スタジオに、柔らかな照明が落ちていた。
白すぎず、暗すぎない光が、肌の質感を丁寧になぞるように浮かび上がらせる。
影は輪郭を失わず、しかし主張しすぎることもなく、床の上に淡く溶けていた。
天井から吊り下げられたライトは、静かに熱を帯び、時間の経過とともにわずかずつ存在感を主張してくる。
カメラはすでに回っている。
小さな赤いランプが灯っているだけなのに、その向こう側には、画面越しの“ファン”がいる。
姿は見えなくとも、確かに存在する無数の視線。
期待と好意と、時に無遠慮な評価を孕んだそれらが、目に見えない圧として空気に溶け込んでいた。
「はい、じゃあいくよー!」
明るい掛け声が合図となる。
その声が完全に消えきるよりも早く――
次の瞬間、モモジャンの四人は一斉に“切り替わった”。
ただ笑顔を作る、という言葉では足りない。
それはもっと滑らかで、もっと自然で、意識する前に身体が反応するほど深く染み込んだ所作だった。
瞬き一つ分の猶予すらなく、彼女たちは完全に“アイドル”になる。
弾けるような表情。
ほんの数秒の沈黙すら計算し尽くされた間。
カメラの奥、さらにその先――見えない誰かの感情を、正確に射抜く視線。
「いつも応援ありがとうございます!」
「今日はですね、ちょっとしたお知らせがありまして!」
声が重なり、スタジオの空気が一気に華やぐ。
変わったのは音量だけではない。
温度が、色彩が、明度そのものが塗り替えられたかのような錯覚が、美凪の意識を揺らした。
カメラの前に立つ彼女たちからは、迷いも不安も微塵も感じられなかった。
汗をかいていようと、疲労が蓄積していようと、それを一切表に出さない。
弱さを見せない、というより――弱さを見せる時間は、すでに舞台裏で終えてきたのだと、そう思わせる佇まい。
そこにあるのは、“見せる側”として完成された存在。
――アイドル。
……すごい。
美凪は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
同じスタジオに立ち、同じ床を踏み、同じ天井の下にいるはずなのに。
それでも、決定的な隔たりを感じてしまう。
距離が、遠い。
物理的な話ではない。
まるで透明な隔壁越しに、別の世界を覗いているようで。
触れられそうなのに、決して触れられない場所。
それでも、不思議と目を逸らすことはできなかった。
彼女たちの一挙手一投足が、胸の奥に静かに沈殿していく。
羨望と、憧憬と、そして拭いきれない微かな焦燥を伴って。
「これからも、私たちのこと、見ていてね!」
動画の締め。
最後の決めポーズ。
息を揃えた笑顔。
そして――
「OK!」
遥の声が響いた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩む。
照明の熱が、現実の重さを伴って戻ってきた。
「ふー……今日も無事撮れたね」
「ファンのみんな、喜んでくださるといいね」
少し気の抜けた声音。
ほんのわずかに崩れた姿勢。
それでも、積み上げてきた時間が滲むような、揺るがない芯。
そんな何気ないやり取りですら、美凪には眩しかった。
――私も、ああなりたい。
胸の奥で、小さな憧れが、確かな輪郭を持ちはじめる。
それはもはや、漠然とした夢ではない。
ただ“残りたい”だけではなく、
選ばれるために必死にしがみつく存在でもない。
胸を張って、
迷いなく、
「私はアイドルです」と言える場所に、立ちたい。
その後、結果を伝えると、モモジャンの皆さんは、自分のことのように喜んでくださった。
「すごいじゃない!」
「ちゃんと、想いが届いてたんだね」
その言葉と笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
認めていただけたような気がして、ほんの少し救われた心地がした。
けれど。
「次は、体力審査で……」
その一言を口にした瞬間、空気がわずかに沈む。
祝福の余韻に、容赦なく現実が差し込んでくる。
「……ああ……」
誰かの漏らした声が、やけに重く響いた。
沈黙を破るように、遥が静かに手を挙げる。
「だったら、鍛えるしかないね」
迷いのない声音。
感情に訴えるでも、過剰に励ますでもない。
それは、淡々と提示された“事実”だった。
――選んだ以上、やるしかない。
その日の練習は、容赦がなかった。
ランニング。
筋力トレーニング。
反復練習。
時計の針が進むほどに、身体は確実に重くなっていく。
一切の妥協を許さない、遥のストイックさ。
回数も、ペースも、すべてが“限界の一歩先”に設定されている。
「まだいける。呼吸、浅くなっているよ」
淡々とした指摘が、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
脚は鉛のように重くなり、床を蹴る感覚が鈍る。
視界が揺れ、肺が焼けるように悲鳴を上げる。
それでも、遥は止まらない。
「本番で倒れるより、今きつい方がいいよ」
正論だった。
反論の余地は、どこにもない。
先ほどまで目にしていた、“輝くアイドル”の姿が脳裏をよぎる。
あの笑顔の裏に、どれほどの積み重ねがあるのか。
あれは、才能だけで立てる場所ではない。
血の滲むような反復と、折れかけた心を何度も立て直した、その先にある。
だからこそ、美凪は歯を食いしばって、ついていく。
――弱いままでは、残れない。
練習後、二人は近くのファミレスに立ち寄った。
自動ドアの開閉音すら、やけに大きく響く。
席に腰を下ろした瞬間、美凪は今にも机に突っ伏しそうになった。
身体の芯まで、疲労が染み渡っている。
「……正直、倒れるかと思いました」
「“思いました”じゃなくて、顔に全部出てたよ」
遥はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
ドリンクバーの氷が、カラン、と乾いた音を立てて溶けていく。
その音だけが、妙に際立って聞こえた。
しばらく、言葉が途切れる。
沈黙は気まずさではなく、疲労が生んだ静けさだった。
「でも……」
美凪はストローを指先で弄びながら、ぽつりと零す。
「怖いんです。体力審査も、周りの人たちも……全部」
遥はすぐには答えなかった。
わずかに視線を落とし、思考する間を置いてから、静かに口を開く。
「怖い、と思えるのは……本気だからだよ」
その言葉は、意外なほど深く胸に沈んだ。
「美凪は、才能がないわけじゃない。
まだ、形になっていないだけ。
……それって、一番伸びしろがある状態だと思うよ」
簡単な慰めではない。
努力を前提とした、厳しくも誠実な言葉。
帰り道、脚はまだ震えていたけれど、心は少しだけ軽かった。
夜風が、火照った身体をゆっくりと冷ましていく。
その夜、私は布団に入ると同時に、深い眠りへと落ちた。
夢を見る余裕すらないほど、くたくただった。