私は、さらに自分を追い込んだ。
限界という輪郭を確かめるかのように、夜を切り刻み、練習に没入した。
深夜。
ギターの弦を擦る微細な音や、床を踏み鳴らすステップの振動が、壁越しに滲み出ていたのだろう。
「……隣から音が聞こえて、うるさいんだけど」
絵名の声は、相変わらず棘を孕んでいる。
続いて、彰人がやや苛立ちを帯びた調子で言った。
「もう、遅いんだぞ」
言葉だけを抽出すれば、冷淡に聞こえる。
けれど、私は理解していた。
二人とも、本質的には不器用な人間だ。
本当はきっと、
無理をしていないか、
身体は限界に近づいていないか、
そう案じていたに違いない。
私は「ごめん」とだけ返し、音量を落とした。
その不器用な気遣いを、素直に受容できる程度には、私はもう幼くなかった。
――翌日の放課後。
私は再び、MORE MORE JUMP!の四人と屋上に立っていた。
最近、配信を後回しにしていることが、心の隅に澱のように溜まっている。
申し訳なさと、それを凌駕する感謝。
この屋上は、いつしか私にとって「逃避の場」ではなく、「鍛錬の場」へと変質していた。
「美凪ちゃん」
愛莉が、視線を真っ直ぐこちらに向ける。
「動きが少し機械的ね。正確ではあるけど……感情が透けてこない」
核心を突かれた。
私は、生来的に感情の振幅が小さい。
歓喜も、憤怒も、哀傷も、どこか鈍麻している。
だから、歌やダンスにおいても、“正解”には接近できても、“伝達”の域に到達できない。
それは、以前から自覚していた欠落だった。
――その翌日。
練習の一環として、私は実際の試験会場に足を踏み入れた。
名門と名高いプロデューサーが、直々に目を通してくれるという。
恐怖よりも先に、純粋な感謝が胸に浮かんだ。
一人ずつ、次回審査課題である歌とダンスを披露していく。
そして、私の番。
心臓は過剰な自己主張を続けていたが、どうにか最後まで踊り切った。
「……なるほど」
プロデューサーは淡々と、しかし容赦なく言葉を連ねる。
動線、重心、視線、表情。
さらに、歌唱にまで踏み込んだ指摘。
正鵠を射た言葉ばかりで、反論の余地はない。
私は、その場で言葉を失った。
その夜。
熟考の末、私は彰人に声をかけた。
歌もダンスも、兄の技量は圧倒的だ。
「……コツ、教えてほしい」
そう言うと、彰人はパンケーキを頬張りながら、わずかに目を見開いた。
「今さら?」と呆れたように言いながらも、
リズムの捉え方、身体の重心移動、感情を“記憶”に紐づける方法を、驚くほど理路整然と教えてくれた。
――試験前日。
屋上での最終調整。
確かな手応えが、筋肉の奥に沈着している。
「大丈夫!」
「美凪ちゃんならできるよ!」
「焦らないで」
「信じて」
それぞれの言葉が、胸の底に静かに堆積していく。
気づけば、視界がわずかに滲んでいた。
――試験当日。
前回の順位順により、私は16番目。
重圧はある。だが、もう逃げない。
彰人の助言。
モモジャンの想い。
それらを胸奥に束ね、私は踊り出す。
数秒後。
――臨界点を越えた。
身体が、音楽に牽引される。
思考を介さず、動きが連鎖する。
表情が、意識せずとも変容していく。
分かる。
これは、過去最高だ。
踊り切った瞬間、呼吸は荒れ、視界が揺らいだ。
結果発表。
15人中、9位。
……届いた。
確実に、前進している。
次は、グループ審査。
A、B、C。
私は、Cグループだった。
顔合わせのみを済ませ、その日は解散となる。
帰路、私は自身の動きを一つずつ反芻する。
まだ足りない。
まだ甘い。
けれど――
あと少し。
その事実が、私の背中を静かに押した。
夢は、もはや手の届かない幻影ではない。
私は、さらに視線を前へと据える。
次こそ、確かに掴み取るために。
白に近い水色の髪は、
光を映すのではなく、光と一緒に呼吸しているみたいで。
伏せがちな瞳は静かな湖、
どんな感情が触れても、波紋すら立てない。
小さな微笑みと淡い頬の色は、
言葉になる前に消えてしまったやさしさの名残。
黒いリボンと胸元のハートが、
彼女が確かに「ここにいる」証だった。
触れたら壊れてしまいそうなのに、
それでも彼女は、
確かに、強く存在している。
白鷺玲奈。
淡い桃色の髪は、
笑顔という感情が、そのまま形になったみたいで。
片目を閉じる仕草には、
無邪気と照れが同時に瞬いている。
頬に差す赤みは感情のスピード。
考えるより先に、伝わってしまうやさしさ。
結ばれたリボンと花の飾りは、
「楽しい」という気持ちを忘れないためのおまじない。
この子は、
そこにいるだけで、
張りつめた空気をほどいてしまう光。
月島乃愛。
透き通るような風の色の髪は、
朝の校舎をすり抜けてきた自由そのもの。
視線はいつもどこか遠く、
今この瞬間より、
ほんの少し先の「楽しそう」を追いかけている。
足取りは軽く、
リズムは常に自分基準。
正解よりも「面白そう」を選ぶ癖が、
ときどき、誰かの呼吸を置き去りにしてしまう。
悪気はない。
ただ、縛られることが、少し怖いだけ。
彼女はまだ知らない――
揃えることで生まれる、別の自由を。
朝霧梨央。
深く結ばれた髪と鋭い瞳は、
感情を鎧にして生きてきた証。
言葉は強く、態度は大きく、
引くことを選ぶ余地を知らない。
正しさより先に、
衝動が身体を突き動かす。
守るつもりで踏み込み、
壊すつもりなど、一度もない。
誰よりも必死で、
誰よりも不器用。
その行動の奥にあるのは、
「置いていかれたくない」という、切実な叫び。
久遠紗良。
この多種多様な五人が、Cグループだった。
最初から息が合うはずがない。
音楽が流れ、カウントが刻まれても、
身体はそれぞれ、別の方向を向いていた。
振りは合っているはずなのに、
視線が合わない。
呼吸が揃わない。
ひとつの曲なのに、
五つの温度がそこにあった。
「……止めて」
白鷺玲奈の声は小さかった。
けれど、その一言は、
張りつめた空気を確かに切り裂いた。
「このままじゃ、まずい」
静かで、逃げのない言葉。
感情ではなく、判断としての声。
そこには、リーダーとしての覚悟があった。
「梨央、自由すぎる。
紗良、動きが大きすぎる。
全体を見てない」
「は?
楽しくやってるだけじゃん」
梨央は肩をすくめ、
悪びれない笑顔を浮かべる。
「私は、間違ってない」
紗良は視線を逸らさず、
一歩も引こうとしない。
「ね、ねえ……
もっと楽しくやろ?」
乃愛が場を和ませようと、
いつもの調子で割って入る。
でも。
「今は、そういう話じゃない」
玲奈のその一言で、
空気は一気に冷えた。
誰も、言葉を継がない。
美凪は、ただそこに立っていた。
何も言わず、
何も動かず、
視線だけを床に落として。
それが、いけなかった。
「……なんか言ってよ」
「いる意味、ある?」
「黙ってるのが一番困るんだけど」
責める声が、重なっていく。
美凪は唇を噛みしめ、
それでも何も返さなかった。
――このままじゃ、壊れる。
そう判断したのは、
感情よりも先に、
全体を見ていた玲奈だった。
「一回、外に出よう」
そう言った玲奈の声は、
強いわけでも、優しいわけでもなかった。
ただ、これ以上ここにいたら、
何かが決定的に壊れてしまうと分かっている人の声だった。
ファミレスの席。
ドリンクバーの機械音が、やけに大きく響く。
ストローが氷に触れる音すら、
沈黙を際立たせるノイズにしかならない。
誰もメニューを開かない。
視線はテーブルの木目や、
水滴のついたグラスに落ちていた。
その沈黙を破る私。
「……私、
どうしていいか、分からなかった」
か細い声。
けれど、途中で逸らさない視線。
「合わせられない自分が悪いって思って、
でも、何か言えば言うほど、
場を乱す気がして……」
唇を噛みしめ、
それでも言葉を続ける。
「黙っていれば、
せめて邪魔にはならないって……
そう思ってた」
沈黙が、少しだけ形を変えた。
次に口を開いたのは、乃愛だった。
「……私さ」
笑顔はない。
代わりに、少し困ったような表情。
「楽しくしなきゃ、って思いすぎてたかも。
空気が重くなるのが怖くて、
ちゃんと向き合うの、避けてた」
指先をいじりながら、続ける。
「でも、
楽しいだけじゃ、ダメなときもあるんだよね。
それ、分かってたのに」
次に、梨央が椅子に深くもたれかかった。
「……私さ」
視線を天井に向けたまま、
どこか投げやりに言う。
「揃えるの、苦手なんだよね。
合わせるって聞くだけで、
息苦しくなるっていうか」
一拍、間を置いて。
「でもさ、
別に壊したいわけじゃないし。
みんなの足、引っ張るつもりもなかった」
声は軽い。
けれど、その奥に、
「理解されない前提」が滲んでいた。
最後に、紗良が口を開く。
「……私」
その声は低く、
いつもよりも、少しだけ弱かった。
「置いていかれるのが、嫌なだけ」
短い言葉。
でも、そこに込められた感情は重い。
「だから、
必死になるし、強く言うし、
正しいって証明したくなる」
拳を握りしめる。
「でも……
それで、みんなを傷つけてるなら、
意味ないよね」
その言葉に、
誰もすぐには返事をしなかった。
でも、もう。
責める空気は、そこになかった。
玲奈が、静かに息を吸う。
「……ありがとう」
それだけだった。
でも、その一言には、
全員の本音を受け止める覚悟があった。
テーブルの上に並んでいたのは、
不満でも、言い訳でもない。
ただ、
それぞれが抱えてきた「本当」だった。
帰り道。
夜風が、火照った頬を冷やす。
沈黙の中で、
梨央がぽつりと言った。
「……もう一回、
やってみたいかも」
今度は、誰も否定しなかった。
指定されたダンスルーム。
同じ曲、同じ振り。
けれど、
空気はまるで違う。
「ここ、呼吸合わせよ」
玲奈の声。
「次、ちょっと早いかも」
紗良が自分から言う。
「この動き、好き!」
乃愛が目を輝かせる。
「じゃ、そこ活かそ」
梨央が自然に返す。
言葉が行き交い、
視線が重なり、
身体が、音楽に引き寄せられていく。
踏み込む足は迷いなく、
腕の軌道は、空気を切り裂くように滑らか。
個性は消えない。
むしろ、互いを引き立て合っている。
伸び伸びと、
それでいて確かに、揃っている。
音楽が終わった瞬間、
誰かが息を吸い、
誰かが笑った。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
音が、
心が、
確かに、重なっていく。
まだ未完成で、
まだ不揃いで、
それでも――
確かに。
私たちは、
「一つになる方法」を、
見つけ始めていた。