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「末っ子くんさー、ここに来て随分経つけど、ぶっちゃけ、溜まらないの?」
四人が雀卓を囲む中で放たれたその問いかけに、飲みかけた酒を思い切り吹き出したのは、なぜか問われた本人ではなくその右隣に座る零崎絶識だった。
「うわ汚ったな! もー、やめてよ、牌が汚れるじゃん!」
言いながら、彼女は汚れた卓をティッシュで拭く。その際さりげなく手元の牌を山の牌と入れ替えたのを少年は見逃さなかったが、あえて黙っていることにした。その程度のイカサマは、いちいち指摘していれば日が暮れる。
絶識はゲホゲホと咳き込みながら、卓を吹き終えた少女を睨みつけた。それはもちろん、イカサマの指摘のためでは無かったが。
「おま、
「え、何が?」
兎織と呼ばれた彼女はふにゃりと首を傾げる。連動して、その桃色の髪の上の兎耳もまた大きく傾いた。
零崎兎織。彼女は一言で言えば、バニーガールだ。
肩出し、ハイレグのボディスーツに、扇情的な網タイツ。ハイヒール。カフス。蝶ネクタイ付きの付け襟に、頭上には巨大な兎耳カチューシャ。いかにも伝統的なバニースーツを、驚くべきことに彼女は普段着として着用している。「似合うでしょ?」とは本人の言で、それは確かに頷けるのだけれど、しかし似合う似合わないの問題ではないと思うのは少年だけのことなのだろうか。
「何がじゃねぇよお前……思春期の少年に変なことを聞いてんじゃねぇ! トラウマになったらどうする!」
気炎を上げる絶識に、けれど兎織は納得がいかないとばかりに頬を膨らませる。
「なんだよう、別にボク、そんな変なこと聞いてないもん! そんなにおかしい? だって末っ子くん、ここに来てから一回もしてないじゃん!」
「してないって、お前、そんな大胆な——」
顔を真っ赤にして慌てる絶識に、兎織はけれど怒り冷めやらぬとばかりに怒声をぶつける。
「大胆って何が? きみだってしょっちゅうしてるだろ——」
「しとらんわ! 俺はずっと機織さんに操を立ててだな——」
「——
その言葉に。
絶識は自ら墓穴を掘ったことに気付いたようで、気まずそうに目を逸らした。
「絶識ちゃん、何と勘違いしちゃったのかねぃ?」
によによと笑うのは、少年から見て左隣の捌織だった。「うるせぇ」と言ってそっぽを向く絶識だけれど、その間に自らの手牌を勝手に交換されていることには気付いていないようだった。
「んで、結局、末っ子くんはどうなの?」
真向かいから、兎織が問いかける。その視線には心配の情が色濃く乗っていた。
「殺人衝動——溜まってない?」
問われて、さて——少年は牌を山から引きながら考える。
人を殺したくなる、というのは異常な衝動だ。少なくともそれを少年は知識として理解している。通常の人間は(何を持って通常とするかの定義はひとまずおいて)、人を殺したくはならない。ないし、
人間が人間を殺すことは、これは決して珍しいことではない。通常の人間は人を殺したくはならないが、それは逆説異常になってしまった人間は、異常な状態に陥ってしまった人を殺したくなるという意味でもある。人という構造物の中には、初めから「人を殺す」というプログラムが組み込まれている。それは通常の状態においてはオフになっているだけであり、何かの拍子にスイッチがオンになれば、人間は人を殺す。人が人を殺すにあたって、重要なのは殺意ではない。重要なのは殺意の原因となった感情——スイッチが押されるに相応しい非日常がこそ肝心なのだ。
たとえば怒り。たとえば妬み。たとえば恨み。たとえば悲しみ。
たとえば飢え、たとえば貧しさ、たとえば喪失、たとえば切迫。
たとえば正義。たとえば信仰。たとえば思想。たとえば戦争。
個人間の人間関係の悪化に起因する内的衝動、外部からの圧力による外的強制、集団ヒステリーによる総的共同。人が人を殺す理由として、多くはそんなものだろうか?
いずれにせよ、それらは理由が確かにある。
人が人を殺すに足る理由であるかは別として、人が人に殺されるに足る理由であるかは別として、それは間違いなく通常の人生においては生じない極限の非日常の果てに選択される殺人なのである。
非日常において、人間は『人を殺す』スイッチが入るようにできている。
逆に言えば、日常を当たり前のように過ごす上で、人間に『人を殺す』スイッチが入ることはあり得ない。
ましてや。
その『人を殺す』スイッチが、入りっぱなしになることなんて——
あり得ては、ならない。
そのはずだ。
そのはず、なのに——
「ま、俺たちは殺人鬼だからな」
そんな風に、絶識は言う。
殺人鬼。
人を殺す、鬼。
人殺しの、人でなし。
こいつらは。
あるいはこいつらの
その内側に、殺人衝動を抱えている。
人を殺したい——あるいは、人を殺したい、という思いさえをも置き去りにして、人を殺す。
呼吸と同じようにですらもなく、人を殺すように人を殺す。
必然に、当然に、純然に、蓋然に、完全に、完璧に。
人を殺して、人を殺して、人を殺して、人を殺して、人を殺して、人を殺す。
怒りもなく妬みもなく恨みもなく悲しみもなく。
飢えもなく貧しさもなく喪失もなく切迫もなく。
正義もなく信仰もなく思想もなく戦争もなく。
ただただただただ人を殺す。
それこそが殺人鬼。
それこそが零崎。
それこそが——己。
かつて。
少年は人殺しだった。
では、今は?
檻に囚われ、幾星霜。
檻を出されて、一ヶ月。
少年は人を殺していない。
未だ、誰も。
殺してなくて、殺してなくて、殺していない。
それに違和感は感じない。
それに不和感は感じない。
それに不快感は感じない。
ただ、そう。
なにか。
なにかに追われているような、焦燥は、あって。
それはたとえば——
「——殺意とか」
気が付けば。
バニーガールの少女が、卓に身を乗り出して少年の瞳を覗き込んでいる。
「発散、しちゃう?」
頬に貼られたハートのタトゥーシールが、嫌に艶かしく見えた。
見つめられる視線。
誘われて、少年は——
「反則だ」
その下でそっと行われていた牌のすり替えを、静止した。
「ありゃ、バレちゃった」
てへへ、と彼女は舌を出す。
席に戻って、彼女は手牌を整理する。さりげなく多牌であることはきっと指摘しないほうがいいのだろうと思いつつ、少年は捨て牌を切った。手番が巡り、左隣の捌織が山札から牌を取る。
「でも実際、今は大丈夫だから、で放置しとくのもあんまりよくないよねぃ。辛抱たまらん、ってなってからじゃ遅いんだしさ」
肩をすくめながら牌を切る。……手の影に隠れて、二つ。そして代わりに捨て牌を拾う。手慣れた川拾いだった。
「そーだよ、ボクなんか目覚めたての時大変だったんだから。殺しても殺しても止まらなくて、零識さんに止めてもらうまで三日三晩殺し回ってたよ」
多牌の調整のためだろう。捨て牌を捨てながらもう片方の手で二枚、牌を隣の絶識の川に押し付けつつ、兎織は言う。考え事をしているのだろうか、上の空の絶識は気付いていない。
「暴走しちゃうくらいなら、細かく発散しといたほうが絶対いいよ」
「……まあ、そりゃあそうだよなぁ」
絶識は言いながら、自分の手牌を見つめる。人差し指で、子供のようにトントンと顎を叩きながら。
「………………外、行ってみるか?」
彼は言って、少年の方を見る。
「外?」
「そうだよ。お前この一ヶ月、御神籤楼にこもりっきりだろ」
そう、気が付けばすでに、一ヶ月。
少年はこの御神籤楼で生活して——そして御神籤楼以外では生活しなかった。
一日たりとも。
一秒たりとも。
少年は御神籤楼の外へ出ることはなく。
その内側でだけ、暮らしていた。
「いい機会なんじゃないかねぃ、そろそろさ」
捌織は言った。
「いつまでも箱入り息子じゃ可哀想だしねぃ。体付きもだいぶマシになったし、外に出してぶっ倒れるってこともないだろう」
彼女は冗談めかして笑う。流石の少年といえど、檻に出てすぐの頃だってそこまで虚弱ではなかったが。
「外……か」
少年は言う。思えば久しく、陽の光にすら触れていない。外の風が恋しくないといえば、嘘だった。
「……行ってみたい、かも」
人を殺すとか殺さないとか、そんな話は別として。
控えめに言えば、絶識は「よし」と頷いた。
「それなら、俺が引率役をやってやるよ」
「いいのか?」
「構わんさ。外での金も心配すんな。俺が奢ってやる」
「ひゅう、男前だねぃ」
「ああ、男前にもなろうってもんさ。なんせ——お前らから巻き上げるんだからな」
ニヤリ、と笑って彼は牌を切った。
「リーチだ」
ばん、と点棒が卓に叩きつけられ——
「ロン」
「ロン」
「ロン」
それに対し三人が、
当たり前だ。正々堂々麻雀を楽しんでいた絶識と違って——他三人は延々とイカサマを繰り返していたのだから。
そう、少年が多くのイカサマを指摘しなかったのは、当然、自分も同じようにやっていたからだ。
「………………」
点棒がむしり取られ、絶識は素寒貧になる。卓の中央に重ねられていた掛け金は、三人の山分けとなった。
一人負けの絶識は、すがるように少年を見つめる。
「……さっきの話、なかったことにしていいか?」
その視線に、だから少年は笑って言った。
「ダメだ」
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