◆ ◆
連れてこられたのは飯屋だった。
「よぅ、食いに来たぜ」
そんなことを言いながら、零識は『五月十日』と書かれた暖簾をくぐる。なぜ五月十日なのか、理由はわからない。少なくとも、今日の日付ではない。
この店も当然、『
暖簾をくぐると、店内には想像と大きく異なる光景が広がっていた。壁こそ打ちっぱなしのコンクリートで、灯りも裸電球だけれど、逆に言えば瑕疵があるのはそこくらいのもの。十のテーブルに二十の椅子。その全ては無人だけれど、どの机にも純白のクロスが皺なく敷かれ、曇りひとつなく磨かれた銀色に輝くカトラリーがナプキンと共に整列させられている。壁と照明を見なければ、高級レストランにでもやってきてしまったのかと錯覚するような奇妙な光景だ。
「座れよ」
無人だからと言って無遠慮に、席の一つにどかりと腰掛けて、零識は言った。少年は恐る恐る、その向かい側に腰掛ける。
チリン、と。零識が机の上に置かれていたベルを鳴らせば、店の奥から、店主と思しき人物が現れる。
いや、正確に言えば——少年には、それを果たして本当に
「——ようこそいらっしゃいませ、零識様」
なにせ、そんなふうに。コック帽を被り、コックコートを身に纏って、慇懃に礼をして見せるその男の頭は——山羊だったのだから。
真っ白い毛並み。長い鼻面。顎髭に、横向きの瞳孔。くるりとカールする角が、悪魔のように生えそろうその頭は、何をどう言い繕っても山羊だった。
「よう、シェフ。元気か?」
そんな山羊頭の男に、零識は気さくに挨拶をする。
「ええ、おかげさまで。頭の毛並みもこの通り」
頬を撫でながら、シェフと呼ばれた山羊はからからと笑ってみせた。
「それで、零識様。そちらのお客様は?」
言って、山羊は少年の方を向く。ギョロリとした人外の瞳に見つめられて、少年は思わず肩を揺らす。
「ああ、こっちは新入りでな。名前はまだないんだが、俺が拾ってきた、新しい家族だ」
言えば、山羊頭は表情を変えぬまま「おお……」と感嘆の声を漏らした。
「零識様自らが。それはそれは、めでたいことで」
嬉しそうに言って、山羊頭は少年へと会釈する。
「初めまして、我らが新しき同胞——我が末の弟よ。私はシェフ——『
以後、どうぞお見知り置きを。にこりとも笑わぬ山羊頭で、彼は言った。
「……その頭は」
「はい?」
「その頭は、本物なのか?」
問い掛ければ、一拍、面食らったように間を置いて、山羊頭は笑い出す。
「くっくっく……ええ、ええ、もちろんもちろん。これこそ本物、正真正銘、私の顔ですとも」
「そうだぜ、こいつは地獄からやってきた山羊悪魔なんだ」
「おやおや、悪魔扱いとはこれまたひどい。私の料理は天に昇るがごとき味と評判ですのに」
「食べ過ぎて堕落するとも言われてるぜ」
「女性陣からは、どうもそのような評判のようで」
ははは、と大人たちは笑い合う。
「……偽物なんだな、よくわかったよ」
流石の少年も、担がれたと気付かずにはいられない。頬を赤くしながら少年は言う。
「くっくっく……頭のこれこそ偽物ですが、しかし料理の腕は本物と自負しておりますよ。どうぞ、お好きな料理をお申し付けくださいませ。どんな料理でも、完璧以上に作り上げてご覧にいれましょう」
そんなふうに言って、彼は慇懃に礼をして見せる。零識は「好きなもんを頼め。それがこの世にある料理なら、こいつは作ってくれる」なんて言う。
「ご注文は?」
そんな風に問われても、けれど食べたい料理なんてない。そうだ、自分はこの場所に、拉致されて来ているんだから。なんて思うけれど——
きゅう、と。
少年の意思とは無関係に、お腹が情けない音を鳴らした。
「かはは。シェフ、育ち盛りのガキでも満足できるような、腹に溜まる料理を頼む」
「お任せください」
勝手に注文を済ませて、シェフ——瞑識は厨房へと帰ってゆく。その背を見送ってから、少年は零識に問いかけた。
「……なんでだ?」
「ん、何がだ」
「なんで飯なんだ」
問いかける。尻をしこたましばかれたあと、彼は急に「飯でも食うか」と言って少年をここへ連れてきた。一体なんのつもりだと思うのは当然のことだろう。
「んー、まあ、あれだ」
零識は言って、指を立てる。
「衣食住足りて礼節を知る、ってよく言うだろ」
「……それが?」
「足りてなさそうだから、とりあえず足してやろうと思ってな」
その言葉に、けれど少年は目を細めた。
「そして最後には礼節を思い知らせようって? 馬鹿馬鹿しい。礼節なんか仕込んでなんになる——人殺しに」
吐き捨てるように言って、少年は笑った。やけになったような、乾いた笑みだった。
「人殺しに、ねぇ……」
行儀悪くも机に肘を突いて、零識はその言葉を舌の上に転がす。
「人殺しはなぜ悪い?」
「は?」
「考えてみよう。人殺しはなぜ悪い」
挑発的に問いかけられて、思わず、顔を顰める。
「馬鹿にしてるのか? 屁理屈を捏ねようったって、それに付き合うつもりはない。なぜ、なんて問いかけ自体が、そもそも間違っている。人殺しは、悪いから悪いんだ。卑劣な言い逃れでそれを正当化しようなんて吐き気がするね」
「そうだな。それは俺も同意見だ」
くすりと笑って、零識は話を続ける。
「人殺しは、悪だ。揺るぎようもなく、その概念は悪一色に染まっている。言い訳のしようもなく、言い逃れの余地もなく。人殺しは最低で、決して許されない概念だ」
サングラスの奥。赤い瞳を輝かせながら、零識は語る。
「なぜ人殺しは悪か。法律に違反するからか? 馬鹿馬鹿しいな。法律なんてものは所詮集団社会がその構造を肥大化させるために選択された効率の結果でしかない。個人にとっては従うも逆らうも自由なもので、ルールと呼ぶことすらも烏滸がましい。ただ逆らえばそれに対する制裁が集団から加えられると言うだけの下品な概念だ。そんなものに違反するからと言って、それを『悪』だなんて定義するのは白痴のやることだ」
人殺しが『悪』なのは。
彼は言って、続ける。
「それが、領分を越えているからだ」
「……領分?」
「そう。人一人に与えられた、領分」
殺人は、それを越えている。——逸している。
「人間は、本質的に自由だ。物理法則以外の何者にも、本来、人間は縛られない。だと言うのに、先ほど述べたように法律やモラルなんてものに進んで縛られて、自由を失う……失っていく。けれどこれは、一見してただの喪失に見えて、実は違う」
これは交換なんだ。
「交換……自由と、他の権利との?」
「違う。自由と、不自由の交換だ」
「……それは交換になってないだろ」
「そうかな? そう思うのは、お前が自由を尊いものだと勘違いしているからだ」
零識はシニカルに笑う。
「自由は、持っているだけで嬉しい素敵な宝物じゃあない。自由、平和、平等……戦後教育のせいかな。どうも『自由』って概念を、我々は勘違いしがちだが残りの二つと違って、『自由』はただの法則で、個人の所有物だ、社会が与えられるものでも、奪えるものでもない」
「奪うことはできるだろう」
「力で脅すことはできる。だが奪うことはできない。奪うことができるのは命や尊厳、あるいは正気で、『自由』ではないんだ」
本質的に、人は自由を持っている。
「人間は多くの自由を持っている。そして、それを不自由と交換しながら生きていく。自由を手放した代わりに、不自由を手に入れる……不平等な交換に見えるだろうか? けれど実際は、違うんだ。自由は、ただの可能性。ただの空白。実数を代入する前の変数でしかない。自由を不自由と交換することで、人間は可能性を確定させる」
サングラスの奥に輝く、どこか遠くを見つめるような瞳。
「不自由は、枷だ。自由な人間はどこへでも行けて、なんだってできる。不自由な人間はどこへも行けないし、やれることも決まっている。その代わり……嵌められた枷が己の形を確かにしてくれる。どちらがいいとか悪いとかじゃない。ただ、その二つは交換可能だ、と言うだけ。不自由を捨てれば、また人間は自由になれる。可逆なんだ」
けれど——その中で唯一、不可逆な概念がある。
彼は言う。
「それが、生きるという不自由だ」
その言葉に。
少年は疑問を浮かべる。
「……生きる自由、じゃないのか?」
「違う。人間にある自由は、死ぬ自由だ」
生きることは、不自由。
人間は。
生まれる前は、全ての自由を持っている。
それは奇しくも、少年が檻の中で誰よりも自由であったのと同じように。
それが、けれど始まりの時、失われて。
人間は、『命』という不自由をまず初めに受け取って、生まれ出ずる。
「そうして始まった人生は、一度自由と交換してしまえば、もう二度と戻らない」
生きる不自由は。
生きる不自由だけは、不可逆。
一度、自由と交換してしまえば。
もう二度と、戻らない。
電源は、オフ。
スイッチが動くのは、一度きり。
「そして、また。生きると言う不自由と自由の交換が不可逆であるからこそ、人間は他の多くの自由を不自由と交換しなければならない」
なぜなら、生きなければいけないから。
生きていかなければいけないから。
それさえ可逆であれば……。
その不自由を捨て去ることができれば、もっと簡単なのに。
それが出来ないから、苦しむ。
「人は苦しみながら、それでも生きていく」
その不自由を背負って。
その不自由を背負うことが、何かの救いになるはずだ、と願って。
「そして、だからこそ——殺人は許されない」
自由と不自由の交換を。
人に許された最後の権利を——奪う行為だから。
人一人分の領分を超えた、傲慢。
それが、殺人と言う行為。
どこまでも最低で、許されない。
卑劣な行為。
「だが——俺たちはそれをする」
殺人の悪性を知って。
殺人の不可逆を知って、
殺人の侵害を知って、それでも。
零崎一賊は——人殺しの集まりだ。
「……零崎、一賊」
「そう……『暴力の世界』においては、殺し名の第三位だかなんだかと、余計な装飾がついてはいるが、そんなことはどうでもいいんだ。本質じゃあない」
俺たちは——人殺しの集まりだ。
彼は語る。
「なぜ、俺たちは人を殺すんだろう。請われたからか。誰かのためか。正義のためか。みんなのためか。綺麗にするためか。運命のためか。どれもこれも、馬鹿馬鹿しい。理由のある殺人は、殺人とは呼ばない。ただの排除だ」
それは席の奪い合いでしかない。彼は言う。
「俺たちの殺人に、理由はない。どれほど深く考えても、どれだけ真剣に考えても、どれだけ理屈で考えても、俺たちの殺人に理由は見出せない。理由らしきものを見出すことはできる。だが、それだけだ。本当は、そんなことは理由にはならない。腹が減ったから殺す。空が晴れているから殺す。靴紐が上手く結べたから殺す。全部出鱈目でこじつけだ」
始まりのその日から。
零崎一賊の殺人鬼は——どうしようもなく人を殺す。
「殺したいわけですらなく、俺たちは人を殺す。息を吸うようにですらなく、食事をするようにですらなく、眠るようにですらなく、焦がれるようにですらなく。人を殺すように人を殺し、人を殺すように人を殺す」
俺も——お前も。
そうだろう、と。零崎零識は語りかけた。
「俺たちは『悪』だ。許されず、蔑まれ、外れもので、誰とも親しめない。俺たちは、根本的に人と異なる。人と異なる——鬼なんだ。だから仕方がないとか、そんな言い訳がしたいわけじゃない。ただ純然たる事実として。俺たちは『人間』と言う種族と、種族総体と、常に戦争をしている。終わりのない絶滅戦争を、繰り広げている。繰り広げ続けている」
殺して。
殺して。
殺して殺して。
殺して殺して殺して。
殺して殺して殺して殺して殺して。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。
殺し続けて——生きていく。
一人孤独に、くたばるまで。
生き続ける。
「そんな生き方に……そんな生き方しかできないことに。時々……疲れることもある」
そんな死に方しかできないことに。
時々……。
絶望しそうになる、こともある。
「お前も、そうじゃないか?」
だから。
だからお前は、あの檻に閉じ籠っていたんじゃないか。
問いかける、赤い視線。
少年は、答えない。
「零崎一賊は、いわば、夢のような集まりだ」
「……夢?」
「そう。叶わない夢のような」
ちょうど、この『
「歪でも、不揃いでも……集まって、重なって」
いつか、くたばる時にだって。
一人ではなく。
誰かのために、死ねるように。
「そんな不自由を、夢見たんだ」
優しく。
本当に優しく、見たことがないくらい穏やかに、微笑まれて、
その笑顔に、少年は困惑した。
「零崎一賊は、笑って死ぬための集まりだ」
あの檻の中にいれば。
自分は、誰も殺さずに済んだ。
誰も殺さずに、一人で死ぬことができた。
それは自由だった。
それは自由で、豊かで……。
けれど少しだけ寂しい、未来予想図だった。
今は。
今は?
これからは……。
「いつか、お前が死ぬ時にも、笑って死ねればいいと願う」
お前の死を看取ってくれる、家族がそばにいることを——願う。
彼は静かに、そう言った。
「……意味がわかんねぇよ」
強がって言えば、零識は「かはは」と小さく笑う。
「そうだな。飯の前にする話じゃあなかった」
兎にも角にも。
「お前には、不自由になる自由がある。それは人でなしの殺人鬼であっても」
生きている限り。
本当の自由には、なれない。
「だから、これも一つの練習だ」
自由の檻から、転がり出て。
この世に——生まれ落ちたなら。
不自由に慣れるための練習を、しなくてはならない。
「飯を食って、服を着替えて、夜は眠って、また起きて……そんなことの繰り返しに、まずは慣れろ」
自由と不自由を、再び交換するかどうかは。
不自由の味を知ってからでも、いいはずだ。
彼は言って、笑う。
「——お待たせ致しました」
ちょうどそのタイミングで、テーブルに、山羊頭のシェフが料理を運んでくる。
零識と少年の前に一つずつ、置かれる大皿。
その上には、真っ白に輝く米の平原に、横たわるように広がる、黒々とした海。その中には、暗礁の如くにゴロゴロと肉が沈んでいて——立ち上るのは、芳醇な野菜とスパイスの香り。
そう、つまり、それは——
「カレーか。いいチョイスだ」
零識の言葉に、少年は目を見開く。
これが——カレー。
「はい。ビーフカレー、洋食風です」
ごゆっくり。
言い残して、山羊頭のシェフは再び厨房へと消える。
「まずは食え。全ては、それからだ」
言って、彼は両手を合わせる。
「ほれ、お前も」
「お前もって、何がだよ」
「ご飯の前には『いただきます』だろ」
言われて……少年は見様見真似で手を合わせる。
「「いただきます」」
声が揃って。
思えばそんなことを言うのは、ともすれば人生で初めてのことかもしれなくて。
感慨に浸る少年のことなど知らず、零識はカトラリーからスプーンを選び取り、皿へと差し込む。
少年は、同じようにスプーンを手を取った。
初めて食べた、カレーの味は。
不自由に辛くて、美味かった。
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