不安だ…
私は、この世界の仕組みを――少なくとも表層だけは理解した。
幻想郷という閉じた箱庭。
そこでは、人間より妖怪のほうが立場としては上にある。力もあり、寿命もあり、概念としての強度も段違いだ。
だが。
妖怪は、人間がいなければ生きていけない。
人間の恐怖、畏れ、噂、伝承。
それらを糧にして存在を保つ、実に歪で、しかし美しい循環。
(……なるほど)
私は、座布団の上で背筋を伸ばしたまま、内心で静かに笑った。
もし、何かのきっかけで。
妖怪は大して怖くない。
そう大衆に思わせることができたなら。
この、ぎりぎりで保たれている均衡は、音を立てて崩れるだろう。
恐怖を失った妖怪は、やがて力を失い、存在を希薄化させる。
一方で、人間は守られていると思い込み、無防備になる。
……素晴らしい。
(この世界に飽きたら)
私は、畳の目をなぞる視線のまま、思った。
(……試してみましょうかね)
その計画は、今はまだ、胸の奥にしまっておく。
熟成には、時間が必要だ。
「では」
私は顔を上げ、霊夢を見る。
「次の質問をしても?」
先ほどまでより、声がわずかに軽い。
自分でも分かるほど、機嫌がよくなっていた。
「いいわよ」
霊夢は気の抜けた返事をしながら、湯呑みを手に取った。
「この世界――幻想郷がどんなところかは、だいたい理解できました」
私は、貼り付けたような笑顔を浮かべる。
「なので、今度は……あなた自身について、知りたい」
その言葉は、聞きようによっては口説き文句にも聞こえるだろう。
だが霊夢は、特に気にした様子もなく肩をすくめた。
「私? さっき言ったじゃない。幻想郷の管理人で――」
「いえいえ」
私は、少しだけ食い気味に遮った。
「そういう役割の話ではなく」
笑みを深くする。
「博麗霊夢という“人間”を、知りたいのですよ」
一瞬、霊夢の動きが止まった。
ほんの一瞬。
だが、私はそれを見逃さなかった。
「……変なこと言うわね」
そう言いながらも、霊夢は完全には拒まない。
神、妖怪、結界。
それらも確かに興味深い。
だが今、私の目を最も惹きつけているのは、この少女だ。
空を飛び。
妖怪を容易く退け。
この世界の均衡を、一身に背負っている存在。
未知と力。
私の大好物が、目の前に転がっている。
「たとえば、ですが」
私は話を続けた。
「先ほど、あなたは空を自由に飛んでいましたね」
「ええ」
「私の知る限り、人間にはそんな機能はありません」
わざとらしく首を傾げる。
「どうやったんです?」
「ああ、そういうこと」
霊夢は、どこか拍子抜けしたように言った。
「あれは、私の能力よ」
「能力……と、言いますと?」
「たとえば私は」
霊夢は、立ち上がった。
「“空を飛ぶ程度の能力”を持っているわ」
その瞬間、彼女の体がふわりと浮いた。
足が畳から離れ、音もなく宙に留まる。
だがそれは、魔法で持ち上げられている、という感じではない。
重力という概念そのものが、彼女の周囲だけ曖昧になっている。
そんな印象だった。
「……ほう」
思わず、感嘆の息が漏れる。
「ただ飛ぶ、というより……」
私は目を細める。
「自由に、存在しているように見えますね」
「まあ、そんな感じ」
霊夢は宙に浮かんだまま言った。
「私はね、重力にも、何者にも縛られない。この世の事柄からも、神羅万象から解き放たれた存在、ってわけ」
その言葉は、誇張ではないように感じられた。
「それでは」
私は、口元に笑みを浮かべたまま、突っ込む。
「“空を飛ぶ”というより、“森羅万象から解き放たれる能力”では?」
「うーん……」
霊夢は宙で腕を組む。
「言われてみれば、そうかも?」
「それと」
私は続けた。
「なぜ能力名に、“程度”などという曖昧な言葉を?」
「あー……」
霊夢は、少し困ったように頭をかいた。
「能力名はね、自己申告制なのよ。自分で自由に決めていいの」
……自己申告制。
(随分と、いい加減ですね)
「で、“程度”についてだけど」
霊夢は肩をすくめた。
「そういうもんなのよ」
「……そういうもん、とは?」
「私が生まれた時点で、みんな“〜程度の能力”って形式だったから。理由は知らないわ」
「はあ……」
思わず、気の抜けた返事が出る。
「まあいいじゃない。細かいことは」
霊夢はそう言って、すとんと畳に降り立った。
確かに、本人が納得しているなら、外野が口出しすることではない。
だが。
(能力を“程度”と呼ぶ……)
私は内心で、別の意味を見出していた。
力を誇示しない。
限界を明示しない。
相手に想像させる余地を残す。
(素晴らしいじゃないですか。こういうの好きですよ。私)
「では」
私は、座布団の上で姿勢を正した。
「次の質問です」
「多いわね〜、質問が」
霊夢は露骨に嫌そうな顔をし、机に肘をついて頬を支える。
さっきまでの淡々とした説明口調とは違い、年相応の、気だるげな態度だ。
「当たり前でしょう」
私は、やや肩をすくめて言った。
「私はここのことが何もわからないのですから。管理人に聞くのは、当然ですよ」
「理屈は分かるけどさぁ……」
霊夢は、深いため息をついた。
「……で?」
「私の処遇は、どうなります?」
その言葉を口にした瞬間、和室の空気が、ほんのわずかに張り詰めた。
私は外来人。
この世界にとっての異物であり、よそ者だ。
放置されるのか。
監視されるのか。
あるいは――処分されるのか。
霊夢は、少しだけ考えるように視線を天井へ向けた。
「処遇、ね……」
指で畳をとんとんと叩きながら、答える。
「多分、人里に住んでもらうことになるわ」
「人里」
私はその言葉を反芻した。
「さっきから話には出ていましたし、大体の予想はつきますが……一応、どんなところか聞いても?」
「幻想郷で唯一の、人間の集落よ」
霊夢は、簡潔に答えた。
「人口は……どれくらいだったかしらね」
「……把握していないのですか?」
思わず、眉が動く。
「管理人、なのでしょう?」
「私はね」
霊夢は少しだけ声を強めた。
「異変解決と結界の管理をしてるだけ。人里の行政まで面倒見てないわよ」
言い切りには、確かな線引きがあった。
「なるほど」
私は納得したように頷く。
「まあ、住むに困らない人数がいれば、それで十分です」
人口の正確な数など、私にとってはどうでもいい。
重要なのは、そこに“人間社会”が存在するかどうかだけだ。
「じゃあ、人里のルールについて話すわね」
霊夢は、ぴっと人差し指を立てた。
その仕草が、どこか教師めいている。
「まず第一に」
一拍置いてから、告げる。
「さっき話した、妖怪と人間の本当の関係について、人里で話すのは禁止」
「……なぜです?」
私は、分かっていながらも聞いた。
「人里の人間がそんなこと知ったら、反乱が起きるに決まってるからよ」
霊夢は、即答した。
「それにね。無闇に襲われないって分かれば、妖怪に対する恐怖も薄れるでしょ? それは困るの」
(――ああ)
私は内心で、小さく息を吐いた。
(やはり、そういうことですか)
「……あなたは」
私は、少しだけ声のトーンを落とした。
「人間の味方では、ないのですか?」
その問いに、霊夢はすぐには答えなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「人間の味方よ」
きっぱりとした声。
「でもね、私は“バランサー”なの」
その言葉には、覚悟が滲んでいた。
「幻想郷では、人間の力と妖怪の力、どちらも大きすぎちゃいけない。だから、異変を解決して妖怪が力を持ちすぎないようにする」
そして。
「同時に、情報を管理して、人間に妖怪を怖い存在だと思わせ続ける」
淡々とした口調。
だが、その内容は、あまりにも冷静で、残酷だった。
「それが、幻想郷を保つ方法なのよ」
霊夢は、こちらを真っ直ぐに見ていた。
先ほどまでの、どこか気の抜けた少女ではない。
そこにいたのは、間違いなく“管理者”だった。
私は、その姿をじっと見つめる。
まだ子供だ。
体つきも、声も、顔立ちも。
それなのに、この世界の均衡を、その身一つで背負っている。
(……なーんだか)
胸の奥で、妙な既視感が芽生えた。
(私のホテルの支配人に、似てますね)
地獄の支配人。
罪人を更生させるだとか、天国と地獄の戦争を止めるだとか。
正直、理解できなかった。
なぜ、そこまで他人のために動けるのか。
私は、人間だった頃から、自分のために生きてきた。
気に入らないやつは殺した。
気に入ったやつも殺した。
特に理由がなくても、儀式のために大量に殺した。
血と悲鳴と恐怖。
それらを糧に、私は悪魔としての力を手に入れた。
秩序?
均衡?
共存?
そんなものに、興味を持ったことは一度もない。
だから。
目の前で、当然のように「世界のため」を語るこの少女に、私はどうしても共感できなかった。
尊敬も、理解も。
ただ、興味と――ほんのわずかな、歪んだ期待だけがあった。
(あなたは)
私は心の中で、霊夢を見つめながら思う。
(どこまで、この均衡を保てるのでしょうね)
もし、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ歯車が狂ったら。
この幻想郷は、どんな悲鳴を上げるのか。
私は、口元の笑みを、誰にも気づかれぬように深くした。
(今はまだ。ただの外来人として、静かに従っておくとしましょう)
――壊すのは、もっと後で。
ーーー
「まあ」
私は一つ、息を整えてから言った。
「おおかた、聞きたいことは聞けましたかね?」
そう言いながら、正座を解き、足を崩して座り直す。
畳の目が膝裏に食い込み、じんわりとした痺れが広がっていた。
(どうも、この“正座”という座り方は性に合いませんね)
人間だった頃も、悪魔になってからも、長時間足を折りたたむ文化には馴染めなかった。
足首を少しずらし、体重のかかり方を調整する。
その様子を、霊夢は何となく眺めていた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「ねえ」
「はい?」
「貴方さ」
間の抜けた調子だったが、視線だけは妙に鋭い。
「なんか、体にみなぎるパワーとか、ない?」
一瞬、思考が止まった。
「……はあ?」
私は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「何を言っているのです? 私はご覧の通り、普通の人間ですよ?」
もちろん、嘘だ。
だが、嘘をつくこと自体は呼吸と同じくらい自然だった。
「ふーん」
霊夢は、疑うでもなく、納得するでもなく、曖昧な相槌を打つ。
「いやね」
そう前置きしてから、説明を始めた。
「幻想郷に入ってくる時って、普通は博麗大結界を経由するでしょ?」
「ええ、そうらしいですね」
「その時にね、大結界のエネルギーを、ほんの少し内包したまま入ってくる人がいるのよ」
霊夢は、自分の胸元を指で軽く叩いた。
「そういう人は、能力が発現することがあるの」
「能力、ですか」
「そう。自覚がないまま、何かできるようになったりね」
私は、興味深そうに頷いた。
「なるほど。それで、私を疑っていると?」
「疑ってるっていうか……」
霊夢は、少し首を傾げる。
「なんかね、雰囲気?」
(雰囲気、ですか)
随分と曖昧だが、巫女の勘というやつだろうか。
「じゃあさ」
霊夢は、急に身を乗り出した。
「ちょっと、力んでみて」
「……はい?」
「いいからいいから」
言われるがまま、私は背筋を伸ばし、全身に力を込めた。
筋肉を緊張させ、意識を身体の中心へ集める。
――何も、起きない。
畳の感触も、空気の重さも、先ほどと何一つ変わらなかった。
「……何も起こりませんが」
「うーん」
霊夢は腕を組み、唸った。
「じゃあさ」
今度は、少しだけ真剣な声になる。
「“自分は能力が使えるんだ”って思って」
「……思って?」
「そう。その状態で、なんか能力を使うイメージをしてみて」
(ずいぶん、感覚的ですね)
だが、ここまで来て断る理由もない。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
思い浮かべるのは――地獄。
赤黒い空。
絶え間なく響く悲鳴。
私が、私として君臨していた場所。
つい昨日まで、当たり前のように使っていた力。
影を、魂を操ったあの力を。
その感覚を、なぞる。
――すると。
(……?)
ふわり、と。
体が、軽くなった。
まるで、重力という概念が一段階、緩んだかのような感覚。
足裏が畳から離れている……わけではない。
だが、確かに“浮いているような錯覚”がある。
「……これは」
私は、思わず目を開けた。
「どう?」
霊夢が、じっとこちらを見ている。
「何か、感じる?」
「……ええ」
困惑を隠せない。
「先ほどまで、なかった感覚です」
そう言った瞬間。
私の右手に、ずしりとした重みが現れた。
「――っ!」
反射的に、視線を落とす。
そこには。
赤いマイクが、握られていた。
艶やかな赤。
持ち手の感触。
魂を震わせる、あの“杖”。
「……これは」
喉が、ひくりと鳴る。
(……私が、悪魔の時に使っていた……)
思わず、指に力が入った。
確かな感触。
幻覚ではない。
霊夢は、一瞬目を見開き、それから小さく息を吸った。
「あー……なるほど」
「なるほど、とは?」
「結界経由で能力が発現した、って感じじゃないわね」
霊夢は、顎に手を当てる。
「どっちかっていうと……」
私のマイクを見て、一言。
「元々、持ってた力が、そのまま出てきた感じ」
――その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた。
高揚。
歓喜。
そして、抑えきれない笑み。
(使える……)
この世界でも。
幻想郷でも。
私の力は、失われていなかった。
私は、今日一番の高まりを覚えながら、マイクを握り締める。
この感触。
この鼓動。
ああ――。
(やはり)
この世界も。
壊す価値が、ありそうですね。
私は、浮かび上がる衝動を、表情の奥へと押し隠した。