世界「判断が遅い」   作:りんご雨

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プロローグ

「……ふぅ」

 

 

 この地域の夜は寒く、息を吐けば白い靄が霧散する。

 

 静かだ。

 風が止むと、世界は音を失ったような静寂に包まれる。

 

 硬いコンクリートの地面に倒れたそれが動かなくなったことを確認してから、僕は無駄に重たい銃身を下ろした。

 今はまだ、引き金を引いた重い感触だけが指に残っている。

 対照的に、熱や震えはもう感じなかった。

 

 肩を脱力し、息を整える。

 

 誰かを守るということは、他の誰かを終わらせたということなのか。

 その違いを考える悪い癖は、もう随分前に治ったはずなのに。考えても無駄だと割り切ったところで、未だに頭の片隅に残り続ける。

 

 床に膝をつくと、冷やされた外套が擦れる。

 白かった布地には、いくつもの染みが重なっていた。

 

 裏路地を駆けた時に付着した油汚れや煤、果てには赤黒いもの。ブラックマーケットにやって来てから受けた依頼は稼ぎこそ美味しいものの、そんな仄暗い仕事ばかりだ。

 そろそろ匂いが誤魔化せなくなってきたし、新しいものを用意するべきかもしれない。

 

 建物の隙間から空を見上げると、そこには僕を明るく照らす丸い月があった。

 隠れた太陽の代わりに、黙って淡く光っている。

 

 夜は好きだ。昼間とは一味違った景色を見せてくれる。

 影になっていた場所、普段なら足を踏み入れない場所の境界が曖昧になり、容易く一線を越えられる。

 

 昔、誰かが言っていた。

 光は、誰をも均等に照らすものだ――と。

 

 抽象的な言い回しが印象に残っている。当時は軽く聞き流した覚えがあるが、時間が経つにつれ、深く考えさせられた。

 もう詳しくは覚えていないし、その真意も測れないのが残念で仕方ない。

 

 それは懐かしさでも、後悔でもなく、ただ、ふとした瞬間に思い出すものだ。

 

 首元の通信機が振動し、鼓膜を短く震わせる。

 次の依頼だろうか。

 確認しようと指を動かすが、通信を受諾する瞬間、それさえも鬱陶しく感じ、手を下ろした。

 

 影の奥、広場の向こうに街の灯りが水彩画のように滲んで見える。目を、心を奪われた。

 気付けば十秒、二十秒が経過していた。しかしそれでも尚、その美しい景色を眺めていたのは何故だったろうか。

 

 暗く狭い路地の裏手には、しばらくの間、通信機の振動音が鳴り続ける。

 

 想起するのは、あの日、あの瞬間。

 砂漠で目を覚ましたときのことを、僕は今でも覚えている。

 そしてそれは、忘れようにも忘れることはないだろう。

 だってそれが、僕にできる唯一の償いなのだから。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 乾いた砂の香りと、肌を焦がすような熱を感じ、僕の意識はゆっくりと浮上する。

 閉じていた瞼を開けば、そこにあったのは馴染み深いLEDの光ではなく、暴力的なまでの太陽光だった。

 

 明るい。いや、痛みすら覚える光の波。

 目に鈍痛を感じ、急いで下を向いて瞬きをする。

 目覚めにいきなり眩しいものを見たせいか、視界は黒く塗りつぶされ、挙句の果てには涙すら出てきた。

 

 這い蹲った勢いで拳を握れば、掴んだのはベッドの感触ではなく熱せられた無数の砂。

 指と爪の隙間に入ってしまったようで、神経を刺すような不快感が込み上げくる。

 

 数分が経ち、僕はやっと安定した視界と共に平静を取り戻した。

 見渡してみると、どうやら砂漠のど真ん中にいるらしい。

 あるいは、ひと世代前に流行した異世界転生というやつだろうか。

 

 歯を食いしばって立ち上がると、靴のない足は砂に沈む。よりにもよって裸足なのか。

 我慢していた熱が直に伝わり、くぐもった嗚咽の声を漏らす。

 

 日陰を探すために視線を上げると、妙なものが目に入った。

 天空に円環状の光が輝いている。

 

 どうにも見覚えのあるデザインだ。

 記憶が正しければ……確か『学園都市キヴォトス』の空にも、似たような紋様があったはずだ。

 

 しかし、思考はここで止まる。

 身を突き刺すような暑さと果てのない喉の乾きが、僕の判断力を奪っていた。

 

 一歩、また一歩。

 どれだけ歩けども砂は無限に広がり、体力を奪う。

 陽炎のように揺らめく地平線の先に、建物の影などは一切見当たらない。

 

 もう限界だ。

 視界が揺れ、意識が遠のく。熱せられた空気を吸い込みすぎたのか、呼吸音もおかしくなってきた。

 上がる心拍の音も、砂を踏みしめる音も小さくなる。最後に聞こえたのは、誰かが駆け寄る足音と、大きく張った掛け声だけ。

 

 気付けば温もりに包まれ、地面にうつ伏せになって倒れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次に意識が戻ったとき、僕が最初に感じたのは硬いベッドの感触だった。

 

 目を開ければ白く整えられた天井と、柔らかな蛍光灯の光が広がる。

 窓から射し込む陽光に目を眩ませながらゆっくり頭を上げると、大きく咳き込んだ。喉に異物感があり、満足に呼吸ができない。

 視界の端には、見慣れない医療器具や机が並んでいる。しかしそのどれもがどこか古めいていて、満足に手入れが行き届いていないことが伝わってきた。

 ここは……どこかの学校の保健室のようだ。

 

 このまま寝ていても良かったのだが、僕は未だ自分に起こったことを全く理解できていない。だってそうだろう? いつも通り惰眠を貪っていたら、いつの間にか死の淵に立っていたのだから。

 

 上半身を起こし、室内をくまなく観察する。

 ぼとりと、何かが膝の上に落ちた。額に乗っていた濡れタオルだ。誰かが介抱してくれたのだろう。それはきっと、あの後駆け寄って来てくれた人に違いない。

 

 ベッド周辺に人影はなく、誰かがいた痕跡こそあれど実態は掴めない。

 人を呼ぼうにも大きな声を出す気力はなく、万事休すと言ったところだ。

 

 ベッドに腰掛けるように座れば、古びた内装の中でも群を抜いて老朽化した全身鏡を目が捉えた。

 その割れた鏡面を興味本位で覗いた瞬間、僕は言葉を失った。

 

 そこに映ったのは言うなれば、圧倒的なまでの“白”の化身。

 新雪を思わせる純白の髪は毛先に行く程黒のグラデーションを強め、肩ほどまで無造作に伸びていながら芸術品のような調和を感じさせる。

 肌は病弱さすら感じる色白であり、眉毛、睫毛に至るまで、その全てが純白に染め上げられたようだ。先天性白皮症(アルビノ)という病名が頭を過ぎる。そうであるならばこの橙がかった瞳の色も、異常なほど太陽に弱かったことも腑に落ちる。

 

 少なくとも見慣れた顔ではない。小柄で、柔らかい線の少女の顔。目が、髪が、皮膚が、その他自分を構成する外面的要素が、明らかに元の自分とは違うと言っている。

 決定的なのは、頭の上に浮かぶ光の輪。天使の輪を彷彿とさせる、ヘイローとも呼ばれるもの。

 

 手に触れても、腕の感触は柔らかい。力はある……と思うのだが、同時にどこか頼りなさを帯びている。

 声を出そうとしたが、口から出たのは『ヒュー、ヒュー』という空気の抜けるような音と瞬間的に走る痛み。この調子なら、喉は焼けていそうだ。

 

 立ち上がろうとすると、体の重心がいつもと違うことに気付く。

 それも考えてみれば当たり前のことで、骨格も筋肉の付き方も違うのだ。慣れるのにそう時間は掛からないだろうが、それまでは苦労するだろう。

 

 混乱が冷めてきた今、意識を失う直前の記憶を断片的に思い出す。

 砂漠で歩き続け、倒れたこと。

 暑さや乾き、どれだけ歩いても砂以外の景色が見えない絶望感。

 そして、この世界をゲームとして嗜んでいた記憶。

 

 なるほど、やはり転生……というより、憑依というものだろうか。

 頻繁に読んでいたジャンルだ。人生の終わりを経験し、その記憶を失うことなく別の人生をやり直すというもの。

 誰もが一度はそんな経験を望むだろうし、事実として僕も、そんな非日常があったらいいな――くらいには考えていた。

 

 記憶や心はそのままに、でも体も性別も異なっている。

 そのちぐはぐさには頭を抱えそうになると同時に、僕はある希望を抱いていた。

 

 小さくなった手を握り、ベッドから足を下ろす。

 そうだ。この世界は、僕の知らない色で溢れている。

 

 前世で知っていた物語、好きだった物語。

 青春の物語(ブルーアーカイブ)を見届けたいという欲望が大きく渦を巻く。

 

 知りたい。

 画面越しではなく、実際にこの目で、この世界を見てみたい。

 

 そうやって期待に胸を膨らませていると、ガチャリと音を立て扉が開いた。




ここまで読んでくれてありがとうございます
この先の物語は、第一章としてまとめて投稿する予定です
もし気に入って頂けたのなら、もうしばらく、お付き合いいただければ幸いです

(2026/02/21)
一部表現を変更しました
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