零崎零識の人間探究   作:忘旗かんばせ

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第三話『はじめてのおでかけ』3

 ◆   ◆

 

 裏社会についての『お勉強』は、残念ながらその時には結局、殺し名の序列三位までを解説されて終わってしまった。少年の知識のインプットは半端になって、最大勢力の匂宮雑技団、根暗な闇口衆、嫌われ者の零崎一賊、くらいの印象で殺し名を記憶してしまった。

 

 実のところ、たとえば最大勢力は匂宮雑技団であっても、しかし最も忌み嫌われているのは零崎一賊であるように、あるいはなんでもありの奇襲戦において最も恐るるべきは闇口衆であるように、他の殺し名にしたって——序列四位以下の殺し名にしたって、それぞれ別の秀でた特色があり、それぞれ別の恐るるに足る特質がある。

 

 たとえば『正義のために殺す』殺し名序列第四位『薄野(すすきの)武隊(ぶたい)』であれば、彼らが正義の名の元に力を振るう際の絶対的な容赦のなさを知るべきであったし、たとえば『みんなのために殺す』殺し名序列第五位『墓森(はかもり)司令塔(しれいとう)』であれば、彼らが人間の感じる苦痛という苦痛を知り尽くした拷問のプロフェッショナルであることを知るべきであった。

 

 あるいは『神のために殺す』殺し名序列第六位『荊坂(いばらざか)教会(きょうかい)』であれば、彼らにとって戦いとはそれすなわち聖戦であり神の名の下に行われるそれに終わりがないことを知るべきであったし、あるいは『綺麗にするために殺す』殺し名序列第七位『天吹(てんぶき)正規庁(せいきちょう)』であれば、彼らにとって敵対勢力の討滅は戦闘ではなく単なる清掃であることを知るべきであった。

 

 流石に『生きているべきでないから殺す』殺し名序列第八位『石凪(いしなぎ)調査室(ちょうさしつ)』が、その構成員が人ではなく死神であり、戦うことそのものが間違いであることほどではないかもしれないけれど、それでもやはり、知っておくべきことは知っておくべきことであり、知り逃したことは知り逃したことだった。

 

 結果として、少年には穴あきの知識だけが残される。

 

 少年は『薄野武隊』の正義を知らず、少年は『墓森司令塔』の残虐を知らず、少年は『荊坂教会』の信仰を知らず、少年は『天吹正規庁』の潔癖を知らず、少年は『石凪調査室』の特権を知らない。

 

 今はまだ、それがなんらかの影響を生むことはないだろう。

 しかし欠落は、やがて大いなる陥穽となる。

 見えぬ闇が、少年の足元を静かに蝕み——

 

 やがて。

 彼はそれに呑まれる時が来る。

 それは無論。今ではないのだけれど——

 

 ◆   ◆

 

 き、と短いブレーキ音を鳴らして車が止まったのは、湾岸の倉庫街だった。

 

「ついたぜ」

「どこに?」

 

 少年が問えば、轢識はキーを抜きながら「仕事場」と答えた。どうみても路上駐車だが……しかしこの場所はすでに路とも言い難いから、良い、と言うことだろうか? 促されて、少年は車から降りる。

 

「家族の二人が、こっちで待機してる。合流しよう」

 

 轢識が言えば、絶識が「二人って?」と聞いた。轢識は答えなかった。

 

 潮風の匂いがする倉庫と倉庫の隙間を通り抜けて、似たような景色をいくつも通り過ぎると、やがて視界が開け、海が見えた。きゃあきゃあと、カモメが遠く鳴いている。初めて聴く声なのに、なぜか懐かしいような気がした。

 

「こっちだぜ」

 

 轢識は海を見つめる少年に手招きをする。導かれる先は、最も海に近い列の倉庫の一つだった。

 

 特になんの変哲もない、シャッターが閉まったままの倉庫。閉じ切ったシャッターの横の小さな入り口を塞ぐように、誰かが立っている。逆光で、上手く見えないけれど、その人物はちょうど煙草を吸おうとしているところだった。口に加えた細い紙巻きに、じゃきん、と音を立ててジッポーで火をつける。一息。煙を吐き出して、()()は歩いてくる三人に視線を向けた。

 

「あれ……轢識くん、今日来ないんじゃなかったっけ?」

 

 近寄れば、そこにいたのはまるで童話のお姫様みたいな少女だった。

 

 その美貌に、思わず目を奪われる。

 

 背が高いのは、ハイヒールを履いているからだろうか? 踵を込みで、きっと百八十センチはある。けれど踵以上に少女の存在感を大きくしているのは、そのフリルだらけのドレスだろう。

 

 いわゆるロリィタファッション……と言うのだろうか? ホイップクリームを擬人化したら、きっとこんな姿になるだろう。白く、甘く、ふわふわで、愛らしい。ドレスの各所にこれでもかと付けられたリボンとフリル。けれどやはりそれさえも全ては添え物で、だからたとえばケーキの主役がクリームではなくイチゴであるみたいに、その少女の美しさもまた服ではなく本人にこそあった。

 

 見つめれば思わず胸が高鳴る、可愛らしさの極点。大きな瞳に、高く形のいい鼻。小さな口に小さな顎。レースの白を裂いて垂れ下がるツインテールがこの上なく似合う、少女の中の少女と呼ぶ他ないその麗しの顔立ち。ルイス・キャロルが彼女に出会ったなら、きっとそのために一冊の本が書かれただろう。ルノワールが彼女をみたならば、きっと『可愛いイレーヌ』は代表作から格下げだった。それを確信できるほどに、彼女は完成された少女だった。

 

 虜になる、とはきっとこういうことを言う。少年はその少女に深く見惚れた。——そう、いつの間にか彼女が少年の目の前に迫っていることにも気付けぬほどに。

 

「始めて見るね」

 

 雪が降るみたいな澄んだ声で彼女は言って、その片手で少年の頬に当てた。少し冷えた手が、火照る頬に気持ちいい。指先の挟んだままの煙草から漂う煙だけが、ひどくアンバランスに、枯れたメントールの香りを漂わせていた。

 

「きみ、だれ?」

 

 ゆっくりと、首を傾げられる。心臓の高鳴る音色がした。

 

「お、俺は——」

 

 答えようとして、けれど答えるべき名前がないことが歯痒かった。己のことを、一体なんと伝えればいいだろう? 少年の頭は酷くのぼせて——

 

「新入りに変なちょっかいかけてんじゃねぇよ」

 

 ぐい、と。絶識が少年を引っ張り、少女から無理やり引き剥がした。

 

「何? 変なちょっかいって。ただの挨拶だもん」

 

 少女は機嫌を損ねたように言うが、絶識は「だもん、じゃねぇよ。気色の悪い」なんて悪態を吐く。

 

「あー、酷いんだ! 家族にそんなこと言って! 零識さんに言いつけるよ」

「おーおー、好きにしろよ」

 

 へ、と絶識は鼻で笑う。酷い態度だった。

 

「可愛くない」

 

 べ、と舌を出して、少女は絶識を威嚇した。彼はどこ吹く風で、そちらを見てすらいなかった。少年は眉を顰める。

 

「いくらなんでも、レディにその態度はないんじゃないか」

「あいつのどこがレディだよ」

「おい」

「言っとくけど、あいつ男だぞ」

 

 男。

 

 男?

 

 男——!?

 

 言われた言葉が理解できず、少年は少女の方を見る。

 

 彼女は——あるいは()は、眉を顰めてなおも可愛らしい怒り顔で、「男がレディで何か悪いわけ?」と言った。

 

「いや、う、えぇ?」

 

 少年は思わず目を丸くする。男? は? 嘘だろ? どこをどうみたって、可愛い女の子にしか見えない。見えない、のに?

 

 目を白黒させる少年に、轢識は苦笑する。

 

「そう言うわけで、こいつは零崎乙識(おとしき)。見た目こそどこぞのお姫様ってなもんだが、きっちり男だ」

 

 紹介を受けて、彼女ならぬ彼、乙識は煙草を咥えなおし、片手でピースサインを作る。少年の脳内で、何かが壊れるような音がした。

 

「こう見えて相当な武闘派で、プレイヤーとしちゃ、俺より強い。『枢要惑星(アルキガッルス)』なんて異名を取るほどだ。その実力もあって、御神籤楼で暮らしてる中じゃ、俺と並んで『外』での活動が多い」

 

 轢識の紹介に続いて、乙識が「よろしくね」と可愛らしくウィンクを添える。少年はもう、何も考えたくはなかった。

 

「んでんで? なんで来たの? 轢識さん、今日はおやすみだから乙識ちゃんたちに任せてくれたんでしょ?」

「そのつもりだったんだがな。ま、社会科見学ってとこだ」

 

 そう言って、彼は少年を指差す。「ふぅん、新人研修ってわけだ」乙識は頷く。

 

「もう一人は?」

「ござちゃんは中。煙草吸っちゃダメだってうるさいんだ」

 

 だから外にいたの。言って、乙識はドアを開けた。

 

「乙識ちゃんが煙草吸ってたって秘密にしてね」

「へいへい」

 

 適当に返事をしながら、轢識は少年たちを引き連れて倉庫の中に入る。乱雑に置かれた段ボールの山。それに囲まれて——

 

 一人の騎士が、槍を磨いていた。

 

 騎士。

 騎士である。

 それは何をどう見ても騎士としか言いようがなかった。

 

 馬にこそ乗ってはいるまいが、しかしその人物は全身を銀色の金属甲冑にて包み、そしてなぜかパイプ椅子に座っていた。鎧の重さ故にだろう。椅子はぎしぎしと哀れに軋んでいた。鎧の人物は椅子の悲鳴を気にも止めずご機嫌そうに体を揺らしながら、手に持つ巨大な馬上槍を布で丁寧に磨いている。

 

「ござ?」

 

 侵入者に気付いたようで、騎士はヘルムの覗き窓越しに少年たちの方を見る。首元の鎧が擦れてだろう。()()()()と嫌な音がした。騎士は絶体絶命の叫びを上げるパイプ椅子から立ち上がり、槍を持ったままずんずかとこちらへ近づいてくる。迫力のあるその光景に、少年は思わず身を引きかけて——しかし。

 

「おやおや、これは轢識どの! それに絶識どのまで! どうしたでござるか? 今日は非番にてござろうに!」

 

 がしゃりがしゃりと、重厚な金属音を響かせて近づいてきたその甲冑騎士は——間近で見ると、思ったより小さかった。

 

(……子供?)

 

 少年は思う。

 身長は百五十センチもないのではないのだろうか? 鎧のおかげで威圧感はあるけれど、しかしそれにしたって、すでに身長百七十センチを超えている少年からしたら見下ろすサイズでしかない。

 

「おや、そちらの御仁は?」

 

 がしゃこんっ、と音を立てて、視界の確保のためだろう、その騎士は兜のバイザーを跳ね上げる。中から覗くのは、予想通りというべきか、少年よりもずっと若い——いや幼いだろうあどけない顔だった。天使のようにふわふわとカールした茶色の髪に、子供特有の大きな瞳。血色のいいほっぺた。いかにも将来が期待できる美少年……そんな顔立ちである。

 

「ああ、こいつは零識さんが見つけてきた新しい家族だ。名前はまだないが」

「ほほう! 零識どのが直々に! 期待の新人、というやつでござるなぁ!」

 

 騎士は言って、少年へと向き直る。槍を左手に持ち替えて、彼は右手を差し出した。

 

「拙者、零崎香識(こうしき)と申すもの! 新しい弟よ、どうぞよろしく!」

「あ、ああ……」

 

 声量に気圧されながらも、少年はその手を握り返す。握手……は、いいのだが。

 

「弟……って、どっちかっていうと君の方じゃないか?」

 

 少年は問う。どう見ても、目の前の彼は少年よりも歳下だ。別に年功序列を主張するつもりもないが、しかしどうにも歳下に『弟』扱いされるのも座りが悪い。思って、少年は言ったのだけれど。

 

「あー……」

 

 香識と名乗った騎士の少年は気まずそうに言う。

 

「時に、御仁。拙者のこと、何歳くらいに見えてるでござる?」

「……まあ、いいとこ十歳ってとこじゃないか」

「おお、若く見られたでござるなぁ。でも、残念! 正解は三十二歳でござる」

 

 言われて、少年は思わず目を見開く。

 

「三十二……三十二!?」

「やっぱりそういう反応でござるよね〜」

 

 たはは、と香識は後ろ頭に手を当てて笑う。

 

「え、嘘だろ!?」

「嘘じゃないんでござるな〜、これが。実は拙者、こう見えて、この場にいる誰よりも年寄りなんでござるよ」

 

 少年は思わず背後を振り向くが、轢識も絶識も、「気持ちはわかる」とばかりに頷くだけだった。……本当に三十二歳なのか。少年は改めて香識へと向き直る。

 

「その……すいません」

「ははは、別に謝らなくても良いでござるよ! 若く見られるのは良いことでござるしな!」

 

 ま、十歳は流石に若すぎでござるが、と香識は笑う。

 

「歳は三十路を超えていても、気持ちはまだまだ若者でござる!」

「そういうこと言い始めたら老害の始まりらしいぜ」

「ちょちょ、絶識どの!」

 

 そりゃないでござるよ〜、と眉を下げる香識。三十二歳とは思えない顔立ちだが……こうしてみると、確かに表情はそれらしいのかもしれない。なんというか、今日はよく外見詐欺に会う日だった。

 

「ま、そういうわけでな。香識さんは俺ら『外組』の中じゃ一番の古株だ。仕事のことも、色々と教えてくれるだろうぜ」

 

 轢識が言えば、香識はなるほどとばかりに頷く。

 

「ふむ、察するに今日は新人くんの職場体験というところでござるかな? そういうわけなら、歓迎するでござるよ」

 

 がしゃり、と音を立てて、彼は槍を構える。……やはり、『仕事』とはそういうことなのだろうか?

 身構える少年に、香識は目を輝かせて槍を振るい——

 

「あちらの山が、御神籤楼で作られている商品の在庫でござるな」

 

 立ち並ぶダンボールの山を指した。

 ……指示棒代わりかよ、槍は。

 

「で、こっち側の山が御神籤楼に送る用の物資。あっち側が仕入れたはいいもののダブついてる電気関係のブツで……あっちの山は水回り……配管系でござるな。向こうは本。これは売る用の在庫でござる。あっちは——あー……あれはなんちゅーか、子供には早いやつでござるな、うん。危ない粉でござるから、万が一にも舐めたりしてはならぬでござるよ」

 

 一見して適当に並べられているようにしか見えなかったダンボール類も、解説されれば一応規則正しくならんではいるらしい。部外者からはまるでわからないが。

 

「……本当にただの倉庫なん……ですね」

 

 少年は言った。敬語に直したのは、教わる立場だからだ。この辺りのことは、綴識と触れ合ううちに自然と身に付いた礼儀だった。

 

「そうでござるな。面白みのあるようなものは特にないと思うでござる。()()の現場は隣でござるし」

 

 ここは本当にただの倉庫でござるよ、と彼は言うが、注目したのはそこではなかった。

 

「取引?」

「そうでござる。この在庫の山も無から生まれるわけでなし、溜め込んでいて嬉しいものでもないでござる。溜まっただけ売れるなりなんなりしないと困るでござるよ」

 

 だからこその、取引でござる。目元をキリリと引き締めて、彼は言った。

 

「御神籤楼で作られている商品は、結構高値で取引されるでござる」

「へぇ……質がいいんですか?」

「いや、そういうわけでは……というとちょっと失礼でござるが、まあ、質以上の値段で売れてはいるでござるな」

「それはまた……どうして?」

「そりゃもちろん、付加価値ってやつでござる」

 

 香識はニヤリと笑う。

 

「どこの世界にも変態ってのはいるもんでござってねー。『殺人鬼が作った』ってだけで、普通の織物だの陶器だのがアホみたいな値段で売れるんでござるよ」

 

 ふぅん、と少年は頷く。あまり理解できない概念だった。

 

「あとはまあ、危ない粉もよく売れるでござるな。アレは酔識(すいしき)どのの肝煎りでござるからなぁ……」

 

 少し遠い目で言う香識の口から出た名は、しかし少年にとっては聞かない名だった。それも『外組』の人員なのだろうか。

 

「ああ、いや、酔識どのはむしろ逆でござるよ。あの御仁は御神籤楼の奥の奥に籠っているでござるからな。ま、会うことはない方が良いでござる」

「……癖の強い人なんですか?」

「それもあるでござるが、酔識殿は医者でござるからな」

 

 会う機会は少ないに越したことがないでござるよ、と香識は冗談めかして笑った。

 

「んで、隣の倉庫でこれらの売買を行なっているわけでござるな」

 

 小さな窓越しに、彼は隣の倉庫を槍で指す。

 

「ま、簡単にいうと向こうの倉庫が「お店」なわけでござるよ。海の近くでござるのもあって、国内のみならず外つ国からもお客さんが来るでござる。なので、『取引』の担当になりたかったら外国語習得は必須でござるよ。少なくとも英語と中国語は話せないと文字通り話にならんでござるな。最近は南米のお客さんも多いでござるから、スペイン語もわかったほうがいいでござる」

「てことは、香識さんも一通り喋れるんですか?」

 

 少年が問えば、香識は「ふふ」と自慢げに笑う。

 

「拙者、日本語以外はまるでわからぬでござる!」

「……それでどうやって仕事してるんですか」

「そこら辺は乙識どのにお任せでござる。拙者は護衛に徹しているでござる」

 

 あとは在庫管理とか裏方作業でござる、なんて彼は言う。なかなか世知辛い話だった。

 

「そういうわけで、そろそろ今日の取引が始まるでござる。せっかくでござるし、みんなで隣に行くでござるよ」

「見張りとか、残さなくていいんですか?」

「泥棒されたら追っかけて殺すだけでござるからな」

 

 物騒なことを言いながら、彼は椅子の近くに立てかけられていた巨大なタワーシールドを軽々と拾い上げ、面々を外へと案内した。

 

「あ、ござちゃん」

 

 外の乙識は、もう煙草を持ってはいなかった。つまり絵本のお姫様の完成系で、グラスに入ったパフェみたいに隙がなかった。背景が寂れた海じゃなければ、もしかしたらもっと完璧だったのかもしれないけれど。

 

「そろそろ、隣で待機しようという話になったでござる」

「おっけ」

 

 カモメが鳴いて、五人は一つ隣の倉庫へと移動した。作りは同じで、入り口も同じ。鍵まで同じで、セキュリティという概念がここには存在していないみたいだった。

 

 ドアを開けると、中には何もない。外から見た時は元いた倉庫と同じサイズだったのに、中にものがないというだけでこんなにも広々として見える。不思議なものだった。

 

「……広いな」

 

 少年が言えば、「万が一の時のためにござる」と香識が答えた。万が一、とは? 問うけれど、しかし彼は小さく笑うだけだった。

 

「そろそろ、シャッター開けるよ」

 

 言って、乙識が入り口近くのボタンを押した。油を差していないのだろうか? 鼓膜を引き裂こうとするような不快な音が響きながら、立て付け悪くガタガタとシャッターが開く。

 

「今日のお相手は?」

 

 轢識が問えば、香識が「中国からの客人でござるな」と答えた。

 

「船でくんの?」

「いや、陸路でござる」

 

 が——と。

 香識は何もないシャッターの向こうを見つめる。がしゃり、とバイザーを下ろしながら。

 

「……どうも、空気がござござしてきたでござるね」

 

 ござござ? 少年は首を傾げるけれど——次の瞬間。

 

 ブゥン、と大きなエンジン音を立てながら、白塗りの車がやってくる。大型のリムジン。長大な車体が海沿いの道を通り、こちらへと向かってくる。

 

 取引相手か、と思うも、けれど。

 

 そのリムジンはアクセルを緩めない。

 

「ちょ——やばっ!」

 

 乙識が叫び、慌てて身を引く。

 

 フルアクセルのまま倉庫へと突っ込むリムジン。そのフロントが入り口近くに立っていた乙識のドレスの裾を掠める。白い車体はスピードを乗せたまま倉庫の奥へと入り込み、少年を轢き潰す寸前で——急停止。

 

 けたたましいブレーキ音と、タイヤから立つ白煙。鼻先、掠めるほどの距離に留まったバンパー。少年の頬を冷や汗が伝う。

 

「……ご挨拶だな、どうも」

 

 ドアが閉ざされたままのリムジンへ向けて、壁際にいた轢識が近づいていく。濃いスモークで中が見えない窓ガラスを二度、ノックして、声をかける。

 

「あー……你好(ニーハオ)?」

 

 が。返るのは——

 

「うぉっ、っとぉ!?」

 

 勢いよく、弾くように開けられたドアに押され、轢識がバランスを崩す。転けたところへ——差し込まれるのは刃。車内から伸びた、なんの飾りも、鍔すらもない愚直な鉄剣。その切先が轢識を狙い——止まる。

 

「やらせるかっての」

 

 見れば。突き出された剣の根本。それを握る手首を、何かが絡め取っていた。獲物を締める蛇のようにキツく、深く絡みつくそれは——鞭。いわゆるブルウィップと呼ばれる一本鞭であり——

 

「助かったぜ、乙識」

 

 それを手繰るのは、零崎乙識。入り口付近に立ったまま、伸ばした鞭で轢識への攻撃を防いだ彼は、そのまま鞭を引っ張って下手人を引っ張り出そうとする。

 が。

 

「——ちょっ、うぇっ!?」

 

 それよりも早く、リムジンが再びアクセルを蒸す。車との引っ張り合いになり、たまらず乙識は鞭を解き、そして。

 

「少年! 拙者の後ろへ」

 

 がん、と音を立てて、まるで地面に喰らいつくように下されたタワーシールド。少年を庇うように、香識は前に立つ。

 

「何が起こってるんだ!?」

「カチコミにござる——拙者好みのなぁ!」

 

 雄叫びに呼応するように——ヴヴン。リムジンがアクセルを蒸し、タイヤがその場で空転。そして次の瞬間——フルアクセル。地面を噛んだタイヤが凄まじい運動エネルギーを車に伝え、車体は前進。その前へ立ち塞がる香識を轢き潰さんと進み——

 

 ズドォ————ン、と。

 

 爆発的な破壊音が響く。

 それは断じて、車が人体を轢き潰した音色にはあらず。

 

 むしろ、その逆。

 

 少年はその光景に目を見開く。見開かずにはいられない。

 自動車対甲冑騎士。そんな異色にも程があるマッチメイクを、けれど制していたのは後者であった。

 

 香識の持つ槍が、リムジンのフロントを深々と貫いて、そしてその盾がひしゃげた車体を完璧に受け止めていた。鋼のブーツが地面に食い込み、コンクリートがひび割れはしていたものの、しかし僅かの後退すらもなく。香識は車一台の突撃を、完全に防ぎ切ってみせた。

 

「ござござ……拙者を轢き潰そうというのなら戦車でも持ってきてもらわねば釣り合わぬでござるよ」

 

 ぎしり、と。鎧越しにさえ聞こえるほど強く歯を食いしばり、香識は笑う。

 

 人間が車を受け止める。そんな理外の奇跡を目撃して、けれどその衝撃も冷めやらぬうちに、事態はさらに動く。

 

 車が使い物にならなくなったと見てだろう。リムジンの扉が一斉に開き——その内側から、どこにそれほど詰めていたのか、二十余人の男女が飛び出してくる。

 

「……揃いも揃って妙なカッコだな。仮面舞踏会かぁ?」

 

 呟いたのは鞘に納まったままの刀を腰溜めに構える絶識だった。

 

 車から現れた面々の姿は、異様の一言に尽きる。揃えたようなスーツ姿。そこまではいいが——問題は、首から上。全員が全員、頭上に紳士的なハットを被り、そして、顔面。

 

 その顔は、一切の装飾がない無貌の面に覆われていた。

 

 覗き穴だけが二つ、不気味に開く純白の面。それを被った集団は、皆一様に飾りのない鉄剣を構える。

 

「……どこのプレイヤーだ、お前ら」

 

 立ち上がった轢識が言うけれど、反応はない。不気味なほど静かに、集団は轢識たちを見つめている。

 

「答える気はない、と。いいね、悪くない。それならそれで、こっちもやりやすいってもんだ」

 

 なら——言いながら、彼は腰から引き抜いた工具をくるくると手の内で回す。

 それを呼び水として——残る三人も、各々の武器を構え。

 

 四者四様の声が、あつらえたように揃う。

 

「アクセル全開で」

「真っ直ぐに!」

「可愛く」

「絶対の」

 

 ——零崎を、始めよう。

 

 笑って啖呵を切る、四人の姿を。

 少年は後ろから、ただ、見つめていた。

 





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