「結論から言います。議長の体は、我々救急医学部では治せません」
ゲヘナに帰還して次の日の朝、救急医学部が保有する保健室にて向かい合って座るセナから開口一番伝えられたのがこの言葉だった。
「…………そうか」
私はゆっくりとまぶたを閉じ、そこからしばらくしてからため息を吐き出すように答えた。
薄暗い部屋はとても静かで、小さすぎて賑やかな学園では誰にも届かないような声量でもこの部屋ではやたらよく響いた。
「怒るどころか動揺すらしないのですね」
「……最悪、こうなるかもしれないとは想定はしていたさ。だがまさか本当になるとも思っていなかった。なぜだ? 特効薬は見つからなかったのか?」
奴らは言っていたはずだ。自分達が特効薬を配って金儲けをするのだと。
もしセナ達に特効薬を作る技術がなかったとしてもそれを使えばいいはず。だが彼女は私の病は治せないという。
つまり、奴らも予想していなかった事態が起きている……という事か。
「……あえて乱暴な言葉を使わせてもらいますが、彼らは自分が作ったものすら分かっていない阿呆で分不相応な野望を抱いた迷惑でしかない大馬鹿者です」
言葉だけではなく、語気もかなり荒くなっていて表情にも露骨に怒りが浮かんでいる。
ここまでセナが感情的になっているのは私も初めて見た。
それまでに今私の体を侵しているウィルスは彼女の逆鱗に触れたのだろう。
「それほどなのか、私の体を蝕んでいるモノは」
「はい。まず特効薬についてですが、発見自体はされました。ここはさすがの万魔殿と言えるでしょう。ですが問題は、議長が感染したウィルスは本来の形から大きく変異している事です」
「変異……だと?」
「そうです。イロハさん達が特効薬と同時に見つけたデータに残っていたウィルスと今議長の体を今も蝕んでいるウィルスとは明確に姿が違います。これはおそらく、動物を経由し人に感染するという経路の中で変異し、別種のウィルスとなってしまったという事なのでしょう」
「……となると、もしや空気感染や飛沫感染をもするようになっているのか?」
今の話を聞いて、一番に懐いた懸念はそこだった。
もしそうならば私は意図していないにせよこのゲヘナに流行り病をバラまいてしまっていた事になる。そうなれば、私はみんなに助けてもらう価値などなく、むしろ放って置かれるべきだったのかもしれない。
だがセナはそんな私の心中を知ってか知らずか、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、感染経路に関しては元と変わらない傷口から体液が混入する事による感染です。そして現状、このウィルスの性質とこれまでの経緯から考えて咳などによる空気感染および飛沫感染をするように変異する事はないでしょう」
「そうか……良かった」
私は少し安心して、背もたれに体重を預けて天井を仰ぐ。
薄暗い部屋に照らされる天井は間違いなく白くて清潔だった。私とはまるで正反対だ。
「良くなどありません」
ピシャリとセナが反論してくる。
だが、私は変わらず静かに首を横に振って返した。
「良いことさ。下手にパンデミックでも起きたなら、ゲヘナは今が可愛いと思えるぐらいの無法地帯となっただろう。そうなったら目も当てられん」
ゲヘナの議長がゲヘナを壊すなどお笑いもいいところだ。
それでは遠い昔と成り果てた『雷帝』の統治下時代に何も口出しできなくなる。そんなのはごめんだ。
「そのためにはご自身の体はどうなっても良いと?」
「そうは言っていないが、かといって現状はどうにもならんのだろう?」
「手がないわけではありません。今の私達には薬を作るには長い時間がかかってしまいますが、他校……そう、ミレニアムが持つ最新鋭の医療機器を用いたり薬学において名高い山海経の錬丹術研究会の手を借りられれば――」
「――駄目だ。それは万魔殿議長の名において禁止する」
私はセナの言葉を遮り言い放った。
すると、先程よりも一層彼女は不機嫌な表情を見せる。
「……なぜです? 本当に死体になりたいのですか?」
「そういうわけではない。私だって死ぬのは嫌さ」
「では、なぜ……!」
「……例の配信は、どれくらいの人間が見たか知っているか?」
「…………っ」
私が言った事に、セナが押し黙る。
さすが彼女は賢い。私がこれから言わんとすることを既に大方把握したのであろう。
だがこういうのはしっかりと言わねば意味がない。言葉にしなければ伝わらない……なんて事をどこかで先生が言っていたしな。
「このキヴォトスに住む多くの生徒が、大人が、アレを見た。そしてネットに残り拡散されたアーカイブは我が情報部と風紀委員会の奴らが全力で消し回っている。恐らく今週中にはネットの海から消えるだろう。だが、個人の記憶までは手が出せない」
この私がありとあらゆる手で弄ばれる姿を。一人の女としての尊厳などあったものではないような恥辱に満ちた光景を。
アングラなサイトで配信されたはずのそれは、もはや下手な配信者の動画など逆立ちしても太刀打ちできないほどの再生数を叩き出していたのだ。
「それに一部の
人の口に戸は立てられない。
いくら情報統制しても口伝いに広まる噂を抑制する事などできない。
広まれば広まる程それが真実だろうと嘘だろうと関係はなくなっていき、大衆という名の個人の群れが好む“都合のいい事実”は“知ってて当然の知識”となっていく。
「この状況下の中でゲヘナが他校を頼ったと知られたらどうなる? その隙を飢えた害虫共が見逃す訳が無い。貴様は知らんだろうが、今のゲヘナは思ったよりも脆い土台の上になりたっているのだ」
内外で生徒がバカをやる分はいい。それの始末をつけるのは風紀委員会の仕事だからだ。
一方で我々万魔殿はゲヘナを統べ、ゲヘナの支配を広げ、そしてゲヘナを喰い物にせんとたかってくる奴らを追い払うのが役目だ。
そしてこれまでそうしてきたからこそ分かる。
この万魔殿議長羽沼マコトが他校に頭を下げる姿を見せたなら、それは絶好の餌になってしまうのだと。
「だから、議長は治療を拒むのですか。ゲヘナのために、その身を捧げると」
「……ああ、そうなってしまうな。だが今更なんだ。私は……既にかけがえのないものをゲヘナのために犠牲にしたのだ。そんな私が、自分の身は可愛がって捧げないなど、そんな情けない振る舞いはしたくない」
私はじっと手を見る。
もう丸一日以上経つのに、あの感覚が残っている。いくら洗っても落ちない汚れが白手袋から浮き出る程に残っている。だんだんと冷たくなっていく寒さに、手が震える。
「私は万魔殿の議長、羽沼マコトだ。そして羽沼マコト以上に、私は万魔殿の最高権力者たる議長であるのだ」
そのために正しい選択をしたのだ。正しい選択を、正しいままにしなければ駄目なのだ。
もし過去の選択を間違いにしてしまったのならば、そこで生まれた犠牲はもはやなんの価値もなくなってしまう。間違いを認めるという事は、ときに何よりも残酷で非情な行いになってしまう。
情けない事に、どうやら私はそこまで非情になれないようだ。
「……分かりました。患者の意志を無視して治療の無理強いはできませんから。ですが、せめてこちらから出す薬はこっそりとでいいので服薬してください。治す事はできませんが、症状を遅らせる事ぐらいは我々にもできますから」
「……分かった。恩に着る」
ここが落とし所だろう。
私はセナに礼を言いながら頭を下げた。こんなワガママを聞いてくれて彼女には感謝しかない。
できれば、私が彼女から処方される薬を服薬している間に彼女らが自らの手で特効薬を生む事を願いたい。
私が彼女の優しさに報いるとするなら、それを待つまで耐える事だけだろう。
少なくとも今の私にはそれ以外の方法を選ぶ気はないのだから。
*****
「――そういう訳だ。
セナがいた保健室から出た後、私はその足で万魔殿の主要メンバーを先に集めさせていた執務室に向かい、セナと話した内容を要約して伝え机越しに頭を下げた。
できるなら私とセナ、二人だけで抱え込みたかった秘密だがさすがにそれではあっという間に破綻してしまうのは目に見えている。
なので今ここにいるメンバー――サツキ、イロハ、チアキ、イブキ、そして極一部の信頼できる議員達――には伝え、協力を仰いだ。
「……私は反対です」
私の言葉に、イロハが不機嫌さを隠しもせずに言ってきた。
ああ、お前ならそう言うだろうな。
「素直に他校にも頭を下げればいいじゃないですか。なのに私達には頭を下げて他には下げないって、おかしいと思うんですが」
「おかしいおかしくないはどうでもいいんだ。ここで弱みを見せて握られるなんて事を避けたいのは、お前だって分かっているだろう?」
「だとしてもっ……!」
言いたかった事があるだろうに彼女は言葉を切り、イラつきを隠す事もなく太ももに手のひらを叩きつけた。
イロハは聡い奴だ。自分がこれから感情に任せて口にしようとした反論も、すべて私には届かない事を理解してしまったのだろう。
「……すまないな、イロハ」
「謝るくらいなら……いえ、なんでもないです。面倒なのはごめんですから」
途中から僅かに顔を背けて小さく、だが明確にトゲを感じる言い方だった。
けれども、このトゲの痛みなど私には感じる暇も、資格もない。甘んじて受け入れるしかない。
「私は、マコトちゃんがそう決めたなら」
「……はい。私も同じです。マコト先輩が頑張るなら、いくらでも協力します」
サツキが俯きながら静かに、チアキもいつもの快活さが感じられないぐらいに大人しく答えた。
二人だって色々と言いたい事があっただろうに。
私はますます申し訳ない気持ちになってしまった。
けれども、だからといって二人に配慮したような答えに変えたりはしない。それでは意味がない。
故に私はとにかく沈黙を崩さない。
「……イブキ、やだよ。マコト先輩には……ちゃんと体治して欲しいよ……!」
涙ぐんだ声。
これがこの話を通すにおいて最後の関門とも言えよう。
イブキが目を潤ませながら私に訴えてくるのだ。イブキなら間違いなくそう言うだろうと分かっていた。
今までの私だったならばイブキの言う事は何よりも優先していたし、今だってしてやりたい程の衝動に駆られる。
だけれども、もはや私にそんな資格なのはないのだ。ただただ、納得してもらえなくとも謝る事しかできない。
「……悪いな、イブキ」
「うぅ……。なんで……そもそもなんで、マコト先輩はみんなに頭を下げてお願いしてるの……!? そんなの、マコト先輩らしくないよ……!」
「それ、は……」
思わず口ごもり、唇を噛む。
ああ、やはりこの子はとても賢いなと、私は感じた。
私と関係が浅い生徒なら気づく事はなかっただろう。親しいものでも、今のイロハ達のように下手に口にはしないだろう。
だが純粋で、賢くて、まっすぐで……そして幼きが故の自由さを持っているイブキだからこそ口にしたのだ。
「……すまない」
それに対して私が出せた答えは、ただ謝る事だけだった。
「……っ!? マコト先輩の、バカっ!」
イブキはそう叫び、執務室を走り出していった。
「…………」
私はその後ろ姿に、沈黙でしか返せない。
「……私、行ってきます」
「あ! わ、私もっ……!」
イロハとチアキがさらにその後を追っていった。
居づらそうにしている他の万魔殿の議員達にも私は「もういいぞ」と告げて出ていってもらった。
おかげで執務室はとても静かだ。
二人とも、ひどい顔をしていたな……あれは失望なのかそれとも怒りなのか。どちらにせよ、私への信頼はきっと地に落ちてしまったのだろう。
「確かに……イブキがああいう反応をしちゃうのも仕方ないわね」
一人だけ残ってくれたサツキが、私の横で言った。
彼女は椅子に座る私の右手にそっと左手を重ねてくれる。とても暖かい手だった。
「きっといつものマコトちゃんらしくみんなに頭なんて下げないで『もう決めたからお前達は黙ってついてくればいい』ってしてれば心配はされてもこうはならなかったと思うの」
「…………」
「教えて、マコトちゃん。どうして、みんなにお願いなんてしたの?」
サツキの声は、あくまでとても柔らかい。表情もとても穏やかに微笑んでくれている。
彼女はきっと私の考えを既に分かっているのだ。でもだからこそ、あえてこうして聞いたのだろう。
「……それはもう、終わった事だろう」
でも、私が出せたのはこの言葉だった。
彼女はこんな回答をした私をどう思うのだろうか? こんな指導者としては情けない姿を晒した私を蔑むだろうか、落胆するだろうか。
「……うん、分かった」
私の右手に添えられた彼女の左手に力が入り、私の手を圧迫する。
その顔はやはり辛そうだったが、それでも笑ってくれていた。
ただ私の横にいてくれる彼女に、私は自分がどうしようもなく情けなくなってしまった。
「……ケホッ、ケホッ」
軽い咳き込みが肺の中から迫り上がってきた。
これがただの季節の変わり目による体調不良からじゃないことは、言うまでもないだろう。