翌日。
私にとって、いわば奇跡みたいな出来事が起こった。
「お邪魔しまーす!」
部屋中に、やけに明るく、よく通る声が響く。
聞き覚えのある声だった。
……いや、聞き覚えがあるどころじゃない。
「——え?」
その声の主は、
私の“推し”の一人。
元QTの、桃井愛莉だった。
「……は?」
一瞬、頭が完全に止まる。
普段の私なら絶対に出さない、間の抜けた声が漏れた。
なんで。
どうして。
ここに?
混乱する思考の中で、ふと一つの答えに辿り着く。
——あ。
「……お姉ちゃん……」
そうだ。
この人、姉の——絵名の友達だった。
それでも、驚きは消えなかった。
だって、正直に言えば——
姉が、アイドルとここまで親しい関係だなんて、思ってもいなかったから。
(お姉ちゃん、友達そんな多そうじゃ……)
いや、失礼だけど。
でも、本当に別次元の人だと思っていた。
「あら? あちらの子は?」
愛莉が、絵名に視線を向ける。
……あ、私のことだ。
「あそこにいるのは、妹の美凪だよ」
「……あ、えっと」
慌てて立ち上がる。
「お姉ちゃんが、いつもお世話になってます。妹の美凪です」
すると、すぐさま。
「ちょっと待って。
“いつもお世話になってる”はおかしくない!?」
絵名が即座にツッコミを入れてきた。
「あんたが世話してる側でしょ」
「え、あ、そ、そうだけど……」
「あはは!」
愛莉が楽しそうに笑う。
「私は桃井愛莉よ。よろしくね!」
簡単な自己紹介。
それだけなのに、心臓がやけにうるさい。
——本当に、存在してたんだ。
テレビの向こうの人。
手の届かない人。
別次元の人。
「あとね……もう一人来るんだけど、いいかしら?」
愛莉が、私のほうを見る。
誰だろう、と思ったけれど、
声に出す勇気はなかった。
私は、ただ小さく頷いた。
……でも。
待てど暮らせど、その“もう一人”は来ない。
「はぁ……まったくもう」
愛莉が小さくため息をつく。
「ちょっと探しに行ってくるわね」
そう言って、家の外へ出ていった。
——数分後。
「連れてきたわよ」
ドアが開く。
「初めまして。日野森雫です。
絵名ちゃんから話は聞いてるわ〜。美凪ちゃん、よろしくね」
……。
言葉が、出なかった。
そこに立っていたのは、
これまた私の“推し”。
日野森雫。
衝撃、という言葉じゃ足りない。
頭が真っ白になる。
それに——
テレビで見る雫と、どこか違う。
いつもは、完璧で、近寄りがたいくらい綺麗で、孤高な印象なのに。
今日は、やけに柔らかい。
ふんわりしていて、優しくて。
……ああ。
きっと、
Cheerful*Daysを脱退したことが、関係しているんだろう。
「よろしくお願いします」
二人とも先輩だから、自然と敬語になる。
「もう雫。待たせちゃだめよ。
また迷子になったんだから」
愛莉が呆れたように言う。
……迷子?
「え?」
あの、完璧な雫が?
「あら〜。ごめんなさい。次からは気をつけるわ〜」
「そのセリフ、何回も聞いたわよ!」
——なんだろう。
テレビで見る“完成された雫”と、
今ここにいる雫は、まるで別人みたいだった。
もしかして、
あれは“表の顔”で、
本当は、こんなふうに天然で、柔らかい人なのかもしれない。
……意外と、可愛い。
それにしても。
こうして並ぶと、
二人とも、圧倒的に綺麗だった。
美人で、華があって、
そこにいるだけで空気が変わる。
——これが、アイドル。
私は、ふと自分を省みる。
……ああ。
私がアイドルを目指せないのは、
もしかして。
努力とか、根性とか、
そういう話じゃなくて。
最初から、立っている場所が違うからなんじゃないか。
二人の“本物”のアイドルを前にして、
私は、そう痛感した。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
奇跡みたいな一日なのに、
なぜか、ひどく苦しかった。
身体がだるい。
寝たい。まだ寝たい。とにかく眠い。
「はぁ……」
肺の奥から重たい息を吐き出して、私はベッドの上で上半身を起こした。カーテン越しの朝日がやけにまぶしい。まるで今日もちゃんと生きろって言われてるみたいで、少し腹が立つ。
ふらふらと台所へ向かい、ぼーっと朝ごはんを食べる。
「ちょっと彰人!その牛乳、昨日私が買ったやつなんだけど!」
「は?冷蔵庫に入ってたら共有物だろ」
「はぁ!?意味わかんないんだけど!?」
「うるせーな朝から!」
……相変わらず元気だな、この兄妹。
テーブル越しに繰り広げられる彰人と絵名の言い合いを、私は黙って眺めながらトーストをかじる。
朝からこんなに声を出せるの、正直すごいと思う。私には無理。エネルギーの無駄。
「美凪、ちゃんと食べてる?」
「んー……一応」
「“一応”って何よ」
絵名の小言を右から左へ流し、私は食べ終えるとさっさと準備を済ませた。靴を履いて、何も考えず家を出る。
向かう先は、宮益坂女子学園。
通学路を一人で歩く。
周りを見れば、友達同士で笑い合いながら歩く生徒ばかり。楽しそうだな、とは思うけど、羨ましいとは思わない。今の私にはそんな元気もないし、そもそも友達がいない。
本当に、一人も。
別に困ってない。
二人組作ってください、って言われるときは最悪だけど、うちのクラスは嫌な人がいないから誰と組んでも問題ない。
それに、私が学校に来てるのなんて出席日数ギリギリ分だけ。それ以外は家でのんびりしてる。
学校って、めんどくさい。
校門をくぐって、教室に入って、席につく。
……あ、席替えあったんだ。
最近来てなかったから知らなかった。それだけ思って、あとは何も感じない。
期待も不安も、全部無駄だ。
でも――今日は、少しだけ違った。
「ねえ知ってる?うちの学校に桐谷遥と桃井愛莉と日野森雫がいるらしいよ~」
「え!?マジで!?」
「あの国民的スター三人が!?」
最初は、ふーん、そうなんだ、くらいだった。
隣のグループの会話なんて、聞くつもりもなかった。
でも。
「噂だと、屋上でアイドル活動してるらしいよ」
屋上で……アイドル。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
……今日、行ってみようかな。
放課後
屋上の扉の前。
私はほんの少しだけ扉を開けて、その隙間から中を覗いていた。
スマホの画面の向こうではなく、本物の――
「こんにちは!MORE MORE JUMP!です!」
四人の声が、屋上に響く。
桐谷遥、桃井愛莉、日野森雫、花里みのり。
どうやらこの四人で MORE MORE JUMP! というグループらしい。
配信中の彼女たちは、キラキラしていた。
表情も声も動きも、全部が“アイドル”。
「……こんなこと、私もしたくなかったけど」
小さく呟く。
やっぱり、すごいな。
認めたくないけど、圧倒的だ。
私は屋上の端、完全に不審者ポジション。
ばれたら普通にヤバい。好感度下がる。
将来アイドル目指す身としては致命的だし、何より愛莉と雫は姉の友達。
後輩として可愛がられないのは致命傷。
「じゃあ今日はここまでにしましょう!」
「みんな、またね~!」
「ばいば~い!」
「さようなら。また次の動画でね!」
配信終了。
……よし、今のうちに帰ろう。
そう思って後ろを向いた瞬間――
ゴンッ。
「いっ……!」
鈍い音と一緒に、顔に衝撃。
フェンスか何かに思いっきりぶつかった。
やばい。
やばいやばいやばい。
「あれ?今、音しなかった?」
「気のせいじゃないかしら?」
「私は聞こえなかったよ」
……助かった。
みのりだけだったら危なかったかもしれないけど、他の三人は気づいてない。
私は息を殺して、その場を離れた。
心臓がうるさい。
……また、見に来ようかな。
学校は相変わらずめんどくさい。
でも――
その日から、ほんの少しだけ、
学校がめんどくさくなくなった気がした。
今日も屋上でアイドル――
MORE MORE JUMP! の配信を、生で見た。
最高すぎる。
ファンの身としては、もう本当に最高。
ただ、ちょっとだけ……ごめんなさいしたい気持ちもあった。本当はいけないことだし。
全国のモモジャンファンのみなさん、本当にごめんなさい。
でも、やっぱり生は違う。
あの配信以来、私は完全にモモジャンを推すようになった。
元々推しは三人いたけど、それ以上に――
花里みのり。
ドジで、失敗ばかりで、アイドルとしての才能があるとは言い切れない。
先輩だからあまり悪く言うのはよくないけど、正直そう思ってしまう部分はある。
でも、それが理由だった。
運が悪くて、何度も挫折して、それでも必死にアイドルを目指して、
そんな中で遥に出会って、夢をつないだ。
……似ている、なんて言葉じゃ足りない。かつての私が、あそこに立っている気がした。
出来損ないで、向いてないってわかってるのに、
それでも諦めきれなくて、夢にしがみついてるところが。
今度、話してみたいな。
そう思ったけど、すぐに打ち消す。
アイドルだし。現実的に無理だよね。
そうやって、いつものように平静を装って帰ろうとした、その時。
「あら、こんな時間にまだ人が残っていたのね……」
背後から聞こえた愛莉の声に、心臓が跳ねた。
びくっと背中が震える。
たぶん、今までで一番驚いた。
「あのっ……なんでしょうか……」
恐る恐る振り返ると、そこには――
「あら?あなた、あの時の美凪ちゃんじゃない。久しぶりね」
「……あ。久しぶりです、愛莉先輩」
「あれ?二人とも知り合いなの?」
遥が不思議そうに聞く。
「ええ。私の友達の妹なの。この前、絵名の……友達の家で会ったの」
「あ、そうなんだ!姉の友達がアイドルとか、最高じゃん!」
みのりがぱっと明るく言ってくれる。
その一言が、なぜだかすごく嬉しかった。
「美凪ちゃんは、どうしてここに?」
――来た。
脳が今までにない速度でフル回転する。
「あ、えっと……その……屋上に用があって来たんですけど……その……」
言葉が途切れ途切れになる。
「私たちが配信してたから、気になっちゃった……とか?」
「あら、ごめんなさい。邪魔だったかしら?」
雫のあまりにも素直な言い方に、逆に焦る。
「あ、いえ!全然邪魔とかじゃないです!
むしろ……屋上でアイドルやるの、すごく尊敬します」
本心だった。
のぞき見してたことは、もちろん言えないけど。
「尊敬……されてるんだね、私たち」
みのりが、少し不思議そうに、でも嬉しそうに呟く。
そうだよ。
屋上でアイドルなんて、誰だって尊敬するに決まってる。
私だって、屋上でアイドルやりたい。
それに――
実は、推しだし。みのり。
「じゃ、じゃあ……屋上に用があるので……」
「またね~!」
軽い別れの挨拶を交わして、私は屋上に出た。
扉が閉まった瞬間、全身から力が抜ける。
「……はぁ……」
極度の緊張から解放されて、思わず安堵のため息が漏れた。
よかった……本当によかった。
私はすぐにスマホを取り出して、モモジャンの配信ページを開く。
――来週の土曜日。
モモジャン初のワンマンライブ。
楽しみすぎる。
気づけば、いつもの私には似つかわしくないくらい、
口元がゆるんでいた。
そのまま、のそのそと――
少しだけ軽くなった足取りで、家路についた。