Kの去勢   作:ジョン・アラサーフェチ

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第3話

 汚れるために来た場所でさえ、僕は「清潔」なままだった。

 身体にはあの安っぽい香水の残り香がついているのに、僕の中身は相変わらず、何も掴んでいない空っぽのままだった。

 

 

 帰りの駅のホームは、休日を楽しむ人々で溢れかえっていた。

 冬の冷たい風が吹き抜ける中、僕の視界の端に、ぎこちない動きをする二人の男女が映り込んだ。

 

 

 手を繋ごうとして、タイミングが合わずに指先だけが触れ合い、慌てて引っ込める。

 そんな初々しく忌々しい攻防を繰り返している二人。

 

 

 やがて、男の方が意を決したように立ち止まった。

 周囲の雑踏が一瞬、遠のいた気がした。

 

 

「好きです」

 

 

 震える声だった。

 けれど、そこには一切の計算も、保身も、僕が抱えているような卑屈さもなかった。

 言われた女性は驚きに目を見開き、やがて俯いて、蚊の鳴くような声で答えた。

 

 

「……わたしも」

 

 

 二人の顔は、寒さのせいだけではない赤さに染まっている。

 耳まで真っ赤だった。

 

 

 パチ、パチパチ、と乾いた音が響く。

 近くにいた女子高生のグループや、サラリーマンの数人が、冷やかしではない、温かく小さな拍手を送った。

 二人は恥ずかしそうに、けれど幸せそうに身を寄せ合う。

 

 

 まるで映画のワンシーンのような、完璧な世界。

 

 

 途端に。

 自分の中で大切にしていたものが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

 

 

 ハルとの関係。

「がっつかない」ことで得られた信頼。

 風俗嬢がくれた「安心」という言葉。

 自分が傷つかないように、そして相手を傷つけないようにと築き上げてきた、臆病な聖域。

 

 

 それら全てが、目の前の圧倒的な「本物」の前では、酷くちっぽけで、あさましいものに思えてしまった。

 傷つかないように距離を取り、安全圏から愛されたいと願う僕の生存戦略は、彼らが晒している無防備な情熱に比べれば、ただの臆病な逃避でしかなかった。

 

 

 僕は、人生において終始負け組で、底辺を這いずり回ってきた。

 両親は妥協の末の見合い結婚で、家の中に愛のある会話などなかった。

 だから僕は、現実の「恋」というものを、一度も見たことがなかったのだ。

 

 

 それが今、あまりにも鮮烈な光として網膜を焼いた。

 

 

 あのカップルと僕の間には、決して越えられない透明な壁がそびえ立っていた。

 それは断絶だった。

 あちら側とこちら側を隔てる、異界のような隔たり。

 それは、まるで……

 

 

 ――まるで、死だ。

 

 

 直感的にそう思った瞬間、視界が滲んだ。

 感情が追いつくよりも早く、目からボロボロと止めどなく涙がこぼれ落ちていた。

 

 

 表情筋は死んだように動かない。

 能面のように張り付いた無表情のまま、涙だけが頬を伝い、顎から滴り落ちていく。

 

 

 身体を支えていた足から、力が抜けていく。

 世界が傾き、冬空が遠ざかっていく。

 

 

 膝が崩れ落ちる衝撃を感じたあと、僕の意識は、プツリと途切れた。

 

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