アラスター、幻想入りする   作:まったり愛好家

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この本を開いてくれてありがとうございます。


第一話 最初はテンプレ通りに

――頭が、痛い。

 鈍く、重く、脳の奥を直接握り潰されているような感覚だった。

 

 酒を浴びるほど飲んで寝たわけでもない。それなのに、頭だけでなく、四肢の先から背骨の芯に至るまで、体全体がきしむように痛んでいる。まるで、昨晩一晩中、石畳の上を転げ回っていたかのようだ。

 

(……私は、昨日、何をしていた?)

 

 答えは出ない。

 思い出そうとすると、頭の中に靄がかかる。昨日の記憶が、丸ごと抜け落ちている。

 

 (何が起こった?

 なぜ、こんな状態になっている?)

 

 いつもの私ならば、ありえないことだ。

 意識を失うほど無防備になるなど、地獄に落ちてから一度もなかったはずなのに。

 

 (今の私は、どうなっている?)

 

 ――寝そべっている。

 それだけは、はっきりとわかる。

 

 しかも、随分と硬い地面の上だ。背中に当たる感触は冷たく、ゴツゴツしている。鼻腔をくすぐるのは、湿った土と、かすかに青臭い草の匂い。

 

 土の上で目を覚ますなど、いつぶりだろうか。

 生前、まだ私が幼かった頃は、こういうこともしょっちゅうだった。野原で転び、そのまま空を見上げて眠ってしまうこともあったものだ。

 だが、地獄に落ちてからは――一度もない。

 

 (……はあ。)

 

 思い出に浸るのは、今でなくてもいいでしょう。

 まずは、この状況を確認しなくては。

 

 (そろそろ、この硬い地面から体を起こすとしましょうか。]

 

 私は、痛む頭を押さえるようにしながら、ゆっくりと上体を起こした。

 

 その瞬間、視界が開ける。

 反射的に目を見開き、周囲の状況を確認した。

 

 (――森ですか…)

 

 それも、地獄にはあまりにも似つかわしくないほど、自然に満ちた森だった。

 高く伸びた木々が空を覆い、葉の隙間から差し込む光が、まだらに地面を照らしている。足元には背の低い草が生い茂り、露を含んだ土が静かに息づいているようだった。

 

 目に入るものは、どこまでも植物ばかり。

 人の気配も、人工物の痕跡も、まるで感じられない。

 

「これは……どうやら、私の知っている場所ではありませんね」

 

 思わず、そう呟いていた。

 間違いない。見覚えのない景色だ。

 

 私は腰を上げ、体を安定させると、服についた汚れを気にするように、両手でぱっぱと叩いた。

 乾ききっていない土が、はらはらと音もなく地面に落ちていく。

 

 状況は不明。記憶は欠落。場所は未知。

 ――さて。

 

 (どうやら、面倒なことになっているようですね)

 

「あー……何が起こったのやら……私としたことが、なんにも覚えてな――」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 自分の声が、妙だったのだ。

 

 違和感は一瞬で確信に変わる。

 声が違う。いや、正確には“声質”が違う。

 

 私は本来、スピーカー越しのように、どこか歪んだ、ノイズ混じりの声をしていたはずだ。

 ラジオを通したみたいな、作られた声色。それが、私という存在の一部だった。

 

 だが今、耳に返ってきたのは、妙に生々しい声だった。

 歪みがない。反響もない。

 ただの――人間の声。

 

 嫌な予感が、背筋を這い上がる。

 

 私は視線を落とした。

 

 ……手も、おかしい。

 

 いつもの、がっしりとした赤い手ではなかった。

 骨張ってはいるが、どこか頼りない、人間らしい手。

 茶色がかった肌に、細い指。触れれば、さらりとした感触が伝わってくる。

 

 (これでは、まるで――)

 

「人間に……戻っている……?」

 

 自分の口からこぼれた言葉が、やけに重く感じられた。

 そうとしか思えない。思いたくはないが。

 

 私は慌てて、自分の体を確かめる。

 腕、胴、脚。服の下から伝わる体のライン。

 指で押した肌の感触も、冷たさも、昨日までのものとは明らかに違っていた。

 

 (この姿は――まるで、生前の私だ。)

 

 そう思った瞬間、頭の中に思考が雪崩れ込んでくる。

 

 (なぜ、こうなった?

 ほかの悪魔の仕業か?

 それとも、誰かに嵌められた?

 これは現実なのか?

 幻覚じゃないのか?

 この状態は、いつまで続く?

 ここはどこだ?

 ……戻る方法は、あるのか?)

 

 考えが次から次へと浮かび、収拾がつかない。

 思考が渦を巻き、頭痛が一段と強くなる。

 

 (……これはまずいですね。)

 

 (一旦、落ち着きましょう。

 こんな時ほど、冷静さが肝心です。)

 

 深呼吸だ。

 

 吸って……吐いて……。

 湿った空気が肺に入り、ゆっくりと抜けていく。

 

 よし。

 

 (一旦、一番重要なことから始めましょうか。)

 

 (――ここは、どこだ?)

 

 (場所がわかれば、安全かどうかも判断できるし、私がなぜこうなったのか、その手がかりも掴めるかもしれません。)

 

 そう考え、ひとまず自分の体の異変については脇に置くことにした。

 今は環境の把握が先だ。

 

 (まず……環境。)

 

 湿度が高い。

 肌にまとわりつく空気が、やけに重い。ジメジメしている。

 気温自体は特別高くないはずなのに、湿気のせいで、少し暑く感じる。

 

 気温は普通。

 湿度は高い。

 

 次に、植生。

 

 (……これは、照葉樹林っぽいですね。

 常緑の広葉樹が多く、葉は厚く、艶がある。

 下草もよく育っている。)

 

 (もし、ここが本当に現世だとするなら――東アジアあたりでしょうか。

 東アジア……っぽいですね。)

 

 生前でも、あまり縁のなかった地域だ。

 少なくとも、記憶にある場所ではない。

 

 (……ここで立ち止まって得られる情報は、これくらいでしょうか。)

 

 (場所を移動するべきですね。)

 

 私はそう結論づけると、とりあえず水源を探すことにした。

 川か、せめて沢でも見つかれば、周囲の地形も把握しやすくなる。

 

 湿った土を踏みしめながら、木々の間へと歩き出す。

 

 少し前に雨でも降ったのだろうか。

 地面は全体的に柔らかく、靴底が沈み込むたび、ぬちり、と嫌な感触が伝わってくる。ところどころには水溜りが残っており、空を映した水面が木々の影に揺れていた。

 

 私はそれらを無意識に避けながら、できるだけ濡れないよう慎重に足を運ぶ。

 普段なら、こんな環境など気にも留めなかったはずなのに。

 

(……はあ。人間の身体は、何年ぶりでしょうか)

 

 胸の内で、そんなことを考えてしまう。

 地獄に落ちてからの時間の方が、もはや生前よりもはるかに長い。

 この感覚――重力の強さ、足の遅さ、無駄に感じる疲労――すべてが、ひどく懐かしく、そして煩わしかった。

 

(悪魔の体なら、眷属や触手を使って、こんな地面など一息で越えられたんですがね……)

 

 そんな愚痴めいた思考が浮かぶほど、体は思うように動かなかった。

 足を高く上げればふらつき、少し急げば息が乱れる。

 筋肉はあるはずなのに、うまく噛み合っていない。まるで借り物の身体を無理やり操作しているような感覚だった。

 

 どれほど歩いただろうか。

 やがて、木々の密度が少しずつ薄くなり、視界がひらけていく。

 

 ふと顔を上げると、空が見えた。

 

 葉に遮られていた光が、直接目に飛び込んでくる。

 どうやら、今は真っ昼間らしい。

 高い位置にある太陽が、容赦なく照りつけ、肌にじりじりとした熱を伝えてくる。

 

 湿気を含んだ空気と相まって、汗が一気に噴き出した。

 

「……少し、休みますかね」

 

 誰に聞かせるでもなく呟き、私は近くに転がっていた大きめの石に腰を下ろした。

 石は太陽に温められており、座った瞬間、じわりと熱が尻に伝わる。

 

 背筋を伸ばそうとして、やめた。

 今は、そんな余裕もない。

 

「それにしても……疲れましたね……」

 

 自然と、ため息がこぼれる。

 

「いったい、いつまで歩けばいいのやら……」

 

 森に入ってから、目立った発見は一切ない。

 人の痕跡も、建物も、道らしきものすら見つからない。

 

 このまま何も見つからなければ――。

 

(最悪、ここでサバイバル……なんてことも、あり得るんでしょうか)

 

 そんな不安が頭をよぎった、その時だった。

 

「人間が、こんなとこにいるのは珍しいのだ」

 

 不意に、背後から声がした。

 

 ――近い。

 

 あまりにも突然で、心臓が跳ねる。

 私は反射的に立ち上がり、急いで振り向いた。

 

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 

 年の頃は、十二、三歳ほどだろうか。

 小柄な体躯で、森の中に溶け込むように立っている。

 

 黄色の髪は肩口で切り揃えられ、風もないのにふわりと揺れている。

 目は、赤い。血のように澄んだ赤。

 その色と同じリボンが、側頭部と胸元に、それぞれ一つずつ結ばれていた。

 

 服装は、上下一体型の白黒のシンプルな服。

 装飾は少なく、どこか儀式用の衣にも見える。

 

 そして何より――。

 

 髪色と目の色、そして顔立ちからして、アジア人ではない。

 この森の雰囲気とも、少しだけ噛み合っていない。

 

「……やあやあ、こんにちは」

 

 私は警戒しつつも、笑みを作って声をかけた。

 

「いつから、そこにいました? まったく、気づきませんでしたよ」

 

「おにーさんが、ここに来たときからいたのだ」

 

 少女は、あっさりとそう答えた。

 

 ……最初から?

 

(私としたことが……まさか、気配に気づかなかった?)

 

(いや……今の私なら、あり得ますね)

 

 思った以上に疲労が溜まっているらしい。

 注意力も、感覚も、鈍っている。

 

「それはそれは……気づかなくて、申し訳ありません」

 

 私は肩をすくめ、できるだけ穏やかな調子で続ける。

 

「何分、少々疲れていまして」

 

「疲れているのかー」

 

 少女は、首をかしげる。

 

「迷ってるのだ?」

 

「ええ、まあ……そんなところです」

 

 私は苦笑しながら頷いた。

 

「もしよければ、どこか人のいるところまで、案内してもらえませんか?」

 

 正直、渡りに船だった。

 この森に住む者なら、集落の一つや二つ、知っていてもおかしくない。

 

「んー……」

 

 少女は、少し考える素振りを見せてから。

 

「それは、無理なのだ」

 

 そう言って、首を横に振った。

 

 ……無理?

 

「おにーさん」

 

 少女は一歩、こちらに踏み出す。

 

「人里の人間じゃないでしょ」

 

「……人里?」

 

 思わず、聞き返してしまった。

 

 人里?

 つまり、この辺りには“人里”と呼ばれる区分があるということか?

 

(その人里とやらの人間ではないと……何か、問題があるのでしょうか?)

 

「一体、どういうことですか?」

 

 私は慎重に問いかける。

 

「おにーさんはね」

 

 少女は、楽しそうに笑った。

 

「食べてもいい人類ってことなのだ」

 

 ――は?

 

 一瞬、言葉の意味を理解するのに、間が空いた。

 

 次の瞬間、少女はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 一歩、一歩。

 草を踏む音すら、やけに大きく聞こえた。

 

 赤い目が、淡く光る。

 口角は不自然に吊り上がり、さっきまでの無邪気さは、そこにはなかった。

 

 明らかに、纏う雰囲気が違う。

 

(……食べてもいい、人類……?)

 

(つまり――)

 

(こいつ、カニバリスト……いや、それ以前の存在か)

 

 背中を、冷たいものが走る。

 本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。

 

 目の前の少女は、普通ではない。

 この森に自然に存在している“何か”だ。

 

 そして、今の私は――。

 

 人間の体だ。

 武器もない。

 力も、能力も、使えない。

 

(戦って勝てるわけがありませんね……)

 

 結論は、即座に出た。

 

 ――逃げる。

 

 それしかない。

 

 私は、少女の次の一歩を待たず、踵を返した。

 ぬかるんだ地面を蹴り、全力で走り出す。

 

 背後で、少女の声が弾むように響いた。

 

「逃げるのだー?」

 

 その声音には、焦りも怒りもない。

 ただ、純粋な興味と、遊びの気配だけがあった。

 

 湿った地面に足を取られながら、私は必死に森の奥へと逃げ込む。

 枝が腕を掠め、草が脚に絡みつく。

 

 肺が焼けるように痛む。

 視界が揺れる。

 

 (――まずいですね、本当に)

 

 (どうやら私は、とんでもない場所に迷い込んでしまったようですね)

 

 しかも、最悪のタイミングで。

 

 少女の気配が、まだ背後にあることを感じながら、私は歯を食いしばり、走り続けた。

 

――全力疾走。

 

 それが、いつぶりだったのか。

 思い出そうとしても、記憶の棚は静まり返っている。

 

 悪魔だった頃なら、地を蹴るだけで空気を裂き、森など一瞬で抜けられたはずだ。

 だが今は違う。

 人間の身体は、重く、遅く、そして脆い。

 

 足を前に出すたび、筋肉が悲鳴を上げる。

 肺が酸素を欲しがり、喉が焼けつくように痛む。

 視界の端が暗くなり、足元のぬかるみがやけに遠く感じられる。

 

 ――まずいですね。

 

 数十秒も経たないうちに、それは現実になった。

 

 背後から、軽い足音。

 追い風のように、気配が迫る。

 

「逃げても無駄なのだー」

 

 その声が、真横から聞こえた。

 

 次の瞬間、視界が遮られる。

 私は急ブレーキをかけるように足を止め、思わずよろめいた。

 

 目の前に立っていたのは、あの少女だった。

 

 先ほどまで背後にいたはずなのに、いつの間に回り込んだのか。

 呼吸一つ乱さず、余裕の笑みを浮かべている。

 

 ……早い。

 

 悪魔の時の私ほどではない。

 だが、それでも人間の基準からすれば、異常な速度だ。

 

(……なんなんですかね? 一体)

 

 思わず、ため息が漏れた。

 恐怖よりも、呆れに近い感情が勝っていたのかもしれない。

 

「まさか……私が食べられる側に回るとは、思いませんでしたよ」

 

 半ば皮肉で、そう口にする。

 

 生前、私は人を食べていた。

 自分で殺し、時間を置き、いい具合に腐らせてから食す。

 それは嗜好であり、習慣であり、罪でもあった。

 

 だからこそ――。

 

 自分が“捕食対象”として見られるなど、本当に予想外だった。

 

「諦めたのだ?」

 

 少女は、首をかしげる。

 

 どうやら、私の言葉を「降参」と受け取ったらしい。

 そのまま、こちらへ一歩、また一歩と歩み寄ってくる。

 

 草を踏む音が、やけに大きく耳に響く。

 赤い目は細められ、まるで品定めをするかのようだ。

 

 ――逃げられない。

 

 それは、もう理解していた。

 背後は森、左右も同じ。

 この身体で、これ以上走れる気はしない。

 

 ならば。

 

 私は、最後の抵抗を選ぶことにした。

 

 足を半歩引き、腰を落とす。

 両腕を上げ、ぎこちないながらも構えを取る。

 

 近接格闘に、自信があるわけではない。

 だが、悪魔だった頃の戦闘経験が、身体のどこかに残っているはずだ。

 ――そう、信じた。

 

 少女は、そんな私の様子を見ても、止まらなかった。

 

「へー……」

 

 楽しそうに、にやりと笑う。

 

「抵抗するのだ? かわいいのだ」

 

 次の瞬間、距離はゼロになった。

 

 視界いっぱいに、少女の顔。

 赤い瞳。

 開いた口。

 

 彼女は、無邪気な声で宣言する。

 

「いただきまーす」

 

 振り上げられる腕。

 細い手。

 だが、その動きには、迷いも躊躇もなかった。

 

 ――終わった。

 

 そう思った、その瞬間だった。

 

 視界が、白く染まる。

 

 耳を裂くような轟音。

 衝撃波が、空気ごと私を殴りつけた。

 

 爆発。

 

 私の目の前で、文字通りの爆発が起こった。

 

「――っ!?」

 

 身体が宙に浮く感覚。

 次の瞬間、背中に激痛。

 

 私は後方へ吹き飛ばされ、数メートル先の木に叩きつけられて止まった。

 肺から空気が一気に押し出され、声にならない息が漏れる。

 

 視界が揺れ、火花のようなものが散る。

 

(……何が、起きたというんですか……)

 

 意識を保つだけで精一杯だった。

 耳鳴りがひどく、周囲の音が遠い。

 

 私は呻きながら、地面に手をつき、ゆっくりと体を起こす。

 全身が軋み、骨が折れていないのが不思議なほどだ。

 

 目の前に、煙が立ち込めていた。

 焦げた土の匂い。

 焼けた草の臭い。

 

 そして――。

 

 先ほどまで、確かにそこにいた少女の姿は、どこにもなかった。

 

 代わりに、そこに立っていたのは。

 

 紅白の、巫女服を着た少女だった。

 

 鮮やかな紅の袴。

 袖は大きく、風もないのに、ゆるやかに揺れている。

 

 長い黒髪が背中に流れ、凛とした立ち姿。

 その背中からは、先ほどの爆発を起こしたとは思えないほど、静かな気配が漂っていた。

 

「ふー。間一髪ってとこかしら? なんとか間に合ったわね」

 

 そう言って、目の前の巫女は軽く額に手を当てた。

 まるで汗を拭う仕草だが、実際に汗をかいているようには見えない。呼吸も乱れていないし、疲労の色もない。ただ、癖のような動作なのだろう。

 

 私はといえば――。

 

 目の前で起きた出来事を、まだ完全には理解できずにいた。

 

 爆発。

 少女の消失。

 そして、突然現れた巫女姿の存在。

 

 頭の中で、それらがうまく繋がらない。

 だが、混乱したままでいるほど、私は無防備ではなかった。

 

(……落ち着け)

 

 私は深く息を吸い、意識的に思考を整える。

 助かったのは事実だ。

 だが、この巫女姿の少女が「味方」だと決まったわけではない。

 

 地獄でも、善意を装う者ほど危険だった。

 それは、生前でも変わらない。

 

 私は、木にもたれかかりながら、体勢を整える。

 背中には鈍い痛みが残っているが、動けないほどではない。

 視線は、自然な動作を装いながら、常に彼女を捉え続けていた。

 

 ――と。

 

 私の警戒をよそに、向こうから口を開いてきた。

 

「えーっと? あんた、見たところ外来人よね……怪我はない?」

 

 そう言いながら、彼女は一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。

 歩き方は落ち着いていて、先ほどまでの爆発が嘘のようだ。

 

(敵対的な雰囲気は……ありませんね)

 

 声色も、仕草も、敵意を感じさせない。

 だが、それだけで信用するほど、私は単純ではない。

 

 さっきの少女だって、最初は無邪気そのものだったのだから。

 

「……多少、背中は痛みますが」

 

 私は、言葉を選びながら答える。

 

「概ね問題ありません。助かりました」

 

 あくまで形式的に、礼を述べる。

 感謝はしている。だが、それ以上の感情は見せない。

 

「そう。それはよかったわ」

 

 彼女は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。

 

「弾幕が至近距離で爆発したから、骨折とかしてないか心配だったのよ」

 

 弾幕。

 

 その言葉が、耳に引っかかる。

 

 私は、わずかに眉をひそめた。

 

「……さっきから、外来人やら、弾幕やらと」

 

 慎重に、問いかける。

 

「聞き慣れない単語が出ていますが、質問しても?」

 

 巫女は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

 困ったように視線を逸らし、顎に指を当てる。

 

「うーん……」

 

 そして、少し考えるような間を置いてから、言った。

 

「ここで話すのは、ちょっとね」

 

 その声色は、拒絶というよりも、事情があるという響きだった。

 

「あんたを神社に連れて行くわ。そこで、ちゃんと説明する」

 

(……連れて行く、ですか)

 

 拒否するべきか。

 それとも、今は従うべきか。

 

 判断する暇は、与えられなかった。

 

 彼女は、言い終わるや否や、間合いに踏み込んできた。

 次の瞬間、私の体がふわりと浮く。

 

「――っ!?」

 

 驚きの声を上げる暇すらない。

 私は、突然体を掴まれ、そのまま抱え上げられていた。

 

 足が、地面から離れる。

 

(宙に……浮いた……?)

 

 重力が、消えた。

 

 視界が一段高くなり、森の景色が下に広がる。

 地面との距離を、はっきりと認識した瞬間、背筋が凍った。

 

(どうやって!?)

 

(人間じゃないのか!?)

 

 問いが、次々と浮かぶ。

 だが、喉は引きつり、言葉にならない。

 

 あまりの衝撃に、私は完全に固まってしまっていた。

 

 地獄でも、自由に空を飛べる存在は限られていた。

 羽を持つ者か、特別な能力を持つ者だけだ。

 それ以外は、跳躍や滑空がせいぜい。

 

 ――なのに。

 

 この少女は、何の前触れもなく、自然に宙に浮いている。

 

 しかも。

 

 次の瞬間。

 

 景色が、後方へと流れ始めた。

 

「……ちょっと揺れるかもね」

 

 そう言った直後、彼女は加速した。

 

 ――速い。

 

 風が、全身に叩きつけられる。

 髪が後ろへ引っ張られ、衣服がばたつく。

 耳元で、空気を裂く音が鳴り続ける。

 

(な、なんですかこの速度……!)

 

 疑問は、すぐに吹き飛んだ。

 

 加速度に、思考が追いつかない。

 胃が浮き、内臓が置いていかれる感覚。

 視界の端が流れ、森が一枚の緑色の絵のようになる。

 

 ただ一つ確かなのは――。

 

 私は今、空を飛んでいるということ。

 

 しかも、自分の意思とは無関係に。

 

 抱えられたまま、凄まじい速度で。

 

 ――どうやら。

 

 私は、本当に、とんでもない存在に拾われてしまったらしいですね。

 

 そう結論づける頃には、もう言葉を発する余裕は残っていなかった。

 

体感時間で言えば、三十秒ほどだっただろうか。

 だが、あの速度で空を切り裂いていたせいか、ずいぶん長く飛んでいたようにも感じられた。

 

 最初はただ流れていくだけだった森の景色が、徐々に変化を見せ始める。

 木々の密度が薄くなり、地形が緩やかに盛り上がっていくのが見えた。

 

 前方に――丘が現れる。

 

 それなりの高さを持った、なだらかな丘。

 周囲の森より一段高いその頂には、人工物らしき影がはっきりと見えていた。

 

 近づくにつれ、それは建物だとはっきりわかる。

 屋根の形状、柱の並び、全体の配置。

 生前に本や写真で見た記憶と照らし合わせて、私はそれが何であるかを理解した。

 

(……神社、ですか)

 

 少女は、その建物の真上に差し掛かったところで、急に高度を下げた。

 まるで重力のスイッチを切り替えたかのような、迷いのない急降下。

 

 地面が、勢いよく迫ってくる。

 

(――ちょ、ちょっと待ってくださいよ!?)

 

 声を出す暇もなく、私は思わず目を閉じた。

 

 だが。

 

 地面に激突する、あの嫌な予感は訪れなかった。

 

 地表すれすれ。

 本当に、あと数十センチというところで、ふわり、と浮力が戻る。

 

 まるで羽毛が地面に落ちる直前で止まったかのような、信じられないほど柔らかな着地だった。

 

「……っ」

 

 私は息を詰めたまま、恐る恐る目を開ける。

 

 足元には、しっかりとした大地。

 草の匂い。

 空気の重さ。

 

 ――止まっている。

 

 少女の腕から、私はゆっくりと離れた。

 半分は戸惑い、半分は警戒。

 咄嗟に距離を取ろうとするが、体が思うように動かない。

 

「ついたわよ」

 

 少女は、あっさりとした調子で言った。

 

「ここが私の神社。博麗神社よ」

 

 そう言って、前方を指さす。

 

 そこには、立派な鳥居が立っていた。

 朱色ではないが、はっきりと人工的だとわかる構造物。

 その柱には、縦に四文字ほどの文字が刻まれている。

 

(……読めませんが)

 

 私はじっとそれを見つめる。

 

(おそらく、この少女が言った“博麗神社”という文字なのでしょうね)

 

 頭の中でそう結論づける。

 

 私はアメリカ出身だ。

 生前、漢字を学ぶ機会などほとんどなかった。

 今も、刻まれた文字は記号の羅列にしか見えない。

 

 ――それなのに。

 

(会話は、普通に成立していますね?)

 

 違和感が、遅れて浮かび上がる。

 

 私は今、自分では英語で話しているつもりだ。

 それなのに、彼女は何の違和感もなく受け答えをしている。

 

(文字は漢字で、会話は英語……?)

 

(それとも、言葉が自動で翻訳されている?)

 

 魔術なのか、世界の法則なのか。

 考えれば考えるほど、疑問は尽きなかった。

 

 だが、今一番気になるのは、そこではない。

 

「それで……?」

 

 私は視線を彼女に戻し、問いかける。

 

「私を、ここへ連れてきたのはなぜです?」

 

「それも含めて」

 

 少女は、くるりと踵を返しながら言った。

 

「中で話すから。上がって、上がって」

 

 そう言って、神社の玄関らしき場所へ向かって歩き出す。

 その背中には、先ほどまでの戦闘の緊張感はまるで感じられない。

 

 私は一瞬、その場に立ち止まった。

 

(……従うしか、ないですよね)

 

 警戒心は消えていない。

 だが、この場で拒否したところで、どうなるかは明白だ。

 

 私は、意を決して後に続いた。

 

 玄関に差し掛かったところで、少女は足を止める。

 そして、何の迷いもなく、靴を脱いだ。

 

 脱いだ靴は、玄関の端にきちんと揃えられる。

 

(……?)

 

 一瞬、動作の意味が理解できず、首をかしげる。

 

(靴を……脱ぐ?)

 

 どうやら、ここでは屋内に靴のまま入らない文化らしい。

 日本の伝統的な生活様式、というやつだろうか。

 

(郷に入っては、郷に従え……ですか)

 

 私は小さく頷き、自分も同じように靴を脱ぐ。

 履き慣れない靴を揃えるのに少し手間取ったが、見よう見まねで玄関の端へ寄せた。

 

 そのまま、中へ。

 

 神社の内部は、想像していたよりもずっと簡素だった。

 広さも控えめで、せいぜい一軒家ほど。

 豪奢な装飾や、巨大な空間が広がっているわけではない。

 

 だが、その分、妙な落ち着きがあった。

 

 木材の匂い。

 外よりもひんやりとした空気。

 足音が、やけに柔らかく響く。

 

 通されたのは、奥まった一室だった。

 

(……これは確か)

 

 私は、記憶を探る。

 

(和室、でしたか)

 

 昔、どこかの本で見たことがある。

 壁には、何が書かれているのか読めない文字が墨で書かれた紙が飾られており、脇には用途の分からない花瓶が置かれている。

 

 床一面には、植物を編んで作ったであろう板が敷き詰められていた。

 

(……畳)

 

 確か、そんな名前だったはずだ。

 

 その畳の上には、平べったい枕のようなものがいくつか置かれている。

 そして、その中央には、腰の高さよりもずっと低い位置までしかない丸い机。

 

(これは……)

 

 私は一瞬、立ち尽くす。

 

(この平べったい枕の上に、座る……?)

 

 正座という文化を、頭では知っている。

 だが、実際にやるとなると、なかなか勇気がいる。

 

 少女の方を見ると、すでに迷いなくその枕の上に腰を下ろしていた。

 姿勢は自然で、慣れた様子だ。

 

(……そういうこと、ですよね)

 

 私は小さく息を吐き、机を挟んで反対側へ回る。

 ぎこちない動作で座り、体重のかけ方を調整する。

 

 畳の感触が、意外にも柔らかい。

 

「では……説明をお願いします」

 

 私は背筋を正し、低く息を吸ってから言葉を紡いだ。

 

「ここがどこで、あなたは誰で、そして――外来人や弾幕という言葉が、何を意味するのかについて、です」

 

 声の調子は、できる限り落ち着かせたつもりだった。

 先ほどまでの空中移動や、理解の及ばない現象の連続で、内心は決して平穏とは言えない。

 だが、ここで感情を表に出しても状況が好転するとは思えなかった。

 

 和室の空気は静まり返っている。

 外からは、かすかに風が木々を揺らす音が聞こえ、どこかで鳥が鳴いた。

 丸机を挟んで向かい合う少女は、私の言葉を受けて一度だけ瞬きをする。

 

 私はこの状況を――少なくとも一時的に――受け入れることにした。

 理解できないからといって拒絶していては、何も進まない。

 

「わかったわ」

 

 少女は、小さく頷いた。

 

「じゃあ、要望通り説明するけど……その前に一つだけ、先に言っておくわね」

 

 その声音は、先ほどまでの軽さとは少し違っていた。

 冗談とも、はぐらかしとも取れない、妙に真剣な響き。

 

「今から話すことは、あくまで事実よ。空想とか、作り話とか、そういう類じゃない。そこだけは、ちゃんと頭に入れておいて」

 

 念を押すように、少女はじっと私を見据える。

 その視線には、不思議な力があった。

 疑えば馬鹿を見る、とでも言いたげな、断定的な眼差し。

 

「……ええ、承知しました」

 

 私は短く答えた。

 

「では、どうぞご説明を」

 

 それを合図にしたかのように、少女は少し姿勢を崩し、言葉を探すように視線を天井へ向けた。

 

「あー……えっと……」

 

 指先で畳を軽く叩きながら、間を置く。

 

「じゃあ、説明するわね」

 

 そう前置きしてから、少女は語り始めた。

 

「ここは幻想郷。外の世界から忘れ去られたものや、行き場をなくした存在が流れ着いてできた場所よ」

 

 幻想郷。

 

 聞き慣れない固有名詞が、静かな部屋に落ちる。

 

「人間もいるし、妖怪もいるし、神様もいる。まあ……仲良く、って言うと語弊があるけど」

 

 少女は苦笑する。

 

「とりあえず、同じ空の下で暮らしてる、不思議な土地ってところね」

 

 そこまで聞いたところで。

 

「――ちょっと、待ってください」

 

 私は反射的に声を上げていた。

 

 机の上に置いていた手に力が入り、畳がきしむ。

 頭の中で、今聞いた言葉がうまく処理できない。

 

「神が、いる……ですって?」

 

 信じられない、という感情が、そのまま声になった。

 

「そんな……そんな馬鹿な……!」

 

 気がつけば、私は立ち上がっていた。

 畳の上に置いた座布団が、後ろへずれている。

 

(神だと……?)

 

 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。

 

(神がいる? 本当に? ここに?)

 

 生前、私は神の存在を信じていなかったわけではない。

 だが、それはあくまで信仰や概念の話だ。

 少なくとも、「同じ土地で暮らしている存在」として語られるようなものではなかった。

 

「落ち着いて」

 

 少女は、私の反応を見ても動じることなく、片手を軽く上げた。

 

「さっき言ったでしょう? 今から話すことは事実だって」

 

 その声には、諭すような落ち着きがあった。

 

 私は、しばらく立ったまま少女を見下ろしていたが、やがてゆっくりと息を吐き、再び座布団に腰を下ろした。

 

「……神、ですか」

 

 今度は、声を抑えて問いかける。

 

「神と言っても、世界にはいろいろな宗教がありますからね」

 

 疑念を隠さないまま、言葉を続ける。

 

「どんな神なんです? 一体」

 

 半分は本気で、半分は――正直、馬鹿にしたような響きだったかもしれない。

 

「どんな神?」

 

 少女は首を傾げ、少し考え込む。

 

「うーん……たとえば、付喪神とか?」

 

 また、知らない単語だ。

 

「付喪神……?」

 

 私は眉をひそめる。

 

「聞いたことがありませんね。何をする神なんです?」

 

 司るものは何か。

 人に何をもたらす存在なのか。

 それが神というものだろう。

 

「何をする……か……」

 

 少女は、言葉に詰まったように視線を彷徨わせる。

 

「うーん……夜中に集まって騒いだり」

 

 私は嫌な予感がした。

 

「勝手に家に入ってきて、食器を割ったりかしら?」

 

「……は?」

 

 思わず、素っ頓狂な声が漏れた。

 

 耳を疑う。

 今、何と言った?

 

 夜中に騒ぐ?

 家に入ってきて、食器を割る?

 

 それは、本当に神なのか?

 

 私が求めている答えとは、あまりにもかけ離れている。

 

「からかっているんですか?」

 

 声に、苛立ちが滲む。

 

「その付喪神とやらは、何を司る神で、どんな恩恵や災いをもたらす存在なのかを聞いているんですよ」

 

 語尾が、少し荒くなったのを自覚する。

 

 少女は、そんな私を見て、きょとんとした表情を浮かべた。

 

「え……?」

 

 困惑したように、目を瞬かせる。

 

「そんなこと言われても……付喪神なんて、何も司ってないし、特に何もしてこないわよ?」

 

 まるで、私の質問そのものが奇妙だと言わんばかりに。

 

「せいぜい、たまに集まって歩いてるくらいのものよ?」

 

 部屋に、沈黙が落ちる。

 

 私は言葉を失い、ただ少女を見つめた。

 

(……これは)

 

 頭の中で、ようやく一つの結論が形を成す。

 

(日本独自の宗教……なのでしょうね)

 

 生前、聞きかじった知識の断片が、ようやく繋がった気がした。

 私が知る「神」という概念とは、根本的に異なる存在。

 

 信仰の形も、価値観も、常識も違う。

 

 この場所では、それが「当たり前」なのだろう。

 

 私は、知らず知らずのうちに、異文化のど真ん中に立たされているのだと――ようやく理解し始めていた。

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