私は、館の入り口に手をかけた。
重厚な扉は、見た目に反して静かに開いた。
軋む音一つ立てず、まるでこちらが来ることを最初から知っていたかのように、素直に。
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
赤。
床も、壁も、天井も。
深紅、緋色、暗赤色――微妙に色味の違う赤が幾重にも重なり、館全体を染め上げている。
ロビーは広かった。
外から見た規模を、明らかに上回っている。
天井は異様なほど高く、視線を上げれば、そこには巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。
虹色。
七色の光を閉じ込めた宝石のようなそれが、ゆっくりと回転しながら、館内を照らしている。
光は柔らかいのに、どこか鋭く、影の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
(……やはり)
私は、内心で小さく頷く。
(外観以上の内部空間。単純な建築では説明がつきませんね)
空間拡張。
結界。
あるいはその複合。
(吸血鬼の能力か、それとも部下の仕業か……)
ロビーを見渡しながら、私はゆっくりと歩を進めた。
足音は、妙に響く。
反響するというより、吸い込まれているような感覚だ。
その時。
――ドンッ!!
二階の方角から、明らかに弾幕戦闘とわかる衝撃音が響いた。
壁が、微かに震える。
続けざまに、光の奔流。
霊力の爆発。
聞き慣れた――いや、正確には、さっきまでずっと隣で体感していたもの。
(……霊夢ですね)
間違いない。
あの規模の戦闘を、館の奥で一人で繰り広げられる存在など、限られている。
(館の外で待っていろ、と言われた手前……)
私は、少しだけ眉を寄せた。
(中にいるところを見られるのは、避けたいところです)
霊夢は勘が鋭い。
それに、私の能力を、まだ全面的に晒すつもりはない。
(……それに)
心の奥で、別の思考が芽生える。
(彼女の戦いを邪魔する趣味もありませんしね)
私は結論を出した。
二階には行かない。
一階を、静かに探る。
そう決めて歩き出した直後だった。
――ひゅん。
耳元を、何かが掠める。
反射的に身を引くと、先ほどまで頭のあった位置を、光の弾が通過していった。
「……」
視線を向ける。
そこにいたのは、数体の妖精だった。
全員が、同じようなメイド服を着ている。
白と黒を基調とした、簡素だがよく整えられた衣装。
羽の色や髪型はバラバラだが、動きは揃っている。
「侵入者よ!」
「人間だわ!」
「排除して!」
甲高い声。
次の瞬間、弾幕が一斉に展開された。
数は多い。
だが――。
(……お粗末ですね)
私は、内心で評価を下した。
弾道は単純。
密度も低い。
狙いも甘い。
弾幕戦に不慣れな私でさえ、対応に苦労するレベルではない。
私は、影を踏み出した。
足元に落ちる影が、ゆらりと歪む。
そこから、黒い触手が伸び上がった。
弾幕に向かって、叩きつける。
――バシッ、バシッ。
弾は弾かれ、霧散する。
妖精たちが、目を見開いた。
「な、なにあれ……!」
「影が動いて……!」
私は、淡々と弾幕を処理しながら前進した。
「弱いですね」
自然と、言葉が口をついて出る。
「せっかくこの館に来たというのに……これでは拍子抜けです」
触手がうねり、妖精の一体を空中から叩き落とす。
床に激突し、鈍い音が響く。
「っ!」
悲鳴。
さらに、二体、三体。
私は力を入れすぎない。
殺さない程度に、確実に。
やがて、戦える妖精は数体だけになった。
その瞬間。
「……いや?」
私は、ふと足を止める。
「せっかく襲ってもらっているのです」
ゆっくりと、微笑む。
「これはこれで、好都合ですね」
触手を伸ばし、地面に倒れた妖精の一人を、軽く持ち上げる。
「……っ、ひっ……!」
「痛そうですね〜」
声色は、あくまで軽い。
「意識は残っていますか?」
妖精の瞳が、涙で滲む。
「ああ、それなら結構」
私は、妖精を床に下ろし、視線を合わせる。
「お前たち」
声を低くする。
「この館にいる“強者”の場所を答えなさい」
影が、再びうごめく。
「何人でも構いませんよ?」
沈黙。
妖精たちは、互いに視線を交わし、震えている。
やがて、一人が、絞り出すように口を開いた。
「……パ……パチュリー様なら……」
声が、震える。
「いつも……図書館に、います……」
「他の方は……定位置があるわけでは……なくて……」
必死に言葉を繋ぐ。
「私たちにも……詳しくは……」
「なるほど」
私は、満足そうに頷いた。
「図書館、ですか。では」
私は、触手を解いた。
「その図書館まで案内しなさい」
妖精は、びくりと身を震わせる。
「そうすれば、解放してあげますよ」
少しだけ、優しい声で。
妖精は、怯えた顔のまま、ふよふよと空中に浮かび上がった。
「……こ、こちらです……」
私は、その後ろを静かについていく。
赤い館の奥へ。
図書館へ向かって。
______
図書館の扉は、妖精メイドの細い手によって、ゆっくりと開かれた。
重厚な木製の扉は、長い年月を経たにもかかわらず、軋む音一つ立てない。
それだけで、この館がどれほど丁寧に、そして執拗なまでに管理されているかが伝わってくる。
「……こちらです……」
妖精の声は、まだ震えていた。
私は軽く手を振る。
「ご苦労様です。もう行っても構いませんよ。用済みです」
その言葉に、妖精は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、次の瞬間には、安堵と恐怖の入り混じった表情で深く頭を下げた。
「ほ、本当に……?」
「ええ。約束は守ります」
私は、あくまで穏やかな笑みを浮かべたままそう告げる。
妖精は、逃げるように扉の向こうへ飛び去っていった。
その背中が完全に見えなくなったのを確認してから、私は図書館の中へと足を踏み入れた。
――その瞬間。
思わず、息を呑む。
広い。
いや、広いという言葉では足りない。
天井は遥か高く、見上げれば暗がりの中に、幾重にも重なった回廊と書架が浮かび上がっている。
床から天井までびっしりと並ぶ本棚が、まるで街区のように整然と配置され、その一つ一つが、細い通路によって繋がれていた。
本棚でできた街。
その表現が、これ以上なく的確だった。
奥行きがあるだけではない。
上下にも、左右にも、無限に広がっているかのような錯覚を覚える。
照明は控えめで、ところどころに浮かぶ魔法灯が、淡い光を落としているだけだ。
それが逆に、空間の果てを曖昧にし、どこまでがこの部屋なのか分からなくさせていた。
(……これは)
私は、無意識のうちに喉を鳴らした。
生前、私は何度か「大図書館」と呼ばれる類の建築を訪れたことがある。
国家規模の蔵書を誇る施設。
学術の粋を集めた、知識の殿堂。
だが。
目の前に広がるこの光景は、それらをすべて霞ませる。
(規模が違う……)
蔵書量だけではない。
収められている“質”が、まるで違う。
空気そのものが、情報で満ちている。
紙の匂い、インクの残り香、魔力の滞留。
ここはただの図書館ではない。
魔導書、禁書、異界の知識――そういった類が、平然と積み上げられている場所だ。
「この中から、探すんですか……」
思わず、独り言が漏れる。
「骨が折れますね、これは」
軽口のように言いながらも、内心では確かな重みを感じていた。
“パチュリー”。
先ほど妖精が口にした名前。
おそらく、この図書館の主。
あるいは、少なくとも管理者。
(魔術師でしょうね)
この規模の図書館を維持し、なおかつ使いこなしている存在など、限られている。
私は、歩き出した。
足音が、静かに反響する。
書架の隙間を抜けるたびに、視界が切り替わり、同じようでいて微妙に異なる空間が現れる。
ここにも、妖精がいる気配は感じる。
だが、先ほどのように無闇に飛び出してくる様子はない。
おそらく、ここでは“静かにする”という規律が、徹底されているのだろう。
「……はあ」
私は、小さく息を吐いた。
「まあ、いいでしょう」
独り言の調子は、いつも通りだ。
「妖精はいますし、何人か捕まえて情報を吐かせれば済む話です」
合理的な判断。
手間はかかるが、不可能ではない。
そう考えながら、さらに奥へと進もうとした、その時だった。
――ひゅっ。
空気を裂く音。
反射的に視線を上げる。
本棚の向こう、遥か上方から、何かがこちらへ向かって飛来してくるのが見えた。
黒い影。
いや、影というには輪郭がはっきりしている。
(……?)
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間、全身の感覚が、警鐘を鳴らした。
「あれは……」
私は、足を止め、姿勢を低くした。
「……悪魔、ですか?」
心臓が、わずかに強く脈打つ。
「まさか……ここは現世のはずですが……」
視界の中で、その存在は徐々に形をはっきりさせていく。
人型。
全体のシルエットは、人間に近い。
薄赤色の髪が、ふわりと揺れている。
服装は、黒と白を基調とした上下揃いの衣装。
どこか、使用人――メイドや執事を思わせるデザインだ。
だが。
決定的に、人ではない。
頭の側面から、小さな角。
背中には、コウモリのような翼。
そして、腰の後ろから伸びる、細長い尻尾。
「……」
私は、無言のまま観察を続ける。
(高位、ではなさそうですね)
覇気は薄い。
圧倒的な魔力の奔流も感じない。
だが、それは油断していい理由にはならない。
(……淫魔、でしょうか)
外見的特徴からの推測。
それに、図書館という場所。
知識の守護者。
あるいは、主に仕える存在。
(この館……本当に人材が豊富ですね)
私は、無意識のうちに口角を上げそうになるのを抑えた。
同時に、足に力を込める。
影が、足元で静かに揺らいだ。
戦闘態勢。
今は、まだ仕掛けない。
だが、いつでも動けるように。
目の前に迫る悪魔を、私はしっかりと見据え続けた。
その一挙一動を、逃さぬように。
静かな図書館の空気が、わずかに張り詰める。
悪魔は、私の数歩前にふわりと着地した。
まるで羽毛が床に落ちるかのような、軽やかで無音に近い着地。
図書館の静謐を乱さぬよう、計算された動きだ。
近くで見ると、その姿はさらに人間に近い。
整った顔立ちに、穏やかな微笑。
どこか気品すら感じさせる所作は、地獄で見慣れた下級悪魔のそれとは一線を画していた。
(……なるほど)
私は内心で頷く。
(この館に配置されるだけはありますね)
淫魔は、こちらを一瞥すると、余裕を含んだ笑みを浮かべた。
敵意を隠すでもなく、かといって露骨に向けるでもない。
声は落ち着いていて、低すぎず高すぎず、よく通る。
「人間よ」
その一言で、私を完全に“人間”と断定したらしい。
「どうやってここに侵入したかは知らないが……ここは、お前が甘えていていい場所ではない」
言葉遣いは丁寧だが、内容は断定的だ。
「即刻、立ち去れ」
――予想外だった。
(即座に戦闘、とはいきませんか)
てっきり、侵入者と見なされて即座に弾幕が飛んでくるものだと思っていた。
だが、この悪魔は、まず“退去勧告”を選んだ。
(ここが図書館だからでしょうね)
戦闘による破損を、極力避けたい。
主の蔵書に傷がつくことを、何よりも恐れているのだろう。
その忠誠心は、評価に値する。
私は、わざと肩の力を抜き、軽く首を傾げた。
「ご忠告、痛み入ります」
にこやかに、だが、どこか挑発的に。
「ですが私は、指図を受けるのが嫌いな性分でしてね?」
口角を上げる。
「残念ながら、あなたの言葉に従う気はないんですよ〜」
わざと軽い口調で言った。
淫魔の眉が、わずかに動く。
感情を抑えているが、内心では警戒心が跳ね上がったのだろう。
「……」
私は、さらに一歩踏み出した。
「それに――あなた、悪魔ですよね?」
相手の反応を観察しながら、続ける。
「でしたら、話は早い。あなたの主人の元へ案内なさい」
そして、言葉を選ばず、はっきりと告げた。
「そうすれば、命までは取りませんよ?」
空気が、一段階重くなる。
淫魔の笑みが、完全に消えた。
「お前……」
低く、押し殺した声。
「どうやら、自分が置かれている状況が分かって――」
その言葉が終わる前だった。
私は、躊躇なく動いた。
足元の影が、意思を持ったかのように蠢く。
次の瞬間、黒い触手が床から跳ね上がり、一直線に淫魔へと伸びた。
「――っ!」
淫魔は反応が早かった。
翼を一度だけ強く打ち、後方へと跳ぶ。
触手は、紙一重で空を切り、背後の本棚に叩きつけられた。
木材が軋む音。
本が数冊、ばさりと床に落ちる。
(回避能力は高い……ですが)
私は追撃を止めない。
影が広がり、第二、第三の触手が生まれる。
淫魔は空中で体勢を整えながら、手をかざした。
「――侵入者、排除する」
次の瞬間、弾幕が展開された。
赤紫色の光弾が、扇状に広がりながら迫ってくる。
数は多くないが、速度と精度は申し分ない。
(なるほど、魔力制御も洗練されていますね)
私は、避けるでも、防ぐでもなく、ただ一歩踏み出した。
影が、足元から盛り上がる。
弾幕は、触れた瞬間に影へと吸い込まれ、音もなく消失した。
「なっ――」
淫魔の目が見開かれる。
理解が追いつく前に、私は間合いを詰めていた。
触手が、地面を這い、彼女――いや、彼の足首に絡みつく。
「しまっ――」
次の瞬間、私は力を込めた。
淫魔の身体が、床から引き剥がされる。
抵抗しようと翼を広げるが、影はそれを許さない。
――叩きつける。
床。
壁。
本棚の側面。
空中で引き戻し、再び叩きつける。
重い衝撃音が、図書館に鈍く響く。
本棚が揺れ、埃が舞う。
私は、あえて加減した。
致命傷は与えないが、痛みと恐怖は十分に刻み込む。
「……っ、ぐ……!」
淫魔の声が、掠れる。
数度叩きつけたところで、私は動きを止めた。
触手が絡みついたまま、淫魔の身体を宙吊りにする。
床から数十センチ浮いた状態で、もがくこともできない。
私は、ゆっくりと歩み寄り、見下ろした。
「一度だけ、許してあげます」
声は穏やかだが、そこに温度はない。
「次は、ありませんよ?」
淫魔の瞳が、恐怖に揺れる。
「さあ」
私は、微笑んだ。
「あなたの主人の元へ、案内なさい?」
影が、わずかに締め付ける。
選択肢は、最初から一つしかなかった。