「ゴホッ! ゴホッゴホッゴホッ……!」
丁寧に掃除され未だ清潔感のある白さを保っているトイレを私は今赤く染めている。
私が咳とともに吐き出す血痰はいつしか喀血となり、手で抑えるには誤魔化し切れなくなってきていた。
それゆえ私は耐えきれなくなったときはこうしてトイレに駆け込み、隠れて無様な姿にならざるをえなかった。
セナから処方されていた頓服は三種類の錠剤を合わせて十四錠使用する程になっており、それでも体調の悪化を防げる時間は日に日に短くなっている。
より強い効果を求めてセナに薬の増加を求めていたが「これ以上はオーバードーズを引き起こすため限界です」と言われてしまった。
つまり、私の体の限界は明確に見えてきているという話なのだ。
「ああ、クソッ……」
トイレから出た私は壁に手を付きながらゆっくりと歩く。
最近は歩くだけでも大きく労力を要するようになってきてしまっている。手足が重く、少し歩くだけで激しい疲労感が襲ってくる。もし甘えられるのなら杖でもついて歩いてしまいたいという気持ちに襲われるが、万魔殿の議長が杖をついて歩いているところなど見られたら一生の笑い者だ。
以前から上がっていた認知度が此度の一件でさらに上がって私が議長だと知る生徒はかつての支持率三パーセントの時代が冗談だったかのようなぐらいに差ができている。
このゲヘナを象徴する議長として、それだけは避けたい。実際、こうして壁に手をついているのも周囲に他の生徒の姿がないからしているだけだ。もし少しでも人の気配を感じたのならば、すぐさま普段通りに歩けているフリをする。
「……まったく、これでは今際の際の老人だな」
今まででは考えられない程の疲れを覚えながらも執務室にたどり着いた私は席についてそんな言葉を吐き出す。
本当に弱々しくて、情けない。
あまりにも今の自分に腹が立った。
だがこうなっているのは自らが選んだ道だ。議長として私は間違っていない判断をしたとこの苦しみの中でも思っている。
この苦境に打ち勝ってこそ私はより指導者としての高みに立ち、このキヴォトスを支配するにたる器になれる。ああそうだ、いくら今の自分が唾棄すべき程に弱者であったとしても、いずれ至る強者としてあれるなら、この程度は耐えて見せる。
なぜなら私は万魔殿の議長なのだから。
ただ今は病のせいで弱っているだけ。そうだ、それだけなんだ。
「だが……いずれにせよこのままでは駄目だな」
私自身の心が未だ折れていなくとも、世論は今の私に対し冷たい。
現在はまだ醜聞が囁かれている程で不満や敵意は表出していないが、このままだとそれも時間の問題になる。
ならばここで私が健在であるという姿を見せつけて生徒だけでなく外の学校へも万魔殿議長の強さを喧伝するプロパガンダが必要だ。
ここで万魔殿議長への悪評を覆す事ができればまたゲヘナを狙う奸賊共の目を眩ませる事ができ、セナ曰くまだしばらく時間はかかるが着実に開発は進んでいるという特効薬作成への時間が稼げる。
だからこそ私は一つの計画を立てた。
このゲヘナを守る事だけではなく、羽沼マコトという生徒がゲヘナの指導者であるとよりアピールする事ができる、そんな計画を。
*****
「みんな、よく集まってくれた。……この面子で集まるのも、いつ以来だったか」
執務室には私の他にもサツキ、イロハ、チアキ、イブキがいる。久々のフルメンバーという訳だ。
ふと外を見ると乾いた風が散りゆく木の葉を空に舞い上げ窓にぶつけてきている。
私が夏の終わりにこんな体になってから、秋の最盛期はもう目前という程に時は流れていた。
目の前にいる四人は
それぞれがそれぞれ私に思うことがあるのは間違いないだろう。だが、今はそこに配慮している暇はない。
とにかく急いで、私の計画を進めなくてはならないのだ。
「早速だが来週の月曜日、私は大広場にて演説を行おうと思う。広報も用いて、キヴォトス全土にその中継映像を流すつもりだ」
「「「「えっ!?」」」」
全員が声を揃えて驚いてきた。
仕方がないだろうな。こうなってからさんざんみんなの事を邪険にしてきた私だ、もはや信頼も信用もなくなっているだろう。
けれども今回の計画はどうやっても早めに実行し、大成功に納めねばならないのだ。
このままでは、タイムリミットになりかねないのだから。
「演説の内容も既に考えているし、生徒を集める準備も整えている
説明を終えると私は席から立ち上がり予定していた仕事の現場へと向かおうとする。
すると、進路を塞ぐように一気に四人が私の前に駆け寄って来た。
「ちょっとマコトちゃん!? 急にどうしたの!? 体はいいの!?」
「そうですよ! 私、何も聞かされていないんですけど! 何かあったらすぐ連絡してくれっていつも言ってるじゃないですか!」
「広報を利用するって事は放送部とかも絡むんですよね!? それで月曜ってもうほぼ準備終わってるって事じゃ!?」
「マコト先輩、元気になったの!? 良かった……イブキ、ずっと先輩に謝ろうって思ってたけど、結局怖くて、できなくて……!」
皆が思い思いに疑問や感情をぶつけてくる。
正直、近くで大声で叫ばれるだけでなかなかにしんどくなるのだが、私はそんな素振りを彼女らには見せなかった。
ここで気を抜けば一気に崩れると思ったし、何よりみんなには事情を理解されている上でもあのときよりももっとひどく落ちぶれてしまった姿を見せたくなかったからだ。
「ああ、分かった分かった! そう一気に詰め寄るんじゃない! 一人ずつ簡単に答えてやるから少し黙っていろ!」
みんなを落ち着かせるために声を張り両手を突き出す。
それでようやく大人しくなってくれたので、私は一人ずつ答えていく事にした。
「えーとまずサツキか。体は別に治ったわけではない。だが、だからこそここで強い万魔殿の議長を見せねばとなったのだ。下手な噂などこの身を持って駆逐すればいい話だからな」
「マコトちゃん……! うん、体はまだ心配だけれど、でも頑張るなら私も協力するわ!」
サツキがハッキリと嬉しそうな顔をする。まったくこいつは本当に昔から感情が分かりやすいな。本人は見ると怖がる事も多かったが、まるで大型犬のようだ。
「次にイロハ。すまなかったな、アレコレとやっていたらうっかりしていた。さっきも言ったようにどこまでやっているのかはテーブルに置いた資料にまとめているからそれの確認を頼む」
「……はあ。まったく、しょうがないですね。本当にテキトーなんですから」
呆れた言い方だが、声色も表情もどこか嬉しそうだった。本当はここ最近はイロハの事も避けがちだったからこその連絡遅れだったのだが、わざわざこれを言う必要はないだろう。
「チアキ、お前が普段から持っている様々な部活へのパイプがここで物を言う。特に放送部にはより密な打ち合わせをして欲しい。なるべく広く映像を流すためにクロノスにも関わらせる事になってるから、期待しているぞ」
「はいっ……はいっ! こんな大役……ありがとうございます、先輩!」
チアキは満面の笑みだ。今すぐにでもぴょんぴょんと飛び跳ねそうなぐらいに元気にあふれている。実際のところはもう私が一日にかかる負担をなるべく少なくしたいというのがチアキにこうして頼んでいる本音なのだが、まあ言わなくていいだろう。
「イブキは……今まで本当に苦労をかけてしまったな。でもまたこれからしばらくはお前といられる。こんな私にだが、ついてきてくれるか?」
「……うっ、うううう……ひぐ……! もちろん、だよぉ……! マコト先輩、お帰りなあいっ……!」
オーバーな言い方でイブキに抱きつかれた。
別にどこかに行っていたわけでもなく私がずっと逃げ隠れしていたというのにこうしてくれるのは、申し訳なさと一緒に嬉しさが襲ってくる。
やはりイブキは、本当に可愛らしい。
「まあともかくだ。急ピッチで進める事となるが、みんなよろしく頼む」
「ええっ!」「はい!」「了解です!」「うん!」
私の言葉に、四人はそれぞれとてもうれしそうに答えてくれた。
とてもありがたい事のはずなのに、私の胸は妙に締め付けられる感覚になった。
*****
「んっ、くっ……ふぅ……はぁ……」
あっとう間に一週間は過ぎて、ついに計画実行の日がやって来た。
演説もあと一時間を切った今、私は多目的トイレをつかい錠剤を飲み終え、ついでに洗面台で顔を洗ったところだ。
「…………」
こうして鏡でまじまじと見ると、随分とやつれたように思える。
だが演台の上で高らかに演説をしている分には観客には気づかれる事はないだろうし、カメラを通してならなおさらだろう。
私の演説はチアキの奔走の結果、クロノスチャンネルも経由してネット、テレビ、そしてキヴォトスを飛ぶ飛行船に備え付けられたモニターでも流される事となった。
関係各所への調整にはイロハも奮闘してくれたし、風紀委員会といったゲヘナ内部の組織そして各校との交渉はサツキが頑張ってくれた。イブキも書類整理などを協力してくれたし、我々万魔殿はかつてなく一体化していると言えよう。
「だから……大丈夫だ。絶対に成功する……」
だというのに、私は未だ不安という蛇に締め付けられている苦しさから抜け出せない。
状況は完璧に整えた。今こうして薬も飲んだので少なくとも演説中は体は持つはずだ。
セキュリティもネズミ一匹通る事ができないぐらいに整えたので不備はない。
しかしなぜだ、なぜこんなにも不安なのだ? 昔はこんな感覚、一切味わった事がないというのに。
「……臆するな、羽沼マコト。貴様は偉大なる万魔殿の議長だろうが」
いや、理由はちゃんと理解しているのだ。ただ純粋に、私が臆病になってしまっただけなのだ。
バーゲストを自らの手で殺め、恥をキヴォトス全体に垂れ流し、病で自由が効かなくなった体を誤魔化し続けた日々。
ゲヘナと自らの立場を守るためだけに動いたここまでの行いが、私をすっかり弱くしてしまったのだろう。
でがそれも今日で終わりだ。
ここで大々的な演説を行い、万魔殿の議長がいかに偉大で優れた指導者であるかを喧伝する。そうすればしばらくは私にまとわりつくネガティブな評判は消え、体を治すまでの時間が稼げる。
そうだ、これさえ成功させればすべてうまくいく。
「……ッ! ……行くか」
自らの方を両手で叩くと、私はトイレから出る。
昼過ぎの天気は快晴。絶好の演説日和だ。
外に立っていた議員達を連れ、この日のために作られた仮設舞台の舞台袖にまで行く。
そこにはサツキ達が待っていて、それぞれ程度はあれど緊張した面持ちで立っている。
「……いよいよね、マコトちゃん」
「ああ、そうだな」
サツキがあえて穏やかな微笑みで言ってくれた。私の手を優しく握ってくれる彼女に、私もまた微笑みで返す。
「大丈夫だ、心配するな。この羽沼マコト様が状況をひっくり返す姿を、特等席で見せてやる」
「うん。楽しみにしてるわね!」
お互い頷き、私は演台へと上がる。
一世一代の大勝負が、今幕を開けた。