マコトちゃんが議長を辞める前は、しばしばマコトちゃんの部屋に遊びに行っていた。
彼女の部屋はよく整理整頓されていて、普段の行き当たりばったりな事をする姿だけを知っている者だったら意外だと驚くかもいしれない。
でもマコトちゃんはむしろそういうところはしっかりとしていて、いつ来ても掃除は行き届いていたし物もちゃんと綺麗にアレはあそこコレはあそこと機能的に分けられていた。
だからむしろ遊びに来た私がいっぱい汚しちゃう事も日常茶飯事だったのだけれど、マコトちゃんはいつもそれを「キキキッ! それもまたゲヘナ生らしい自由さだ! 別に私は構わんぞサツキ!」なんて言ってくれたものだ。
でも、今のマコトちゃんの部屋はもうそんな面影も残っていなかった。
辺り一面に物が散乱しまったく片付けられていない。
最後に掃除機がかけられたのかがいつかも分からないぐらいに埃があちこちに積もっている。
分別も何も関係なくただゴミが突っ込まれただけのゴミ袋がいくつも転がって中身がこぼれている物だってある。
自分自身の面倒すら見れなくなった者の惨状が、そこにはあった。
「悪いな……少し散らかってしまっていて」
でもマコトちゃんはそれでも私に微笑み言ってくれた。
明らかに寝不足の隈ができ、目力もなくなって声もすっかり大人しくなった姿で、私を気遣ってくれた。
それが、本当に辛かった。
「いいのよ……ところでマコトちゃん。さっそくだけれどいいかしら」
私はマコトちゃんと一緒にテーブルにつき、彼女が置いてくれたインスタントコーヒーを一口飲んでから言う。
まるで家庭訪問のようだなとそんな場違いの考えがふと湧いて、すぐさま頭から捨てた。
「ああ、なんだ?」
「イロハと会って話して言ったらしいわね。『自分に何かできる事はないか』って」
「……ああ、そのことか」
私の言葉で僅かに俯き言うマコトちゃん。
そしてまた私に目を向け、笑みを作って言ってくる。かつてのように尊大になろうとしているが、どうしても歪になってしまっているそんな憐れみすら浮かぶ笑みを。
「確かに、私は自ら議長の座を降りた。だが、今はこうして身体も回復している。ならば例え議長に復帰とまではいかなくても、また私が万魔殿のために、ゲヘナのためにできる事があるだろうと、そう思えたのだ。なのにイロハは『私は何もしなくていい』などと……」
大きく見開いた瞳は、本当に見えているのかすら怪しく思わせてくる。
物理的な焦点が合っていたとしても、現実そのものに目を向けられなくなっている、そんな姿を私は今のマコトちゃんから感じた。
「マコトちゃん、誰よりもあなたが分かってるでしょ? 今のマコトちゃんはもう、どうやっても万魔殿の政務には関われないし、関わっちゃ駄目だって。だってそのためにマコトちゃんは議長を辞めて、私に託してくれたんじゃないの……!」
「ああ、そうさ……だから私はお前に議長の席を明け渡した。けれども、まだ……そうさ、まだ私はできるはずなんだ……!」
低調だった彼女の語気がどんどんと強くなっていく。
その手に握ったコーヒーカップがカクカクと震え、中の濃すぎる味のインスタントコーヒーがゴミに囲まれたテーブルを汚し、新たな染みとなっていく。
「私がゲヘナを守らねばならぬのだ……それが私なのだ、万魔殿の議長であった羽沼マコト様なのだ……私が、私がやらねばならんのだ……! 例え自ら辞したとしても、私は……!」
「……マコトちゃん」
私が仕事を理由に彼女から目を背けていた結果が、これだ。
彼女の心を苛む苦しみは結局誰も未だ取り除けていなかったのだ。先生もティーパーティーのトップも他多くの生徒が気にかけても、マコトちゃんは未だ不安と痛みから逃れられていない。
ならば……私がやるしかない。
マコトちゃんは頑張らなくてもこのゲヘナは大丈夫なんだって、教えてあげないと駄目なんだ。
「……マコトちゃん。もう、いいのよ」
「…………え? サツキ……何、を……?」
マコトちゃんが間の抜けたような静かな声を上げる。
私はとにかく、静かに彼女に語りかけた。
「もうマコトちゃんが頑張る必要はないの。自由になってもいいのよ。もうマコトちゃんはただ一人の生徒、私の大切な幼馴染である羽沼マコトなの。投げ出していいのよ、何も気にしなくていいのよ……だから、マコトちゃん……後はあなたが育てた私達に、あなたを想う人達に任せていいの……ね、お願いよ」
「…………あ、ああ……そう、か……そうか……なるほど……そうか……ふふっ……はは……そうか、そうか……」
俯き、呟くマコトちゃん。
とても疲れた笑いがこぼれるも、納得はしたような繰り返しだ。
残酷な事を言ってしまったかも知れない。
けれども、これを自覚することできっとマコトちゃんは前に進んでくれると思う。
決して完璧なハッピーエンドとはいかなくとも、お互いに笑い合える、そんな日々がまた――
「――お前まで、そんな事を言うんだな。サツキ」
感情が消えた、暗く重たく冷たい言葉が、マコトちゃんから飛んできた。
彼女が頭を上げて、私にその顔を再び見せる。
心の輝きが消えた、憎悪と悲しみ、そして何よりも絶望がひしひしと伝わってくる、そんな顔をしていた。
「……え、あ……? マコト、ちゃん……?」
「どいつも、こいつも……私はもう『ただ一人の生徒なんだから』と、私は『既に議長じゃないし何もしなくていい』などと『羽沼マコトとして自由に生きろ』などと……などと、などと、などとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとなどとぉ……ふざけるな……ふざけるなぁ……ふざけるなぁっ!!!!!!!!!」
マコトちゃんは小声から一気に大声になり、その張り上げた声の勢いと同じくらいに力いっぱいコーヒーカップを床に叩きつけ、そして机に両手の握りこぶしを叩きつけた。
コーヒーカップは粉々に砕け、そして彼女の手はあまりにも強い力で握っているらしく、その拳からは血がにじみ出ていた。
「私はっ!! 羽沼マコトだぞ!? 万魔殿議長である羽沼マコト様なのだ!!!! 羽沼マコトである前に万魔殿議長なのだっ!!!! 私がっ、私が何よりも夢見て、努力して、幸せだった姿をどいつも、こいつも、否定して……ならば、私は、私がやってきた事はなんだったのだ……なんだったのだぁっ!!!!」
――私は、また間違ってしまった。
喉が潰れる程に叫ぶマコトちゃんの姿を見て、私はやっとそれに気づいた。
「私がしてきた事は、私が夢見て叶えていたと思っていた姿は、人からしたらそんなすぐに割り切れるような、捨てられるようなものだったのかッ!!??」
私達は、最初から間違っていたんだ。
「私が憧れた先生もッ! 私がずっと政敵として戦ってきたトリニティの連中もッ! 私が気に入らないと邪魔していた風紀委員会共もッ! イロハもチアキもイブキもッ!!! どいつも、こいつもッ!!!!!」
私達はマコトちゃんが自分を認めてあげられればいいんだと思っていた。
議長という座に関係なく、自分を一人の人間だと肯定できればマコトちゃんは救われるんだって。
「あんな派手にぶっ倒れても、議長を辞めたらすぐ元通りッ! なんだ? 私がしてきたことなんて、その程度のモノだったのか? ああそうなんだろうなァ!? 結局、私は掃いて捨てる程いるその他大勢!! たった一人の生徒に過ぎないんだものなァ!?!?」
逆だったんだ。
自分から立場を捨てた訳だけれど、それに一番納得が行ってなかったのはマコトちゃん本人で、誰よりも捨てた夢をまた欲しがっていて、だからこそ『議長としての羽沼マコト』でまた彼女を見てあげなきゃいけなかったのに、私達は『だたの羽沼マコト』として見て、彼女の一番大事なものを、粉々に踏みつけちゃったんだ。
「ああ、分かるぞ! 貴様らの考えている事がッ! 自分から立場を捨てた癖にしがみついている様を憐れんでいるんだろう!? 助けてあげなきゃって思ってるんだろう!? ああそうさ、私は馬鹿で阿呆の羽沼マコトさ! でも仕方ないだろう!? あのときは、あれが、あれが一番議長として正しいって思って、でも、でも私は、やっぱり議長で、いたいって、気づいて……!」
憧れの自分になれる人なんて『ほんの一握り』な事はみんな知っている。
でもきっと自分は他とは違う、特別なその『ほんの一握り』だと信じてみるけれど結局はいつかそうじゃないことを受け入れて『その他大勢』であることを受け入れ身の程に合った幸せを享受していく。
「確かに私は一般の生徒には認知すらされてない議長だったさ……でも、議長として関わってきた相手ならきっと、違うって思ってたのに……! 違った、みんな、私じゃなくても問題ないと、いなくていいなどと、所詮、私も群れの中の一匹にしか過ぎないと、つきつけてきて……」
その点、マコトちゃんは間違いなく『ほんの一握り』の側だったのよ。
だからこそ彼女は自らのなりたい自分になって、何者かになれていたはずなのよ。
でもそうじゃなくなってしまった。
『その他大勢』が『ほんの一握り』になれないと悟る事よりも、『ほんの一握り』が『その他大勢』に堕ちてもう二度と戻れない事のほうが、よっぽど人の心に痛みを齎す。
私は今、それを知った。
「でもサツキ……お前は、お前だけは、一緒に夢を見てくれたお前だけは、違うって、そう……思ってたのに……」
「ア……アアア……アアッ……」
そして、よりにもよって私がそのトドメを刺しちゃったんだ。
マコトちゃんが最後の拠り所として、自分の夢を託していいって思ってくれたこの私が、マコトちゃんを、捨てちゃったんだ。
「違う、の……私は……ただ……違うのよ……いや……いやぁ……」
ああ、本来ならこんな風に顔を抑え、俯いて泣けるような立場じゃないのに、私は。
言い訳どころか謝罪すらマコトちゃんの事をバカにしているかのような仕打ちをしてしまって、泣いちゃう権利なんて、ないのに、私は。
どうしても涙を抑えられなくて、どうすれば、私は……一体……。
「――――――………………いや、いい。いいんだ、もう、いいんだ」
と、そこでマコトちゃんが言った。
あまりにも乾いた、諦めの先になる虚ろな声だった。
「マコト、ちゃん……? いい、って……」
「もう、いいんだよ。お前がそう言ってくれたおかげで、私も踏ん切りをつけられた」
顔を上げるとマコトちゃんはそう言って私に背を見せる。
そのままフラフラと歩いていったかと思うと彼女が向かった先は今いる部屋の光が僅かに届いている程度のところにあるベッドで、そこに重なっていた服や段ボールなどのゴミをおもむろに除け始めて、そこからマコトちゃんが手にしたのは――
「――ッ!?!? だっ、駄目ぇっ!!」
咄嗟に飛び出し、マコトちゃんを背中から押し倒してその手にあったものを遠くに跳ね飛ばした。
薄暗い部屋でも異質に輝く、長いナイフを。
「……いいだろ、別に。その他大勢が一人いなくなったところでどうなるって言うのだ。せいぜい人口の数字が一つ減るだけだろう」
「嫌よっ! 駄目よっ! 私は嫌! 死なれたくないのよ! 私、マコトちゃんに死んでほしくなんて……!」
「じゃあ、私はこれから一生苦しんでいけと……? 永遠に届かない夢を見て、無為に一日を過ごして、それを死ぬまで繰り返せって……? 私は、そんな風になりたくなかったんだ。何者かになりたかったのだ。何者にもなれぬままに終わりたくなかったんだ……お願いだ、死なせてくれ、もう……胸が痛いのは、嫌なんだ……」
それは心からの嘆願だった。
必死の祈りだった。
たった一つ残された救済、最後の希望だった。
――私は一体、どうすればいいんだろう?
マコトちゃんに死んで欲しくない。
でもマコトちゃんを苦しめたくもない。
もう彼女の心はボロボロに壊れちゃって、でもそれは痛みを感じ苦しみ続ける壊れ方で、身体の怪我と違って元通りにはできない。
私にはもう、わかんない。
どうすればいいの? 私、一体、どうすれば……。
「うっ、うううううっ……!」
涙がこぼれ落ちる。
権利がないと分かっている涙をまたこぼす。マコトちゃんを抑える手からは力を抜けないけれど、頭を支える事はできずにだらりと下げて、身体もぷるぷると震えて――
――コートの胸ポケットから、あるものがマコトちゃんの背中に落ちた。それは、私がいつも肌身離さず持っているモノ、マコトちゃんからの贈り物の、糸をくくりつけた五円玉だった。
「…………ああ、そうか……そうね……その手が……あったわね」
次回、最終回。