犬の散歩というのは案外を気を配る事が多いのだと、バーゲストを飼い始めてから知った。
最低でも一日一回はこなさないと駄目だが、体の大きさやその日の気温などから回数や時間帯を考慮して行わねばならない。
面倒だからとしないのは飼い主としての責務を放棄している事であり、私としてもできるだけ欠かさずやっている。
そして今日は朝起きたばかりの早朝に行っていた。
「ふわぁ……と、いかんいかん」
ついあくびが出てしまった口元を私はすぐさま閉じる。
万魔殿の議長たる私が油断している姿を見られてはどんなやつに付け入られてしまうか分からない。
私はゲヘナに住まう人々の自由な生活を望んでいる。
だが自由には責任が伴うものであり、大概のゲヘナ生は無意識にそれを果たしているとも言える。しかし、一方でそこに付け込みこのゲヘナを荒そうとする不届き者がいるのも確かだ。
事が起きた後は風紀委員会の連中がやればいいだけだが、事が起きる前に関しては我々万魔殿が目を光らせなければならない連中だっている。
生徒を食い物にしようとする悪い大人は、このゲヘナにもそれなりに潜んでいるのだから。
「バウッ! バウバウッ!」
「ん? どうしたバーゲスト?」
と、そんな考え事をしているなかで突然バーゲストが吠えだした。
ここまでこいつが強く吠える姿は見たことがない。これは一体……?
そんなとき、突如私がいる歩道に黒いワゴン車が乗り上げてきた。
ご丁寧に私の前後どちらにも乱暴に停車し、逃げ道を塞いできている。
「羽沼マコトだな」
車から降りてきたアサルトライフルで武装したロボット連中の一人が言ってきた。
数にして十人程度。
そんじょそこらの雑兵に負ける気はしないが、さすがに多勢に無勢、さらに言えば扱う獲物が狙撃銃の私にとってこの距離は少々まずい。
「……ああ、そうだが」
故に私はあえて落ち着いて連中の話に乗る。
下手に刺激しないようにしつつも、リードを握っていないもう片方の手をそっとポケットにいれた。その中にあるスマホをなんとかイロハに繋ごうと思ったからだ。
「我々と一緒に来て貰おう」
「……キキキ。随分と不躾で無礼な誘いではないか。目上の相手に対する礼節を知らんと見える」
挑発を交えながらも相手から目を逸らさずに手元ではゆっくりとロックを解除する。
画面を見ずともこれぐらいの操作、この私にとっては造作もない。
この程度の芸当、風紀委員会への嫌がらせで日常茶飯事だ。
「ふん、話通り無駄に偉そうなやつだ……なら、少し静かにして貰おう」
目の前の奴らが私にアサルトライフルを向けてくる。
一方で、私からイロハへの連絡は成功した。コールを二秒のタイミングで切るという、こういったときのために作っていた合図だ。
「はっ、やれるものならやってみろ。そしてこのマコト様に銃を向けた愚かさをその身を持って知るといい」
やることはやった。
後はこいつらとの戦闘を切り抜けるだけ……そのはずだった。
「バウウウッ!」
だが、そのとき足元でずっと唸っていたバーゲストが目の前のロボットの男に飛びかかっていったのだ。
「バーゲストっ!? 止めろ!」
さすがにこれは私も焦って身動きしてしまう。
そのせいで張り詰めていた意識が解け、銃弾で撃たれるまでもなく大きな隙を生んでしまう。
直後、私の体に強い電流が走った。テーザーガンだ。
「ガッ……!?」
動けなくなり歩道にその体を正面から打ち付けてしまう。懐からスマホが滑り落ちて、目の前の男に踏み潰される。
「クゥン……!」
くぐもった音でバーゲストの悲鳴が聞こえてきた。
痺れたままだんだんと薄れゆく意識の中で見たのは、男達に飛びかかっただろうバーゲストがサッカーボールのように蹴飛ばされている姿だった。
*****
目覚めたときに視界に入ったのは薄暗い証明で照らされるコンクリートの床だった。
季節を考えても蒸すような暑さで不快な汗が体から既に床に落ちていて、少なくともまともな場所じゃないのは理解できた。
少し視界を上げてみるとそこには鉄格子があって、どうやらここは牢屋の中であるのも把握した。
「……ぐっ!」
より状況を確認するために周囲を見渡そうとしたら、首に冷たい痛みとともにジャラリ……という耳障りな音がした。
自由だった手で触って確認すると、私の首元には鋼鉄製の首輪がつけられているのが分かった。
それは鎖で壁に伸びており、これまた頑丈そうな金具で固定されている。鎖の長さからせいぜい動けて一・五メートルもない程度の範疇までだろう。
まるで飼い犬のようだな、と思った。
「……はっ!? そうだ、バーゲストは……!」
そこで私は誘拐されたであろう私と共にいたヤツの事を思い出す。
最後に見た光景が、頭に浮かび焦燥が襲ってくる。
「やあ羽沼マコト君、目覚めたようだな」
と、そこで薄ぼんやりとした光の向こうの闇の中から声がした。
表れたのは恰幅のいいロボットの男だった。
「……なんだ貴様。この私を拐って何を企む」
「企み? それは簡単だ。キヴォトスを我らが手中に収める事だよ」
この言い方を見るに、どうやらバーゲストを拾ったときのペット泥棒の一味……というよりその組織のボスなのだろう。
だが私を拉致監禁している理由はまだ不鮮明だ。
キヴォトス征服を目論む野心と今現在の私の状況とがいまいち点と点で結ばれない。
「それで? ここまでして私を誘拐し捕えて何をさせようと言うのだ? 言っておくが私は貴様らのような三下と手を組むつもりはない。このキヴォトスを手にするのは一人でいいからな。キキキッ!」
「はん、無礼なガキが。別に貴様の手を借りようなんて思っとらんわ。貴様を拐ったのは、貴様への報復が目的だからな」
「報復、だと……?」
「ああ! 貴様が打ちのめして捕えられたのはこの儂の倅だったのだ! それを貴様のせいで……! 散々痛めつけてその哀れな姿をキヴォトス中にバラまいてやらねば気が済まん!」
「……ふん、なるほどな。呆れたものだ」
つまりこいつはただの三流悪党なのだ。
そんな事をすればすぐさまその身を滅ぼすというのに、その程度の事も考えられずに短絡的な行いをしてしまっている。
なんならまず先程私が自身の誘拐の理由を聞いたと言うのに出した答えが己の野望だったあたりからして頭の出来がよろしくないのだろう。
こんなやつにキヴォトスを手に入れられるものか。
「ええい、舐めおって……! さっそくこの牢屋に“アレ”を入れろ! まずは存分に苦しんでもらう!」
私の態度に激昂した男は近くにいた部下に指示を飛ばした。
どんな拷問をされようとこの羽沼マコト様が折れる事はない。まったく無駄で愚かな行いだ。
そう思っていた私だったが、そこで持ち込まれた“ソレ”を見て、私は思わず驚愕してしまった。
「……バーゲスト?」
「グルルルルル……ガアアアアッ!」
そこにいたのは狭いケージに押し込められたバーゲストだった。
だが、明らかに様子がおかしかった。目は白く普段のやんちゃっぷりとはまったく性質の違う暴れ方をしていて、牙を剥き出しにした口からはデロデロと粘ついた涎が垂れている。
まさしく狂犬そのものだった。
「貴様ら……バーゲストに何をした!!」
「何を? ふん、こいつは元々こうなるために盗んだのだ。このキヴォトスに生物兵器をばら撒くそのキャリアとしてな」
「……何!?」
そこで思い出す。キヴォトス全土でペット盗難事件が起きているというサツキの言葉を。
つまり、こいつらはそのために……!
「キヴォトスの生徒共はバカに頑丈だからな。そこで生物兵器に感染させた動物を使い傷口から病を広め、そこに我々が特効薬を売りさばいてのし上がる。そうしてキヴォトスで確固たる地位を築いたうえでその力を使って我々がキヴォトスを支配する! まさに完璧な計画だ!」
「……この阿呆共がっ!」
愚か者としか言えなかった。
そんな遠回りで実現の見込みが薄い計画が成功すると思ってるなんておめでたいにも程がある。
だが、そんなバカのせいで今バーゲストは狂わされてしまっている。
それがあまりにも腹が立った。
「ふん、相変わらず威勢だけはいいな。それもいつまで持つかな? ほら、貴様の飼い主と遊んでやるといい!」
「ガアアアアッ!」
男の言葉でケージが丸ごと牢屋に投げ込まれる。
投げ込まれたケージの蓋は簡単に開いて、それと同時に牢屋の扉もまた閉じられる。
そして、ゲージが開いてすぐさま、バーゲストは私に向かって走ってきてその牙を腕に突き立ててきた。
「グウッ……!? バ、バーゲスト……!」
「グウウウウウウウウウ……!」
もはや目に正常な光はなく、牙はいつもの甘噛みではない全力の噛み付きだ。牙が突き立てられた腕は制服の袖を貫き深々と私の肌を穿っている。制服から血が滲み出て黒に赤を混ぜ、そのまま灰色のコンクリートにぽつぽつと零れ染める。
「落ち着け……私だ……正気に戻れ、バーゲスト……!」
「グウウウウウウウ! グルウウウウウウ!」
「ハハハ! 無駄だ! そうなってはもはやそいつは死ぬまで人を嚙み続けるけだものでしかない! お前が可愛がった子犬がさんざん人を傷つける事になるんだ!」
「…………おのれ……!」
その言葉が本当なら、もうバーゲストは助からない。
男が言う通り無差別に生徒を襲い、殺処分されるまで狂い続けるという事なのだ。
そしてそれは、我がゲヘナの生徒に多くの不幸をもたらすという事でもある。
私達の中で愛されたこいつが、私達が守ろうとしたゲヘナを傷つける。
もし、そうなるのなら、私がするべき決断は……。
「……バーゲスト」
――ああ、最初に私になついてきたときは本当に鬱陶しかったな。でも悪い気もしなかった。私は犬は嫌いだったが、一匹寂しくしているであろうこいつを見捨てる気にもならなかった。
「グルルルル! グウウウウ……!」
――馴染んでからは、ただでさえ騒がしい執務室がより賑やかになったものだ。覚えているかバーゲスト? お前はよくイロハの髪の毛に飛び掛かっては困らせていたよな。お前にとってはきっとフワフワの毛布扱いだったんだろうな。イロハは困った顔をしていたが、嫌という訳でもなさそうだったよ。
「グガアアアア! グルルルルル……!」
――いの一番に仲良くなったのはやっぱりイブキだったな。お前とイブキがじゃれあう姿はとても愛らしい光景で和んだものだ。その光景を毎度チアキがカメラに収めていてそのどれもが映りがよくて、あいつもよく笑顔になっていたものだ。偶然出くわしてしまったライオンマルとも意外と仲良くやれて、ツーショットが週刊万魔殿の表紙を飾る事もあったな。あれはいい一枚だった。
「ガウガウガウガウ! ガウウウウ!」
――サツキの五円玉はすっかりお前のおもちゃになっていたな。あいつが「動物実験よ!」なんて五円玉を取り出して振るときは遊びたいという合図で、だいたいいつも最後にはべろべろとアイツの顔や体を舐めていて……知ってたか? アイツは実は道行く大型犬にも怯える事があったんだぞ? それを考えると、お前は本当に凄かったんだ。
「ウウウウ……ウウウ……!」
――他にも、お前と過ごした日々はいつの間にか当たり前になっていって、最初は苦労した散歩のスケジュールとか粗相の後始末とか、餌やりの配分とか躾とか、ともかくそんなすべても苦にならないぐらいに、楽しくて、かけがえがなくなっていたんだ。そんなお前が、こうなってしまって、ゲヘナの生徒に牙を向けると言うのなら、私は……。
「……私は……ッ!」
腕に噛みついていたバーゲストを床に叩きつけ、その首を手で抑える。
うめき声を上げてなお激しく暴れていたが、見ない事にした。聞かない事にした。
ただただ、その手にありったけの力を込めた。
「キャウンッ」
あまりにも細く呆気ない断末魔だった。
先程まで文字通り狂い暴れていたバーゲストは、ものの数秒でもはやまったく動かない、ただの“モノ”になった。
「…………すまない」
自分にだけ聞こえる声で、私は謝った。
何に対して私は謝ったのだ? 命を奪ってしまったこいつ自体に対してか? それともこいつを奪ってしまったみんなに対してか? 馬鹿らしいな、その誰にも私の謝罪は届かないというのに。
ただの自分に対する、その場限りの愚かな慰めでしかないじゃないか。
「ふん、思ったよりあっさり終わったな。まあいい、ここからが本番だ。ここから貴様は痛めつけられ、辱められ、尊厳を踏みにじられる姿をネットで生中継されるのだ。ゲヘナ学園のトップの無様な姿をキヴォトス中の人間に見られるといい……!」
太った男の部下がカメラをいつの間にか用意し、他にも何人もの男共が刃物やら鞭やら、他にも何に使うかも分からない謎の器具など様々な道具を持ってこちらを見ている。
これから私がそれらで恥辱を晒してしまう事が、嫌でも分かった。
「…………」
私はそれに、睨み返す事もできず、ただただ血が出る程に唇を噛みながら俯くだけだった。