マコトが私にまで自身の病状を他者には伏せるようにと連絡してきたのは、マコト自身が自らの状態を知ってすぐだったとセナから聞いた。
そもそもマコトはまず私にも具体的な情報を秘匿しようとしていたらしいが、セナが私は当事者の一人であるということ、そして私の気質を考えると隠すのはむしろ悪手だと説得をしてくれて現在の状況だけは伝える事となったらしい。
そして同時にマコトは「あくまで私自身の病状は伝えたが極めて政治的な判断が絡むため先生は手を出さないでほしい」と強く私に念を押してきた。
ハッキリ言って、私としては納得できない言葉だった。
私には確かに政治に関しては知識も経験もないし、立場上積極的には関われない。
けれどもここで問題となっているのはマコトの体の話で、彼女が苦しんでいるのを見過ごすなんて事はしたくない。
できるなら今すぐにでもユウカやサヤに頼んで彼女の病を治すための環境を整えてしまいたいぐらいだ。でも、やはりここで問題になってくるのは彼女自身の意志でもある。
セナが医療に携わるものとして本人の意志を無視した治療ができないというのは当然の事であるし、それを私が無視する訳にもいかない。
ならば中立の立ち位置であるからこそ私の方で勝手に環境を整えるという手もあるのだけれど、それは結局マコトの意志を無視して彼女を裏切る事になってしまう。
そもそも最新の医療機器を用意するにしてもサヤに頼むにしてもマコトの具体的な病状が分からないと用意できるものもできない訳で、八方塞がりというのが現状だった。
「……やっぱり、本人と話すしかないか」
結局、これしかないのである。
私自身が彼女を説得して、心変わりをしてもらうしかない。
お互い納得できる形に収めるというのは理想論でしかないのは分かってる。だけど、その理想論を諦める姿を私は生徒達に見せたくない。
マコトの理想、そして私の理想、お互いに納得できる答えを出すために話し合う。そういう行為の大事さを、私は自分自身で生徒に見せていかないといけないのだから。
そのために、私はマコトに「話をしたい」という連絡をモモトークで取ってゲヘナに行く事にした。
マコトは一言「分かった」と返してきただけだった。
連絡を取ってすぐに訪れたゲヘナは、ぱっと見ただけでは特に変化があるようには見えない。あまりゲヘナに来たことがない生徒などが見ればいつものゲヘナでしかないだろう。
でも、私には前回――マコトを助けるためにやってきたときと比べて僅かに変化が見受けられると感じていた。
私から見たゲヘナというのは基本的にカラっとした空気が満ちている場所だった。
でも今のゲヘナはどこかジメジメとした重苦しさがあるように見えるのだ。
これはあくまで感覚的なモノでしかない。けれども、少なくとも生徒達の間でよくない空気が流れているのは察せられた。
「先生」
と、大通りで辺りを見回していると背後から呼ぶ声がする。
振り返るといたのはイロハだ。彼女のそばには黒のセダンが停まっていて後部座席の扉が開いている。
この日、私は彼女に車でゲヘナまで運んでもらう事になっていたのだ。
「ああイロハ、わざわざありがとう。さっそく行こうか」
私はさっそく促されたまま後部座席についてシートベルトをかける。
他には誰もついておらず、ただイロハが運転席について発進した。
「わざわざ離れた場所で待ってて貰ってすいませんね。でもどうしても二人っきりでお話がしたかったので」
イロハがそう言いながら運転している車はゲヘナ学園には直接向かわずに大きく回るように遠回りな道を進んでいく。
そう、今回彼女がわざわざ車で迎えに来てくれたのはこうして一対一で話したいとイロハが提案してきたからだった。
マコトにモモトークを送って少し後、またモモトークが来たかと思うとイロハが迎えに来るという連絡事項、そしてまた個別にイロハからこうして話したいと密かにモモトークが送られてきた。
そういった経緯で今、私はそこそこの速度――あまりゆっくりだとゲヘナでは文句を言われて銃撃戦になりかねないだろうから――で車を走らせているイロハからの言葉を待っているのだ。
「……先生、マコト先輩は今、かなりおかしくなっています」
イロハは目線を一切フロントガラスの先から動かさずに言った。
光の加減からわずかに反射して見える彼女の顔はとても固く渋い。
「おかしく?」
「はい。と言ってもおかしな発言をしたり奇行をしたりというわけではなく……いやまあこれは前の方がアレなんですが……ともかく、そういう話ではなく、むしろ逆なんです」
「逆と言うと……つまり、あのマコトがだいぶ大人しくなっているという事、かな?」
私から見てもマコトはこのキヴォトスの中でもだいぶ活動的な方に入る生徒だ。
その背景には彼女が自分自身に絶大な自信を持っているというのが大きいだろう。
自分がキヴォトスを支配する器だということを信じて疑わず、そのままの気勢で彼女が愛するゲヘナのために独特の感性のもとで治世を行っていた。
たまに風紀委員会に行き過ぎた嫌がらせはしていたが、ゲヘナへの統治においては自己顕示欲は出ても暴政をしていたわけではなかった。
そういうところがマコトの面白いところでもあり、いいところであると認識している。
「はい。具体的に言えば……すぐに謝るようになったんですよ、あの人」
「え? あのマコトが……?」
マコトは良くも悪くも後ろを振り返らない子だ。
それはさすがにもうちょっと反省して欲しいななんて思うことも「それはもう終わった事だろう!」で済ませてしまうけれど、だからこそ常に前を向いていられるのが彼女の強みでもある。
きっとそこは万魔殿のみんな、とりわけよく一緒に仕事をしているイロハはよく分かっている事だろう。だからこそ、私は彼女の口からそんな言葉を聞かされて驚いた。
「びっくりですよね。でもなんというか、今まで先輩から嫌と言うほど滲み出ていたあの自信が感じられなくなったと言いますか、守りに入ったといいますか……あんなことがあったんです、それは仕方ないとは理解しているんですけれども……」
イロハがハンドルを握る手に力が入ったのが見えた。
事情は理解できても心がそれを受け入れられず、そしてそれが良くない未来へと繋がる事を察せるときがある。今のマコトは、きっとそれなのだろう。
「分かった。ありがとうイロハ。私も、できる限り話してみるよ」
「……ありがとうございます」
返ってきたイロハの言葉は、普段よりも感情が込められていた。
*****
「よく来てくれたな先生、わざわざ遠路はるばる申し訳ない」
執務室で二人っきりになってのマコトの言葉は、謝罪から始まった。
言葉だけでなく、私を迎えた彼女は丁寧に礼をしてくれたしその表情も落ち着き払っている。
普通の子なら特におかしないところはないしむしろとても礼儀正しい子だというプラスの評価となる所作だったが、ことマコトにおいてはむしろその異常さが分かりやすい動きだった。
「とりあえずコーヒーでいいか? すまないな、最近はずっと執務室に一人っきりなものだから他に用意してくれる議員もいなくてすっかり自分で淹れるようになってしまった」
「え? あ、ああうん……」
マコトが自分でコーヒーを入れてくれるという事に私は一瞬虚を突かれ反応が遅れてしまった。
生返事をしてしまった事を反省しながらも私は来客用のソファーに座る。
そこにカップを二つ持ったマコトがやって来て反対側に座りそれぞれにコーヒーを置いた。
「それで、話とはなんだ?」
置いたコーヒーを一口した後、さっそく本題に入ってきたマコト。
私も話を切り出す流れで自らの前に置かれたコーヒーを口に運ぶ。
「うん、今日は……、っ!?」
コーヒーを口に運んだ瞬間、私は思わず表情を歪め言葉が出てこなくなってしまった。
口の中に広がったコーヒーの雑味が、あまりにも強かったのだ。
私はよく溜めた激務を処理するときに自分に喝を入れるためにあえて苦めのコーヒーを作る事はあるし、よく風紀委員会の子達が苦言を呈すアコのコーヒーもしばしば口にする。
なのでそれなりの雑味なんてむしろ慣れているのだけれど、それにしてもこのコーヒーはひどいと言わざるを得ない。
これは恐らく相当に豆が傷んでいるのだろうし、もしかしたら使っているお湯も古くなっているのかもしれない。
「ん? どうした先生」
だが、目の前のマコトはいたって平気そうな顔で再び口につけていた。
これはもしや、私が考えていた以上にマコトの体はやられているのかもしれない……。
そんな懸念を抱き少し狼狽しながらも、とりあえず話を進める事にした。そこに先に触れては、この後の話もうまく持っていけないかもしれないからだ。
まずは端的に要件を伝える、それが肝要だ。
「……マコト。どうしても治療に他の学校の力を借りる気はないのかい?」
「なるほど……まあ、そんなことだとは思っていた。ここに来るまでイロハとも随分とおしゃべりを楽しんだようだしな」
やはり、マコトには分かっていたか。
まあ当然か。あのモモトークの後のやり取りに直接話に来たのだしその道中で向こうから手配されたとは言え普段は使わないイロハからの送迎があったのだから。
でも当然こんなのは織り込み済みな訳で、私は構わず話を進める。
「うん。イロハも凄いマコトの事を心配していたよ」
「ハッ、随分なお節介焼きになったものだなイロハも。らしくない」
「らしくないのはマコトの方なんじゃないかな? 普段のマコトなら、もっとみんなに構わず迷惑をかけていたと思うのだけれど」
「まあ否定はしない。ただ、私もそろそろ成長が必要だと思い振る舞いを改めているだけだ」
「成長、ね……私には痩せ我慢にしか見えないけれど」
「そういうのをハードボイルドと言うのだろう? いいではないか。先生が好きな“ロマン”とやらがあって。万魔殿の議長たるもの、ゲヘナの生徒に夢を見せるのも仕事のうちだ」
お互い、ある程度予想していた会話の応酬をしているのが分かる淀みなさだった。
相手がどう返してくるかを分かっているからこそそれに用意した言葉を出すのを繰り返す行為で、私もマコトもお互いの考えを一切変える気配もない。
表面だけで取り繕われたやり取りで、言葉は交わしているがこれでは会話をしていないのと一緒だ。
何かマコトを揺さぶるための突破口は……と少し考えたとき、私は気付いた。
目の前のテーブルに置いたコーヒーカップに。
「……ところでマコト。いつの間にかコーヒーの趣味が変わったのかな? こんな甘い味が出る銘柄じゃなかったよね、以前は」
「は? 何を……いや、そんなはずは……」
マコトは私の言葉を受けてカップをひと目見た後にコーヒードリッパーの方へと視線を向ける。
と、そこで彼女はハッとなって私の方へと視線を向けた。
そこでじっと見る私の目と彼女の目が重なり合った事で「……クソッ」と苦々しく悪態をついたマコトは、片手で被っている帽子を脱ぎ顔の上半分を覆い天井に向ける。
「……やられたな」
「取り繕う事はしないんだ」
「あの一連の動作を見られた時点で、先生にはもうバレていると分かってしまったからな。私は先生がどれほどずば抜けた指導者なのかを理解している。あの時点でいくら嘘を並べようとただの時間の無駄でしかない」
確かに意図したカマ掛けではあったけれど、やはりマコトは相当に私の事を買いかぶってくれているようだった。
実はそこも計算にいれたものではあったので、これが効果を発揮したという事はマコトはまだ私が知っているマコトでもあるという事で、少しだけ安心する。
でも、それ以上に大きな問題がはっきりとしてしまったので笑う事などできない。
「じゃあ、やっぱり……」
「……ああ、私の味覚はもうやられている」
「……マコトっ!!」
私はテーブルをバンッ! 両手で叩きつけて立ち上がる。
それに対し、あくまでマコトは落ち着いたまま帽子を被り直し上半身を起こした。
「別にこの程度の事、騒ぐ事でもないだろう。さすがに今のは先生だから看破できた事で、他の場ではなるべく食事を避ければいい。会食となったとしても出されたメニューに定型文で返せばいいしな」
「そういう事を言ってるんじゃないよ! そんな体で未だ積極的に治そうとしない事に私は怒ってるんだ!」
「……まさか先生からこんなにはっきりと怒りをぶつけられてしまうとはな。このキヴォトスに住まう生徒としては珍しい体験をしたのかもしれん」
「茶化している場合じゃない! マコト、こうなったら私は――」
「――駄目だ。いくら先生でも、この件には一切手出し無用とさせてもらう」
自嘲気味に笑っていたマコトが私の言葉に一気に冷たい声で返してくる。
――しまった、感情的になりすぎた……!
自分自身を顧みない彼女の言葉に、今度は私がミスを犯してしまった事を自覚する。
先程までこちらが握っていた話のイニシアチブはこれであちらに渡ってしまった。
「これはすべてゲヘナを守るためだ。ゲヘナという土地は腐ってもこのキヴォトスにおいて最も力を持つ学校の一つだ。故に目には見えぬ多くの悪意から狙われている。これ以上、下手に隙を作るわけにはいかないんだ。それこそが万魔殿議長たる私が担った責務であり、義務であり、役割なのだ」
「だからって、マコトはマコトだよ……議長の前に、羽沼マコトっていう、一人の生徒なんだよ」
「いいや違うな。私は羽沼マコトという個人である前に、この万魔殿の議長なのだ。だから……お願いだ先生……私に、議長でいさせてくれ。私から……議長であることを奪わないでくれ」
マコトの声が後半から細くなった。
そこで私ははっとして気付いた。彼女の表情が脆くなってしまってることで、やっと把握した。
万魔殿議長という立場は、私達が思っている以上に彼女が大事にしたいものなのだ。何よりも守りたい、彼女の理想でもあるのだ。
だからこそ、彼女はここまでの無理をしようとしているんだろう。
理由は様々だけれど今まで私が見てきた多くの生徒が患っていた心の苦しみ――誰にも頼らず一人ですべてを抱え込もうとする苦しみとしては、とりわけ厄介なしがらみに彼女は囚われてしまっているのだ。
「それでもやっぱり……マコトは、マコトなんだよ」
でも、だからこそ私はこう言い続けるしかなかった。
想いに縛られすぎて、やがて自分自身を失い、果ては何をしたかったのかすら分からなくなる。
そんな生徒を、私はたくさん見てきたから。
「……話は終わりだ。いいか先生、下手なことはしないでくれ。シャーレには常に万魔殿による監視をつけているし、それはセナを始めとした他の事実を知る者も同じだ。なのでもし勝手に他校へと協力を仰ごうとしてもすぐに分かる。そしてもしそんなことをすれば……私はゲヘナを守るためにゲヘナを傷つける事になるだろう」
マコトは私との会話を打ち切ってそう説明してくると、立ち上がって入口を彼女自らの手で開いた。
「お帰りはこちらだ。帰りもイロハに送らせる。ぜひゆっくりと二人の時間を持つといい」
もはや取り付く島もない。
ここから先、下手な無理強いをすることもできない。そうすれば、数え切れない生徒が傷つく事になるだろうから。
なので私は「……分かった」と頷いて扉の手のひらが指す廊下の先へと歩いていく。
少なくとも今日の私には、何もできることはないのは間違いない。
「……私が不出来なばかりに、本当に申し訳ない、先生」
執務室から出るすれ違いざまに彼女がこぼしたのは、自分を卑下した陰気な謝罪の言葉だった。