Kの去勢   作:ジョン・アラサーフェチ

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第1話

「ぎゃははは! ちょっと、それマジ!? ウケるんだけど!」

 

 

 ヘッドセットから弾けるような友達の笑い声が響く。

 Giscordの通話画面では、彼女──ハルのアイコンが声に合わせて白く明滅していた。

 

 

 僕もつられて声を上げて笑う。

 画面の向こう側、何百キロも離れた場所にいるはずの彼女が、すぐ隣の席で肩を揺らしているような錯覚に陥る。

 

 

 そんな時間は、不意に訪れた沈黙によって終わりを告げた。

 

 

「……あ」

 

 

 彼女の声のトーンが変わる。

 僕がカーテンの隙間に目をやると、そこには薄暗い灰色が差し込んでいた。

 夜の特権が剥がれ落ちていく、ひどく心細い色だ。

 

 

「うわ、外明るくなってきた。

 久々にこんな時間まで起きちゃったな」

 

 

「……本当だね。

 もう、そんな時間か」

「そろそろ寝ようかな」

 

 

 名残惜しそうに、けれどどこか満足げに彼女は言った。

 

 

「いやー、やっぱり君は一緒にいて心地良いな」

 

 

 ふふ、と彼女が小さく笑う。

 

 

「だって──君、あたしにがっつかないから」

 

 

「……うん。

 そうだね」

 

 

「あ、そうだ。

 例の編入の手続き、なんとか間に合いそうなんだ。

 単位の読み替えも意外といけるっぽくてさ」

 

 

 彼女の声に、隠しきれない期待と高揚が混じる。

 ずっとニート仲間だと思っていた。

 同じ泥沼の底で、一生ふざけ合って生きていくのだと、勝手に思い込んでいた。

 

 

「よかったね」

 

 

 今冬、彼女は大学への編入が決まった。

 彼女は、光の射す方へ歩き出そうとしている。

 

 

 そんな彼女に対する僕は──。

 

 

 モニターの光に照らされた自分の手を見る。

 白くて、細くて、何も掴んでいない、空っぽの手だった。

 

 

 

♦️◆♦️◆♦️◆

 

 

 

「風俗に行こうと思ってる?」

 

 

 僕の目の前で、彼女――馴染みのカウンセラーは、デスクの端にどっかりと腰を下ろしてそう言った。

 既婚者で、どこかガサツで、けれど僕という人間を数少ない「相談者」として繋ぎ止めている女性。

 

 

「まあ、はい……」

 

 

 消え入りそうな声で答えると、彼女は深いため息をついた。

 

 

「ハァ……久しぶりに顔を見せたと思ったら、なんてアホな相談なのかしら」

 

 

 一週間ほど前から予約していたカウンセリング。

 窓の外には、あの夜明けの灰色を引きずったような、冴えない空が広がっている。

 

 

「……一応ですが、僕にとっては真剣な悩みなんですよね」

「ふむ。

 じゃあ、納得のいくように話してみてごらんなさい」

 

 

 彼女は足を組み、僕を促した。

 僕は、モニターの光に透けて見えた自分の「空っぽの手」を思い出しながら、言葉を絞り出した。

 

 

 唯一の拠り所だった彼女のこと。

 彼女が大学へ編入し、光の射す場所へ行ってしまうこと。

 そして何より、彼女が僕を「心地良い」と言ってくれた理由が、僕が「がっついていない」からだということ。

 

 

「あいつにとって、僕は『安全なニート』でなきゃいけないんです。

 でも中身はただの男で、クズなんです。

 いつかあいつを汚い目で見て、全部ぶち壊してしまうのが目に見えてる。

 ……拒絶されるのが恐ろしい。

 そのためなら、僕は、僕を殺してでも『安全』でいたい……」

 

 

 そこまで言って、沈黙が流れた。

 彼女は僕を哀れむでもなく、ただ冷めた目で観察していた。

 

 

「なるほどね。

 つまり……『私は性欲を捨てます。

 だから、私を拒絶しないでください』と、そう言いたいわけ?」

「……そうですね」

「だから、他人の体を使って『自分は清らかです』っていうアリバイを作りにいくわけだ。

 随分と高くつく免罪符ね」

「……」

「せっかくいい感じの女の子ができたと思ったら、結局そこに行き着くわけ? 極端なのよ……でも、そうか。

 風俗で性欲を捨ててくれば、彼女の『特別』で居続けられるって、そう信じられるってことか」

「……そうですね」

「その縛りが、今のあなたにとって、自分も女性と繋がれるっていう唯一の希望を与えてくれたのね」

「……」

「アナタにとって、風俗は『逃げ』なの? それとも『救い』なの?」

「……わからないです。

 ただ……」

 

 

「ただ……」

「ただ?」

「ただ……『可能性』を殺しておきたいんです。

 童貞のままだと、心のどこかで『いつか彼女と』なんて夢を見てしまう。

 それが嫌なんです。

 金で買った関係で済ませてしまえば、僕はもう、彼女の物語の登場人物にはなれない。

 ……そうやって自分を『失格』にしておけば、彼女が離れていく時も、笑って手を振れると思うんですよね」

 

 

「……ふぅん。

 随分と極端な美学ね。

 でもね、皮肉なものよ。

 そうやって自分を追い込んで、勝手に傷ついてる姿……はたから見れば、捨てられた子犬みたいで、妙に『そそる』顔してるわよ。

 案外、そのままでも彼女は受け入れたりしてね」

 

 

 そそる顔……?

 

 

 ――じゃあ、お前は僕とセックスできるのかよ。

 

 

 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。

 それは確実に、この場所との関係を破壊する言葉だ。

 彼女は既婚者で、僕は相談者。

 その境界線を踏み越える勇気も、壊す覚悟も僕にはない。

 

 

「……あなたがたにとって、恋愛とは空気のように当たり前のものかもしれませんが」

 

 

 僕は震える声で、絞り出すように言った。

 

 

「僕にとっては、雲のように届かないものなんです」

「そう感じるから事実に違いないって、主観と現実をごちゃ混ぜにするのは悪い癖よ」

「いえ、事実です」

「そんなこと――」

「――あります」

 

 

 強い口調で遮ると、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 

 

「……ありがとうございました」

 

 

 僕は逃げるように椅子から立ち上がった。

 背後で彼女が何かを言いかけた気がしたが、振り返ることはしなかった。

 

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