翌日。カケルは宣言通りにアビドスに向かっていた。普段のように空を飛んでいくのではなく、わざわざ電車を使って。
『何故、電車を使うのですか?』
「俺が最初にアビドスに行った時は電車使ったんだ……って知ってるか。まあだから、何となく思い出をなぞろうかなってさ」
ガタンゴトンと心地よく揺れる電車は、彼ら以外には誰も乗っていない。そのうるさくも静かな空間で、カケルは過去の自分に思いを馳せる。
「……悪いな、こんな自己満足に付き合わせて」
『構いません。それを言うならそもそもアビドスに向かうということ自体、あなたのわがままなんですから』
「それもそうか」
日のあたり方のせいか、いつもより顔に影が差しているように見えるカケル。元気がない、というよりはこれが本来の彼なのかもしれないと、ケイは再認識した。
ふとカケルが顔を上げれば、アビドス都市部の街並みが見えてくる。所々砂に埋もれている、誰も使わないビルが立ち並ぶ都市。
「俺にとっては、人がいないアビドスこそアビドスって感じなんだよな。そこのところはユメ先輩やホシノと考えが違っててさ……二人にとっては人のいるアビドスこそ理想だったのかもしれないけど、俺はあの二人さえいればよかったんだ」
『その割に彼女たちに同調していたようですが?』
「あくまで俺の意見だからね。あの二人が望むなら、そんなものすぐに投げ捨てられたんだ」
『呆れたものと言いますか……理解はできますけど、納得はできませんね』
電車が速度を下げていく。窓の景色が駅で上書きされ、誰もいないホームが映し出された。電車が止まってドアが開いたので、その景色に向かって飛び込む。
改札から都市に出てみれば、放置された砂の山や、老朽化して崩れ落ちた建物が出迎えてくれた。大して気にする様子も見せず、ひび割れた道路を歩いていく。
『……見て知ってはいましたが、酷いものですね。こんな場所を好む人がいるとは驚きです』
「俺らのことディスらないで……ま、分からなくもないけど。故郷愛とかが無ければ、本当に誰も来ない場所だよ。今人がいないのがその証拠みたいなものだし」
そう語る彼の顔はそれでも愛おしさに満ちあふれていて、彼にとってアビドスがどんなものであるかをケイは否応なく理解した。
迷うそぶりなく、明確な意思と目的を持って歩いていくカケル。そのことに疑問を持ったケイが問いかけた。
『そういえば、どこに向かっているのですか?』
「アビドスで一番美味しいラーメン屋さん。ここに来たからには、絶対寄らないとね」
『ラーメン……』
「食いしん坊なお前にピッタリだろ?」
揶揄うような言い方に少し不機嫌になるケイだが、間違っていないので反論することもできない。言いようのない不満を抱えた彼女にカケルがごめんごめん、と笑って謝る。
そうしてしばらく黙って歩き続けると、屋台が見えてきた。「柴関ラーメン」と書かれた暖簾の内側から暖かな光が漏れ出し、出汁の良い匂いも漂ってくる。
遠慮なく暖簾をくぐったカケルは、その先にいる犬の姿をした店主に挨拶した。
「よっ、大将やってる? ……なんちゃって」
「うん? おお、カケルくんじゃないか。久しぶりだな」
「いやー最近忙しくって……」
「先生ってのは忙しそうだもんな……いつものでいいか?」
「お願いします」
並べられている座高高めの席、その一つに座って一息つくカケル。どこか実家のような安心感を感じる雰囲気は、キヴォトスにおいてカケルが落ち着ける数少ない場所である証明。
(まあ俺実家知らないんだけどな)
『触れづらいのでやめてください……それで、ここが噂の柴関ラーメンですか』
(誰の噂だよ)
『あなたのですよ。食べ物の記憶の中でも特に色濃く残っていて、とても印象に残りました。そんなに美味しいんですか?』
(食えば分かるよ食えば)
自信満々にそう言うカケル。現実の肉体もある程度制御しつつ生得領域にも顔を出す、というそれなりの高等技術をこんなしょうもない形で使ってくる彼にため息が止まらないケイだが、その目は期待が隠しきれていない。
「あいよ、いつものだ」
「ありがと大将……じゃ、いっただっきまーす」
『舌の共有を忘れないでくださいね?』
一見、海苔とチャーシュー、メンマにネギと普通のトッピングがされたただのラーメンに見えるそれ。だが地方ローカルにありがちな謎技術により、そのラーメンはラーメンを超えるラーメンとなっていた。
(やっぱラーメンと言えばここだよなあ……そっちはどう?)
『……!!!』
(感動のあまり言葉を失ってる……)
そんな一幕もありながらも、ラーメンに舌鼓を打つ二人(一人)。美味しそうに食べるのその姿を、大将はいつも見ているだけなのだが……その時は珍しく、食事中のカケルに話しかけた。
「……何かいいことでもあったか?」
「? 急にどうしました?」
「いや、妙に笑顔が輝いて見えたもんだからよ……気のせいか?」
「……そんな分かりやすかったですか?」
「いんや、本当に微々たる差だが……カケルくんと仲良い子たちには分かるかもなあ。いい笑顔だったよ」
(……)
『……何こっち見てるんですか』
思い当たる節は一つしかない。どうやら表に出るほど、彼女との邂逅は彼にとって良いことだったらしい。それを改めて自覚したカケルはそっと微笑む。
十分ほどでラーメンを汁まで飲み干した彼はゴトン、と器を置いて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さん。仕事頑張れよ」
「はーい、ありがとうございましたー」
大将の温かい笑顔に軽く挨拶をして屋台を出た。屋台の中で身体にまとわりついた熱気が、風によって吹き飛ばされていく。
「どうだった?」
『また食べに行きたいですね』
「それはよかった」
次の場所へ向かう道では、頭の中の声が鳴り止むことはなかった。静寂の中に響くのは彼の声だけだが、そのことを気にする人はいない。人がいない街で、彼は存分に笑っていた。
しばらく歩いていると、砂山が多くなったり、砂漠化した地帯がちらりと見え始める。より荒廃した世界に向かっていると感じられるその雰囲気に、ようやく少しずつ口数が減る二人。
歩くうちに周囲の建物は段々と低くなり、建物の代わりに瓦礫が増え、そしてそのうち砂の色だけが視界を覆い尽くしていった。熱気混じる乾いた風に吹かれて顔を上げれば、広大な砂漠が広がっている。
「砂漠にいい思い出はないな。大体暑いし足取られるしでしんどかった。それに……俺にとっては死を感じる場所だ」
返事はなかったが、特に期待もしていなかったようで足を止めることはない。いい思い出も悪い思い出も思い返す彼は今、見る人を切なくさせるような顔をしていた。
それからまた歩くと、砂に混じって何か灰色のものも見えてくる。どうやら捨てられた鉄道の一部……線路のようだ。
「アビドスには割と鉄道が多いんだよな。まあどれも廃線ばっかだけど……何もない線路の上を辿るのって意外と楽しいんだよ」
『暇だったんですね』
「やめてね」
懐かしむ彼のことを躊躇なく刺すケイ。わざとらしく痛そうな顔を見せながらも、彼は足を止めない。吹き荒れる風の音と、砂を踏みしめるザッ……ザッ……という足音だけが彼らの世界に響いた。
「ついたよ」
『ここは……』
「アビドス高等学校の本校舎……まあ、俺らの代で埋まったんだけどね」
続いて訪れたのはかつて三人で過ごしていた校舎。かつてはキヴォトスでも最大級の大きさだったであろう校舎は見る影もなく、そのほとんどが砂に沈んでいた。だからといって特に感情を動かすこともなく、まあそうだろうなと受容した彼は一応中に入ることを試みる。
「……あー、やっぱダメだな。砂の海だ」
『とても昔は校舎として機能していたとは思えませんね……』
「仕方ない、お墓参りだけしていこっか」
裏手に回っていくと、少し整備された小さな広場と……そこに、簡素に作られたお墓がある。ホシノが作った、梔子ユメのお墓だ。
ゆっくりと近づいていくとしゃがみ込み、彼は手を合わせて黙祷した。
「……俺の今の人生は、この人への贖罪なんだ」
『知ってますよ。贖罪の必要があるかは甚だ疑問ですが』
「俺の弱さが殺したんだ。必要だよ」
『そうやって自分を殺し続け、誰かの人生を背負うのは……いえ、今更ですね。あなたはもう生き方を変えることはできない』
「よく分かってるじゃん」
苦笑しながらも、その声はどこか嬉しそう。だけれど一転して真剣な表情になった彼は、そのまま静かにケイに問いかけた。
「……でもさ、最近よく分かんなくなってるんだ。俺はずっと先輩のように人を助けて、それに先輩が受けた苦しみの分も苦しむのが贖罪だと思ってた……でも、この前ホシノに幸せに生きることが先輩の望みだって言われて、確かにそうかもって思っちゃったんだ……俺はどうするのが、正解なのかな……」
『そんなの、私に分かるわけがないでしょう。梔子ユメはもういないんですから、あなたのやっている行動は結局自己満足です。大事なのは自分を自分で許せるかどうか……そのはずです』
「……そっか。それもそうだな……」
お墓を真っ直ぐに見つめる彼の背中は、捨てられた子犬のよう。雲ひとつない快晴の中で、彼がいる場所だけ雨が降っているかのようだった。
それから数十秒、黙って祈り続ける。手を合わせて真摯に祈る所作に、誠心誠意を込めて。
……そうして祈りを終えた後、彼は静かに呟く。
「ありがとう、ケイ」
『……感謝されるようなことは、何もしていませんよ』
「よく言うよ。ここまで心を開いたのなんて……それこそ、先生くらいだ」
『……』
それから立ち上がった彼は、少しの間太陽を眩しそうに見つめる。数秒、見つめ続けて……自嘲気味に息を漏らすと、体を翻して来た道を戻り始めた。
「じゃ、最後は……ってもう最後か。やっぱアビドス何もないな」
『それが自分の故郷に対する言い草ですか』
「事実だし。何もかもあったのは昔の話……今はこの寂れたアビドスが、俺の故郷なんだから」
言いながら歩いていくと、荒廃した世界から徐々に現実へと戻っていく。建物がちらほら生え始め、砂に覆われた面積も減っていった。
『それで、最後はどこですか?』
「今のアビドス校舎。俺の第二の母校……いやでも大きい括りで言えばどっちもアビドス高等学校だし、どっちも第一の母校ではあるのか」
『そんなこと考えてどうするんですか……これ前にも言いませんでした?』
「まあまあ」
道路のひび割れが減り、風が多少爽やかさを帯び始める。何より砂と熱気の匂いがどこかに消えて、砂漠じゃなくなったことを実感する。少し遠くを眺めれば、他の建物より多少高い校舎が見えた。
「今頃みんな何してるかなー」
『みんな……ふむ、アビドス対策委員会ですか。えー、奥空アヤネ、黒見セリカ、十六夜ノノミ、砂狼シロコ、そして小鳥遊ホシノ……』
「珍しくホシノがすっ飛んで来てないし、お昼寝してたりするのかねえ」
気づけば目の前に校舎が立っている。半開きのままの校門を飛び越えて中に入り、辺りを見回しながら校舎内に入っていく。
「……そういえばちゃんとここに来るの、最初の大仕事ぶりか。何だか懐かしい」
『これだけ教室があって廊下も広いのに、誰もいないというのはなかなかもの寂しい光景ですね……』
静かな校舎の中、不意に誰かの声が聞こえた気がした。音を頼りに進んでいくと、アビドス対策委員会の教室がある。目の前の扉の向こうからは騒がしい様子が感じ取れ、カケルがその顔を柔らかくした。
そしてドアノブに手をかけて、扉をスライドさせる。
「こんにちはー」
教室内にいた三人が一斉に顔を向けてくる。ソファに座っているノノミと、彼女に膝枕してもらっているノノミ。そして机の上で何かの計画書を作っているシロコ……どうやらセリカとアヤネの一年生組がいないらしい。
「……え、カケル?」
「どうもー、ホシノ以外はお久しぶりかな」
「そ、そうですね。お久しぶりです……」
「ん、久しぶり先輩」
「おー……お? 先輩?」
シロコの自分への呼び方が先生から先輩になっているのを疑問に思い、彼が疑問の声を思わず漏らすと「この前ホシノ先輩が先生のことは先輩って呼べって言ってたから」とシロコが補足する。
「へえ……何で?」
「何でも先輩がアビドスのも「あーシロコちゃんシロコちゃんちょっとお口チャックしよっかー?」
慌てた様子で立ち上がり、シロコの口を塞ぎにいくホシノ。どうやらよほど聞かれたくないことらしい、一体どういう意図だったのだろうか……
『どうやらあなたをアビドスのものだと示すための行動だったようですね』
(言うなよお前……)
『? 彼女……砂狼シロコが「アビドスのも」まで言っていたんですから、少し考えれば分かるでしょう』
(いやそういうことじゃなくてな……)
普段だったら空気を読んで聞かなかったことにしているカケルだが、空気を読む経験値が足りないケイが全て言葉にしてしまった。目の前で必死にシロコの口を塞いでいるホシノが浮かばれないなと思いつつ、思わず苦笑する。
「んんん、んー!」
「何でそんなに抵抗するのさ!? ちょっ、ノノミちゃんも助けてくれない!?」
「……いえ、これは逆にチャンスなのではないかと思うので」
「何が!?」
バタバタと暴れ回るシロコを何とか制そうとごろごろ転がり続けている二人。見かねたカケルが仕方ないなと手を貸して、ようやくシロコの暴れも止まる。
「うへぇ……ごめんねカケル、手伝わせちゃってさ」
「いいんだよ、どうせ暇だし」
「暇……そういえば先輩は何でここに来たんですか?」
「ノノミも先輩呼びなのね……まあ、ちょっとした休暇っていうか」
仕事続きでちょっと疲れたので、久しぶりに故郷に来ることにした……と説明する。
「ふーん……一人で?」
「うん、一人で」
「寂しくない? 私が一緒に行ってあげようか?」
「いや、ここが最後だから必要ないね」
「……そっか」
後ろの方で後輩2人が何故か怒りの視線でこちらを見てくるのを、今度こそ本当に何でだろうと心から思うカケル。同時に彼の中のケイも何でだろうと思っていた。
そんなことを全く知らないホシノは、目を細めて問いかけてくる。
「アビドスの思い出……珍しいね、カケルがそんなセンチメンタルになってるなんて。何か嫌なことでもあった?」
「いや? 何にもないけど」
「本当かなあ……」
「とりあえず、俺は挨拶しに来ただけだから。今から屋上に行くから、なんかあったら呼びに来てな」
そう言うとすぐさま身を翻してしまうカケル。
『……少しドライすぎません?』
(そう? 別にいつも俺はこんなんだけど……まあそれに三人には悪いけど、今はお前といる方が優先だしな)
『………………そうですか』
階段を上がっていき、その先にある屋上への扉を両手で開く。扉の隙間から見えていた青空が一面に広がり、何処までも飛び込んでいけそうな蒼穹がそこにあった。
肌に心地よい風を感じながら、屋上の柵にまで近づく。眼下に広がる人気のない住宅街と、その先にあるビル立ち並ぶ都市。
んー、と声をあげて伸びをすると身体がほぐれて心地良い。そのまま手を柵に乗せ、体重を預けながら景色を見渡す。彼の瞳が少し不満の色を帯びた。
「んー、やっぱ夕焼けじゃないとあんまり景色は良くないな」
『……』
「ケイ?」
『いえ、ただ……ここがあなたが育った街なのかと実感して、何か……言葉にできないような感情が……』
その景色は特別綺麗ではなかった。きっとシャーレからでも同じような景色は見えるし、もっと綺麗な景色もこの世にはたくさんあるだろう。
それでも、ここが九条カケルという男を育てた街だった。
『……羨望なのでしょうか。愛してやまない故郷があるということへの強い羨望』
「その気持ちに答えを出すのも、自分で決めるってことだと思うよ」
『……』
「でもどう思われようとさ、この景色を知って欲しかったんだ。俺の何もかもを知って欲しかったから……」
無数の思い出がある。悪党を倒した思い出、騙された思い出、宝探しをした思い出、喧嘩した思い出、喪った思い出、綺麗だと思った思い出。
嫌なことも良いこともあって、だからこそ自分はこの街を愛している。
「……置いていかないでな」
『その返事なら、昨日したでしょう』
淡白ながら少し柔らかいその声に、彼の心は安心するかのように寄りかかっていた。
気づけば風は止んでいて、凪いだ青空が平坦に広がっている。だからだろうか、彼の耳は階段を上がってくる足音を聞き取った。
振り向いてみると、ホシノが屋上への扉の影からひょこっと出てくる。
「ホシノ。なんかあったか?」
「んー? いや、何にもないけど……カケルと一緒にいたいなあって」
言いながらてててと早足で近づき、隣に並ぶホシノ。太陽と月を表すかのような黄色と水色のオッドアイが彼を捉え、柔らかく細められる。
「……カケルこそ、本当に何もないの?」
「ないよ。仕事が辛いとかでいいなら全然言えるけどな」
「私が連邦生徒会とお話ししてこよっかー?」
「やめい。お前のそれはシャレにならない」
冗談だよ、と笑うホシノ。その姿にカケルは一瞬眩しそうに目を細めると、目を逸らして景色を見つめ出した。
「……話してくれないの?」
「何のことだよ」
「カケルは意味もなくここに戻ってこないでしょ」
「……ま、諸事情とだけ」
「えぇー、ずるいなあ。立場が逆だったらどこまでも追及するくせにさ」
「親友にだって、言えないことはあるさ」
「……親友か」
その言葉を噛み締めるように繰り返した彼女は、少しばかり目を伏せる。そんな様子をちらりと見たカケルは、軽く息を漏らした。
「不満?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「お前は俺の親友だよ、紛れもなくたった一人だけのな。それとも、相棒とでも呼んで欲しい?」
「相棒かあ……結構いい響きだね。たった一人の親友もいいけど」
そう呟いた後は、しばらく音が止む。
「……こんなに近いのになあ」
「ん、なんか言った?」
「何でもない……そろそろ戻るね」
「おう」
そう言うとホシノはくるっと身を翻し、階段に向かって歩き出そうとして……足を止めると、またくるっと回転して戻ってくる。そしてカケルの目の前に立つと、その顔を掴んで言った。
「カケル」
「ん」
「……キス、していい?」
「いいよ」
許可を得た彼女は、すぐさま彼の唇を貪り始める。遠慮なく舌を入れて、自分のものだと誰かに示すように、長く彼と距離を近くした。その瞳は開けないままに。
カケルはそれを全て受け入れ、彼女のことを軽く抱きしめる。必死に、より近寄ろうとするホシノを見つめるその瞳は、あまりに澄んでいた。
「──っ……」
「……」
「……ありがと。じゃあ、今度こそ戻るね」
できるだけその瞳を見ないよう、ホシノは振り向くと早足で去っていく。彼女が階段を降りる音を聞きながら、彼はただ佇んでいた。
『……変なもの見せないでくれますか?』
「ごめんて。ホシノに頼まれたことは断れないんだよ」
『そんな彼女であっても、その孤独を共有しようと考えないのですね』
「そりゃ、お前さ」
呆れたような声で、そうであることが当然であるように、彼は言う。
「太陽に自分を理解して欲しいなんて思わないだろ」
『……』
その言葉が示す意味を理解できてしまうケイは、黙り込むほかなかった。再び世界が沈黙で満たされる中、カケルもようやく動き出す。
「そろそろ帰ろっか。お前の故郷に」
三人に別れを告げ、ミレニアムに向かう帰り道。二人はこの四日間であったことについて色々と話していた。
「楽しかったか?」
『……まあ、少しではありますが』
「良かった……世界を滅ぼすかについてはどう?」
『今更言わなくても分かりますよね』
「せっかくだし言葉にして欲しい」
『はあ……もう、そんな気は起きませんよ』
その答えに嬉しそうに笑うカケル。ケイはその姿に尻尾がついててぶんぶん振られているのを幻視し、思わず無い目を擦った。
「もう少し俺といたかったり」
『それは無いです。むしろアリスの元に帰れて実に清々します。たった四日程度だというのに、ずいぶん長く感じられましたよ』
そう憎まれ口を叩くケイ。それに対してカケルは、どことなく寂しそうなため息を漏らすだけだった。
「……やっぱ、嬉しい?」
『それは嬉しいに決まっているでしょう』
「そっか……」
『……まあでも。あなたと離れることを、ほんの少しだけ惜しんでいるのも事実です』
「!」
その言葉を聞いた瞬間、明らかに顔色を明るくするカケル。先ほどから顔色が明るくなったり暗くなったりを繰り返す彼にいよいよはっきりと犬を幻視しつつも、それでも何とか体裁を保とうとできる限り冷たく言う。
『ほんの少しですからね。本っ当に少しだけです』
「それでもいいよ。最初だったら、そもそもそんなこと思ってなかっただろうし」
『それはそうですけど』
「本当に……お前を連れ出して良かった」
『………………私も、連れ出されて良かったです』
ほんの少し、彼の瞳が見開かれて……まるで何もかも分かっているという風な、愛おしさを隠しきれていないような、優しげな顔になる。
それからアリスたちに会うまで、二人の間に言葉はいらなかった。
しばらく歩いていくと、諸々の機器とその周りに立つ二人の姿が見えてくる。車椅子に座ったヒマリが元気なアリスに付き合っているようで、まるで祖母と孫みたいだなとカケルは思う。
元気にはしゃいでいたアリスだったが、こちらに気づくと大きく手を振ってきた。
「あ、先生が来ました!」
「やほ、アリス、ヒマリ。わざわざ時間作ってくれてありがとな」
「いえいえ。それよりも先生は大丈夫でしたか? ケイの方は……」
「こいつならもう大丈夫。俺が保証するよ……な、ケイ?」
呼びかけてみれば、少し躊躇うように息を吐く音が聞こえた後……ひょこっとカケルの頬に口ができる。
「……お久しぶり……と言うほど会ってないわけでもありませんか」
「ケイ! 先生との旅行はどうでしたか?」
「旅行では無いのですが……まあ、そうですね……」
「楽しかったってさ」
カケルが彼女が言い淀んでいた本心をしれっと口にし、ケイが「カケル!!」と大きく怒鳴った。それを聞いて彼はいたずらに成功した子供のように笑い……その二人の様子に、アリスたちは目をぱちくりさせた後、微笑む。
「どうやら、かなり絆されたようですね?」
「別に絆されてはいません」
「でも、怒ってるのに全然怖くなかったです。アリスの体を乗っ取った時の方がもっと怖い雰囲気でした!」
「あ、アリス……あの時のことは、ちょっと掘り返さないでいただけると……」
「……まあ積もる話も色々あるけどさ。とりあえず、ケイをアリスに帰すよ」
言いながら、ダイブ機器の方に足を進めるカケル。それを聞いたアリスたちも軽く頷いて近づくが……そこにケイが待ったをかけた。
「少しいいですか?」
「ん、どした?」
「いえ、もしかしたらその装置を使わずとも私をアリスの元に帰せるかと思いまして」
「え、そうなの?」
ケイの説明によれば、肉体の主人……つまりカケルが許可すれば、肉体を繋ぐだけでも本人の意思で魂を移動できるかもしれないとのこと。
要はアリスと肌が触れ合っていれば、その通路を使って直にケイが互いの身体を行き来できるかもしれないということだった。実際できるのか半信半疑の三人だったが、一度試してみる価値はあるということで、試してみる。
カケルとアリスが手を触れ合わせた。そのままアリスががっちりと指を絡め合わせてきて驚くカケルだが、とうのアリスは無邪気に笑っている。その顔を見た彼は仕方ないとでも言うように息を吐き、自分も指を絡めた。
『……』
(俺のせいじゃないよ)
『理解しています……さて、それじゃあ、帰りましょうかね』
(……ごめん、ちょっと待ってくれない?)
『?』
アリスに繋がる道を歩き出そうとしたケイは、カケルの声に立ち止まる。振り向けば、生得領域にカケルも入ってきていた。
「どうかしましたか?」
「ちょっと、こっち来て」
言われるがまま彼の方に近づく。既にどことなく寂しそうな目をしている彼は、ゆっくりと彼女の首筋に手を伸ばして、昨日自分がつけた跡を指でなぞった。
「……跡、消えそうだな」
「はい? それはそうでしょう。普通一日も経てば跡なんて勝手に消えますよ」
「ま、そうだよな……」
「何が言いたいんですか? 早くして欲しいんですけれど」
少し苛立ったような彼女の声に、彼は悩むような顔をして……
「ごめん」
「は? ……──!?」
ケイの肩をがっちり掴んで逃げられないようにしたカケルは、そのまま昨日と同じ場所に噛みつく。それも昨日より強く、貪るように、消えない跡をつけたがるように。
「っ、は……」
痛みからかケイの口から息が漏れ出ても、彼はやめなかった。彼女が後ずさろうとしても、肩を掴んでいる手がそれを許さない。時折息継ぎのため少しだけ口を外し、その度に吐息が当たってケイの身体が震え、また噛みつかれる。
それを数十秒繰り返して、ようやく彼が口を離した。僅かに唾液が噛み跡に纏わりつく。手で口を拭う彼はその跡を見て、目だけが微かに笑った。
痛みに促されるまま噛まれた箇所を手で抑えたケイは、はっきりと、深く、濃く跡がつけられていることを理解する。じんじんと消えない痛みを感じながら、涙目になって叫んだ。
「な、な、何をするんですか!!!」
「ケイ」
「二回目ですよ!? 急にこんなことをして、許されると──」
「その跡が消える前に、また会いに来てな」
熱のこもったその目が、ケイを黙らせてしまう。
それでも消化しきれないことがたくさんあるようで、わなわなと震えたケイは……キッとカケルを睨みつけると、彼のことを全力で噛む。それも自分の噛み跡と同じ場所を。
反射的に距離を取ろうとした彼の腰を彼女は捕まえ、逃げられないようホールドする。
「つっ、」
「……──分かりましたか私の痛み!! 二度と急にこんなことしないでください!!」
カケルの肌から口を離したケイは、至近距離で彼に怒鳴った。その勢いに気圧され、「わ、悪かったよ……」と謝罪した彼を突き飛ばして、怒ったように顔を背ける。
そのまま去ろうとしたケイだったが、しかし顔だけを彼に向けて……その頬を微かに赤く染めながら言った。
「絶対に会いに行ってやりませんから……あなたから会いに来てください」
「……!」
「それでは、またいつか!」
最後にそう言い捨て、彼女はアリスの元に走り出していく。
それを見届けたカケルは、最後に砕けた笑いをして、現実世界へ戻った。
目を開ければ、ケイが戻ってきたことを喜んでいるアリス。はしゃぐ彼女を複雑そうな目で見ていた彼の肩に、ぽんと手が置かれる。
「……ヒマリ?」
「どうやら、互いにかなり影響しあったようですね」
「何……もしかして今俺、変な顔してた?」
「ええ、それはもうものすごく」
「あー……見なかったことにしてくれ」
「いいですとも。私はいい女ですから」
ふふん、と胸を張る彼女に安堵のため息が漏れる。ヒマリはそんな彼から視線を外して、アリスとその内にいるだろうケイを穏やかに見つめた。
「……一体どんな魔法を使ったんですか?」
「別に、対話するっていう普通のことさ。ケイ自身も思うところがあったからこそ成立しただけで……すごいって言うなら、自分の考えを柔軟に変化させたケイの方だよ」
「謙虚なのはいいことだと思いますけど、時には自信を持つことも必要だと思いますよ? それこそ私のように」
「君たちには、ずっと憧れてるよ」
そう言ってヒマリを見る彼の瞳は、相変わらず夜空を携えている。宵闇の中に浮かぶ星が一つ、ヒマリと鏡写しのようになっていた。
車椅子から彼を見上げる形になっていた彼女は、だからこそ首筋のそれに気づく。
「……? 先生、その傷……」
「ん?」
「いえ、跡でしょうか……? 首のあたりに噛み跡のようなものがありますが」
「あー……」
カケルがそっと指先でなぞれば、はっきりでこぼこしていた。この跡をつけた彼女の心情を思って苦笑する彼を、より疑問の目で見つめるヒマリ。
「まあ、気にしないでいいよ」
「気になりますねえ……どうしても秘密ですか?」
「んー、詳しくは話せないけど」
彼は一度言葉を切って悩むそぶりを見せた後、彼からは見えないはずの跡に視線を向ける。その瞳にはどこか、危うさのようなものが宿っていて……
「大事なもの、とだけ」
そう言って妖しく微笑んだ彼に、ヒマリは目を奪われてしまうのだった。
パヴァーヌ二章が終わった……これが何を意味するか。そう、次回からとうとう最終章です。正直こんなところまで来られるとは思ってなかった。
薄々分かっているかもしれませんが、カケルくんの中にある先生の魂は原作で言うところのプレ先のものです。ではプレ先不在の今、最終章ボスは誰なのか? 一応ヒントは出てますけど……まあ乞うご期待ということで。