それから十分余りが過ぎたころだった。
赤い洋館の方角から、ふわり、ふわりと、まるで重力そのものを忘れたかのような動きで、ひとつの人影がこちらへ近づいてくるのが見えた。
夕方に差しかかりつつある空を背に、ゆっくりと高度を下げながら近づいてくるその姿には、どこか気の抜けた余裕がある。
博麗霊夢だった。
「あー……疲れた……」
霊夢はそうぼやきながら、私の目の前へと着地した。
靴底が地面に触れた瞬間、軽く土埃が舞う。
「妙に強いやつだったわ」
そう言って肩を落とす彼女の様子は、いつもの飄々とした巫女のそれとは少し違っていた。
服に目をやると、白と赤の巫女装束はところどころが破れ、焦げ跡が残り、糸がほつれている箇所もある。
戦闘の激しさを、雄弁に物語る姿だった。
――つまり。
この屋敷には、博麗霊夢に「攻撃を当てられる存在」がいた、ということだ。
(なるほど……)
私は内心で頷く。
あれほど巨大で、過剰とも言えるほど防御と戦力を抱え込んだ屋敷である理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
「それはそれは、お疲れ様でした」
私は影で作った椅子から立ち上がり、軽く頭を下げる。
「おとなしく待っててくれて助かるわ」
霊夢は、服の汚れを軽く払いつつ言った。
「助けた外来人に何かあったら、私の顔が立たないからね」
冗談めかした口調だが、その奥には、博麗の巫女としての責任感が垣間見える。
そういうところは、案外律儀だ。
次の瞬間、霊夢は自然な動作で私を抱え上げた。
重力から切り離される感覚が、体を包む。
「じゃあ、人里に行くとしましょうか」
そう言うが早いか、霊夢は軽く地面を蹴り、再び空へと舞い上がった。
視界が滑らかに上昇する。
風が頬を撫で、赤い洋館が徐々に遠ざかっていく。
「……ん?」
私はふと、鼻をくすぐる匂いに気づいた。
微かだが、はっきりとした――血の匂いだ。
「霊夢さん、血の匂いがしますが……どこか怪我でも?」
抱えられたまま、私はそう尋ねた。
「ん? そう?」
霊夢は少し考えるように首を傾げ、それから思い出したように言う。
「あー、確かにちょっとついちゃってるわね」
ため息混じりに続ける。
「異変の主犯が吸血鬼だったから、血液の霧みたいなのを使ってたのよ」
血霧。
なるほど、それでこの幻想郷全体が赤く染まっていたわけだ。
会話をしているうちに、視界の先に建物の群れが見え始めた。
整然と並ぶ瓦屋根。木造の家々。
どこかで見た資料――江戸や鎌倉の集落を彷彿とさせる、和風の町並みだ。
想像していたよりも、はるかに大きい。
人里の端は、遠くかすんで見え、全体を見渡すことはできなかった。
やがて霊夢は高度を落とし、人里の外縁部に静かに着地した。
人里は、高さ四メートルほどの石壁に囲まれている。
古びてはいるが、堅牢そうな壁だ。
その一角に、門らしき開口部があり、そこには槍を持った男たちが数人、警備として立っていた。
霊夢は私を降ろすと、迷いなく門の方へ歩いていく。
私はその後ろについていった。
「あ、博麗の巫女様。お疲れ様です」
門番の男の一人が、霊夢に気づくとすぐに姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「里はどうなってる?」
霊夢は門の内側を覗き込みながら、淡々と尋ねる。
「赤い霧の影響は出てる?」
「結構、体調不良者は出てますけど……」
門番は少し考え、続けた。
「なんとかなる範囲ですね。霧が出てから、みんな家の中に入って外に出ないようにしてたんで、霧を吸い込んだ人はあんまりいませんでした」
そう言って、少し安心したように笑う。
「それは良かったわね」
霊夢は短く頷いた。
「……それはそうと」
別の門番が、私の方へ視線を向けた。
「後ろの男は誰です? このあたりでは見かけない顔ですが」
「こいつは外来人よ」
霊夢は即座に、簡潔に答える。
「外来人か……」
門番たちは、興味深そうに私を見た。
「珍しいですね。ここ最近、外来人は滅多に来なかったのに」
値踏みするような視線。
だが、警戒よりも好奇心が勝っているように見える。
「まあ、そういうことなら任せてください」
門番の一人が一歩前に出て、私に近づいてきた。
「にいちゃん、外来人なんだってな」
門番の男は、屈託のない笑顔でそう声をかけてきた。
日に焼けた顔に、どこか牧歌的な安心感を漂わせた男だ。
槍を肩に預け、こちらに距離を詰めながら、気さくな調子で続ける。
「まあ、色々大変だったろうが、もう安心だぜ。今日からはこの人里に住むといい」
男は、まるで決定事項であるかのように頷く。
「俺たちが家探してやるからさ。空き家もいくつかあるし、飯の心配もしなくていい。最初は慣れねえだろうが――」
そこから先の言葉は、耳に入ってはいた。
だが、意味としては、次第に霧散していった。
――守ってやる。
――安心だ。
――世話を焼いてやる。
その一つ一つの言葉が、私の内側でゆっくりと反転していく。
(……ああ、なるほど)
この男は、私を「弱者」だと決めつけている。
外の世界から迷い込んだ、無力な人間。
だから守るべき存在であり、導くべき存在であり、世話を焼くべき存在だと。
霊夢のような、圧倒的な力を持つ存在にそう言われるのなら、別に構わない。
事実として、彼女は強者だ。
だが――。
(お前は、違う)
目の前のこの男は、ただの門番だ。
幻想郷の中では、最下層に近い存在。
その男が、当然のように「守ってやる側」に立っている。
――こいつは、本当に私にそんなことを言えるほど強いのか?
その疑念が、静かに、しかし確実に胸の奥に芽生えた。
私は、試すことにした。
ほんの気まぐれだった。
深い意味はない。
ただ、事実を確認したかっただけだ。
男の視線が、私の顔から一瞬だけ逸れた、その瞬間。
影の中から、細い触手を一本、音もなく伸ばす。
刃のように研ぎ澄まされた先端が、男の頬をかすめた。
――シャリ。
わずかな感触。
皮膚が裂け、赤い線が浮かぶ。
「うわあああ!?」
男は悲鳴を上げ、慌てて後ろに跳ねた。
頬を両手で押さえ、目を見開く。
「なんだ!? 何が起きた!?」
周囲の門番たちも、槍を構え、騒然となる。
「いってて……っ」
男は血のついた指を見て、さらに狼狽えた。
「か、かまいたちか!? 今の、風も吹いてなかったのに……!」
完全に混乱している。
攻撃されたことすら、正しく認識できていない。
(……ああ)
私は、内心で静かに息を吐いた。
(やはり、ダメですね。ここは)
期待外れ。
失望ですらない。
ただ、興が冷めた。
私はこの幻想郷を、内側から崩すつもりでいた。
そのためには、人里に入り込み、日常に溶け込む必要があると考えていた。
だが――。
こいつらは、私を守ろうとしている。
あまつさえ、世話まで焼こうとした。
そんな連中の庇護の下で、ぬくぬくとした生活を送れるほど、私は善人ではない。
ましてや、牙を抜かれた獣のように、大人しくしている気もなかった。
私は踵を返し、霊夢のいる方へと歩き出した。
門番の男は、まだ頬を押さえながら、周囲に何か叫んでいるが、もはや興味はない。
「霊夢さん」
私は、他の門番と話している霊夢に声をかけた。
「私、人里に住むの、やめることにしました」
「……え?」
霊夢は、一瞬きょとんとした表情を浮かべる。
状況が飲み込めていない、といった顔だ。
「人里に住まないって……なんでよ?」
訝しむように眉をひそめる。
「さっきまで、まあいいって顔してたじゃない」
私は、落ち着いた笑みを浮かべたまま答える。
「幻想郷を、もっと見てみたくなったんです」
言葉を選びながら、ゆっくりと。
「人里で平穏な日々を送るよりも、妖怪に紛れて暮らしたい。そう思ったんですよ」
いかにもそれらしい理由。
外来人が幻想郷に染まっていく、よくある話だろう。
だが、霊夢はすぐに気づいた。
空気が、変わった。
彼女の表情から、先ほどまでの気だるさが消えていく。
足の位置が微妙に変わり、重心が安定する。
霊力の流れが、肌越しに感じ取れるほど、鋭くなる。
半ば、戦闘体制。
博麗の巫女が、目の前の外来人を、警戒対象として見始めた瞬間だった。
最初はね、アラスターを人里に住ませる計画だったんですが、アラスターは平和な人里は好まないな、と思ってやめました。