私がバーゲストの散歩をするようになってから羽沼マコトという生徒が万魔殿の議長だという認識、そして議長としての支持率は上がったわけだがそれはつまり悪評が広まったときの認知度まで上がるという事だ。
これまではここにおいてはプラスの作用をしてきたわけだが、今、それが反転しマイナスの効果を発揮していた。
「……ねぇ……」
「うん、だよね……」
「…………」
廊下を歩く私を見て生徒達が遠巻きに噂話をしている。
小声で何を話しているかを聞き取る事はできないが、それでも内容は分かった。
あの配信動画の事だ。
「よく顔見せられるよね……」
「私にはちょっと無理かも……」
今度はハッキリと会話の内容が聞こえてきた。意志を持って私の耳に聞かせてきたのだ。
陰湿な行いはトリニティのお嬢様共のお家芸だが専売特許ではない。
少女の園である以上、このゲヘナにもそうした行いを好む者はいるのだ。
「……ふん」
私は彼女らを相手にする事なくあえていつも通り廊下の中央を堂々と歩いて見せる。
別に嫌味を言われたとて問いただす事などはしない。それは言ってしまえば言論の弾圧だ。ゲヘナの未来を揺るがす情報を統制はするが、有権者達が思い思いに口にする言葉まで手を出すのはまた別の話ゆえに混同してはいけない。
それに、彼女らはきっと
「……っ!? ……ぅぇ……っ」
一方であの反射的に目を背けた生徒こそが
自分で言うと被害者意識からの過度な見方と捉えられかねないが、私が散々弄ばれた動画はいくらキヴォトスの生徒と言えど正常な感性をしていればどうやっても不快感が強く出るような内容だ。
そしてあの動画を見たという事は、そこで散々弄ばれてしまった私とその内容が紐づいてしまっているだろう。
なのでもし本当に動画を見たのならあのようなただ嫌味を言って満足するだけでは済まない。
心からの憐れみか、生理的な嫌悪感から来る侮蔑か、あるいは異常な欲求を含んだ下卑た目つきかのどれかになるのが普通だ。
目を背けた彼女は口元を手で抑えて気分が悪そうにしながらもチラチラと横目でこちらを見ている。憐憫が六、嫌悪は四と言った割合か。
正直に言ってしまえば、ただのゴシップ好きの悪口よりも実際に見た者の反応の方が来るものがある。
だがそれも私は決して表に出すつもりはない。
私は万魔殿議長の羽沼マコトなのだ。
こんな風評にイチイチとつっかかっているような立場ではない。議長はだた堂々と振る舞うだけだ。
「…………ッ」
ああ、だがクソ……今日はとりわけ
粘りつくような不快感、湿りきった憐れみ、本人も気づいていないだろう倒錯した欲求、そんな様々な感情が視線という形で私を穿ってくる。
だが私は偉大なるこのゲヘナの議長、羽沼マコトだ。こんなものに屈してたまるものか。
「…………」
私は手を握る力を強め白手越しに手のひらに爪を立てながら廊下を歩き切る。
胸中に渦巻く疲労感は、有権者達には決して伝わっていない、そのはずだ。
「ふぅ……」
執務室に戻り座り慣れた椅子につくと私はついそうやって息を吐き出してしまう。
口を大きく開けてはいないが胸元は膨らませ、そして戻すという疲れが露骨に出た動作だ。
思わず出てしまったが、ここに他の議員が誰もいなくて良かった。
「……静かだな」
私がみんなに頭を下げた日から、この執務室に誰かがいる事がめっきりと減ってしまった。
仕方のない事だ。一緒にいても気まずくなるだけだし、誰もこんな情けない女の姿など見たくないだろう。
そんなことを思いながら私は新しく買い替えたスマホをなんとなしに取り出して見る。
開いたのはSNSのアプリとウェブブラウザだ。
例の動画はなるべく拡散しないように主に情報部が目を光らせているが、現実と同じようにネットでも人々の噂を完全に鎮火させることは難しい。
アカウント名が紐づいているSNSでもポツポツと不確定な噂話として話題に上げられているし、匿名掲示板などではより口さがなく既に事実として認定され話題にされている。
こんなものを見てもどうしようもない自傷行為でしかないというのに、それを見るのを止められない。
私はこれほどまでに小さい女だったのかと、自らのしている行為に呆れが出てしまう。
「……ゴホッ、ゴホッ!」
突然の胸の苦しみ、そして抑えられない咳き込み。
咄嗟に左手で口元を覆ってみると、白手袋の上には赤い痰がちらほらと染みを作っていた。
「……クソッ」
悪態をつきながら私はセナから貰った頓服を懐から出して口にする。
錠剤を三錠、ミニボトルに入れた水で流し込む。口元から垂れた水を薬を乗せていた手で乱暴に拭き取る。
まだ咳が軽いうちは二錠で済んでいたが、血痰が混ざり始めてからは三錠になった。
今後の症状の悪化によってはさらに数が増え、別の錠剤も混じえて処方されると言う。まったく面倒で忌々しい事だと、私は再び汚れた左の白手を見て思った。
「――失礼します」
「っ!? ……あ、ああ、イロハか」
扉を開けて現れた彼女に、私は一瞬ではあるが狼狽し咄嗟に左手を机の下に隠てしまった。
動きとしては露骨だったし、見られたか……? また、彼女を落胆させてしまうだろうか。
以前ではカケラも考えなかったような考えが、私の頭の中に湧き出てくる。
「どうした? 何か用か?」
「いえ、ただ業務上の連絡に。例の組織、完全に壊滅しました。どうやら奴らは元カイザーの諜報機関らしく、プレジデントが倒れたときの混乱に乗じて独立したみたいです。どおりで情報隠蔽
「このことは他校は?」
「壊滅に際し風紀委員会が各校の治安維持組織と連携したようですが、マコト先輩の件については伏せ情報も漏れている様子もありません。ご安心を」
「そうか……苦労をかけたな、すまなかった」
これで奴らによる無駄な犠牲はもう生まれなくなったか……。私は心底安堵し、イロハに言った。
一方でイロハは何故か私の言葉に表情を少し怒りを出しているように見えた。何故だ?
「……っ。……いえ、では一仕事終えたので少し休ませてもらいます。ここのソファーはとりわけ寝心地がいいので」
私からは彼女の気持ちは分からぬまま、イロハはそう言うと役員用デスクの前にあるソファーに寝そべり出す。
まあともかく、どうやら先程の私の姿に小言を言うつもりはないらしい。
彼女の普段と変わらないその姿に私は心の中で安心しつつも、やはりそういった姿を見せたくないゆえに「そうか」と一言だけ返してスマホをしまいペンを持つ。
そこまで溜まっているわけではないしなんなら翌日にやっても十分な量なのだが、ともかく手を動かしていた方が気まずさは減るので私は書類の精査を始めた。
「…………」
「…………」
時計の針の音だけが響く。
イロハはよく私の言葉にダルそうな顔を見せていたので、これぐらいがちょうどいいのだろう。私としても、誰かがいれば下手に気を抜いて万魔殿の議長としては情けない姿になってしまう事もなくなる。
そう、これでいい。いいんだ。
「…………マコト先輩」
と、私がそんな事を思っていた矢先に、イロハが小さな声で言ってきた。
寝そべったままで、顔は天井に向けられたままだからどんな顔をしているのかは分からない。
「ん? なんだ?」
「まだ……イブキとは……顔を合わせては、いないんですか?」
「……ああ。あれ以来、少なくとも私の前に姿を見せてはいないな」
万魔殿に来ていないわけではないらしい。だけれども、私との接触はなるべく避けているようだ。
正直、私としても助かった。
今の私がイブキと関わっても、きっと悲しませてしまうだろうから。
「そうですか……。……はぁ…………先輩」
イロハは一呼吸置いて、私に言った。
顔の向きは相変わらずだが、その声には先程よりも力が入っているように思えた。
「私は、あなたの力になると決めました。あなたが頑張るというのなら、私だってちょっとは頑張ってみようと思います」
「……そうか」
僅かにだが、私は微笑んでしまった。
あのイロハがここまで言ってくれた事に、つい喜びが出てしまった。
しかし、こういった反応も弱みになってしまいかねない。他に誰もいないとはいえ、普段からこうではふとしたときに隙を見せてしまいかねない。
だからこそ私はなんとか微笑み程度に押さえて、目を閉じてなるべく声を抑えて返す。
「すまないな」
と。
「……っ! ……………………いえ、仕事ですから」
何か息を呑む気配がしたが、やはり彼女がどういう感情を抱いたかが私には分からなかった。
結局、その日は下校するまでそうして二人でただ静かにしていたままで一日を終えたのだった。
汚れた白手袋を替えたのは、家に帰ってからだった。