Kの去勢   作:ジョン・アラサーフェチ

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第4話

 次に目を覚ますと、視界いっぱいに白が広がっていた。

 鼻をつく消毒液の匂いと、一定のリズムで鳴る電子音。

 

 

「……あ」

 

 

 喉が渇いていた。

 けれど、不思議と苦しくはない。

 あれほど胸を掻きむしりたくなるような焦燥も、みぞおちを殴られたような絶望も、嘘のように消え失せていた。

 

 

 頭の奥底で、どこか間の抜けた、けれど軽やかなファンファーレが鳴り響いた気がした。

 

 

 サイドテーブルに置かれたスマートフォンを手に取る。

 画面には無数の通知が溜まっていたが、その意味を脳が処理することを拒絶していた。

 僕は慣れた手つきでGiscordのアプリを立ち上げる。

 

 

 彼女からのメッセージが数件。

 しかし、僕はそれを読まなかった。

 

 

 僕は設定画面を開き、「アカウントの削除」を選択した。

 確認のポップアップが出る。

 躊躇いはなかった。

 決定ボタンを押す指は、かつてないほど軽く、そして冷たかった。

 

 

 画面が暗転し、アプリが初期画面に戻る。

 アカウントを復旧できないように、パスワードマネージャからもログイン情報を削除した。

 これでハルとの繋がりも、あの泥沼のような心地よい通話の時間も、すべて電子の海に溶けて消えた。

 

 

「彼女は落ち込むかもしれないな……」

 

 

 だが、彼女は乗り越えられる。

 ハルは僕とは違う。

 こちら側ではない光の中にいる強い存在──そう、生者だから。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 一つつかなくてもいい溜息をついて、僕はスマホを伏せた。

 ようやく静かに呼吸ができるようになった気がした。

 

 

 

♦️◆♦️◆♦️◆

 

 

 

 退院してから、僕は働き始めた。

 近所の巨大な物流倉庫での軽作業だ。

 誰とも話さず、ただベルトコンベアから流れてくる荷物を仕分け、積み上げるだけの仕事。

 ニートだった頃の僕なら三日と持たなかっただろう。

 

 

 けれど今の僕には、この単調さが心地よかった。

 巨大なシステムの一部となり、思考を停止させ、ただ肉体を動かすだけの時間。

 そこには自我が入り込む余地がない。

 

 

「……」

 

 

 不思議なことに、あれ以来、僕は「飢え」を感じなくなった。

 食欲も、睡眠欲も、そしてあれほど僕を苦しめ、自己嫌悪の淵へと追いやった性欲も。

 

 

 家に帰り、試しに以前お世話になっていた秘蔵の画像フォルダを開いてみたことがある。

 けれど、画面の中の裸体を見ても、何も感じなかった。

 

 

 風俗へ行きたいとも思わない。

 誰かと繋がりたいとも思わない。

 僕の手は、本当の意味で「何も掴まない手」になった。

 ハルが望んだ通りの、誰が望んでも手に入らないほどの、完璧で空虚な清潔さを手に入れたのだ。

 

 

 ふと、以前図書館で読んだ『こころ』が脳裏をよぎる。

 僕はKのように死ぬことはできなかったが、Kが抱えていたような煩悶を、根こそぎ切除することには成功したらしい。

 

 

 倉庫の休憩室で、缶コーヒーを飲みながらぼんやりと思う。

 どこかの大学のキャンパスで、新しい友達に囲まれ、光の中を歩いているであろう彼女のことを。

 

 

 もう二度と会うことはない。

 声を聞くこともない。

 僕が消えたことで、彼女は多少傷ついたかもしれない。

 けれど、彼女ならすぐに乗り越えて、笑顔で明日へ向かうだろう。

 

 

「……幸せになれよ」

 

 

 独り言が、白いため息となって冬の空気に溶ける。

 

 

 自分でも驚くほど、その言葉には一点の曇りもなかった。

 嫉妬も、執着も、未練もない。

 ただ純粋に、彼女が笑っていてくれればいいと思う。

 

 

 ああ、そうか。

 僕は性欲を消して、初めて理解した。

 

 

 僕は彼女の幸せを、見返りも求めずただ願うことができる。

 この事実こそが、僕が彼女に抱いていた感情が、単なる性欲や依存だけではなかったという、最初で最後の証明なのだ。

 彼女を失うことでようやく僕は、「がっつかない僕」に辿り着けたらしい。

 

 

「……皮肉なものだ」

 

 

 

♦️◆♦️◆♦️◆

 

 

 

 早朝のバス停に向かう途中、不意に空を見上げた。

 

 

 時刻は朝の6時。

 夜勤明けのけだるい身体に、冬の風が冷たく張り付く。

 

 

 東の空が白み始めていた。

 かつて、ハルと通話を繋げたまま迎えた、あの朝と同じ光景。

 

 

「……あ」

 

 

 カーテンの隙間からではなく、直接浴びるその光は、やはり薄暗い灰色をしていた。

 夜の特権が剥がれ落ちていく、ひどく心細い色。

 世界が動き出す前の、静寂と冷気の色。

 

 

 けれど、今の僕にはその灰色が、以前ほど恐ろしくはなかった。

 絶望の色ではなく、ただの朝の色。

 今日という一日を、感情の起伏なく淡々とやり過ごすための、無機質なスタートの色。

 

 

「……綺麗だな」

 

 

 僕は小さく呟き、白く明滅する信号機の下を歩き出した。

 僕の手はポケットの中で、やはり何も掴んでいない。

 

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