地面に落ちた影が、ゆっくりと形を変えた。
闇が流れるように盛り上がり、人の輪郭を描き、やがて確かな肉体として定着する。
足が、胴が、腕が――そして最後に、呼吸が戻った。
私は軽く肩を回し、周囲を見渡す。
赤を基調とした巨大な屋敷。
高くそびえる門。
そして、その前に立つ、見覚えのある人物。
「ん? なんだい。さっきぶりだね」
気の抜けた、しかしどこか芯の通った声。
赤毛の門番だ。
長い赤髪を背中で揺らし、どこかだるそうに立っている。
服は先ほどよりも明らかに傷んでおり、裂け目や煤汚れが目立つ。
霊夢たちの戦いに加勢した結果なのだろう。
それでも、姿勢は崩れていない。
眠そうな目つきの奥に、門番としての責任がしっかりと残っている。
彼女は私を見ると、少しだけ眉を上げた。
警戒というより、純粋な疑問の色だった。
「ああ、少しこの屋敷に用事がありまして」
私は、敵意がないことを示すように、軽く手を挙げる。
「さっきは途中で引き上げましたが、戻ってきました」
嘘ではない。
ただし、真実の全てでもない。
私がここへ戻った理由は単純だ。
人里から距離があり、なおかつ強者が集う場所。
霊夢の視界から一時的に外れるには、ここ以上に都合の良い場所はない。
それに――。
(せっかく来たのだ)
何もせずに立ち去るのは、あまりにも惜しい。
「この屋敷の主人に、改めて会ってみたいと思いまして」
門番の視線が、わずかに鋭くなる。
「先ほど親交した時は、結局、顔を合わせる余裕がありませんでしたから」
これは事実だ。
霊夢と正面から渡り合い、少なからず被弾させた存在。
その実力を見極めることで、霊夢という巫女の底も、より正確に測れる。
門番の女性は腕を組み、しばらく考え込んだ。
視線は私から門の奥へ、赤い屋敷の方へと移る。
門番としての立場と、彼女自身の性格が、静かに天秤にかけられているのが分かった。
(……理解しているな)
彼女はわかっている。
私と戦っても、勝てないということを。
恐怖ではない。
力の差を、直感で把握しているだけだ。
だが、それでも門番として、何の抵抗もなく通すのは気が引ける。
その葛藤が、彼女の沈黙に滲んでいた。
やがて、彼女は小さく苦笑した。
「うーん……」
後頭部をぽりぽりと掻きながら、気まずそうに言う。
「通ってもいいんだけどさ」
私は、黙って続きを待つ。
「館の中の連中には」
一瞬こちらを見てから、彼女は視線を逸らす。
「私が必死で、あんたを止めようとして戦ったって、言っといてくれないかい?」
一拍。
意味を理解し、私は内心で息を吐いた。
(なるほど)
責任感がないわけではない。
ただ、面倒事を極端に嫌う性格なのだ。
“負けた”という体裁さえ整えば、それでいい。
そうすれば、門番としての立場も守られる。
「……まあ、わかりました」
若干の呆れを込めて、私は答える。
「それくらいでしたら」
門番の女性は、ほっとしたように肩を落とした。
「助かるよ」
そう言って、門の横へと一歩退く。
私は、そのまま赤い門へと向かう。
長い年月を経た門には、濃密な魔力が染みつき、屋敷そのものが生き物のように感じられる。
――私は、確かに。
その門を、潜った。
ーーーはずだった
赤。
暴力的と表現するほかないほどの赤が、視界のすべてを塗り潰す。
壁も、床も、天井も、装飾も、空気そのものさえも赤に染め上げられているかのような錯覚。
私は、反射的に足を止めた。
(……やはり、館の中か)
瞬時にそう判断する。
この空気、この魔力の密度、この歪み――間違いない。
私が最初に侵入した時にも目にした、あの正面ロビーだ。
だが、おかしい。
門からこの場所まで、物理的な距離があることは知っている。
あの赤毛の門番を通過した直後、歩いた記憶もなければ、移動した感覚もない。
(転移……? それとも、この屋敷そのものがそういう構造なのか)
どちらにせよ、考察している暇はない。
私は即座にマイクを持ち直し、握りを確かめる。
影が、足元から静かに広がり、床に染み込むように伸びていく。
神経を研ぎ澄まし、触手を体の周囲に纏わせる。
一本一本が意思を持つかのように、空間を探り、敵意を探知する。
空気が、重い。
魔力が濃縮され、粘性を帯びている。
ここは、単なる屋敷の入り口ではない。
――“迎撃地点”だ。
「あら?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
子供のものだ。
高く、幼く、それでいて妙に澄んでいる。
「案外、弱そうなのね? あなた」
私は、即座に反応せず、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先――
そこにいたのは、一人の幼女だった。
宙に浮かび、重力という概念を嘲笑うかのように、ふわりと佇んでいる。
頭には、パチュリーと同系統のモブキャップ。
しかし、そのサイズも形も、どこか子供向けに誂えられたように見える。
服は洋風のドレス――だが、装飾は控えめで、どこか無邪気さを残している。
玩具箱から飛び出してきたような、そんな印象すらある。
髪は薄い青紫。
肩に触れるか触れないかの、短いショートカット。
柔らかそうで、光を受けるたびに淡く揺れる。
だが――。
背中に生えた、小悪魔のような羽。
小刻みに上下するその動きが、彼女が“人ではない”ことを雄弁に物語っている。
そして、何より。
目。
赤い。
ただ赤いのではない。
覗き込めば、そのまま引きずり込まれそうな――
底が見えず、奥行きのある、吸血衝動を孕んだ赤。
その視線と目が合った瞬間。
――圧。
空間が、押し潰されるような感覚。
魔力が肌を刺し、肺を締め付け、心臓の鼓動を一拍遅らせる。
(……これは)
私は、喉の奥で息を殺した。
この感覚。
覚えがある。
過去に一度、いや数度ーー
既視感。
嫌な記憶が、背骨を這い上がる。
私はその正体を探りながら、表情だけを整えた。
「これはどうも」
口元に、貼り付けたような笑みを浮かべる。
社交辞令そのものの、心のこもらない挨拶。
「丁寧な歓迎、誠に嬉しく思います」
声音は穏やかに。
敵意を悟らせないように、しかし油断も見せない。
マイクは、依然として手放さない。
「あなたは、この屋敷の主人とお見受けしますが」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「なぜ、わざわざ私の前に姿を現されたのですか?」
幼女は、きょとんとした表情を浮かべた後、くすくすと笑った。
鈴が転がるような、無邪気な笑い声。
「なぜ? おかしなことを聞くのね」
空中で、くるりと一回転する。
その動作だけで、周囲の魔力がわずかに揺れた。
「あなたが、私に会いに来たんじゃない」
断定口調。
疑問ではなく、事実として語っている。
(……読まれている?)
私は、内心で警戒を一段階引き上げる。
私がこの屋敷へ戻ることを、彼女は予測していた。
いや、それ以上だ。
“待っていた”と言ってもいい。
「ありがたいことですね」
私は、皮肉を織り交ぜながら返す。
「こうして出てきていただけたということは、私にはあなたにお会いする資格があった、ということでしょうか」
賞賛の言葉を並べながら、視線は彼女から逸らさない。
幼い外見。見た目年令ならば、私が幻想郷に来た時に遭遇した妖怪と大差ない
だが――。
(違う)
決定的に違う。
この少女から放たれる圧は、比べ物にならない。
無意識のうちに、周囲を支配している。
油断すれば、こちらが呑み込まれる。
下手をすれば――。
(私と、同格……あるいは)
それ以上。
喉の奥で、知らず唾を飲み込んでいた。
彼女は、相変わらず楽しそうに笑っている。
まるで――
小さな子供が、珍しい玩具を見つけた時のように。
そしてその瞬間も、なお。
強烈なプレッシャーは、空間に満ち続けていた。
幼女♪幼女♪つるぺた幼女♪