零崎零識の人間探究   作:忘旗かんばせ

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第二話『たのしいおみくろう』3

 ◆   ◆

 

「——おやおや、今日はお早いですね、末っ子くん」

 

 揺り椅子の上、手に持つ本のページに目を落としたまま、その青年は柔らかに言った。

 

「お仕事は終わりですか?」

 

 細く長い、日に焼けない白い指でページを捲りながら、青年は穏やかに問いかける。

 

 長い髪が特徴的だった。ゆるくウェーブの掛かるそれは竜の鬣の如くに幽玄で、線の細い、どこか女性的なその顔立ちと相まって、青年にどこか神秘的な印象を与えている。

 

 丸首のスタンドカラーシャツに、鶯色の羽織。灰色の袴。足元は革のブーツ。和洋折衷のそのスタイルは、あたかも明治大正期の書生のようだった。

 

「ええ、仕事は午前中で全て終わらせましたよ——綴識(とじしき)さん」

 

 言えば、綴識と呼ばれた青年は、口元に薄らと微笑を湛えた。

 

「素晴らしい。君は夏休みの宿題をきちんと計画立てて終わらせることができるタイプですね」

 

 よくわからない喩えを持ち出されたものの、そのトーンから褒め言葉と受け取って、少年は「ありがとうございます」と頭を下げた。

 

 そう、頭を、下げた。

 

 絶識に対しては随分な態度だった彼だけれど、しかし青年に対して、少年は態度を改めている。敬し、敬い——礼を尽くしている。

 

 それは何も、綴識が少年よりも一回りは年上であるから、なんて下品な年功序列によるものではなく、単純に。

 

 少年から見て、()()からだった。

 

 敬意を払うに。

 礼を尽くすに。

 敬い慕うに——足るからだった。

 

「それでは、今日も?」

 

 どこか楽し気なその問いかけに、少年は頷く。

 

「ええ、今日も——本を、借りに来ました」

 

 本。

 それこそが、少年が綴識の元にやってきた理由だった。

 

 改めて、周りに目をやる。

 高い天井。さぞや高価なのだろう、緻密な文様が編まれた絨毯。そして——壁面の本棚を埋め尽くしてなおも足りず、絨毯の上にまで溢れかえる膨大な量の本。

 

 そう、この場所は御神籤楼の『図書室』なのだ。

 

「元は、私の私室だったのですがね」

 

 本を集めすぎて、気が付けばこの様です——なんて、溢れた本が詰まれ、随分と狭くなった床の中心、揺り椅子に揺られながら、綴識はくすりと笑う。

 

 御神籤楼には、そこに暮らす各人にそれぞれ私室が与えられている。そう広くはないが、少年にもそれは与えられていた。

 

「じゃあ、今は別の部屋を私室に?」

「出来ていれば良かったんですけどねぇ。『お前に部屋をやったらまた本で埋め尽くすだろ』なんて言われちゃって。全く、人の趣味を栗鼠の習性みたいに、失礼なことですが……否定もできないのでね。この揺り椅子で寝起きしてますよ」

 

 ははは、と彼は笑うけれど、しかし、そうか。てっきり食堂などと同じように、公のスペースだと思っていたこの図書館だけれど、彼のプライベートスペースでもあったのか。

 

「じゃあ……もしかして尋ねてくるのはおじゃまでしたか」

「いえいえ、まさか! 本というのは読まれてこそですからね。それを求めるものを拒む戸は持ちませんとも」

 

 彼は言って、笑う。

 

「この間の『だるまちゃんとてんぐちゃん』はいかがでしたか? もし気に入られたようならぜひ続編も読んでほしいところです。私は特に『だるまちゃんととらのこちゃん』が好きで——」

「それもぜひ借りたいんですが、その前に、あの……」

「ふむ?」

 

 恥ずかしそうに黙り込んだ少年に、綴識は首を傾げて待つ。急かすことはせず、少年のペースに合わせて。

 観念したように、少年は言う。

 

「その……勉強になるような本って、ないですか」

 

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、綴識はパチクリと瞬きをした。

 

「何か、あったんですか?」

 

 問われて、少年は俯く。別段、絶識との会話に影響を受けた、なんてことはない。ただ、そう……つまり、癪なのだ。自分よりも、あのイケすかない兄貴分の方が、学がある、なんて現実が。

 

 少年は、学校に通った経験がない。そう、それは当たり前だ。かつて、少年の世界は閉じていた。あの檻の内側で、世界との断絶を以て。

 

 知識の原材料は、だから檻の隙間から見えるテレビと、あとは時々、彼が『まとも』になることを期待して聞かせられる『普通』の道徳。それくらいのもの。

 漢字だって碌には読めないし、計算だってまともに出来ない。それが今の少年の実態だ。

 

 それを恥ずかしいとは思わないし、後ろめたいとも思わない。ただの事実で、そういうもの。勉強ができる。知識がある。それが有利になる環境で、彼は生きてこなかった。それだけのことで、これからもそう。……そのはずで、けれど。

 

 絶識と自分を見比べた時に。

 なぜか、酷く。

 己が矮小であるように感じた。

 

「ふむ」

 

 何も言わない少年に、綴識は本をパタリと閉じて、椅子から立ち上がった。

 

「では、そうですね。…………これなんか、いかがでしょう」

 

 言って、彼が背後の本棚から取り出したのは——

 

「……漫画?」

 

 青い宇宙に浮かぶ小柄な少年と、帽子を被った女性。タイトルは——銀河鉄道999。

 それは紛う事なく、漫画だった。

 

「はい、漫画です」

 

 そして、これは辞書。言って、もう一冊、分厚い国語辞書を差し出してきた。

 

「わからない言葉なんかがあったら、こっちの辞書を引くと良い。あるいは、私に聞きに来てくれたって構いません」

「いや、あの、それはありがたい事ですけど……漫画ですか?」

「ええ、漫画です」

「……俺は、勉強になる本を借りたくて……」

 

 言えば、綴識はくすりと笑う。

 

「漫画は、勉強になりませんか?」

「だって……娯楽でしょう」

「娯楽から学ぶことは何もない?」

 

 彼は問う。

 

「はっきり言えば。私は勉強という概念が大嫌いです」

 

 笑顔のまま、彼はそんなふうに吐き捨てた。

 

「き、嫌いって……」

「そんなにおかしな事ですか? 勉強なんて、嫌いな人はいっぱいいますよ」

 

 私なんかは特に、筋金入りな方だとは思いますがね。彼は言って、再び揺り椅子に座り直した。

 

「私はまあ、零崎として『目覚める』のが遅かったもので、高校にも途中まで通ってたくらいなんですがね。勉強が嫌いすぎて、テストはいつも白紙で出していました」

「……それでよく高校まで行けましたね」

「そもそも、です」

 

 ツッコミをスルーしつつ、彼は続ける。

 

「勉強という言葉自体がいけない。これは完全に、それをさせる側の言葉です」

 

 ナンセンス、とばかりに首を振る。どうも、語りに熱が入り始めた。

 

「勉強は、勉めを強いる、と書くでしょう。こんな言葉、悪語も悪語です。始めに『勉強』という言葉を作った人間は相当性格が悪い。どこの誰だか知りませんが、私は大嫌いですね」

「しかし、でも……勉強は、大事な事なんじゃないですか」

「それ、誰に言われました?」

「……まあ、一般的に」

 

 素直に言うのは憚られた。誰の影響でこんな話をし出したのか、知られたくなかったのだ。

 

「一般的に、ね。これも大概下品な言葉で嫌いですが、まあ、勉強に比べたら遥かにましです。ああ悍ましい。さぶいぼが立ちますよ」

 

 彼は言って両腕を擦る。

 

「勉強は大事、勉強はしなければならない、勉強は義務。アホらしいですね。勉強なんてなんの価値もない。する意味なんて一つもないですよ」

 

 とんでもない極論を言い出したように思えて、少年は驚きを顔に出す。「それじゃあ……綴識さんは勉強をしたことがないんですか?」言えば、彼は笑う。

 

「ええ、ありません」

 

 ただし——

 

「学習は、しましたよ」

「……同じことでは?」

「大いに違います」

 

 にっこりと笑って、彼は言う。

 

「勉強は、先も言った通り強いられる勉め。対して学習は——娯楽です」

「ご、娯楽?」

「ええ、まさに。学問というのはね、大事だからやるんじゃないんです。楽しいから学ぶものなんですよ」

 

 楽しいから——学ぶ?

 その概念は、少年には理解できなかった。

 

「それなんですよねぇ、勉強、という言葉の濫用の結果は。学問を自然と『苦しんでやるもの』のカテゴリに入れてしまう。これは日本人の悪しき文化ですよ。良薬口に苦しなんて言いますが、しかし苦いものだけが良薬だってわけではないというのに」

 

 そこを容易く逆説させてしまうんだから、全く……。綴識はぶつぶつと文句を呟く。

 

「そもそも、末っ子くん、あなたはなんのために生きていますか?」

「え?」

 

 突然の飛躍に、少年は反応が遅れる。なんのために——生きているか?

 

「あるいはなんのために生まれてきたか、と言っても良い。そう、あなただけでなく、すべての人間は、なんのために生まれてくると思いますか?」

 

 ……そんなこと、わかるはずもない。

 

「わからない? おかしいですね。きみ、さっき言ったじゃないですか。勉強は、大事なことだ、って。それはつまり、生きる目的のために、という意味でしょう」

「いや、それはむしろ、より良く生きていくために大事だ、というような意味で……」

「より良く生きていく、大変結構。それではじゃあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 彼は問い——少年は、答えられない。

 そんな少年に、彼はにっこりと笑う。

 

「私はね。人間は遊ぶために生まれてくるのだと思っています」

「あ……遊ぶために?」

「あるいは、楽しむために」

 

 この世界を。

 この命を。

 限りある人生を、楽しむために。

 人間は生まれてくる。

 

「そしてね。学ぶことは、習うことは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼は言った。

 

「『だるまちゃんとてんぐちゃん』を読んだ時、きみには何も得るものがなかったでしょうか? 学ぶことは何一つありませんでしたか? 習うことは何一つなかったでしょうか? ——きっと、そんなことはなかったはずです。だってきみは、あの絵本を『面白い』と言ったのだから。その記憶は、きみの心の中に確かに残るはずです。だるまちゃんはなぜてんぐちゃんと同じものを欲しがったのか。なぜてんぐちゃんはだるまちゃんの見つけたヤツデの葉っぱに感心したのか。なぜだるまどんは、だるまちゃんのために家中のものを持ってきてくれたのか。学んだのはほんの小さなことでしょう。でも、それでもそれは確かな学びで、あなたの人生をより()()にしてくれる」

「豊かに……」

「そう。学ぶことは、豊かさなのです」

 

 にっこりと笑って、彼は言う。

 

「知識というものは、いたずらに詰め込めばいいというものではない。まず、始まりにあるのは『知りたい』という心の動きなのです。学習はそこから始まる。いわばね、知識は梯子なんですよ。いたずらに登るだけでは意味がない。手を届かせたい木の上の林檎があって初めて、梯子に意味が生まれる……『学び』の始まりはそこにある。何を知るかではなく、()()()()()()()が大事なのです」

 

 そこで——腑に落ちた。

 あの時、絶識が何を言いたかったのか。

 なぜ彼が、知識を靴に喩えたのか——その理由が、分かった。

 

「だから、実を言うと別に、読むのはこの漫画でなくてもいいんですよ。この部屋の中にあるどんな本でも、読んでみればいい。そして、読んだ時に『分からなかったこと』を探すんです。それを調べていくうちに、自然と知識は身につきます」

 

 彼の言ったことと、そして絶識の言ったこと。その二つに、根本的な違いはない。ただ——順番。順番の差があるだけ。

 

 絶識は「いずれどこへ行きたくなってもいいように」と知識を靴に喩え。

 

 綴識は「いずれそこへ行きたくなった時に」と知識を梯子に喩えた。

 

 この二つは一見正反対に思えて、けれど同じ。

 

 つまりは——()()()()()()()()

 

 彼自身を主体として、その彼が、()()()()()()()()()()()()()()と考えて——言ってくれているのだ。

 

 知識は、道具。

 人生を豊かにするための——

 

「……なら、両方だ」

 

 理解して、彼は頷く。

 

「ありがとう、綴識さん。この二つ、借りるよ」

 

 言って、彼は銀河鉄道999の一巻と、そして国語辞書を借りた。

 

「それとは別に……貸して欲しい本がある」

「それは?」

「小学生用の——教材を」

 

 その言葉に……綴識は目を見開く。

 

「……この図書室は、元は私の私室でした。その言葉は、覚えていますね?」

「ああ」

「本を求めるものを拒む戸を、この図書室は持ちません。しかし——本を貸すのには、一つだけ条件があります」

「それは?」

「どれほど合わない本であったとしても、読み始めたからには読み切ること、です」

 

 言って、彼は笑う。

 

「途中で『嫌になった』はなしですよ」

「……頑張るさ」

「よろしい」

 

 言って、彼は本棚の奥からいくつかの教科書を取り出す。

 

「この辺りが、小学生用です。六年分ですから、多いですがね……そして、少し古い」

 

 苦笑して、彼は言う。教科書というものは、どうやら時を経るごとに新しくなっていくものらしい。それはそうだ。最新の知識に合わせてアップデートしなければ『教える』書としては片手落ちだ。

 

「ですから——その分は私が補いましょう」

「え?」

「私が教師役をする、という意味ですよ」

 

 もちろん、余計なお世話でなければですがね、と彼は目を細める。

 

「そりゃもちろん、願ってもないけれど……」

 

 良いのか、と言外に問えば、彼は頷く。

 

「言ったでしょう? 求めるものを拒む戸は持たないと、と」

 

 その日から、少年の御神籤楼での生活に、一つの予定が追加された。

 

 一週間のうち、日曜日を除いた六日間。仕事を終えた午後に——図書室での勉強。

 

 零崎綴識とのマンツーマンレッスンは、だから長く続き。

 

 それは彼が御神籤楼での生活を失うまで、続き続けることとなる。

 





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