普通に計算が合わなくてビビった
その日から、俺の日常は変わった。
やること自体は『街をパトロールする』から変わっていないが、探すものが悪魔から喫茶店に変わったのだ。
随分と平和的になったものである。
同時にデビルハンターとしての身分を失ったことで、銃刀法における例外規定が適用されなくなったため、武器の類は一切身に付けていない。
カバンに入っているのは、にこちゃん仮面と財布、応急手当キット。他にもこまごまとした小物もあるといった所。
そうして街をパトロールしながら考える事は、やっぱりマキマの事だ。
勿論ロマンス的な意味ではなく、どうすれば殺せるかという殺伐としたニュアンスでの話だが。
今は1994年。いわゆる高度経済成長期が地価と共に消し飛んだデフレ時代。
つい最近まで、令和の世では色んな意味でお目に掛かれないような光景があちこちにあった。
たとえば、あそこにある外資系ファストフードチェーン店。メニューの中で最もスタンダードなハンバーガーが、なんと80円という安値で売られていた。
今や幾つものクーポンを併用したって100円を切ることは無いだろうハンバーガーが、何もしなくても80円。
グレーゾーンどころか真っ黒なやり口での営業に、それに乗っかってホイホイと億単位の金を決済する資産家。土地の契約を右から左に流すだけでウン千万円なんて話もしょっちゅうあった。
今はもう、何処にもない。
つい最近までの熱狂が嘘であったかのように、冷え込んだ経済はこのまま30年間失われ続ける。
そんなある種の絶望感と、糸口が全く見つからない閉塞感が頭を占有する。
段々と明確な思考が消えて行って、出所も曖昧な雑多な情報がぐちゃぐちゃと脳裏をよぎり続ける。
『地価の暴落が』
『チェンソーマン』
『公安のデビルハンター』
『米国の重要な景気動向指数である』
『お前は最悪な死に方をするだろう』
『2年』
『アメリカ国民の寿命を1年与える』
『大丈夫です、絶対値上がりします』
『この先の二道ってカフェでバイトしてるの』
『村山首相は昨日』
『ネパールの地震が発生してから』
『私が全部、教えてあげる』
『都会のネズミと田舎のネズミ、どっちがいい?』
展示されていたテレビから受け取った情報なのか、或いは脳みそから引っ張って来た原作の情報なのか。
自分でも曖昧になって来たところで、誰に肩を掴まれる。
振り返って確認すると、岸辺がメモをこちらに見せていた。
メモには『安全な場所に行く。大丈夫なら黙って付いてこい。無理なら別れろ』と書いてある。
勿論オールオッケーなので、ホイホイ付いていくことにした。
◆◇◆◇
その案内に従って無言のままについていくと、恐らく地下と思しき部屋に到着する。確か、原作でもこんな部屋を用立てていたはずだ。
「……もういいぞ、喋っても」
「はぁ~、わざわざ意識して黙るのは息が詰まりますね。しかしこんな部屋を用意していたとは……マキマに対する不信感は、私が思っているよりもずっと根深そうですね」
「御託は良い。お前は信用できないが、実力と素質には目を見張るものがある。その上でマキマを殺す目的が一致している。なら可能な限り協力するさ」
「可能な限り、ね……まあ、ジャイアントキリングにリスクテイクは付き物ですからね」
つまり、基本的にはこっちからの提供が主になるわけだ。
なにせ岸辺は公安というマキマに近しい立場にいて、ある程度自由に動く裁量がある。
どこまで行っても単なる戦力に過ぎない俺はいくらでも替えが効くが、岸辺は違う。無謀な賭けに突っ込むには惜しいチップなのだから、『無謀ではない賭け』だと納得させてみろという事か。
ぶっちゃけ岸辺が一人いれば問題無いので、別に戦力の用意があるとか言われても困るんだが。
「さて、まずは認識の擦り合わせ……の前に、時間は大丈夫ですか?」
「1時間ぐらいは大丈夫だ」
「ならよかった。では改めて、マキマの正体から擦り合わせていきましょうか」
特に否定意見が出て来ない事を確認してから続ける。
「マキマの正体……それは、独身OLの厄介オタクです」
「うん……うん?」
完全に予想外のワードが出てきて困惑している岸辺隊長の貴重なマヌケ顔を拝みながら話を続ける。
「マキマは行動原理が不透明な所があるとお思いでしょうが、それは要するに必要な情報が揃っていないから。このファクターを組み込んでからプロファイルすれば……」
「待て待て待て」
止められたので止まる。
「……なんですか?」
「まずその、厄介オタク? と言うのはどういう事だ?」
「あぁ、あまり一般的な用語ではありませんからね。さてどこから説明した物か……」
チェンソーマンだけでなく、前作のファイアパンチにも『厄介オタクは碌な事をしない』という価値観が根底にあったが、今は1994年。
派生元の「オタク」ですら一般的とは言えない時代である。
平成後半だったら『ハンターハンターのプフ』で一発なのだが、このタイミングで通じるかどうか。
「まずですね。1つの物事について、強く愛着を持つ人物の事をオタクと呼びます。これは家電であったり、個人であったり、或いは物語の様な概念的なモノであったり、対象は問いません」
「……アイドルの追っかけみたいなもんか?」
「概ねそうです。その中でも特に熱量の高い人種を指す言葉だと思ってください」
「なるほど」
流石に熟練のデビルハンターである。順応が早い。
「で、これに『厄介』が付くとどうなるかといいますと、厄介なことになりまして」
「そりゃそうだろうが」
「あー……いや、そうじゃなくて……いやそうなんですけど、難しいな……」
しばらく歯切れ悪く言葉を選んでから。
「何と言うか、人間関係って、結局相手の事を100%隅から隅まで知れるって訳じゃあないですよね?」
「……そうだな」
「つまり、その知らない部分については、ある程度イメージで補完するしかないわけです」
「あぁ」
「で、これがそこそこの熱量だとそうでもないんですが、さっき言ったようなオタクの様な人種の場合は『こうじゃないかな』というイメージが段々『こうであって欲しいな』、そして『こうであるべきだ』って言う偏執的な価値観になっていくんですよ」
「……はぁ……」
分かった様な分からない様な、と顔に書いてある。
「普通の人間関係だとこういう事は起こりません。そうなる前にイメージが現実によって修正されるからです。しかし、それこそアイドルの追っかけの様なパターンですと、そういう修正イベントが起きないんですね。それで、イメージと現実の歪みがどんどん大きくなるわけです」
「……それで、歪みが大きくなり過ぎて、『こうあるべきだ』の思考になった人間の事を、厄介オタクと?」
「いえ、厳密に言うとこの段階では、まだ単なるオタクです。認知の歪みは観測が難しいですから、現実的にはその『こうあるべき』なイメージを本人や周囲に押し付け始めると、厄介オタクと判定されます」
岸辺は無言のままに煙草を咥え、一息入れる。
臓腑に染み渡るニコチンで頭の回りを良くする様な、或いは単なる情報処理に手間取る様な時間を過ごした後で、ようやくぼそりと口を開く。
「……デビルハンターって稼業はイカレた人間を良く見るが……こうして理路整然と説明されるのは初めてだな」
「最初がそれですか?」
「新しい概念過ぎて俺にはよくわからん」
「時代を追えばボケはしない。ニュースとか新聞を見続けろ、新しいものを常に味わえ……なんて話もありますよ?」
「……なんか、それ……どこ情報だ?」
「少なくともボケてはいない人です」
「……」
こちらを探るような視線を向けてくるが、それもそのはず。
先ほどの言葉は原作のクァンシから引用したものだ。9年以上バディをやっていた彼なら、彼女の言いそうなことぐらいなんとなくわかるだろう。
ボケてはいないというぼやかした表現も、若干ながら彼女の事を言っている。
とにかく、岸辺から「マキマを殺すのに使える存在」だと認識されなくてはならない。俺の情報に信憑性を感じてもらわないといけない。
そのためにはまず何としても、話を疑う態勢ではなく、話を聞いてもらう態勢を作る必要があった。
先ほどの厄介オタクの下りにしたって、その為のスカシだ。
マキマの正体が支配の悪魔であることなんて周知の事実。そんなことを改めて言い含めた所で、彼の心は揺れ動かない。
そして単語の説明によって『聞く』姿勢を作らせ、そこからの延長線上に話を乗せる。
まあその思惑は、煙草で強引に一息入れてきたことで無為になったが、であれば尋常ならざる事情通であることを察してもらい、出す情報に信憑性を持たせる。
岸辺にとってのそれは、間違いなくクァンシの事であろう。バディを組んでいた情報はともかく、そのクァンシ本人が言いそうな事が分かるなんてまずありえない。
だからこそ、意味がある。
「まぁその人に曰く、デビルハンターは老けるより先に死ぬ、らしいので、お互いに気にすることじゃあないかもしれませんがね」
「……確かにそうだな」
「で、マキマが何の厄介オタクか、という話になるのですが……」
◆◇◆◇
そこから俺は、時間の許す限り情報を提供した。
マキマの人格と目的についてのざっくりとした説明。支配の悪魔の能力。チェンソーマンと、それが有する存在を消す力。
そしてマキマの切り札と思しき……仮称、『武器人間』について。
「……とまぁ、これが私の持っている、大体の情報です」
「なるほど……いささか信じがたい物もあったが……」
「貴方なら、このうちのいくつかは簡単に裏が取れるはずです。例えば、『内閣総理大臣との契約』などは、特に違和感なく接触できるのでは?」
「……まぁ、確かに警備を担当したことはあるし、その流れで話をしたこともある」
「素晴らしい。実の所、私のプランにおける最大の懸念点がそこでしてね。その契約さえどうにかできれば、ほぼ確実にマキマを殺せるのですが」
「そうは言うが、本当か? おまえの実力でマキマを殺せると?」
「お疑いで?」
「当たり前だ。実力充分ならお前みたいなガキでも最前線に送り込むが、そうじゃない奴を送り込んでも意味が無いし、かえって警戒されて逆効果だ」
「ごもっとも。しかし、今この場で私の実力を知らしめるには、色々と不足していますので……まぁ、後で分かるようにしましょうかね。それも含めて分かった事があればご連絡を」
「今言えよ」
「ハイそれまとも。お酒が切れてネジが絞まって来たんじゃないですか?」
「……」
反論できまい。
なにせこれはお前の言葉だからな。
「私の知る限り、ですが……貴方にとって、私は『2人目』です。そしてあなたの前にはやがて『3人目』も現れる」
「……?」
「その3人目の名前がわかったら、私の能力について、もう少し教えます」
「今教える気はない訳か」
「分かるでしょう? 最たる防諜は無知である事。決行のタイミングまでそれなりに時間のある現在、あまり広めたくない」
「……まぁ、それは良いだろう」
「ありがとうございます。では、僭越ながら、こちらからも欲しい情報がいくつか」
無言で促されたので続ける。
「まず、『二道』という名前の喫茶店の場所。次に、毎年花火大会をやっている場所。3つ目が、ラーメンが不味い中華料理屋。最後が、公安対魔2課の訓練施設の場所です」
「……そりゃまた、随分と意味不明な」
「でしょうね。ですが、私にはそれなりに意味のある場所ばかりでしてね」
「……ま、良いだろう。2課ならそう重大な機密でも無い」
「ありがとうございます。連絡手段はどうします?」
「こっちが勝手に見つける」
「おや、お姫様待遇ですね」
「……お前男だよな?」
「男ですよ? 勿論、好きなのは女性です」
「……そうか」
なんでわざわざ性癖を開示したのかと言えば、勿論クァンシ関連だ。
彼女は生粋のレズであるからして。距離を詰める際に初手で子宮に手を当てるのは多分ガチ百合界隈でもNG案件だと思うのだが、彼女はあれで落とした女とか居るんだろうか?
「まあ体が体なんで、性欲らしい性欲も無いですけどねぇ」
「だろうな……そちらの注文は分かった。また連絡する」
「よろしくお願いいたします」
◆◇◆◇
岸辺の手配した部屋から出て、パトロールに戻る。
他人に説明すると言うのは理解の妙薬とはよくいった物で、岸辺に説明しているうちに脳内の情報が大分整理されてきた。
今更言うまでも無さそうだが、俺が狙うマキマ撃破のタイミングは『レゼ編』のラスト。
レゼが駅から二道へと向かい、到着の直前でマキマに迎撃されるあの瞬間である。
あの時、マキマの周囲には天使の悪魔が一人だけだ。
本来は早川アキも同行させるつもりだったようだが、天使の悪魔が気を遣って単独で動いた。
普段は全国を転々として所在を掴めず、原作に入ってからは公安の奥深くで十重二十重の警備に守られているマキマが、あの瞬間だけは天使の悪魔だけを守りとしている。
暗殺には絶好のタイミングだ。
他にも、レゼという明確な脅威に意識が集中する、マキマの耳が存在しない二道の中から観測・干渉できる、デンジ(チェンソーマン)というマキマの地雷がすぐそばにある等、何もかも都合が良い。
そしてこの作戦の最も素晴らしい点は、
この点が如何に素晴らしい点であるかを説明するためには、まずデンレゼという概念そのものの理解を深める必要がある。
これはチェンソーマンの作中におけるデンジとレゼの恋愛関係の呼称であり、またそれをモチーフにした二次創作群の総称でもある。元々俺は、つまり原作を読んだ段階ではレゼというキャラクターにそこまで思い入れが無かった。というのも
(中略)
しかしこの長編が映画になって、それを視聴してからは話が変わってくるのである。MAPPAの誇張に満ちた作画表現と、米津玄師が生み出したラップ調のOPは紅白歌合戦にもビームと共に登場するほどの人気を博し、2025年が終わる頃には、レゼはいつの間にか100億の女になっていたのである。興行収入100億円。これは主演が作品アンチの最大手と名高い孤独のグルメ劇場版の10倍という数字である。
映画そのものの素晴らしさについてはまあこの際良いとして、この映画から生まれた100億の女は俺を含む視聴者全員にとっての呪いになった訳だ。そしてその呪いを解呪・もしくは再発させる試みこそがデンレゼであると表現できるだろう。
(中略)
改めてデンレゼそのものを語る為に、2人の性格的な特性を見てみよう。言うまでも無くデンジは学が無く、総じて直感的な判断を取る傾向が強い一方、レゼは祖国での徹底した訓練と生来のスマートな思考回路が組み合わさったクレバーな判断が多い。
しかしここで注目したいのは、だというのに作中でレゼが取った行動の多くは全く合理的ではないという点である。デンジですら「初手で殺せや」とツッコミを入れて、本人は何も言い返せなかった事を思い出せば彼女の合理性の無さはよくわかるだろう。
なのになぜスマートな思考回路というプロファイルが成り立つのかと言うと、これは途中で出てきた殺し屋に対する行動が基盤になっている。レゼはこの殺し屋に対して、最後の最後まで入念に弱者であり続けた。ナイフを振り上げられ、いざ突き刺さるその直前まで、だ。その気になれば
(中略)
いつの間にか100億の女になった事も頷けるというものである。
ではこの2人が仮に恋人としてマッチアップした場合の展開について考えてみよう。なまじ学があって頭が良いものだから色々考えてしまうレゼに対して、デンジが直感的で本質的な事をサラッと言って、それにレゼが絆されるという流れはデンレゼ界隈では黄金律に近い一方、結局女心が分からないデンジは所々でレゼの嫉妬を煽るような言動をしてしまって個人的にはヤンデレじみたレゼことヤンレゼこそがこの世で君だけ大正解ってなもんだが
(中略)
これには内なるビーム君も正解正解大正解と力強く頷くこと請け合いである。
(中略)
実際あのOPだけで今日の映画代の元が取れたと心のマキマも言っている。
(後略)
「んお?」
「にゃあ」
もふりと柔らかい感触が足にまとわりついたかと思えば、それはやはりクラムボンであった。
クラムボンは本当に頭がいいので、俺も信頼してホテルの部屋の出入りは自由にさせている。ドアにペットの専用の出入り口があって、そこを開錠しっぱなしなのだ。
で、そのクラムボンが部屋をでてどこで何をしているかについては、俺も良く知らない。
最低限、無事に部屋へ帰ってくればそれでいいというスタンスなので、まあお互いよしなにって感じだ。
その上で、タイミングが合って部屋で合流したら一緒に遊んだり吸わせてもらったりする。
他の猫がどうかは知らないが、俺とクラムボンはこういう感じで続いている。
「どうした? 外で会うなんて珍しいじゃないか」
あくまでも、珍しいだけである。一度だけ玩具をねだりに来たことがあった。
コイツマジで頭良いなと感心してしまったので、思わずその玩具は購入してしまったが、その玩具は3日で飽きたっぽいのでもう二度と買ってやらんと心に決めている。
クラムボンは「こっちを見ろ」と言わんばかりに首を振るので、そちらに目をやる。
「……」
そこには、ポカンとしたマヌケ顔を晒す、アサの姿があった。