海。
あるいは川。
池。沼。滝。せせらぎ。湧き水。温泉。
あるいは井戸やトイレといった人工の設備。
貯水槽。排水溝。
上水道、下水道。
プール。
ダム。
水とは地上と異なる世界の入り口であり、人間社会においてもっとも身近な『異界』だ。こういう場所を霊は好む。
秩父山系の中にあるこのダムも、異界の入り口だった。
『新月の夜、ダム湖の展望台から水に飛び込めば異世界に行けるらしい』
そんな噂がまことしやかに囁かれた。
それは本来、ただの慰めだった。自殺した子の親が「異世界に旅立ったのだ。ここではないどこかで、きっと楽しく暮らしている」という救いを求めた先に生まれた優しい嘘。その優しさが呼び水となり、人生に惑う少年や少女が訪れた。
ほとんどの少年少女は、展望台から飛び降りることはなかった。少しの好奇心や遊び心に誘われただけで、遠くに来られただけで十分だった。転落防止の柵を乗り越えるような蛮勇や絶望を抱えた者はごく僅か。そもそもここは本来、豊かな自然に囲まれた景勝地だ。遠くへ来たという満足感だけで多くの者は救われた。
その救いを貪る者がいた。
『……おお、甘露甘露。甘く愚かな若者の魂は絶品よな……。前の年にしこたま貯め込んでおいて本当に良かった』
生前の絶海入道は、僧の装いをした野盗に過ぎなかった。
時代がいつなのかも定かではない。この山が切り開かれて道ができるよりもずっと前のこと……としか言えない。絶海入道にとって時間や歴史など興味の外だ。
ただ一つ言えるのは、絶海入道が若者だった頃、犠牲者たちと同様に未知なる世界を漠然と夢見ていた若者に過ぎなかったことだ。彼は故郷の寒村を捨て、大望を抱いて江戸へ旅立った。度胸に満ちあふれているが計画性は無く、元気はあるが地道な努力は嫌った。ゆえに辿り着く前に食い詰めてしまい、通りがかった僧に平伏して飯を分けてくれと頼み込んだ。僧は僧とて聖人君子というわけでもなく、食い詰めた若者に「お前のような者が江戸に行って何になる」と罵倒し、握り飯を若者の目の前で食い尽くした。逆上した若者は僧に飛びかかってもみ合いとなり、気付けば僧を殺していた。
若者は一瞬だけ後悔したものの、保身に走った。殺人を疑われないように死体を隠し、僧衣を着てどこかで耳にした説法を説いた。意外なことに、多くの者が騙された。人を殺した後ろめたさが僧であるという説得力を与えたのだ。
気付けば若者は「高名な旅の僧」と扱われ、周辺の村人が飯や野菜、金銭などの供物を与えた。若者には物語を聞かせる才覚があった。その才覚を江戸で芽吹かせ本を書くなり舞台に立つなりできたならば道は違っただろうが、人を殺した若者にとってはそんなもの獲物をおびき寄せる釣り餌に過ぎなかった。夢を描く前に、夢は潰えた。
誤魔化しの日々はやがて終わりを迎える。隠された死体が暴かれ、不信に思った寺の関係者が若者の所有品を盗品と気付き、訴えを受けた奉行所が動いた。やがて追われた果てに若者は川に飛び込んで溺死した。我が身可愛さで念仏を唱えたが救われるはずもなく、また成仏できるはずもなく、やがて若者の死体は湖の底に行き着いて深く静かに眠り続けた。だが眠りの中で怨念は消えることはなかった。
時が経った。時代が変わり、近代的な建築技術が河川や山林に入るようになった。かつて若者だった死体はダム工事によって掘り起こされ、そして溜めて溜めて貯め込み続けた怨念を噴出した。死者が続出した現場では『絶海入道様の祟りだ』と騒がれた。絶海入道とは、若者が殺した僧の名であった。若者の名前など知る者は今も昔もいなかった。
悪霊となった若者、もとい絶海入道は、本当の自分がこの世のどこにもないことを呪った。だがやがて、自分こそが絶海入道なのだと自分を騙すようになった。我こそ悪僧、絶海入道であると。
偽りの姿、偽りの名、偽りの海。偽りの夢。すべての偽りを、絶海入道は真実なのだと叫び、呪い続けた。絶海という名に由来した力を身に付けた。閉ざされ、どこからも絶たれた海の結界を作り出して人々を閉じ込めて喰らう。ゆえに絶海。その力は、嘘ですべてを塗り固めてみせるという絶海の心が生み出したもので、それゆえに強かった。
だから誰も、絶海入道の正体を知らない。自分自身、己の正体など消えてしまえばよいと思っているのだから、誰も真実に辿り着くことはできない。特に対魔師としての経験が長い者ほど騙される。悪霊の本質を掴めば除霊が容易になるのだから入念に調べ、それゆえに誰でもない者が正体に過ぎないとは思わない。大いなる敵には大いなる背景があってほしいという無意識の観念に囚われる。
『ああ、しかし……あの乙女はいつ頃食べるとするか。そろそろ蓄えも尽きる頃だが、惜しくもある……』
そして幾人かの対魔師や霊能力者を運良く捉えたことで、絶海入道は飛躍的に強くなった。嘘と悪運が絶海入道を強くした。それがどれだけ虚しいことなのかを目をそらせることが、絶海入道の強さの源であるとも言えた。
『む……?』
誰かが、ダムの展望台にやってきた。
もはや日は落ちて周辺は真っ暗闇だ。付近の駐車場の灯りがほんのわずかに差し込むだけで、展望台の照明はすでに落とされている。ということは、獲物だ。
『よいところに来たな……こやつを食ろうて、馳走はもう少し取っておくとするかの』
自分の結界に閉じ込めた魂を少しずつ、大事に喰らうのが絶海入道の趣味だ。とっておきの対魔師の魂は取っておいて、ここぞというときに食べておくつもりだったが、近頃は対魔師も警戒してあまりやってくることはない。腹を空かせていた絶海入道は、ここで判断を誤ったと言える。食べておけばよかったのだ。
「異世界の神よ、我が元に姿を現せ」
展望台に現れた少年の声が周囲に響く。
その言葉は、誰かが広めた呪いであった。水面に飛び込む前に異世界の神を召喚せよというもので、絶海入道はそれを当然のごとく利用していた。絶海入道が獲物を喰らえば死体も残らないため、それは更にまことしやかに語られるようになった。
『勇者よ……待ちわびていたぞ……』
それに応えるように絶海入道は水面から浮かび上がり、若者の前に姿を晒した。
それは黒黒とした影のような姿で、表情はまるで見えない。
月明かりと星星の僅かな光が、大きな姿の輪郭だけを浮かび上がらせる。
輪郭はまるで、貫頭衣を来たギリシャの賢人のようであり、あるいは古代仏教の袈裟を来た僧のようでもあった。
『……おぬしがこの世界に生まれ落ちたのは手違いであった。過ちを正し、本来、おぬしが行くべき世界へ誘おうぞ』
僧に扮して村人を騙したときのように、重々しく、だが朗々とした声を放つ。
長い年月を重ねて身につけた風格はまさしく賢者、または人々が想像する神を彷彿とさせる。
「ここが異世界の入口なんだな?」
『うむ。ここの水面こそ我が異世界に繋がる門。先へ進む勇気はあるか?』
「チートはあるのか?」
『異世界へ行ったそのとき、己に眠っている力は目覚めようぞ』
「もっと説明してくれよ」
何の疑いもなく力をねだる若者に、絶海入道は内心で舌なめずりをする。
自分が食われる側だと気付いた瞬間の若者の絶望は、たまらぬものがあった。
本来の可能性を自ら捨ててありもしない夢を与えられると思っている若者は絶海入道の同類だ。同類である虚しい命であるならば、絶海入道と一つになった方が供養にもなろう。そんな身勝手な理屈で絶海入道は多くの者を食らってきた。
時にはそんなまやかしなど通じない者もいたが、それは絶海入道の敵だ。敵と戦うよりも、こうして同類に優しく語りかける方がはるかに面白い。
『それを知りたければ、一歩を踏み出すがよい』
「俺に来てほしいんだな?」
『そうじゃ。おぬしを必要とする世界に旅立て』
絶海入道が断言し、そして少年が一歩を踏み出す。
その足に絶海入道の、腕の如き太さを持つ指が絡みついた。