「……マコトちゃん、今、なんて……」
聞き返すような事じゃないのは分かっているのよ。
どうしてマコトちゃんがそんな決断をしたのかも、この決断に至るまでにどれだけ辛い思いをしてきたのかも分かるつもりなの。
それでも……それでも、私はこう聞き返してしまった。
だってマコトちゃんの口から「議長を降りる」なんて言葉が出てくるなんて信じたくなったから。
あんなにもマコトちゃんが頑張ってきて、昔から焦がれてきた夢を捨てるなんて、辛すぎるから。
「私は、万魔殿の議長の席を降りる。もはや私がいることはゲヘナにとって害しかもたらさない。……それはきっと、みんなも分かっているだろう」
ベッドの上のマコトちゃんの背中はとても小さかった。
俯いた表情はだらりと垂れた髪で隠れて見えない。
でもそれでよかったと思う。きっとお互い、その顔を見せる事も、見る事も耐えられないのは分かっているから。
「そんな……どうにかならないんですか!? 私、嫌ですよ、そんなのっ……!」
大きく、しかし声を震わせながらもパイプ椅子から立ち上がって言ったのはチアキだった。
いつも元気いっぱいなチアキがこんなにも辛そうな姿を見せているのは初めて見る。
それほどまでにみんなにとってマコトちゃんは大きな存在だったんだ。
「もうどうにもならないのは分かっているだろう? ……すまないなチアキ、もうお前の撮る写真に、写ってやれん」
マコトちゃんは変わらず顔はこちらに向けなかった。
その代わりあまりにもか細いその声がすべてを物語っていた。
「そっ、そんな……私、まだまだ先輩と……」
力なく椅子に腰を落とすチアキ。
そのまま彼女は顔を両手に埋め、黙ってしまう。静かに震える彼女の背中を、横にいた私はそっとさすってあげた。
「やだよ……やだやだっ! イブキ、マコト先輩にいなくなって欲しくないよっ!」
今度は、イブキがマコトちゃんのところに駆け寄っていった。
誰もそれを止められない。
より悲しみが増すだけというのは分かっているのに、イブキを止める気力がみんなにはなかった。
「イブキが、イブキが悪い子だから……? イブキがワガママ言ったから? マコト先輩を困らせちゃったから……? ごめんなさい……イブキ、もうワガママ言わないから……だから、いなくならないでよ! 残っててよ、マコト先輩!」
「……イブキ、私が倒れてからこの九十五時間。ゲヘナはどうなっている?」
「えっ? あっと……えっと、その……」
マコトちゃんの言葉に、イブキはビクリと体を震わせて目を泳がせた。
イブキは可愛いだけじゃなく賢い子だというのは、万魔殿みんなが知っている事だ。
まったく分別がつかないわけじゃない。それゆえに、イブキはこの四日間でどれほどゲヘナへの魔の手が増え、私達万魔殿と風紀委員会が奔走していたのかも見てきて、それを理解している。
だからこそマコトちゃんは、今一度そこでイブキを説得するつもりだ。
「私はこの個室にずっと引きこもっていたが、どれほどの状況であるかは想像がつく。それをここで終わらせて損害を最小限に抑えるには、それしかないんだ」
「う……うぐっ……ひっぐ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……う、うあああ……!」
大粒の涙を流しながらイブキが謝っている。
イブキは負の感情の爆発を抑える癖があるから、私だって倒れちゃうような怖いお化けを見たときだって号泣する事はなかった。
でも、こんなときぐらいはもっと大声で泣いてもいいんじゃないかって思った。
けれどもイブキがそれをしないでこの程度で済ませているのは、きっと一番つらいのはマコトちゃんだって事をイブキだって心の中では理解しているからでしょう。
イブキが辛い顔をしていると、誰よりも悲しんでいたのがマコトちゃんだからこそ、これ以上はもうマコトちゃんを苦しめたくないと無意識に思っているんでしょう。
でも、その姿の痛々しさはきっとそれ以上にマコトちゃんを傷つけていると思う。
あまりに残酷な状況だ。
私には、どうする事もできない。
「……イブキ。一緒にいましょうね」
そこでやって来たのはイロハだった。
マコトちゃんのベッドの側で泣くイロハの肩に優しく手を置いて、そのまま自分の座る椅子に戻り抱いてあげている。
イロハはこの中で誰よりも現状を分かっているのは間違いない。私だって情報部を持っているからここ数日入ってくる恥知らずな奴らの動きは把握している。でもイロハが普段マコトちゃんに一番近いところで仕事をしていたわけだから、間違いなく私より何がどうなっているのかを理解していると断言できる。
これは私が情けないだけというのもあるけれど、やはりイロハがマコトちゃんに次いで有能な子なのは間違いない。だからこそマコトちゃんがこんな判断をする事に納得できずとも反論しないのよね。
本当はチアキやイブキみたいに「辞めないで」と声を大にして言いたいでしょうに、それを我慢しているのよね。
だから、今そうしてイブキの頭を優しく撫でながらも、本当に悔しそうな顔で強く食いしばっているのよ、イロハは。
「……マコトちゃん……私は……」
私は、何を言えばいんだろう?
マコトちゃんに議長を辞めて欲しくなんかない。
でもだからと言って大声で反対する事もできない。
どっちも嫌で、言えなくて。どっちもしたくて、できなくて。
がんじがらめでどうにもできない。
ああもう、どうして私っていっつもこうなの?
『雷帝』の時代、一足先にゲヘナに入って戦っていたマコトちゃんの力にもなれず、ゲヘナのために留年することになったマコトちゃんのただ横にいる事だけしかできず。
今だって誰よりも苦しんでるマコトちゃんに何もしてあげられない。
痛いのも苦しいのも嫌だから催眠術の研究だってしているのに、こんなときは何の役にもたたない。
「うっ、ううう……!」
私は、本当に無力だ……。
「……すまないみんな。少しだけ、サツキと二人っきりにしてくれないか?」
私が自己嫌悪で泣き出してしまったときだった。マコトちゃんがそう言ったのは。
「マコトちゃん……?」
みんな不思議に思ったが、誰もそれについて反対する事なく静かに部屋の外に出ていく。
こうして病室は私とマコトちゃん、二人っきりになった。
「マコトちゃん、どうしたの? 急に……」
「……サツキ。お願いがある」
パイプ椅子を動かして触れ合えるような距離に近づいた私に、そこでやっとマコトちゃんは頭を動かしてこちらに顔を向けてきた。
ひどい顔だった。
生気というものが感じられず白くて綺麗だった肌はむしろ青白い死人のようになっていて、目元は隈ができている上に涙で赤く腫れている。
でも、瞳の輝きだけはまだギリギリ死んでいなかった。
「次の議長の席には、お前がついてくれ」
「……私が?」
はっきり言って私は議長なんて役職は向いていない。
情報部長は担っているけれどやる事と言えば指示出しと上がってきた情報を受け取るぐらい。
マコトちゃんが真面目に難しい話を進めているときは正直ついていけないときもあるし、退屈な会議はついつい居眠りだってしちゃう事がある。
でも私は誰も痛くて怖い思いをしないキヴォトスを作りたいって気持ちは間違いなくあって、だからこそマコトちゃんの側で頑張ってきたんだ。
「私に議長なんて無理よ……やるならイロハの方がずっと適任だわ。そんなのマコトちゃんだって分かってるでしょ?」
「ああ、そうだな。能力で見ればそうだ。でも……それでも私はお前に議長をやって欲しいんだ。小さい頃に、同じ夢を見てくれた、お前に」
「……あ」
――覚えていてくれたんだ。
それが私の素直な驚きで、喜びだった。
小さい頃、キヴォトスを支配してみせるとジャングルジムの上で宣言したマコトちゃんの姿に憧れて、私をその世界に連れて行ってくれるって言ってくれたのが嬉しくて。私はマコトちゃんに誓ったんだ。
マコトちゃんの支配する世界を、一緒に見るって。
でも結局小さい頃の話だから、マコトちゃんはすっかり忘れているものだと思っていた。
でも、忘れてなかったんだ。マコトちゃんも私も、ずっと同じ思いを抱いていたんだ。
「ゲヘナを、キヴォトスの事を思って共に支配者となりたいと誓ってくれたお前になら、私の横で私の夢の力添えをしてくれたお前になら託せると思ったんだ。だからサツキ、頼む……私の代わりに、私の夢を叶えてくれ……!」
マコトちゃんが私の手に自らの手を重ねてくる。
とても細くなってか弱くなった、そんな手だった。
「……うん、分かったわ。マコトちゃんの後は、私が引き継ぐ」
私の涙がマコトちゃんが重なり合わせてくれた手の上に落ちる。
「すまない……本当に、すまない……!」
マコトちゃんの涙もまた落ちて、お互いの涙の雫は混じり合ったのだった。