アラスター、幻想入りする   作:まったり愛好家

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第十二話 牧歌的平和

 それから十分余りが過ぎたころだった。

 

 赤い洋館の方角から、ふわり、ふわりと、まるで重力そのものを忘れたかのような動きで、ひとつの人影がこちらへ近づいてくるのが見えた。

 夕方に差しかかりつつある空を背に、ゆっくりと高度を下げながら近づいてくるその姿には、どこか気の抜けた余裕がある。

 

 博麗霊夢だった。

 

「あー……疲れた……」

 

 霊夢はそうぼやきながら、私の目の前へと着地した。

 靴底が地面に触れた瞬間、軽く土埃が舞う。

 

「妙に強いやつだったわ」

 

 そう言って肩を落とす彼女の様子は、いつもの飄々とした巫女のそれとは少し違っていた。

 服に目をやると、白と赤の巫女装束はところどころが破れ、焦げ跡が残り、糸がほつれている箇所もある。

 戦闘の激しさを、雄弁に物語る姿だった。

 

 ――つまり。

 

 この屋敷には、博麗霊夢に「攻撃を当てられる存在」がいた、ということだ。

 

(なるほど……)

 

 私は内心で頷く。

 あれほど巨大で、過剰とも言えるほど防御と戦力を抱え込んだ屋敷である理由が、ようやく腑に落ちた気がした。

 

「それはそれは、お疲れ様でした」

 

 私は影で作った椅子から立ち上がり、軽く頭を下げる。

 

「おとなしく待っててくれて助かるわ」

 

 霊夢は、服の汚れを軽く払いつつ言った。

 

「助けた外来人に何かあったら、私の顔が立たないからね」

 

 冗談めかした口調だが、その奥には、博麗の巫女としての責任感が垣間見える。

 そういうところは、案外律儀だ。

 

 次の瞬間、霊夢は自然な動作で私を抱え上げた。

 重力から切り離される感覚が、体を包む。

 

「じゃあ、人里に行くとしましょうか」

 

 そう言うが早いか、霊夢は軽く地面を蹴り、再び空へと舞い上がった。

 

 視界が滑らかに上昇する。

 風が頬を撫で、赤い洋館が徐々に遠ざかっていく。

 

「……ん?」

 

 私はふと、鼻をくすぐる匂いに気づいた。

 微かだが、はっきりとした――血の匂いだ。

 

「霊夢さん、血の匂いがしますが……どこか怪我でも?」

 

 抱えられたまま、私はそう尋ねた。

 

「ん? そう?」

 

 霊夢は少し考えるように首を傾げ、それから思い出したように言う。

 

「あー、確かにちょっとついちゃってるわね」

 

 ため息混じりに続ける。

 

「異変の主犯が吸血鬼だったから、血液の霧みたいなのを使ってたのよ」

 

 血霧。

 なるほど、それでこの幻想郷全体が赤く染まっていたわけだ。

 

 会話をしているうちに、視界の先に建物の群れが見え始めた。

 整然と並ぶ瓦屋根。木造の家々。

 どこかで見た資料――江戸や鎌倉の集落を彷彿とさせる、和風の町並みだ。

 

 想像していたよりも、はるかに大きい。

 人里の端は、遠くかすんで見え、全体を見渡すことはできなかった。

 

 やがて霊夢は高度を落とし、人里の外縁部に静かに着地した。

 

 人里は、高さ四メートルほどの石壁に囲まれている。

 古びてはいるが、堅牢そうな壁だ。

 その一角に、門らしき開口部があり、そこには槍を持った男たちが数人、警備として立っていた。

 

 霊夢は私を降ろすと、迷いなく門の方へ歩いていく。

 私はその後ろについていった。

 

「あ、博麗の巫女様。お疲れ様です」

 

 門番の男の一人が、霊夢に気づくとすぐに姿勢を正し、深々と頭を下げた。

 

「里はどうなってる?」

 

 霊夢は門の内側を覗き込みながら、淡々と尋ねる。

 

「赤い霧の影響は出てる?」

 

「結構、体調不良者は出てますけど……」

 

 門番は少し考え、続けた。

 

「なんとかなる範囲ですね。霧が出てから、みんな家の中に入って外に出ないようにしてたんで、霧を吸い込んだ人はあんまりいませんでした」

 

 そう言って、少し安心したように笑う。

 

「それは良かったわね」

 

 霊夢は短く頷いた。

 

「……それはそうと」

 

 別の門番が、私の方へ視線を向けた。

 

「後ろの男は誰です? このあたりでは見かけない顔ですが」

 

「こいつは外来人よ」

 

 霊夢は即座に、簡潔に答える。

 

「外来人か……」

 

 門番たちは、興味深そうに私を見た。

 

「珍しいですね。ここ最近、外来人は滅多に来なかったのに」

 

 値踏みするような視線。

 だが、警戒よりも好奇心が勝っているように見える。

 

「まあ、そういうことなら任せてください」

 

 門番の一人が一歩前に出て、私に近づいてきた。

 

「にいちゃん、外来人なんだってな」

 

 門番の男は、屈託のない笑顔でそう声をかけてきた。

 日に焼けた顔に、どこか牧歌的な安心感を漂わせた男だ。

 槍を肩に預け、こちらに距離を詰めながら、気さくな調子で続ける。

 

「まあ、色々大変だったろうが、もう安心だぜ。今日からはこの人里に住むといい」

 

 男は、まるで決定事項であるかのように頷く。

 

「俺たちが家探してやるからさ。空き家もいくつかあるし、飯の心配もしなくていい。最初は慣れねえだろうが――」

 

 そこから先の言葉は、耳に入ってはいた。

 だが、意味としては、次第に霧散していった。

 

 ――守ってやる。

 ――安心だ。

 ――世話を焼いてやる。

 

 その一つ一つの言葉が、私の内側でゆっくりと反転していく。

 

(……ああ、なるほど)

 

 この男は、私を「弱者」だと決めつけている。

 外の世界から迷い込んだ、無力な人間。

 だから守るべき存在であり、導くべき存在であり、世話を焼くべき存在だと。

 

 霊夢のような、圧倒的な力を持つ存在にそう言われるのなら、別に構わない。

 事実として、彼女は強者だ。

 だが――。

 

(お前は、違う)

 

 目の前のこの男は、ただの門番だ。

 幻想郷の中では、最下層に近い存在。

 その男が、当然のように「守ってやる側」に立っている。

 

 ――こいつは、本当に私にそんなことを言えるほど強いのか?

 

 その疑念が、静かに、しかし確実に胸の奥に芽生えた。

 

 私は、試すことにした。

 

 ほんの気まぐれだった。

 深い意味はない。

 ただ、事実を確認したかっただけだ。

 

 男の視線が、私の顔から一瞬だけ逸れた、その瞬間。

 

 影の中から、細い触手を一本、音もなく伸ばす。

 刃のように研ぎ澄まされた先端が、男の頬をかすめた。

 

 ――シャリ。

 

 わずかな感触。

 皮膚が裂け、赤い線が浮かぶ。

 

「うわあああ!?」

 

 男は悲鳴を上げ、慌てて後ろに跳ねた。

 頬を両手で押さえ、目を見開く。

 

「なんだ!? 何が起きた!?」

 

 周囲の門番たちも、槍を構え、騒然となる。

 

「いってて……っ」

 

 男は血のついた指を見て、さらに狼狽えた。

 

「か、かまいたちか!? 今の、風も吹いてなかったのに……!」

 

 完全に混乱している。

 攻撃されたことすら、正しく認識できていない。

 

(……ああ)

 

 私は、内心で静かに息を吐いた。

 

(やはり、ダメですね。ここは)

 

 期待外れ。

 失望ですらない。

 ただ、興が冷めた。

 

 私はこの幻想郷を、内側から崩すつもりでいた。

 そのためには、人里に入り込み、日常に溶け込む必要があると考えていた。

 

 だが――。

 

 こいつらは、私を守ろうとしている。

 あまつさえ、世話まで焼こうとした。

 

 そんな連中の庇護の下で、ぬくぬくとした生活を送れるほど、私は善人ではない。

 ましてや、牙を抜かれた獣のように、大人しくしている気もなかった。

 

 私は踵を返し、霊夢のいる方へと歩き出した。

 

 門番の男は、まだ頬を押さえながら、周囲に何か叫んでいるが、もはや興味はない。

 

「霊夢さん」

 

 私は、他の門番と話している霊夢に声をかけた。

 

「私、人里に住むの、やめることにしました」

 

「……え?」

 

 霊夢は、一瞬きょとんとした表情を浮かべる。

 状況が飲み込めていない、といった顔だ。

 

「人里に住まないって……なんでよ?」

 

 訝しむように眉をひそめる。

 

「さっきまで、まあいいって顔してたじゃない」

 

 私は、落ち着いた笑みを浮かべたまま答える。

 

「幻想郷を、もっと見てみたくなったんです」

 

 言葉を選びながら、ゆっくりと。

 

「人里で平穏な日々を送るよりも、妖怪に紛れて暮らしたい。そう思ったんですよ」

 

 いかにもそれらしい理由。

 外来人が幻想郷に染まっていく、よくある話だろう。

 

 だが、霊夢はすぐに気づいた。

 

 空気が、変わった。

 

 彼女の表情から、先ほどまでの気だるさが消えていく。

 足の位置が微妙に変わり、重心が安定する。

 霊力の流れが、肌越しに感じ取れるほど、鋭くなる。

 

 半ば、戦闘体制。

 

 博麗の巫女が、目の前の外来人を、警戒対象として見始めた瞬間だった。




最初はね、アラスターを人里に住ませる計画だったんですが、アラスターは平和な人里は好まないな、と思ってやめました。
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