ジャン・キルシュタインが兵士をやめた日   作:an-ryuka

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そう遠くないうちに、ピアットの体が変わった。

 

最初は、匂いだった。

鉄と油と汗の兵舎の匂いに、急に気持ち悪そうな顔をする。

吐くわけじゃないのに、喉元を押さえる。

訓練後のスープを一口飲んで、眉をひそめる。

 

「……どうした?」

 

ジャンが聞くと、ピアットは笑って誤魔化す。

 

「ん〜どうしよっかなって」

 

でも、笑いが薄い。

 

決定的だったのは、ピアットがふらっと膝をついた時だ。

ジャンが反射で抱きとめて、彼女の体が軽すぎることに気づく。

 

「おい、お前……」

 

「だいじょうぶ……」

 

「んな訳があるかよ!!」

 

医務室の診断は早かった。

兵団の医者は、事実だけを言う。

 

「……妊娠だ」

 

空気が止まる。

ジャンの頭の中で、全てが一度白くなる。

壁の外の世界より、巨人より、今の言葉の方が怖い。

 

ピアットは、目を瞬いて、それから笑おうとした。

いつもの軽い笑顔を作ろうとして――作り切れない。

 

ジャンは、呼吸を忘れていた。

忘れて、次に出た言葉が、我ながら酷い。

 

「……辞めろ」

 

ピアットが静かに首を振る。

 

「辞めないよ」

 

「死ぬぞ」

 

「死なない」

 

「死ぬ」

 

「ジャン」

 

名前を呼ばれる。

その呼び方が、冗談の時と違う。

お願いの呼び方。

 

「私、ジャンと居たい」

 

矛盾してる。

調査兵団で生きたいなんて、矛盾そのものだ。

 

ジャンは、壁に殴りつけられたみたいに黙って、拳を握った。

握って、ほどけない。

 

――――

 

結婚は、派手じゃなかった。

祝福はあった。冷やかしもあった。

コニーが泣き、サシャが食い、アルミンが笑い、ミカサは無表情で「おめでとう」と言い、ハンジが「いやぁ〜生命の神秘!」と騒ぎ、リヴァイは「くだらん」と言って去る。

 

でもジャンは、祝福より契約として指輪をはめた。

生きて帰る契約。

帰ってくる契約。

 

ピアットは、指輪を見て笑った。

 

「へへ。ジャンの奥さん〜」

 

「言うな」

 

「言わないと実感ないじゃん」

 

実感なんて、いらない。

実感は、失う形で来る。

 

 

 

 

子どもが生まれた。

 

小さな指がジャンの指を掴む。

その掴む力が弱いのに、世界のどんな鎖より強く感じた。

 

ピアットは、産んだ直後ですら、変なところで冷静だった。

自分の汗を拭って、息を整えて、赤ん坊を抱いて、ふっと笑った。

 

「ねぇジャン。すごいね」

 

「……何がだよ」

 

「私たち、ちゃんとここにいる」

 

それが、奇跡みたいな言い方だった。

ジャンは返事ができず、代わりにピアットの肩を抱いた。

離したくない、って体が言う。

 

育てながらも、二人は兵団に残った。

ピアットは徐々に内側の仕事を任されるようになる。物資、記録、人員、伝令、作戦の穴埋め。

 

リヴァイ班の精鋭は、壁外へ、さらに壁外へ。

マーレへ。

戻ってくるたび、目が変わっていく。

敵が巨人だけじゃないと知った目。

 

ピアットは、報告書を読む指先が、時々止まる。

止まって、子どもの寝顔を見る。

それからまた、淡々と読み進める。

 

「……歴史が動くね」

 

その呟きが、いつもより低い。

ジャンはその背中を見て、言葉を失う。

 

――歴史が変わる瞬間を、この目で見たいの。

 

訓練兵団にいた時の彼女の言葉を思い出した。

この女は最初から、こういう地獄の先を見ていたのかもしれない。

 

 

 

 

最終局面。

 

エレン。地鳴らし。

外が、敵じゃない形で迫ってくる。

敵を止めた先で、自分たちが滅ぼされるかもしれない未来が、現実として。

 

ジャンは考えてしまう。

 

今、止めれば――子どもは生きられるのか?

止めれば、外からまた攻められて、島は焼かれて、子どもの時代に壁内が滅びるんじゃないのか?

 

答えはない。

あるのは、恐怖だけだ。

 

恐怖は、簡単に正義の皮を被る。

 

フロックが言う。

イェーガー派が叫ぶ。

「島を守れ」

「未来を守れ」

「子どもを守れ」

 

ジャンの胸の奥の弱い部分に、それが刺さる。

刺さって抜けない。

 

ミカサは迷いながらも前へ行く。

アルミンは吐きそうな顔で前へ行く。

コニーは怒鳴りながら前へ行く。

ハンジは覚悟を決め、リヴァイは傷だらけで前へ行く。

 

ジャンだけが、動けない。

 

動いたら、子どもの未来を賭けることになる。

動かなければ、自分たちの世界のみが守られる。

 

ピアットは、前線にいない。

内側を任されている女は、ジャンの前に立った。

 

目は澄んでいる。

あの、最初に巨人の中で現実味がないと言っていた目のまま。

 

「ジャン」

 

呼ばれただけで、ジャンの喉が詰まる。

 

「……俺、分かんねぇ」

 

声が掠れる。

みっともなく、弱い声。

 

「止めたら、外から滅ぼされるかもしれねぇんだろ。……でも、エレンのは……ただの虐殺じゃねぇか」

 

ピアットは一瞬だけ目を伏せて、次の瞬間、まっすぐ見た。

 

「うん」

 

否定しない。

優しい肯定。

それが残酷に刺さる。

 

ジャンの膝が、抜けそうになる。

 

「……でもさ」

 

ピアットが言う。

声が小さい。だから余計に、耳に刺さる。

 

「私は、あなたに死んで欲しくない」

 

ジャンが息を呑む。

 

ピアットは続ける。

言葉を選ぶふりをしない。

選んだら遅いから。

 

「エレンが死んでも、ミカサが死んでも、アルミンが死んでも、コニーが死んでも、兵長が死んでも……みんな死んでも」

 

そこまで言って、ピアットの喉が一瞬だけ詰まる。

それでも言う。

 

「それでも、あなた一人だけ生きていてくれれば、

 私は、それでいい」

 

ジャンの中で、何かが折れる。

 

正義が折れる。

理屈が折れる。

兵士が折れる。

 

残るのは、子どもと、この女と、自分の心臓だけ。

 

「……お前、それ……」

 

声が出ない。

怒るべきなのか。否定すべきなのか。

でも否定した瞬間、ジャンはこの世界で一番大事なものを踏み潰す気がした。

 

ジャンは崩れ落ちる。

膝が床に当たって、拳が震えて、息ができない。

 

ピアットが、すぐに抱きしめた。

 

戦場みたいに強くじゃない。

宿の夜みたいに静かに。

ただ、逃げないための抱擁。

 

「……ごめんね」

 

ピアットが囁く。

 

「私、ずっと軽くしてた。冗談で逃げてた。怖かったから」

 

ジャンの肩が震える。

歯を食いしばっても、震えが止まらない。

 

「……でも、ほんとは」

 

ピアットの声が、少しだけ湿る。

 

「私は、世界より、あなたが大事」

 

その言葉は、優しさの形をした刃だ。

ジャンの中の「兵士」を殺して、代わりに「父親」を生かす。

 

遠くで地鳴らしの音がする。

世界が終わる音。

それでも腕の中は、熱い。

生きている熱。

 

ジャンは、ピアットの背中に腕を回した。

抱き返す。強く。

骨が折れない程度に、でも逃げられないくらいに。

 

「……俺、最低だ」

 

搾り出す声。

 

ピアットは首を横に振らない。

肯定もしない。

ただ、抱きしめる。

 

「最低でもいいよ」

 

囁き。

それが、ジャンの心臓をもう一度殴る。

 

「生きて、私と」

 

ピアットが言う。

命令じゃない。お願いだ。

でも、ジャンには命令より強い。

 

ジャンは、何も言えない。

言えないまま、歯を食いしばって、抱きしめ返す腕だけを強くする。

 

外の人類は、ほぼ絶滅へ向かう。

壁の中は勝利に酔う。

その勝利の中で、ジャンは泣けないまま立つ。

ピアットの腕の中でだけ、崩れていい。

 

抱擁の中で、ピアットが最後に小さく言う。

 

「……あなたが生きてるなら、私、耐えられる」

 

その言葉が、救いで、呪いで、祈りで、全部だった。

 

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