汚れるために来た場所でさえ、僕は「清潔」なままだった。
身体にはあの安っぽい香水の残り香がついているのに、僕の中身は相変わらず、何も掴んでいない空っぽのままだった。
帰りの駅のホームは、休日を楽しむ人々で溢れかえっていた。
冬の冷たい風が吹き抜ける中、僕の視界の端に、ぎこちない動きをする二人の男女が映り込んだ。
手を繋ごうとして、タイミングが合わずに指先だけが触れ合い、慌てて引っ込める。
そんな初々しく忌々しい攻防を繰り返している二人。
やがて、男の方が意を決したように立ち止まった。
周囲の雑踏が一瞬、遠のいた気がした。
「好きです」
震える声だった。
けれど、そこには一切の計算も、保身も、僕が抱えているような卑屈さもなかった。
言われた女性は驚きに目を見開き、やがて俯いて、蚊の鳴くような声で答えた。
「……わたしも」
二人の顔は、寒さのせいだけではない赤さに染まっている。
耳まで真っ赤だった。
パチ、パチパチ、と乾いた音が響く。
近くにいた女子高生のグループや、サラリーマンの数人が、冷やかしではない、温かく小さな拍手を送った。
二人は恥ずかしそうに、けれど幸せそうに身を寄せ合う。
まるで映画のワンシーンのような、完璧な世界。
途端に。
自分の中で大切にしていたものが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
ハルとの関係。
「がっつかない」ことで得られた信頼。
風俗嬢がくれた「安心」という言葉。
自分が傷つかないように、そして相手を傷つけないようにと築き上げてきた、臆病な聖域。
それら全てが、目の前の圧倒的な「本物」の前では、酷くちっぽけで、あさましいものに思えてしまった。
傷つかないように距離を取り、安全圏から愛されたいと願う僕の生存戦略は、彼らが晒している無防備な情熱に比べれば、ただの臆病な逃避でしかなかった。
僕は、人生において終始負け組で、底辺を這いずり回ってきた。
両親は妥協の末の見合い結婚で、家の中に愛のある会話などなかった。
だから僕は、現実の「恋」というものを、一度も見たことがなかったのだ。
それが今、あまりにも鮮烈な光として網膜を焼いた。
あのカップルと僕の間には、決して越えられない透明な壁がそびえ立っていた。
それは断絶だった。
あちら側とこちら側を隔てる、異界のような隔たり。
それは、まるで……
――まるで、死だ。
直感的にそう思った瞬間、視界が滲んだ。
感情が追いつくよりも早く、目からボロボロと止めどなく涙がこぼれ落ちていた。
表情筋は死んだように動かない。
能面のように張り付いた無表情のまま、涙だけが頬を伝い、顎から滴り落ちていく。
身体を支えていた足から、力が抜けていく。
世界が傾き、冬空が遠ざかっていく。
膝が崩れ落ちる衝撃を感じたあと、僕の意識は、プツリと途切れた。