零崎零識の人間探究   作:忘旗かんばせ

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第零話『なまえのないこども』

 ◆   ◆

 

 振り返ってみれば、零崎(ぜろざき)双識(そうしき)は決して過去を語る男というわけではなかった。

 

 曰くして、零崎一賊の長兄にして特攻隊長。零崎一賊三天王が一人にして、零崎一賊の二枚看板、その片割れ。『自殺志願(マインドレンデル)』『首狩役人』『二十人目の地獄』。数々の異名で呼ばれ、裏社会——『暴力の世界』においては、ほとんど伝説さながらに語られる彼だけれど、しかしそんな彼だからこそ、己の過去を——半生を、仄めかす以上に強く誰かに語ることは、ついぞなかった。

 

 己が愛した弟——溺愛した弟、零崎人識(ひとしき)に対してだって、それはほとんど変わることなく、だからこそ。

 

「人識——お前には、教えておかなくちゃいけない過去がある」

 

 教えておくべき過去が。

 語っておくべき過去が。

 識っておくべき過去が——ある。

 

 そんな前置きと共に彼が、たとえそれが主軸ではないのだとしても、己の過去に関わる物語を、人識に語り聞かせたことは、きっととてつもなく珍しいことだった。

 

 だからこそ、人識はその話を、朧げにでも覚えている。

 

 覚えていたいと思うほど、面白い話でもないけれど。

 

 しかしそれを語ってみせた兄の表情を、人識はよくよく、覚えている。

 

 だからこれから語るのは、とある一人の男の物語だ。

 

 すべての始まり。

 あるいは原点。

 そんな風にさえ語られるべき、零に至るまでの物語だ。

 

 この物語に、タイトルコールは必要ない。

 

 今は昔を懐かしみ、もう会うこともないその顔を、微かに思い浮かべながら、独りごちるように振り返ろう。

 

 とある少年が零に至り、そしてその先に踏み出す物語を。

 

 とある子供が父と出会い、家族を知る物語を。

 とある青年が語り聞かせ、受け継がれた物語を。

 そんな過去もあったのだと、流れ行く時を、惜しみながらに。

 

 ◆   ◆

 

「——やあ、初めまして、我が息子」

 

 聞こえたのは、呟くような声色だった。

 キィ、キィ。軋むような音色が、それに沿う。

 

 檻の向こうに、一人の男が座っている。音は、男が腰掛ける椅子から聞こえてくるようだった。木製。アンティーク調の作り。四本の足のうち一つが折れていて、そのせいだろう、椅子はひどく軋んでいる。

 

 部屋は。

 檻の内側から見える部屋の中は、悍ましいほどの赤に染まっていた。

 

 赤に。

 真紅に。

 柘榴の実のような、深い深い赤色に——血の色に。

 部屋は、染まり尽くしていた。

 

 夥しい、元が人間であったとはとてもではないが信じられないような、血と肉と臓物との混合が、全てを、赤く、穢し尽くしていて——そんな中。

 

 ただ一つ、黒が。

 喪服のような黒に身を包む。男が。

 椅子に、腰掛けている。

 手には一本の、何の変哲もないナイフを握って。

 穏やかな顔で。

 見つめている。

 

「……誰だ、お前は」

 

 息も絶え絶えに、それを問う。檻の内側から、檻の外側へ。暗黒の内側から、外側の鮮血へ。自己の内側から、外側の他者へ。世界の内側から、外側の世界へ。問い、問い、問い、問う。

 

 部屋に灯りはない。ただ、窓が。窓の向こうから差し込む、陽の光が。部屋に仄かな、褪せた白を差し込む。

 

 男は。

 その白に照らされてなお、黒く。

 深く。

 

 まるでこの現実という世界に空いた孔のように暗く、昏い、闇そのもののようなその男は、微かに。

 微笑むように、口元を緩めて——言う。

 

「可愛らしいね」

 

 手に持ったナイフを弄びながら、戯るように。

 

 その姿は——その有り様は。

 どこにでもいる、普通の人間のように見える。

 どこにでもいる、普通の人間のようにしか、見えない。

 見えないのに、なぜか。

 その姿から、目を離せない。

 目を離すことが、許されない。

 

 唯一の特徴のように。男は目元に、サングラスをかけている。

 これだって、なんの変哲もない。どこにでも売っているような、お洒落目的の普通のグラス。

 色がやや薄い以外は、まるで特徴がなくて——

 

「本当に、可愛らしい」

 

 その、奥。

 透けたグラスの向こう側に見える瞳の色は、真紅。

 

 血の色だ。

 

「……? 何がだ」

 

 わからない。何もかも。この状況も、全て。

 

 檻の中。そこが、世界の全てだった。その柵が、世界を隔てる全てだった。ここにいる限り、世界は己を傷付けない。ここにいる限り、己は世界を傷付けない。

 

 無関係。

 

 無関係で、いられる。

 

 そのはずだ。

 そのはず、なのに。

 

 この男は。

 

 この男の言葉は、越境する。

 

 檻の隙間をすり抜けて。

 

 心に、届く。

 

 届いて、しまう。

 

 それが、酷く煩わしくて、だから——

 

「だから、殺したい」

 

 男は見せつけるように、ナイフを翳す。

 窓から差し込む、光が。

 刃に反射して——煌めく。

 

「そうだろう?」

 

 問いかけられて。

 背筋が、泡立つ。

 

「お、俺は——」

「取り繕う必要はない」

 

 言って、男は立ち上がった。

 軋む椅子から、ゆっくりと。

 椅子は。

 まるで男の体を支えることが、すべての役割であったかのように。

 まるで男の体を支えることだけが、すべての意義であったかのように。

 その役目を、終えて。

 砕け散る——

 

 まるで、それは。

 この世界の全てが、男のために存在しているかのような光景で——

 

「その殺意は、愛おしい」

 

 ばらばらと。

 血まみれの床に散らばる、椅子だった残骸にはもはや、目もくれず。

 男はただ、檻の向こう側を見つめている。

 檻の向こう側と。

 見つめあっている。

 

 内臓を直接撫で上げられるような、無遠慮な侵入。血管の内側にさえ、骨の奥深くにさえまで、視線が入り込むようで、もはや。

 裸に剥かれるよりもなお酷く、辱められたような錯覚。

 

「愛おしいよ、我が息子」

 

 彼は言って。

 薄く。

 花が咲くように。

 微かに。

 けれど確かに、笑う。

 笑いかける。

 

 その向こう側にいる存在が、心底、慈しむに値する存在であると言わんばかりに——

 

「ふ——ざけるな」

 

 それを見て。

 檻の向こうで、疼く、声。

 怒りを、食いしばる歯の隙間から漏らして、熱い吐息を吐き散らし。

 檻に匿われた身でありながら、猛るように。

 殺意を、撒き散らす。

 

「俺は——人殺しだぞ」

 

 かつて。

 己は人を殺した。

 それはくだらない冗談や間抜けな比喩表現なんかではなく、文字通りに。

 殺人という罪を、犯したのだ。

 人を殺して。

 殺して。

 殺して——その果てに。

 

 この檻の中に、閉じ込められて。

 

 そうして世界から、断絶した。

 

 そのはずなのに、何だ。

 一体何なんだ。この状況は——

 

「奇遇だね。私もだ」

 

 アピールするように、手のひらの上で、くるくるとナイフを回す。

 

 男は。

 どこまでも気軽に、己の罪を告白する。

 

「今し方も、三十四……いや、五人か。殺したばかりだ。見ていただろう?」

 

 問われて。

 だからこそ、わからない。

 わからなくて、眩々する。

 この男は、何だ。

 なぜ、自分の目の前に現れた。

 なぜ、人を殺した。

 なぜ人を殺して、なおもまだ——そんな風に。

 酷く穏やかに、笑えるんだ。

 笑っていることが——できるんだ。

 なぜ、なぜ、なぜ。

 どうして、どうして、どうして——

 脳髄を駆け巡るエラー。繰り返される疑問。氾濫する混乱。

 全てがパンクしそうな中で、だからそれから逃げ出すようにして、檻の向こうへと、声を荒げる。

 

「お前は——()()()()()()()()()()!」

 

 がしゃりと。

 括り付けられた鎖が、音を立てて。

 

 男は。

 ただ優しい瞳で、それを見つめ——

 

「私の名は、零崎(ぜろざき)零識(ぜろしき)——殺人鬼だ」

 

 と。

 ただ、そう名乗った。

 

「殺人——鬼……」

 

 まるで。

 生まれて初めてその言葉を聞いたかのように——惚ける。

 

 それは、男が——零崎零識と名乗った男が何者であるかを表すこの上ない言葉であると同時に——どこか。

 

 鏡を。

 眼前に、己の姿を映す鏡を、生まれて初めて、見せられたかのようで——

 

「そして」

 

 零崎零識は。

 まだも名乗りを、止めることなく——続ける。

 

 その声で。

 酷く魅力的な、破滅的な、破壊的な——いっそ殺人的なほど魅惑的な、その声で、言い放つ。

 

 

 

「私はこれから、君の父親になる男でもある」

 

 

 

 その言葉の意味を理解するのに、およそ五秒の時間が必要だった。

 

 ちちおや。

 チチオヤ。

 父親。

 父、親——?

 

「い、意味が——」

「わからないかな?」

 

 問われて、頷きを返す。だって、そうだ。

 初めから、この男はおかしかった。

 自分のことを、息子と呼んで、挙げ句の果てに、父親だって? 馬鹿げてる。そう、だって、そんなもの、自分には、いない。いないから、こんなところにいるんだろう。自分は、関係がない。この世の全てと関係がない。この檻が、隔てているのだ。自分と、それ以外の全てを。自分は、俺は、この世の全てと、一切合切、完全無欠に、究極絶対に、無関係で——

 

「そうかい」

 

 捲し立てるような言葉に。

 男は一つ、頷きを返して。

 

「ならばこの檻は、邪魔だね」

 

 私が君と出会うことを許さないのなら、こんな檻は、邪魔だ。

 

 言って。

 男はその手を、振る。

 ナイフを持った手を、振るう。

 軽く、軽々しく、軽やかに。

 何でもないことであるかのように、気軽にさえ。

 ひうん、と。

 ひうんひうん、と。

 音が、風が吹くような、音色が——同時に。

 臨床するように、無限にも等しく、多重に多数に、響き渡って——

 

 檻が。

 バラバラと、崩れ落ちる。

 

 いいや、檻だけではない。

 その内側に閉じ込められたものを繋ぎ止める、鎖も、枷も、杭も、錘も、全てがすべて、砕け散る。

 

 バラバラと、バラバラと、バラバラと。

 まるですべての役目がたった今終わったのだとでも言いたげに、あっけなく。

 世界を隔てる檻は、壊されて。

 

「あ」

 

 その内側から。

 

「ああ」

 

 それは、現れる。

 

()()()()()()()()()()()()()()————!」

 

 ふざけるな、とも。

 なんてことをしてくれたんだ、とも。

 ()()()()()()()()()()()とすらも言うことができず。

 

 彼は。

 檻の内側に囚われていた、()()()()()()()()()——駆け出す。

 

 檻に閉じ込められた長き日々を感じさせる、長い髪を振り乱して。

 あどけない顔を怒りと絶望に染めて。

 痩せた体と、長い手足を無理やりに動かして。

 在らん限りの殺意を持って。

 持ちうる限りの殺意を抱いて。

 命の限りを殺意に変えて。

 駆け出し、駆け出し、駆け出して——

 

 その手が。

 零崎零識のその首に、触れると同時に——彼は。

 

 自らのそれよりもずっと大きな両手に、抱きしめられる。

 

 ナイフは。

 もう、遠くに捨て去られて。

 誰にも拾われず、血溜まりに沈み。

 そこではただ、二人の人間が——抱き合っていた。

 

「私たちは、人殺しだ」

 

 耳元で。

 声が、囁く。

 

「人を殺さずには、生きていけない」

 

 ゆえに。

 我らはどこまでも孤独であって——だからこそ、せめて。

 

「人間らしく、笑って死ぬために」

 

 私たちは——家族を作ることにした。

 と。

 零崎零識は、少年に、そう語って見せた。

 何も持たない少年に。

 殺意だけを持つ少年に。

 殺意以外の全てを奪われた少年に——彼は、最初の一つを与えた。

 どうか——君に願う。

 

「私と、家族になってくれ」

 

 どこまでも優しい声色で紡がれるその言葉は、酷く甘美な響きを持って、少年の心に深く沈み込み。

 だからこそ、少年は——

 

 

 

「————嫌だ!」

 

 

 

 叫びながら、その足を思い切り、振り上げた。

 

 零識の両目が、限界を超えて見開かれる。

 

 少年の足は。

 

 彼の『金』の場所を、強かに抉り抜いていた。

 

「く——お……ぁ——?」

 

 内股になり、股間を押さえながら、零識はゆっくりと、頽れていく。

 

 脂汗を垂らし、震えながら、歯を食いしばり、うめきを漏らして。

 

 成人男性にあるまじき無様な姿。それを尻目に、少年は叫ぶ。

 

「誰が、人殺しの家族になんてなるものか! 金玉砕けて死ねっ!」

 

 その言葉を残して、少年は走り去る。

 部屋のドアを開けて、平然と。

 その外側に、走り去っていく。

 残されたのは、うずくまる男、ただ一人。

 血まみれの部屋の中、間抜けにも丸まってうめくその姿は、空前絶後に情けなかった。

 

「……傑作だ」

 

 痛みにうめき、苦しむ零識は、しかし小さく、そう呟いた。

 

「絶っ——対に逃してなんかやらないからな。覚悟しろよ、クソガキめ」

 

 言いながら髪をかき上げ、零識は痛みを堪えて立ち上がる。

 ズレてしまったなにかの位置を調節するようにトントンと飛び跳ね、首を回し、息を整え、必死になって平静を取り戻す。

 そして、少年が出ていったドアを追って潜り——

 

 

 

 その先で待ち構えていた少年に、角材で頭を強打され——気を失った。

 





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