幽霊見える系男子と凪さん。ときどき遥ちゃんとビビッドストリート 作:ポケスリ
その日は、祖父の葬式だった。祖父の棺桶の近くで泣いている両親や祖母、叔父さん伯母さんや従兄弟たち。でも、俺にはなぜみんなが泣いているのか分からなかった。…だって、当の祖父も、泣きそうな顔で皆を見つめながら棺桶の横に立っていたのだから。
そんな様子を少し後ろから眺めていたら、こちらを向いた祖父とばっちり目が合った。自分と目があった祖父は、一瞬驚いた顔をしたがすぐにいつも見ていた優しい顔に戻り、人差し指を立てるジェスチャーをしながら
『いま、見えているものは秘密にするんだよ』
と言ったので、それに対して小さく頷くと祖父は優しく頭を撫でてくれた。
自分には人には見えていないものが見えるということに初めて気付いたのは、まだ文字をまともに書くことすら難しいくらいの歳だった。
『いつもの道規制されてるよ。交通事故あったんだって』
「ありがとう、助かるよ」
通学路をドリブルしながら進んでいるサッカー少年の駿くん(享年14歳、シブヤGFC*1所属)に、周りに怪しまれないよう小声でお礼を言いながら来た道を引き返す。ちなみに幽霊は基本的に物には触れないが、お供えされたものは別らしい。
先程の駿くん然り、幽霊は基本的には優しいやつらばかりだ。
お使いに出かける子供を後ろから心配そうに見守る女性や、電車のホームで辛そうな顔をしている男性の頭を撫でる老夫婦など、直接話したことはなくても心温まる光景はよく目にする。
それに、死んでいる以上、未練とかはあっても人に迷惑をかけるようなのはほとんどいない。歪んだガードレールとかの近くにはグロテスクな見た目をした奴らもいるけど、彼らも怖いのは見た目だけで接してみれば優しい。……ああ、でもビルから飛び降りてミンチになったままのアイドルに話しかけられたときはさすがにビビった。見た目は幽霊ごとに全盛期のものだったり亡くなる直前の見た目だったりであやふやなんだよな。
たまに目があうと追いかけてくるようなやつもいるけど、そういうのは神社か寺、あるいは教会なんかに駆け込めば大抵なんとかなる。というか、そういうやつらは人に迷惑をかける前に、話を聞きつけてどこかからやってきた「破ぁ!」とか「私が殺す。私が生かす」みたいなことができる人たちに強制的に成仏させられるので出くわすことも非常に稀だ。
死んでも必ず幽霊になるわけではないし、俺の祖父のように幽霊になってもすぐに成仏するやつがほとんどで母数が多いわけでもないので、家の近くには顔見知りばかり。俺にとって幽霊は、近所の優しいじいちゃんばあちゃんやたまに会う親戚、それでいて友達みたいなものでもある。
…だから、まあ……
「お姉さん、なにしてんの?」
『……?』
「お姉さんに話しかけてんの。そこのイケイケな服に似合わないくらい落ち込んでるお姉さんに」
こうして、酷い顔をしている幽霊を見たら話しかけずにはいられなかった。
当然、人の目は多少は気にするし、知り合ったお坊さんやエクソシストの人に、悪霊とそうじゃない霊の見分け方も教えてもらったので間違って悪霊に話しかけるとかもない。……見分け方を教えてもらうついでに、霊的な護身術も教えてもらった。それでも「破ぁ!」とかに比べたら劣るし、あくまでも自分の身を守れるだけ。イメージ的にはノラガミの一線、あれを弱くしたようなやつ。
『君、私のこと見えてるの!?』
「見えてるし声も聞こえてる。でなきゃ話しかけてないよ」
『すごっ!私、幽霊になってから一ヶ月くらい経つけど見える人とか初めて会ったよ!…って、お姉さんか…まだそんくらいには見えるんだ…嬉しいこと言ってくれるじゃん、君!』
お姉さん───古瀧凪さんと言うらしい───は、ぽつぽつと自分が生きていた頃の話を聞かせてくれた。
かつては『RADder』という三人組のグループに所属して歌っていたこと、自分たちでレーベルを立ち上げて全米ツアー目前までいっていたこと……そして、そのタイミングで発覚した凪さんの膵臓癌とそれが原因で亡くなったことも。
『想いはね…あの街と信頼できる仲間に託してきたんだ。でも夢は…夢だけは…ダメだったみたい。あれだけ熱狂してるフロアを見て、もう一度だけでいいから歌いたいって思っちゃった。…情けないよね、あんだけ格好つけておきながら未練残してたなんてさ』
「それなら、幽霊相手にリサイタルでも開いてみたら?俺、こう見えても霊界じゃ顔広いし、知り合いの幽霊何人かに声かければあっという間に広がると思うけど」
『霊界って……まあでも、実はそれはもう試したんだけど…だめだった。やっぱり聴いてる人のあの昂りは、感情が薄れちゃった
………つまり、凪さんを満足させるには生身で人間にも聞こえるように歌わせるしかないということだ。方法はなくもないけど、例のお坊さんたちに止められているし俺自身にもリスクがあることを考えるとアレはあまりやりたくはない。
幽霊が未練に関係することで落ち込んでる様子はこれまでも見てきたけど、凪さんの落ち込み方はその中でも群を抜いて酷い。それだけ、歌に懸けてきた想いが大きいということなのだろう。……だからこそ、今の凪さんの落ち込み方を見ているとどうにも放っておけないと思ってしまった。
『………あの、さ…一つだけ質問があるんだけど…』
「先に言っておくと、凪さんが俺に乗り移るとかはできないよ」
『…だよねー……私たちが好き勝手乗り移れたら、今頃世界中がとんでもないことになってるだろうし』
凪さんの言葉を遮るように、「でも」と言葉を発する。
『…?』
「ここから先は他の幽霊にも絶対に言わないでね。それなら…一つだけ解決策があるから教えられる」
『本当!?言わない!絶対言わない!!教えて!!!』
「…その言葉信じるからね。さっきは凪さんが俺に乗り移るのはできないって言ったけど…逆ならできる」
下品なのであまり使いたくない例えではあるが、件のお坊さんやエクソシスト曰く、これはパンツのゴムひもを伸ばして他人に履かせるようなものらしい。あまりにも使いすぎると、
それに、『基本的に欲が薄くなってる幽霊だけど、自由にできる肉体を得てしまえばどうなるか分からないので極力貸さないように』とも言われれば、こちらとしても従うしかない。俺だって身体を奪われたいわけじゃないし。
「さっきも言ったけど、口外は禁止だから。このことを教えたのも凪さん含めても片手で足りるくらいだし」
『うん!ありがとう!!』
では、早速と意気込む凪さんに身体を貸すと自分の意識とは関係なく身体がすくっと立ち上がった。
「おお!本当に動ける!重力!呼吸もできる!」
『凪さん、声大きい…それと俺の身体で変な動きしないで。少ないけど周りに人いるんだから』
「あはは…ごめんごめん。地に足つけて動いたのが久しぶりで、つい」
気を取り直して、凪さんが姿勢を戻して大きく息を吸った。
「────!」
『おおー!』
『凄い』の一言に尽きる。さすがは生前は全米ツアーのオファーまでかかったアーティストなだけある。今のこの声が自分の喉から出ているとは思えなかった。俺の身体を通して見ていた霊体の凪さんは、小柄な人だったが、生前もあの身体でここまで大人びた声を出していたのだろうか。
「……」
『凪さん?どうかした?』
叶うのならこの歌声をずっと聞いていたいとさえ思えたのだが、凪さんは十秒もせずに歌をやめてしまった。
「…ごめん、やっぱりダメかも。一旦身体も返すね」
「え?なんかあった?」
身体の主導権を再び掴んで、先程と同様に凪さんと隣合って座る。
『たぶん、私が本気で歌ったら君の喉が耐えられない。…どう?今もちょっとイガイガしない?』
「…んっ…ん゛ん゛っ……本当だ」
喉に違和感を感じてなんとなく咳払いをしてみるも違和感は消えてくれない。それに、喉だけでなく腹筋もちょっとだけ痛い。歌うことで普段は使わない場所の筋肉を使ったのだろうか。
最後に身体を貸してから数年が経っていたこともあり、幽霊の生前の身体と違うことを完全に失念していた。そういえば…場合にもよるけど幽霊はかつてのように動こうとするのに身体が追い付かず、身体と意識がちぐはぐになった結果、意識の方に引っ張られて脳が身体にかけているリミッターを無意識で外してしまう可能性もあるとか言われたような気がする。
『そういうわけで…気遣いはありがたいけど遠慮しておこうかな。他人の喉を壊してまで歌いたいわけじゃないからね』
自嘲気味に乾いた笑いを浮かべながら、凪さんはそういった。………うーん、ぬか喜びさせてしまうようで申し訳ないことをした。先程も言ったように、俺にとっては善良な幽霊であるという時点で友達のようなもの。それに、ここまで凪さんと話すことで、彼女に絆されてしまっていた。
「じゃあ、さ……俺の喉が凪さんの歌に耐えられるようになるまで特訓する…っていうのは?」
『え?』
予想外の提案だったのか、こちらを見る凪さんの目が丸く見開かれた。
「実際に歌ってみた凪さんの感覚からして……一曲フルで歌うならどのくらいで俺の喉は合格ラインになる?」
『………どう、だろう……無理しないのが前提なら一年以上……喉が潰れるギリギリのライン見極めながら鍛えても…半年はかかるかも』
困惑した様子のまま、凪さんが顎に手を当てて考え始める。
……それくらいなら、まあ全然許せる範囲だ。十年以上プロとして歌っていた凪さんの歌い方に半年で耐えられるようになるのならむしろ褒められた方だろう。
『いや、いやいやいやいや。私が言うのもなんだけど…君、本気で言ってる?』
「本気だよ。だって、このまま放置したら、凪さん拗らせて悪霊になっちゃいそうだし」
悪霊となった霊たちがどんな道を辿るのか、これまで何度も見てきた。彼らは最期こそ穏やかな顔を浮かべていたがそこに至るまでの過程ではとても苦しそうな顔をしていた。……凪さんがそうなってしまうのは、俺にとっても本意ではない。
『そっか…それなら…甘えさせてもらおうかな』
「お任せあれ。凪さんの未練も歌で吹き飛ばせるような喉にしてやりますよ」
『喉もだけど…筋肉もつけた方がいいかな。歌って結構体力も使うし』
「じゃあそっちも並行してお願いします!」
結論から言おう。俺が『手を抜かないでくれ』と懇願したこともあって、凪さんのトレーニングはめちゃくちゃ厳しかった。
『ほらほら!ペース遅れてるよ!あのピンクのウェアの子に今日こそ追いつくんでしょ!?』
朝早くから歌のための体力作りのランニングに、それが終わったら発声練習。
昼間はいつも通り学校に行って、夕方は放課後になった瞬間家までダッシュして着替えてから、今度は駅まで走って電車で片道一時間かけて金沢八景まで向かう。八景についたら、真横で凪さんのダメ出しを受けながら公園で実際に歌うことで経験を積む。無許可で路上ライブみたいなことをしているので、大丈夫なのかと思って凪さんに聞いてみたら『機材はないし、あくまでも外で練習してるだけ!』とのことだ。しょっぴかれたり注意されることも今のところはないので、大丈夫なんだろう…たぶん。
八景での練習の〆には、凪さんが俺の身体を使って実際に歌うことで俺の身体を凪さんの歌い方に慣れさせようとした。
……ちなみに、わざわざ金沢八景まで行くのは、地元だとすぐに凪さんの歌はバレてしまうので、できる限り距離の開いた場所で練習することでバレないようにしてド派手に決めてやりたいらしい。
『もー、遅いなー…仕方ないから私だけ先にあの子の顔見てこよっと………えっ、嘘!?めちゃくちゃ美人さんじゃん!!すごーい!!!ほらほら、早くおいでよー!』
……正直に言うけど、だいぶうざい。
飛べるからって、俺の真横を息も切らさずについてきて平然とした顔で前に出ていった。俺を焚き付けるためにわざとやっているのはわかるが、それはそれとして腹は立つ。というか、あの作ったような声色…本当にムカつくな。
それにしても────
『よし、ノルマ終了!休憩十五分、その後いつも通り発声練習!水分補給忘れないようにね!』
「うっす!………はっ…はぁっ、はぁっ…」
今日も追い付けずに終わってしまった。
こうしてトレーニングを始めてからしばらく経つが、数十メートル先を走る青い髪の少女に一向に追い付ける気がしない。朝早くから毎日このコースを走るようになり、最初の方こそ意識はしていなかったが、数日してから彼女も同じ時間帯に同じコースを走っていることに気付き、いつしかノルマをこなしながら追い付くことが密かな目標になっていた。
気を落とすのも適当なところでやめて、持ってきたタオルで汗を拭き取ってから近くにあった自販機でスポーツドリンクを買って口に含む。休めるときにしっかり休んでおかないと身体が追い付かないのは分かりきっている。
『よーし!休憩終わり。練習始めるよ!』
「はい…!」
最初に比べれば体力もついてきたし、喉もだいぶ強くなってきたと思う。それでも…未だに、凪さんが本気を出したら耐えられない。だからこうして、今日も今日とて基本の発声練習から初めて、少しずつ歌に使える喉に作り変えていってるわけだ。
『…うん、いい感じ。ちょっと早めだけど朝練はここで切り上げよっか。あまりやりすぎて放課後に支障が出たらいけないし』
「ふぅ…はい、ありがとうございました」
ランニングのせいで棒切れみたいになった足を動かして、置いておいた荷物を回収してベンチに腰かける。練習終わりにベンチで身体を休めながら朝焼けを眺めてから家に帰るのもいつの間にか日課になっていた。
「お疲れ様です」
「?……ああ、どうも」
橙色に染まっている空を眺めていたら、横合いから声をかけられた。声をかけられた方を見てみると、そこには青髪にピンクのスポーツウェアという、後ろ姿だけならよく見慣れた少女がいた。こうして、正面から向き合うのは初めてだけど、歳の頃は俺と同じくらいだろうか。……確かに、今なら凪さんが美人だといった理由が分かる。
「隣、失礼してもいいですか?」
「…どうぞ」
『おや?………んふー、そっかそっかー!学校じゃ男の子としかつるまないから心配してたけど、こんなところに春があったかー!…それじゃあ後のことは若いお二人に任せて、私は退散しよっかな』
視界の上半分に、逆さまになった凪さんがチラチラ映り込んできてうざったい。この人はこの人で、俺のトレーニングに付き合う傍で幽霊としての浮遊能力を使いこなす練習をしており、今となってはウルトラC間違いなしの大回転や4回転アクセルもお手の物になっていた。
それにしても……まさか、彼女の方から声をかけられるとは思っていなかった。走っている時はこちらが彼女の方を意識しているが、歌の練習をしている時にどこかから視線を感じて発声しながら周りを探ってみたらランニング中の彼女がこちらをチラ見していた、なんてことはあったので、お互いに存在を認識してはいたものの声をかけることはなかった。
「歌、なされてるんですか?最近よく練習されてるのを見かけるので」
「いや、しているっていうかこれから始めるっていうか……目標があるんです。とりあえずそのラインを越えれるようになるまでは、歌を歌っているとは言えない気がして…ランニングもそのための体力作りの一環で始めたんです」
「なるほど……ちなみに、目標って具体的にはどなたか聞いても大丈夫ですか?」
「…あ……あー…っと」
困った。まさかバカ正直に『幽霊です』というわけにもいかない。俺の入ってる音楽のサブスクには凪さんの曲は入っていないし……こんなことになるならRADderの曲の一つでもダウンロードしておくんだった。
『……変わろっか?こういう状況なら実際聞いてもらった方が早いし』
どうしたものかと頭を悩ませていると、さすがに見兼ねたのか、普段は自分から乗り移ることは決して提案してこない凪さんが助け舟を出してくれた。断る理由もないので「お願いします」と隣の少女にも聞こえないくらいの超小声で返して、凪さんに身体を貸す。
「『──────♫』」
凪さんがチョイスしたのは、練習終わりの俺の喉に負担をかけないように加減しても歌える曲のワンフレーズだった。それでも、どのような方向を目指しているのかはわかるように『古瀧凪』という人間の色は出しているのだから、さすがと言うべきだろう。
『はい、ここまで』
「……と、まあこんな感じで歌を歌う人が目標なんです。俺が、今の歌い方で一曲歌い切ろうと思うと喉が潰れちゃうんで…ひとまずはそれに耐えられる喉と体力作りをしてる途中なんです」
少女───桐谷遥は、隣に座る彼の言葉を聞いて『バカな』と考えた。
だって、今の歌い方はどう聞いたって慣れた人間の歌い方だ。遥とて、アイドルとして歌に触れてきたからこそ、その程度は分かる。あの歌い方をできる人間が、一曲歌いきれない程度の喉だとはとても考えにくい。
「…練習は…初めてからどのくらいなんですか?」
内心を悟られないように、平静を装いながら声を出す。幸いなことに、目の前の少年は自分のことを『ASRUN』の桐谷遥だと気付いている様子はない。それはそれでちょっぴり悔しい気分になるが、今この場では好都合。知ってしまえば萎縮されたり…なんてことも有り得るが、今の状況ならば彼はなにも考えずに答えてくれるだろう。
「ええと…二ヶ月くらい前ですね」
二ヶ月前。ちょうど彼が、遥御用達のこのコースに現れた時期と一致する。体作りを始めたのがその時期からだとすると…本当に彼は歌に関しては初心者なのだろう。
(…歌に関して学び始めて二ヶ月しか経ってないのに、あそこまで正確に自分の喉の状態を把握しながら歌えるものなの?)
遥の中で謎は深まるばかりである。しかし、興味本位に突き動かされる形で少年に声をかけたわけだが、一つだけ確信もあった。
(彼が全力で歌えるようになったら化けるだろうな)
そして、そんな光景を見てみたいとも思ってしまった。
…故に、惜しい。
彼の口ぶりからして、歌に関しては教えてくれる人がいるのだろうが体作りに関しては素人なのだろう。確かに、ランニングを続けていれば歌うことに必要な体力は自然と着いていくはずだ。しかし、『上手く歌う』となれば求められるものはランニングでつく体力だけではなくなってくる。特に、歌にも求められる体幹を含む各種インナーマッスルは意識的に鍛えなければ厳しい。彼が独力で進んでいった場合、このことに気付くのはいつになるのだろうか。
そこまで考えていたら、続く言葉は自然と口から出ていた。
「明日、今日のランニングを始めたのと同じ時間に会えませんか?私で良ければ体力作りのお手伝いをしますよ」
青髪ピンクウェアの少女────桐谷さんに体力作りの相談をしてみたら、その日から生活がまた一変した。
まず、初めて話した日の翌日に桐谷さんから現状の体力や筋力の確認をされた。その後は、やけにしつこく一週間の細かいスケジュールまで聞いてくるので学校の時間割と共に朝のトレーニング時間と放課後の歌の練習の時間を教えた。
すると、更にその翌日には、俺の日々のスケジュールにあわせた筋トレメニューを考案してきてくれた。朝のトレーニングに関しては分刻みで指定してあるし、最適な睡眠時間や起床時間まで指定してある。歌の練習を終えて帰ってからの筋トレメニューや食事に関しても、俺が凪さんを憑依させた状態で一曲歌い切れる体力がつくまでは、桐谷さん考案のメニューに則ることになった。ここまでされては断るのも忍びないからね。
……そうそう、筋トレのメニューに関しては凪さんも驚いていた。回数の多さに驚いていたのか、どのメニューにどのような効果があるのかだけでなく食事の栄養素まで細かく計算されていることに驚いたのかは分からないけど。
そんなこんなで、OFA継承前にオールマイト考案の筋トレをしていたデクもこんな気持ちだったのかな、なんて思ったりしながらメニューをこなしていく日々が続いていた。
『いいねいいね!前よりも確実に体力ついてきてるよ!筋肉ある子はモテるよ!』
『ヘイヘイ!バルクアップするんじゃないの!?』
『筋肉への感謝を忘れずに!』
『効いてる、効いてるよ!腹筋大リフォーム中!6LDKになる日も近いね!』
やかましいことこの上ない。元からこの公園にいた幽霊たちが、俺が見える側の人間だということに気付いてからは凪さんと一緒になって毎日この調子だ。それでも、誰一人として俺に身体を貸してほしいと言ってこないのは凪さんが律儀に約束を守ってくれている証でもある。
「その調子でもうあと三セット頑張りましょう!」
『あっ、私も遥ちゃんと一緒にやってみよっと!………それにしても、桐谷遥って…杏がなんか言ってたような気がするんだけどなんだったかな?』
朝のトレーニングは、幽霊たちに監視されている上に桐谷さん同伴でこなすことになったのでサボることなど決してできない。今日も今日とて、凪さんの独り言を無視しながら、最低100回とかとんでもないことが書かれているメニューに従って無心で身体に鞭を打つだけだ。
「はい、お疲れ様でした。発声練習が終わる頃にもう一度来るので、ストレッチはそれからですね」
『お疲れ様!』
『ナイスマッスル!』
「おづっ……はっ……ふぅ…お疲れ、様でした」
『休憩終わったら今度は私とだね。今日もビシバシ行くから覚悟しなよ〜?』
「分かってますよ…」
膝に手をついて肩を落としながら、荒れた呼吸のまま桐谷さんにお礼を言って、自身のトレーニングに戻っていくピンクの背中を眺めながら休憩に入る。
桐谷さんは俺が発声練習をしているときもトレーニングは継続しているし、その回数や走る距離も俺とは比較にならない。
…………いや、本当にどうなってんのかな、あの人。そういえば、ちらっと聞いた話だけど桐谷さんはその並外れた体力でとんでもないトレーニングをこなしていることから霊界でも俺とは別ベクトルの有名人らしい。なんかこの辺は幽霊が多いなぁ…って思ってたらそういう理由だった。
「─────♫!!」
『うんうん!いい感じ!今日はこの辺で終了、喉のケアも忘れずにね』
凪さんがそういうと、周りの幽霊たちも拍手をくれてなんだかこそばゆくなる。……いい感じとは言ってくれているが、凪さんが声を出した時の感覚に比べたらまだまだだ。終わってすぐに喉のケアもできることは済ませておく。
凪さんの練習が終わったら、トレーニング終わりの桐谷さんの柔軟を手伝う代わりに俺の柔軟も手伝ってもらう。
「せーの!」
「あだだだだだ!死…死ぬっ!!」
「ふふっ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。これまでのトレーニングと柔軟を見て本当にダメなラインは分かってますから。もう少し余裕もありますし…ほら」
「死ぬ死ぬ死ぬ!それ以上はマジで無理!!」
なんでも、一人でいるときよりも本格的なストレッチができるため桐谷さんの方にもメリットはあるらしい。あれだけしてもらっておいて、返せるものはほとんどないのでこんな形でも役に立てているのなら本望。
『じゃあ今日も八景まで行って練習だー!』
学校が終われば、家までダッシュで帰って着替えてからシブヤの駅まで再度走る。桐谷さん式トレーニングを始めてから、学校から家の間の自己最短記録を更新し続けており、これはこれであの地獄のようなトレーニングをこなしている成果が目に見えて分かるようでちょっとだけ嬉しい。
「──────!!」
『あの子、今日もやってるねー』
『おっ、本当だ。聞いてくか』
生身の人間の観客は少ないが、それでも固定客数人とその場で足を止めて聞いてくれる人もチラホラと見受けられるようになり、幽霊もあわせればそれなりの数の観客にはなるようになった。
そして、人前で歌うことにはだいぶ慣れてきた頃に、
(『Untitled』?)
八景からシブヤへの帰りの電車の途中。周りに訝しまれないように、凪さんへの返答をメモ帳に打ち込んだ文字で行うためにスマホを取り出したときに、知らない楽曲がダウンロードされているのを見つけた。ダウンロードの途中でファイルが破損してしまったのだろうか………果たして、こういうときはどこに相談すべきなのか。カスタマーセンターかサブスクの配信元?それともスマホのメーカーかな…。
『うわっ!懐かしい!!』
『凪さん、知ってるの?…てかこれ壊れてんじゃなくてそういう題名なんだ』
そんなことを考えていたら、凪さんの言葉が聞こえたので、メモ帳を開いて文字で聞いてみる。こうして、凪さんとリアルタイムでやり取りをすることが増えたせいか、友達からはフリップ入力の速度がバケモノじみてきてると言われているのはここだけの秘密だ。
『まあね。ウイルスみたいな害を与えるやつじゃないからそこだけは安心していいよ』
その言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。それじゃあ早速聞いてみようと思い、ウエストポーチからイヤホンを取り出そうとしたところで凪さんに静止された。
『ストップ。人前でやるのは色々とまずいし……詳しいことは後で説明するから、とにかく家に帰るまでは再生しないように』
『……人前で聞いちゃダメって…それ、本当に大丈夫なやつ?』
『なんて言えばいいのかな…ごめんね、説明が本当に難しいんだ。でも、悪いやつじゃないから…そこだけは信じてほしい』
『……わかった。凪さんのこと信じるよ』
凪さんの人となりは、この数ヶ月でかなり深いところまで知ることができた。好き好んで人を貶めたり嘘をつくような性格ではない。
凪さんの言いつけ通り『Untitled』を再生しないまま家に帰り、夕飯やら帰宅後のトレーニングやらを済ませてシャワーを浴びた後に自室に籠る。指定の就寝時刻まではもう少し時間があるし、事情を聞くのも問題ないだろう。
「それで?結局のところ、これはなんなのさ」
『私も完全に把握してるってわけじゃないんだけどね…『Untitled』は君の想いに応えて現れたんだ。そして、本当の想いを見つける手助けになってくれるはず……無理やり付き合わせてたら悪いなーって思ってたんだけど、それが出てきたのを見るに君も満更でもなかったのかな?』
「……つまり?」
『小難しいことはいいから再生してみろってこと。歌と同じだよ!』
『ほらほらー』と急かしてくる凪さんの声を聞きながら、スマホの再生ボタンを押してみれば、目を開くことすらできないほどの眩い光に包まれた。
『いってらっしゃ──って、あれ?私まで入れちゃった』
目を開けた時には、凪さんと初めて会った公園を思わせる緑の景色が一面に広がっていた。
「古瀧凪さんに山吹凪紗さんですね。ようこそ、セカイへ」
突然のことに驚いて固まっていると、後ろから声をかけられた。振り返った先には、紫の髪をもみあげの位置でおさげのように垂らした少女が立っている。
「結月…ゆかり?」
初音ミクや鏡音リンレンなどといった名だたるバーチャルシンガーに勝るとも劣らない知名度を誇るバーチャルシンガーの一角がそこにはいた。
『Untitled』の再生を止めることで、元いた自室に戻る。この光に包まれる感覚もとっくに慣れたものだ。
「ただいま、と」
『お疲れ………ここまで長かったね』
「…はい」
既に、『Untitled』が現れてから半年近くが経過した。
『Untitled』を再生すると行けるあの不思議な場所はセカイというらしい。『Untitled』を持った人が本当の想いを見つけるための場所であると共に、そこに住まうバーチャルシンガーは本当の想いを見つけるための手助けをしているのだとか。
向こうの結月ゆかりとも相談して、セカイは凪さんを憑依させて歌うとき専用の場所になった。他の幽霊の前で身体を貸すのは躊躇する要素が多すぎるので、事情を知っているゆかりしかおらず、入れるのも俺と凪さんしかいないあのセカイは非常に都合が良かった。
…そして、凪さんに俺の身体を使わせて初めて一曲フルで歌いきったのがついさっきのことだった。
『もう、そんな顔しないの。男の子でしょ?……それに、私だって寂しいんだから』
凪さんは、俺の身体を使って人々の前で歌い、フロアを熱狂させることができれば未練を晴らして成仏できる。でも、それはつまり、俺と凪さんが二度と話せなくなることを意味する。
「……」
『……』
……いつもこうだ。幽霊とのお別れは、これ以上ないほどに仲良くなってから訪れる。一時期は、この寂しさが嫌で幽霊と関わらないようにと思ったこともあったけど、彼らを無視できるほど俺は冷たい人間になりきれなかった。
「…そういえば、凪さんにもセカイあったんでしょ?どんなところだったの?」
重くなってしまった空気を切り替えるために、この半年間聞こうと思って聞きそびれていた全く関係ない話題を切り出す。
『私のところは路地だったね。前にRADderの活動拠点がビビッドストリートだってことは話したでしょ?あんな感じのところ』
『Untitled』を知っていたことから察しがついた通り、凪さんも生前はグループのメンバーとセカイを共有していたらしい。しかも本当の想いを見つけて曲もちゃんとできていたらしい。
……本当の想い、か。俺にもセカイと『Untitled』がある以上、本当の想いとやらもあるはずなのだが………まあ、そちらはこれからも探していくとして、今は凪さんの未練を晴らす方に集中だ。
「凪さんの未練がある所もビビッドストリートだっけ?」
『そうだよ……できるなら、あそこでもう一度だけ歌いたい』
「…そのついでに昔の仲間がやってる店を荒らしていこうと」
『違うって。別に荒らそうとは思ってないから!』
正直、その言い分は無理があると思う。
いきなり地元の人のたまり場に現れて、爪痕を残すだけ残しておさらばするのは『荒らしてる』って言われても無理はない。しかも、
『そうそう!明日のトレーニングのときに遥ちゃんの予定空いてるタイミングちゃんと聞いておきな?あれだけお世話になったんだから遥ちゃんにも聞かせてあげないと』
「分かってる」
『それから服も買いに行かないとね。君の手持ちの服だとあそこじゃ浮いちゃうし。大丈夫!ストリートに合う系統ならよく知ってるから!』
「空いてる日、ですか?」
「喉も体力もだいぶついてきて、ようやく歌える目処がついたから。ここまでお世話になったから桐谷さんにも成果を披露したいなって思ったんだけど」
(…なんだ、そういうことか。デートとかそっち系だったら断ろうと思ってたけど…そういうことならいいかな。隅に隠れて聞いてるくらいならバレないだろうし)
互いに腕を引っ張ってストレッチをしながら話を続ける。
山吹凪紗という少年に関して、遥の中ではこの半年で真面目な同い年の少年という印象が根付いていた。単純に知らないだけではあるが、遥にもアイドルではなく一人の友人のように接してくるし、かといって邪な視線を向けることない。まず間違いなく、信頼できる人間であると遥は心を許していた。
(……まあ、たまに変なことはしてるけど)
遥がトレーニングをしていて見られていないと思っているのか、誰もいない空間に話しかけたり何か技名のようなものを叫びながら指を振っていた様子は見たことがあるが、遥と話している間はそういった様子を見せていない。見られたら恥ずかしいと理解している…つまりは、中学生で多感であるが故の……「そういう時期」なのだろうと気にしないことにした。
色々とあるが、元より彼の歌を聞くために手助けをしていた身。彼の方から歌を聴かせてくれるというのなら、断る理由もない。
(今日は無理だし、明日も無理だったはず。明後日も忙しかったかな。明明後日……も無理だったかな。あとは…)
「来週の日曜なら空いてますよ」
「日曜、日曜…うん、お店の方も大丈夫そう。じゃあ、来週の日曜十時に『WEEKEND GARAGE』っていうライブカフェに来てもらっていいですか?ここからそこまで遠くないので迷う事はないと思うんですけど」
頭の中でスケジュール帳を確認していき、ようやく見つけた長めの空白時間のある日付けを彼に教えると彼もまたスマホで店のスケジュールを確認して日時と場所の提案をしてきた。その場所が、自分の幼馴染の父親が経営している店で驚きはしたものの瑣末なことだと結論付けた。
そんなことがあったのがちょうど一週間前。即ち、今日が凪紗が初めて人前で歌を披露する日である。
「いらっしゃいませー!…って、遥じゃん。どうしたの?一人でくるなんて珍しい」
「最近よく話す人が今日ここで歌うんだって。たぶん、もう来てると思うんだけど」
ビビッドストリートの一角にある『WEEKEND GARAGE』というライブスペースを提供するカフェの扉を開け、声をかけてくる幼馴染と話しながらカウンター席の中でも端の方に腰かけていた凪紗を見つけた。
(…意外と様になってる)
元より、顔立ちは整っていたことに加えて普段のトレーニングウェアとは違ってストリートに合うようにコーディネートされた服装は、今までとは違って大人びた印象を与えてくる。
「お疲れ様、山吹くん。調子はどう?」
「……桐谷さん、お疲れ様。それはもう当然、バッチリ」
一瞬、凪紗の耳に光るものが見えピアスをつけているのかと思い驚いたが、よく考えたら公立の中学に通っていて校則もしっかり守るタイプの凪紗がピアスを開けるわけがない。ピアス風のイヤリングだったと気付いたのは、それから数秒も経っていない内にである。
「じゃあ、桐谷さんも来たしさっそく歌ってこよっかな。もう少し話してもいたいけど、先に聞いて欲しいし」
(…へえ、あれが遥の言ってた)
遥が座った場所の隣に座っていた少年を視線で追いながら杏は考える。歳の頃は自分たちと同じくらい。自分たちくらいの歳で一人で来る客は中々に珍しいし、初めて来たお客であるので印象には残っていたがまさか遥の連れだったとは。
(あとでどんな関係なのか聞いてみよーっと)
少年の方に向けていた視線を、父にコーヒーを注文している幼馴染の背中へと移してそんなことを考える。
色恋沙汰よりも歌に熱意を向けているため自分自身に彼氏がどうとかは考えたことは無いが、杏だって他人のそういう話には興味津々な中学生というお年頃。仕事柄、色っぽい話には縁もゆかりも無いと思っていた幼馴染に訪れた春の予感にちょっとだけ期待を抱きつつ、ライブスペースへと歩いていった少年の方に視線を戻す。
少年は、初めてこの場に立ったにしては緊張する様子は見られない。それどころか、間もなくイントロが終わるにも関わらず、のんびりとオーバーサイズのジャケットの下に着たパーカーのフードを整える仕草さえ見せていた。
(──────あれ?)
目が合った。
それだけなら、特筆すべきことではない。
……ただ…まるで歳上の女性が見せるような艶かしい流し目とウインク、髪をかきあげる仕草はどこか
「『DAYBREAK FRONTLINE』」
イントロが終わりを告げる直前、少年が曲名を静かに、しかし、それでいてはっきりと聞こえるように告げた。
「『───♪────♩』」
(この歌い方…やっぱり、凪さんの!?)
声の切り方、フォールの癖、ブレスの仕方…それだけではない。リズムの乗り方、マイクの持ち方……歌い方だけでなく仕草の一つ一つが、今は外国に渡って歌っているという思い出の中の人物と合致する。
だが、彼の見た目と声だけは決して思い出の中の人物と合致しないことが、目の前で歌う少年と憧れの人は全くの別人だということを突き付けてくる。
一番のサビに差し掛かり…
「『───♪───────♫!!』」
瞬間、音が爆ぜた。
この心を掴んだら離さない握力のある歌声も、やはりそっくりだ。
「……マジか」
父である謙の呟く声が聞こえた。その声で正気を取り戻した杏は、顔の向きだけは歌っている少年に固定したまま目の向きだけで周囲の様子を確認する。
ただ音楽を聞きに来ていた常連も、ついさっきまで演奏していたアーティストも、父も、メッシュの入った同年代の気に食わないやつも、彼の相棒も……少年と関わりのあった遥ですらも、彼の歌に驚きを隠せていなかった。
「『───!─────♫』」
古瀧凪は、その人生のほとんどを歌に懸けてきた人間である。
才能にかまけることなく努力をし、歌に対して誰よりも真摯に向き合ってきた。だからこそ…少年の身体で初めて歌ったときに、身体の奥底に眠っていた才能と、そこに起因する疼きを見つけてしまった。
(この子は……ただ自分が気持ちよくなるためだけに歌いたがってるんだ)
凪紗が歌に触れる機会がなかったためこれまで目覚めることのなかった、独善的で
初めて会った時に歌うのを中断した理由は、『喉が潰れる』という理由の他に、あの段階で歌ってしまえば『凪紗が凪紗自身の欲望に呑み込まれて壊れてしまうから』という心配もあったからだ。
「『───!───!───!』」
一番は呆気にとられて惚けていたオーディエンスも、二番のラップに差し掛かる頃には『熱狂』と言っていいほど震えていた。その中に、他の客とは違う感情を携えながらこちらを見つめている視線があるが、その感情もまた様々。
『まだ勝てないけど、いつか必ず超える』という敵意とも取れる熱の篭った視線が二つ。『どこで歌を学んだのか?』という疑問に満ちた視線が三つ。後者のうちの一つも、いずれは変わる可能性を秘めている。
(次の世代のあの目が見れただけでも上々!……あ、そういえば遥ちゃんって杏の幼馴染の子だ。なんでこのタイミングで思い出したんだろ)
余計な思考を切り捨てながら、この街の次の世代と、彼自身に対する信頼を乗せて歌う。『山吹凪紗』という歌で天下を取れてしまうほどに巨大すぎる才能を前にしても決して折れないだろうという信頼と、今の凪紗なら心の赴くままに歌い彼自身が望まなくともこの街を引っ張る存在になってくれるという信頼。
「『───♪───────♫!!』」
リズムの取り方、喉の震わせ方、目線の動かし方、表情の管理、言の葉に想いを乗せる方法。衝動を乗りこなすための手段は少年の身体に直接叩き込んである。ダイヤの原石のように才能に満ち溢れた彼の身体は、それを余すところなく吸収し自分のものとした。
今の彼なら、凪の歌で叩き起こされた衝動にも呑まれることなく乗りこなして見せるだろう。
想いは死ぬ前に仲間と街へと託した。未練となった夢はこうして叶えた。ならば、あとは大人として……人生の後輩を輝かしい未来へ押し出すのみ。
『ちょっと凪さん、急になに!?』
『選手交代、思う存分歌ってきなさい!』
ラスサビ前で身体の主導権を彼に返し、凪は一歩後ろに下がって完全に消えてしまった自分の指先を見る。
(ここまでか。できれば杏の相棒は見てみたかったな〜…)
それでも、もうここまで来れば振り返ることはない。自分を連れてきてくれた男の子の背中に向けて…
『ありがとう』
一言だけ告げて、凪は完全に消えた。
「───!!───────!」
(歌声が、変わった!?)
(技術的なことに限って言えば落ちた……だが、これは)
(すごい…!こっちが山吹くんの素なのかな)
凪のように、人の心を自分から掴みに行って離さない声ではない。
(歌うのって…こんなに楽しかったんだ)
技術的な話をするのならば、その歌い方に凪の面影は見いだせる。しかし、歌声に限った話をするならば全く別の評価になる。
(ありがとう、凪さん。俺に……本当の想いに気付く機会をくれて)
『ありがとう』
そのとき、後ろから声が聞こえた気がして……演出の一環として後ろに視線を送り、既に自分の恩師が消えてしまっていることを確認してから、再び前を向く。一筋の涙は、既に顔を伝って汗と見分けがつかなくなっていた。
ただ、そこに立って歌っているだけで自然と目を離せなくなる神の子のような存在。聞いている側の気分など知ったことでは無い。天上天下唯我独尊、己の快・不快のみでどう生きるかを決める独裁者のような歌。
(『俺は、俺の為だけに歌いたい』…それがきっと、俺の本当の想い)
ポケットの中に入れておいたスマホが、僅かに光ったことにも気付かず凪紗は最後の言葉を紡いだ。
いつの間にやら、店の外に漏れる音にまで集まっていたビビッドストリートの人たちから、盛大な拍手と歓声が送られた。アンコールを促す声を無視して、凪紗は謙に声をかけ……それにギョッとした顔を見せた謙に連れて行かれる形で奥へと引っ込んで行った。
『……どうした?歌わねえのか?皆待ってるぞ?』
『…実は、さっきので喉が限界で……ごほっ…もう一曲歌ったら喉壊れるかもしれなくて』
『なっ!…仕方ない、奥で休ませてやるからついてこい。表の奴らは俺がなんとかしとく』
先程の謙と凪紗の会話を文字に起こすとこうなる。
そもそも、彼の喉は凪に身体を貸して歌っていたことで潰れる寸前なのである。凪紗が喉の関係で一曲だけしか歌えないことを知っている遥と、事情は分からないが先の歌い方をどこで教わったのか聞きたい杏も一歩遅れて奥へと姿を消した。
凪紗が、『伝説の夜』を超えることはない。自分が歌いたいときにだけふらっとビビッドストリートに現れては歌って帰っていく…それこそ、気ままな王様のように振る舞う彼に、そこまでの情熱はない。
しかし、後に伝説を超えたユニットが現れたが、そのユニットのメンバーもストリートの住人たちも『ここで歌わせたら最強は凪紗だ』と口を揃えたという。