⸻
なんとか壁上へと戻ってきた。
手は震えて、脚が笑ってる。
ピアットは、見当たらない。
ジャンは、喉の奥が凍るのを感じた。
焦ってるのがバレたくない。
自分だけが必死みたいに見えるのが怖い。
でも、我慢できない。
ジャンは、できるだけ平然とした声を作って、近くの兵に聞いた。
「……ピアット、どこかで見なかったか?」
自分でも分かる。声が硬い。
そいつは呆然とした目で、少し遅れて答えた。
「……え、えっと……しばらく前ですけど……あっちの方で見ました……」
見ましたの後ろに、言葉が続かない。
生きてる、とも、死んだ、とも言えない状況。
ジャンの胃がきゅっと縮む。
周りの視線が一瞬ジャンに集まる。
そいつは生きているか、死んでいるか。
死んでる可能性の方が高い……。
(……うるせぇ)
ジャンは何も言わず、その方向へ歩き出した。
瓦礫。煙。血の匂い。
叫び声が遠のいて、代わりに、静かすぎる音が増える。
(やめろ、考えるな)
探す。探す。探す。
名前は呼ばない。呼んだら惨めになる気がした。
その時、背後から声がした。
「……ジャン?」
振り向く前に分かった。
その軽さ。語尾。空気の抜け方。
ジャンが振り向くと、ピアットがいた。
煤が頬に付いて、髪が少し乱れてる。
でも目は生きてる。体も動いてる。
生きてる。
その事実だけで、ジャンの膝が一瞬だけ抜けそうになる。
ピアットはケロッと笑って、近づいてくる。
「私のこと、探してくれたの〜?」
いつもなら腹立つ言い方。
でも今は――腹が立つより、胸が詰まる。
ジャンは何か言おうとして、言葉が出なかった。
ピアットは笑ったまま、ふとジャンの顔色を見て、笑いを引っ込めた。
表情が落ちる。真面目になる。
「……ジャン?大丈夫?」
その「大丈夫?」が、妙にちゃんと刺さった。
今までの冗談よりずっと。
ジャンは考えるより先に、手を伸ばした。
抱きしめた。
自分でも驚くくらい強く、腕が勝手に回った。
ピアットが「えっ」と声を漏らして固まる。
一瞬、息が止まる。
ジャンは抱きしめたまま、何も言えない。
言ったら崩れる。
よかったって言ったら、今までの自分が全部ひっくり返る。
ピアットは、動かない。
冗談も言わない。
ただ、腕の中にいる。
ジャンはようやく言葉が形になる。
「……調査兵団志望なのは、変わらないのか」
声が低い。震えてないふりをした声。
でもたぶん、震えてる。
ピアットは少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「うん。調査兵団行くよ」
ジャンの喉が鳴った。
こんなに人が、こんなに簡単に死ぬ世界に、自分から行く。
その現実が、昨日までよりずっと怖い。
ジャンは抱きしめたまま、息を吐いた。
長く。深く。
吐き出しながら、頭の中で勝手に考える。
――ジャンは向いてると思うよ。
マルコの言葉が、頭の中で響く。
(……やれるやつがやるべきだ)
(俺は、やれる)
(……こいつも、多分やれる)
(なら、やるべきなんだ)
ピアットは、邪魔をしない。
動かず、話さず、抱きしめられてる。
その静けさが、ジャンの覚悟を固める。
ジャンは、言った。
「俺も……調査兵団行く」
ピアットの肩がぴくっと動いた。
それから、そっと腕が回って、ジャンの背中を抱き返す。
「うん」
その声が、ふわっと甘いのに、今は軽くなかった気がした。
ジャンは顔をしかめて、最後の抵抗みたいに吐き捨てる。
「……お前のためじゃねぇからな」
「知ってるよ」
ピアットが小さく笑う。ふふ、と。
さっきの瓦礫の匂いの中で、ありえないくらい穏やかな笑い。
ジャンは抱きしめたまま、目を閉じた。
あの時のキスより、今の抱擁の方がよっぽど怖い。
逃げ道がない。
遠くで誰かが泣いてる。誰かが名前を呼んでる。
ジャンは目を開けて、ピアットの肩越しに空を見た。
煙で曇った空。
そこに、自分の未来がある。
(……調査兵団なんて、死に急ぐための場所だ)
でももう、決めた。
ピアットはジャンの胸元で、いつもの調子に戻すみたいに囁く。
「ねぇジャン」
「……なんだ」
「また会えたね」
ジャンは返事をしなかった。
代わりに、抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。