"知は力なり"
どこかの誰かがそう言った。
これは自然法則を熟知し、経験を積み、そしてその知識、または知性を以ってして自然を支配していくことで人類にとっての盤石な富を形成することが可能になるという説である。
確かにそれは正しい。だがここで言う力とは周辺の環境に干渉し、操作することで自らの利益を生み出すというものであり、有形的な力、即ち単純明快な物理的エネルギーではないということだ。
しかし、それは魔法が存在しない世界での話だ。
この世界の魔法は、まさに知は力なりと言う言葉を如実に表したような概念である。
魔法を使用する魔導士の知識の絶対量が多ければ多い程、魔法の汎用性は広がって行く。そして、魔法の深淵に近づけば近づく程、魔導士の魔力量も自ずと増していく。その規模が拡大すればやがて、すべてを知り、すべてを創造し、そしてすべてを破壊する全能者となることも可能となるだろう。
この大変都合の良い魔法の知識を"力"と呼ばずして、他になんと呼べば良いのだろうか。
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人間一人の寿命は短い。それ故に人は自らが持つ知識を後世に伝え、人類という単位でそれを存続させようとする。その情報の伝達方法は様々である。そんな数多ある方法の中、この世界で最も主流なのは書物に記された文字によって他者に知識を伝えるというものである。
それに何より、この世界の本は単純に文字が記されただけの情報媒体ではない。
魔力を纏わせることが出来る。
この技術により、本にはあらゆる細工が可能となった。その細工にも多数の種類があり、中でも高度な技術が使用されているのがゼレフ書である。
著者、または製作者と呼ぶべきか、黒魔導士ゼレフが残したそれは、一国をも破壊しかねない程の強力な悪魔が多数記された、言わば危険物である。そんな、人類にとっては生存自体が危ぶまれるような物を、もし一人の小さな少年が扱っていることを誰かが知れば卒倒することは間違いない。
だが、上記のifは現在進行形で起こっている事実である。
地下深くにある、闘技場のように広々とした空間で小さな少年と、見ているだけでも悪寒が走るような異形とが相対していた。
「キシャーッ!!!」
異形は正面に立つ少年をひたすらに威嚇し続けており、また、少年の方はそんな知性があるのかすら怪しい異形に対して怯えるでもなく、嫌悪するでもなく、只々無感動にそれを眺めていた。
そんな二人の変化の無い平坦な緊張状態は異形の方が痺れを切らせたことで、崩れ去った。
異形はただ棒立ちで自らを見つめている少年に向かって飛び掛かるべく、地面をその爬虫類のような足で踏み込み、静止状態から一気にトップスピードへとそのドス黒い体を加速させた。
少年はその神速の突進を見てもなお、その場を動こうとしなかった。否、動く必要すらなかった。
異形が少年に飛び掛かり、その小さな体を引き千切ろうとした寸前で、何か目に見えない壁のような物にその勢いは完全に殺された。異形はその何かにぶつかった衝撃でダメージが入ったのか、くぐもった呻き声を発していた。
「グゥゥゥギャャッ」
異形の苦しむ様子を見た少年は、その短い腕を突き出し、小さな手のひらを差し出した。それはまるで何かを受け取るときの姿勢にも見えなくもなかったが、彼の場合は受け取るのではなく、まるで握り潰すかのように、その手を力強く握りしめた。
すると少年の手の動きと連動するように、異形の真下から全く混じりっ気のない、純黒の腕が大量に生え出し、その一本一本が完璧で美しい形をした繊細な腕達が、まるで目が付いているかのように異形の全身を捕らえようと動き回り、その左右非対称な醜い体を絡め取っていった。
それに対して、異形も抵抗の姿勢を見せたが、黒い腕はその非力そうな見た目に反して物凄い力を有していた為に、その抵抗も意味を成さなかった。異形は体が動かなくなったことを認識すると、まだ自由の効く頭部を少年に向け、その口と呼べるのかどうかすら怪しい器官から泥のような色をしたブレスを勢い良く放射した。その威力は並の魔導士であれば瞬殺できる程のものであった。しかし、その最後の抵抗も少年を守る透明のバリアに阻まれてしまい、無に帰した。
少年は再び腕をゆっくりと前に突き出した。今度の手のひらの向きは上ではなく、目の前の固定された異形に向いていた。少年はその手に魔力を集め始め、一瞬で手のひらサイズの魔力弾を作り出した。その魔力弾は凄まじい量の魔力が凝縮されており、その圧倒的な力を感じ取ったのか、異形は今までの威勢を失い、突然怯えたように震え出した。
これが両者の力関係を決定付けた瞬間だった。
どこまでも無感情な少年が処刑を待つ罪人のように怯える異形に向けて戸惑うことなく魔力弾を放つと、爆発音を立てるわけでもなく、静かに、まるでその体に染み込んでいくかのように魔力弾は異形の胸部辺りに浸透していった。直後、に異形の体に異変が起きた。
「ギャャャャアァァアァガアアァァァアアア」
異形は恐ろしい程の声量で断末魔を上げながら、まるで紙をクシャクシャに丸めるかのように、その体が魔力球の被弾カ所を起点として急激に収縮していった。そして、数秒足らずで異形の存在が消えて無くなった。残ったのは少年が放った時と変わらずに黒い輝きを放ち、その場に浮き続ける、恐らくは異形を消し去ったであろう魔力球だけだった。
暫くして、黒い魔力球が自然に霧散するのとほぼ同時に闘技場の入り口から少年にとってのマスターである、ハデスと一人の小さな少女が入ってきた。少女の見た目は少年と同じくらいの年齢で彼と同じ綺麗な黒髪を持ち、将来が約束されたような整った顔立ちをしていた。
「もうS級レベルの悪魔では満足いかんか?ヴェルスよ」
ハデスが少年、ヴェルスに向けて半分満足、半分飽きれのような視線を向けながら少女を連れて歩みよって来た。
「……」
ヴェルスはその問いに対して肯定も否定もせずに、沈黙をもって答えた。そんな彼の態度もいつものことで、ハデスは気にせずに次の話題に移った。
「まあ良い。さて、ウルティアよ此奴はお前と同じ研究所の被験者だったヴェルスだ。お前があの研究施設を逃げ出し、放棄した実験に於ける唯一の成功例でもある」
ウルティアと呼ばれた少女はハデスの言葉を聞き、ピクッと反応してヴェルスの方を見ると、全く表情を浮かべないヴェルスと目が合った。ウルティアはその光の存在を許さない漆黒の双眼を見ていると、まるで何かに吸い込まれるような感覚を覚えた。そして次々に脱力感や虚無感、絶望感といった此の世の負の感情を盛り込んだかの様な未知に自分の体が蝕まれて行くような感覚に陥り、彼女は咄嗟にヴェルスから目を逸らした。
「よせ、ヴェルス。ウルティアはこの
「……わかりました」
ヴェルスは抑揚の無い声でハデスの命令に返事をした。その答えに満足したのか、ハデスはウルティアを連れて元来た入り口へと歩いて行った。ヴェルスは二人が去って行く様子を彼らの姿が見えなくなるまで見つめていた。
ヴェルスが闘技場で一人っきりになると、彼は再びゼレフ書の悪魔を作り出し破壊するという、ただの流れ作業に戻った。
その目的は、ただ"力"という手段を得るためだけ。
そこには彼の意思など介在する余地もなく、ただゼレフという黒に囚われた哀れな亡者のように彷徨い続けるだけ。そして、その先には破滅しかないことを知りながらも彼は止まらない。
やがて同じ黒である彼らは、いつか互いにまみえる時が来るのだろう。しかし、この世に絶対的な黒は二つも必要はない。世界は常にバランスをとろうとする。故に
それが自然の摂理という世界のルールであり、人間という生物である限りは抗うことの出来ない運命とでもいうのだろうか……。