昨日のカウンセリングの後、僕はひどく気になって、図書館に赴いた。
手に取ったのはもちろん、夏目漱石の『こころ』。
学生時代に読まされたはずのそれは、今読み返すと、毒々しいほどに今の僕を侵食してきた。
「……こういうことか」
あの日、カウンセラーの彼女が僕を見て、微かに言葉を濁した理由。
僕に似ていると言った登場人物。
それはきっと、作中の「K」だ。
Kは、己の道のために禁欲を貫こうとし、恋という世俗的な感情に煩悶し、最後には自ら命を絶った男。
彼女が言葉を濁したのは、僕をその悲劇に重ねるのがあまりに不吉だと思ったからだろうか。
などと考えた途端。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
ハルからのGiscordの通知だった。
『おはよ! 今日も寒いねー。
あ、例の書類出してきたよ!』
返信を打とうとして、指が止まる。
モニターの光に照らされた自分の手を見る。
白くて、細くて、何も掴んでいない手。
この手は、彼女に「がっつかない」清潔な手だ。
彼女が「心地良い」と評した、がっつくことのない、
空虚な清潔さを保った手だ。
このままこの手が綺麗であればあるほど、僕は心のどこかで期待してしまうのだ。
「もしかしたら」という、身の程知らずな物語の続きを。
だからこそ。
「……行ってくるよ」
誰にともなくそう呟き、僕はアパートの階段を降りた。
冬の風が、決意を鈍らせるように頬を刺す。
向かう先は、金と粘膜の匂いが染み付いた、僕の人生とは交わるはずのなかった街。
僕のような「持たざる者」が相応の対価を支払うための、俗世の底。
これからの僕がお似合いの掃き溜めのような街。
僕は、Kにはならない。
死ぬ代わりに、僕は「男」を殺しにいく。
♦️◆♦️◆♦️◆
為そのものは、記憶に残るほどのものではなかった。
いや、そもそも記憶に残るような「行為」には至らなかったのだ。
「やっぱり、立たない?」
彼女は濡れた髪をタオルで拭きながら、あくまで業務的な、しかしとげのない声で尋ねた。
事後の気まずい沈黙を埋めるように、シャワーの音がやけに大きく響く。
彼女がバスルームから戻ってくると、湿った空気が狭い部屋に充満した。
「……すみません」
「いやいや、気にしなくていいよ。
緊張しちゃってできない人も結構いるからさ」
彼女はベッドの端に腰掛け、ポンポンと自分の隣を叩いた。
「残り時間まだあるし、ぎゅってしてようか」
「……お願いします」
僕は情けないほど素直に頷き、彼女は僕の身体に腕を回した。
知らない柔軟剤の匂いと、安っぽい香水の香り。
けれど、そこには確かな体温があった。
母ですら僕にしてくれなかったことを、この女性はたった数万円で請け負ってくれる。
ただ抱きしめられるだけの、この温もり。
これだけで、今の僕には身に余る報酬だ。
「お兄さん、こういう店来るの初めて?」
抱きしめられたままの体勢で、彼女が不意に尋ねてきた。
「……はい」
「ふうん。
なんとなく、そんな感じした。
ガチガチだったし。
あっ身体がね」
彼女の胸のあたりで、僕は小さく息を吐いた。
「昔は……来ようなんて思わなかったんです。
セックスがしたいわけじゃなくて、本当は恋愛がしたかったから。
金で買った関係じゃ、心の穴は埋まらないって分かってたし」
「ロマンチストだねえ。
じゃあ、なんで今日は来たの?」
「……逆、なんです」
「逆?」
「最近、心を許せる友達ができて……魂の部分では、もう十分に愛されたって感じてて」
顔も見えない相手だからか、普段なら口にしないような恥ずかしい言葉が、するりと喉から出てきた。
「心が満たされちゃったから、逆に怖くなったんです」
「え?」
「綺麗なままだと、いつか彼女に夢を見ちゃいそうで。
……だから、ここでお金を使って、自分を汚しておきたかった。
そうすれば、もう彼女にふさわしくないって、諦めがつくから」
「……」
彼女の手が、僕の背中を優しく撫でる。
そのリズムが心地よくて、僕は自嘲気味に言葉を継いだ。
「自分をただの『男』に堕とすためにここへ来たのに……結局、それすら拒否してしまった」
僕は彼女の腕の中で、自分の身体を小さく丸めた。
「男にすら、なれませんでした」
「……そっかあ」
彼女は否定も肯定もせず、ただ相槌を打った。
それから少し身体を離し、まじまじと僕の顔を覗き込んだ。
「……ねえ」
「はい……?」
「この後食事でも行く? 東京案内したげるよ。
うまいラーメン屋があるんだ」
「……え?」
僕はきょとんとして、自分自身を指差した。
客と店外で会うなんて、ご法度ではないのか。
そもそも、役に立たなかった客を誘うなんて。
彼女は悪戯っぽく笑って、僕の胸元を指先で突いた。
「君ならいいよ。
だって君は──がっつかない人だから」
その言葉を聞いた瞬間、僕の身体から体温がスッと引いていくのが分かった。
ハルが僕に向けた言葉と、全く同じ響き。
安全で、無害で、去勢されたような男に向けられる、残酷な賛辞。
込み上げてくる吐き気を飲み込み、僕は乾いた唇を開いた。