Kの去勢   作:ジョン・アラサーフェチ

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第2話

 昨日のカウンセリングの後、僕はひどく気になって、図書館に赴いた。

 

 

 手に取ったのはもちろん、夏目漱石の『こころ』。

 学生時代に読まされたはずのそれは、今読み返すと、毒々しいほどに今の僕を侵食してきた。

 

 

「……こういうことか」

 

 

 あの日、カウンセラーの彼女が僕を見て、微かに言葉を濁した理由。

 僕に似ていると言った登場人物。

 それはきっと、作中の「K」だ。

 

 

 Kは、己の道のために禁欲を貫こうとし、恋という世俗的な感情に煩悶し、最後には自ら命を絶った男。

 彼女が言葉を濁したのは、僕をその悲劇に重ねるのがあまりに不吉だと思ったからだろうか。

 

 

 などと考えた途端。

 

 

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 ハルからのGiscordの通知だった。

 

 

『おはよ! 今日も寒いねー。

 あ、例の書類出してきたよ!』

 

 

 返信を打とうとして、指が止まる。

 モニターの光に照らされた自分の手を見る。

 白くて、細くて、何も掴んでいない手。

 

 

 この手は、彼女に「がっつかない」清潔な手だ。

 彼女が「心地良い」と評した、がっつくことのない、

 空虚な清潔さを保った手だ。

 

 

 このままこの手が綺麗であればあるほど、僕は心のどこかで期待してしまうのだ。

「もしかしたら」という、身の程知らずな物語の続きを。

 

 

 だからこそ。

 

 

「……行ってくるよ」

 

 

 誰にともなくそう呟き、僕はアパートの階段を降りた。

 冬の風が、決意を鈍らせるように頬を刺す。

 

 

 向かう先は、金と粘膜の匂いが染み付いた、僕の人生とは交わるはずのなかった街。

 僕のような「持たざる者」が相応の対価を支払うための、俗世の底。

 これからの僕がお似合いの掃き溜めのような街。

 

 

 僕は、Kにはならない。

 死ぬ代わりに、僕は「男」を殺しにいく。

 

 

 

♦️◆♦️◆♦️◆

 

 

 

 為そのものは、記憶に残るほどのものではなかった。

 いや、そもそも記憶に残るような「行為」には至らなかったのだ。

 

 

「やっぱり、立たない?」

 

 

 彼女は濡れた髪をタオルで拭きながら、あくまで業務的な、しかしとげのない声で尋ねた。

 

 

 事後の気まずい沈黙を埋めるように、シャワーの音がやけに大きく響く。

 彼女がバスルームから戻ってくると、湿った空気が狭い部屋に充満した。

 

 

「……すみません」

「いやいや、気にしなくていいよ。

 緊張しちゃってできない人も結構いるからさ」

 

 

 彼女はベッドの端に腰掛け、ポンポンと自分の隣を叩いた。

 

 

「残り時間まだあるし、ぎゅってしてようか」

「……お願いします」

 

 

 僕は情けないほど素直に頷き、彼女は僕の身体に腕を回した。

 知らない柔軟剤の匂いと、安っぽい香水の香り。

 けれど、そこには確かな体温があった。

 

 

 母ですら僕にしてくれなかったことを、この女性はたった数万円で請け負ってくれる。

 ただ抱きしめられるだけの、この温もり。

 

 

 これだけで、今の僕には身に余る報酬だ。

 

 

「お兄さん、こういう店来るの初めて?」

 

 

 抱きしめられたままの体勢で、彼女が不意に尋ねてきた。

 

 

「……はい」

「ふうん。

 なんとなく、そんな感じした。

 ガチガチだったし。

 あっ身体がね」

 

 

 彼女の胸のあたりで、僕は小さく息を吐いた。

 

 

「昔は……来ようなんて思わなかったんです。

 セックスがしたいわけじゃなくて、本当は恋愛がしたかったから。

 金で買った関係じゃ、心の穴は埋まらないって分かってたし」

「ロマンチストだねえ。

 じゃあ、なんで今日は来たの?」

「……逆、なんです」

「逆?」

「最近、心を許せる友達ができて……魂の部分では、もう十分に愛されたって感じてて」

 

 

 顔も見えない相手だからか、普段なら口にしないような恥ずかしい言葉が、するりと喉から出てきた。

 

 

「心が満たされちゃったから、逆に怖くなったんです」

「え?」

「綺麗なままだと、いつか彼女に夢を見ちゃいそうで。

 ……だから、ここでお金を使って、自分を汚しておきたかった。

 そうすれば、もう彼女にふさわしくないって、諦めがつくから」

「……」

 

 

 彼女の手が、僕の背中を優しく撫でる。

 そのリズムが心地よくて、僕は自嘲気味に言葉を継いだ。

 

 

「自分をただの『男』に堕とすためにここへ来たのに……結局、それすら拒否してしまった」

 

 

 僕は彼女の腕の中で、自分の身体を小さく丸めた。

 

 

「男にすら、なれませんでした」

「……そっかあ」

 

 

 彼女は否定も肯定もせず、ただ相槌を打った。

 それから少し身体を離し、まじまじと僕の顔を覗き込んだ。

 

 

「……ねえ」

「はい……?」

「この後食事でも行く? 東京案内したげるよ。

 うまいラーメン屋があるんだ」

「……え?」

 

 

 僕はきょとんとして、自分自身を指差した。

 客と店外で会うなんて、ご法度ではないのか。

 そもそも、役に立たなかった客を誘うなんて。

 

 

 彼女は悪戯っぽく笑って、僕の胸元を指先で突いた。

 

 

「君ならいいよ。

 だって君は──がっつかない人だから」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の身体から体温がスッと引いていくのが分かった。

 ハルが僕に向けた言葉と、全く同じ響き。

 安全で、無害で、去勢されたような男に向けられる、残酷な賛辞。

 

 

 込み上げてくる吐き気を飲み込み、僕は乾いた唇を開いた。

 

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