アラスター、幻想入りする   作:まったり愛好家

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第九話 ラジオ・ラクト 

 私は、捕らえた悪魔――インプが指し示す方角へと、静かに歩みを進めていた。

 

 図書館の奥へ、奥へと。

 

 足音は意識して抑えている。

 だが、完全な無音にはならない。床に敷かれた古い絨毯が、かすかに沈み、空気を含んで息を吐くような音を立てる。

 

 周囲は、無数の本棚に囲まれている。

 どれも背の高い木製で、天井近くまでぎっしりと本が詰め込まれていた。

 革装丁、布装丁、紙質も年代もばらばら。中には、表紙が煤け、文字が掠れて読めなくなっているものすらある。

 

 それらが放つ香りが、空間を満たしていた。

 

 古紙の乾いた匂い。

 インクの名残。

 木材が長い年月を経て醸し出す、微かな甘さ。

 

 それらが混じり合い、言葉では形容しがたい、しかし確かに「知の匂い」としか言いようのない空気を作り出している。

 

(……悪くない)

 

 私は、思わず深く息を吸った。

 

 知識を「保管」しているのではない。

 知識そのものが、この空間に沈殿し、呼吸しているかのようだった。

 

 私は、宙吊りにしたまま引きずるように運んでいるインプに視線を向けた。

 

 影の触手に絡め取られ、逆らうこともできず、身体を揺らしながら付いてくるその姿は、もはや哀れですらある。

 

「時に」

 

 私は、歩調を変えずに問いかけた。

 

「あなたの主人は、どんな人物なんですか?」

 

 影がわずかに揺れ、インプの身体もそれに合わせて揺らぐ。

 

「悪魔ですか? それとも吸血鬼?」

 

 この館には、吸血鬼が住んでいると聞いている。

 ならば、この図書館を管理する者も、そうした存在である可能性は高い。

 

 インプは、少し間を置いてから答えた。

 

「……パチュリー様は、人間だ」

 

 短く、しかし断定的な言い方だった。

 

 私は、思わず足を止めた。

 

「ほう?」

 

 わずかに声が弾む。

 

「それは、それは……素晴らしい」

 

 人間。

 

 ただの人間が、悪魔を従え、この規模の図書館を持ち、館の一角を任されている。

 

「人間の身で、悪魔を使役するとは……」

 

 私は、自然と笑みを浮かべていた。

 

「ますます、会ってみたくなりましたね」

 

 インプは、何も答えない。

 いや、答えられないのかもしれない。

 

 私は、歩きながら、先ほどのやり取りを反芻する。

 

 ちなみに、この悪魔は淫魔ではなかった。

 本人――いや、本悪魔曰く、インプと呼ばれる下級の悪魔らしい。

 

 主人に肉体を与えられ、受肉したことで、本来の階級以上の力を得たという。

 その事実だけでも、この「パチュリー」という人物の力量が窺える。

 

(下級を、ここまで鍛え上げる……)

 

 単なる研究者ではない。

 魔術に対する理解と、実践的な運用能力を併せ持っている。

 

 期待は、否応なく膨らんでいった。

 

 やがて、本棚の列が途切れ、視界が開ける。

 

 私は、自然と足を止めた。

 

 そこは、図書館の中でもひときわ広い空間だった。

 

 天井は高く、暗がりの中に星のような光が点在している。

 よく見れば、それは照明ではなく、魔力によって淡く光る装飾だった。

 

 中心には、一つの洋風の机が置かれている。

 

 重厚な木製の机。

 その上には、本が幾重にも積み上げられ、まるで小さな塔のようになっていた。

 開きっぱなしの書物、栞を挟んだまま伏せられた書物、書き込みで埋め尽くされた魔導書。

 

 机の周囲には、椅子が一脚だけ。

 

 そして――天井から。

 

 惑星の模型が、ゆっくりと回転している。

 星座を模した線が、淡く光りながら宙を巡る。

 月と太陽の模型が、互いに干渉しない軌道を描き、静かに回り続けていた。

 

 まるで、小さな宇宙が、この一角に閉じ込められているかのようだった。

 

(……見事ですね)

 

 私は、思わず息を呑んだ。

 

 この配置。

 この空間構成。

 

 無駄がなく、しかし美しい。

 

 そして、その机の前に――

 

 一人の少女が、座っていた。

 

 薄紫色の、大きなローブ。

 布地は柔らかそうで、動くたびにわずかに波打つ。

 頭には、月の飾りがついたモブキャップを被っている。

 

 その下から覗く髪は、驚くほどに長かった。

 

 濃い紫色。

 艶やかで、床に触れそうなほど伸びている。

 いや、もしかすると――少女の身長よりも、長いのではないか。

 

 髪は、椅子の背を越え、床に流れ落ち、静かに広がっていた。

 

 少女は、机に向かい、本に目を落としている。

 

 その姿は、微動だにしない。

 呼吸すら、周囲の空気に溶け込んでいるようだった。

 

 ――魔法使い。

 

 その様相は、疑いようもなく、そう語っている。

 

 知識と魔力に身を委ね、この場所に溶け込んだ存在。

 

 私は、わざと足音を立てるようにして、机のそばへと歩み寄った。

 

 この場に満ちる空気は、張り詰めている。

 静謐でありながら、魔力が濃く、息をするだけで舌の奥に微かな苦味を感じるほどだった。

 

「こんにちは……少し、よろしいですか?」

 

 声は低く、しかし丁寧に。

 敵意を前面に出すことはしない。少なくとも、最初からこちらが喧嘩腰である必要はない。

 

 だが――

 

「……何?」

 

 少女は、ページをめくる手を止めることなく、冷ややかに答えた。

 

 その声は幼い。

 だが、そこに含まれる温度は、氷のように冷たい。

 

「悪いけど、侵入者を相手してるほど、私は暇じゃないの」

 

 視線すら、こちらに向けない。

 

「そこらへんの小悪魔にでも、相手してもらって」

 

 その言葉が終わるのと、ほぼ同時だった。

 

 本棚の影が、ざわりと揺れた。

 

 次の瞬間――

 

 複数の影が、空間を切り裂くように飛び出してくる。

 

「――っ」

 

 私は、即座に重心を落とした。

 

 現れたのは、悪魔たち。

 先ほど捕らえたインプと同種だが、完全に同一ではない。

 

 背格好は似通っているものの、

 ある者は髪が長く、

 ある者は翼が大きく、

 ある者は尻尾が異様に発達している。

 

 個体差――それも、意図的に調整されたかのような差異。

 

(複数体……しかも、ただ数を揃えただけではない)

 

 使役者の性格が、よく表れている。

 

 悪魔たちは、声も上げずに散開した。

 

 図書館という閉鎖空間を理解した、無駄のない布陣。

 正面、左右、上方――三次元的に包囲される。

 

 次の瞬間、弾幕が放たれた。

 

 魔力弾、火球、雷光、風刃。

 色とりどりの弾幕が、私に向かって降り注ぐ。

 

 だが――

 

 私は、一歩も動かない。

 

 足元の影が、波打つように広がった。

 

 弾幕が触れた瞬間、音もなく消える。

 

 いや、正確には「消えた」のではない。

 

 影の中へと、吸い込まれていったのだ。

 

 魔力が、質量ごと沈み込む感触。

 空間が、飲み込むように歪む。

 

「なっ――⁉」

 

「弾幕が……消えた!?」

 

 悪魔たちの間に、動揺が走る。

 

 だが、判断は早かった。

 

 次の瞬間、彼らは一斉に動きを変える。

 

 影から影へ。

 本棚の影を蹴り、天井の梁を利用し、死角を縫って突進してくる。

 

(接近戦……)

 

 私は、口元をわずかに吊り上げた。

 

「いい判断です」

 

 素直に、そう思う。

 

 弾幕が通らないと理解したなら、距離を詰めるのは最適解だ。

 

「ですが――」

 

 影が、私の足元から盛り上がった。

 

「残念でしたね」

 

 無数の触手が、影から生える。

 

 それは黒く、艶のない質感を持ち、空間を裂くように伸びた。

 

 一本が、悪魔の翼を絡め取る。

 一本が、脚を捕らえる。

 一本が、胴体を締め上げる。

 

「――ぐっ!」

 

「放せ……っ!」

 

 抵抗はある。

 だが、力では話にならない。

 

 私は、軽く腕を振る。

 

 それだけで、捕らえた悪魔たちは、床へと叩きつけられた。

 

 重い音。

 古書が震え、本棚が軋む。

 

 床に押し付けられ、動けなくなった悪魔たちが、苦しげに呻く。

 

「私に、数はあまり効果がありませんよ」

 

 淡々と告げる。

 

 触手は、悪魔たちを逃がさぬよう、ぴくりとも緩まない。

 

 そのときだった。

 

 捕らえられた悪魔のうちの一体が、こちらを凝視していることに気づいた。

 

 恐怖――ではない。

 

 驚愕。

 そして、理解。

 

 その目は、私の触手を、影を、食い入るように見つめていた。

 

「……なんで……」

 

 声が、震える。

 

「この触手は……この影は……」

 

 そして、ゆっくりと視線が上がる。

 

 私の手に握られた――赤いマイクへ。

 

「……何よりも……そのマイクは……」

 

 顔色が、みるみる青ざめていく。

 

 悪魔は、喉を鳴らし、絞り出すように叫んだ。

 

「ラジオデーモン……なのか……?」

 

 その呼び名が、空間に落ちた。

 

「……ほう?」

 

 私は、思わず声を漏らした。

 

 驚きと、感心が入り混じった声音。

 

「私を知っているとは……」

 

 少しだけ、姿勢を正す。

 

「あなたは、地獄の第七層出身ですね?」

 

 悪魔は、息を呑んだ。

 

「……あり得ない……」

 

 混乱が、その表情にありありと浮かんでいる。

 

「なんで……罪人の悪魔が……現世に……」

 

 震える声で、続ける。

 

「お前は……生前に犯した罪で、悪魔として地獄に堕ちたんだろ……?」

 

「私たちみたいに……元々地獄で生まれた悪魔なら……召喚に応じて現世に来れる……」

 

「でも……なんで……お前が……」

 

 目を見開いたまま、私を見つめている。

 

(……なんでここにいるか、ですか)

 

 私は、内心で肩をすくめた。

 

(そんなの、私が一番知りたいんですがね)

 

 だが、それを口にする必要はない。

 

 私は、ただ――

 

 口角を上げ、にやにやと笑うだけだった。

 

 机に伏せていた少女が、ゆっくりと動いた。

 

 紙をめくる指が止まり、羽根ペンが机に置かれる。

 それだけの所作なのに、空間の密度が変わったように感じられた。

 

 少女は椅子から立ち上がり、初めてこちらを正面から見据える。

 

 紫の瞳。

 深く澄み、底が見えない。

 

「……その小悪魔と、知り合いなの?」

 

 声音は静かで、淡々としている。

 怒気も殺気もない。ただ、純粋な疑問。

 

「人間なのに?」

 

 その一言が、空間に落ちた。

 

 拘束されていた悪魔が、反射的に叫ぶ。

 

「パチュリー様!」

 

 声は裏返り、必死さを隠せていない。

 

「こいつは人間じゃありません!悪魔です!それも……上級悪魔です!」

 

 触手に絡め取られ、床に押さえつけられたまま、それでも叫ぶ。

 

「私がいた地獄の第七層の中でも……特出して危険な存在です!」

 

「最大限の警戒を……どうか……!」

 

 その叫びが終わるより早く。

 

 少女――パチュリーと呼ばれた存在が、指先を軽く振った。

 

 空気が、波打つ。

 

 彼女の指から、透明な膜のようなものが広がっていく。

 水面に落ちた雫の波紋のように、静かに、しかし確実に。

 

 膜は半球状に膨らみ、やがてドームとなって周囲を包み込んだ。

 

 図書館の一角――

 本棚、机、星の模型、そして私たち全員を含めて。

 

(結界……いや、探知用の魔法か)

 

 攻撃性はない。

 だが、皮膚に薄く膜が貼りついたような感覚がある。

 

 パチュリーは、じっと私を見つめたまま、眉をわずかにひそめる。

 

「……おかしいわね」

 

 小さく、独り言のように呟く。

 

「魔力探知では……完全な人間としか出てこないんだけど」

 

 指先を動かし、結界に走る微細な光を観察する。

 

「……あんたの見間違いじゃないの?」

 

 悪魔の方へ、ちらりと視線を向ける。

 

(魔力探知……そんなものまであるのですか)

 

 私は、内心で感心しつつも、表情には出さない。

 

「ええ、私は人間ですとも」

 

 肩をすくめ、軽く答える。

 

「そこの悪魔の、単なる見間違いでしょう」

 

 悪魔が、信じられないものを見るような顔で私を見る。

 

「そ、そんなはずが……!」

 

 パチュリーは、視線を再び私に戻す。

 

 紫の瞳が、わずかに細められる。

 

「でもね……」

 

 一歩、こちらへ踏み出す。

 

 その動きに合わせて、結界内の魔力の流れが変わるのがわかる。

 

「あなたの使う影や触手……」

 

「それと、そっくりのものを使う悪魔を、地獄で見たことがあると言っている奴がいるのも事実」

 

 疑念。

 確信には至らないが、完全には信じていない。

 

「たまたまでしょう」

 

 私は、あくまで平静を装う。

 

 手に持った赤いマイクを、指先でくるりと回す。

 

「影使い、触手使いなんて、探せばいくらでもいます」

 

「それに……見た目が似ているだけで、同一存在だと断定するのは、魔女としては少し短絡的では?」

 

 挑発とも取れる言葉。

 

 だが、パチュリーは怒らない。

 

 ただ、小さく息を吐いた。

 

「……まあ、いいわ」

 

 その声は、諦めにも似ていた。

 

「どっちでも」

 

 彼女の足が、床から離れる。

 

 ふわりと、宙に浮かぶ。

 

「侵入者であることには変わりないもの」

 

 その瞬間、空気が一気に張り詰めた。

 

 結界内の魔力が、明確に変質する。

 静かな湖面が、嵐の前兆を見せるように。

 

 私は、触手をわずかに緩め、体勢を整える。

 

 影が、足元で蠢く。

 

 赤いマイクを、しっかりと握り直す。

 

 ――来る。

 

 確信が、背筋を走った。

 

 少女――パチュリー・ノーレッジは、宙に浮かんだまま、私を真正面から見据えていた。

 

 その瞳には、好奇心と警戒が混じり合っている。

 

 あたりは、完全な沈黙に包まれた。

 

 そして私は、戦闘体制に入った。

 

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