練習が終わった瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……。思ったより……疲れた……」
肺の奥が灼けるように熱を帯び、呼吸が思考に追いつかない。
今まで、私は“本気の練習”というものを、意図的に避けてきた。
体力は同年代の平均を下回り、筋肉の使い方も体系的には理解していない。
一方で、四人は違う。
汗は浮かべているものの、呼吸はすでに整い、重心もぶれていない。
——これが、現役。
積み重ねが身体に刻み込まれた者たちの、静かな余裕。
「ところで、美凪ちゃん」
愛莉がペットボトルを一口含み、何気ない調子でこちらを見た。
「次は、どのオーディションを受ける予定なの?」
「え……っと、次、ですか?」
不意を突かれ、言葉が喉の奥で絡まる。
「特に……決めてない、です」
なぜか、謝罪に近い音色になってしまった。
「じゃあさ」
愛莉は躊躇なく言う。
「AURORA PRODUCTION(オーロラ・プロダクション)のオーディションにしない?」
「……え?」
理解が追いつくまで、ほんの一瞬の空白が生まれた。
オーロラ・プロダクション。
LUMINOUS ARC(ルミナス・アーク)をはじめ、
数多の次世代スターを世に送り出してきた、業界屈指の巨大資本。
地方の無名。
実績は皆無。
落選歴だけが増え続ける存在。
そんな私が、その名を口にする資格など、本来あるはずがない。
「で、でも……私なんか……」
反射的に、いつもの自己否定が滑り出る。
「“私なんか”って言っちゃだめだよ!」
即座に、みのりの声が重なった。
「みのり先輩……」
「それに——」
一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、
「……いや、なんでもない!
でもね、絶対に、絶対にいけると思うから!一緒に頑張ろう!」
絶対に、いける。
その断言は、胸の奥深くで微弱な残響となって広がった。
他者から未来を肯定された経験は、私の人生においてほとんど存在しない。
「まずは、練習からだしね」
愛莉も、当然の前提のように言う。
——無理だ。
理性は即座にそう結論づける。
けれど。
目指すこと自体を、誰かに禁じられる理由はない。
……なら。
「……目指すだけ、目指してみます」
掠れた声だったが、意思だけは確かだった。
放課後の屋上は、薄曇りだった。
空は鈍色を帯びているのに、風だけはやけに柔らかい。
音楽が流れる。
昨日とは、明確に違う。
——身体が、ついてくる。
リズムは思考を経由せず、足元から直接伝わってくる。
視線の角度、呼吸の配分、重心の移動。
断片だった動作が、一本の線として有機的に接続されていく。
「今の、いい!」
愛莉の声。
「美凪ちゃん、表情が変わった!」
みのりが目を輝かせる。
期待されている。
その事実は、重く、恐ろしく、そして——
それでも。
応えたい。
心の奥底で、長年閉ざしていた鍵が、
鈍い音を立てて回転した。
——解錠。
これまで不可視だった景色が、
一挙に視界へ流れ込む。
自分の動きが、
空間に輪郭を刻み込んでいく感覚。
世界が平面から剥離し、
パノラマ的に奥行きを持ち始める。
「……私、まだ……やれる」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
自己確認に近い、独白だった。
“Untitled”を再生すると、
私は再び、あの場所に立っていた。
冷ややかで澄んだ空気。
星の存在しない夜空。
足元には、鏡面のように光を反射する床。
だが、以前とは明確に異なる。
「……あれ?」
ステージ中央に、
見覚えのない二つの影。
「こんばんは」
振り返ると、巡音ルカが微笑んでいた。
「よっ!」
隣で、鏡音レンが軽く手を挙げる。
新しい仲間。
それだけで、このセカイはわずかに温度を帯びる。
会話を交わすうち、
私は“異変”に気づいた。
ステージ奥。
光の霧の向こうに、一本の木が立っている。
「……あれ、なに?」
近づいて、理解する。
まだ細く、未成熟。
それでも確かに大地へ根を下ろした——世界樹。
「それは、美凪の想いだよ」
ミクが静かに告げる。
「美凪が成長するほど、大きくなる」
「……どうして、大きくしたいんだろう」
思わず、零れ落ちた疑問。
逡巡の末、
私は一つの答えに辿り着いた。
——この場所が、
逃避ではなく、心の拠り所になるためだ。
夢からも、
現実からも、
自分自身からも。
逃げ込むためのセカイではなく、
帰還できる場所にしたい。
「……頑張ろう」
世界樹の幹に、そっと触れる。
微かに、鼓動のような脈動が伝わってきた。
オーディションを目指す理由が、
また一つ、明確になる。
この木を、
胸を張って仰ぎ見られるほどに育てるために。
私は、
もう一度、前を向く。
——今度は、目を逸らさずに。
オーディション会場に足を踏み入れた瞬間、
私は自分がとてつもなく場違いな場所に来てしまったのではないかと錯覚した。
——空気が、違う。
廊下に漂う緊張は、粘性を帯びてまとわりつく。
壁にも、床にも、
「ここで人生が分岐する」という無言の圧が染み込んでいる。
控室に集まる受験者たちは、
誰もが完成度の高い“自分”を携えていた。
発声練習の声量。
立ち姿の安定感。
視線の強度。
——すごい。
その一言で済ませてしまうには、あまりにも隔絶している。
「……大丈夫、かな」
不安が喉元までせり上がる。
心拍が、無意味に速い。
そのとき、不意に脳裏をよぎった。
「目指すだけ、目指してみなよ」
「絶対に、いけると思うから!」
先輩たちの声。
——そうだ。
私は、足掻くと決めたんだ。
うまくいかなくても、
惨敗でも、
ここで立ち尽くすよりは。
出番は、5番目。
4番目までの歌唱を、私は正直な気持ちで聴いていた。
1人目は、音程は安定していたが、感情が平坦だった。
2人目は、声量はあるが、歌詞が置き去りになっていた。
3人目は、表現力がずば抜けていたが、どこか計算高い。
4人目は——完成度が高すぎて、逆に“個”が見えなかった。
(……上手、だけど)
胸の奥が、ざわつく。
——私は、何を届けたい?
名前が呼ばれる。
「5番、東雲美凪さん」
足が、少しだけ震えた。
ステージに立った瞬間、
照明が視界を奪い、
耳鳴りのような静寂が広がる。
——緊張。
一音目を、外した。
次も、その次も。
音程が定まらず、呼吸が浅い。
(だめだ……)
焦燥が、判断力を奪っていく。
そのとき。
ふと、胸の奥で何かが“切り替わった”。
——いいじゃないか。
完璧じゃなくて。
不器用で。
震えていて。
今の私で、歌えばいい。
声が、
勝手に前へ伸びていく。
歌詞が、
感情を伴って溢れ出す。
音程は正確とは言えない。
けれど、確かに——“生きていた”。
周囲の景色が、
淡く発光して見えた。
輪郭がぼやけ、
世界が柔らかく歪む。
——変わって、見えていた。
歌い終わった瞬間、
静寂が一拍遅れて訪れた。
審査員の視線が、
一斉にこちらを向く。
結果は、
20人中、16位。
——ぎりぎり。
それでも。
胸の奥に、
静かな感動が広がっていく。
(……合格、した)
大声で喜ぶわけでもなく、
飛び跳ねるでもなく。
ただ、胸の内側が、じんわりと温かかった。
——私は、確かに、一歩進んだ。
だが。
次の種目が告げられる。
「次は、ダンス審査です」
——ダンス。
私が、最も不得手とする分野。
結果を伝えた瞬間、
屋上の空気が一変した。
「えっ!?受かったの!?」
みのりが、文字通り跳ねた。
「すごいよ美凪ちゃん!!」
「やるじゃない」
愛莉が、満足そうに腕を組む。
「……おめでとう」
遥が短く言い、
雫は穏やかに微笑んだ。
次の種目がダンスだと告げると、
全員の表情が一瞬だけ引き締まる。
「……じゃあ、次は本気ね」
そこからは、
失敗の連続だった。
リズムに乗れない。
動きが遅れる。
身体が、音楽を拒絶している。
(……無理だ)
レベルが、違いすぎる。
その夜。
食卓で、お姉ちゃんとお兄ちゃんが人参のグラッセを押し付け合っていた。
「ちょっと……」
私が困った顔をすると、
二人は手を止める。
事情を話すと、
二人は一瞬で表情を変えた。
「受かったの!?やば!」
「すげぇじゃん!」
心からの喜びだった。
そして、
お兄ちゃんが一つ、提案をした。
——音楽として、踊れ。
音楽を“数える”のをやめた。
身体で、聴く。
「ちょっと美凪ちゃん!そこ力入りすぎ!」
愛莉のツッコミ。
「え?今の、逆回転してた?」
雫の天然。
「わっ……あっ!」
みのりは、安定のドジ。
遥は、黙々と、一切妥協しない視線で見ている。
ストイックだなぁ。
そして——
私は、変わっていた。
動きが、
音楽と同期している。
「……なにこれ」
愛莉が、目を見開く。
「急に、伸びたわね」
賞賛されても、
浮かれなかった。
——ここで慢心したら、終わる。
さらに、自分を追い込む。
それを見て、
愛莉がぽつりと言った。
「美凪ちゃん……遥に似てるところ、あるわね」
遥が、少しだけ目を伏せた。
美凪は、気づいていなかった。
自分がもう、
“追いかける側”から、
“伸び続ける側”に足を踏み入れていることを。
呼んでくれてありがとうございます。
次回はリアルの多忙で遅れるかもしれません。