怪異をぶちのめす   作:富士伸太

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退魔師 竜王凍土 2

 

 

 

 篠口氏を除く全員で移動することになった。

 ……と言ってもエレベーターで地下から最上階に上がっただけだが。

 

「ここの最上階は退魔師のためのトレーニングルームでしてね。スパーリングできるリングやトレーニング機材があるだけではなく、魔力によって保護されています。多少のことでは壊れませんよ」

「安心した。建物を壊さない戦闘が苦手でな」

 

 狭いエレベーターの扉がくと、そこは開放的な空間が待ち受けていた。

 全体的に薄暗いが、トレーニングに不自由するほどではない。

 壁は全面ガラス張りで、繁華街や行き交う車、そして鉄道が見える。

 トレーニング器具は最新式のようで、艶めいた光沢を放つダンベルやマシンが鎮座している。

 

 しかしここの主役はでもっとも目立つのは中央にあるリングだろう。ボクシングや総合格闘技などで見かけるものと同じで、四角い壇上にロープが張り巡らされている。

 

「リングシューズもグローブも常備していますが、裸足でも素手でもかまいませんよ」

 

 格闘技用のパンツとリングシューズ、オープングローブを身に着けた凍土がリングに上がった。

 

 服を脱いだ凍土の肉体からは線香の香りがする。落ち着きをもたらす香りとは裏腹に、凍土の肉体は凶悪なまでに鍛え上げられた筋肉が搭載されている。

 

 仏道に属する退魔師というからには神秘や魔術が得意なタイプかと思っていたが、肉弾戦が得意ですと書かれているような鍛え上げられた筋肉が搭載されている。

 

『なんでカウンセリングとかキャリアコンサルタントみたいな話だったのにこういう展開になるわけ?』

 

 若干引いて……いや、ドン引きしている桜がそんなことを言った。

 

「す、すみません……。でも竜王さんたちが退魔師における一番の良識枠なんです」

「ウチの旦那がほんとごめん」

 

 福内も、竜王火蓮も、ちょっと申し訳なさそうだ。

 だが俺としては感謝したいくらいだ。

 靴と上の服を脱いで、ズボンだけの状態になってリングに上がった。

 

「おっと、上着はあった方がいいのかい?」

「柔道や柔術でもないし、怪異は上着を取らせてくれるとも限らないですからね」

「ルールは?」

「遠距離攻撃と武器はなしにしましょう。勝敗はノックダウンか降参するまで。それ以外は……」

「なんでもありってことだな」

「理解が早くて助かります……では竜王寺住職、竜王凍土。我が絶技をご覧あれ」

「始祖魔術会総裁『終焉の虹』ヴィニ=レインボゥ弟子筆頭、バーサーカー、ネクロマンサー、勇者、高校一年生、谷川礼二。ぶちのめすぜ」

 

 凍土が構えた。

 手を軽く開き、脱力した自然体の態勢でこちらを見てくる。

 待ち構えてカウンター狙いか……と思いきや、俺の頬に一発、腹部に三発、衝撃が走った。

 

「……遠距離はナシじゃなかったのか?」

 

 俺と凍土はリングの角と角にいるから3メートルか4メートルは離れているのに攻撃が届いた。ボクシングのジャブのような牽制のための拳打だが、一瞬で距離を詰めて離れた絡繰りがわからない。

 

「僕の射程距離としては近いんですよ」

 

 凍土は悪びれる様子もなく答える。

 

「面白い」

「さて、体を温めるにはまだまだ手ぬるいですか?」

「俺は尻上がりなもんでな」

「では……もっと熱くなってもらいましょうか」

 

 そう言った瞬間、凍土の姿が視界からふっと消えた。

 ソリッドな拳が襲い掛かる。

 

『ちょちょ、ちょっと! 血が出てるんだけどぉ!』

「落ち着け、大したことはない」

 

 気付けば俺の両腕が血まみれになっていた。

 拳打があまりにも鋭すぎて、鋭利な刃物のごとく俺の腕を切り刻んだのだ。ただ肉体を鍛えただけでは為しえない、異常な速さだ。

 

「肉体強化……じゃないな」

 

 腕から流れた血を舐め、ぺっと吐き出す。

 

「わかりそうですか?」

「いいや? だが……『縁』は結ばれたな」

「ターゲットを絞ることに特化したシンプルな呪詛。それゆえに強力ですね。能力が露見しても対策しにくい」

「あんたのそれも、仕掛けはシンプルなんだろうな」

「破ってごらんなさい」

 

 まるで黒板に数式を書いた数学教師のような振る舞い。

 問答無用で黒板をぶち壊したっていいが、ルールの枠内の喧嘩でそれをしたところで勝った気にはなれない。

 

「……今度はこっちから行くぜ」

「むっ!?」

 

 もっと被弾してダメージを受けなければ俺は全力を出せない。だが現状でもできることはある。リングの上を走る魔力の流れを利用した高速移動とかな。

 

「話には聞いていましたが……奇門遁甲を使いこなしていますね……!」

「速さはそっちの方が上だが、重さは俺の方がありそうだな!」

 

 凍土の拳が俺の腹を撃ち抜いたが、構わずに移動を続けて踏み込み、左のフックを叩き込んだ。威力は弱まっているが、それでも凍土にダメージを与えるには十分なようだ。

 

 だが試合はここからだ。

 今まではリングの対角線上に陣取って拳を撃ってきたが、特定のポジションにいることをやめて縦横無尽に駆け回りながら拳打を機関銃のごとく俺に浴びせまくる。

 

『うっそ……れいちゃんが反撃できてない……?』

「ハッ! ウチの旦那がこんな若造にやられっかよ!」

『れいちゃん! 合法ロリの旦那なんかやっちゃってよ!』

「合法ロリってなんだよ!?」

 

 桜たちが妙に騒いでいる。

 まあ大人しく見ててくれ、今いいところなんだからな。

 

「すみませんね、礼二くん。妻も勝負事には目がなくて」

「なあに、盛り上がってくれるなら何よりだ。俺の喧嘩は賭けが成立しなくてつまらんと師匠に怒られたもんだ」

「就職や進学の世話はしますが、賭け事は成年になってからですよ」

「あんた本当に先生みたいなことを言うな。いや、職業としては先生なのも間違いないか」

「若者を導くのも仕事ですよ……さて、僕の問題は解けますか?」

 

 わからないなら罰を与えるぞと、凍土の凶悪な拳が語っている。

 

「……恐らく、俺と同じく奇門遁甲を使ってる。魔力の流れを使って高速移動してるが、シンプルな移動速度だけなら今の俺の倍以上の速さだ。それだけじゃない。急制動や急加速を重ね合わせたり、奇門遁甲をキャンセルしてただのステップにも戻してる」

「素晴らしいが……その原理まではまだ見抜けないようですね」

「ああ。だから泥臭く解かせてもらう」

「泥臭く?」

「思いつくところを総当たりってところだな。美しくないだろうが確実だぜ」

「総当たり?」

 

 凍土の異常な速さの理由には色んな可能性がある。

 肉体を強化しているかもしれない。リングに仕掛けがあるかもしれない。あるいは俺が目で追えなくなるような0.1秒単位の催眠をしている……なんて可能性もあるだろう。

 

 その対処はどうすればいいか。

 

 簡単だ。

 

「攻めて攻めて攻めまくる。お前が俺に対応する側になってもらうぜ」

 

「その結果、被弾するとしても?」

「避けるのが苦手なもんでな……!」

 

 猛攻を食らいながらストレートを放つ。

 だがそれもガードされた。

 瞬間的な恐怖と快感が凍土の表情に浮かぶ。

 

「奇門遁甲……魔力の流れに沿って動いているなら移動ルートは限定されて俺の攻撃を完全に回避するのは難しい。奇門遁甲をキャンセルしたらそれはそれで速度が落ちる。だからガードして受け流そうとした」

「ええ、その通り」

「だが受け流すにしても俺の拳は……ちょっと重いぜ」

「重いなんてものじゃありませんよ……。何の結界も張っていないビルなら数秒で解体できるでしょう」

「そういうことだ。生身の人間に俺の攻撃を完全にいなすことはできない。俺が暗示や催眠を無自覚に受けて弱体化してるかもしれないと思ったが……俺のパンチスピードも下がっちゃいないようだな」

「では答えは?」

 

 その問いに、拳で返した。

 凍土が避ける。

 そこを追い立てて小さく刻むようにジャブを放つ。

 だが相手も素人ではない。

 俺の拳の威力を知ってなお、異常な速度で俺の懐に入ってフックを叩き込む。このクソ度胸を持ってるやつはそうはいない。

 

「さあ! 答えは見つかりましたか!」

 

 接近戦の乱打戦といこうかと思いきや、凍土が猛スピードで後退する。

 その軌跡には、ほんの小さなきらめきがある。

 蛍光灯の光を反射する、ごくごくわずかな量の液体の輝きだ。

 

「……絡繰りがあるのはリングシューズ。あるいはリングの床だ」

 

 俺が床を指さすと、凍土から微笑みが消えた。

 

「具体的には?」

 

 そして、愉悦の大きな笑みとなった。

 嬉しくて嬉しくてたまらない。

 そんな獰猛な笑みだ。

 

「恐らく何かしらの魔法や呪術で、摩擦を自由自在に制御できるんじゃないか? 恐らくは氷を操る術式だと思うが……妙な生物を召喚して粘液や鱗を生やしてるなんて可能性もある」

「リング上にそんなものは見えませんが?」

「ほんの一瞬だけ発生させて、すぐに消してるんだろ? 奇門遁甲は魔力の流れの上を滑る技術だ。魔力が流れているところならば魔法を伝導させてすぐに発生させたりすぐに消したり……なんて芸当もできるはずだ。かなり精妙なコントロールが要求されるだけで」

「……素晴らしい。猪突猛進に見えてクレバーだ」

「猪突猛進に見えるのは心外だな」

『いや近距離パワー型以外の何物でもないから』

 

 外野から心無いコメントが来るが、スルーして凍土に向き合う。

 

「答え合わせといきましょう。名は体を表すという言葉があるように、僕は氷を使うのが得意でしてね」

 

 涼しい空気が立ち込める。

 どうやら俺の予測は当たったようだ。

 凍土は、リングの上を滑っている。

 リングシューズの靴底を凍らせてまるでスケートのごとく移動している。

 恐らく靴底の氷の形状も細かく変化させて急加速や急停止も実現しているのであろう。

 

「……あんたの特性は氷そのものじゃない。細かい術式の制御が抜群に上手いんだ。水しぶきも蒸気も出すことなく氷を自由自在に操っていた」

「ええ。ですがバレた以上は加減する必要もありません」

 

 リングの床が凍結していく。

 もはやスケートリンクのごとき有様だ。

 

「ハッ!」

「ちいっ!」

 

 その氷の床の上を凍土が舞う。

 これまでのスピードは遊びだったかのように拳が放たれる。まるで機関銃のごとき勢いだ。今までは加減してやがったな。

 

「さて、どうする勇者くん!」

「俺は魔法使いの弟子のくせにそんなに魔法が得意じゃなくてな……だがそれでも使える魔法はいくつかある。あんたと違って……制御はヘタクソだがな!」

「なっ!?」

 

 俺は傷を受ければ受けるほど強くなる。

 それが俺の第二のスキル「天が悪を誅せずとも」の効果だ。

 強くなるのは腕力に限った話じゃあない。

 

「【火属性付与】」

 

 そして、ダメージや傷と魔法を結びつけると、効果が抜群に上がる。

 例えば傷口から流れる血を炎に変えて身に纏うとかな。

 

「血を……炎に……!?」

「少し火傷しちまうがな」

「少しどころじゃないでしょう!」

 

 火魔法のスペシャリストなら「自分だけを焼かない炎」みたいなものだって生み出せるが、俺はそこまで器用じゃないし、ダメージそのものが力になるから自傷系の魔法もまた抜群に効果を発揮する。

 

「行くぜ!」

「ぐっ……!」

 

 炎の勢いで床の氷を吹き飛ばしつつ距離を詰めてアッパーを放った。

 凍土の体が持ち上がって天井に叩きつけられた。

 

「旦那!」

「心配しないでください火蓮。この程度では……」

「そう、この程度じゃ全然終わらないぜ」

 

 そして天井から落下する瞬間にストレートを放つ。

 だがヒットする寸前に氷の盾を張られた。凍土を吹っ飛ばすにはそれでも十分だったが、ダメージはかなり減衰しただろう。

 

 凍土はロープに背中を預けて、余裕の表情を見せている。

 色んな意味で燃えてきちまったじゃないか。

 まさか地球でこんな猛者に会えるとは思ってもみなかった。

 

「ふふっ……素晴らしい……!」

「あんたもまだまだこんなもんじゃないだろう?」

「もちろん」

 

 凍土はダメージこそ負ったが、魔力の貯蔵量はまだまだ底を見せていない。

 お互いにようやく体が温まった程度だ。

 

 ……と、言いたいところだったが、俺たちの体に突然、冷や水を浴びせられた。スプリンクラーが反応した。

 

「おや、衝撃と熱で反応してしまったようですね」

「やっちまったな」

「ま、気にしないでください。今日のところはこれくらいにしておきましょうか」

 

 火蓮が俺たちにタオルを投げつけた。

 ありがたく受け取って水や煤汚れを拭う。

 

『れいちゃんやりすぎ!』

「悪い悪い。ちょっと熱くなった」

『スプリンクラーが反応するのはちょっととは言わない』

 

 まったくもってその通りだ。反論のしようがない。

 

「すまんすまん」

『で、楽しかった?』

「そう見えたか?」

『あったりまえじゃん。あんなメロいワード連発しちゃってさー。あーあ、あたしとは遊びだったんだー』

 

 メロいってなんだ?

 言葉の意味がよくわからないが、とにかくご不満のようだ。

 

「そういうつもりは一切ないんだが、桜とはまた別の機会でやろうぜ」

 

 この手のトレーニングをしたいならいくらでも付き合うつもりはあるしな。桜はまだまだ伸びしろがあって鍛えがいがある。

 

『えっ、いやっ、あっ、えっと、そ、そそそ、そーゆー意味じゃなくてぇ……』

「イチャついてないで、片付けして施錠するぞ」

 

 火蓮がやれやれと言った感じで言った。

 

「すまんな」

「ウチの旦那のストレス解消に付き合ってもらうくらいのつもりだったが、あんたも相当だな……。ま、これからもほどほどに付き合ってくれよ。仕事はテキトーでいいさ」

「テキトーってわけにもいかないだろう」

「いいんだよガキは。いつでもバックレられるバイトくらいの感覚でいろ。本格的にやるなら学校卒業してからだ」

 

 冗談かと思ったが、火蓮は本気だ。

 そして凍土も否定する気配はまったくない。

 

「んじゃ、終電になる前に戸締りして帰るぞ。スタッフが掃除するけど多少は片づけていけ。ほら急いだ急いだ!」

 

 ぱんぱんと手を叩いて俺たちをせかす。

 

『なんかさ、いい人たちだね』

 

 桜がどこか照れながら笑う。

 

「……そうだな」

 

 優しい大人がいなかったわけじゃないが、こうして徹頭徹尾子供扱いされたのは相当久しぶりな気がする。

 

 世の中意外と捨てたもんじゃない。

 そう思った。

 

 

 

 

 

 

 うらぶれた廃村。

 

 自動車が通ることもなく轍が草むらになりつつあるような、人里から遠く離れた道の奥の奥。森なのか山なのかもわからない道を歩き続けた先に、とある建物があった。

 

 小さなホテルのような洋館に入れば、緋色の絨毯が敷かれた部屋に丸いテーブルが一つだけ。

 

 壁には暖炉、そして鹿の頭の剥製を飾っており、シャンデリアの温かみのある光に照らされている。それ以外に調度品らしいものはなく、茶室のような引き算の美しさに彩られた空間だ。

 

 だがそのテーブルで食事をする男は、このインテリアに通底する美学を堪能する余裕などなかった。

 

 目を血走らせながらフォークとナイフで肉を切り取り、咀嚼し、ごくりと飲み込む。図りれない喜悦がその全身からほとばしっている。

 

「この山葡萄のソースは、優しく火入れしたローストした月の輪熊の背ロースによく合うんだ。更に同じ山域にいた猪のベーコンを巻いている。不思議な組み合わせだろう? どうしてだと思う?」

「美味い……なんなんだ、この美味さは……!? 満たされていく……ああ、だというのに、なんで、どうして……こんな歪な料理なのに、果てしない調和がある……」

「熊も、猪も、同じ山葡萄を食べているからさ。肉の味は、その動物が食べていたものに大きく影響される。海岸線あたりで野鳥を獲るのが一番わかりやすい。鳥の肉なのに魚臭くて食えたもんじゃないからな。逆に、山の幸を食べた獣の肉は山の幸を集めた結晶のようなものだ。結晶の美しさを彩るには、同質のものが必要になる、ということさ」

 

 直接料理を運んできたシェフの解説など無視して、男は一心不乱に肉を貪っている。

 

「熊肉、だと……?」

「そうだぜ? ジビエコースを予約したのはお前じゃあないか」

「いいや、違う……これは熊肉じゃない。ああ、いや、熊の滋味はある。クセのない上品な脂は確かに熊としか言えないが、それだけでは説明がつかない。何かの肉が……ああ、駄目だこれは……人が、食べてよいものではない……」

「ほほう? 悦楽の境地に居ながらにして気付いたか。流石は日本が誇る美食家、小谷敬一。もしかして食べたことがあるんじゃないか?」

「ない! 断じてない!」

 

 小谷と呼ばれた男は、貪りながら絶叫した。

 

「それは食べたことがあるやつの台詞だぜ……だがその洞察力に免じてヒントを教えてやろう。山葡萄さ」

「山葡萄……? い、いや、そんなわけがないだろう! このローストした熊肉に薄く張り合わせられたベーコンのようなものは……芳醇な脂の旨味は最高級の牛でも出せん……これは、食べてはならぬものだ!」

「おいおい、答えじゃなくてヒントだって。つーか答えはわかってんだろお前よぉ」

「ぐうぅ……くそっ、こんなものを、食わせおって……!」

「山葡萄を食べた熊は、山葡萄とのマリアージュがあるわけだ。ここまではわかるだろう? だったら……熊を食った人と、人の肉を与えられた熊は、もっと素敵なマリアージュが起きうると思わないか?」

「この外道がっ……!」

 

 だがそれでも小谷は、食事を止めることができなかった。

 

 純粋な美味を突き詰めたこの食事は、どんな麻薬よりも甘美で、洗脳などよりも強力に人を支配する。本物の感動、本物の美の前に、あらゆる虚飾は剥ぎ取られて剥き出しの本能だけが残る。今の小谷は、飢えた一匹の獣でしかなかった。

 

「お前は、俺の招待に乗ったんだ。何を犠牲にしてでも最高の美食を食べたいという願いを叶えてやった。何一つ恥じるつもりはないし、非難されるいわれもないなぁ」

「ち、違う! 私は、行方不明になった妻を探して……! もしや、まさか、この肉は……!」

「妻が行方不明になってなお、お前は美食家だった。お前の舌が証明している」

「妻はどこだ!」

「美しい愛だ……。これからはずっとお前と一緒だよ」

「ふざっ……ふざけるなぁ……!」

 

 小谷は、渾身の力を込めてテーブルを倒した。

 シェフの胸ぐらをつかもうと、ゆっくりと手を前に出す。

 それを見たシェフの口元が歪む。

 喜悦の感情が、シェフの全身からほとばしっていた。

 

「食うことは食われること。一つになることだ。お前は謎を解き明かし、本質に近付いた。そして本物の感動を拒否する勇気があった。最高だよ……お前は最高の、獲物だ」

「ぐぅ……ぐあ……こ、これは……」

 

 小谷が苦しそうに呻きだした。

 少し小太りの丸みを帯びた手がわなわなと震えたかと思うと、その手の甲の産毛が黒く、太く、長くなっていく。ピンク色の爪が黒ずんで厚みを増し、鉤爪状に伸びていく。口が突き出てマズルとなった。

 

 そこにいたのは小谷ではなく、一匹のツキノワグマであった。

 

 怒りの表情が消えて、疑問符が浮かび上がる。

 自分は誰なのかと。

 だが自分が誰なのかという疑問さえも忘れて、皿から零れ落ちた肉を見つめ……そして犬食いで肉を貪り始めた。

 

「ありがとう小谷。美食を極めたお前の肉、山に生き山に死んだ熊の肉……きっとすばらしいマリアージュになるだろう」

 

 肉を貪り食うツキノワグマを嬉しそうに眺めながら、シェフは包丁を取り出した。無骨な肉切り包丁だ。

 

「ごあっ……?」

 

 シェフが包丁を振るうと、熊となった男の首は一瞬で胴体から離れた。

 遅れて血が噴き出る。

 さらに遅れて、熊の体が床に倒れる。

 あまりに鋭利な一撃に、ツキノワグマは自分の死の実感すら得られなかったであろう。そんな一撃であった。

 

「だが少し脂が多そうだな。くくく……まあそれも一つの魅力だ」

 

『熊見峠さん。精が出ますね』

 

 凄惨な殺人現場となったレストランに、誰かの声が響いた。

 だが、熊見峠と呼ばれたシェフは驚くこともなく言葉を返す。

 

「待たせたな。何か食べていくか?」

『まさか。私とてあなたの食事に手を出せば自我を保てませんよ』

「安心しろ、怪異なら熊に変貌するこたぁないさ」

『それでも自我が薄れてしまいますよ』

「自我なんて気にするなよ。怪異も、人間も、食という根源的な幸福の前にはただの獣に過ぎん」

『仕事を終えたならば検討しますが……。それよりも、例のものが出来上がりましたよ』

「おっ! 助かるぜ。代用の包丁じゃしっくり来なくてな」

 

 現れた男が、四角いケースをテーブルに置いて中身を見せる。

 そこにあったのは、まるで斧のように分厚く大きな、包丁であった。

 牛刀と中華包丁をミックスしたような凶悪な見た目だが、刃先は鋭く繊細だ。

 どこか日本刀を思わせる波紋の美しさに、熊見峠は舌なめずりをしてその柄を掴んだ。

 見るからに重そうな刃物を、熊見峠は自由自在に操る。

 

「……いいねぇ。重さもしっくりくる。流石だ」

『ベアーズファング。逸話などなく、ただ現代の職人が作り上げた包丁にすぎない。だというのにこの包丁は、あなたの執念と浴びた血によって平安や鎌倉から伝わる妖刀と遜色ない力を持つに至った。流石です』

「執念ってなんだよ執念って。せめて美学とか言ってくれよ」

『ところで熊見峠さん、その包丁で相手をしてほしい人がいましてね』

「なんだ? 凍土のやつならタダで引き受けてやるぜ。若い頃の意趣返しをそろそろしておきたいと思ってたところだ」

『ダンスマカブルが敗北しました』

 

 包丁を弄ぶ熊見峠の手が止まった。

 

「……誰だっけそいつ」

「以前話したでしょう。魔力を収奪するシステムですよ」

「あーあー、思い出した。確か……夢を追う若者から魔力を徴収するんだったな。俺としてはもっと脂の乗った人間の魔力の方が好みなんだが、フレッシュな若者が好きってやつもいるだろうよ」

「魔力に味はありません……と言いたいところですが、一定以上の感度を持つと味覚として感知できるようですね」

「で、どこのどいつに負けたんだ?」

「新人の退魔師です。……相当に強い」

「ふぅん」

「猿鬼を殴り殺しました」

 

 男の言葉に、熊見峠の口元に笑みが浮かんだ。

 

「……おいおいおーい、困るぜそいつは。俺が狙ってたんだぜ。くそっ、千年近く封印されてた猿の肉だ。きっと美味かっただろうに」

「小細工無しで、力押しで倒してのけたようですよ。どう思いますか?」

「最高だな。どういう筋肉してやがるんだ?」

「ご興味がおありなようで、何よりです」

「うーむ……受けてやりたいところだが、俺は移動できないぜ。『きさらぎ』の能力さえあれば何とかできるんだが……。くそっ、こんな田舎に来てくれる電車は貴重なのによ」

「追っ手を差し向けておきました。協力してもらえるよう改造しましょう」

「頼むぜ。ケータリングなら構わんが、料理の宅配サービスなんてごめんだからな」

「では、移動手段さえあれば前向きにご検討していただける……ということでよろしいですね?」

「一応聞いておくが、そいつを喰ってほしいのか? それとも……ご馳走してやってほしいのか?」

「どちらでも、シェフのお気に召すまま」

 

 

 

 

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