数日後。
体力審査に向けた練習に、お兄ちゃんとお姉ちゃんが付き合ってくれることになった。
正直に言えば、胸の奥で、ほんのわずかに息をついていた。
それは期待というより、保険に近い感情だった。
お姉ちゃんは、もともと体力に恵まれた人間ではない。
運動とは、必要最低限の距離を保ったまま生きてきたタイプだ。
だがそれは逃避でも怠慢でもなく、彼女なりの選択であり、彼女なりの生存戦略だった。
一方で、お兄ちゃんは違う。
無駄に体力があり、無駄に回復も早い。
努力という言葉が追いつかないほど、理不尽なほどに、身体の出来が違う。
――お兄ちゃんがいるなら、きっとなんとかなる。
理屈よりも先に、感情がそう断定していた。
私はその安易さを自覚しながら、それでも縋ることをやめられなかった。
朝の台所は、いつも通りの生活音に満ちていた。
フライパンの油が弾く音。
湯気が天井へとほどけていく気配。
食器が触れ合う、軽く乾いた音。
何も変わらない朝の風景が、今の私には少しだけ、救いのように思えた。
「……で?」
フライパンの前に立つお姉ちゃんが、振り返りもせずに問いかける。
「結果、どうだったの」
感情の温度を感じさせない声音。
それがかえって、こちらの緊張を煽る。
私は椅子に腰掛けたまま、ほんの一拍、呼吸を整えた。
「……Cグループ、1位だった」
その瞬間、台所の時間が、目に見えて停止した。
「……え?」
「は?」
次の瞬間。
「えっ、うそでしょ!?」
「マジかよ!!」
驚愕が、ほぼ同時に声となって弾けた。
お兄ちゃんは目を見開いたまま私を凝視し、それから椅子に深く体を預ける。
「次の次で……」
ぽつり、と。
「美凪も、アイドルか……」
それは確認でも質問でもなく、
ただ現実を、言葉に落とし込むための独り言だった。
視線は宙を彷徨い、理解よりも先に、感慨が胸に満ちていくのがわかる。
お姉ちゃんは「へぇ……」と短く相槌を打った。
だが、その口元は、確かにほんのわずか緩んでいた。
「まあ、あんたが残るとは思ってなかったけど」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
素っ気ない言葉の裏に、確かな安堵が滲んでいる。
それに気づいてしまって、私は視線を逸らした。
そして――
朝食は何事もなかったかのように、卓上へと並べられていく。
問題は、人参のグラッセだった。
「はい、美凪」
当然のように、お姉ちゃんの皿から、人参が私の前へ移動する。
「……ちょっと待って」
「だって、食べれるでしょ?」
「食べれるけど……」
反論が弱い。
自分でもそう思う。
すると、間髪入れずに――
「ほら、これも」
今度はお兄ちゃんの皿から、人参が静かに合流した。
「体力つけるなら野菜だろ」
「いや、それ昨日も言った!」
「今日も言う」
「理不尽!!」
結果として、私の皿の上には、人参のグラッセが小さな山を成した。
照り返す飴色が、異様な存在感を放っている。
「……二人とも、自分の皿見て?」
「見てるけど?」
「見てるよ?」
二人の皿は、驚くほどすっきりしていた。
「これ、押し付けてるでしょ」
「気のせい」
「善意」
「信用ならない!!」
その直後だった。
「……ねえ」
お姉ちゃんの声が、空気を断ち切る。
「パンケーキ、誰食べた?」
温度が、一段下がった。
「あれ? 昨日あったよね?」
お兄ちゃんが、何気ないふりで言う。
だがコップを持つ指が、一瞬止まった。
「……彰人?」
「いや、俺じゃない」
即答。
早すぎる否定。
「じゃあ誰?」
台所に、不自然な沈黙が落ちる。
冷蔵庫の前で、私は耐えきれず口を開いた。
「……私、練習で疲れてて」
「美凪?」
「違う!?」
視線が一斉に突き刺さる。
「……ねえ」
お姉ちゃんが、ゆっくり振り返った。
「昨日の夜、誰が一番最後まで起きてた?」
沈黙。
「……」
「彰人」
「……」
数秒後。
「……悪かった」
小さく、降参するような声。
夜中の空腹に、理性が完全敗北したらしい。
パンケーキは、“つい”という言葉に殺された。
「最低」
「だって……甘いの欲しかったんだよ……」
言い訳は情けなく、それでいて、どこか憎めない。
「じゃあ代わりに、人参全部食べて」
「それは違うだろ!」
そんな応酬の中で、
台所の空気は、少しずつ、いつもの家族の温度に戻っていった。
練習場所は、近所の公園だった。
朝の空気はまだ冷たく、吸い込むたびに肺の奥がひりつく。
「じゃ、まずは軽く走ろうか」
お兄ちゃんの声は、不自然なほど明るい。
“軽く”という言葉を、私はこの家の人間から一切信用していない。
案の定、ペースは速い。
最初はどうにか食らいつけたが、数分もしないうちに呼吸が乱れ始めた。
「美凪、歩幅狭い」
「……無理……」
「無理じゃない。まだ行ける」
お兄ちゃんは、立ち止まらない。
お姉ちゃんは少し後ろで息を切らしながらも、予想外の粘りを見せていた。
脚が鉛のように重くなる。
肺が内側から焼けつく。
視界の端が、じわじわと白く滲んでいく。
それでも、お兄ちゃんは淡々と距離を刻み続ける。
「本番、逃げられないだろ」
その一言が、胸の奥に深く突き刺さった。
何度も、立ち止まりたい衝動に襲われた。
足が縺れ、膝に手をつく。
「……もう無理……」
「じゃあ、三十秒休め」
冷淡ではない。
けれど、情けもない。
三十秒後、再開。
次は筋トレだった。
腹筋、腕立て、スクワット。
回数を重ねるたび、身体が露骨に抗議の声を上げる。
「呼吸、止めない」
「……っ」
「ほら、数える」
お姉ちゃんは途中で完全に床に転がった。
「……これ、体力審査じゃなくて拷問じゃない?」
「気のせい」
お兄ちゃんは、一切譲らなかった。
何度も、諦めが脳裏をよぎる。
自分には無理なんじゃないか、そんな弱音が顔を出す。
それでも、そのたびに浮かぶのは――
ステージの光。
降り注ぐ拍手。
あの瞬間の、高揚。
「……やめない」
呟いた声は、思っていたよりも確かだった。
お兄ちゃんは一瞬だけこちらを見て、ほんのわずかに口角を上げる。
「それでいい」
夕方が近づく頃には、身体はほとんど言うことを聞かなかった。
脚は震え、指先に力が入らない。
それでも。
疲労の最奥で、確かに何かが芽吹いていた。
それは、まだ名前すら与えられていない、微かな自信だった。